第33回 寺山修司『月蝕書簡』

とぶ鳥はすべてことばの影となれわれは目つむる萱草に寝て
                  寺山修司『月蝕書簡』 
 寺山修司の未発表歌集『月蝕書簡』が2008年2月に唐突に刊行され、読書界で一時話題になった。周知のように寺山は、現代短歌の黒衣・中井英夫の推挽を受けて「チエホフ祭」50首で短歌研究新人賞を受賞して短歌界に登場した。その後、『空には本』(1958年)、『血と麦』(1962年)、『田園に死す』(1965年)の三冊の歌集を上梓し、1971年にそれらをまとめ未刊歌集『テーブルの上の荒野』を加えた『寺山修司全歌集』を刊行した後は短歌を発表していない。「歌の別れ」をしたのである。昭和の多くの文学青年と同じく、寺山はまず俳句と短歌という短詩型文学から入り、新聞・雑誌に投稿を繰り返す投稿少年として出発した。寺山はその後、劇団天井桟敷を中心とする前衛演劇や映画の世界に活動の場を移し、二度と短歌の世界に戻って来なかった、というのが巷間流布されていたストーリーだった。ところが実際には寺山はその後も短歌を作っていたというのだから、読書界は驚いた。寺山の協力者であった田中未知が遺稿を編纂し、あとがきに刊行までに至る経緯が田中自身の筆で説明されている。佐佐木幸綱が解説の筆を執り、歌稿の吟味は谷岡亜紀が担当したとある。寺山は1983年に亡くなっているので、没後四半世紀を経て世に出た歌ということになる。
 田中未知の解説によると、1973年に当時文芸誌『海』の編集長だった吉田好男に勧められたのがきっかけのようだ。その後、人文書院の谷誠二から書き下ろし歌集出版の提案があり、このような経緯が一連の流れとなって、再び作歌に手を染めたらしい。1981年に『現代詩手帖』で辺見じゅんと対談した折に、寺山は次のように発言している。
「勧められて300首作ろうと思ったんです。さしあたって100首を「短歌」に載せようということで作り始めたんだけど、やっぱりできない。数はあるんですよ。でも、自分の過去を自分自身が模倣して、技術的に逃げ込むわけでね、なるほど見た目には悪くないかもしれないけど、これは自分自身の何か新しいことを語る語り口として、20年振りで短歌を作るということに値するかどうかと考え始めたら、だんだん自信がなくなってきてね」
 結局は未発表のままに終わったのは、このあたりに理由があったと推察される。作者本人が葬るつもりで筐底深く残されていた歌稿を、掘り返して刊行することの是非については、さまざまに意見があるだろう。未発表原稿が世に出ることによって作者の知られざる一面が明らかになり、作者の文学世界への理解が深まるという場合もあるだろう。しかし今回は残念ながらそれが当てはまるケースではない。帯文に「文学史は読み換えられるだろう」とあるが、文学史に残るのは「1971年以後も寺山は短歌を作ろうとした」という記述に留まるにちがいない。
 短冊型に切られた紙片に書かれた歌が60首ほどあり、これらは一応完成稿と判断したという。残りは大判の画帖になぐり書きのように書かれており、資料写真が数葉添付されている。「目かくしとんぼ」「医療器具売る」「四畳半亡命者」「一挺身」など、言葉の断片に留まるものもある。小島ゆかりが毎日新聞の「今週の本棚」に「虚構の〈われ〉の痕跡をとどめて」という書評を書いているが、「痕跡」と言わざるをえなかったところが悲しい。また未完成の歌を含む画帖を眺めていると、小島の言うように「作歌工房に許可なく入り込んでしまった」ような印象を受けるのも事実である。
 なかでも目につくのは、かつての寺山の短歌に登場した語句やイメージの再登場である。
一粒の麦生きのびて離郷する帽子の庇にはずみおり
月暗くなるのを待ちて洗うべし身におほえなき雲雀の血ゆえ
鏡台がぎらりと沖に浮きながらまぼろしの姉夜ごと溺死す
かくれんぼの鬼のままにて死にたれば古着屋町に今日も来る父
面売りの売れのこりたる面ひとつ母をたずねて来し旅の果て
 「一粒の麦」「帽子」「雲雀」「血」「古着屋町」といった語彙や父と母のイメージには、誰でも既視感を感じるだろう。良く言えば寺山ワールドを構成する言葉たちなのだが、悪く言えば手持ちのカードでまた勝負していることになる。辺見じゅんとの対談で寺山自身が語っていた「自己模倣」である。ひとつの世界を確立してしまうと、それを壊すことが難しくなる。寺山ワールドにもう一度浸りたい人は嬉しいだろうが、新しい一歩を期待する人には期待外れとなろう。
 今回の刊行の最大の意味は、寺山の作歌過程の一端が明らかになったことではないだろうか。寺山は前衛短歌の中に新しい〈私〉を持ち込んだとされている。近代短歌の前提となる「作者≒〈私〉」という図式から解放された地点に浮上するロマネスクな〈私〉である。『月蝕書簡』の草稿が世に出て判明したのは、寺山の〈私〉は徹頭徹尾言葉でできていたということだ。寺山の作歌過程は言葉の組み替えであった。そのことは『月蝕書簡』のなかに既刊行歌集に収録された歌を組み替えたものが散見されることからもわかる。
壜詰の蟻をながしてやる夜の海は沖まで占領下なり  『月蝕書簡』
壜詰の蟻を流してやりし川さむざむとして海に注げり
                       『テーブルの上の荒野』

みずうみを撃ちたるあとの猟銃を寝室におき眠る少女は  『月蝕書簡』
みずうみを見てきしならん猟銃をしずかに置けばわが胸を向き 
                            『血と麦』
 寺山は作歌をやめた後の1975年に句集『花粉航海』を上梓している。収録されている句は主に高校時代から書きためたものだが、なかに『月蝕書簡』草稿と類似するものがある。
父親になれざりしかば曇日の書斎に犀を幻視するなり  『月蝕書簡』
父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し              『花粉航海』

午前二時の玉突き場に父を待つ義足をはめし悪霊ひとり  『月蝕書簡』
午後二時の玉突き父の悪霊呼び             『花粉航海』

腐刻画の寺院や父の癌すすみ川は北へと流れやまずも  『月蝕書簡』
癌すすむ父や銅版画の寺院              『花粉航海』

眼帯の中に一羽の蝶かくし受刑のきみを見送りにゆく  『月蝕書簡』
眼帯に死蝶かくして山河越ゆ             『花粉航海』

父といて父はるかなり春の夜のテレビに映る無人飛行機  『月蝕書簡』
テレビに映る無人飛行機父なき冬            『花粉航海』
 時系列的にはちょうど『海』の吉田好男の勧めで再び短歌に手を染めた時期と一致する。短歌として日の目を見なかったものを、俳句に転用したものと思われる。並べてみると俳句の方が出来がよい。寺山はこのように画帖に書き溜めた語句を並べ換え組み替えて短歌を作った。寺山の「ロマネスクな〈私〉」とはこのような言葉の組み替えに他ならない。寺山の〈私〉は言葉でできていたのである。
 思えばそもそも寺山の短歌には模倣疑惑が付きまとっていた。「わが天使なるやも知れず寒雀」(西東三鬼)から「わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る」を紡ぎ出し、「人を訪はずば自己なき男月見草」(中村草田男)から「向日葵の下に饒舌高きかな人を訪わずば自己なき男」を鋳造した寺山は、発表当時から批判を浴びた。寺山のこのような手法の背後には、「もともとあらゆる物語は書かれつくされてしまっているのである。これから作者の仕事は、消すという手仕事でしかない」(『月蝕機関説』)という認識が横たわっていた。それと同時に「私は空っぽだ」という欠落感が寺山の意識を浸していた。寺山自身が自己の経歴について多くの虚構と嘘を張り巡らせたのはこのことと無関係ではあるまい。
 では今回の『月蝕書簡』の刊行が、現代短歌シーンに何らかのインパクトを与えるかと考えてみると、どうもそれはないように思われる。その大きな理由は、前衛短歌が既に歴史の一部となり、80年代中期からのライト・ヴァースの勃興、90年代のレトリックの時代、続くネット短歌の時代を通過して、短歌の背後に横たわるべき〈私〉はもう十分過ぎるほどばらばらに壊れているからである。寺山が提示した「ロマネスクな〈私〉」は、まだ近代短歌のコードが支配権を持っていた戦後の一時期においては新鮮な試みだっただろう。しかし、いかなるものも時間の流れから無垢ではありえない。
 寺山の短歌は「寺山病」という言い回しがあるほど、若者が一時期熱中する魅力を湛えている。その魅力を味わうには既刊行歌集を読むだけで十分だろう。思潮社版の「寺山修司コレクション1 全歌集全句集」が入手しやすく、さらに『寺山修司・斉藤慎爾の世界』(柏書房)と塚本邦雄『麒麟騎手』(沖積舎)が手許にあれば言うことはない。
 最後に印象に残った歌を『月蝕書簡』からいくつか引いておこう。
一夜にて老いし書物の少女かな月光に刺す影のコンパス
男湯に陽がさしこめばたゆたえる義父のあぶらに身をひたすかな
ビー玉一つ失くしてきたるおとうとが目を洗いいる春のたそがれ
父に似し腹話術師の去りしあと街のかたちにたそがれも消ゆ
酔いて来し洗面台の冬の地図鏡のなかで割れている父