第330回 橘夏生『大阪ジュリエット』

「お母さん」と亡きがらにこそ呼べ時計屋の針いつせいにかがやく五月

橘夏生『大阪ジュリエット』

 本コラム橄欖追放の第300回で取り上げた『セルロイドの夜』の作者橘夏生の第二歌集である。第一歌集『天然の美』が1992年刊で、本歌集『大阪ジュリエット』が2016年、『セルロイドの夜』が2020年刊なので、第三歌集と第二歌集の順番が逆になってしまった。『大阪ジュリエット』は青磁社から出版されていて、水原紫苑と藤原龍一郎が栞文を寄せている。

 『大阪ジュリエット』という歌集題名を見たとたんに、森下裕美の名作コミック『大阪ハムレット』(双葉社 2006年)を思い出した。ジュリエットとハムレットは同じシェークスピアでも違う戯曲の登場人物なので対にはならないが、作者の頭にはこのコミックの題名があったかもしれない。

 寺山修司に短歌を勧められ、塚本邦雄の選歌欄で世に出た橘の本来の作風は、文学・芸術への言及と空想の飛翔を組み合わせた華麗なものであり、『セルロイドの夜』ではそれが遺憾なく発揮されて魅惑的な歌集となっていた。しかし同じ作風の歌を本歌集に期待して繙いた人は落胆させられるであろう。本歌集は慟哭と解放の書である。本歌集は六部からなり、第I部はパートナーであった短歌人会同人の川本浩美の死を悼む歌で満ち溢れている。

桜咲く無言のこゑのざわめきを聞きつつあゆむきみのゐぬ春

きみがゐるもうひとつの街へ空いろのあの路面電車がはこんでくれる

ジャズ喫茶「しあんくれーる」にきみはゐるおとぎ話のやうな永遠

ショット・グラスに薔薇さしたまままどろみぬほら、川本くんがほんのそこまで

まるで世界中が赤信号のやう川本くんがゐなくなってから

 作者の嘆きは深く、それは時には定型の形を歪ませるほどである。二首目のように、路面電車が自分をあの世に運んでくれないかという願望を抱くこともあり、「リストカット用のカッターを手放せず『いつか世界中の子と友達になれる』」、「たしかにきみがゐたといふあかしにこのナイフで消えない消せない傷をつけて」などという危ない歌もある。ちなみに「シャンクレール」は京都の荒神口にあったジャズ喫茶で、「世界中の子と友達になれる」は日本画家の松井冬子の絵のタイトルである。

 第III部まで読み進むと、作者は再婚したことがわかる。藤原龍一郎の栞文によれば、順番は川本との離婚、再婚、そして川本の死去ということらしい。

そよそよとうすものを脱ぐそのあひだわが人生に迷ひこんできた夫

前妻の遺影の代はりにつまが飾るラファエロ前派の絵のをんな

わが死後もこのアバアトの一室でしづかに髭を剃らむ夫は

まだ知らぬははの実家の鏡台に桃の花クリームあればよからむ

襟もとの琅玕の首飾り冷え冷えとFAKEとしての人妻われは

 「人生に迷い込んで来た」とはご挨拶だが、再婚相手の人は前妻と死別したようだ。ラファエロ前派の絵の女とは、ダンテ・ガブリエル・ロゼッティが描いたウィリアム・モリスの妻のジェーン・バーディンか。五首目の琅玕とは碧玉のような緑色の貴石のこと。作者には自分は世間の十全な意味で妻ではなく、レプリカントのような偽物だという意識があるらしい。とはいうものの「かにかくに夫はの子われはただ米研ぎしことなき掌を慈しむ」という歌が示すように、心穏やかな暮らしを手に入れたようだ。

 第IV部に至って本歌集のもうひとつの大きな主題である「母親の桎梏からの解放」が顔を現す。

父がゐていもうとがゐて母が笑ふただそれだけのポラロイドの夏

「イグアナの娘」のわれに恋ヲスル日ガ来タルとは母は教えず

われを撲ちし母の手が巻く太巻の甘き酢の香を憎みはじめき

母の胎内はらよりとほく逃れ来し朝ああああからすの鳴きごゑ母音

鶴の肉くらふごとくにわれを喰ひし母なればわれも鶴をくらふか

 一首目は楽しかった幼年時代の回想だろう。ポラロイドの写真はもちろんセピア色に変色している。『イグアナの娘』は萩尾望都のコミックで、娘を愛することができない母と娘の葛藤が描かれており、萩尾自身の体験が投影されていると言われている。五首目のように驚くほど激しい憎悪を詠んだ歌もある。ただしその一方で集中には「一滴の塩みづとしてなみだこぼれたり留守番電話に聞く母のこゑ」という歌もあって、長年の間に絡まりあった感情の糸の錯綜は決して単純なものではない。母親がこのように墨痕黒々と激しく描かれているのに対して、父親は「菜の花の畑のむかう父が呼ぶ微熱の朝の夢のさめぎは」という歌が示すように、あくまで輪郭の淡い思慕の対象として描かれている。

 息子は父親を乗り越えなくてはならないという宿命があるため、『エデンの東』から『スター・ウォーズ』に至るまで、父と息子の葛藤を描いた作品は数多い。その一方で母親と娘は双生児のような関係になることもあり、葛藤の側面はあまり強調されなかったきらいがある。最近は「毒親」(toxic parents)という言葉もあり、親の過度な支配の弊害が指摘されるようになった。橘の母親はそのようなタイプの人だったのだろう。

 「果たして文学は人間を救済するか」というのはなかなか答を出しにくい問題である。そもそも「短歌は文学であるか」というもう一つ別の問いもあるのだが、それはひとまず措くとして、文学や演劇にカタルシス効果があることはアリストテレスの時代から言われて来たことである。私たちは映画や演劇で人が殺されるようなドラマをなぜ好んで見るのか。それは葛藤や憎悪の果てに殺人にまで至ることもあるドラマを見て、感情の起伏や亢進を擬似的に体験することによって心が浄化されるというのがカタルシス理論である。同じことは短歌を作る場合にも言えるだろう。自らの心の奥底に溜まりに溜まった情動を短歌にして吐き出すことによって心が解放される。それまで固く閉じられていたものが再び動き出す。『大阪ジュリエット』はかつて愛したバートナーの死という体験と、母親との葛藤的関係性という桎梏から自己を解放するために書かれた書である。

 本歌集の主調音は上に書いたとおりなのだが、その合間に挟み込まれている歌にも良い歌が多くある。

金魚玉に金魚揺れをり「神の火」の踏み絵をふみし夜より幾夜

マンモグラフィーの被曝量のいくばくか時経て骨となる白き花

死者の領あれば五月の死者つかはせよレインコートの寺山修司

悉皆屋三代目当主秀太郎なにはの雪を舌で受けたり

産みしことなしと答へよ白昼にほむらたちたるさざんくわの群れ

 一首目と二首目は東日本大震災と東京電力福島原発事故を詠んだ歌である。「神の火」は高村薫の小説の題名で、ギリシア神話のプロメテウスの火が念頭にある。三首目は安部内閣による安保関連法案採決に寄せた歌。「めつむりていても吾を統ぶ五月の鷹」は寺山の代表句である。四首目の悉皆屋とは和服の洗い張りなどをする業者のこと。まるで時代小説の一節のようで、橘はこういう歌を作るのが抜群に上手い。歌舞伎の一場面を見ているようだ。五首目は自分が子供を産まなかったことを詠んだ歌で、「都こんぶ噛みつつおもふ夜の底森茉莉にさへ子がありしこと」という歌も集中にある。「炎たちたる」は「これやこの一期のいのち炎立ちせよと迫りし吾妹よ吾妹」という吉野秀雄の歌と、それをタイトルに借りた福本邦雄の『炎立つとは』(講談社、2004年)が念頭にあると思われる。

 橘の得意技の一つは固有名を詠み込んだ歌である。それも芸能人から芸術家まで実に幅広い。

炎昼につまなじれば目を醒ますわたしのなかの〈春川ますみ〉

姉が貼りしポスターはデビッド・ハミルトン少女を噛めば蜜があふるる

加藤一彦死にたればおもふ完璧な生、完璧な死といふものはある

昭和といふ昨日きのふのわたしを呼んでゐる大西ユカリと愛の新世界

オートバイを真紅の薔薇で埋めたりしアンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ

端正をはみだすところに極まる美 セルフ・プロデューサー「タマラ・ド・レンピッカ」

 一首目には「赤い殺意」という詞書きがある。春川ますみはドラマに出演した女優。二首目のデビッド・ハミルトンは少女のポートレートを得意とした写真家。三首目の加藤一彦はフォーク・クルセダーズのメンバーであった音楽家で、軽井沢のホテルの一室で自死した。四首目の大西ユカリは新世界ゆかりの歌手。五首目のマンディアルグはフランスの小説家。『オートバイ』という小説がある。六首目のタマラ・ド・レンピッカはポーランド生まれで表現主義的な画風の画家。これらの固有名には全体にうっすらと昭和という時代が漂っている。

 橘は『大阪ジュリエット』の刊行後わずか4年で第三歌集『セルロイドの夜』を出して本来の耽美的な作風に戻っている。栞文で水原紫苑が書いているように、書かなければならなかった歌だったのだろう。