第416回 佐藤弓生、町田尚子『花やゆうれい』

花の死と花でない死と分けながら いいえ、誰もがいずれゆうれい

佐藤弓生、町田尚子『花やゆうれい』

  とても楽しい本が出た。佐藤弓生が短歌を詠み、画家の町田尚子が絵を描いた歌画集『花やゆうれい』である。版元は絵本出版で知られたほるぷ出版。巻末の初出一覧によると、佐藤の短歌は書き下ろし(詠み下ろし?)ではなく、「かばん」や「うた新聞」などに発表されたものである。町田の絵は過去に描いたものと本作のために書いたものがあるようだ。帯に「猫の絵、多め!」とあるようにほとんど猫の絵である。町田には『隙あらば猫』という画集があるので、無類の猫好きと見える。キャンバスのざらついた質感とメルヘン風の絵が懐かしさを醸し出す。題名の「花やゆうれい」は冒頭に置かれた「名もなき、だなんて言っても誰も名を知らないだけの花やゆうれい」から採られている。

 もともと佐藤の短歌は境涯を詠む「人生派」ではなく、言葉によって現実とは異なる世界を作り出すポエジー派であり、ファンタジー的要素も持っているので、町田の描くメルヘン的な絵と絶妙に響き合う。たとえば上に引いた「名もなき」の歌は右ページに一首だけ置かれていて、左ページには空に薄い月がかかる草原にポツンとコンクリートの階段があり、その上に青い服を着て手に花を持った猫が描かれている。階段には花を挿した空き瓶がいくつも置かれている。階段の上の平たい場所にはブールに入るときに使うような金属の梯子があり、先は地面に刺さっている。描かれているのはこの世のどこにもない、想像力が生み出した場所である。空き瓶に刺してある花は「名もなき花」なのだろう。誰だったか植物学者が「雑草という名の草はない」と言ったが、名もなき花というのもないのだ。それは人間の博物学的情熱の賜物である。

 また別のページには、「射す光あれば差す影ふかくなる夏のうつわの玻璃はりのめぐりに」というため息の出るような美しい歌があり、添えられた絵には夏の庭の緑陰でゆったりと紅茶を飲む猫が描かれている。空はあくまで青く、庭にはラベンダーが咲き乱れている。紅茶のカップはたぶんガラス製だろう。歌を読んで絵を見て再び歌を読むと、言葉の宇宙と絵の宇宙との交感が深く感じられる。

 もうひとつ紹介しよう。歌は「送る日も天気はえらべないけれどレオンハルトさんここは雪です」。絵にはガス灯がともる薄暮の街路に雪が降っている。コートを着て、昔風の革のトランクを持った猫が、舗道に置かれた家の模型をじっと見つめているという寂寥感の漂う絵である。歌の「送る日」はおそらく永訣の日のことだろう。確かに人は死ぬ日を選べない。でも「レオンハルトさん」とはいったい誰だろう。

 いくつか歌を引いてみよう。 

これも読む宝石 聞いたことのない花の名のならぶ校正刷りも

花綱はなづなとなってあなたを飾ろうよ使い果たしたからだを編んで

どれほどの紙の匂いにみたされて集密書架のこれは音楽

ほかほかと生まれることはこわいけど枝豆ごはんのはだかのみどり

よく光る外階段に落ちているカナブン秋のボタンとなりて

 一首目、印刷所から届いた校正刷りにはずらりと花の名前が並んでいる。その名から発する煌めきはまるで読む宝石だという。二首目、花綱はフランス語でギルランド (guirlande)という。ルネサンス期のフィレンツェの画家にドメニコ・ギルランダイオという人がいるが、ギルランダイオはイタリア語で花綱のこと。この歌のポイントは「使い果たしたからだ」である。花にも動物にも命の限りがある。命は天からの預かり物で、いつかは返さなくてはならない。花綱となっている花は命を使い果たした花なのだ。三首目、図書館にはスペースの節約のために集密書架が置かれていることが多い。そこに収められた大量の本から紙の匂いが立ち上る。それを音楽のようだという。四首目、ほかほかに炊きあがった枝豆ご飯の緑の豆を、今生まれたばかりのはだかの命と捉えている。これもまた命のひとつの姿である。五首目、夏の終わりに死んで地面に落ちている蟬を詠んだ短歌は多い。この歌は蟬ではなくカナブンである。それを秋のボタンと形容したところにポエジーがある。

 ここまで収録された歌を見て来ると、『花やゆうれい』という題名にこめられた意味に思いが至る。「花」とは命が目に見える形で存在するもので、「ゆうれい」は命が尽きて目に見えない形に変じたものだ。この歌画集に集められた短歌は、直接的にあるいは間接的に、命がさまざまに姿を変えてやがて彼方に去ってゆく様子を詠んでいるのだ。それが猫に託されていることにもおそらく意味がある。 

どこにでも入ってゆける猫だから爪あとほどの夜の隙間へ

耳欠けてこのあとどこへゆくのでしょうむかしの切符みたいな猫は

  一首目で詠われているように、猫は小さな隙間でも通り抜ける。夜の隙間を通って導かれるのは、昼の現実とは異なる夜の世界である。二首目の猫は喧嘩をして耳が欠けたのか、それとも不妊手術を施されたのか。昔の鉄道切符は硬券で、改札口で駅員が鋏を入れた。それが猫の欠けた耳に似ていることからの連想だ。 

どんな死をくぐってきたの 海岸で買った貝殻とても乾いて

まるでまあ死んでるみたい はつなつのひつぎのなかにおとなのひとは

この子はきっと地球最後のテディベア藍いろの目を縫いつけられて

しらほねのにおいがします春の午後あるじのいない明るい部屋は

夕あかり汚れるままに 水をむ この世からしか汲めない水を 

 どことなく終末観の漂う歌ではないだろうか。終末観と相性が良いのは宗教とSFである。幻想小説やSFに詳しい佐藤はそこから終末観に馴染んだのだろう。佐藤の歌集『世界が海におおわれるまで』にはすでに「風鈴を鳴らしつづける風鈴屋世界が海におおわれるまで」という世界の終わりを思わせる歌がある。上の五首目と組み合わされた絵には、花咲く草原に赤さびたドラム缶と古いポンプがあり、ドラム缶の上にはピンクのドレスを着た猫が描かれている。見たことがない風景なのに懐かしさを感じるのが不思議だ。

 少し暖かくなって辛夷の花が咲き始めた頃に、植物園の人気のない沈床花壇のベンチに座って開きたくなるような素敵な本である。