第394回 井上法子『すべてのひかりのために』

ひまわ  言い止したままゆっくりとあなたは蝶の影を追い越す

井上法子『すべてのひかりのために』

 2013年の第56回短歌研究新人賞で次席となり、第一歌集『永遠でないほうの火』(2016年)で鮮烈なデビューを果たした井上の第二歌集である。版元は第一歌集と同じ書肆侃侃房。反転文字と花弁を配した白い表紙が瀟洒で美しい。小野正嗣が帯文を寄せており、あとがきによれば井上の恩師だそうだ。小野は仏文学者で、NHKのEテレの日曜美術館のキャスターを務めていたので顔を知る人も多いだろう。井上は東京大学大学院総合文化研究科の博士課程で学んでいるが、小野が恩師ということは専攻はフランス文学なのだろうか。もしそうだとしたら同業者ということになり、仏文歌人には菅原(安田)百合絵という先達がいる。詩人の石松佳と歌人の服部真里子が栞文を寄せている。いずれもなかなかの力作で、特に服部の文章は井上の短歌世界を理解する指針となりそうだ。

 『永遠でないほうの火』の評で私は、井上は詩の技法で短歌を作っているという趣旨のことを書いた。その印象は第二歌集でも変わらない。現代の若手歌人の中で井上は最も詩の領土に近い人だと思う。本歌集を一読した印象では、その度合いは第一歌集と較べてさらに増している印象を受ける。

もう一度きり瞬いて花びらを、せめて香りを抱きとめて ゆけ

ふりかえれば薔薇の園ごと消えていて、ひかりのなかに立ち尽くす風

そこが海だと匂いでわかるくるしさを ふるさともふるきずもかみひとえ

ほら、ぼくら無傷でやる瀬ないけれど…ほら。めいっぱい咲けば此岸を

だからこそ教えてくれるこの生を綴じられるのは物語イストワール 、と

 五首目のイストワールはフランス語のhistoireで、「歴史」と「物語」のふたつの意味がある。英語では historyとstoryに分かれたがもともとは同じ単語である。

 こういう短歌を目の前にして、どのように読めばよいのかとまどう人もいるだろう。近代短歌の作法とはずいぶんちがう作り方をしているからだ。近代短歌の王道は生活実感に根ざした写実である。

缶ピース長髪下駄履き思草寮まだ何者でもなかった私

       篠原俊則 朝日歌壇 2022年8月14日

 思草寮とは愛知大学の昔の学生寮らしい。かまやつひろしの「我が良き友よ」を彷彿とさせる弊衣破帽の青春で、歌の主な感情は懐旧の念だ。この歌は人生の一時期を描いていて、「人生派」もしくは「生活派」短歌のひとつの典型である。私たちは人生を生きる間にさまざまな喜びや悲しみや悔しさを味わう。それを短歌という形式を通して表現し昇華する。それは文学の果たす大きな役割である。

 しかし別の道を辿って短歌に出会うこともある。それは言葉自体が発する磁力に感応するという道である。それはたとえば次のような歌を読むときに誰しもが襲われる印象ではないか。

硝子街に睫毛睫毛のまばたけりこのままにして霜は降りこよ 浜田到

 具体的な場面や歌の意味は十分にわからないままに、一首が硬質の光を帯びて輝いているように感じられる。そのような印象はどこから来るのだろうか。

 言語の大きな役割は意味の切り分けと伝達である。切り分けはちょっと横に置いておいて、意味の伝達に着目する。言語の役割が相手に何かを伝えることにあるというのはまず確かなことだろう。伝達機能の典型は新聞の言葉である。新聞の言葉は情報を正確に読者に伝えるべく磨かれている。無駄な言葉はそこに入る余地はない。しかし言葉の機能はそれに留まるものではない。

 フランスの詩人・評論家のポール・ヴァレリーの「詩と抽象的思考」という作品は、詩の発生を論じた文章としてよく知られている。ヴァレリーはその中で次のように述べている。煙草を吸おうとしたがマッチがない。近くにいる人に Avez-vous du feu ?「火をお持ちですか」とたずねる。相手は私に火をくれる。私が発したAvez-vous du feu ?という言葉の役割はそこで終わる。意味の伝達が達成されたからだ。しかし私の言葉はそこで終わらず、まだ生き延びたいと願う。私もその言葉を何度も繰り返して聴きたいと望む。意味が終わったところに生じる言葉のもう一つの生、それが詩だとヴァレリーは言う。

 意味が終わった言葉に何が残るのか。ひとつは音、つまりリズムや韻律である。Intel inside.というCMは頭韻を踏み、その日本語版の「インテル、入ってる」は脚韻を踏んでいる。しかしそれだけではない。単語が発散するイメージや、他の言葉と親和性のある結びつきや,硬い単語やくだけた単語といった語感や、共感覚など、狭義の意味に回収されないものは他にもある。このような要素が複雑に絡み合って言葉の持つ磁場が生まれる。それを重んじるのが「コトバ派」の歌人である。井上は穂村弘を通して塚本邦雄の短歌を知ったという。塚本はコトバ派歌人の典型だ。井上の短歌はこのような背景のもとに読むのがよいと思われる。

 では上に引いた一首目の「もう一度きり瞬いて花びらを、せめて香りを抱きとめて ゆけ」をどう読むのか。「もう一度きり」という表現から何かの終わりが連想される。終焉を迎える何かがあるのだ。「瞬く」は人が目をぱちぱちすることか、星などがチカチカ光ることをいうが、ここには意味の未決定性があり、どちらか決めることができない。この浮遊感が嫌いだという人にはこういう歌は楽しめないだろう。「花びらを」は言いさしで止められており、花びらをどうするのかが明かされていない。ここにも未決定がある。「せめて」には何かの断念があり、「香りを抱きとめて」には相手に対する強い思いがある。そして一字空けの後で「ゆけ」の強い命令が何かを断ち切る意志を表す。終焉と断念と決意の渦巻く何かの物語が歌の背後に感じられ、すべてが過ぎ去った後に薔薇のほのかな香りだけが漂っている。そんな読み方はどうだろうか。

 本歌集でもうひとつ注目されるのは、言葉遊び的要素である。

さみどりにさやぐさざなみ 風は火を 火は運命をおそれず生きて

うつくしい海辺をもって生まれればうたげのごとく天涯孤独 

 一首目では「さみどり」「さやぐ」「さざなみ」とサ音の頭韻があり、二首目では「うつくしい」「海辺」「生まれれば」のウ音の頭韻と、「ごとく」「こどく」の類似音がある。このような歌は言葉が言葉を引き寄せることによって生まれる。このような技法は掛詞や序詞と同じく近代短歌が排除しようとしたもので、このあたりにも井上のコトバ派歌人の志向性が感じられる。

 2022年9月7日付けの東大新聞オンラインにかなり長い井上のインタビューが掲載されていて興味深い。その中で井上は何度も、私が言葉で世界を表現するのではなく、私は世界から言葉をもらう、私は仲介者にすぎないと述べている。また井上はかねてより、言葉だけの透明な存在になりたいとも言っている。井上の短歌において〈私〉の占める場所が極小なのはそのような理由によるのである。余談だが、「煮えたぎる鍋を見すえてだいじょうぶこれは永遠でないほうの火」という第一歌集のタイトルともなった歌が、IHコンロでおでんを煮ているときに吹きこぼれて、自動的にスイッチが切れたのを見て生まれた歌だというのはおもしろかった。

夜ごとひとつの詩を泡立たせしののめに届くひかりを。向こう岸まで。

眼裏まなうらにつきのひかりをたたえつつ夢のころもを着るわたしたち

いつかこの世を振り切るために書きのこすぼくらは星の面影を 死を。

立ち葵 希死はときおりきらめいてことばこぼれるまえのからだは

ゆめに ときに 銀の雨ふるなかをおもかげは影になる幾たびも

撫でられたあとかもしれずさざなみのきらめく模様すべからく、みな

はつなつの破れてひらく花の火の まだ末葉を知らないままの

 とりわけ美しく感じた歌を引いた。比較的意味が取れる歌も、そうでない歌もある。最後の歌の「末葉」は「すえば」とも「うらば」とも読むようだが、音数からして「まつよう」と読むのだろう。「すえば」は草木の茎の先のほうにある葉をさすが、「まつよう」は子孫の意のようだ。「はつなつの破れてひらく花の火の」は序詞のように置かれている。

 あとがきで井上は、「非人称の世界で育まれる読みの豊かさを、ことばの可能性を、わたしは信じています」と述べている。「非人称の世界」とは、この世に生きる生身の〈私〉を離れた世界ということだろう。「非人称」に遠くモーリス・ブランショ (Maurice Blanchot) の影を感じるのは私だけだろうか。