182:2006年12月 第4週 前田康子
または、本態性の寂しさを核として生まれ出る歌

腰のリボン蝶々結びにしてやれば
     夏の道へと攫われやすし
           前田康子『色水』

 歌集には作者の個人情報が少ない。奥付に略歴が掲載されていることもあるが、それもたいていは何年生まれ、○○大学卒業、××結社所属というような、実にそっけないものである。しかし歌集に収録された歌を読んで行くと、作者がどういう人で、何を感じて生きているかが伝わってくる。これが短歌のおもしろさのひとつだろう。前田康子の第三歌集『色水』を読んで感じたのは「夕暮れの寂しさ」であり、それはかくれくぼの鬼になり気がついたら誰もいなくなっていた村の夕暮れのような寂しさである。歌集題名の『色水』は、「オシロイバナ両手に摘んで色水を作って遊ぼう君と日暮れは」という歌にあるように、花を揉んで水に色をつける女の子の遊びである。この歌には「君と日暮れは」とあり遊び相手がいるようだが、歌集全体にひとり遊びの雰囲気が濃厚に漂っている。

 前田康子は1966年(昭和41年)生まれで塔短歌会所属。すでに『ねむそうな木』、『キンノエノコロ』の二冊の歌集がある。夫君は吉川宏志。二人の子供がいて、『色水』にも母親の視線から子供を詠んだ歌が多く収録されている。作風は緩い定型の中に口語を交えた写実と生活実感に基づく感興を盛り込むもので、コトバ派(芸術派)ではなく人生派であるから難解な所の少ない穏やかな歌が多い。修辞を駆使して現実界を跳び越え詩的空間へと駆け上がるという作風ではなく、日常的な言葉のなかに染み入るような感情を歌うという作風なので、派手な所がなくやや地味な印象を受けるのはいたしかたない。

 それにしても前田の歌には植物の名前が多い。朝顔・向日葵・藤・木犀・菫あたりは短歌の定番で他の歌人も多く歌に詠んでいるが、胡瓜草・父子草・車前草・ミミカキグサなど植物に暗い私など聞いたことすらないようなものもある。針ケ谷鐘吉『植物短歌辞典』(加島書店、昭和35年)などという本まであるくらいで、昔から短歌には植物はよく登場してきた。現代短歌も例外ではないが、私の印象では歌人によってはなはだしく偏りがある。たとえば藤原龍一郎の歌にはほとんど植物が登場しない。それは藤原の短歌が眠らない都市トーキョーを舞台としているからである。また加藤治郎の歌には有名なイラクサの例があり、近作『環状線のモンスター』にも大楡・ゆり・アカンサスなどの名は散見するが、ほんとうの植物というよりもどこか作り物めいて見える。プラスチック製の装飾品であってもおかしくない。それは加藤の歌が、写実を基本とするただ一人の〈私〉というアララギ的近代短歌の語法を離れ、修辞を基本とする複数の〈私〉という語法を採用していることと深く関係するだろう。植物名の含有率は歌人の作風とかくも連関しているのである。

 話をもとに戻すと、前田の歌は植物との親和性が高いが、それはおそらく前田の生き方そのものが植物と親和性が高いからである。移動・攻撃・奪取という動物性よりも、定着・防御・滋育という植物性により近いのである。ただし、同じ植物といっても、肥沃な大地に太い根を張り葉を茂らせる樹木ではなく、胡瓜草や父子草に惹かれることからわかるように、はかなげな草により親しさを感じているようだ。それにしても前田の歌に漂うこの寂しさはどうだろう。冒頭に書いた「かくれくぼの鬼になり気がついたら誰もいなくなっていた村の夕暮れのような寂しさ」である。

 残業とう時間私にもうなくて山あじさいの暗がりにいる

 抱かれしあとの身体のように倒れたる自転車ありき夏草の土手

 今日我は暗がりにいて紫の蜆蝶ほどの明るさしかない

 ため池は譜面のように静まりて残り時間が薄暗くある

 寂しさや子供の頃の冬陽射し毬藻を飼いし水槽ひとつ

 紫蘇の実がわずかについて夕暮れが私を静かに消し始めたり

 1首目はOL生活をやめて結婚した自分を詠っているのだが、自分の位置を暗がりと認識している。2首目は「抱かれしあとの身体」という喩に性愛の香りがするが、その喩が倒れた自転車に用いられているところに意外性がある。3首目は理由は明らかではないが自分を暗がりにいると認識している歌で1首目と似た気分の歌。4首目の「譜面のように」は水面の喩としてはおもしろい喩で、また本来なら譜面からは音楽が立ち上るはずなのだが、この歌は静けさの雰囲気である。5首目は子供時代の回想で、基調はやはり寂しさである。6首目はシソの実の生育という正の方向への時間の流れが、私の消去という負の方向への時間の流れにほかならないと認識している所に、この歌人の感性の核を見ることができるだろう。

 現代短歌の若い歌人の歌に見られる傾向として「午後4時の気分」という言葉を用いたことがある。社会学者の小倉千加子が朝日新聞に書いていたのだが、小倉がインタヴューした東京の女子高校生が、「あたしたち、ずっと午後4時の気分なんですよう」と言ったというのである。これはもちろん陽射しの照りつける真夏の午後4時ではなく、もうすでに夕陽の色も淡く翳っている冬の日の午後4時である。若さに溢れ明るい未来が待ち受けているはずの女子高校生の口から出る言葉とは思えないので、強く記憶に残った。これを「自分たちの将来にそれほど明るい展望が持てない」という漠然とした不安感と解釈すれば、比較的安易な理解に着地できなくはない。しかし、哲学者ポール・リクールの言うように「現代では大きな物語はすでに失効している」という時代認識のレベルで捉えると、ことはそれほどかんたんではなくなる。そしてこの「午後4時の気分」は現代短歌の若い歌人の歌に滲み出ているのである。

 わたしたちはなんて遠くへきたのだろう四季の水辺に素足を浸し 佐藤りえ

 ながれだす糸蒟蒻を手で受けてこれがゆめならいいっておもう 兵庫ユカ 

 前田の好む時間も夕暮れなのだが、それは「セカイ系」の午後4時の気分とはいささか異なるようだ。「セカイ系」の場合、私を取り巻く家族・地域・社会といった中間項をすっ飛ばして、〈私〉が世界と直接に向き合う構図がある。しかし前田の歌にはこういった中間項が多く詠まれているというちがいがある。

 車前草の花揺れ合いて祖父の家の古き便器を思い起こせり

 ドアを閉め祈りに行けるイルハムを子らは静かに息して待てり

 いつも時計進めていたる友多くほんとうの時刻を私に聞きぬ

 桜湯を母と飲みたり嫁に行くことが決まりし冬の終わりに

 1首目の祖父の古い家の記憶、2首目の子供の学級にいるイスラム教徒いう他者、3首目の友人、4首目の母親というように、前田の歌には〈私〉と世界との中間項が数多く登場する。だから前田の歌に溢れる寂しさは、セカイ系短歌のどこか観念的な寂しさではなく本態性のものなのだろう。自身の核にある寂しさに触れるときに歌が生まれるということなのだ。

 印象に残った歌をいくつか引いておこう。

 流星と彗星の違い聞きながら愛についてまだ考えてる目は

 初夏の藤の椅子にて向き合えばタイ語など淡く話せり

 いつまでもぱあの形に負けている手袋よけて子ら登校す

 ユリカモメあれは白き磁器ではない悲しみの音伝わるわけない

 風も木の葉も鳥も吹き抜けアルハンブラ宮殿に窓ガラスなし

 墓洗う洗剤安く売られたり暮れの店に煌々と照らされ