きたる世も吹かれておらんコリオリの
力にひずむ地球の風に
井辻朱美『コリオリの風』
力にひずむ地球の風に
井辻朱美『コリオリの風』
コリオリ (Coriolis)とは19世紀のフランスの科学者。物理学ではコリオリの力で知られている。コリオリの力とは、本当は自転運動による回転系である地球を、あたかも静止系であるかのように見なすとき働く見かけ上の力をいう。コリオリの力は地球上のすべての物体に働き、極で最大で赤道ではゼロとなる。うんと長い紐に重りをつけて高い天井から吊し、南北方向に振り子運動をさせると、細長く切ったピザのような振り子面は、横方向に力を受けていないのにゆっくりと回転する。これが「フーコーの振り子」であり、コリオリの力を実際に確かめることのできる装置として知られている。ずっと前にTVでこれを利用したいたずらを見たことがある。アフリカの赤道地帯で、赤道から1m北に水を張った洗面器をおき、水の上に細い木切れを浮かべる。すると木切れはゆっくり回転する。今度は赤道から1m南に洗面器を置くと、木切れは逆方向に回転するというものである。確かにコリオリの力は北半球と南半球では逆方向に働くが、赤道付近ではその力はゼロなので、これはもちろん巧妙ないたずらなのである。掲出歌では来世においてもコリオリの力を受けて風が吹くのだろうと詠まれており、このように地球時間という壮大なスケールで世界を見るその見方が井辻の独壇場である。
井辻は1955年(昭和30年)生まれ。東京大学理学部で人類学を学んでいるので、もともとは理系の人であり、歌のなかで自然史や古生物学や遺伝学などの用語が頻出するのは、この経歴に由来する。大学院は教養学部の比較文学科に進学しており、私と同様いわゆる「文転」をしていることになる。ちなみに文科系から理科系への転身は稀なため、これと対になるべき「理転」という言葉はない。1978年に「水の中のフリュート」で短歌研究新人賞受賞。「かばん」を活動の場としており、第一歌集『地球追放』以下現在までに5冊の歌集がある。また井辻はファンタジーの作歌・翻訳家としても知られていて、現在は白百合女子大学児童文学科の教員でもある。
私事で恐縮だが、『コリオリの風』は私が初めて買った歌集なので記憶が鮮明だ。当時私には本の購入年月日を書き込んでおくという習慣があった。書き込みによれば、『コリオリの風』を買ったのは1993年5月11日である。初版が同年の1月11日だから、初版が世に出てちょうど4ケ月目に買い求めたことになる。京都の丸善書店で購入し、その足で三条堺町のイノダコーヒーに行き、レトロ感溢れる店内で香り高いコーヒーを飲みながら読み始めたことをよく覚えている。
『コリオリの風』は河出書房新社刊行の「〔同時代〕の女性歌集」シリーズの一巻であり、このシリーズでは干場しおり『天使がきらり』、俵万智『かぜのてのひら』、早坂類『風の吹く日にベランダにいる』などが出版されている。「〔同時代〕の女性歌集」と銘打ったのは、明らかに1987年のサラダ現象を意識してのことだろう。そのころは女性歌人による口語短歌が歌壇内部のみならず、広く一般社会の注目を浴びたので、大手出版社でこのような企画が立てられたものと思われる。このような企画自体が今から見れば隔世の感があるが、シリーズに納められた歌集に一貫して流れるライトな感覚も、時代の空気を反映している。
さて井辻の歌だが、上にもすでに述べたように、空間的には地球を遙かに超えた宇宙空間を舞台とし、時間的にはジュラ紀から現代を通り越して遙か未来にまで拡がるという、実に壮大なスケールで展開する。
杳(とお)い世のイクチオステガからわれにきらめきて来るDNAの破片 『コリオリの風』
瑠璃紺の始祖鳥の胸かがやきて宇宙空間に降れるこなゆき
あかつきの星メアリー西風に吹かれていくたび地球をめぐる
シリウスをわが星となしたるはじめより帆柱の上に凍れるつらら
次の歌の舞台は現実の世界ではなく、ファンタジーの王国である。
われもまた異土の木の卓打ちながら来む世の綺羅のものがたりせむ 『水晶散歩』
〈嗚呼エアレンデルあかるき天使〉かの世より隔世遺伝のことばをつたふ
しっくい壁に黒き木骨が食いこみてルーン文字のごときに夕映え
夏の緒のごとき長髪なびかせて嵐が丘をおりくるたましひ
管見の限りでは井辻の短歌が短歌界で取り上げられ批評されることは少ないが、それは結社系歌人ではなく同人誌に拠っているからとか、ファンタジー作家と二足のわらじを履いているからなどというつまらない理由からではなく、井辻の短歌が批評しにくいからだろう。岡井隆は『現代百人一首』(朝日出版社)で井辻を取り上げて、その歌の近づきにくさは「ファンタジー小説とよく似た自閉的な完結感」から来ると断じている。確かにその通りで、井辻の作る歌の世界は作者の〈私〉からも読者の私からも遠い白鳥座のかなたにあり、美術館の壁に飾られた一幅の絵画を遠くから鑑賞するごとくに味わうしかなく、読者の側から歌の中に感情移入したり、歌の中に作者の〈私〉を見いだして共感したりという読み方が不可能なのである。
たとえば次のような近代短歌の文脈内で作られた歌と較べてみれば、そのちがいは一目瞭然である。
あせるごと友は娶りき背より射す光に傘の内あらはなり 小野茂樹
しぐれ降る夜半に思へば地球といふわが棲む蒼き水球かなし 島田修二
小野の歌には、自分より先に結婚した友人を前にしての心の動揺と、傘の内すなわち心の中が露わになる含羞を自覚する〈私〉が確かにいて、読者は反発するにせよ共感するにせよ、歌に顕れた〈私〉との心理的距離を測らざるをえない。島田の歌はもっと直接的訴えを含んでいて、しぐれの降りしきる夜半の孤独な物思いから浮かび上がるのは暗い想念に沈む中年の〈私〉である。このように「近代短歌は自己の表現である」というテーゼが有効な歌においては、〈私〉の位置取りや世界に対する距離や、それを短歌に組み上げてゆく技法などが、短歌的批評の対象となる。しかしすでに述べたように、井辻の歌にはこのような短歌と〈私〉との関係性が不在であるため、近代短歌のテーゼを前提とした批評が不可能なのである。
このことは井辻の歌の作り方にも反映している。一例をあげると、「いづくなるカカオの色の手のために水よりのぼる蓮の王笏」に代表されるように、上句と下句とがなめらかに連続して一首をなしており、上句と下句とが対立し反照し合うということがない。短歌の語法が「問と答の合わせ鏡」(永田和宏)であり、「事物の叙述と心情の叙述の対応の中から世界を一回性の意味によって屹立させる」(三枝昂之)ことを目標とするのなら、歌をふたつの区分する「切れ」がなくてはならない。しかるに井辻の歌には上に見たように「切れ」がなく、一首全体があたかも一幅の絵であるかのように我々の前に提示されている。このため〈私〉という隘路を辿って歌の中に入り込むことができず、「近づきにくい」という印象を与えるのだろう。入れる人はスッと入れるのだろうが、入れない人は永遠に接近を拒まれる。そのような構造になっていると思われる。
もうひとつ歌集を通読して気づくのは、井辻の作品世界に変化がないことである。第一歌集『地球追放』から第五歌集『水晶散歩』に至るまで、次に挙げた抽出歌が示しているように、実に一貫していて揺るぎがない。
宇宙船に裂かるる風のくらき色しづかに機械(メカ)はうたひつつつあり 『地球追放』
竜骨という名なつかしいずれの世に船と呼ばれて海にかえらむ 『水族』
水球にただよう子エビも水草もわたくしにいたるみちすじであった 『吟遊詩人』
アキテーヌはまだ見ぬ故郷いくたびか森ふきぬけし藍のたましい 『コリオリの風』
ゆたゆたと泡盛りあがるグリーンティー宇宙樹より来るみどりの時間 『水晶散歩』
歌人の歩みは歌集ごとに異なった趣を見せるのがふつうであり、なかには小池光のように初期歌集の世界を自分の手で壊してしまい、その瓦礫のなかから新たな世界を拓こうとする人もいる。井辻の作品世界に目立った変化が訪れないのは、作者が現実世界の住人であるよりは、ファンタジーの世界の住人であるためだろう。ファンタジーの世界は想像力が作り出した世界であり、鉱物結晶のように硬く閉ざされていて経年変化せず劣化することもない。想像力は時間の腐食を受けないのだ。
しかし、と私は考えてしまう。ダイヤモンドの結晶のように腐食劣化しないということは、それ以上深化することもないということだ。私たちは現実の出来事に出会い傷つき、別れや挫折を経験して、たましいの奥行きが深くなる。その深化は短歌に反映されるはずだ。また、縁起でもないことを言うようで恐縮だが、結晶世界にもやがては死の影がさす。古代の箴言の言うごとく「われアルカディアにもあり」である。そのときもなお井辻は〈私〉の不在の歌を作り続けるのだろうか。井辻が次のような絶唱を作るときは訪れるのだろうか。
今しばし死までの時間あるごとくこの世にあはれ花の咲く駅 小中英之
飲むみづの身にあまくしてたましひはいづくみ山のいづみさまよふ 上田三四二
生きがたき此の生の果てに桃植ゑて死も明かうせむそのはなざかり 岡井 隆
いや、それまでは井辻の繰り広げる硬質であくまで透明なかなたの世界を楽しんでおくことにしよう。最後に井辻の想像力がツボにはまったときに生まれる美しい歌をいくつかあげておこう。
大唇犀(だいしんさい)しずかに足を曲げるとき松花江(スンガリ)の水つめたかりけり
ビッグバンの光ほろほろ海に降りぼくらは終わりだけを待っていた
一本の樹木が水を吸い上げて空となるべく鳴りはじめたり
中国の茶器の白さが浮かぶ闇ここ出でていづれの煉獄の門
オルゴールがかなでるときはどの曲もたましひばかりの終(つひ)のかがやき
井辻は1955年(昭和30年)生まれ。東京大学理学部で人類学を学んでいるので、もともとは理系の人であり、歌のなかで自然史や古生物学や遺伝学などの用語が頻出するのは、この経歴に由来する。大学院は教養学部の比較文学科に進学しており、私と同様いわゆる「文転」をしていることになる。ちなみに文科系から理科系への転身は稀なため、これと対になるべき「理転」という言葉はない。1978年に「水の中のフリュート」で短歌研究新人賞受賞。「かばん」を活動の場としており、第一歌集『地球追放』以下現在までに5冊の歌集がある。また井辻はファンタジーの作歌・翻訳家としても知られていて、現在は白百合女子大学児童文学科の教員でもある。
私事で恐縮だが、『コリオリの風』は私が初めて買った歌集なので記憶が鮮明だ。当時私には本の購入年月日を書き込んでおくという習慣があった。書き込みによれば、『コリオリの風』を買ったのは1993年5月11日である。初版が同年の1月11日だから、初版が世に出てちょうど4ケ月目に買い求めたことになる。京都の丸善書店で購入し、その足で三条堺町のイノダコーヒーに行き、レトロ感溢れる店内で香り高いコーヒーを飲みながら読み始めたことをよく覚えている。
『コリオリの風』は河出書房新社刊行の「〔同時代〕の女性歌集」シリーズの一巻であり、このシリーズでは干場しおり『天使がきらり』、俵万智『かぜのてのひら』、早坂類『風の吹く日にベランダにいる』などが出版されている。「〔同時代〕の女性歌集」と銘打ったのは、明らかに1987年のサラダ現象を意識してのことだろう。そのころは女性歌人による口語短歌が歌壇内部のみならず、広く一般社会の注目を浴びたので、大手出版社でこのような企画が立てられたものと思われる。このような企画自体が今から見れば隔世の感があるが、シリーズに納められた歌集に一貫して流れるライトな感覚も、時代の空気を反映している。
さて井辻の歌だが、上にもすでに述べたように、空間的には地球を遙かに超えた宇宙空間を舞台とし、時間的にはジュラ紀から現代を通り越して遙か未来にまで拡がるという、実に壮大なスケールで展開する。
杳(とお)い世のイクチオステガからわれにきらめきて来るDNAの破片 『コリオリの風』
瑠璃紺の始祖鳥の胸かがやきて宇宙空間に降れるこなゆき
あかつきの星メアリー西風に吹かれていくたび地球をめぐる
シリウスをわが星となしたるはじめより帆柱の上に凍れるつらら
次の歌の舞台は現実の世界ではなく、ファンタジーの王国である。
われもまた異土の木の卓打ちながら来む世の綺羅のものがたりせむ 『水晶散歩』
〈嗚呼エアレンデルあかるき天使〉かの世より隔世遺伝のことばをつたふ
しっくい壁に黒き木骨が食いこみてルーン文字のごときに夕映え
夏の緒のごとき長髪なびかせて嵐が丘をおりくるたましひ
管見の限りでは井辻の短歌が短歌界で取り上げられ批評されることは少ないが、それは結社系歌人ではなく同人誌に拠っているからとか、ファンタジー作家と二足のわらじを履いているからなどというつまらない理由からではなく、井辻の短歌が批評しにくいからだろう。岡井隆は『現代百人一首』(朝日出版社)で井辻を取り上げて、その歌の近づきにくさは「ファンタジー小説とよく似た自閉的な完結感」から来ると断じている。確かにその通りで、井辻の作る歌の世界は作者の〈私〉からも読者の私からも遠い白鳥座のかなたにあり、美術館の壁に飾られた一幅の絵画を遠くから鑑賞するごとくに味わうしかなく、読者の側から歌の中に感情移入したり、歌の中に作者の〈私〉を見いだして共感したりという読み方が不可能なのである。
たとえば次のような近代短歌の文脈内で作られた歌と較べてみれば、そのちがいは一目瞭然である。
あせるごと友は娶りき背より射す光に傘の内あらはなり 小野茂樹
しぐれ降る夜半に思へば地球といふわが棲む蒼き水球かなし 島田修二
小野の歌には、自分より先に結婚した友人を前にしての心の動揺と、傘の内すなわち心の中が露わになる含羞を自覚する〈私〉が確かにいて、読者は反発するにせよ共感するにせよ、歌に顕れた〈私〉との心理的距離を測らざるをえない。島田の歌はもっと直接的訴えを含んでいて、しぐれの降りしきる夜半の孤独な物思いから浮かび上がるのは暗い想念に沈む中年の〈私〉である。このように「近代短歌は自己の表現である」というテーゼが有効な歌においては、〈私〉の位置取りや世界に対する距離や、それを短歌に組み上げてゆく技法などが、短歌的批評の対象となる。しかしすでに述べたように、井辻の歌にはこのような短歌と〈私〉との関係性が不在であるため、近代短歌のテーゼを前提とした批評が不可能なのである。
このことは井辻の歌の作り方にも反映している。一例をあげると、「いづくなるカカオの色の手のために水よりのぼる蓮の王笏」に代表されるように、上句と下句とがなめらかに連続して一首をなしており、上句と下句とが対立し反照し合うということがない。短歌の語法が「問と答の合わせ鏡」(永田和宏)であり、「事物の叙述と心情の叙述の対応の中から世界を一回性の意味によって屹立させる」(三枝昂之)ことを目標とするのなら、歌をふたつの区分する「切れ」がなくてはならない。しかるに井辻の歌には上に見たように「切れ」がなく、一首全体があたかも一幅の絵であるかのように我々の前に提示されている。このため〈私〉という隘路を辿って歌の中に入り込むことができず、「近づきにくい」という印象を与えるのだろう。入れる人はスッと入れるのだろうが、入れない人は永遠に接近を拒まれる。そのような構造になっていると思われる。
もうひとつ歌集を通読して気づくのは、井辻の作品世界に変化がないことである。第一歌集『地球追放』から第五歌集『水晶散歩』に至るまで、次に挙げた抽出歌が示しているように、実に一貫していて揺るぎがない。
宇宙船に裂かるる風のくらき色しづかに機械(メカ)はうたひつつつあり 『地球追放』
竜骨という名なつかしいずれの世に船と呼ばれて海にかえらむ 『水族』
水球にただよう子エビも水草もわたくしにいたるみちすじであった 『吟遊詩人』
アキテーヌはまだ見ぬ故郷いくたびか森ふきぬけし藍のたましい 『コリオリの風』
ゆたゆたと泡盛りあがるグリーンティー宇宙樹より来るみどりの時間 『水晶散歩』
歌人の歩みは歌集ごとに異なった趣を見せるのがふつうであり、なかには小池光のように初期歌集の世界を自分の手で壊してしまい、その瓦礫のなかから新たな世界を拓こうとする人もいる。井辻の作品世界に目立った変化が訪れないのは、作者が現実世界の住人であるよりは、ファンタジーの世界の住人であるためだろう。ファンタジーの世界は想像力が作り出した世界であり、鉱物結晶のように硬く閉ざされていて経年変化せず劣化することもない。想像力は時間の腐食を受けないのだ。
しかし、と私は考えてしまう。ダイヤモンドの結晶のように腐食劣化しないということは、それ以上深化することもないということだ。私たちは現実の出来事に出会い傷つき、別れや挫折を経験して、たましいの奥行きが深くなる。その深化は短歌に反映されるはずだ。また、縁起でもないことを言うようで恐縮だが、結晶世界にもやがては死の影がさす。古代の箴言の言うごとく「われアルカディアにもあり」である。そのときもなお井辻は〈私〉の不在の歌を作り続けるのだろうか。井辻が次のような絶唱を作るときは訪れるのだろうか。
今しばし死までの時間あるごとくこの世にあはれ花の咲く駅 小中英之
飲むみづの身にあまくしてたましひはいづくみ山のいづみさまよふ 上田三四二
生きがたき此の生の果てに桃植ゑて死も明かうせむそのはなざかり 岡井 隆
いや、それまでは井辻の繰り広げる硬質であくまで透明なかなたの世界を楽しんでおくことにしよう。最後に井辻の想像力がツボにはまったときに生まれる美しい歌をいくつかあげておこう。
大唇犀(だいしんさい)しずかに足を曲げるとき松花江(スンガリ)の水つめたかりけり
ビッグバンの光ほろほろ海に降りぼくらは終わりだけを待っていた
一本の樹木が水を吸い上げて空となるべく鳴りはじめたり
中国の茶器の白さが浮かぶ闇ここ出でていづれの煉獄の門
オルゴールがかなでるときはどの曲もたましひばかりの終(つひ)のかがやき