第382回 小俵鱚太『レテ╱移動祝祭日』

夭逝、と書けば生まれる七月の孤独なひかりを泳ぐカゲロウ

小俵鱚太『レテ╱移動祝祭日』

  若い頃に夭逝という言葉に憧れを覚えた人は少なくないだろう。夭逝の天才となればなおさらだ。詩人ランボー、数学者ガロワ、小説家ラディゲら夭逝の天才は、夜空に煌めく星座のようだ。しかし大方の人は天才ではなく、夭逝することもなく平凡な日常を生きる。掲出歌はそのことに気づいた日の孤独な青春の鬱屈を感じさせる。

 小俵鱚太こたわらきすたは1974年生まれ。それまで短歌とは縁のない暮らしをしていたが、2018年8月のある日、ふと思いついて作歌を始め、Twitter(現X)などで発信し出したという。2020年の第2回笹井宏之賞において「ナビを無視して」で長嶋有賞を受賞。現在は「短歌人」「たんたん拍子」に所属。『レテ╱移動祝祭日』は2024年刊行の第一歌集である。江戸雪、内山晶太、近江瞬、瀬戸夏子が栞文を寄せている。

 二つの言葉を並べた歌集題名は珍しい。レテはギリシア神話に登場する忘却の川である。死んで冥界に赴く人は、この川の水を飲んで現世のことをすべて忘れるとされる。移動祝祭日は英語の moveable feastの日本語訳で、復活祭のように日付が固定されておらず、年によって日付が異なる祝日を指す。ヘミングウェィの最晩年の作品名として知られている。「もし君が幸運にも若い頃にパリで過ごしたとしたならば、パリは君にいつも着いて回る。なぜならパリは移動祝祭日だからだ」とヘミングウェは友人に語ったとされている。ヘミングウェィの言葉を見ると、本来の意味ではなく、「どこにでも持ち運びできる祝祭」という意味で使っているようだ。二つの言葉を並べた歌集題名はなかなか意味深長だ。人はいつかこの世に別れを告げて、すべては忘却の彼方に沈んでしまうが、それまでの日々は移動祝祭日のように過ごすのがよいと作者は言っているようにも見える。

 小俵の短歌のベースラインを知るためにいくつか歌を引いてみよう。 

焼き鯖を骨抜きにする手を見つつ逢う日は雨でも良いかとおもう

ジャムでしか見たことのないルバーブに出会う気持ちでオフ会へゆく

この子の目、真珠なのかと黒目なき失明犬を抱く夏の朝

たましいのつぼみに見えたギャルの持つお椀が爪に囲まれていて

潮風とレモンドーナツ 観覧車で生まれた人はいるのだろうか 

 一読して感じられるのは、ほどよい脱力感とそこかしこに漂う微かなユーモアだろう。一首目、たぶん女性が自分のために焼き鯖の骨を抜いてくれているのだ。デートは雨で外出できないが、こうして降り籠められているのも悪くないと感じている。二首目、ルバーブは漢方で大黄と呼ばれている植物で、欧州ではジャムにしたりグラタンにしたりする。大方の日本人はジャム以外で出会うことはないだろう。インターネットのオフ会では、それまでネット上でしか知らなかった人に会うので、それをルバーブの実物に喩えている。三首目は特に好きな歌だ。白内障が進行したのか失明して目が真珠のようにまっ白になっている犬を抱く仕草に愛情が満ちている。四首目、ギャルが派手な付け爪をした手で塗りのお椀を持っている。雑煮かぜんざいのお椀だろうか。その様がまるで魂の蕾のようだと喩えている。五首目、おそらく海辺の遊園地で潮風を浴びてメモンドーナツを食べているのだ。目の前で回っている観覧車を見て、観覧車の中で産気付いて出産することはあるのだろうかと考えている。間に合わずにタクシーの中で出産するという話は聞くことがあるが、観覧車は一周するのに数分しかかからないので、まさかそんなことはないだろう。あらぬことを考えているのがポイントだ。

 文体を見ればわかるように、大仰な修辞を用いたりすることなく、平明な言葉を使って見聞きしたり感じたことを綴っている。しかしながら、平易な見かけによらず、これらの歌は単なる写実ではなく、また口語を使ってリアリズムを更新しようとしているのでもない。見かけ以上に作者の想いが盛り込まれている歌だ。ギャルの付け爪の手に収まったお椀を見て、まるで魂の蕾のようだと感じるのは、日頃から魂の形について想いを巡らしていなければできないことである。 

たぶん斜視なんだとおもう友の子に手を引かれつつ浜へおりゆく

間の悪い男かおれは。測量士ふたりの仲を裂かねばならず

泣きながら終電に乗りこむ人のやはり落としたストール、冬の

まだ帰りたくない犬が道に伏せやがていっしょにしゃがむ飼い主

「この蜂は刺さない蜂」と教えたい、紅く燃え立つつつじの頃に 

 上に引いた歌には作者と周囲の人たちとの関係性がよく表れている。一首目、友人の幼い子と手を繋いで浜辺に降りてゆく。子供の視線や歩き方から、「ああ、この子はたぶん斜視なんだ」と感じる。そのまなざしは暖かい。二首目、道路に測量器を置いて二人の人が測量をしている。よくある光景である。私は行きがかり上、その間を通らなくてはならない。やむをえず測量の邪魔をすることをすまなく感じている。三首目、冬の夜に飲んだ帰りか、終電に乗る時に泣きながら乗り込む女性を見かける。何があったのだろう。ストールを落とさなければいいがと思っていたら、案の定落としたという場面である。四首目もよくある光景だ。まだ散歩を続けたい犬がストライキを起こして道に伏せる。やがては付き合ってしゃがむ飼い主にも、犬の気持ちがよくわかるのだ。私は脚を踏ん張ってミスドの店の前から動こうとしない犬を見かけたことがある。五首目、蜂を恐がる子供にこれは刺さない蜂なんだよと教えてあげたいと思う。燃えるような躑躅が咲く五月のことである。これらの歌には、作者が周囲の人々と触れ合う柔らかな関係性が詠われていてとても魅力的だ。 

週末に会う父として、サバイバル先生として自然を見せる

よくハルは「そしたらパパは救ける?」と訊く 誘拐をされる前提で

多動の子にもみなニコニコと対処できる支援クラスの授業参観

ひとりひとり習熟に沿い配られるハルには二年生のさんすう

はま寿司へヒメジョオン持ち土手をゆくハルはハエトリグモの跳ねかた 

 最も愛情が籠もっているのが幼い娘を詠んだ歌だ。離婚した妻と暮らす娘には週に一度しか会えない。そんな娘に草花の名を教え、鉄棒の逆上がりを教え、見守るしかできない父親の姿は心に沁みる。

 小俵はたぶん短歌に芸術を求めているのではないだろう。唯美主義は小俵には無縁である。小俵の短歌は単なる言葉の組み合わせではなく、その奥に揺れ動く日々の想いが詰まっている。そのことに気づくと、まるで噛みしめるにつれて味が増すスルメのように、小俵の短歌も味わいが深くなるのである。

 最後に特に心に残った歌を挙げておこう。付箋がたくさん付いたので、選ぶのがたいへんだがそれはまた楽しみでもある。

ほおずきの生る庭で聴くその家を引っ越す前のしずかなすべて

夕映えのトラットリアを焦らしつつ目指す散歩にかがやける水

言の葉に枯れ葉を交ぜて重くないことだけしゃべる冬のデニーズ

鳥葬はありだとおもう酢に濡れた箸で餃子の羽を剥がして

客死するための旅かと人生をおもう 洋酒に描かれた船

傘につく花びら濡らし行くべきはあかるい午後のデンタルオフィス

亡き王女のためのパヴァーヌ聴きながら朝に認めて悼む冬の死

蝉以外は時間が止まっていたはずの夏の午後撮る証明写真

プールサイドの気だるさがくる遠い濃い夏の日記を読み返かえつつ

 なぜ私は上に引いた歌の前で長く立ち停ったのか。それは一首がどれだけ色濃く情景を喚起するかということなのだが、それに加えて巧みに織り込まれた季節感と、五感に届く感覚刺激があるように感じられる。たとえば一首目の鬼灯の実が生るのは夏で、二首目の夕映えは秋、三首目は冬だ。他の歌も季節がだいたいわかる。また一首目の静けさは聴覚に訴えるし、二首目は視覚、三首目も聴覚で、四首目の酢は嗅覚と味覚という具合だ。また八首目と九首目には、夏特有の暑さと気だるさという感覚がある。ただしこうして自分の好みで選ぶと、作者小俵の「日々の想い」があまり詰まっていない歌ばかりになってしまったが、それはまた別の問題である。