泰山木の白がなげきをおほふ歌おもひつつゆく海岸通
なぜ白がなげきを覆う歌を思うのか。それは阪神淡路大震災で亡くなった人々と、生き残った人たちが受けた大きな被害を記憶しているからである。折しもこのコラムを書いている1月19日の二日前の17日は、大震災から30年経った記念日であった。TVでは一日中追悼番組を流していた。セレクション歌人『尾崎まゆみ集』に寄せた藤原龍一郎の解説「深き淵より」によれば、大震災が起きた1月17日は尾崎の誕生日だという。自分が生を受けたのと同じ日に町が壊滅的被害に遭うとは何という暗合だろう。第二歌集『酸っぱい月』は震災から3年後に刊行された鎮魂の歌集である。
破壊もまた天使であるとグレゴリオ聖歌が冬の神戸を駆ける
『酸っぱい月』
ペットボトルをみたす浄水わたくしの胸の屈折率のかなしみ
生きる重たさ今日の続きの黄昏にかならず墜ちて壊れる思ひ
『ゴダールの悪夢』は2022年に出版された尾崎の第七歌集である。セレクション歌人『尾崎まゆみ集』を読んで本コラムの前身「今週の短歌」で批評したのが2004年のことだから、あれから20年近くの時が流れたことになる。大震災から30年近く経って刊行された本書にも鎮魂の思いは燠火のように消えていない。
白にまじれる赤のひかりはいのちなりルミナリエとは祈りであれば
眩しさのなかにわたしの踏みしめた瓦礫まみれのなつかしい街
誕生日ぬばたまの夢にうかびくる平成七年一月の街
火の匂する誕生日亜米利加の高速道路の毀れた写真
携帯とパソコンを買うメルアドは地震のときに欲しかったもの
一首目のルミナリエは、震災の年の暮れから犠牲者を追悼するために開催されているイルミネーションである。四首目の「火の匂する誕生日」は、第一歌集『微熱海域』所収の「大杉栄、山口百恵、私の誕生日火の匂ひして」と響き合う。日本で携帯電話が爆発的に普及したのは1996年からなので、震災の年にはまだ携帯電話を持っていない人が多く、インターネットを介したパソコン通信もまだ普及していなかった。そういった当時の事情が思い起こされる。
本歌集で一番多く詠まれている題材はまちがいなく「月」だろう。本歌集は「月の歌集」と呼んでもよいくらいだ。
生きものは匂もつもの真夜中の少女に月のにほひが染みて
おほぞらに月と呼ばれるもののかげあの三輪山の背後をてらす
ほのじろく透ける繊月爪の痕空をすうつとひらく傷口
蘭鋳のあぎとふ水にくずれつつ月の舟ゆふぐれにゆらめく
のりしろを剥がしてひらく記憶ありそこにも架かる上弦の月
煌めくは豆名月また栗名月クロスワードパズルを照らす
上に引いた歌以外にもまだまだある。また第II章「水の愛撫」の冒頭には、「おほぞらの月のひかりしきよければ影見し水ぞまづこほりける」という『古今集』の歌が引用されていて、作者の月に寄せる思いが感じられる。六首目の豆名月と栗名月はどちらも陰暦9月13日の月をさすらしい。
尾崎の歌に詠まれた月は、王朝和歌の花鳥風月の月を思わせつつも、そこには個人的な思い入れがあるように感じられる。それは三首目に見られるように、繊月や細い三日月が夜空が負った傷口のように見えるという見立てである。それは満月がほとんど詠まれていないことからも察することができる。夜空に開いた傷は神戸の街が震災で負った傷とも取れるが、私たちがいやおうなく生きて負う傷と取ることもできよう。四首目に詠まれたあぎとう金魚もstruggle of lifeの隠喩と見ることもできるかもしれない。
本歌集を一読して気づくのは、絵画・彫刻・文学・音楽などの芸術作品に触発されて詠まれた歌が多いということである。
曲線をたもちつつ右のはうへとヴィーナスのしろい胸の骨格
アーモンド形の眸のテッツアーノあの肌色の白いほてりを
愚かとふ貴い徳のものがたり潤一郎の「細雪」には
L’Arc~en~Cielのゆらぎの声の網貂明朝の文字の妖しさ
ころがってゆくビー玉を追ひかけてシューベルトの「鱒」のメロディーの揺れ
愛はうしろに沈む誰かのかなしみを浴び花ひらくクリムトの絵も
なだめては歪みのなかにぜつぼうをエゴン・シーレの枯れた向日葵
手弱女としろき光の波のゆれ緑の日傘モネのよろこび
青空に沁みる紫陽花ヴィスコンティ「ヴェニスに死す」の蒼い感傷
一首目はルーブル美術館を訪れた折の歌だろう。右へ回って鑑賞する〈私〉の動きが折り込まれている。見ているのはもちろんミロのヴィーナスだ。二首目のテッツィアーノはヴェネチア派の画家で、官能的な色使いが特徴。ヴェネチア派の絵画は日本ではほとんど見ることができないのが残念だ。四首目の貂明朝は、パソコンソフトで有名なAdobe社のタイポデザイナーの西塚涼子がデザインした字体である。字体のくねりとロックバンドL’Arc~en~Cielのボーカルの怪しい声のうねりを重ねている。五首目はシューベルト作曲のピアノ五重奏『鱒』の弾けるようなピアノの音を転がるビー玉に喩えた歌。六首目はウィーンで活躍した死と性愛の画家クリムト、七首目は少し年下で痙攣するような自意識の美を描いた画家のエゴン・シーレを詠んだもの。一昨年、東京都美術館でエゴン・シーレ展が開催されて日本でも人気が高まっている。八首目はモネの「日傘をさす女」の絵が題材で、九首目はヴィスコンティの名作映画『ヴェニスに死す』だ。ダーク・ボガードの演技とマーラーの交響曲が印象的だった。
絵画などの芸術作品を題材として歌を詠むのはなかなか難しい。しかしクリムトやシーレの歌は作品世界に入り込んで成功している例だろう。尾崎の師の塚本邦雄も芸術作品に題を得た短歌をよく作っており、シャンソンを論じた『薔薇色のゴリラ』(1975年、人文書院)という本まであるくらいだ。尾崎の短歌にも掌編小説のような味わいがある。固有名を短歌に詠み込むと、固有名から立ち上る濃密な意味世界を召喚することになる。詳しくは本コラムの「固有名の歌」を見られたい。
指先は雛のこころのうらがはをなぞりつつはなびらのかたちに
白い足首のつめたさ擦れ違ふくれなゐの濃きペディキュアの爪
水なき空のみづを含んでゆれてゐる靄ふかく青空は遠くて
甦るいのちであれば玉蜻(たまかぎる)ほのかはぢらふくれなゐの芽は
なきがらは流れるままにアスファルトゆらめきに蟬の声のとろけて
右の眼にこれから先の愁ひなど左眼は過ぎた日日のゆらぎを
本歌集の中で一番長く立ち止まった歌を引いた。これらの歌には第一歌集『微熱海域』以来よく見られる、定型を危うく外れそうになりながら、ぎりぎりの所で留まる韻律の揺れがあり、それが尾崎の短歌の魅力となっている。
最後に一点だけ。第I章の最後の連作の題名が「白傷きらめく」となっているが、二首目は「まどろみをさそふ電車の窓の海の自傷きらめく傷跡の波」で、「白傷」と「自傷」とで漢字か違っている。「白傷」という言葉は聞き慣れないので、おそらく「自傷」のまちがいではないかと思うが、目次も「白傷」となっているのでわからない。