190:2007年2月 第4週 本多忠義
または、意味の陰圧により外部へとつながる歌

この世には善はないって言い切った
     きみの口からこぼれるアイス
          本多忠義『禁忌色』

 「禁忌色」という単語は広辞苑に採用されていないが、一般にはふたつの意味で使われているようだ。ひとつは美術の分野で「混ぜ合わせると濁った汚い色になるので避けるべき色の組み合わせ」という意味で、もうひとつは古代に身分の高い人だけが身につけることができ、身分の低い人には禁じられていた衣服の色という意味である。後者は「禁色」として辞書に収録され、三島由紀夫の小説の題名にもなった。本多忠義の歌集の題名は、「泣きながら夢を見ていたあの空が混ぜてはいけない色に変わって」という歌があるので、前者の意味で使われているのだろう。「禁忌」とはタブーのことであり、「犯してはならないもの」「触れてはならないもの」である。その根底には「畏れ」の感覚が横たわっている。本多の歌集にもまた畏れの感覚が溢れているが、それはおそらく生への畏れなのだろう。

 本多忠義は1974年 (昭和49年) 生まれで歌誌「かばん」に所属している。養護学校の教員をしている人だという。もともと詩を書いていた人らしく、二冊の詩集があるようだ。『禁忌色』は2005年に刊行された本多の第一歌集で、解説を「かばん」の先輩である東直子が書いている。「かばん」は「詩歌」に所属していた中山明らが、前田透の突然の事故死により「詩歌」が解散した後に創刊した同人誌である。前田夕暮・前田透の系譜を引くので、もともと口語律・自由律に親和性がある。そんな「かばん」に拠る本多の短歌は定型の枠は守っているが、ほぼ完全な口語短歌となっている。

 冬が来る前にいつかの坂道であなたに触れて僕は壊れた

 ありふれた激しい雨に邪魔されて口笛はまた「レミ」でかすれる

 何色の雲なのだろう夕暮れに遠く泣きだす声が聞こえる

 ブランコもうんていも同じ水色に塗り直されている夏休み

 標的を外れた孤独な弾丸が行くあてもなく刻む夕凪

 もう二度と子供の産めない君を抱く世界は思ったよりも静かで

 花びらが何枚あるか数えてるきみに解(ほど)かれてゆく春の日

 本多の描く歌の世界は静かな喪失感に満ちている。一首目の結句の「壊れた」が象徴する世界がどこかで壊れてゆく感覚、二首目の初句「ありふれた」が物語る世界のフラット感、四首目の「水色」が志向する透明で純粋なものへの希求、こういったものが会話調に接近する口語脈に載せて詠われている。この喪失感やフラット感覚は、90年代以降に短歌シーンに登場した若い作者に共通して見られる。この感覚は口語脈にとても載りやすく、逆に文語脈では表現しにくい。現代の口語短歌において静かな喪失感やフラット感覚が詠われることが多いのは、団塊ジュニア世代以降の人たちのあいだでこのような感覚が共有されているという世代論的背景もあるだろうが、口語脈の選択という方法論による部分もあるのではないだろうか。

 本多の短歌をきっかけに口語短歌の問題を考えてみたい。「口語の短歌はどこか間延びしたものになりがちだが、その弊を免れる方法の一つに〈ねぢれ〉の導入があるだらう。ねぢれは、言葉の組織にアクセントを与へる有効な破格表現である」と高野公彦は述べている (『うたの前線』)。この言葉を引用した加藤治郎は、「こでまりをゆさゆさ咲かす部屋だからソファにスカートあふれさせておく」という江戸雪の歌を引いて、この歌が醸し出す柔らかいエロスは「あふれさせておく」という微妙な修辞にあり、高野の言うねぢれというよりゆるやかな撓みだとした(『短歌レトリック入門』)。「ねぢれ」や「アクセント」や「撓み」は、自然な言葉の流れを塞き止めて方向を変える修辞を様々に表現したものである。

 31音の定型詩である短歌において韻律を重んじるならば文語に軍配が上がる。おなじ「背」でも「せ」「せな」「そびら」と複数の読みが可能で韻律に載せやすい。音数調整が自在にできるからである。また現代語の大きな欠点は文末表現の乏しさで、下手をすると「学校へ行った」「弁当を食べた」のように「~た」が連続する小学生のような文章になってしまう。その点、文語には「き」「けり」「ぬ」など1音節か2音節の助動詞が豊富にあり、文末終止の多彩さにおいても現代語より優れている。したがって韻律を重視し凝集力のある歌をめざすのなら、どうしても文語脈を選択することになる。高野が「口語の短歌はどこか間延びしたものになりがちだ」と述べたのは、このような事情をさしている。それゆえ口語脈を選ぶならば、一首が屹立するような凝集力のある歌ではなく、フラットに歌の外部へとつながっているような余白感のある歌をめざすことになるのは当然の成り行きなのである。

 魚(うを)食めば魚の墓なるひとの身か手向くるごとくくちづけにけり  水原紫苑

 もういくの、もういくのってきいている縮んだ海に椅子をうかべて  東 直子

 一例を挙げたが、一首の独立性では抜きんでている水原の歌と並べてみれば、東の口語脈の歌は意味的欠落は明白だろう。「もういくのってきいている」のが誰であるのか、誰が「もういく」のかは語られないまま余白へと落ちてゆく。また「縮んだ海」が何かの喩であるとしても、それを解明する鍵は隠されている。どこからともなく声が聞こえて来て、それがある情感を醸し出している、そのような作りになっているのである。このような作り方は、修辞的には「意味の陰圧」の技法によっていると言えるだろう。「陰圧」とは、密閉された容器の外部より内部の圧力が低い状態をいう。内圧の低さが圧力が補填されることを求める吸引装置となり、容器に小さな穴があいたら外部から空気が流れ込むのである。東の歌に見られる意味の空白感覚はこのようにして生まれる。本多の歌にも同じような意味の陰圧が観察される。

 ポケットで震えはじめる携帯が教える後戻りはできないって

 真夜中のチェーン着脱場でしか取り交わせない約束がある 

 1首目の「後戻りはできない」がいったいどのような状況をさすのか不明であり、また「真夜中のチェーン着脱場でしか取り交わせない約束」もある切迫した感じは伝わるものの、その内実は語られていない。読者は「ある感じ」を心に抱いたまま取り残される。このような歌の作り方は、本多がもともと詩を書いていたことと関係があるかもしれない。詩はふつう一行で完結するものではなく、多くの行がまとまってひとつの詩編となる。本多の歌を読んでいると、より大きな詩のなかから一行を切り取って来たようにも見えるのである。このような歌の作り方が口語短歌を豊かにするものなのか、それとも逆の効果をもたらすものなのかはにわかに決めがたい。しかし伝統的な文語脈の短歌の根幹であった内的韻律を解体する方向に向かうことだけは確かだろう。