第415回  松本実穂『ソムリエナイフ』

出逢ひたる日よりはじまる引き算の時間の淵に人とただよふ

 松本実穂『ソムリエナイフ』

 作者の松本は2012年に佐佐木幸綱がリヨンを訪れたのをきっかけに作歌を始め、「心の花」に入会する。パリ短歌会などで活動し、2020年に第一歌集『黒い光 二○一五年パリ同時多発テロ事件・その後』を上梓。この歌集の評で私は、「作者は日本に帰国したようだ。その後、どのような歌を作るのか楽しみだ」と書いた。日本に帰国後の歌を中心に編まれたのが第二歌集『ソムリエナイフ』(2025年)である。作者は公認のソムリエ資格を取得していて、歌集題名はそこから採られている。ソムリエナイフは、ソムリエ (sommelier) がワインのコルク栓を開けるのに使う器具で,胸に留める葡萄模様のバッジとともにソムリエの象徴と言える。ちなみにフランスではソムリエナイフを単にコルク栓抜き(tire-bouchon)と呼ぶのがふつうだ。

 第I部には長年にわたるフランス生活を切り上げて日本に帰国した時の違和感が詠われている。

フランスとは逆回しなる鍵穴のいまだ間違ふわが左手は

どの駅も錯覚のために停車する薄目あければモンパルナスの

夜に灯る自販機中段まんなかにひとつ傾くチオビタ・ドリンク

ふらんすと口に乗せれば零れゆく電線のない空が見たいよ

ウィルソン橋、ベルクール広場、ローヌ河畔人のをらぬをネットに見つむ

 私は気づかなかったが、鍵を回す向きが日本とフランスとでは逆だという。のこぎりも日本では手前に引くときに切れるが、フランスでは押して切るというように、細かい点でちがいがある。それを身体が記憶しているので、帰国した時にとまどうのだ。三首目に自販機の歌があるが、フランスにはほとんど自販機がない。ずらっと自販機が並んでいるのは日本独特の風景だ。しかも中央に置かれているのが栄養ドリンクというのがお国柄を表している。五首目のウィルソン橋はリヨンを流れるローヌ河に架かる橋、ベルクール広場は市の中心部にある広場。作者はリヨンの風景を懐かしんでストリートビューを見ているのだろう。

 本歌集を読んで気付くのは、あちこちに死の臭いが漂うことである。

うつすらと駅舎の窓の遺りたり羽を広げて死んだかたちは

生きる者と生きゐし者のゆきちがふ石橋ならん黒猫の過ぐ

夏目坂上りきたれば降る雨に墓石鈍く照りそむる夜

まだ持たぬエンディングノートに書く言葉ひとつ思ひて雨を戻りぬ

死してなほ負はさるるのか駆け出だす凄き姿に馬は留まる

 一首目はおそらく蛾の屍骸の影が窓ガラスに残っているのだろう。京都の一条戻り橋の伝承にあるように、橋はしばしば此岸と彼岸を結ぶ場所である。二首目の黒猫はさしずめ彼岸への案内者か。三首目の夏目坂は東京の牛込あたりにある坂で、作者は掃苔に墓所を訪れているのだろう。五首目は博物館を訪れて馬の剥製を見ての歌。

 もっとはっきりと死が描かれているのが「首」と題された連作である。

すでに首を切り落とされたるカナールを説明どほりナイフに捌く

取り出だす肝臓フォアグラの重さこもごもに計りて人は嬉々としている

昨日まで翔けまはりゐし裏庭に首はあつたか羽根ひろげたか

美味しいね、鴨美味しいねと卓上ににんげんたちは首を並べる

ゆふぐれが夕闇となり闇となる帰路に車を降りて吐きたり

 鴨牧場を訪れてフォアグラを取り出す作業に参加した折の歌である。フォアグラは鴨に強制的に餌を食べさせて作る脂肪肝で、世界の三大珍味のひとつとされている。しかし料理をおいしく食べるには、その素材の処理工程は見ないほうがよい。牛・豚・家禽類の肉とその加工食品を常食とするのは、牧畜を生業とする欧州の人たちだ。日本人は肉食の歴史が浅く、血のソーセージなどは苦手な人が多いだろう。これらの歌に描かれた光景は実に生々しい。作者は命をいただく食卓に列なりながらも冷静にその場を見つめている。

 興味深いのはソムリエの仕事を詠んだ歌である。

「商材」と言葉にすれば遠ざかる葡萄畑をわたりゆく風

親指を支点に押さへひといきにソムリエナイフは弧を描き切る

饒舌家、内気、妖艶、やんちやつこ 香りのなかに見抜かんとして

色を見る香りをさぐる口にふふむゆきわたらせて舌に確かむ

「罪深い」はほめ言葉なり熟成のバルバレスコの深きルビー色

 三首目はワインの性格を見きわめる歌だが、フランス人のソムリエは、「焦がしたヘーゼルナッツと湿った苔の香り」のようにワインの味と香りを言葉で表現する。饒舌家とは惜しみなく味と香りを振りまくワインで、内気とは時間をかけて味わわないと真価を味わえないワインだろう。五首目のバルバレスコはイタリア北部のピエモンテ州で産するワインで、バローロと並んでイタリアを代表するワイン。これらの歌は職業詠なのだが、ソムリエの仕事が歌に詠まれるのはとても珍しい。

 ふたつの国、ふたつの文化にまたがる暮らしをしてきた作者の人生への思いの深まりを感じさせる歌に目が停まる。

どれほどの水位だらうかにんげんの記憶をひとが残しうるのは

まがなしくひとはひとりで立つものを石に咲きつぐ菊の切り花

水菜みづなふたり過ごした時間から取りこぼされて残るひと茎

立ちどまる人につられて立ちどまる生き合はせたるこの狭き道

水底に砂をすくひにもぐりゆくやうな時間をすぐしてきたり

 四首目の「生き合はせたる」は「行き合わせたる」ではないことに注意しよう。「行き合わせる」は偶然に誰かと出逢うことだが、「生き合わせる」は造語で「たまさか誰かと共に生きることになる」という意味だろう。直接に人生を詠むのではなく、喩と修辞を駆使して間接的に詠んだ境涯とそれへの思いの歌である。長い年月を経て熟成したワインのように、読むほどに味わいが深まる歌である。