第93回 『俳コレ Part2』

指を嗅ぐ少年蝶を放ちしか
             谷口智行
 『塔』2月号に松村正直さんが銀月アパートメントのことを書いていて驚いた。私のいつもの散歩コースにあり、春には庭に一本だけ立つ枝垂れ桜を見るのを楽しみにしている場所だ。京都市左京区の疎水のほとりにある古びた木造アパートだが、建築当時のハイカラな西洋風の意匠が施してあり、年月の経過も加わって独特の味わいがある。映画「デスノート」や「鴨川ホルモー」の撮影に使われたというのもうなずける。松村によると、このアパートはマンガの世界における「トキワ荘」のようなものだったらしい。昭和21年に創刊され、後の「塔」「未来」の母体にもなった先鋭的な同人誌「ぎしぎし」のメンバーが住んでいて、活動の場所にもなっていたという。散歩でいつも立ち寄る古びたアパートが、こんなに現代短歌と深く関わっていたとは知らなかった。まことにこの世界はワンダーに満ちている。
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 前回に続いて俳句アンソロジー『俳コレ』後半を読む。岡野泰輔おかの たいすけは1945年生まれで「船団の会」所属。撰は鳥居真里子。
ピアニスト首深く曲げ静かなふきあげ
宇宙船錆びるともなく浮くともなく
その夏のダリアの前に父がいる
目の前の水着は水を脱ぐところ
蒸鰈国家傾いたりもして
 この手の句は手強い。座談会で岸本尚毅が「いわば大リーグボール3号俳句ですね。わかる人にはわかるという句です」と発言しているのが、そのあたりを語っているのだろう。こういう句は虚心に読むに限る。一句目の「静かなふきあげ」はピアニストの指から湧き上がる音楽と読めば美しい。二句目はナウシカあたりの未来世界で放置された宇宙船を思い浮かべればよく、錆びもせず浮上もしない宇宙船にうっすら悲しみが漂う。三句目、その夏に何があったかは語られないが何かドラマがあったのだろう。総じて箴言と洒脱の句風と思われる。「世界のスキマに名前をつける」と語る信条がその句風を表している。
 山下つばさは1977年生まれ、「街」「海程」所属。撰は島田牙城。
お彼岸の鋏に映る足の裏
絹さやを包むグラビアアイドルで
空蝉の踏まれずにある池袋
非常口開け鬼灯を揺らしけり
虫の声絶頂鉄の匂ふとき
 ひとつ前の岡野が「理知の句」であるのに対して、山下は読者の感覚を鋭く刺激する句が多い。たとえば一句目は鋏の反射である。鋏に足の裏が映る状況と言えば、畳の上に裁ち鋏が置かれていて、その上を人が跨いで通るといった状況が考えられる。足は裸足にちがいない。ここには視覚に訴える鋏の反射と、触覚を刺激する足の裏がある。また五句目では聴覚と嗅覚が組み合わされている。鉄の匂いは幻臭かとも思うが、生命の横溢と死の隣り合わせを描いて間然とするところがない。写実を基盤としつつも情感を漂わせる句風である。
 岡村智昭おかむら ともあきは1973年生まれで、「豈」「狼」「蛮」所属。撰は湊圭史。
れんこんのなおも企む日暮かな
夏蝶に咎ありコインランドリー
きさらぎがこわい牛乳瓶の立つ
崇徳院詣でのカラスアゲハかな
川光る天動説は母のもの
 これまた「わかる人にはわかる」系の句である。岡村は影響を受けた人に摂津幸彦を挙げているが、幸彦の華麗な言語世界ともまた異なる作風だ。写実からは遠く言葉をぶっきらぼうに投げ出すような詠み方である。句の意味は徹底的に脱臼されているので、言葉の意外な組み合わせに身を委ねて読むしかない。それをどこまで楽しめるかだろう。座談会で関悦史が「現代川柳っぽい書き方だ」と発言してなるほどと思った。
 次の小林千史こばやし ちふみは1959年生まれで「翔臨」所属。撰は山西雅子。
指させばその指よりの霧まみれ
猪垣に加へられたり割れ鏡
仔を呼べるとき白鳥の白極む
逝きて夏帽にいびつなるへこみ
群衆のひとりの指の春の雪
 好きな句が多く丸がいくつも付いた。目で見た光景にズームをかけて細部の一点へと絞り込む句が注目される。たとえば一句目、あたり一面の濃い霧の光景だが、その霧の深さが一本の指に集約されているところが巧みである。また二句目、「猪垣」は畑を荒らすイノシシを防ぐ柵で、そこに割れた鏡の欠片が加えられているという光景。鏡のキラリと光る反射という一点に視線が集中する。四句目の帽子のへこみにも同じことが言える。俳句はこのように「世界のスキマ」的なものに着目し、それに的確な言語表現を与えたときに、最も飛翔力のある詩的昇華が実現される。
 渋川京子は1934年生まれ、「頂点」「面」「明」所属。1997年に現代俳句協会新人賞、2011年に現代俳句協会賞を受賞している。撰は小川楓子。
夏夕べ鏡みずから漆黒に
夜が二つ出逢へり朱欒手にのせて
捨て頃の街なり日傘よく回る
この街に生まれたるごと水を打つ
麦の秋人体ただしく焼かれけり
 座談会で池田澄子が、「この人はこう書かずにはいられない人なんですね」と言い、岸本尚毅が「言葉だけで走らせることはなくて、責任を持って句の行方を見届けようとする」と述べている。叙景だけでなくその中に境涯を差し入れる句風か。たとえば三句目、「捨て頃の街」がおもしろく、「この街もそろそろ捨て頃か」と感じている。四句目、それに続くようにこの街で生まれた者ではない違和感が表現されている。五句目の「ただしく」にも驚く。「二人の自分がいて、片方の自分が後ろめたさを持ち続けることが、一句を成立させている」と作者自身が語っている。自分を見つめるもう一人の自分が意識されているところから、このように陰影に富む句が生まれてくるのだろう。味わいの深い句が多い。
 阪西敦子は1977年生まれ。「ホトトギス」同人。2010年に日本伝統俳句協会新人賞を受賞している。撰は村上鞆彦。
早春やカルボナーラを巻き上げて
あじさゐの方へ逸れゆく話かな
引越の捨て荷の中の金魚鉢
松分けて来たる光は秋の海
呼びもせぬエレベーター来神の留守
 若い作者らしく明るくのびやかな句が多い。たとえば一句目、カルボナーラはベーコンと卵で作るパスタだが、ア音の連続が明るい印象を与えて早春にふさわしいと納得させられる。思わず菜の花を皿に添えたくなる。四句目は座談会でみんなが採った句。「松分けて」が動きを感じさせる。五句目もおもしろい。呼んでいないのにエレベーターが来て止まり、目の前で扉が開く。そういうことはある。「神の留守」は神の計画に沿って正しく動いているはずのこの世界に、ふっと生じた偶然という隙間をさしている。座談会では関悦史が「本人は全部由緒正しい俳句だと思って作っている可能性が高いんですけど」と発言している。ということはあまり伝統的な俳句ではないのだろうか。
 津久井健之つくい たけゆきは1978年生まれ。「貂」同人。撰は櫂未知子。
ものの芽と安全ピンの光り合ふ
隕石の落ちてにぎはふ春野かな
うすき虹ひびかせてゐる音叉かな
紙くづのきらきらするや夏休み
休講と知りてぎんなん匂ひだす
 撰者の櫂未知子は、詩を日常に見いだす人と非日常に見いだす人がいるが、津久井は前者だと述べている。本人は「あっさりした素朴な句を作りたい」と言う。どれも淡々とした描写のなかに巧みにポイントが配されている。エピファニー(公現祭)に食べる王様のガレットに忍ばせてある空豆のようだ。一句目の安全ピン、三句目の音叉、四句目の紙くずの折り目、五句目の銀杏がそれに当たる。これらのポイントを核としてひとつの世界を立ち上げる手つきに揺るぎがない。
 望月周もちづき しゅうは1965年生まれ。「百鳥」所属。2010年に角川俳句賞を受賞。撰は対馬康子。
春の夜の魚影の吹雪水族館
蜘蛛の膝死してするどく立ちにけり
闘鶏の日輪を背に飛びかかる
一面の雹を歩める孔雀かな
金閣や鷹は遠目を見開ける
 ひとつ前の津久井の日常的なさりげなさから一転して絢爛豪華な句風である。水族館のガラス一面に広がる魚影、日輪を背にした闘鶏、雹の中を歩く孔雀、また金閣と鷹。金閣に日輪というとどうしても三島由紀夫を思い浮かべてしまう。短歌では初期の春日井建だろう。かと思えば「一番小さき時計を信じ秋澄めり」「薄氷の下なる泥のけむりかな」という繊細な句もあり、豪放と繊細のどちらにも振れることのできる人かと思う。
 谷口智行は1958年生まれで「運河」「里」「湖心」所属。撰は高山れおな。
まりの主ぢぢのばばのと春の畦
黴の医書よりひときれの新体詩
ラヴホテル出でし検死のわれに雹
露草や廃船一夜にして傾ぐ
遺影見ゆ簾名残の散髪屋
 谷口が新宮で育ち熊野で医者をしているという知識は、谷口の句を読むときにはどうしても外せない。熊野の風土が匂うような句が多い。三句目の示すように、地方在住の医師として警察から変死の検死を依頼されることも多いのだろう。「小牡鹿さおしかの食むは天台烏薬の芽」のように、字すら読めない植物名も多い。天台烏薬てんだいうやくはクスノキ科の常緑樹で、漢方では健胃薬として用いるという。風土性に根ざした独特な俳句世界である。
 津川絵理子は1968年生まれで「南風」同人。2007年に俳句協会新人賞と角川俳句賞を受賞している。撰は片山由美子。
腕の中百合ひらきくる気配あり
サルビアや砂にしたたる午後の影
革靴の光の揃ふ今朝の冬
水仙や折り目をかたく手紙来る
ストーブの遠く法要すすみけり
 感覚の清新さと表現の緻密さは抜群で、句集『和音』は俳句の世界で高く評価されているらしい。「見えさうな金木犀の香なりけり」は歳時記にも載っているという。座談会でもみんなベタ褒めなのだが、俳句とはおもしろいもので、岸本尚毅など、こういう十分うまい句は早く卒業していただいて、少し愚直な句とか変な句を開拓してほしいと注文をつけている。うまいといって叱られるというのもおかしな話だが、このあたりが俳句という文芸の奥の深さなのだろう。茶道の茶碗でも歪みや割れや釉薬の思わぬ窯変を珍重するようなものか。
 掉尾を飾る依光陽子は1964年生まれ。「屋根」「クンツァイト」所属。1998年角川俳句賞受賞。撰は高柳克弘。
手の甲をつめたく流れ梨の皮
盆梅を置くや彼方に在るごとく
時間にも凪そのとき茄子の苗
秋の蝶たたかひながらうち澄める
とぶ鳥の胃袋に魚みなみかぜ
 相当に練られて重層的に作られた句だなと感じる。たとえば一句目は梨の皮を剥いている光景で、剥いた皮が一続きに垂れて手の甲に当たっているというのだから、単純な写実と取ることもできる。しかし二句目はそうではない。「置くや」は「置くや否や」と読むと、盆梅をある場所に置いた瞬間に、遠近法が生まれて遠くにあるように見えるということである。ここには盆梅を置いた瞬間と、一気に遠ざかった瞬間とが二重写しになっている。三句目の「時間にも凪」は、絶えず流れる時間にも一瞬淀むときがあるとの意だろう。なぜ茄子の苗かはわからないが、このような相において捉えられた苗は、この世にありながらこの世の外にあるような存在と化する。四句目の激しく戦いながらも静謐な相を呈する蜂も同じだ。決して単純な描き方ではなく、その重層性がおもしろい。
 昨年の暮れには本書に収録された作者と撰者が一同に会して「俳コレ竟宴」という集まりが催されている。Spicaのページに野口る理と神野紗季による実録ルポが掲載されていていて、実に楽しそうだ。
 総勢22人の計2200句を通読するのはなかなか骨が折れるが、現代俳句の新しい傾向がよくわかる。俳句のブログを見ると、今の俳句は作家性へと向かう方向にあるらしい。確かに本書は作者の個性が浮き出ていて、『新撰21』と並んで俳句入門には格好の一冊である。