第186回 吉田隼人 『忘却のための試論』

岸にきてきしよりほかのなにもなくとがびとのごと足をとめたり
               吉田隼人『忘却のための試論』
 2013年(平成25年)に第59回角川短歌賞を受賞した吉田隼人の第一歌集である。同時受賞は「かばん」の伊波真人。「はやと」と「まさと」で韻を踏んでいるのがおもしろい。何かのコンビを組めそうだ。帯文は高橋睦郎、表紙の長岡建蔵のアニメ風イラストが歌集としては異色である。仙波龍英の『わたしは可愛い三月兎』の表紙に吾妻ひでおのイラストが使われたときはみんなを驚かせたが、もうこのくらいはふつうになったということか。
 吉田隼人は1989年つまり平成元年生まれである。俊英才媛居並ぶ早稲田短歌会で「白い吉田」と「黒い吉田」として知られる二人の吉田の一人である。もう一人の黒い吉田は塔短歌会所属の吉田恭大。現在、早稲田大学仏文科の博士課程に在籍しており、フランスの作家・思想家ジョルジュ・バタイユの研究をしているというばりばりの文学青年である。私も仏文出身なので同業者ということになる。バタイユと言えば「死」と「エロス」が代表的なテーマだが、吉田もバタイユ学徒として師のラインを継承していると言えるだろう。
 角川短歌賞の対象となった連作からまず引いてみよう。旧字が新字になるのはご容赦いただいたい。
死の予期は洗ひざらしの白きシャツかすめてわれをおとづれにけり
曼珠沙華咲くのことを曼珠沙華咲かぬ真夏に言ひて 死にき
あるひは夢とみまがふばかり闇に浮く大水青蛾(おほみづあを)も誰かの記憶
まなつあさぶろあがりてくれば曙光さすさなかはだかの感傷機械
恋すてふてふてふ飛んだままつがひ生者も死者も燃ゆる七月
棺にさへ入れてしまへば死のときは交接(まぐはふ)ときと同じ体位で
いくたびか掴みし乳房うづもるるほど投げ入れよしらぎくのはな
サイモンとガーファンクルが学習用英和に載りてあり夏のひかり
思ひだすがいい、いつのか それまでの忘却(わすれ)のわれに秋風立ちぬ
 どうやら短歌仲間であったらしい恋人の女性が自死した経緯を、訃報が届く予感から告別式まで時系列に連作に仕立てたもので、このように歌にすることには様々な意見があった。選考座談会では島田修三が強く推し、永田和宏や小島ゆかりが疑問符を付けるという形で進行している。島田は過去の文芸からいろいろなものを借りてきて、口語にも文語にも挑戦していて、時々はコケているが全体としてはすごいパワーだと評価する。一方、永田は上に引いた六首目「棺にさへ」に強い拒否感を示し、「言わないで言えることがある。ここまで言ったらお終いだよという気がぼくはする」と述べている。永田は角川短歌賞の授賞式のスピーチでもこの点に触れ、「この作者には過剰なところがある」と苦言を呈したらしい。
 島田が選考座談会で指摘しているように、吉田の短歌には借り物が多く見られる。「まなつあさぶろ」は村木道彦の世界だし、「恋すてふ」は百人一首、「投げ入れよしらぎくのはな」は漱石の「あるほどの菊投げ入れよ棺の中」、「思い出すがいい」は来生たかおの「夢の途中」、「秋風立ちぬ」もヴァレリーか堀辰雄かあるいは松田聖子か。冒頭の掲出歌の「岸にきてきしよりほかのなにもなく」にも定家の「花も紅葉もなかりけり」が遠く響いているようにも見える。
 先行する文芸から素材や発想や表現を借りることはよくあることだ。しかし下手をすればパッチワークのようになり、「こういう歌を目指しているという、歌の基軸のようなものが最後まで見えない」という小島ゆかりの感想につながる。小島は「表現のデパート」とまで言っている。
 確かに評価は分かれるかもしれない。とはいえ、マラルメ、ポー、リルケ、ニーチェ、スピノザ、グラックなどを自在にエピグラフに引用して展開されるその短歌世界は、久々の文学青年系の大型新人と言えるだろう。ライトヴァースの影もないその重量級の文学の重みは、黒瀬珂瀾以来かもしれない。「遅れて来た文学青年」という趣さえ漂う。なぜ「遅れて来た」かというと、今時重量級の文学は流行らないからだ。文学部の英文科、独文科、仏文科に学生が来なくなって久しい。
 本歌集は三部構成になっており、第一部が2011年、第二部が2011年以前の若書き、第三部が2011年以後という時代区分がなされている。第二部、第一部、第三部の順番に読むと、吉田の短歌が確実に変化していることが感得される。第二部には次のような歌がある。
鉱物の蝶は砕けて消えてゆき魚類の蝶は溺れゆくかも
キャロル忌のスカートゆるる、ゆふやけとゆふやみ分かつG線上に
人形義眼(ドールアイ)なべて硝子と聞きしかばふるさと暗き花ざかりかな
姉はつね隠喩としての域にありにせあかしやの雨ふりやまず
顕現の神とおもへりものみなが影濃き夏の(ゆうべ)に入りて
 なぜ歌集が2011年を境に分かれているかというと、その年に東本大震災と福島原発事故が起き(吉田は福島県の出身)、また連作「忘却のための試論」に詠まれた恋人の自死があったからである。まさに人生最大の危機である。したがって上に引いた歌は「それ以前」の歌だ。一読して分かるように、青年らしい観念的なきらいはあるものの、吉田はすでに短歌の韻律と骨法を完全に会得している。二句切れ、三句切れ、倒置法、「かも」「かな」による詠嘆、「人形義眼」という寺山的主題、魅力的な「隠喩としての姉」など、角川短歌賞にこちらを出したほうが審査員の評価が高かったかもしれないと思われるほどの完成度である。したがってそれ以後の吉田の短歌は、2011年の試練の強い影響下にある試行であり、いったん完成したものを再び壊しているということになる。おっと、「試行」は「試論」と同じで、フランス語ではessaiになるのだった。歌集題名の『忘却のための試論』には、Un essai pour l’oubliというフランス語が添えられている。
 2011年以後の第三部を見ると、吉田の歌はまた変化している。それまでのさまざまな試行は影を潜め、ある振れ幅に落ち着いているようだ。「表現のデパート」という印象はもうない。
名のうちに猛禽飼へば眠られぬ夜に重み増す羽毛ぶとんは
ちり紙にふはと包めば蝶の屍もわが手を照らしだす皐月闇
ここかつて焼け尽くしたる街にしてモビイ・ディックを横抱きの夏
夏の鳥 夏から生まれ消えてゆく波濤のやうな鳥の影たち
青駒のゆげ立つる冬さいはひのきはみとはつね夭逝ならむ
 青年の憂愁と死への憧憬が美しく表現されており、デビューの頃の大塚寅彦を思わせる。2015年に角川「短歌」に発表された「流砂海岸」ではまたさらに変化を見せている。
さざなみはすなをひたせど海彼よりみればわれらはこのよのはたて
しぬるはうのめぐりあはせにあるひとの水死体くろき外套(こおと)きてをり
おのおののしたしきかほによそほひて死はわれら待つ うみにやまにまちに
こなゆきのしろきおもてをさらしつつ少年睡りやすくゆめやれがたし
ぺるそな を しづかにはづしひためんのわれにふくなる 崖のしほかぜ
 平仮名を多用し、歌のしらべもより古典的になっている。「ひためん」とは「直面」と書き、能で小面を付けず素顔で舞うことをいう。帯文を書いた高橋睦郎はこの歌を引いている。なるほどと思う選択である。
 歌集のあとがきは「Epilogue または、わが墓碑銘(エピタフ)」と題されており、16歳で自殺を試みるも果たせず、その後10年生きた墓碑銘がこの歌集だと書かれている。これが墓碑銘である以上、作者は冥府に降っており、本歌集に収めたような歌はもう決して生まれないだろうと綴られている。これを受けてか、高橋は「『歌のわかれ』を口にするはまだしも、軽々に実行に移されざらむことを」と釘を刺している。
 角川短歌賞での吉田のスピーチがFacebookで読める。そこで吉田は「短歌と言葉が嫌いだ」と繰り返し強調していて、おそらく会場の顰蹙を買ったことだろう。しかし当会場に居合わせた人と同じく、私もにわかに吉田の言葉を信じる気にはなれない。このスピーチの中で吉田はフランスの哲学者ブリス・パランに触れて、「言葉は個人的、パーソナルなものであるか否か」という問いを紹介している。墓碑銘を書く覚悟があるくらいなら、本気でこの問いに挑戦してみてはどうだろう。かつてウィットゲンシュタインは「私的言語」なるものは存在しうるかと問い掛け、その可能性には否定的であった。「言葉は個人的なものでありうるか」という問いを徹底的に考え抜けば、10年くらいはあっという間に経つ。学問は人生の虚無をやり過ごす最良の薬である。ポオと同じく現身の自分は煉獄につながれていると感じているのならば、煉獄の番人となって学問すればよかろう。
 それからこの歌集には至る所にフランス語が散りばめてあるのだが、老婆心ながら言うとこれはやめたほうがよい。私も20代の頃、気取って同じことをさんざんやった。しかし歳を取って振り返ると、若気の至り以外の何物でもなく、今ではものすごく恥ずかしい。もしタイムマシンがあれば、その頃に戻って全部消して回りたいくらいである。