第384回 『文學界』特集「短歌と批評」

 『文學界』9月号が「短歌と批評」という特集を組んだ。この企画の目玉は総勢13人による歌会である。参加者は、青松輝、我妻俊樹、伊舎堂仁、井上法子、大森静佳、木下龍也、榊原紘、堂園昌彦、永井祐、服部真里子、花山周子、穂村弘、睦月都という豪華なメンバーである。ふつうの歌会と同じく、参加者は作者名を隠して一首ずつ歌を提出している。次に書き写すので、どの歌の作者が誰かを当ててみるのも一興だろう。私は三人くらいしかわからなかった。

[1] 新しい靴の人のとなりで歩く のぼりとくだり ずっと右側

[2] おしっこじゃなくてうんちで体から排泄されるアイスクリーム

[3] 枯れかけをください ぼくはさておいてそれが神さまとして正しい

[4] 草野球一団が立ち去った草の上に空に向かって尖っていった

[5] 舌だしてねむりつづける手術台の猫は新緑の世界の底に

[6] 食品サンプル、それもミートボールスパゲッティ(あなたのこれからの身代金)

[7] 太陽のしろがねの脳ひかる昼わたしも百合も黙考をせり

[8] 梅雨近き窓のむらさき 孤児の猫を抱へて昼をあさく眠りぬ

[9] 古着屋でマネキンがしてるヘッドフォン 愛の言葉はくせになるから

[10] もうしてるのに結婚をしなさいと蟬の顔して祖母が来るのよ

[11] ゆめに ときに しろがねの雨ふるなかをおもかげは影になる幾たびも

[12] (Reおわかれ)という件名のメールが夜に、ララからキキへ

[13] 夕暮れの色の卵を割り開きこころは慣れていく夕暮れに

 文体の手がかりとなるのは、[7]と[8]だけが文語を取り入れていて、それに加えて[8]は旧仮名であることだ。このメンバーの中で文語・旧仮名で歌を作っているのは睦月だけなので[8]は睦月だと知れる。[1]はやはり文体から永井しかいないとわかる。文体とはことほど左様に強力である。また[11]はこの中でいちばん詩に近い顔をしているので、これは井上だろうと推測できる。迷ったのは穂村で、[5]と[12]のどちらかだろうと踏んだのだが、[12]はいかにも『手紙魔まみ 夏の引越し(うさぎ連れ)』をまねたようで、本命は[5]かなと思ったが自信はなかった。最後に作者名を書いておく。

 参加者が一人三首に票を投じる形式で、最も多い6票を集めたのが [10] だったのは少し意外だ。二位は [1]と[13]が5票を集め、三位は4票の[5]と[9]だった。堂園の司会で座談会形式の討論があり、歌をめぐる歌人たちの議論がとても興味深い。驚くこともあった。それについて少し書いてみたい。

 司会の永井が「今日、何が秀歌なのかが次々話題にあがっています」と発言しているように、秀歌とは何かという問題をめぐってひとしきり議論があった。

 [13]について我妻が、メビウスの輪のような捻れた円環構造をなしていて、夕暮れから夕暮れに戻っていくのだが、その動きが同じ面の上ではないと指摘している。穂村はそれを受けて、それは秀歌に多い構造だと言い、続けて、この歌は[1]とは対照的に、共同体が磨いてきた秀歌性に精度高く球を当てている印象があると述べている。そして秀歌性批判をいつもしている自分たちも、やっぱり採らされてしまうほどだと述懐している。これにたいして青松は、この歌はめっちゃうまいと思い採ろうかと思ったが、秀歌性にレプリカ感があり、狙って当てている感じがあって採れなかったと述べている。

 [13]は私もとてもよい歌だと思うが、これがなぜ秀歌なのかをひと言で説明するのは難しい。ここでは穂村が[13]の秀歌性にプラスの反応をし、青松がマイナスの反応をしたことに注目したい。ポイントは青松の言う「レプリカ感」と「狙って当てている感じ」だろう。レプリカとは本物ではなく複製を意味する。つまり青松の目には、[13]は本物の秀歌ではなく、近現代短歌から学んだ秀歌性を擬態したものであり、狙いを付けて作りあげたものと映っているのだ。青松は現役の東大生で、ここに集まったメンバーの中ではいちばん若い。若い青松には、いかにも作りましたという顔をした短歌はわざとらしく見えるのだろう。それはおそらく「リアル」が与える手触りに反応する世代による感性のちがいである。若い人には念入りにトリミングした情景を額縁に入れて壁に飾るような歌はわざとらしく感じられるのかもしれない。この感性のちがいは見過ごせない。青松のように感じる人がこれから増えたとしたら、今後作られる短歌の質も確実に変わるからである。

 時代の変化は[1]のような歌についても露呈している。[1]について井上は、頭の中に「?」が浮かぶ歌だと感想を述べている。初句「新しい」で収まっているかと思えば「靴」につながっているし、「ずっと右側」で立ち位置を表明されるが、いつからいたのか不思議だと述べる。大森は、全体を通して場面を構築せず、視点がずっと自分の顔に付いている感じがするとしている。堂園は歩いている時に、心や身体感覚が変化していくその一回性をとらえていると評する。また読みにくくすることによって、それを体験させているんじゃないかと鋭い指摘を加えている。

 これに対して青松は、この歌が狙っているのは、歌会で「面白かったね」という評を得ることで、ここには「短歌とはこういう豊かさを生み出す装置です。だから票を入れてください」というような計算があると述べている。[13]に対する評価と共通しているのは「作為性」である。

 しかしながら、もし青松の言うことに従うならば、歌が情景をくっきり浮かび上がらせ、そこに籠められた作者の想いが読み手に伝わるように工夫を凝らしたならば、それはすべて作為的ということになりはしないか。そう考えるととても正当な評価とは思えない。穂村は青松らの意見を受けて、[1]は短歌の世界の中で錬磨されてきた秀歌性からかなり外れており、作者は歌を自分の価値観に沿ったものに改変するためにこの文体を開発したのだと述べている。そして、それにもかかわらず、このような文体の耐用年数がもう切れようとしているのかと恐怖を感じるとも付け加えている。穂村は [1] が永井の歌であることを見抜いた上でこのように述べているのだが、穂村の懸念はおそらく杞憂に終わるだろう。永井が試みている短歌の文体の革新は、最初こそ理解されなかったものの、その意図するところが着実に浸透していると思われるからである。

 あとおもしろかったのは[11]をめぐる議論である。永井が「ゆめに ときには」の字空けはかっこいいけど結構チャラいと指摘すると、それを受けて伊舎堂がチャラいを通らないとかっこよくならないので、チャラいを突き抜けないとだめだと述べている。そこで穂村が「突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士のまなこ」という歌を引いて、主題の重さに対してどこかチャラいところがある。兵士が眼を撃たれたことと卵が割れることがオーバーラップして映像に快楽性があるが、倫理的にNGでも歌に快楽性があっていいというところを自分はずっとうまく言えずにいると引き取っている。

 このやりとりを読んで私は少し驚いた。もし芸術作品が描くものに倫理性を求めたら、三島由紀夫の『金閣寺』で修行僧が放火した金閣寺が炎上するのを美しいと感じたり、ヴィスコンティの『ルードウィッヒ』で、国を傾けるほどワグナーに心酔し、ディズニーランドのシンデレラ城のモデルになったと言われるノイシュバンシュタイン城を立てたババリア王ルードウィッヒが湖で死ぬ場面で、浅瀬に横たわる王の開いた口に雨が降り注ぐシーンを美しいと感じてはいけないということになりかねない。いつかある俳優が、映画の中でヤクザが銃で人を撃って車で逃走しようとするときに、ポリコレ的にシートベルトを締めることを求められたら、もう映画は撮れなくなると言っていたが、それと似たところがあるようにも思う。

 またこの座談会の中で穂村は、「短歌には一人称性が釘のように打ち込まれている」とか、「俵万智の一人称性はすごく『みんな性』に近い」などという名言を残している。今まで「短歌の武装解除」「圧縮と解凍」「短歌のくびれ」などさまざまな用語を世に出してきた穂村らしい。とはいえニューウェーヴ短歌の旗手だった穂村も、若手が集まった座談会の中で長老扱いされていることに、いやおうなく時間の流れを感じてしまう。

 この特集では歌会の他に何人かの歌人が評論を寄稿している。その中では伊舎堂仁の「空中ペットボトル殺法」がおもしろかった。

 伊舎堂は次のようなペットボトルを詠んだ歌を比較している。

ああ闇はここにしかないコンビニのペットボトルの棚の隙間に 松木秀

たぶん親の収入は超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく 山田航

開けっ放しのペットボトルを投げ渡し飛び散れたてがみのように水たち 近江瞬

 一首目と二首目では、ペットボトルは私たちの日常になくてはならないものだが、かといって歌の主人公になるほどのものではない。ところが近江の歌では主人公になっている。伊舎堂の言葉を借りれば「短歌へ映れた」のはキャップを外されて水がこぼれたことによって「壊れた」からだという。そして「壊れていると、短歌に映れる」と伊舎堂は言う。戦略として先に自分を壊しておくという手もあるが、そろそろ「壊れている」ことが気まずく感じられるようになってきたとも続けている。かつて中山明は穂村弘について、「上手く破綻した」者の魅力があったと書いたことがあるという。その上で伊舎堂は、「対象も自己も壊さず、短歌を詠むことはできないのだろうか。短歌を読むことはできないのだろうか」と自問している。

 しかしながら「壊れている」ことと文学は長い付き合いがあり、今に始まったことではない。石川啄木も中原中也もある意味かなり壊れていた人たちである。いささか誇張はあるものの、清家雪子の『月に吠えらんねぇ』を読めばそれがよくわかる。フランスの文芸批評家のモーリス・ブランショ (Maurice Blanchot 1907-2003)は、「文学は欠如 (manque) から始まる」と述べているのも他のことではない。

 私がおもしろいと思ったのは、評論の内容もさることながら、伊舎堂の次のような文体である。

【開けっ放】された時点で店頭へは戻れないことの決定により商品として〈壊れ〉、一首内には出てこない、という〈遠さ〉によって「キャップ」から隔てられたことにより保存容器として壊れ、今は空中にあり、その後に中身の大部分が散逸するであろうことで飲めない・飛び散る・光ったなにか・という無意味さに向かって〈意味ごと壊れて〉いる。

 内容には多少異論はあるが、あえて饒舌を志向したスピード感溢れる文体はユニークで読ませる。余談になるが、伊舎堂の評論のタイトル「空中ペットボトル殺法」をパソコンで打とうとして、「さっぽう」から「殺法」が変換できないことに気づいた。「殺法」は広辞苑には立項されていないが、小学館の『精選日本国語大辞典』には項目がある。しかしこれでは眠狂四郎の円月殺法も一度では変換できないことになりとても残念だ。

 

【作者名】

[1] 永井祐 [2] 伊舎堂仁 [3] 木下龍也 [4] 花山周子 [5] 穂村弘 [6] 榊原紘

[7] 服部真里子 [8] 睦月都 [9] 我妻俊樹 [10] 大森静佳 [11] 井上法子

[12] 青松輝 [13] 堂園昌彦