第291回 荻原裕幸『リリカル・アンドロイド』

ここはしづかな夏の外側てのひらに小鳥をのせるやうな頬杖

荻原裕幸『リリカル・アンドロイド』

 『青年霊歌』(1988年)、『甘藍派宣言』(1990年)、『あるまじろん』(1992年)、『世紀末君!』(1994年)に到るまで、荻原は2年ごとという短いスパンで歌集を刊行して、現代短歌シーンを牽引し続けていた。それがぱったりと止まったのは、20代の無職・フリーター生活に別れを告げて広告会社に就職し、背広を着てネクタイを締めるサラリーマンになったためである。外形的にはそのように説明できるのだが、荻原の内心には、日本語の解体実験にまで手を染めた自分の言葉が読者に届いているのだろうかという疑問が募っていたようだ。そこから自分を取り戻す「僕であることの奪還」(『新星十人 現代短歌ニューウェイヴ』立風書房、1998年)という長い道程が始まった。2003年に刊行された全歌集『デジタル・ビスケット』には、『永遠晴天症』という未完の第5歌集が収録されているようだが、そこから数えても16年振り、『世紀末君!』から数えれば実に四半世紀振りに第6歌集『リリカル・アンドロイド』が上梓された。昨年の2019年のことである。私はこの歌集が世に出たことを知らず、先日たまたま寄った書店で見つけて思わず息を呑んだ。買い求めて帰宅し、すぐに読んだことは言うまでもない。

 今年(2020年)の2月にムック『ねむらない樹』別冊として出版された『現代短歌のニューウェーヴとは何か?』(書肆侃侃房)で改めてニューウェーヴ短歌に注目が集まり、命名者である荻原の名前も脚光を浴びたが、結社に属さず定期的な発表媒体も持たない荻原の短歌作品に触れる機会は少なくなっていた。私はそれを少し淋しいことと感じていたので、第6歌集の刊行は実に喜ばしい。最初から最後までとても楽しんで読み、現在の荻原のいる地点とその姿勢にも共感を覚えたのである。本歌集の全体を貫くトーンを敢えて取り出すならば、それは「静謐」と「不穏」とが微妙な割合で混じり合った混成体とでも呼ぶものだろうか。

 静謐編は例えば次のような歌である。

雲が高いとか低いよとか言ひあつて傘の端から梅雨を見てゐる

そこに貴方がここに私がゐることを冬のはじめのひかりと思ふ

曲線がどれもあざやかになる春先の曲線として妻を見てゐる

皿にときどき蓮華があたる炒飯をふたりで崩すこの音が冬

半生のほぼすべての朝を瑞穂区にめざめてけふはあぢさゐの朝

 本歌集の歌に頻繁に登場するのは妻であり、描かれているのは妻と二人で過ごす静かな日常の場面である。誰にも言えることだが、現在居る場所を知るためには今まで居た場所を確認しなくてはならない。両者の差分が本人の変化である。

駆落ちをするならばあのガスタンク爆発ののち消ゆる辺りに 『青年霊歌』

オートバイ星の光にゆだねをり青春といふ酔ひ醒むるまで

遠き星の言葉で愛を語るごと口うごかして剃る朝の髭 『甘藍派宣言』

(梨×フーコー)がなす街角に真実がいくつも落ちてゐた

恋人と棲むよろこびもかなしみもぽぽぽぽぽぽとしか思はれず 『あるまじろん』

なにもかも昔ばなしになりますがぼくの理由はオカリナでした

宥されてけふも翡翠に生きてゐる気がする何が宥してゐるのか 『世紀末君!』

ほらあれさ何て言ふのか晴朗なあれだよパイナップルの彼方の

 塚本邦雄に師事して前衛短歌の文体から出発した荻原は、加藤治郎・穂村弘と併走するように口語を使い記号まで駆使するニューウェーヴ短歌を牽引した。『リリカル・アンドロイド』の文体に到るまでの文体の変化は明らかだろう。文体の変化はまた心境の変化であり姿勢の変化でもある。強い言葉を周到に避けてほとんど無音の静かな世界を描くリリシズムは味わい深い。歌集名のリリカル・アンドロイドは「抒情的な人造人間」という意味であり、これは自分のことを指しているのだろう。自身をアンドロイドと呼ぶのは、まだ十分に自分に戻れていない今の状態を示唆していると思われる。

 不穏編というのは例えば次のような歌が時々混じっているからである。

まだ誰もゐないテーブルこの世から少しはみ出て秋刀魚が並ぶ

春の朝があると思つてカーテンを開いた窓の闇におののく

わたしを解凍したらほんとに人間に戻るのかこの冬のあかつき

雨戸を数枚ひつばりだせばそこにある戸袋の闇やそのほかの闇

秋のはじめの妻はわたしの目をのぞく闇を見るのと同じ目をして

 一首目では、食卓に並ぶ秋の味覚のサンマが少しこの世からはみ出しているという幽体感覚のようなものがある。二首目と四首目と五首目にはいずれも闇が詠われている。ここに登場するのは、例えば魔王が降臨して世界を覆い尽くすような大きな闇ではなく、日常生活のふとした瞬間にちらっと顔を覗かせる闇である。恐怖の対象ではなく不穏のタネのようなものだ。三首目には荻原の目指す「僕の奪還」がまだ完遂途上であることが詠われている。

さくらからさくらをひいた華やかな空白があるさくらのあとに

夢の続きがしばらく揺れて早春のここがまたいまここになる朝

そらいろの小皿の縁が欠けてゐてにはかに冷える雨のひるすぎ

あのひとが鎖骨を見せてゐることのどこかまぶしく囀りのなか

蕪と無が似てゐることのかなしみももろとも煮えてゆく冬の音

母音のみのしづかな午後にペダル漕ぐ音を雑ぜつつゆく夏木立

ふゆの日はふゆのひかりをやどらせてひとの利手にひかる包丁

曲面をたどるあなたのゆびさきがとびらにふれるまでの夕映

 特に印象に残った歌を引いた。一首目は桜の花が散った後の空間を詠んだ歌で、「さくら」のリフレインがリズムを作っている。「華やかな空白」という表現が美しい。本歌集には夢と覚醒の歌が多いが二首目もそのひとつ。「ここがまたいまここになる」は、自己意識が「今・ここ」を規定していることを鋭く指摘している。三首目は集中屈指の美しい歌である。急に冷えを感じたのは、実際に気温が下がったのではなく、大切にしている小皿縁が欠けていることに象徴される心の動きが何かあったためだろう。四首目では結句の「囀りのなか」で戸外にいることがわかり、詩情が空間に解き放たれるような印象がある。五首目は「蕪」と「無」の漢字の類似から始めて悲しみへと着地している。七首目では「ふゆ」「ふゆ」「ひかり」「ひと」「ひかる」のように、「ふ」と「ひ」の音の反復が歌のリズムを生んでいる。

 昔の荻原が試みたような日本語の解体実験はすでに遠いエピソードである。これらの歌では平仮名を多用して歌のリズムを整え、言葉に無理な圧をかけることなく詩情を生み出している。これが間もなく還暦を迎えようとしている荻原の境地ということだろう。記号が一つもないのは予期できるとして、ルビが一箇所もないことに驚いた。これも言葉に圧をかけないという現在の荻原の姿勢を物語っている。