巣づくりのその身にかなふ枝銜え
正木ゆう子『羽羽』
このたび第51回蛇笏賞を受賞した正木ゆう子の句集を今回取り上げようと思っていたのだが、ちょっと気になる文章を見てしまったので、今回は掲句だけに留めて本体は次回に回すことにする。ちなみに掲句は巣作りに励むスズメを詠んだもので、藤島秀憲も喜ぶことだろう。我が家のルーフテラスにもよくスズメが来る。日本でも珍しいスズメ研究者である三上修の好著『スズメ つかず・はなれず・二千年』(岩波書店)を読むとより可愛さが増すこと請け合いである。
閑話休題。気になる文章というのは、『塔』7月号の花山周子の短歌時評「歌を死なせては元も子もない」である。花山は角川『短歌』2月号に松村正直が寄せた「日本語文法と短歌」という時評を取り上げている。松村の文章の趣旨は、文語文法まで視野に入れた従来の国語文法ではなく、現代日本語に重きを置く日本語文法を導入することで、近年口語の勢いが増している現代短歌をよりよく批評できるのではないかという提言である。花山はこの松村の提言自体には賛意を表しているのだが、松村が例歌として引いた東直子の歌の解釈に異論を唱えているのだ。その歌とは「おねがいねって渡されているこの鍵をわたしは失くしてしまう気がする」。松村はこの歌の「渡されている」を、「過去に渡されて今持っている」(結果状態用法)と解釈し、花山は「今まさに手渡されつつある」(現在進行用法)と取って松村の読みを批判しているのである。
確かにテイル形には少なくとも3つの用法があるのでまぎらわしい。どちらの解釈を取るかはここでは関係ないのであえて触れない。私が気になったのは松村の時評を要約しながら花山が書いている次のくだりである。
例えば口語では文語のような助動詞がないため、表面的には現在形と終止形ばかりとなり、口語短歌には「今」しかないと否定的に語られる側面があったが、松村はそこに「日本語文法」という客観性と新しい視座を持ち込むことで、積極的に口語短歌の表現を読み込もうとしているのだ。
私が引っ掛かったのは「現在形と終止形ばかり」の部分だ。言語学者として声を大にして言いたいのは、「日本語に終止形はあるが、現在形というものはない」ということである。この点について未だに多くの誤解があるようなので、少し論じておきたい。
まず議論の前提として、日本語のいわゆる「活用」と、英語やフランス語の「活用」はまったく異なるものであることを知っておかなければならない。英語やフランス語の活用形は、法・人称・数・時制によって動詞の語尾が変化するもので、例えばフランス語の動詞aimer「愛する」の、直説法・1人称・単数・現在形は j’aimeで、直説法・3人称・複数・半過去形は ils aimaientという具合である。一方、日本語の「活用」とは、次に続く語類によって語形が変化することで、例えば五段活用動詞「行く」ならば、未然形は次に否定が続く「行か・ない」、連用形は次に助動詞が来る「行き・ます」、終止形は言い切りの形「行く」、連体形は次に名詞が来る「行く・とき」、仮定形は仮定を表す「行け・ば」、命令形は「行こ・う」となる。語幹末音節が「か・き・く・く・け・こ」と変化するので五段活用という。
日本語動詞には英語やフランス語のような「時制による活用」というものがない。現代日本語で唯一時制を表すとされているのは過去の助動詞タである。「僕は昨日縁日に行った」は過去の出来事を表す。したがって「行った」は「過去形」と呼んでもよい(しかしタには「さあ、買った、買った」のようにこれ以外の用法もあるので、過去形と呼ぶのはお奨めできない)。日本語にはタ以外に時制らしき標識はない。現在形も未来形もないのである。
日本語の歴史を振り返ると、古語は過去表現の豊富な言語だった。過去の助動詞にキとケリがあり、「昔、男ありけり」「我が谷は緑なりき」と使い分けられていた。また完了の助動詞にヌ、ツ、タリ、リがあり、これも使い分けがあった(ただしタリとリは異形)。ところがこれらはすべて姿を消し、現代語ではタリに源を持つタしかなくなった。現代日本語は時制の貧弱な言語なのである。言葉による時間表現が不得手な言語なのだ。
もっともこれ以外にアスペクトを表すテイルとテイタがある。時制を広義に取って時制・アスペクト体系と考えるならば、日本語には次の4種があることになる。日本語学ではそれぞれ語尾の形を捕らえてカッコに示したように呼ぶ習慣である。
1) 太郎は走る。 (ル形)
2) 太郎は走った。 (タ形)
3) 太郎は走っている。(テイル形)
4) 太郎は走っていた。(テイタ形)
さて、では現在まさに起きている事態を表すとき、日本語はどうするか。これを知るにはまず「状態動詞」と「動作動詞」の区別が必要である。状態動詞とはその名の示すとおり、動きのない状態を表す動詞であるが、実は日本語にはあまり数がない。英語では-ingの進行形にできない動詞が状態動詞で、be、have、like、love、know、live、resemble、please などたくさんある。日本語では次のようなものがあると考えられる(これは金田一春彦の「状態動詞」と一部異なる)。
a) 存在動詞「いる」「ある」と否定形の「いない」「ない」
b) 知覚動詞「見える」「聞こえる」「感じる」
c) 思考動詞「思う」「考える」および類語
d) 可能の「できる」、必要の「要る」
e) 感覚を表す「~する」: 変なにおいがする、生きた心地がしない、etc.
f) 自発のレル、ラレル : 春の訪れが感じられる、そう思われる、etc.
g) その他 : 気にかかる、気になる
これら状態動詞のル形は、終止形で現在の事態を表す。「変なにおいがする」は「ただ今現在臭っている」という意味だ。従って、状態動詞に限っては終止形を「現在形」と呼ぶのはあながち間違いではない。『日本語教育事典』(大修館書店)もこの立場を採っている。次の例も同じである。
5) 遠くに海が見える。
6) 私もそう思う。
7) もう少し金が要る。
これに対して「動作動詞」とは、時間の中で始まり、展開し、終了する動作・行為を表す動詞である。日本語は圧倒的に動作動詞が多い。英語では状態動詞であるhave、knowなども、日本語では「持つ」「知る」は動作動詞である。動作動詞のル形(終止形)は、今まさに起きている事態ではなく、習慣的事態か近未来に起きる事態を表す。
8) 太郎は毎朝5km走る。(習慣的現在)
9) 花子は朝シャワーを浴びる。(習慣的現在)
10) 一彦は金曜にうちに来る。(習慣的現在、または近未来)
動作動詞で現在起きていることを表すには、ル形ではなくテイル形を用いなくてはならない。英語の -ingによる現在進行形と同じである。
11) 太郎は今走っている。
12) 花子は今シャワーを浴びている。
従って、圧倒的多数の日本語動詞については、終止形(ル形)は「現在形」ではないのである。日本語の動詞に関して「現在形」という用語を使うべきではないのはこのような事情による。日本語学ではタ形を「過去形」、ル形を「非過去形」と呼ぶ慣行があるが、個人的にはこの名称は好まない。
このような次第であるので、ル形が多いからと言って「口語短歌には『今』しかない」というのは正しくない。多くの場合、ル形は「今」を表してはいないからである。
本コラムの第164回で竹内亮の『タルト・タタンと炭酸水』を取り上げたとき、私は次のようなことを書いた。口語短歌が克服すべき問題点のひとつは「文末表現の貧弱さ」である。文語短歌では過去や完了の助動詞の他、「はも」「かな」などの感動助詞もあり文末表現が多彩である。これにたいして現代語の口語短歌では、体言止めでなければル形かタ形の連続になり単調を免れない。「昨日動物園に行きました。ライオンとカバがいました。楽しかったです」のような小学生の書く文章になりかねない。『タルト・タタンと炭酸水』にもル形で終わる歌が多くある。ル形の終止は出来事感が薄い。口語短歌の多くが未決定の浮遊状態に見えるのはこのためかもしれない。おおむねこのようなことを書いた。
竹内に限らず、現代の口語短歌にはル形で終わるものが多いのは事実である。
チョーク持つ先生の太い親指よ恋知る前に恋歌を知る 野口あや子
東京に環状のもの多いことひとかたまりの野良猫ねむる 平岡直子
ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす 笹井宏之
B型の不足を叫ぶ青年が血のいれものとして僕を見る 木下龍也
片耳をそっとはなした電話から鎖のように声はこぼれる 原田彩加
第164回のコラムでは次の高野公彦の歌と比較して、ル形で終わる歌は出来事感が薄いと述べた。確かに次の歌では結句に完了の助動詞リが用いられていて、「確かにそのようなことがあった」という出来事感が強く感じられる。
水苑のあやめの群れは真しづかに我を癒やして我を拒めり
しかし今回改めてル形で終わる歌を眺めていると、私が書いたことを微妙に修正しなくてはならないように思えて来たのである。動作動詞のル形は現在形ではなく、現在起きていることを表さないということ動かないのだが、上に引いた歌が特別に出来事感が薄いかと言えば、必ずしもそうとも言えない。また文語でも偉人が死んだときなどに「巨星落つ」と報道されることがあり、「落つ」は文語の終止形だが出来事感は十分にある。どうやらこの問題は見かけ以上に複雑なようだ。今回は長くなりすぎるのでまた稿を改めて考えてみたい。
【附記】
第164回の私の文章を中西亮太氏がブログで取り上げてくださり、松村正直氏も加えて何度かコメントの交換があった。その記録はこちらにある。