東京の坂

坂歩き事始め

 もうずいぶん前になるが、東京大学文学部に集中講義に招かれ、一週間滞在した。本郷の東大構内の三四郎池のほとりに山上さんじょう会館というゲストハウスがある。ここに宿泊した。講義が4時半くらいに終わると、あとは暇である。そんなわけで、本郷界隈を歩き回るようになった。散歩を始めて、すぐに本郷界隈には坂が多く、坂にはだいたい名前が付けられていることに気づいた。それ以来、東京の坂を歩くのがおもしろくなり、ここ数年暇を見つけては歩き続けている。

新坂
菊坂下の交差点

 地下鉄丸の内線を本郷三丁目で降りて、三丁目交差点を渡ったところに、文泉堂という書店がある(注 : しばらく前に閉店して現在はもうない)。この書店が発行主体である「四季 本郷」という地域誌をここで見つけた。地域誌だけあって、本郷管内の歴史や地名の由来など異常に詳しい。この地域誌は町歩きの恰好のガイドブックとなった。この本によると、文京区には106の坂があるという。もう一冊私のガイドブックとなった本がある。地域誌『谷根千』発行主幹森まゆみの『鴎外の坂』(新潮文庫)である。鴎外の生涯とその周辺の女性を、転居を繰り返した鴎外の住居近くにある坂をキーワードに描いた本である。地元出身の著者が、現場をたんねんに歩いて書いているので、散歩の手引きとしても利用できる。

 本郷のある文京区は、武蔵野台地の南東の端にあたる。武蔵野台地は北西方向から、指を広げた手のようなかたちをしている。指にあたるのが尾根筋、指と指のあいだが谷筋である。尾根筋にあたる部分には「~台地」という名前がつけられている。西から、関口台地、小日向台地、白山台地、本郷台地の順に並んでいる。本郷台地の上に現在の東大があるが、この場所はもともと加賀百万石の前田家の江戸上屋敷である。やはり殿様は台地の坂の上に屋敷を構えるのだ。

 

本郷の昔ながらの宿 鳳明館
下宿屋の風情を残す本郷館

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

菊坂の怪

東大前の見送り坂

 本郷三丁目交差点から北の本郷通は、見送り坂と呼ばれていて、ゆるやかな登りになっている。名前の由来は、江戸を出る人を見送ったからとされている。このあたりが昔の江戸の町の北限ということか。交差点から本郷通を少し北に行ったところから、左手に下る坂が菊坂である。本郷界隈で最も有名な坂だろう。

何の変哲もない菊坂入り口

 私は最初にこの坂を下ったとき、アスファルト舗装された道の両側に飲食店や酒屋などが並んでいる、そのあまりに何の変哲もない坂の様子にがっかりした。坂の途中にある、樋口一葉が通った質屋伊勢屋の建物がかすかに明治の風情を今に伝えているが、それを除けば何の風情もない。ところが、坂を下まで下りて、もう一度逆方向に登ろうとしたとき、あることに気が付いた。坂の途中から狭い横道に右に折れると、たった今降りてきた坂道と平行して、も

う一本の坂道があったのである。なんと菊坂は、二本あっ

菊坂下道 もとは川だったらしい

たのだ !  こちらの坂道は、ずっと狭く両側には東京の下町という感じの、いかにも古そうな民家が建ち並び、共同井戸があって、野良猫が闊歩している。これこそ東京の坂である。私はすっかりうれしくなってしまった。

 業務用自転車の荷台に、木でできた魚のトロ箱をのせた、いかにも下町の住人という風情の男の人をつかまえて、事の次第をたずねてみて、次のような事がわかった。確かに菊坂は二本あるのである。住人は「上の道」「下の道」と呼んでいるらしい。下の道の方は、もとは水の流れ

菊坂の上道と下道を結ぶ階段

る小川だったそうで、いつの時代かに埋め立てたものと思われる。そういえば、いかにも低地で日当たりが悪そうだ。この下の道の一画に、樋口一葉の旧居跡と、一葉の井戸が残っている。長屋風の路地を入った奥にあり、一葉の旧居は路地から階段を少し上ったあたりにあった。この風景は、関川夏央原作、谷口ジロー画のマンガ『明治流星雨』にもそっくりそのまま描かれている。

 

 

 

樋口一葉旧宅(階段を上がって左)
一葉の井戸

 この道には、宮沢賢治旧居跡の表示もあった。本郷界隈には、この他にも石川啄木、金田一京助、坪内逍遙など、多くの文人が住んでいる。菊坂そのものが、本郷台地にできた谷筋で、一段低くなっているので、菊坂を出発点とする坂がたくさんある。菊坂下から上って行くと、すぐ左手の胸突き坂をはじめとして、鐙坂、梨の木坂、炭

胸突き坂

団坂、本妙寺坂と続いている。この日は雨だったので、写真の写りは悪いが、しっとりと濡れた下町の風情はなかなかよい。なぜか下町には雨が似合うようだ。

鐙 坂

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東大裏の暗闇坂

 東大の正門を入って、まっすぐ進むと安田講堂がある。講堂の左をそのまま進むと、裏門の弥生門に至る。弥生式土器が最初に発掘された所である。門を出たすぐの所に、立原道造記念館がある。角川書店版の立原道造全集全五巻を高校時代に読破した私としては、通り過ぎるわけにはいかない。展示を見ていると、なつかしいような甘酸っぱい気持ちになった。今の人はもう立原道造のような甘い詩は読まないだろう。いや、そもそも詩など読まないのかもしれない。

今ではからっと明るい暗闇坂

 記念館のある道は言問通から南東方向に伸びて、東大の裏側をぐるっと回り、本郷台地を下って不忍池西岸の池之端に至る。この道は暗闇坂と呼ばれている。実はすぐ近所に同じ名前の坂がある。不忍池の東岸、上野公園下から鴎外ゆかりの水月ホテルを左に見て、東京芸大方向に上野の山を上って行く坂も、暗闇坂と呼ばれている。坂の名前は、近所の人がいつとは知れずそう呼び始めたものであり、正式に地名ではないので、同じ名前の坂が複数あってもおかしくない。

 立原道造記念館から言問通に出て、北東方向に下る坂が弥生坂である。下った先は、根津の谷筋である。その途中の小道を左に折れて、すぐもう一度左に折れると、異人坂に行き当たる。この坂の上に、明治時代の東京帝国大学時代、お雇い外人として東大に招聘された外国人のための官舎があったところから、異人坂の名がついたそうだ。坂の上には、向が岡寮という東大の学生寮があるが、そのあたりに官舎があったのだろうか。現在の向が岡寮は、昼なお暗いほどに木々がうっそうと茂り、朽ちかけた木造の寮の建物が木に隠れている。すれちがった二人連れの女性が、「ここ人が住んでいるの」と言いながら通り過ぎていった。寮を過ぎて北に行くと、通称お化け階段に行き当たる。降り口に、誰が掲げたのか段ボールにマジックで書いた札が下がっていた。こう書かれていた。

お化け階段を上から見る
お化け階段を下から見る

「弥生町名所 お化け階段下から40段 上からn段 諸説あり 山の手の終点地」

 上って数えた段数と下ったときのがちがうということだろう。これがお化け階段の名前の由来か。「山の手の終点地」という文句が、坂や階段の「境界」としての性格をよく示している。わくわくしながら、狭い急な階段を下まで下りる(注 : いつのことか、階段周辺は整備拡張されてしまい、わくわく感はなくなってしまった)。すると建物の造りが、一転して下町という風情になるから不思議である。さらにしばらく行くと、根津神社に至る。水の豊富なツツジの庭園があり、ここで一服する。根津神社の正門から西に続くのが新

根津神社横の新坂

坂である。地図では権現坂と表記されている。この坂は、森鴎外の小説『青年』で、「Sの字をぞんざいに書いたように屈曲している」と書かれたことから、S坂ともよばれている。坂の名前は通称なので、ひとつの坂にいくつもの名前がついているのだろう。

 

三崎坂から谷中へ

 根津神社を通り抜けて、裏手に出るとそこは根津裏門坂である。左に上ると、本郷通りに出る。夏目漱石旧宅跡があるらしいが、ここは右手に折れて、坂を下る。下りきった所は、千駄木二丁目交差点である。ここから不忍通を北に向かう。しばらく歩いて、団子坂下から左に上ると、そこは傾斜の強い団子坂で、上り切ったところに、森鴎外の旧宅観潮楼が記念図書館になっている。ここは前に見たのでパスして、団子坂下から逆方向の三崎坂さんさきざかを上る。このあたりはもう谷中で、付近には寺がたくさんあり、道の両側も煎餅屋、千代紙屋など、江戸情緒を感じさせる店が多い。坂を上り切って、谷中墓地に出る。このあたり、古い民家を改装したギャラリーとか、廃業した銭湯を使ったギャラリーなどがあり、ちょっとしたアート地区である。いかにも古そうな小さな中華料理店の店先で、愛玉子という看板を見た。オーギョーチーと読むらしい。ものの本によると、台湾に自生する桑科の植物で、その木の実から作った寒天のような食べ物のこともいうとある。あとで人に聞くと、年輩の人にはなつかしい食べ物のようだ。

 

無縁坂

 不忍池の西側、池之端には三菱財閥当主岩崎弥太郎のの広壮な邸宅があった。現在は、敷地の一画が池之端文化センターに、他の一画は最高裁司法研修所のコンクリートの建物に挟まれていて、往事の面影はない。こんな歴史的建築が残っている場所のすぐ隣に、無粋なコンクリートの建物を建てる神経は理解できない。

 岩崎家邸宅のうち現存しているのは、洋館の本館、和風の離れ、ビリヤード室の三つにすぎない。本館とビリヤード室が、コンドルの設計である。本館は現在、内部を修復中で見学はできない(現在は整備が終了して内部を見学できる)。岩崎家跡を出て、北に向かう。岩崎邸の立派な石垣が左手にずっと続いている。ひとつめの角を左に曲がると、無縁坂である。坂

無縁坂

の名前には、独特の風情を持つものが多いが、なかでも無縁坂は印象に残る名前である。男女の関係を思わせるが、仏教の臭いもする。坂の上にかつて無縁山法界寺というお寺があったのが、名前の由来らしい。そういえば、さだまさしの唄に「無縁坂」というのがあった。「忍ぶ不忍無縁坂 かみしめるような ささやかな僕の母の人生」という薄幸の母を唄った唄だった。

 無縁坂は「日本国語大辞典」にも載っている有名な坂である。それはひとえに、森鴎外の『雁』の重要な舞台として描かれたからである。この坂の上から三軒目の格子戸の家に、高利貸の末造の妾であるお玉という女性が住んでいる。お玉はこの坂を散歩する東大の医学生岡田に惹かれるが、岡田は洋行し、お玉の願いは実らずに終わるという小説である。舞台の無縁坂という名前が、悲恋に終わる結末を予告している。このあたりは戦災を受けなかったので、戦後も格子窓の古い造りの住宅が残っていたようだが、現在では岩崎邸の側には赤レンガ色のマンションが建っていて、小説に描かれたような昔の面影はない。その昔は、坂を上りきったところに、『雁』の主人公岡田がいつも通る東大の「鉄門」があったらしい。今では坂を上った道は何度か折れて、東大の龍岡門に続いている。坂の左手は延々と岩崎邸の石垣が続いていて、人通りも少なく、自分がほんとうに東京のど真ん中にいるのか疑わしくなってくるほど、寂しい坂道である。無縁坂という名が実にふさわしい。

 

岩崎邸とコンドル

 三菱財閥三代目当主の岩崎久彌が、現存する岩崎邸を建設したのは、明治29年である。久彌はこの屋敷で第二次大戦の終戦を迎えた。屋敷はアメリカ軍に接収され、キャノン機関の本拠地になったという説もあるらしい。戦後の財閥解体を機に、屋敷は岩崎家の手を離れた。現存する洋館の本館を設計したのは、ジョサイア・コンドルである。

旧岩崎邸本館
山小屋風の撞球室

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コンドルは明治政府の招聘を受けて明治10年に来日し、工部大学校造家学科(現在の東京大学工学部建築学科)初代教授を明治17年まで勤め、日本の建築学の母と呼ばれた人である。今回ちょっと調べてみて、来日したときコンドルが弱冠24歳だったことを知って驚いた。自分が教授として教えた学生と、それほど歳がちがわなかったことになる。ちなみにコンドルのあとを襲って造家学科教授となったのは、コンドルの一番弟子でのちの東京駅の設計者辰野金吾である。その辰野金吾の子息は、東大仏文科初代教授を勤め、多くの仏文学者を育てた辰野ゆたかその人である。

 コンドルが明治政府と契約していた間に建てた最も有名な建築は、外務卿井上馨の依頼による鹿鳴館であろう。コンドルは鹿鳴館の建築家なのである。しかし、彼は政府との契約が切れたあとも日本に留まって、建築事務所を開き、多くの建築を日本に残した。そのなかには神田のニコライ堂もあるが、建築事務所時代の最大の注文主が、三菱財閥の岩崎久彌なのである。コンドルは三菱家の建築家でもあったのだ。さて、岩崎邸の本館であるが、木造ジャコビアン様式と解説されている。ジャコビアン様式とは何か。ものの本によれぱ、イギリスの17世紀初頭、ジェームズ一世の治世(1603-1625)に流行したイタリア起源のルネッサンス様式だとある。19世紀イギリスのヴィクトリア朝に、このジャコビアン様式が、貴族のカントリーハウスのスタイルとしてもてはやされた時期があったらしい。ルネッサンス様式は、水平線を強調し左右に伸びる低層の翼と、等間隔に並ぶ窓のリズムが特徴である。コンドルはこの建物が岩崎久彌の私邸であることを考慮して、イギリスの郷士のカントリーハウスのような雰囲気にしたかったのだろう。現在内部は修復中で見学できないが(注 : 現在は内部を見学できる)、雑誌『東京人』19947月号に、建築史家藤森照信の探訪記が豊富な写真とともに掲載されている。写真を見たところ、内部は痛みが激しく、置いてある家具類も当時のものではないという。残念なことである。現在修復中というが、できるだけ往時の姿を忍ばせるような修復をしてもらいたいものだ(注 : 修復は完了して往時の姿に戻っている)。

 建物正面から東に回ると、ガラス張りのサンルームがある。竣工時にはなくあとで増築したらしい。南に回ると、本来ジャコビアン様式にはないテラスが一階にある。一見するとコロニアル様式のようにすら見える。コンドルは西洋様式建築の建築家だが、なぜか日本に建てる建物には、テラス・ベランダが不可欠だと考えていたふしがある。それはひとつには、日本の高温多湿の風土を考慮してのことだろう。もうひとつの可能性は、コンドルの日本・東洋びいきである。若きコンドルは建築修行をしたロンドンで、師のバージェスから日本趣味の洗礼を受けていた。来日して日本人を妻とし、河鍋暁斎に日本画を学んで、イギリスの土を踏むことなく日本で没して護国寺に墓のあるコンドルである。日本建築の縁側を見て、これをぜひ取り入れたいと考えたのかも知れない。

 実はコンドルの東洋趣味は、彼の明治政府の建築家としての失敗の原因となったようだ。現存しない鹿鳴館は、残された写真を見ると、二階のベランダに東洋風の柱があり、ヤシの葉模様のあるインド・イスラム様式を一部取り入れたものになっている。建築史ではその折衷性がすこぶる評判の悪い建物なのである。当時不平等条約改正を国是とし、西欧列強の仲間入りをしようと涙ぐましい舞踏会外交を続けていた明治政府が望んでいたのは、こんな東洋趣味の建物ではなく、バリバリの西洋風の建物だったはずだ。このあたりの事情を知りたい人は、畠山けんじ『鹿鳴館を創った男 お雇い建築家ジョサイア・コンドルの生涯』(河出書房新社)をお読みになるとよい。帯に「世界初のコンドル伝」とあり、読むとなぜ日本の建築学会の母のはずのコンドルが、日本で知名度が低いのかよくわかる。

 

東京大学と京都大学

 東京大学文学部に集中講義に招かれたとき、初めて本郷キャンパスのなかを歩きまわった。自分が働いている京都大学とのちがいにすぐ気がついた。建物の印象がちがうのである。

 東大の法文の古い建物はゴシック様式である。ゴシック様式は中世の教会建築に端を発し、天へ向かう強い精神性を感じさせるが、その反面、人の上にのしかかるようで威圧的でもある。本郷キャンパスの中核をなしているゴシック様式の建物群は、そのルーツをたどるとコンドルに行き着くのである。

東大の法文の建物
堂々たる図書館

 コンドルはさまざまな建築様式を使い分けたが、彼が修行した時代のイギリスは、ヴィクトリア朝でのゴシック・リバイバルのさなかであった。当然ながらコンドルもヴィクトリアン・ゴシック様式を得意としていた。明治政府は工部大学校造家学科教授であったコンドルに、東京大学建物再配置計画を依頼している。現在の東大のゴシック様式の建物群のルーツは、さかのぼればここにあるのである。

 一方、東大に遅れて明治30年(1897)に開学した京都大学の建物が徐々に建設されていった時代は、コンドルなどのお雇い外人の活躍はすでに終わり、その弟子たち日本人が建築家として活動していた時代である。現在記念館として改装中の京大のシンボル的存在である時計台の建物を始めとして(注 : 現在では改装は終了し、記念館として使われている)、京大の建物の多くを設計したのは、大正9年(1920)に創設された京都大学建築学科(現在の工学部建築学科)の初代教授の武田五一(1872-1938)である。武田はこの他にも京都市内に、府立図書館旧館(新館建設のためファサード保存という憂き目に会ってしまった)、京都市役所、旧毎日新聞社京都支局(現在、建築家若林幸広が所有し、アートコンプレックス1928として新しい文化の発信地になっている)、京都大学人文科学研究所旧館、同志社女子大学栄光館などを残している。

 武田五一は明治33年に欧州留学に出発し、かの地でアール・ヌーボーに出会って心酔し、マッキントッシュのいたグラスゴーにまで足を運んでいる。画家の浅井忠と1900年のパリ万国博というアール・ヌーボー運動の頂点をその目で見て帰国。日本で初めてアール・ヌーボーの建築を建てた人である。その後、京都大学教授に招かれ、同じく京都工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)のデザイン教授になっていた旧知の浅井忠とタッグを組んで活躍した。武田五一は大正時代に入ると、アール・ヌーボー熱がさめて歴史主義に回帰するのだが、一度アール・ヌーボーの洗礼を受けているので、作る建物にはどこか優しい感じが残る。アール・ヌーボーは草花のモチーフや植物的曲線を多様した、女性的で装飾的な様式である。男性的で直線的なゴシック建築とは対極にある。現在改装中の京大の時計台も、外壁にヤシの木のような装飾があったり、内装の細部に強いデザイン性が感じられ、どこにも威圧的なところがない。それは権威を嫌い自由を尊ぶ京都大学の学風とよくマッチしていると思う。