第34回 森井マスミ『不可解な殺意』

森井マスミ『不可解な殺意』(ながらみ書房)
 昨年四月の短歌コラム「橄欖追放」の再開の弁では、「歌集だけでなく歌書・歌論なども取り上げてみたい」と偉そうに書いたものの、その成果が上がっていない。今までに取り上げた歌書は大辻隆弘氏の『子規への溯行』ただ一冊である。その理由はかんたんで、歌集と比較して歌書は読むのに時間がかかり労力を要するからである。つまりは筆者が怠惰だということに尽きる。しかし短歌批評の不在が叫ばれる昨今、歌集にも増して歌書の出版は注目されてしかるべきだろう。というわけで今回は森井マスミ『不可解な殺意』(2008年12月刊行)を取り上げることにする。
 森井は昭和43年生まれ。現在、愛知淑徳大学教員で日本近代文学・演劇の研究者であると同時に、かつて近畿大学で教鞭を執っていた塚本邦雄に師事し傾倒した歌人であり、「玲瓏」編集委員。2004年に「インターネットからの叫び 『文学』の延長線上に」で現代短歌評論賞を受賞。『不可解な殺意』はこの論文を含めて、『短歌研究』などの短歌総合誌に掲載された評論に、書き下ろし論文を加えた構成になっている。帯文は佐佐木幸綱。まずは気鋭の論者による短歌評論集が世に出たことを喜びたい。
 最初に注意を引かれるのが本書のタイトルである。歌書に『不可解な殺意』というタイトルは異例だろう。副題に「短歌定型という可能性」とあるが、それがなければまるでミステリー小説の題名と言われてもおかしくない。この点に注目したい。他の歌書のタイトルはと傍らの書架を見れば、岡部隆志『言葉の重力』、三枝昂之『気象の帯、夢の地殻』、小笠原賢二『拡張される視野』、永田和宏『表現の吃水』などが並んでいる。タイトルに勝手に注釈を加えると、(短歌における)言葉の重力であり、(短歌によって)拡張される視野であり、(短歌の)表現の吃水だから、これらのタイトルの文言はすべて隠された冠のように(短歌)を戴いている。いずれもタイトルは短歌の〈内部〉にかかっている。同じ操作を森井の本に施すと、(短歌における)不可解な殺意となるので、まるで歌人が殺意を抱いているかのようである。しかしもちろんそれはちがう。「不可解な殺意」とは、記憶に新しい秋葉原無差別殺人事件のように、犯行後の「誰でもよかった」という犯人の自供に象徴される、現代社会に漂っている殺意をさす。だから「不可解な殺意」は短歌の内側ではなく、外側に存在するものだ。類書と違って短歌の〈外部〉をタイトルに据えたところに、現在の短歌状況に対する著者の認識が象徴的に示されている。この選択が本書の評価を左右するだろう。
 本書は四部構成になっている。第一部は書き下ろしの「文学の残骸 オタク・通り魔・ライトノベル」に代表される短歌を取り巻く状況論、第二部は筆者の傾倒する塚本邦雄と菱川善夫についての論考、第三部と第四部は歌人論と短歌鑑賞に当てられている。本書のどの部分を読んでおもしろいと感じるかで、読者ははっきりと分かれるにちがいない。伝統的な近代短歌派の人は、第三部と第四部の歌人論・短歌鑑賞を評価するだろう。ニューウェーブ短歌以降の若い歌人は、第一部の状況論を切実な思いで読むことだろう。本書に問題ありとすれば、それは塚本邦雄と菱川善夫をめぐる論考が手放しの讃辞に終始している点だが、そのことは不問に付す。著者が本書に『不可解な殺意』というタイトルを付けたということは、歌の〈外部〉を著者が重視していることを意味する。だから著者の力瘤がいちばん入っている第一部の状況論を中心に見てみたい。
 森井の考察は広汎に及ぶが敢えて要約すると、村上龍や高橋源一郎ら小説家の論考を引用して森井が確認するのは、大きく分けて次の2点である。第一は現代社会が共同体のシステムを崩壊させたため、個が孤立して剥き出しになっているという社会状況で、第二は近代文学のコード(高橋や穂村弘のようにOSと呼んでもよい)の耐用年数が切れたという文学状況である。森井はこのような認識の下で、インターネット上の「書きっぱなし」の言葉とそれへの共感に終始するレスに見られる物語を享受する力の低下と想像力の弱体化、その反作用として現れた感情の前景化とそれに起因する短歌の読みの困難さ、さらには短歌定型の弛みと韻律の崩壊などを論じている。教えられることも多く、なるほどと納得させられる箇所もたくさんある。それを認めた上での話だが、気になる点もいくつかある。
 まず森井の論はある意味で新たな「短歌滅亡論」として読めるという点である。滅亡論という用語が刺激的に過ぎるなら、短歌の危機に警鐘を鳴らす短歌危機論と言い換えてもよい。篠弘によれば今までに四つの大きな滅亡論があったという。明治43年の尾上柴舟の「短歌滅亡私論」、大正15年の釈迢空の「歌の円寂する時」、昭和初期の斎藤清衛・藤巻景次郎らによる滅亡論、そして戦後の第二芸術論である。篠の言うように「近代短歌は滅亡論との戦い」だったのは歴史的事実である。だから滅亡論自体は珍しいものではなく、近現代短歌は逆に滅亡論を糧として生きのびて来たとする逆説も成り立つ。さらに小笠原賢二は『終焉からの問い』の中で、「昭和三十年代以降の高度経済成長期の “平和と繁栄の時代”は、短歌の存立基盤を着々と侵蝕し揺るがし続けていた」と1992年に指摘している。したがって森井の短歌危機論は目新しいものではなく、小笠原がすでに着目した歴史的変化の着地点と見なすことができる。その上で明治以来の短歌滅亡論から小笠原までの論者の主張と森井の論を比較して、どこが同じでどこが異なっているかを知りたいものだ。というのも私たちはよく過去を忘却して現在を発見したと思い込みがちだからである。「あまが下、新しきものなし」などと賢しらに言うつもりはないが、人間のすることはそう変わらないものである。
 さらに気になるのは、作品はどこまで社会的状況によって規定されるのかという点である。極端な決定論の立場なら「芸術作品は社会状況の関数である」となろうが、さすがにイポリット・テーヌを思わせるこのようなテーゼを頭から信じる人はいるまい。かといって「芸術作品と社会状況の間に相関はない」と言い切る人もいないだろう。この両極端の立場の間に無数の中間的立場がありうる。森井の論法は、「現代社会に不可解な殺意が蔓延しているのはXのせいであり、現代短歌の現状もXのせいである」という推論を基盤としている。Xに代入されるのが「日本的共同体システムの崩壊」の場合、推論の前段「現代社会に不可解な殺意が蔓延しているのはXのせいだ」には馴染むが、後段「現代短歌の現状もXのせいだ」には少なからぬ違和感を覚える。社会状況と作品をあまりに直結しているからである。ここには隠された決定論がある。そしてあらゆる決定論と同じく、これは媚薬のように危険な香りがする。
 このことは森井の次のような文体にも感じられるのである。
「ところで、ポストモダンにおける物語の消滅は、一方では近代的な規範を内面化した『私』の消滅と平行している。そしてその後にやってくるものは、データベース的な想像力によって生成される、キャラクターとしての『私』であり、純文学からライトノベルへの移行が、不可逆的な流れであることは、先に述べた通りである」(p.89)
 この文の内容が東浩紀の分析に依拠していることは措くとして、連続する滝のような文から文への跳躍に目の眩む思いがする。文と文の間を隔てる論理的な隙間をもっと細かく刻むべきではないのか。そしてその作業は、現代の短歌作品の内奥に分け入るていねいな読みと分析によって支えられるべきではないのだろうか。第三部と第四部の歌人論・短歌鑑賞ではきちんと行われている読みと分析が、第一部において同じ精度でなされているとは思えないのである。上の引用部分の主張を読むと、私もたぶんそうなのだろうなと思う。それは私が東浩紀や大塚英志の本を読んでいるからである。しかしこのような言挙げは短歌の〈外部〉の変容によって〈内部〉の現況を説明しようとする試みであり、〈内部〉の細やかな読みに支えられて生まれた美しい抽象ではない。その間に大きな距離を感じてしまう読者がいることが問題点と言えないだろうか。
見えぬものを遠くのぞみて歩むとき人の両腕しづかなるかな
                    横山未来子『花の線描』
逃れられぬわが輪郭の見ゆる日を影もろともに動かむとせり
神の息のごとくに風の鳴れる朝しんしんとひとは行き交ふ四方よも
 横山の歌を読むと作品世界に入り込んだその瞬間、私の脳の中に銀河の輝く広大な宇宙が広がるような気がする。私は思わず「ああ」とため息を漏らす。極小の形式の中に極大の世界を宿す、これが言葉の力だ。ここには消滅などしていない〈私〉があり、ポストモダンの遊技性から遠く離れた静かな祈りの言葉がある。言葉の力の回復はこのような作品をひとつひとつ積み上げて、一人一人の中で行なうことによってしか達成されることはないのではないか。