第104回 大道寺将司『棺一基』

まなうらの虹崩るるや鳥曇
      大道寺将司『棺一基』
 著者の大道寺将司だいどうじ まさしの名に聞き覚えがあるのは、私と同年代かそれ以上の年齢の人だろう。大道寺は1948年生まれ。新左翼過激派の活動家で、東アジア反日武装戦線「狼」を名乗り、1974年に丸の内の三菱重工東京本社ビルを爆破するという爆弾テロを起こした。このテロにより8名が死亡し、376名が負傷。大道寺はこの事件を含む三件の事件の咎により、1979年に死刑判決を受けた。この判決は1987年に最高裁で確定。以後長きにわたり死刑囚として巣鴨の東京拘置所の獄中にある。すでに句集『友へ 大道寺将司句集』、『鴉の目 大道寺将司句集 II 』があるが、既刊の句集から選んだものと新作を合わせて、このたび『棺一基 大道寺将司全句集』が上梓された。
 序文と跋文を辺見庸が書いている。辺見は単に文章を寄せただけではなく、東京拘置所に足を運んで大道寺と面会し、句集の刊行を熱心に勧めたとあるので、実質的に本書のプロデューサーであり編集者でもある。行きつ戻りつと地を這うような運動を執拗に反復し、内臓に触れんばかりに迫って来る辺見の文体を、もともと私はあまり好まないのだが、本書に限っては辺見独特の文体は、本句集の主調をなすトーンと絶妙に照応し、本句集に解説文を書くことができるのは辺見以外にありえないと思わせるほどである。句集題名は集中の「棺一基四顧茫々と霞みけり」に由来する。言うまでもなくこの棺とは、死刑囚である大道寺が入ることになる棺桶である。生と死のあわいを凝視した句で、大道寺のような境涯にいる人以外には作り得ない句であろう。
 獄中にあるという境涯と短歌や俳句などの短詩型文学との繋がりは深いものがある。一ノ関忠人は「短歌の生理 抄」(セレクション歌人『一ノ関忠人集』収録)という文章で辞世や死刑囚の歌を取り上げて、「死と短歌は不可分のものとしてある」と断じているが、同感である。狭い獄中で読書以外にできることは限られているという物理的制約もあろうが、何より死刑囚として自らの死と日々向き合うという極限的状況が、人をして短歌や俳句に向かわせるのだろう。連合赤軍浅間山荘事件の死刑囚・坂口弘の歌集『常しへの道』や、カリフォルニアで終身刑の獄にある郷隼人の歌文集『ロンサム隼人』を見てもそのことは得心できよう。辺見は序文の中で、大道寺は「俳句にいまや全実存を託したのだ」と述べているが、「実存」という現代では流行らない言葉が、本句集を読むとその重みのすべてをかけて迫って来る。その言葉の圧は他に類を見ない。
 編年体で構成された本句集の巻頭近くには、俳句に手を染めて間もないと覚しき句が並ぶ。取り立てて言うところのないふつうの句である。
蒲団干し日向の匂ひ運びけり
差し入れの甘夏薫る人屋かな
生かされて四十九年の薄暑かな
秋の蝶病気見舞ひに来る窓辺
ケバラ忌や小声で歌ふ革命歌
寒中や昼餉に食ふメンチカツ
身のうちの虚空に懸かる旱星
 有季定型という形式が常人の域を超えて作者にとって重みを持つことに留意したい。狭い独房は極限まで縮小された世界で、獄中の人はわずかにのぞく窓の隙間から吹く風や入り込む花びらによってのみ外界の変化を知る。規則で定められた単調な日常の反復のなかで、季節の変化は唯一自己の生を確認できるよすがなのだ。干した蒲団の日向の匂いや、差し入れの甘夏や、獄中に迷い込む蝶などのこの世の微細な変化や事物を掬い取るのは、俳句や短歌などの短詩型がもともと得意としていることである。歩いて数歩の狭い独房が乾坤のすべてという極限的状況は、病床六尺が世界のすべてであった子規の晩年の境涯と通じるところがある。世界の狭さと詩型の小ささとが絶妙に釣り合っていると言うべきか。
 東京拘置所では死刑が執行される。囚徒にそれが告げられることはないが、拘置所内の空気で察せられるようだ。次の一句目には「死刑執行あり」という詞書が付されている。いずれも絶句して読むほかない句である。
看守みな吾を避けゐる梅雨寒し
夏深し魂消る声の残りけり
花影や死はたくまれて訪るる
絞縄の揺れ停まりて年明くる
縊られし晩間匂ふ桐の花
 集中には「君が代を囓り尽くせよ夜盗虫」「狼や見果てぬ夢を追ひ続け」のように、左翼活動家の本懐を詠んだ句も散見されるが、作者の想いは徐々に自らが手を下した爆弾テロへの悔悟と犠牲となった死者へと向かう。
死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ
春雷に死者たちの声重なれり
ゆく秋の死者に請はれぬ許しかな
夢でまた人危めけり霹靂神
わが胸に杭深々と風光る
掃苔や爆破の銘のまぎれなく
ででむしやまなうら過る死者の影
 読んでいて痛感するのは、最初は獄中の手すさびから始めた俳句だったかもしれないが、それがやがて自己を凝視する道へと意味を深化させていることである。
蚊とんぼや囚はれの身の影は濃き
汗疹して今日の命を諾へる
干蒲団死者に貰ひし命かな
揺れやまぬ生死しょうじのあはひ花芒
身ひとつに曳く影ながし九月尽
厭はれしままにて消ゆる秋の蝿
木菟啼いて吾が病臭に噎せにけり
身の奥の癌の燃え立つ大暑かな
 「俳句に全実存を託した」という辺見の物言いが決して大袈裟に感じられないのはこのような句に出会った時である。囚徒の影はなぜ濃いか。それは身の内に抱えているものが重いからであるが、同時に影を見据える眼差しが研ぎ澄まされて来るからでもある。死と向き合う作者の眼差しは「末期の眼」に似るが、実は作者が抱える死は三つある。ひとつは爆弾テロの犠牲者となった他者の死、ふたつはいつ執行されるかわからない死刑による自らの死、それに加えて獄中で発症した癌がもたらす死である。幽明の境に揺れる作者から放たれる言葉は、俳句の技術的巧拙というレベルを超えて読む人に迫って来る。
 確定死刑囚という作者の境涯とは無関係な次のような句にも、死と死が逆照射する生がくきやかに封じ込まれている。
月光のきはまりて影紛れなし
天日を隠してゆける黒揚羽
止まりてしがらみ越ゆる秋の水
滝氷柱いのちのとよみ封じをり
水底の屍照らすや夏の月
 死を思うことで私たちは生の根源に触れる。そこにこそ文学の存在理由がある。また俳句という定型の器が大道寺にこのような自己深化を可能ならしめたことは記憶に留めるべきだろう。ここで空想してみよう。大道寺が獄中で現代詩を書いたとしたならば、ここまでの自己深化を遂げることができただろうか。いや、そもそも獄中の死刑囚が形式に何の制約もない自由な現代詩を書こうと思うだろうか。想像しがたいことである。有季定型の持つ制約そのものが、極限的な不自由状況において自己深化の機縁となるのである。ここに説明に窮する不可思議な逆説があり、定型にはそのような力があることを認めねばなるまい。炎暑の葉月にそのことを今一度想起するのも悪くはなかろう。

第103回 藤沢蛍『時間の矢に始まりはあるか』

羽ばたけるせつなひかりを零しけり天に属する若きかもめら
          藤沢蛍『時間クロノスの矢に始まりはあるか』
 久木田真紀という歌人の名を知ったのは、最近相次いで読んだ歌集の中だった。
AKB48のセンターに立つてゐる久木田真紀の亡霊
                     喜多昭夫『早熟みかん』
久木田真紀がモスクワ生まれということを(嘘とはいえど)思い出したり
                    生沼義朗『関係について』
 今をときめくAKB48のセンターと言えば大島優子か前田敦子のはず、そこに立っているという久木田真紀とは何者か、と思って調べたらすぐに判明した。インターネット文明とは怖ろしいものである。ひと昔ならば調べる方法がなく、知人友人にたずねて回るしかなかっただろう。
 久木田真紀は平成元年(1989年)に「時間クロノスの矢に始めはあるか」30首で短歌研究新人賞を受賞した。略歴には昭和45年モスクワ生まれ、平成元年から留学のためオーストラリア在住とある。昭和45年生まれなら平成元年には18歳である。すわ新しい才能の出現かとみんなが色めいたが、後にすべてが詐称だったことが判明する。18歳の女性ではなく、中年の男性だったのである。「東オーストラリアのその南、シドニーの近郊の町で受賞の知らせを受けた。この喜びをどう表現してよいかわからず、私はテーブルの上で、ハードボイルドされた卵を、何度となく回転させていた」という受賞のことばも真っ赤な嘘で、編集部に寄せられた写真は姪のものだったとも聞く。作者のプロフィールは徹頭徹尾偽装されていたのである。
 やがて短歌界は久木田を相手にしなくなり、1997年に藤沢蛍ふじさわ けい名義で刊行された歌集『時間クロノスの矢に始まりはあるか』も沿線の小石のように黙殺されたと聞く。歌人久木田真紀は葬り去られたのである。しかし短歌研究新人賞の受賞は取り消されたわけではなく、『現代短歌事典』(三省堂)巻末の短歌賞受賞者一覧にも第32回受賞者としてその名が刻まれている。
 短歌関係者なら知らない人はいない事件なのだそうだが、私はその当時、短歌のタの字もおぼつかぬ門外漢だったので、今回初めて知った。この事件の経緯については、加藤英彦が「Es コア」(第20号)に「幻の筆者への覚書 実在の作者から非在の筆者へ」という文章を書いており、この文章でおおよそのことが知れる。加藤は出版社から本人の連絡先を聞き出して、電話で本人と話までしたそうだ。私は事件そのものへの興味は薄く、どんな短歌を作った人なのだろうという一点に私の関心は集中する。作品がすべてだからである。
 さて、受賞作の「時間の矢に始めはあるか」である。
春の洪水のさきぶれ昧爽の噴水のに濡れるわが胸
〈源氏〉から〈伊勢〉へ男を駆けぬける女教師のまだ恋知らず
聴診器あてたる女医に見られおりわがなかにあるマノン・レスコー
放課後の駅で私服の刑事らと盗み見しているポルノグラフィー
ディーン忌の映画館まで走ろうよ夜の驟雨に濡れないように
白飯しらいいの湯気のけむれる味蕾にははつかさやげる氷魚をのせて
 歌の作りはなかなかの手練れで、「源氏」「伊勢」「女教師」「女医」「刑事」や「マノン・レスコー」「ディーン忌」のような意味の共示作用の豊富な語彙を散りばめて、まるで一首で完結した掌編小説であるかのような物語性を持たせる作風である。このためやや文学臭と大仰な身振りが見られる。物語性という点では池田はるみの『奇譚集』にどこか通じるところもある。六首目「白飯の」の言葉の斡旋など実に達者なものである。これを見るかぎり「時間の矢に始めはあるか」30首が短歌研究新人賞を受賞したのは不思議でも何でもない。
 受賞作と並んで新人賞を惜しくも逃した次席、候補作、最終選考上位通過作品の作者の氏名を眺めるのも一興である。この年の次席は西田政史「The Strawberry Calendar」と林和清「未来歳時記」である。西田は翌年「ようこそ!猫の星へ」で首尾よく短歌研究新人賞を受賞し、歌集『ストロベリー・カレンダー』(1993)を出版したが、その後、短歌から離れてしまった。林は数年後に歌集『ゆるがるれ』『木に縁りて魚を求めよ』を出して歌人の道を歩んでいる。候補作には白瀧まゆみ、武田ますみ、大滝和子、大野道夫の名があり、最終選考上位通過作品には弱冠20歳の枡野浩一の名が見える。
 選考座談会を読むと、春日井建は「創造力も想像力もある軽やかな作品だが、道具立てが多すぎるのではないか」と述べ、岡井は「これを一位に推した。現代短歌の通貨をうまく使っており、応えられないほどうまい」と手放しの褒めようだ。大西民子も一位に推していて、「博学でボキャブラリーが豊かで、言葉の選び方が爽やかだ」としている。馬場あき子は「上手い作者だが上手すぎるところがあり、また遊びすぎ、言い過ぎもある」とする。高野公彦は「五官を超えて感知できる世界を拡げて自由に遊んでみたという感じで、うま過ぎるのでかえって本当かしらと思わせるところがある」と評している。後から見れば鋭い評である。島田修二はやはりうまい作者だと認めた上で、「ここまで来ちゃうと、もう今の短歌というのは、もうお終いというか、変な言い方ですけどね、何か花火がぱあっとすぐ消えていく直前の華やぎを見るような感じがしたことも事実です」と述懐している。島田のこの述懐と近藤芳美の態度は看過できない重いものを含んでいると思う。近藤は最初から試合放棄の態度で、「今日は棄権しようと思って来た。全体に果たしてこんなものでいいのかという不信がある」と述べ、「この頃、自分のやってきたことは良かったのかと反省している。にぎにぎしく新人を世に出す反面、短歌というものの大事な何かを見失ったし、その手助けを自分がしたのではないか」と続けている。
 時代を考えれば平成元年は天皇崩御により昭和が終わり、ベルリンの壁が崩壊して冷戦が終結するという歴史的事件が起きた年である。短歌の世界では数年間前からライトヴァースが盛んになり、1987年にサラダ現象が起きて、ニューウェーブ短歌へと道を開くという時代である。近藤や島田が体現した昭和の近代短歌の効力がまさに終わろうとしていた時代であり、近藤と島田の候補作への懐疑はこのような時代背景を反映している。このような時代の変わり目の年に、久木田が完全に偽装した〈私〉によって短歌研究新人賞を受賞したのは象徴的な出来事である。私はその暗黙の符合に深く打たれる。
 事件から8年後に出版された藤沢蛍名義の『時間の矢に始まりはあるか』は、巻頭に短歌研究新人賞受賞作をそのまま収めている。それ以外の歌はどうかというと、この評価が難しい。残りの歌の舞台のほとんどはアメリカで、一巻のほぼすべてが海外詠で占められているのである。短歌研究新人賞の偽装されたプロフィールには、作者はオーストラリア留学中とあったので、そのプロフィールの延長上に成立したアメリカ留学という意地悪な見方もできる。もしそうだとするとすべてが行ったこともないアメリカを詠んだ想像の産物だということになってしまうのである。
 私にはそれを判断することができないが、歌を虚心に読むと、海外詠の多くがそうであるように、現地に赴く前から心に抱いていたイメージを、目にした物に当てはめている歌が多い。人は旅行に行くと、あらかじめ見るつもりであったものしか目に入らないと言うが、まさにそのようなことが起きている。
機上よりMANHATTANを見下ろせばそれ文明の墓標のごとし
アメリカの大いなる虚無が建たせたるクライスラービルをしばらく仰ぐ
夏深し湾岸暴走族首領ヘッドJACKはダラス生まれの少年チキン
ニューヨーク・マフィアの情婦シルビアの七難誘う肌の白妙
この国の自由とはこれ、ガン・ショップにあまた並びていたる火器類
眠られぬ夜は朝まで聴いていよデイビス、ロリンズ、パーカーのこころ
夕立の香に囲まれているごとしバス停のわが周りは娼婦
麦秋のタラを過ぎつつ遠きかなヴィヴィアン・リーの死も夕雲も
 摩天楼を文明の墓標と見るのは珍しいことではなく、97年当時としても既視感バリバリである。暴走族のヘッドがJackで、マフィアの情婦がSylviaとは、まるで低予算B級映画の配役のようではないか。ジャズといえばマイルズ・デイビス、ソニー・ロリンズ、チャーリー・パーカーという名前が並ぶのは、1960年代の文化的教養を持っている人で、97年当時のジャズではない。作者は目の前のアメリカと向き合っているのではなく、自分の中にあるアメリカのイメージをなぞっているにすぎない。やがて作者はニューヨークを離れ『風と共に去りぬ』の舞台となった土地を訪れるのだが、やはり作者は実際の風景ではなく、過去に見た映画の記憶をたどるのである。
暴力装置の何という美しさ原潜がいま紅海へ発つ
アメリカの視野の狭さがすべからく兵をアラブへ走らせもする
行進の軍靴に蹴られ青空が見えぬ涙を流すウウェート
マリファナと銃とAIDSの輪唱がこの国を誤らせるだろう
ゆく秋やついにはげしきとうの果てに建ちたる国を美国アメリカと呼ぶ
 1990年に勃発した湾岸戦争に想を得た上のような歌もあるが、好戦的なアメリカの態度に対する非難の言葉は紋切り型で、また時局に接しての感慨を短歌定型に収めて美的昇華をしようという工夫も見られない。
 一読した中では次のような歌に注目した。
雷気しずかに降りそそぐ夏の帆のかなたはるけく見ゆる死火山
夏雲ゆ一握の銀つかみだすきみは耳うらさえもこいびと
夕暮れの樹にびっしりと花の芽が見えてまた来る六月の死者
百階の高みへ昇るエレヴェーターいま微かなる重力兆す
膝をつき地に倒れゆく兵士らを再び立ちあがらせるフィルム
遠くボルジアの血をひくイサベラの肩の高さに見える夏波
揺り椅子にゆれているのは〈時〉を漕ぎ疲れて眠るリリアン・ギッシュ
 これらの歌には向日性の感性に裏打ちされた言葉の清新さが漲っており、ときどき顔を出す〈私〉を離れた物語性もこの程度ならば適度なスパイスと受け取れる。残念なのは収録歌数800首を超える本書に上のような歌が少ないことである。
 その理由はわずか三行の巻末のあとがきにある。「本歌集は主題製作が多いということもあって歌集全体の作品配列については製作年順にとらわれず勝手気ままに再構成した」と書かれている。つまり久木田・藤沢にとってはすべてが「主題製作」なのだ。主題製作においてはまず主題が先行し、歌はその主題に沿う形で発想される。「アメリカ」という主題、「摩天楼」という主題、「ジャズ」という主題がまずあり、それに沿って歌が作られる。ならば短歌研究新人賞応募作「時間の矢に始めはあるか」30首も、「オーストラリアに留学中の18歳の女子大生」という主題で製作されたと見るのが順当だろう。しかしこれは短歌界の暗黙の禁忌に抵触した。主題設定が〈私〉の領域にまで踏み込んだからである。
 上に久木田の事件が昭和の近代短歌のセオリーが失効する潮目に起きたことは象徴的だと書いた。同じことが2012年の現在起きたとしたらどのような反応を引き起こすだろうか。東西冷戦の終焉と高度消費社会の爛熟によって、近代短歌が前提とした〈私〉が形を失って浮遊し分断化した現在においては、事件の起きた89年当時とは異なった受け取りかたをされるのではないだろうか。

謝辞
 藤沢蛍の歌集の入手が困難で、思いあまって加藤英彦さんに歌集をお貸しいただけないかとお願いしたところ、「二冊持っているので一冊差し上げる」という思いがけない返事をいただいた。おまけに短歌研究新人賞の受賞作と選評が掲載された雑誌のコピーまで送って下さった。この文章が書けるのはひとえに加藤英彦さんのお陰で、この場を借りてお礼申し上げたい。拝領した歌集の見返しページには作者自筆で「天球の青深みたる午後きみとわれとを繋ぐこころの力」という一首と久木田真紀という署名が書かれている。

第102回 生沼義朗『関係について』

リリシズムの行方いつつ烏賊墨に汚れし口を拭う数秒
                生沼義朗『関係について』
 リリシズム(lyricism)は「抒情」の意で、もともとは古代ギリシアでリラという撥弦楽器の奏でる音に合わせて歌う歌に関係する。抒情は短歌の核であり、その行方に思いを馳せているということは、短歌の未来を案じているのである。その思惟は時空間を超え、卑小な〈私〉という殻を超える。ところが下句では一転して、イカ墨パスタを食べて汚れた口を拭うという日常卑近な光景が展開し、その持続時間もほんの数秒にすぎない。上句と下句のあいだに〈公〉と〈私〉、〈離脱〉と〈回帰〉、〈永遠〉と〈一瞬〉の明確な対比がある。短歌巧者の生沼の面目躍如というところだ。しかしそれと同時に、上句と下句の「合わせ鏡」が発条のごときその反発力によって、一首を別の次元へと放り出す力が見られないことにも気づく。抒情が抛物線を描かないという意味で、現代の苦みの滲む歌の造りだとも言えるのである。
 『関係について』(2012年6月30日刊)は、第一歌集『水は襤褸に』(2002年9月13日刊)以来10年振りの生沼の第二歌集である。『水は襤褸に』については本コラムの前身「今週の短歌」を見ていただきたい。人の立ち位置は今いる場所だけからは見えなくとも、前はどこにいたかを視野に入れると見えてくることがある。その差分が立ち位置の変化を表すからである。さて10年は生沼にどのような変化をもたらしたのだろうか。
 まず気づくのは微妙な文体の変容である。文語体を基本にときどき口語が混じるのは変わらないが、『水は襤褸に』には次のような歌が散見された。
大空にゴブラン織を敷きつめよ 魔女の死臭の漂うそれを
ほろびゆく世界のために降りしきれ 墓地いっぱいのあんずのはなびら
 これはこれで美しい歌だが、大きく振りかぶった語法と語彙の選択で、いかにも想像のみで作った歌という感じがする。『関係について』ではこのような歌は影を潜め、ベースラインをなすのは次のような手触りの歌である。
人のせぬ仕事ばかりをせる日をばサルベージとぞ名づけてこなす
中二階のバレエスタジオ見て過ぐるレッスンをするその足のみを
採血をされたる腕を押さえつつ歩む姿はロボットめきぬ
 テンションの上がらない仕事の日常、街角の一角を切り取った描写、健康診断の自虐的自画像を描くこれらの歌からは、とても大きく振りかぶる姿は見えず、地を這うような目線と姿勢の低さが感じられる。
 『水は襤褸に』の栞文のなかで花山多佳子は、ちょうどバブル経済崩壊の時期に成人を迎えた生沼たちの世代論に触れ、この世代の短歌には80年代のようなレトリックやイメージの多様さはみられず、「夢から醒めたのちの澱のように『われ』が残されている」と書いた。私もこの歌集について書いたコラムの中で、生沼の短歌に漂う漠然とした終末感、都市生活者の神経症的倦怠と疲労、日常のなかで汚れてゆくという感覚を指摘した。これらの感覚は青春と背中合わせである。その基調は変わらないのだが、『関係について』で目につくのは、日常の肥大と、地を這うような日常詠からときおり立ち上るユーモアである。
日常が肥大化している。食卓にトマトソースを吸い過ぎのパスタが
年上の恋人のごとき香を立てて無塩バターは室温に溶ける
さまざまな匂い混じりては消えてゆく半年をこの部屋に身を置く
生ごみの臭気を孕み漂いて来たる風にも生活たつきを慣らす
おおむねは以下同文で済まし得る時間の束を重畳という
 一首目はずばりそのもので、肥大化した日常がソースを吸い過ぎて膨れたパスタに喩えられている。この歌集を貫く気分をよく表していよう。残りの歌も歌意は明確で解説は不要と思うが、姿勢を低くして日常を詠うということは、喩を忌避するということにも通じる。事実、上に引いた歌では二首目の「年上の恋人のごとき香」という直喩を除いて、喩に基づくレトリックが使われていない。80年代のニューウェーブ短歌が駆使した修辞はどこに行ったのかと思うほどである。第一歌集刊行時の27歳からの10年間は、生沼にとって日常の肥大化を実感する10年だったようだ。日常の肥大化とは〈私〉が日常に絡め取られてゆく過程に他ならない。それはまた中年の入り口でもある。
 現実を余りに写実的に描いた絵画がときに幻想的雰囲気を纏うことがあるように、これでもかと日常を描くとそこにユーモアが感じられることがある。作者が意図してかどうかはわからないが、次のような歌にはそこはかとないユーモアが漂う。これは『水は襤褸に』には見られなかったことである。
たわむれに飛びたしと思う衝動のおおむねそういうときは曇天
日常は単純なれど難渋で、またも昼食のメニューに悩む
東北線ひたすら下る車窓には〈これでいいのか北上尾〉とある
シーチキンをホワイトソースに入れたれば素性分からぬ食感となる
水平に荷物運ばむとするときにどうして足は差し足となる
 短歌人会の先輩にあたる小池光にもすっとぼけたようなユーモアのある歌があるが、このラインは生沼の方向性のひとつになるかもしれない。もうひとつおもしろいと感じたのは、次のように日常ふと何かに思いを馳せるという歌である。
古びたる布の文様いっせいに乱れはじめるヒトラー/エヴァ忌
草原を飛んでいく声 唐突に思うことありハイジの老後
うちつけに火の匂いする午後ありて薬子の変に連想は飛ぶ
入善とわがつぶやけば硝子戸を開けるはやさに鳥影は過ぐ
 入善は富山県にある日本海に面した町。なぜか生沼は入善に憧れているらしい。このような歌では珍しくベタベタの日常ではなく、往年のTVアニメや平安時代の政変や遠い町に想像を飛ばすことで、フラット化した世界にふと生じた裂け目のようなものを捉えている点が評価できる。
 一読して特に印象に残ったのは次の歌である。
樫のボウルにシーザース・サラダ ほろびたるもの美しく卓上にあり
啓蟄の日の潦 ひかりいるなかには他界の水も混じらむ
トマトの皮を湯剥きしながらチチカカ湖まで行きたしと思うゆうぐれ
透明なひかり満ちいる天空に鳥語圏とはどのあたりまで
五、六本ペットボトルを捨つるため纏めればなかにかろきひかりが
あるいはそれは骨を握れることならむ手を繋ぎつつまだ歩いてる
アメリカの処女地すなわちヴァージニアの地図切り裂けばオリーブこぼれる
 特に三首目のチチカカ湖の歌は、都市に暮らす現代人の焦燥とない交ぜの希求をよく表現していてなかなかの名歌だと思う。定型の韻律をずらしているのも意識的だろう。しかしなかには「永遠に来ぬ革命に焦がれつつわが口ずさむフランス国家」のようなベタな歌もあり、歌の出来は様々である。
 生沼は加藤治郎らから見て干支一回りちょっと下の世代に当たる。ニューウェーブ短歌はその全盛がちょうどバブル経済の時期に重なったことも手伝って、短歌の修辞と表現の拡大においてさまざまなことを試行した。結果的に成長した下の世代が今から見れば「やりたい放題」と見えることだろう。生沼ら次の世代は祝祭が終わった後に登場したので、主題という面でも修辞という面でも確たる方向性を見定めにくいという点で、なかなか辛い立場に置かれた世代である。『関係について』はその辛さがよく現れた賀集だと言えるかもしれない。

第101回 都築直子『淡緑湖』

夏まひるメトロ冷えをりトンネルに長鳴鳥はこゑ呼びあひて
                    都築直子『淡緑湖』
 歌集巻頭歌である。汗が噴き出す東京の夏でも、地下鉄はもともと気温の低い地下を走っており、また車内はしばしば冷房が効きすぎているため、温度が低い。それを「夏まひるメトロ冷えをり」と最少の語句で的確に表現している。長鳴鳥とは古事記に登場する常世の長鳴鳥のこと。天照大神が高天原の天の岩戸に閉じ籠もってこの世が夜のように暗くなったとき、長鳴鳥を集めて鳴かせたところ、天照大神が外に出て来たとされる。この歌にはトンネルと天の岩戸のアナロジーがあり、長鳴鳥は警笛を鳴らしながら疾走する地下鉄車輌だと思われる。世界の尖端を行く近代都市東京の地下に古事記の世界を重ね合わせた重層性がこの歌の眼目である。
 作者の都築直子は第一歌集『青層圏』(2006)で現代歌人協会賞と日本歌人クラブ賞を受賞している。『淡緑湖』は2010年に上梓された第二歌集。『青層圏』を取り上げたコラムにも書いたことだが、元スカイダイビング・インストラクターという異色の経歴から生まれた次のような歌が注目された。
わがうへにふつと途切れしセスナ機のおとの航跡よぞらにのこる
着地場の暗がりの中に聞きとめよ にんげんが夜をおりてくるおと
高層の壁の真下にわれ一人のけぞるやうにいただき仰ぐ
足もとより空に直ぐ立つ垂線をふたつまなこに追ひ飽かずけり
垂直の街に来る朝われらみな誰か生まれむまへの日を生く
 地上に縛り付けられて二次元の世界を生きているわれわれとは異なり、都築は垂直方向に伸びる視線を有していて、それが上のような歌になって現れているのである。この視線は第二歌集でも健在であり、読者はここでも都築の歌を通して垂直方向へと誘われる。
チャレンジャーの飛行士たちはその朝の七十二秒をそらへ昇りき
鳥ふたつ羽ばたきながら飛び立てり地表にのこるいちまいのみづ
はるかなる銀河につづくおほぞらへまひるのぼらは飛び出しにけり
垂直の雨ふる朝の築地川 川の面濡れて空とつながる
 一首目は発射からまもなく爆発事故を起こしたスペースシャトル・チャレンジャーを詠んだもの。二首目は飛び立つ水鳥を詠んだ歌だが、下句を見るとどう見ても水鳥の視点に立っているとしか思えない。三首目のおもしろい所は、ボラの跳躍はたかだか数十センチに過ぎなくても、それはもはや空の一部であり、その空は遙か彼方の銀河と連続しているという見方である。確かに高空からパラシュート降下したら、遙かな高空と地表から数十センチの空間は連続的だと実感できるのだろう。四首目も同工異曲の歌で、川の面に雨が降ることによって、川と空が連続すると感じている。これらの歌は日常の世界の見方を少し修正する発見の歌だと言えよう。
 それは確かにそうなのだが、今回『淡緑湖』を一読して注目したのはこのような歌ではなく、作者の歌境の深化と日本語の深みへと下降する意志を見せる歌である。
睡蓮はいつくしきかなひるふかく水面に浮かぶ言ひさしの口
てのひらのみづ蛇口より吊るされてわれはあしたのすがほを洗ふ
影ふみの影は濃きかなどの影も一世ひとよ添ふべきいちにん持ちて
甕覗の空のふかさを仰ぐときうつしみぐる血のおと聞こゆ
蛍光灯またたく下に箒ありてアンドロメダ忌の下駄箱に
日照雨ふるひかりの中のこゑならむこゑならむとして棕櫚は立ちたり
わが時計いのち終はれば文字盤に添ひこし時間ときは住み処うしなふ
 第一歌集よりも韻律がなめらかになっていることに気づく。それは言葉の斡旋と句切り技術の向上によるものと思われる。また新しい語彙や表現を貪欲に取り入れようとしている。たとえば「甕覗かめのぞき」とは、藍染の染料の入った甕をちょっと覗いた程度の極淡青色を言う。あとがきに「私という人間は、90パーセントの日本語と、10パーセントの水から出来ている」と書いた都築にとって、この4年間は日本語の海の豊饒さに気づく年月だったことが想像される。
 さて、上に引いた歌にはそれぞれ鑑賞ポイントがある。一首目は断然三句目の「ひるふかく」である。睡蓮の姿形を「言ひさしの口」に喩えた比喩もよいが、「ひるふかく」によって歌に時間的奥行きが生まれている点は見逃すことができない。ぐっと歌に差し込むことによって歌が生きる一語があるのだ。二首目は流れる水道の水を「吊るされて」と表現した点。三首目はどの人にも自分の影があるという常識を逆転して、どの影にも付き従う人がいるという見方を示したところだろう。四首目は広大な空と小さな〈私〉という空間的対比に視覚と聴覚の対比を重ねた点。これにより歌に対句的均衡が生まれている。五首目のアンドロメダ忌は埴谷雄高の忌日で2月19日。この歌ではチカチカと明滅する蛍光灯、箒、下駄箱という昭和ノスタルジーを感じさせるアイテムを揃えたところがおもしろい。ドラエモンのどこでもドアのように、下駄箱とアンドロメダ星雲とがつながっているような気すらしてくる。六首目は「こゑならむ」のリフレインによって棕櫚の希求を際立たせた点。七首目は時間を詠った歌だが、針の回転という物理的運動によって不可視の時間を形象化している時計が停止すると、時間が行き場を失ってしまうという見方がポイントである。
 作者の歌境の深化を最もよく表しているのは、次のような歌かもしれない。
肉まんを鋼箱はがねのはこに閉ぢこめて極超短波からみあふみゆ
掃除機の鼻やはらかに掃除機の胴を巻きをり水無月まひる
ひるすぎの蕨医院の床のうへスリッパはみな立つてをりたり
 言うまでもないが鋼箱とは電子レンジで、これはレンジで肉まんを温めている光景である。また二首目は掃除機を立てホースを巻き付けて片づけてあるという、どこのご家庭でも見かける光景だ。三首目は町医者の待合室である。いずれも何と言うことのない日常見慣れた風景である。しかしその日常卑近な光景が実に見事な歌の姿に納まっているところに作者の手腕がある。一首目は「閉じこめて」から「からみあふみゆ」への続き、二首目は四句で言い納めて、結句に「水無月まひる」を置いたところに工夫がある。三首目は患者のいなくなった昼過ぎという時間の選択と、「蕨」と直立するスリッパの連想関係である。
 日本語の海へと漕ぎ出すことで歌が深化する。当たり前のことだが、その作者の自覚が結実した歌集と言えるだろう。

第100回 岩尾淳子『眠らない島』

あれは明日発つ鳥だろう 背をむけて異境の夕陽をついばんでいる
                   岩尾淳子『眠らない島』
 夕陽が差しているので時刻は夕暮れで、明日発つと言っているのだから、北国か南国に向けて飛び立とうとしている渡り鳥だろう。ここが異境なのは、越冬か子育てのために一時的に滞在する場所だからである。鳥が背を向けているのは、もうすでに心はここにないためか。つまりこの鳥はここにいて、すでにここにいないのだ。まるで淡彩画のような淡い色調で描かれた情景は、ぱっと見にはメルヘンの一場面のように見える。しかし、この歌が描こうとしているのは「ここにいて、ここにいない」、すなわち存在と非在のかすかなゆらぎのようなものだと思われる。そしてこの世が異境であるのは、鳥にとってだけでなく、その背後にいる作者にとっともそうなのではないか、と憶測は膨らむのである。
 歌集巻末の自己紹介によれば、岩尾は2002年に「眩」に入会、2006年に未来短歌会に入会。2010年に未来賞を、2012年に兵庫県歌人クラブ新人賞を受賞している。歌集の跋文を加藤治郎が執筆しているので、「未来」の加藤の選歌欄に出詠しているのだろう。『眠らない島』は2012年に上梓された第一歌集である。
 加藤治郎は『短歌ヴァーサス』11号に寄稿した文章のなかで、自身の属するニューウェーブ短歌が短歌史でエポックとなった理由を次の3点にまとめている。
 (1) 革新という近代原理から自由になったこと
 (2) 口語の短歌形式への定着
 (3) 大衆社会状況の受容
 このうち(2)と(3)は塚本邦雄や岡井隆らの前衛短歌がなしえなかったことであり、ニューウェーブ短歌がそれを実現した瞬間に、近代短歌の革新性が終焉したのだと加藤は論じている。確かに事実認識としては加藤の言う通りに、現在までの現代短歌シーンは展開して来たと言ってよい。加藤は上の3点を挙げたが、このうち自身が最も腐心しているのは(2) の口語短歌の定着だろう。加藤の選歌欄「彗星集」に拠る歌人たちもまた、師の引いた口語短歌の道を走っている。『眠らない島』もまたほぼ口語による歌集である。
 口語で短歌を作る場合には、文語にはない問題がいろいろ生じるのだが、そのうち最もやっかいな難題は韻律の平板化(フラット化)だろう。
真夜中に鳴った電話はすぐ切れて2度とかかってきませんでした
自転車の高さからしかわからないそんな景色が確かにあって
               加藤千恵『ハッピーアイスクリーム』
 一首目はマンガの登場人物の科白だと言われても納得してしまうくらいの平板さである。短歌に必要な修辞がここにはまったくない。二首目は一首目よりも優れている。歌の中程に切れがあり、結句を「あって」とテ形(日本語学ではこう呼ぶ)で結ぶことで跡を引く余韻が生まれている。このような修辞上の工夫によって形式が発生し、日常言語との異和が生じ、そこに内的韻律が生まれて来るのである。
 『眠らない島』を一読して優れた口語短歌集だと思った。その理由は、口語短歌の持つ問題をよく認識し、それを回避してポエジーを立ち上げる工夫が随所に凝らされているからである。それをひと言で表現すれば統辞と意味の「ゆらぎ」だろう。
遠ざかるものはしばらく明るくて二本の白い帆を張るヨット
 例えばこの歌では、上三句を読んだ段階で動詞「遠ざかる」の主語が明らかにされていない。読者は主語をカッコに入れたまま読まざるを得ず、宙吊りの状態に置かれる。遠ざかるものはいろいろ考えられるが、それを未決定の状態にしたまま言葉を受容する。言葉はゆらいで、さまざまなものとの結合関係の中をたゆたうことになる。下句に至ってそれが海を行くヨットであることが明かされるのだが、上句のたゆたいは完全に納まることなく浮遊し続け、ヨットには収束しない意味の余剰が生まれる。この「納まりきれないもの」がポエジーである。
車窓からとおくに見えていた水の北側にある春の病舎は
 「北側にある」を終止形と取れば「春の病舎」は主語になり、単なる倒置である。しかし「北側にある」を連体形と解釈すると、四句目までは「春の病舎」にかかる連体修飾句となり、「春の病舎は」の後が省略された不完全な文となる。このような解釈の両義性は歌の瑕疵とされることもあるが、この歌ではその両義性が「ゆらぎ」として働いている。また「水」が川なのかそれとも池なのか入り江なのかも多義的で、この歌に魅力があるとすれば、それはこの未決定性による。
遠くない小さな島のきりぎしに風をおくっているてのひらの
伸びきったホースをかたく巻きながらわからなくなる光のむきを
 この二首ではどちらも結句の「てのひらの」と「光のむきを」が文の残りと文法的にどのように関わるのかが曖昧にされている。一首目では四句までを連体修飾句と取れば、結句は省略的であり「言い差し」感が強く感じられる。また二首目では結句が「光の向きが」であれば、「光の向きがわからなくなる」の倒置形と見なせるが、最後の助詞が「を」であるために、統辞法が脱臼されてそこにゆらぎが生まれている。
 言語学で「袋小路文」(garden path sentences)と呼ばれている文がある。
The horse raced past the barn fell. 
 これをthe horse (主語)、raced (自動詞)、past the barn (付加詞)と頭から読んで行くと、「その馬は納屋を通過して疾走した」となるが、最後に来てfellでつまずいてしまう。実はこれは The horse [that was raced past the barn] fell. からthat wasが省略されたものであり、「納屋を通過して走らされた馬が倒れた」という意味である。garden pathとは庭の中をうねうねと続く道であり、たどって行くと迷うことからこの名が付けられた。 統辞上のゆらぎである。
 もちろんこのゆらぎをあまり多用すると、歌の意味がわからなくなってしまい、そのときは瑕疵として批判されることになる。だから必要になるのはゆらぎを適切にコントロールする技術なのだ。『眠らない島』ではこのゆらぎが実にうまく制御されてポエジーに奉仕している。口語短歌のひとつの方向性だろう。
 内容に踏み込んで読んでゆくと、作者が好んで取り上げる主題は時の移ろいだと思われる。そのことは冒頭の掲出歌にすでに現れていよう。作者は今目の前にいる鳥を見ながら、すでに明日の非在をも見ているのである。
終わらないものなにひとつ持たないで海をうつしているわたしたち
風がありわずかに草の穂をゆらす指がぬきとるまでの時間を
からだから離れるときに触れていた鎖骨のくぼみにのこる夕映え
バスタブの湯のおちてゆく音だけを記憶にのこしてしまう部屋かも
紙コップにコーラは半分のこされて終わってしまうそれだけのこと
 一首目の二重否定による表現には強い諦念が含まれており、それは時間の作用に関わるものである。二首目では「ある」「ゆらす」「ぬきとる」という三つの動詞が時間の経過を表していて、結句の「時間を」の言い差しの宙吊り感がそれを強めている。三首目の「離れる」、四首目の「落ちる」「のこす」、五首目の「のこされる」「終わる」など、すべては状態変化動詞で、その結果招来されるのは何かの喪失と非在である。
 また本歌集には鳥を詠んだ歌が多いことも注目される。
鳥ならがこぼした声のかたむきは見えただろうか退いてゆく波
欄干に飛びたとうとはしない鳥 めぐりの声を遠ざけたまま
この鳥はいつから庭にいたのだろう 細い雨なら見ていたのだが
鳥たちのどこにもいない明るさに磯の潮は満ちようとする
 鳥はやって来てはどこかに飛び去る。存在と非在の間を往還する鳥は、何かと何かの間(あわい)に引かれてしまう作者にとって格好の主題なのだろう。
 最後の特に印象に残った歌をあげておこう。
ときどきはぴくっと動くこの鳥の最後のことをひかりのことを
どこからが花なのだろう とめどなく零れてしまうほうへ牡丹は
白桃をひかりのように切り分けてゆくいもうとの昨日のすあし
もう一歩うしろにさがって立って見る死のあとにくるつよい陽射を
問いかけはひとつのひかり弧を描いて一羽は橋を越えようとする

第99回 喜多昭夫『早熟みかん』

滑るやうに車線変更してしまふコンサバティブな春の夕暮れ
                 喜多昭夫『早熟みかん』
 俳人の加藤郁乎さんが亡くなった。私にとって郁乎の俳句は次に尽きる。
天文や大食タージの天の鷹を馴らし
 俳句は短い分だけ衝撃力が大きい。この句に出会ったときにはほんとうに驚いた。それは加藤楸邨の「サタンる汗の片目をつむるとき」とか、安井浩司の「死鼠をとこの真昼へ抛りけり」といった句に出会った衝撃と通じるものだ。
 先月は安永蕗子さんが長逝された。安永さんの歌で手帖に控えてあるのは次の歌だ。
つきぬけて虚しき空と思ふとき燃え殻のごとき雪が落ちくる
 ポイントはもちろん四句にあり、八音の増音がまことに効果的な歌で、一度見たら忘れられない。あわせてご冥福を祈りたい。
     *     *     *     *     *     *
 最近、あまり気分の晴れることが少ないと感じている人は多かろう。長引く日本経済の不振、昨年の3.11以来の放射能への不安、はたまたEUの混乱による金融不安への懸念と、材料には事欠かない。政府は震災復興資金の捻出のため、国家公務員の給与を向こう2年間平均8%減らすことを決定した。私たち国立大学教員は法人化されたため、もう国家公務員ではないのだが、国庫から運営交付金をもらっている関係上、同列とみなされて給料が減ることになった。私はまあ年上のほうなので、今後2年間は10%給料が減らされる見込みだ。
 こんな風に鬱々として気持ちが沈みがちなときに読むとよい歌集が出た。喜多昭夫の『早熟みかん』である。簡素な造本の自費出版で、あとがきなし、略歴は3行のみでそのうち1行は住所という簡素さに驚く。『青夕焼け』(1989年)、『銀桃』(2000年)、『夜店』(2003年)、『青霊』(2008年)に続く第五歌集ということになる。
 私が喜多の短歌に出会ったのは、第三歌集の『夜店』を書店で手に取って買い求めた時に遡る。全編に漂う洒脱と俳味と「ズルムケ感」(喜多自身の表現)はもうすでに大人、いや中年の文学になっていた。その後、時代を遡るようにして第一歌集『青夕焼け』、第二歌集『銀桃』を読むことになるのだが、やはり本には読むべき順番と、読むべき年齢というものがある。そのことを思い知った。『青夕焼け』は次のような歌の並ぶ青春歌集の金字塔だったのである。
額の上にひとくれの塩戴きて白き鯨はくがめざすべし
手榴弾のごときレモンを握りしめまだ脚韻の詩を知らぬ君
水の上に薔薇羽搏けよ、チェス盤の騎士は倒れよ、わが誕生日
 短歌は青春の文学だと言われることがある。確かに第一歌集がその歌人の一番よい歌集だということも多い。春日井建に師事し、寺山修司に憧れた喜多の第一歌集も、青春の息吹に満ちている。しかし人は否応なく歳をとる。いつまでも青春歌でもあるまい。中年を迎えた歌人はどうするか。歌の別れをして短歌と決別しないとき、大きく分けて二つの道がある。ひとつは自らの美意識を貫徹して孤高の世界を築く道で、その代表格は塚本邦雄だろう。もうひとつは天空を天翔る翼を封印して、地べたをとぼとぼと歩く道である。こちらは小池光の採った方略で、喜多もまたその道を辿ったのである。
 『早熟みかん』に並ぶ次のような歌は、そのような経緯を知った上で読まれるべきものだ。
ああ、仕事をやめてしまひたいこんな夜はヒヨコ鑑定士に弟子入りしよう
はこぶねに乗れないことを悲観して心中をするふたこぶらくだ
ニャロメ忌は赤塚不二夫の忌日なりなにはともあれそれでいいのだ
魚ころし酢飯のうへに載せてなほぐるぐる回すとはなんてこと
Caカルシウム不足のわれか 時東ぁみの小さい「ぁ」にイラッと来たり
 旧仮名ながら口語を多用する文体は、一見すると今の歌壇に溢れるフラットな口語短歌のように見える。確かに受け取る感触としてはライトヴァースのノリなのだが、その見かけに騙されてはいけない。その背後には次のようなしっかりとした文語定型の骨格が隠れているのである。
町なかに人影あらずうすうすともののかたちに雪つもる見ゆ
金魚玉とをの尾びれのいつせいに赫き夕日を弾きけるかも
桃の箱解体すれどなほにほふ かなしみといふほどでなく
 鋭い言語感覚と確固とした定型の技法を自在に操りながら、口語とライトヴァースに遊んでみせるところに、喜多の含羞と洒脱がある。本当は深刻でも深刻ぶることを嫌い軽みを求めるのは、喜多が小澤實の主宰する俳誌『澤』に所属する俳人でもあるからかもしれない。軽みが俳句の命であることは言うまでもない。
 本歌集を一読して気づくのは挽歌の多さではないだろうか。その多くは泉下の人となった歌人に捧げられている。
デッキチェアたたんでゐたら一人づつ肩たたかれて連れていかれた
みづいろのクリアファイルにここだくの星を挟みて家へ帰らう
その歌をくちづさまむか 十二月五日 月曜 雨の久我山
死んでゐる場合ではない岸上よ その眼差しを楯として行け
晩年のしごとを人は穫りいれと呼びて励みき麻薬喫みつつ
地下書庫といふ湿原にひとり来ていまひとたびの『白雨』に遭はむ
頸動脈断ちて果てたるをとめごの泉湧きたりあらくさの中
夏蝶は龍在峠を越えてゆくこの世のことはなべてかりそめ
空蝉に一身上の都合あり生まれて産みて死にたまふなり
みづいろの氷菓包みし薄紙に一行の詩を記したまへな
 最初の二首は笹井宏之への挽歌。続いて岸上大作、春日井建、今泉重子いまいずみかさね、河野裕子への挽歌である。
 挽歌には喜多の短歌を読み解く秘密が潜んでいる。それは本歌取りである。笹井への二首は笹井の「それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした」と、「水田を歩む クリアファイルから散った真冬の譜面を追って」を踏まえたものである。思えば喜多は第一歌集から本歌取りの技法をよく使っていた。
秋の午後傷つきたくてマッチ擦る 院生室のソファーのくぼみ
ケンタッキーフライドチキンの人形を横抱きにして地下鉄にのる
青空にレモンの輪切り幾千枚漂ひつつも吾を統ぶ、夏
 一首目と二首目の寺山の本歌はわざわざ挙げるまでもないだろう。三首目は「目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹」を踏まえている。喜多は若かりし頃、与謝野晶子の「春短し何の不滅の命ぞと力ある乳を手にさぐらせぬ」をパロディーにした「オッパイはオッパイでしょ恥しくなんかないのォと僕の手をひく」という歌を歌会に出して春日井を仰天させたというから、本歌取りは喜多の歌の発想の根幹にあるものと思われる。
 本歌集には他にも次のような歌がある。
笑ひながらほんかくてきになつてくる穂村弘は勝ち組である
アンパンマンの顔のかけらが県道に落ちてゐるからすこし悲しい
 一首目は穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』の巻頭歌「目覚めたら息まっしろで、これはもう、ほんかくてきよ、ほんかくてき」を、二首目は斉藤斎藤の「雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁」を踏まえている。
 このように喜多は若い頃から多くの歌に親しみ、それをもじったりパロディーにしたり触発されたりして歌を作って来たのである。これは決して珍しいことではなく、実は古典和歌の世界でふつうに行われていたことにすぎない。古典和歌の世界では誰もが知っている歌の共通資産があり、それを踏まえてひねりを加えることでいかに新味を出すかを競っていた。したがって喜多は現代短歌に古典和歌の手法を復活させたとも言えるわけで、この意味で〈修辞ルネサンス〉をめざした加藤治郎らのニューウェーブと通じるところがある。
 また喜多が挽歌に特色を滲ませるのもこれと無縁ではない。挽歌は特定の個人の死を悼み、不在の人に呼びかける歌である。人への呼びかけもまた古典和歌が持っていて、現代短歌が失ったもののひとつである。
 次のような歌はもちろん挽歌ではないが、このように特定の人名を詠み込んだ歌もまた、ある意味で人に対する呼びかけが込められていると考えられる。
教壇にチョークを持てばジャパネットたかたのやうに絶好調だ
AKB48のセンターに立つてゐる久木田真紀の亡霊
やつとこさあてた感じのボテボテのゴロがヒットになるのよイチロー
横山やすしが「メガネ、メガネ」と探すとき〈世界〉はすでに終はつてゐたか
マッチ棒振るやうにして棒にふる田代まさしの本名まさし
 二首目の久木田真紀は1989年に「時間 クロノスの矢に始めはあるか」で短歌研究新人賞を受賞した歌人。19歳の女性として応募したが実は中年の男性で、後日そのことが問題となった。声の甲高い通販会社の社長、物故した漫才師、犯罪者となった芸人など、TVでお馴染みのサブカルチャーを短歌のアイテムとして取り上げているように見える。しかしここにも作者の個人への呼びかけがあり、どうやらそれが喜多の世界との関わり方であるようにも見えるのである。
 最後に思わずにんまりしてしまった歌を挙げておこう。
外つ国のをとめごなれど腰を振りわれを励ますKARAのうたごゑ
ロチューとは路上駐車のことでなく〈路上でキス〉の意味とこそ知れ
ひたすらに寄せてはあげる乳のこと知らないふりをしてゐるあなた
カナ、少し賢くなつた気がするの エンドルフィンはイルカではない
メンスキー・タカノビッチ・キミヒコフよ 僕は担々麺が好きです
 一首目など物覚えの悪い私が一発で覚えてしまった。それにしても喜多の手にかかると、どんなに卑近な物事でも三十一文字に納まってしまうから不思議である。二首目もおもしろい。先日、TVで「ガラケー」という言葉を聞いた。若者に意味をたずねると、スマートフォンのような進化した携帯に対して、進化せずそのままの「ガラパゴス携帯」の略だという。まことに世は新語に満ちている。五首目の「メンスキー・タカノビッチ・キミヒコフ」はしばらく考えて高野公彦のことだとわかった。「メンスキー」は「麺好き」だろう。
 どうも気持ちがじめじめしがちな昨今、パロディーと捻りと諧謔と軽み、そしてしずかな悲しみに満ちた喜多の『早熟みかん』を読まれるがよい。きっと心に清涼剤として効くにちがいない。

第98回 『本郷短歌』創刊号

ひとはなお天花を待てり果てのある塔を昇降機に運ばれて
                     屋良健一郎
 2006年に発足した東京大学の本郷短歌会が機関誌「本郷短歌」を創刊した。まずはおめでとうを申し上げたい。白い表紙に黒活字のみというシンプルな造本だが、編集後記によると、会員が組版ソフトのLaTeXを使って自前で組版をしているようだ。編集作業をした経験のある人なら誰でも知っていることだが、本・雑誌作りでいちばん費用がかかるのは、紙代でも印刷代でも製本代でもなく組版代だ。自前で組版を行えば、おおいに経費の節約になる。自前といっても印刷屋に頼んだものに引けを取らない立派な出来映えだ。
 顧問格の大野道夫が「本郷短歌会の歴史」という文章で、本郷短歌会発足までの経緯を披露している。それによれば、東大本郷に非常勤講師として出講していた大野が、東大に短歌会がないことを残念に思い、東大俳句会の二次会で設立を呼びかけて始まったとある。俳句会で短歌会の設立を呼びかけるというのもおもしろい話だが、どちらも短詩型文学ということで、意外に抵抗は少なかったようだ。このような経緯なので、初期の歌会はほとんど俳人ばかりだったらしい。東大から飯田哲弘、藤田哲史、山口優夢、早稲田から谷雄介、お茶の水から神野紗季らが参集したとある。賑やかそうな顔ぶれでうらやましい。歌会の悩みは会場の確保だが、初期は本郷のルノアールで開いていたらしい。その後、1・2年生が学ぶ駒場キャンパスからも会員を迎えたため、現在は主に駒場で開いているようだ。だから会名は「本郷短歌会」(略称「ほんたん」)だが、実質的には本郷と駒場の両方にまたがる東大短歌会ということになる。
 大野が「学生短歌という存在」という文章で、戦後の学生短歌には今までに二つのピークがあったと書いている。第一のピークは佐佐木幸綱、岸上大作、三枝昂之らを輩出した1960年代で、第二のピークは吉川宏志、梅内美華子らの1990年代だという。そして現在は第三のピークを迎えているという。確かに2006年の本郷短歌会を皮切りに、2009年には卒業生の石川美南の肝いりで東京外国語大学の「外大短歌会」が、2010年には大阪大学の「阪大短歌会」が発足している。また老舗の早稲田短歌会には数年前に新規会員がどっと入会し、大人数の会員を擁するまでになっていると聞く。学生短歌会所属の大学生による短歌賞の受賞も相次いでいる。記憶に新しいところでは、2010年に吉田竜宇(京大短歌会)が短歌研究新人賞を、同じく2010年に大森静佳(京大短歌会)が角川短歌賞を、2011年には平岡直子(早稲田短歌会)が歌壇賞を受賞している。
 学生短歌会の隆盛には何か理由があるのだろうか。同じ文章の中で大野は社会学者らしくその理由を分析し、インターネットの利用による短歌の発表と交流の利便化や、俳句甲子園出身者による若手俳人の輩出などを挙げているが、これは短歌を取り巻く外的状況であって現象を説明できるものではないだろう。正確な理由はわからないが、ひとつ確かなこととしては、小池光が言う「自分たちの若い頃は、短歌を作っているというのは恥ずかしいことだった」(『現代短歌の全景』の座談会)という意識は今の若い短歌の作り手にはまったく感じられないということである。その背景には1987年の俵万智『サラダ記念日』の爆発的なヒットによって、短歌にまとわりつく古くさい文芸というイメージが払拭されたことがあるだろう。
 さて「本郷短歌」創刊号の中身だが、会員による出詠をざっと見ると、口語短歌全盛の現代にあって、意外にも文語定型短歌が主流である。目についた歌を挙げてみよう。
見下ろせば海ばかりなり虚空にて地磁気を受くる器官はありや 
                        近藤健一
思ひつつ冷えたる卓を拭きゆけばある違和として塩こぼれゐつ

時計台に登りてみたし朝な夕な宇宙をかずく旋毛つむじ見つけに
                        羽鳥潤
巡り逢わんたった二人を揺らすため静かな意志は地球をまわせり 

現し身が空蝉となるまでの間をいのちと呼びていとほしむのみ
                       安田百合絵
雨降らば透くるたましひ いきものは色それぞれに淡くかがよふ

指をふれあえば光のあふれ出す奇跡のようにかわす手花火
                     川野芽生
にわか雨告ぐるラジオは鳥めきて花季(はなどき)いなむ夜の木々に降る

水切りの石見えずして水紋の広ごりの見ゆ 君に離れて 
                     屋良健一郎
洗い物する背の磁力 抱くことは世界に少し前のめること

盲(めしひ)なる魚へフラッシュを焚く人の白き悪意をなれももちゐむ 
                       七戸雅人
海原のほつれしごときくれなゐを夾竹桃と祖父は教へき

オセロ弱き君に染まりて夏往きぬ 時計跡から広がりし違和  
                       千葉崇弘
透明な廊下に佇む紙毬に音は凍りて濁点の我
 会員の中でいちばん名が知れているのは屋良で、さすがに手堅い作りだ。相聞が少ない出詠の中で珍しく相聞歌を出しており、静かな抒情を漂わせている。まだ自分のスタイルを掴んでいない人が多いのは若いから当然のことだが、なかでは安田の柔らかく無理のない語法が光る。上に挙げたもの以外にも別の連作には、「熟れみちて円かなるきいひそやかに病めるは昼の月のみなるや」「をさな子に鶴の折り方示しをり あはれ飛べざるものばかり生む」などよい歌がある。期待したい。
 残念なのは多忙のためか、2010年に角川短歌賞次席に選ばれた小原奈実が出詠していないことだ。角川短歌賞次席作品には次のような歌があり注目された。
カーテンに鳥の影はやし速かりしのちつくづくと白きカーテン
てのひらのくぼみに沿いしガラス器を落とせるわが手かたちうしなう
切り終えて包丁の刃の水平を見る目の薄き水なみだちぬ
 創刊号巻末の夏合宿歌合記録に小原の近詠がいくつか紹介されているので、挙げておこう。次号では近作を読んでみたいものだ。
ストローに口紅つきしまま捨てつ 悔いありて悔いに沿ひゆく思考 
                          題詠「色」
三四郎の訛りのごとき凹凸に影こくうすく暮れゆく煉瓦  題詠「東大」
あさがほのしをれしは色濃くなりてけふの沈黙をおもひかへせり
                         題詠「あさがお」
 この他にも創刊号には会員による「作歌の原点、現在地」というざっくばらんな座談会が収録されている。読んでみると、最初に短歌に出会ったのは学校の国語の授業だったという人が多い。やはり国語教育は大切なのだ。それから短歌や文学に向かう動機として、周囲に対する違和を挙げている人も多くいて、改めて文学は青春のものだとの感を深くする。
 発表の場を得て漕ぎだした「本郷短歌」である。雑誌を創刊するのにはたいへんなエネルギーが必要だが、続けるのにも同じくらいエネルギーがいる。エールを送りたい。

第97回 本田一弘『眉月集』

真青なる空とびてゆくしろたへのはくてうの羽の暗き内がは
                   本田一弘『眉月集』
 空を飛ぶ鳥は幾度となく歌に詠まれている。人口に膾炙した牧水の歌は青春の悲哀と矜恃の歌であった。しかし掲出歌が目を注ぐのは空を行く白鳥の雄姿ではなく、その暗い内部である。短歌を乱暴に分類すると、「見えるものを詠む歌」と「見えないものを詠む歌」に二分できる。前者の代表は言うまでもなく写生を旨とする写実派だ。現代にあっても短歌の主流を占めている。しかし見えないものを詠むことに注力する作風の歌人もまた少なくない。その代表は塚本邦雄や、「幻視の女王」と呼ばれた葛原妙子だろう。しかしこの方法を意図的に進めた前衛歌人に限らず、叙景を本領とする歌でも、実は見えていないものを詠むことのほうが主眼だったのではないかと思うことがある。掲出歌は空を飛ぶ白鳥の描写に始まり、結句に至って読者を目には見えない内部へと誘う。白鳥は死者の魂をあの世へ運ぶという。他に「うたびとは歌うたふべし言の葉の間にひそむ闇を抱きつつ」という歌のあるこの作者も、いやおうなく不可視の領野に心が向かうようだ。
 本田一弘は1969年生まれで、佐佐木幸綱の竹柏会所属。2000年「ダイビングトライ」で短歌現代新人賞を、第一歌集『銀の鶴』で日本歌人クラブ新人賞を受賞している。『眉月集』は第二歌集にあたり、寺山修司短歌賞の栄誉に輝いた。「衣打つ音きこえくる推定の助動詞『なり』を子らに説くとき」などという歌があるので、高校の国語の先生をしているようだ。作風の基本は文語定型で、あとがきまでも擬古文で書かれている。帯文で師の佐佐木幸綱が、「新しさを追い求めて、前のめりの歌人が蔓延する現代歌壇に、古さを恐れない新しさをひっさげて、『抒情の更新』に果敢に挑戦する一冊である」と紹介している。
 本田は福島県は会津若松の在であり、本書を読む上で作者が会津人であり東北人であることを避けて通ることはできない。奇しくも福島第一原発事故で、東北地方の辿って来た歴史と置かれた来た状況に国民の耳目が集まったが、アテルイの昔から戊辰戦争に至るまで、陸奥は中央に弓引く地であり、中央から冷遇されてきた土地でもある。東北地方がどのように歌枕となり和歌の想像力を刺激してきたかは、『岩波現代短歌辞典』の「陸奥」の項目で小池光がていねいに解説している。本田の基本は郷土愛にあり、本歌集には会津地方の風土と人への愛着を感じさせる歌が多く見られる。
磐梯の雪解水の身に滲みて田は一斉に笑ひ初めたり
雪ふれる猪苗代湖の底ふかくひそみてゐむか魚族いろくづたちは
ああこれを茂吉好みき納豆にからまるもちひ食へばうましも
みちのくの訛を濃ゆく享けつぎて死ぬまで吾は訛りいゆかむ
 郷土愛は反転すれば中央への反発と憎悪に転じる。次の歌は戊辰戦争・会津戦争の死者に思いを馳せ、死者の魂に寄り添う歌である。最後の「滅べ東京」という呪詛に作者の強い思いが感じられる。
敬しんでまうしあげます この街が少年の血でぬれてゐること
西軍の戦死者慰霊するために東京招魂社は創られたりき
招かれしたましひ三千五百八十八 招かれざるたましひ数しれず
首都移転など議論されわが街が候補地だった──滅べ東京
 近代化とともに短歌の舞台が都市に移った現代にあって、地方性と風土に根ざした作風は今や貴重と言えるかもしれない。佐佐木幸綱の帯文に言う「古さを恐れない」という形容はこの点を指したものだろう。しかし一読して私が注目したのは、むしろ作者の眼差しの向けられる先である。本田の眼は自然よりも多く人に向かい、そして生者よりも死者に多く向かう。
春雷の幽けく鳴りぬ薄暮にプリーモ・レーヴィの自死を思ふも
少年の守谷茂吉をかなしみし金瓶村にわれ佇ちにけり
一鳩兵石田哲大の翔ばしたる白鳩の裔いまいづく航く
雨さむき開運橋をわたりくる飲んだくれたる啄木に遭ふ
心平が坐りし場所はどこだらうと思ひつつ囲炉裏端にすわりぬ
円谷の遺書にありしは三日とろろ、干柿、ぶだう、食物くひものばかり
 一首目のプリーモ・レーヴィ (Primo Levi) はイタリアの作家。ユダヤ系でアウシュヴィッツ収容所から生還した体験を綴った著書で名高い。墓碑には囚人番号が刻まれているという。遠くに聞こえる春雷に危機の予感を感じ、それがレーヴィを想起させたか。二首目の守谷茂吉は言うまでもなく後の斎藤茂吉。石田哲大てつおは石田波郷の本名である。戦時中石田が軍用の伝書鳩担当兵だとは知らなかった。五首目に登場する草野心平は福島県いわき市出身であり、本田とは同郷である。六首目の円谷幸吉は1968年に自殺したマラソン選手で、その遺書は名文としてしばしば取り上げられる。円谷もまた福島県の生まれである。愛媛県出身の石田波郷を除けば、全員が福島県か東北地方出身者であることがわかる。本田は自身が茂吉や啄木や心平の血を受け継ぐ者だと強く意識しているのである。なお寺山修司短歌賞を受賞したにもかかわらず、本歌集に寺山の名が登場しないのは、作者の嗜好によるものと思われる。
 このように東北出身の文学者を歌に織り込むのは単なる先輩へのオマージュではない。本田はその名を呼び事績を想起することで、死者と交流し時間を遡行しているのである。本田が最も好むのは、想像上でこの世とあの世の境を越えて死者と交感することなのだ。その根底には生は死と別ものではなく、死もまた生と別物ではないという思いが横たわっている。その証拠に次のような歌がある。
シノニムとしてのアントニム 生としての死 死としての生
 シノニム (synonym)は同義語、アントニム (antonym) は反義語の意。生と死は反義語であると同時に同義語だというのである。本歌集には会津の自然を詠んだ叙景歌や相聞歌も収録されているが、それらはすべてこのような死生観に基づいていることに留意すべきだろう。
 それにしてもこの歌集にはおびただしく死者が登場する。その様は次のようである。
蝉声がきこえてきたり犬死にと呼ばれて死にし人のこゑたり
うつしよと彼の世の岸を繋ぐもの死者も見てゐむふる雨のいろ
極月の死びとがひとり増えてゆくあをきペンキを塗りにけるかも
ゼロ年代の最後の空ゆふりてくる六花よすべて死者のふみなれ
大根の煮えてゆく音ふつふつと人死にてゆくふゆのゆふぐれ
 このように会津の風土に根差しつつ、生と死の境界を越えて眼に見えないもの・失われたものに思いを馳せるとき、本田の歌は最も輝くようである。そんな立ち位置から歌を作る本田にとって、「現代短歌における新しさ」など笑止の沙汰であり、「短歌のフラット化」などどこの国の話だということになろう。特に印象に残った次のような歌を読めば、作者が新しさなど微塵も求めていないことは明白であり、むしろ古代から続く言の葉の木のささやかな一葉たらんと願っていることがわかるのである。
近代のか黒きそびららんまんとさくらのはなをりつつ立てり
どこからかたれかの飢うるたましひがひびきくるなり ぎたる弾くひと
もろもろの霊蔵はれてにんげんの発明したる電気もて冷ゆ
おほははのなづきにしろき花ふれりことのはなべて喪はしめて
うつせみの時間流れてものいはぬたましひとあふくまの川なれ
氏の名前あなぐらむして遊び居りたましひやけろたましひやけろ

第96回 桜木由香『連祷』

咲きみちて一枝の花も散らざれば手触れむほどに過ぎてゆく時
                     桜木由香『連祷』 
 今年の冬は異常な低温傾向が続いていたが、ようやく暖かくなり近所の白木蓮の花が咲き始めた。桜の開花も近い。花の開花は季節の移り変わりを最も身近に感じさせてくれるものだろう。
 掲出歌も花を詠んだ歌で、名指しはされておらずとも桜の花だと知れる。満開を迎え散る直前の瞬間を捉えたものである。コップに水を注いで行くと、満杯になって溢れ出す瞬間に水は最大容積となる。コップに満ちるのは水だが、では桜に満ちるのは何か、それは時間だと作者は考えている。手で触れることができるほどに実体化され満ちた時間。それがこの歌の眼目にちがいない。あとがきで作者は、「私は光陰と同じ存在である」と書いており、この歌に限らず、集中に収められた歌に通底する主題は時間だと見てもよい。
 2011年に出版された『連祷』は、桜木由香の第一歌集。桜木は「未来」所属で、作歌歴は10年余りだという。2009年に未来年間賞を受賞。本歌集には「未来」で選歌欄を担当する桜井登世子が跋文を寄せている。跋文とあとがきから知れるのはこのくらいなのだが、実は作者は『無限』という歌集を残した故・市原克敏氏の御夫人である。
 『無限』は私が今まで読んだ中で、最も戦慄を覚えた歌集だろう。キリスト者である市原の作風は形而上的かつ宇宙的で、神を求めつつ懐疑に煩悶する歌からは血が滴るかのようだ。
十字架の雨を切る音ひりひりと下ゆく人ら夢裂かれつつ
師よ弟子に神への祈りを祈らせよ祈りを祈る意味の無意味を
なんぜんの神過ぎゆくも愚かなる神を問う神いまだ渉らず
 なかでも慄然とするのは連作「われはショアーなり」に並ぶ歌だ。「殲滅せよ」と叫ぶ神とは何者かと問う作者の声が痛切に響く。無意味な数字の羅列が空恐ろしい。これほど恐ろしい数字の歌は絶無である。
9841237ヘテ人を焼きわれは数うるかくのごとくに
9152348アモリ人を撃ちわれは数うるかくのごとくに
9263451カナン人を追いわれは数うるかくのごとくに
 形而上的な夫の作風とは大きく異なり、桜木由香の短歌は理知的な感性を働かせて、自然の風景の中に硬質の情感を滲ませるものが多い。
子どもらの去りたる広場ゆうぐれは水位のごとく蝉のこえ湧く
誰もいない部屋にひかりは差してきて唇のようにあく白きドア
さかのぼり遡りゆく魚らの影の記憶をそよぐ篠懸
見いだしし折紙の青きひとひらに驟雨のごとく思慕は奔れり
地上ふと海底と入れかわるとき白き腹みせ飛行船ゆく
 一首目、昼間は子供が遊ぶ都会の小公園も、日の落ちる頃になると人気がなくなる。夕影がきざす様を「水位のごとく」と表現した点がポイント。二首目はちょっと不思議な歌だ。「誰もいない部屋」とあるので、無人だとするといったい誰がこの光景を目撃しているのだろう。ひとりでに開くドアも不思議だが、ここでも「唇のように」という比喩が効果的だ。三首目、「さかのぼり遡りゆく」の繰り返しが長い時の経過を感じさせる。篠懸はプラタナスで、街中でよく見られる街路樹だ。そこに魚は唐突だが、何万年にも亘る進化の時間に思いを馳せているのだろう。四首目では珍しく感情が露わに表現されている。折紙がアイテムなので少女時代の記憶か。「青き」「驟雨」「奔れり」のゆるやかな縁語関係が歌の結構を支えている。五首目は見立ての歌で、表現の順番とは異なり、空を行く飛行船を見て、あれがもし本当の船だったら、自分のいる地面は海底のはずだというのが本当の発想の順番だろう。それを逆転して表現するところに技巧があり、技巧のあるところにのみポエジーが生まれる。
 夫君の市原と同じく作者もキリスト者らしく、信仰や聖書に材を採った歌も少なくないが、市原のような形而上的煩悶は不在だ。
白き葉は純白の皿の舌平目 否神の朝の鶏鳴遠く
与えかつ奪いゆくものこのゆうべ高架電車にヨブゆれてゆく
会堂へ漂着したるうつし身へ溶けなんとして白きオスチア
アベル殺す赤き無惨を記憶してひと茫々たり 創世記閉ず
開けエッファタと触るる手待てば半月はひかり増しきぬ紺青の空に
一首目はキリストが「鶏が鳴く前にあなたは三度私を知らないと言うだろう」と弟子に告げた挿話による。三首目の「オスチア」はミサで信徒に与える聖体。「エッファタ」は耳の聞こえない人が聞こえるようになったというキリストの奇跡の言葉で、ギリシア語らしい。キリストはヘブライ語を話していたと思われがちだが、実際はギリシア語やアラム語で語りかけていたようだ。
 本歌集で最も作者の個性が際立つのは次のような歌ではないかと思われる。
絶望をそらへ放てばぬばたまのつばさ搏ちゆくこだま聞こゆる
割礼をわがくちびるに享けしごと夕べ歌わな薔薇のことばを
水無月の草木は道に匂いたちいつしか思惟のたわみゆくなり
かぎりなく傘の円周にとざされて降りしぶく雨に出で来てあゆむ
ましぐらに鳥影は発ち見ゆるもの見えざるものへ深みゆくそら
 硬質の思惟の言葉と感性の言葉とが、互いの位相の違いに軋みつつも一首の中で緊密に繋がりあって発光し、ひとつの精神世界を構築している。特に五首目は陰翳と余韻に富み本歌集の白眉かとも思う。文語定型でややテンション高く、日常語彙から離れたこういった語法は、緩んだ定型と口語短歌・ライトヴァースに親しんだ若い歌人には抵抗があるかもしれない。しかしこの文体と言語の位相は、古くは「アララギ」に発して「未来」系統を引く近代短歌の文体のひとつの到達点ではないだろうか。
 歌集巻末に他の歌から離れて特別に配されている一首がある。
星ぞらに慟哭は充ち抛られし一ヶの骨のかく晒されて
 この歌は市原の歌集『無限』に収録された「抛られたる一ヶはわれの骨となり一ヶはとおく砂上をあそぶ」への返歌なのだ。市原は自分を骨に喩えるのを好んだので、「一ヶの骨」は泉下の人となった市原自身だろう。巻末まで辿り着いて本歌集が市原への鎮魂の書であることを読者は知る。それと同時に、歌に対して歌い返すという歌の本質が鮮やかに示されていることに改めて感じ入るのである。

第95回 渡辺実『日本語と和歌』

年たけてまた越ゆべしと思ひきやいのちなりけり佐夜の中山
                       西行法師
 今回の「橄欖追放」は歌集ではなく歌論でもなく、国語学の論文を取り上げたい。渡辺実の「日本語と和歌」である(『国語意味論』所収、塙書房、2002年、初出は『和歌文学講座 1』勉誠社、1993年)。渡辺は大正15年(1926年)生まれ。京都大学文学部を卒業、長く京都大学教養部で国語学を講じ、1985年に上智大学文学部に転じている。計算してみると、私は教養部で渡辺と同僚だった期間が5年間あるが、当時駆け出しの私には残念ながら記憶がない。
 京都大学教養部の一般教養科目には「言学」という科目があった。奇妙な名称で他のどこにも見あたらない。ふつうは「言語学」という。この「言学」という科目名には長い歴史と学問的背景がある。近代言語学の父として知られるソシュールの著書は、日本でいちはやく小林英夫によって翻訳され『言語学原論』(岡書院)として世に出た。1928年のことである。同書はのちに岩波書店から出版され(1940年)、1972年に『一般言語学講義』として改訳出版されて現在に至っている。ソシュールは構造としての言語をラング (langue)と呼び、その具体的使用であるパロール (parole)と区別して、言語学はラングを研究対象とすると規定した。小林英夫は翻訳にあたって「ラング」を「言語」、パロールを「言」と訳した。ならばこそ『言語学原論』という書名に意味がある。
 これに敢然と立ち向かったのが国語学者時枝誠記ときえだ もとき (1900 – 1967)である。時枝は「言語過程説」という独自の理論を提唱し、パロールこそが研究対象であるべきだとした。そして『言語学原論』の向こうを張って『国語学原論』(1941年)を世に問うた。京都大学教養部の国語学教室は時枝の流れを汲むがゆえに、小林の翻訳を踏まえて、ラングの学としての「言語学」ではなく、パロールの学として「言学」を看板に掲げていたのである。
 もちろん大学に入学したばかりの自意識過剰の若造に、この科目名に込められた深い意味と含蓄がわかるはずもない。ただ「ヘンな名前やな」と感じたのみである。思い返せば当時の教養部には、阪倉篤義さかくらあつよし、渡辺実、川端善明らそうそうたる国語学者がひしめいていた。「エラい先生だ」と気が付いたのはずっと後のことで、その学問の深さを理解するにはさらに何十年も要した。あの頃もっと講義を聴いていればと悔やんでも後の祭りである。
 渡辺の「日本語と和歌」は15頁程度の小論だが、その射程は鋭く深い。国語学の専門家だけでなく、短歌を初めとして広く言葉に関わる人に、あらためて日本語の特質について考える材料を提示してくれる。渡辺の年来の主張は次のように要約できる。
 日本語は言語主体の側に属する意義に対して温かく、対して西洋諸語は対象の側に属する意義にエネルギーを注ぎ込もうとする言語である。
 渡辺は言語主体(話し手)に属する意義を主体的意義または「わがこと」と呼び、対象の側に属する意義を対象的意義または「ひとごと」と呼んでいる。日本語は「わがこと」と「ひとごと」を鋭く区別し、「わがこと」に温かい言語だということになる。
 具体例を挙げて説明しよう。「うれしい」「悲しい」のように感情を表す表現は、「私はうれしい」「私は悲しい」のように1人称(話し手)には使うことができるが、「×彼はうれしい」「×あなたは悲しい」のように話し手以外には使うことができない。他人については「彼はうれしそうだ」とか「花子は悲しがっている」のように、「そうだ」や「がる」などを付けて感情を客体化しなくてはならない。「うれしい」「悲しい」のような感情は、それを感じている当人にしかわからず、ましてや表現できないからである。一方、英語では I am happy / sad.と並んで He is happy / sad. は何の問題もない。日本語は私しか感じることのできない「わがこと」領域を言語的に厳しく区別する。それにたいして英語は「わがこと」と「ひとごと」の区別に無関心であるということである。
 「わがこと」とは話し手が自分について語る領域であり、その最深部は感覚・感情によって構成されている。「ひとごと」は「あの人は背が高い」や「この川は流れが速い」のように、〈私〉以外の対象、すなわち〈世界〉について語る領域である。もし渡辺の説が正しいとするならば、英語などの西洋語は〈私〉ですらも〈世界〉を構成する一部として客観的に表現する言語であり、翻って日本語は〈私〉語りと〈世界〉語りとを区別する。いや、渡辺はさらに論を進めて、日本語では〈世界〉について語ってもそれは畢竟〈私〉語りとならざるを得ない言語だと言うのである。
 このことは日常の言葉の使い方にも看て取れる。他出しようと玄関を出たところで近所の顔見知りに出会ったとする。私たちは挨拶を交わして「今日はいい天気ですね」などと言う。しかしこの文から終助詞の「ね」を取り去って、「今日はいい天気です」とすると非常におかしい。このおかしさは「今日はいい天気です」という文の文法性に関わるものではない。これはこれで立派な日本語の文である。しかし、私たちは前述したような状況ではそのようには言わない。ここはどうしても確認・同意を表す「ね」が必要だ。だからこの文のおかしさは、〈私〉と〈あなた〉に関わる伝達の場への適合性の問題である。一方、英語ではと考えてみると、同じ状況でIt’s fine today.という発話は何の問題もない。日本語では「今日はいい天気です」という伝達すべき情報内容(「世界」語り) に、〈私〉と〈あなた〉の織り成す伝達の場が否応なく付随するのである。終助詞の「ね」を付すことで、「〈私〉は〈あなた〉に次のことを述べますから、それを受け取って確認・同意してください」という伝達の位相が加わるのである。
 渡辺の論に戻ろう。渡辺は日本の和歌が古くは相聞・贈答にあり、和歌の言語が特定の人物を相手とする伝達の言語の水準にあったとする。もちん古代の和歌にも叙景歌は存在する。では叙景歌は自然などの対象を詠むものだから、「ひとごと」に属するかというとどうもそうではないようだ。渡辺は次のように続ける。
実は、目の前の実景を詠ずるというそのことが、伝達向きに出来ている日本語の場合、対象的意義に徹することの出来ない原因として作用するようなのである。伝達の言語の典型的なあり方は、特定の話手が、特定の聞手に対して、特定の時、特定の所において、言表する、という構造を持つ。日本語が伝達の言語としてよく出来ている、ということは、「わたしが、あなたに、いま、ここで」という現場性によく順応し得る性質が、日本語には濃厚に備わっている、ということを意味しよう。(…) 日本語は、たとえ「わたし」と言わず、自然そのものを描くように言ってもなお、それは「わたし」の風景であろうとする。
 渡辺はこのような論を踏まえて、万葉集の「春すぎて夏来るらし白たへの衣ほしたり天の香具山」は、実景を前にしての詠ではあっても決して叙景歌ではなく、「春すぎて夏来るらし」という作者(話し手)の「いま」「ここ」における主体的判断が眼目だとする。すなわちこれを一般化すれば、自然ですら日本語では「わがこと」として主体化されるということであり、山を詠もうと川を詠もうと、畢竟それは〈私〉を詠むことになるということである。
 渡辺はさらに論を進めて、見たて・縁語・掛詞また体言止も同様に、主体的意義の側に資する語法だとしているが、煩雑になるのでこれ以上は触れない。
 もし渡辺の言うように、日本語が「わがこと」的性格を強く内在させ、主体的意義に温かい言語であるとするならば、和歌・短歌・俳句のような短詩型文学が発達したことは納得がいく。日本語に「わがこと」的性格が内在するのならば、どのような短い断句にも〈私〉が揺曳せざるをえないからである。
 折しも吉本隆明の訃報が報じられたところである。吉本の「短歌的喩」という概念を渡辺の論と照らし合わせて再考するのも一興だが、それは私の手に余ることなので、ここまでに留めたい。