第356回 久保茂樹『ゆきがかり』

子は腕に時計を画いていつまでもいつまでもそは三時を指せり

久保茂樹『ゆきがかり』 

 先日送られて来た『かばん』6月号をばらばら眺めていたら、ある同人の歌に目が留まった。「夕映えの蝙蝠」と題された一連である。

 

フラゴナールの少女が遊んでゐたやうな花満開のときは過ぎつつ

かさぶたが枯れて剥がれる傷のやうに町工場跡均なされてをり

手の甲の静脈あをくみだらなればわづかに逸れてゆく話題ある

 

 「フラゴナールの少女」とは短歌であまり見ない喩だが、その喚起するイメージは明るくくきやかだ。作者は久保茂樹といい、『ふたり歌集 箱庭の空』青磁社から抜粋と注がある。検索してみると『ゆきがかり』という歌集がありさっそく注文した。久保茂樹と小川ちとせの共著の『ふたり歌集 箱庭の空』は版元品切れのようで、『かばん』編集部を通じて作者に連絡したところ、贈呈をいただいた。短歌の世界はいまだに贈呈文化が生きている。ありがたいことである。さっそく二冊を通読した。

 心を打つ歌集にはときどき出会うし、瞠目すべき歌集もたまにはある。しかし、おもしろい歌集というのは存外少ないものだ。久保の第一歌集『ゆきがかり』(砂子屋書房、2009年)はおもしろい歌集である。プロフィールがないので経歴はわからないが、久保は「塔」に所属する歌人で、同時に『かばん』に参加している。

 さて、「おもしろい歌集」とは何か。正面切って定義せよと言われるとそれはちと難しい。あとがきによれば、巻頭歌の「自転車と妻はいづこへ行きしやら土曜午すぎ晴れのち曇り」という歌を見て永田和宏は「不用意な言葉遣いがあるけれど、ちょっとおもしろい」と評したそうだ。永田はどの点をおもしろいと感じたのだろうか。

 まず歌集の題名を見てみよう。「ゆきがかり」とは、『日本国語大辞典』によれば、「行きかかるついで、行く途中」、「行ってその場にさしかかること」、「物事がすでに進行していること、また、進行している物事に関係してすでにやめられない状態であること」を意味する。本歌集の題名はこのうち三つ目の意味に該当すると思われる。一見するとこの題名は集中の、「ゆきがかりなればそのまま往き過ぎるしばし泣く声の耳にのこるも」という歌の初句から採られているように見える。その前には「をさな子とその母らしきが揉めてをり立ち止まるなく過ぎゆきにけり」という歌が置かれていて状況がわかる。母親と幼い子供が何かで揉めている場面にたまたま行き会わせたのだ。しかし歌集題名の『ゆきがかり』はこの歌のみならず、歌集全体に漂う作者の人生観を象徴するものとなっている。それは「この世のことはなべてゆきがかり」という達観である。それは次のような歌に感じられる。 

悶えつつ足をちぢめてゆく烏賊を屋台に我はひとりみてをり

「ひどい」から「ひとでなし」までゆつくりと天動説の空は夕映え

 一首目では夜店の屋台の鉄板の上で丸ごとの烏賊が焼かれている。烏賊は鉄板の熱で悶えるように身をよじる。その様子が見ている〈私〉の喩かというと、そうとも感じられない。烏賊が鉄板の上で焼かれるは烏賊の事情であり、それもゆきがかりなのだ。二首目はたぶん女性に罵られているのだろう。最初は「ひどい」から始まって、やがて「ひとでなし」へとエスカレートしてゆく。その様子はまるで天球がひと晩かけて東から西へとゆっくり移動するかのようだ。どちらの歌にも何かを嘆いたり憤慨したりする様子はなく、「そういうものだ」と受け入れる姿勢が感じられる。本歌集の解説を書いた笠原芳光は、この歌集には独自の思想性、新鮮度、ユーモアがあると評している。確かにそのとおりだ。しかしその思想性は、ヘーゲル哲学のように体系的に構築されたものではなく、体感によって会得した町場の哲学である。

 「この世のことはなべてゆきがかり」という姿勢からは、「24時間戦えますか」というような頑張りや目標に向かって邁進する努力は生じにくい。作者の姿勢はその対極にあり、いい感じの脱力とユーモアはその重要な成分である。 

うらやまし畳のあとがついてますと宅配の人わが頬を指す

清原が三振したるときのまも売り子は声を変えることなし

いまだ日のあたりゐるらし出来たてのエビシウマイのやうな浮き雲

ディテールにこだはる国のゆふぐればあと五分ですと風呂がいふなり

円居といふ死語に句点を打つ如し電子レンジのその終止音

前かごのティッシュ五箱を盾として警告色のスパッツが来る 

 一首目では宅配の配達員に今まで昼寝をしていたことを見抜かれている。二首目は球場での野球の試合風景。ビールの売り子には清原がホームランを打とうが三振しようが自分の商売には無関係だ。空の雲を眺めても頭に浮かぶのは詩的な感興ではなく、まるで蝦焼売のようだという俗な連想である。四首目以下には軽い文明批評も感じられる。最近は風呂や冷蔵庫がしゃべるのだが、はたして湯が満ちるまで「あと五分です」というアナウンスは必要か。電子レンジで冷凍食品をチンするようになり、家庭の円居は消滅した。ちなみに現在では電子レンジの終了音は「ピー、ビー」という電子音で、もはや「チン」とは言わない。六首目は作者の住む東大阪のおばちゃんの姿である。どの歌にもユーモアが含まれていて、読むとついニヤッとしたくなる。

 そのような姿勢は身の回りの人たちを詠んだ歌にも感じられる。何と言ってもおもしろいのは妻を詠んだ歌だろう。 

ラーメンをただに鍋からたべをれば扉に倚りて妻ゐたりけり

浴室を古き歯ブラシに研ぎをる妻よ細部にこだはる勿れ

メモの字の踊らむばかりのありさまのかほども妻を縛つてゐたか

わたくしのことは今日からぜつたいに歌にしないで 今朝言はれたり

きみが逝くと困るたとへば銀行の暗証番号は誰に聞くんだ

 三首目は友人と出かけるという妻のメモが残っていたという歌。中年に差し掛かった男にとって妻は最大の鬼門である。心当たりある人は多かろう。「私のことは歌にしないで」ときつく言われても、三首目のように歌にしてしまうのが歌人の業というものだ。

 本歌集には近代短歌の王道の写実に徹した歌も少なくない。 

パンの耳なくなり鳩ら飛びゆくに片足のなき一羽残れり

おほ鬼の臍の緒のごとひからびてひね大根が捨てられてをり

烏賊を洗ふやうに子どもの手をあらふ軟骨のゆび透きとほるまで

車道側の枝はきびしく払はれて街路樹はみなうしろむきなり

ささぶねの杭に堰かれてゆつくりと艫を捩らせ流れゆきたり

 どの歌にもふだん注目されることなく話題にされることもない、弱いもの、幼いもの、小さなものへ深い愛情が感じられて心を打たれる。「この世のことはなべてゆきがかり」であるからこそ、見過ごされがちなものもまた私に関わりのあることなのだろう。

 『ふたり歌集 箱庭の空』からも何首か引いておこう。

 

エアコンが壊れてゐたりエアコンは春をしづかに壊れてゐたり

湯舟より出てゆくひとのあかあかとそびらに水の文字流れたり

老人の見送りたるは誰ならむ喪服の裾に躾糸みゆ

助手席に雨の匂ひときみが乗りたちまちこゆくなるひだり側

みどり色は好きな色だよきみの手の用紙はうすく透けてゐたりき

 

 五首目の緑色の用紙はもちろん離婚届である。塚本邦雄の歌に登場するのはうすみどりの頼信紙だが、久保の手にかかるとこのように変身する。この目線の低さが久保の持ち味だろう。『ふたり歌集 箱庭の空』の小川ちとせの歌には触れる余裕がなかった。またの機会を待ちたい。