「フランス語100講」 こぼれ話 (5) ー gentiléの話

 あまり知られていない単語だが、gentilé(ジャンティレ)とは地域・地方・町などの住民をさす単語をいう。パリに住む人はun Parisien / une Parisienne、ノルマンディー地方la Normandieに住む人なら un Normand / une Normandeである。ちなみにgentiléはそのまま形容詞としても使えるので、頭を小文字にして la mode parisienne「パリのファッション」un cidre normand「ノルマンディー産のシードル」のように使う。

 gentiléは派生語 (mot dérivé) の一種なので、名詞から形容詞を派生する語尾を持つものが多くある。次の単語の語尾の –al, -ois, -ien, -ainなどは、名詞から形容詞を作るときによく使われるものである。

 

 la Provence プロヴァンス地方→ un Provençal / une Provençale プロヴァンス地方の住民

 la Suèdeスウェーデン → un Suédois / une Suédoise スウェーデン人

    l’Alsace アルザス地方 → un Alsacien / une Alsacienne アルザス地方の住民

 l’Amérique アメリカ → un Américain / une Américaine アメリカ人

 

 しかし国や地域・地方・町の名は固有名詞なので、ふつうの形容詞を派生する語尾とはちがう形になるものもある。たとえばモナコ公国 la Principauté de Monacoの住人は un (une) Monégasque という。このように予想のつかない形があるので、gentiléはクイズ番組でもよく出題される。

 gentiléを知るために参考になる文献としては次のものが挙げられる。

 ・新倉俊一他『フランス語ハンドブック』白水社、1978.

 巻末にフランスの地方名とその形容詞、世界の国名一覧表とその住民名が掲載されている。しかし古い本なので、国名が変わっていることもあり、新しくできた国は載っていない。都市の住民名も出ていない。

 ・倉方秀憲『倉方フランス語講座 II 語形成』トレフル出版、2024.

 第4章「形容詞を作る」に、「国・都市・地域などを表す形容詞を作る接尾辞」という項目があり、多くの例が挙げられている。しかしあくまで語形成の規則を扱っているため、例外的で特殊なgentiléは載っていない。

 こんなとき頼りになるのがインターネットだ。フランス語版 Wikipediaを引くとその都市の住民名が書いてある。たとえばパリ郊外の町の Saint-Germain-en-Layeの住人は un (e) Saint-Germanois(e)というとわかったりする。

 ヨーロッパの国の住民名は教科書などに載っていることが多いので、フランス語を学ぶ人にもなじみが深いだろう。

 

 l’Espagne スペイン → un(e) Espagnol(e) スペイン人

 lAllemagne ドイツ → un(e) Allemand(e) ドイツ人

 l’Angleterre イギリス → un(e) Anglais(e) イギリス人

 la Belgique ベルギー → un(e) Belge ベルギー人

 

 しかしあまりなじみのない国だと住民を表す単語にも意外性がある。

 

 le Yémen イエメン → un(e) Yéménite イエメン人

 le Congo コンゴ → un(e) Congolais(e) コンゴ人

 le Lichtenstein リヒテンシュタイン → un(e) Lichtensteinois(e) リヒテンシュタイン人

 

 イエメン人の語尾の-iteは住民を表すときによく使われる語尾で、京都の住民は un(e) Kyotoïte、東京の住民は un(e) Tokyoïteという。「キョトイット」「トキョイット」と読む。

 都市名で定冠詞の付いている都市名は定冠詞を取ってgentiéを作る。

 

 Le Havre ルアーブル → un(e) Havrais(e)

 La Rochelle ラロシェル → un(e) Rochelais(e)

 

Saint-の付く都市名はSaint-を取るものが多い。

 

 Saint-Tropez サン・トロペ → un(e) Tropézien(ne)

 Saint-Malo サン・マロ → un(e) Malouin(e)

 

 都市名が複合語になっている場合は、その一部だけを使ってgentiléを作ることが多いようだ。

 

 Aix-en-Provence エクス・アン・プロヴァンス → un(e) Aixois(e)

 Salon de Provence サロン・ド・プロヴァンス → un(e) Salonais(e)

 

ただし、Aixois(e)Aix-les-Bainsの住民もさすのでややこしい。

 まったく予想のつかない gentiléもある。その多くは昔のラテン語の綴りから来ていることが多い。

 

 Saint Etienne サン・テティエンヌ → un(e) Stéphanois(e)

 Cahors カオール → un(e) Cadurcien(ne)

 Le Mans ル・マン → un Manceau / une Mancelle

 

 サン・テティエンヌの住民名は、Etienneという人名がラテン語でStephanus「ステェファヌス」だったことに由来する。またカオールの住民名は、昔その地方に住んでいたcadurci「カドゥルキ族」の名に由来するという。ル・マンは自動車の24時間耐久レースが行われることで知られている町である。ちなみに un Manceau / une Mancelleはル・マンのあるメーヌ地方の住民も指す。その地方は古フランス語ではMancelと呼ばれていて、そこから来た住民名のようだ。

 

「フランス語100講」第16講 直接語順と感情表現

 私が通っていた中学・高校は、フランス革命の直後にリヨンで創設され、その後カナダに本拠を移した修道会が運営していた学校です。そのためカナダ人の神父やブラザー(注1)が多くいました。大学に入ってしばらくして母校を訪ねたとき、校長だったアラール神父様に再会し、J’apprends le français à l’université.「大学でフランス語を勉強しています」と報告すると、神父様は Ça me réjouit.とおっしゃいました。日本語ならば「それはうれしいですね」と言うところですが、フランス語では「それは私を喜ばせる」と言うのです。第14講と第15講でお話した直接語順による表現が日本語と最も大きく異なるのは感覚や感情を述べるときの表現パターンではないかと思います。いくつか見てみましょう。

 

 (1) La géopolitique m’intéresse.

  私は地政学に興味がある(直訳 : 地政学は私の興味を引く)

 (2) Les abats me dégoûtent.

  私は臓物料理が苦手だ。(直訳 : 臓物料理は私に嫌悪感を与える)

 (3) Les loups me font peur.

  私はオオカミが恐い。(直訳 : オオカミは私を恐がらせる)

 (4) Tu es toujours en retard. Ça m’énerve !

  君はいつも遅刻するな。イライラするよ。(直訳 : それは私をイライラさせる。)

 (5) La tête me tourne.

  頭がくらくらする。(直訳 : 頭が私においてくらくらする)

 (6) Je n’aime pas ce pull. Ça me pique au col.

   私はこのセーターが嫌いだ。首のところがチクチクする。

  (直訳 ; それは私の首のところを刺激する)

 

 このような直接語順を用いない表現のやり方もないわけではありません。(1) Je m’intéresse à la géopolitique.「私は地政学に興味がある」のように「私」を主語にして代名動詞 s’intéresserを用いて言うこともできます。また(2) Je n’aime pas les abats.「私は臓物料理が嫌いだ」、(3) J’ai peur des loups. 「私はオオカミが恐い」のように「私」を主語にした別の言い方もあります。しかし (4) (5) (6) はちょっと他の言い方が思いつかないほどフランス語に定着しています。

 日本語でこのような感覚・感情を表現するやり方はフランス語と大きく異なります。好き嫌いのように時間によって変化しない性質や、「心配だ」のようにある程度長く続く感情では「私」を主語にするのがふつうです。

 

 (7) 私は牡蠣が嫌いだ。

 (8) 私は父の健康が心配でならない。

 

 しかし、たった今感じている感覚や感情は、「私」を表に出さずに言います。この場合 (9) のように無主語文になることも珍しくありません。

 

 (9) ああ、暑い!

 (10) 腰が痛い。

 

 一方、フランス語では上の (1) (6) を見ればわかるように、直接語順の表現パターに従って、次の三種類の関係を重ね合わせた言い方を使います。

 

 a.〈主 語〉─〈動詞〉─〈直接目的補語〉

 b.〈動作主〉─〈動作〉─〈被 動 作 主〉

 c.〈原 因〉─〈影響〉─〈影響が及ぶ対象〉

 

 ですから例 (2) Les abats me dégoûtent.のように、あたかも主語のles abats「臓物」が私に対して嫌悪感を抱かせるという表現になるのです。

 フランス語をちょっと離れて英語を見てみましょう。英語を習っているときに、心理や感情を表すのに〈be動詞+過去分詞〉をよく使うことを不思議だと感じませんでしたか。

 

 (11) I’m interested in history.

   私は歴史に興味がある(直訳 : 私は歴史に興味を引かれている)

 (12) I’m deeply concerned about my father’s health.

   私は父の健康状態を憂慮している。

  (直訳 : 私は父の健康状態に心配させられている)

 (14) I was surprised by the test results.

   私は試験の結果に驚いた。(直訳 : 私は試験の結果に驚かされた)

 

 これらの表現で使われている〈be動詞+過去分詞〉は、もともとは受動態ですから「私が〜される」という意味を持っています。ただし受動態由来ではあっても、これらの表現の中の過去分詞は形容詞に近づいていると考えられます。

 英語もフランス語同様に直接語順を好む言語ですので、たとえば (14) The test results surprised me.「試験の結果は私を驚かせた」のように、〈動作主〉─〈動作〉─〈被動作主〉パターンを使って言うこともできます。しかし英語では心理や感情の主体である「私」を主語にして〈be動詞+過去分詞〉を用いる言い方が多く見られるようです。そのほうが心理や感情の主体である「私」について語っているというニュアンスが強くなるからでしょう。

 フランス語でも感情や心理を表す動詞を受動態で使うことはあります。

 

 (15) J’ai été étonné de la franchise de ses paroles.

   私は彼(女)の物言いの率直さに驚いた。

 

 しかし英語ほど多くはありません。それにはいくつか理由が考えられます。

 第一の理由はフランス語が受動態を嫌うということです。(注2)同じことを表現するときに、フランス語は英語より受動態を使うことが少ないことが知られています。受動態を使うと、〈主語─動詞─直接目的補語〉という統語構造に〈被動作主─動作─動作主〉という意味役割が与えられることになるので、直接語順の表現パターンから外れてしまいます。ですからフランス語は英語以上に直接語順を好む言語だということになるでしょう。

 もう一つの理由はフランス語には代名動詞があることです。初級文法のクラスでは代名動詞に次の3つの用法があると習うことが多いでしょう。

 

 (16) Je me lave la figure. [再帰用法]

   私は顔を洗う。

 (17) Ils se téléphonent tous les jours.[相互用法]

   彼らは毎日電話をかけあう。

 (18) Le vin blanc se boit frais.[受動用法]

   白ワインは冷やして飲むものだ。

 

 しかしもう一つ大事な用法があります。それは「自発」、つまりしようと思ってするのではなく、ひとりでに起きることを表す用法です。(注3

 

 (19) Clarisse s’est réveillée tôt le matin.

   クラリスは朝早く目覚めた。

 (20) La porte s’ouvre toute seule.

   ドアは自動的に開く。

 (21) Les fleurs se sont fanées.

   花はしおれてしまった。

 

 (19)se réveillerは再帰用法に分類されることがありますが、目覚めるのはしようと思ってすることではなく自然に起きることですから、自発に分類するのがいいでしょう。(20) (21) のように無生物が主語のときは当然ひとりでに起きることを表します。

 心理や感情を表す表現には代名動詞が多く見られます。その理由は次のように考えられます。たとえば「思い出す」se souvenir de 〜を例に取ると、確かに人の名前を失念してしまい、懸命に思い出そうとすることはあります。しかしそうではなく何かをきっかけとしてふと思い出すということもあるでしょう。そんなときは過去の記憶が自然に甦ったように感じます。À la vue de ce paysage, Clarisse s’est souvenue de son enfance.「その風景を見てクラリスは子供時代のことを思い出した」と言うときは、思い出は向こうからやって来たように感じられます。次に挙げるのはいずれも心理や感情を表す代名動詞の自発用法です。

 

 (22) Il s’est aperçu de son erreur.

   彼は自分のまちがいに気づいた。

 (23) Elle s’est repentie de son passé.

   彼女は自分の過去を後悔した。

 (24) Je m’inquiète de perdre mon emploi.

   私は職を失うことを心配している。

 (25) Il se fâche pour un rien.

   彼はちょっとしたことで怒り出す。

 

 étonner「驚かす」という動詞にもs’étonner「驚く」という代名動詞の用法があります。ですからフランス語には次の3通りの言い方があることになります。

 

 (26) a. La séparation de Jean et de Nicole m’a étonné.

   (直訳)ジャンとニコルが別れたことは私を驚かせた。

    b. J’ai été étonné de la séparation de Jean et de Nicole.

   (直訳)私はジャンとニコルが別れたことに驚かされた。

   c. Je me suis étonné de la séparation de Jean et de Nicole.

    私はジャンとニコルが別れたことに驚いた。

 

 (26 a) étonnerを他動詞として用いた直接語順の表現です。(26 b)は同じ動詞を受動態で用いたもので、(26 c) は代名動詞s’étonnerを使っています。英語には (26 a) のような他動詞の言い方と、(26 b) のような受動態の言い方しかありません。ところがフランス語には (26 c) のような代名動詞を用いた表現方法があります。このためにフランス語は英語ほど受動態由来の言い方を使わないのだと考えられます。

 このようにフランス語では心理や感情を述べるときに代名動詞が活躍するのですが、この問題についてはまた回を改めてお話することにしましょう。

 

(注1)ブラザー (brother、仏 frère)とは、布教やミサ聖祭には携わらず、修道院の日常業務を担当する修道士のこと。辞書では「平修道士」と訳されていることがあるが、入会時に神父になるかブラザーになるかは本人が選ぶので、神父とブラザーに上下関係はない。

(注2)フランス語が受動態を嫌うことは第50講で詳しく検討する。

(注3)自発用法は emploi neutre「中立的用法」と呼ばれることもある。

 

「フランス語100講」第15講 無生物主語構文 (2)

 なぜフランス語の無生物主語構文をそのまま日本語にすると不自然に感じられるのでしょうか。夏目漱石は無生物主語構文を嫌っていたようで、次のような言葉を残しています。

「元来余は所謂抽象的事物の擬人法に接する度毎に、其多くの場合が態とらしく気取りたるに頗る不快を感じ、延いては此語法を総じて厭ふべきものと断定するに至れり。これ恰も多年の修養を都会に積みし田舎漢を再び昔の山出しに引き直して、しばらく十年前の気分に帰れと強ふるが如し、不自然もまた甚だしと云ふべし。」

                     (夏目漱石『文学論』1906) 

 漱石は英文学者でイギリスにも留学しており、英語には通じていたはずなのにすごい反発ぶりですね。よほど嫌いだったのでしょう。

 日本語で無生物主語構文が不自然なのにはいくつか理由があります。そのひとつは、フランス語の動詞は人にも物にも使われることが多いということです。

 

 (1) a. Jean marche sous la pluie.

    ジャンは雨の中を歩いている。

   b. Cette machine à laver marche bien.

    この洗濯機は快調に動いている。

 (2) a. Hélène a écrit une lettre de recommendation.

    エレーヌは推薦状を書いた。

   b. Ce stylo à bille écrit rouge.

    このボールペンのインクの色は赤だ。

 

 ですからたとえばfavoriserという動詞を、(3 a)のように人を主語にして使っても、(3 b)のように抽象名詞を主語にして使っても不自然にはなりません。

 

 (3) a. Le président favorise les grandes entreprises.

    大統領は大企業を優遇している。

   b. L’obscurité a favorisé notre opération.

    暗闇が我々の作戦に有利に働いた。

 ところが日本語の運動動詞は主語に人をとるか物をとるかが決まっているものが多いのです。次の例のbalayerという動詞は、人が「掃除する、掃く」とも、物が「吹き飛ばす」とも使えます。しかし日本語で「掃く」は主語に人しかとることができないので、 (5 b) はとても不自然になってしまいます。

 

 (4) a. Claris a balayé le living. クラリスは居間を掃いた。

   b. Le vent a balayé les nuages. 風が雲を吹き払った。

 (5) a. 太郎は居間を掃いた。

   b. ??風が雲を掃いた。

 

 しかしこれだけが理由ではありません。フランス語で無生物主語構文がよく使われる最大の理由は、第7講と第13講でも触れた「直接語順」(ordre direct)にあります。ちょっとおさらいすると、直接語順とは、〈主語+他動詞+直接目的補語〉という統語構造の裏側に〈動作主+動作+被動作主〉という意味構造が張り付いていることをさしています。次の例を見てください。

 

 (6) Le gouvernement a augmenté l’allocation familiale.

   〈動作主〉 ─ 〈動作〉 ─〈被動作主〉

   政府は家族手当を増額した。

 

 (6)では主語のle gouvernementが動作主、つまり「何かをする側」で、動詞のa augmentéが動作を表していて、直接目的補語のl’allocation familialeが被動作主、つまり「何かをされる側」になっています。これが典型的な直接語順です。

 政府は政策を実行するので、何かをする側として振る舞うのは自然です。しかしフランス語の特性は、このパターンを本来何かをする側ではないものにまで拡張して適用するところにあります。同じaugmenterという動詞を次のように使うことができます。

 

 (7) L’attitude de Jean a augmenté la colère de son père.

     〈動作主〉 ─ 〈動作〉 ─〈被動作主〉

   ジャンの態度は父親の怒りに油をそそいだ。

 

 (7)ではl’attitude de Jean「ジャンの態度」という抽象名詞があたかも「何かをする側」であるかのように動作主として振る舞っています。l’attitude de Jeanがほんとうに何かをしているわけではなく、父親の怒りが激しくなったことの原因です。〈動作主〉 ─〈動作〉─〈被動作主〉という行為連鎖を、〈原因〉─〈影響〉─〈影響が及ぶ対象〉という因果関係にまで拡張するのが無生物主語構文の本質と言えるでしょう。

 しかし、日本語では不自然になる無生物主語構文がフランス語では自然なのはなぜなのでしょうか。アメリカ構造主義言語学の泰斗ブルームフィールド (Leonard Bloomfield 18871949) は主著『言語』Language (1933)の中で、すべての言語には常用文形式 (favorite sentence-type) というものがあり、英語のそれは actor— actionであると述べました。(注1)続けて、現在の印欧諸語の相当数のものは、同じ常用文形式を用いる点で英語と軌を一にすると書いています。actor — actionとは「誰かが何かをする」という表現のパターンで、actorは主語、actionは動詞がそれを表します。つまりブルームフィールドは、英語を初めとするヨーロッパの言語では「誰かが何かをする」という表現パターンが基本だと考えているのです。

 しかし日本語はそうではありません。この点に関する研究では、元東京大学教授の池上嘉彦氏の『「する」と「なる」の言語学』(注2)がおそらく最初でしょう。これに続いて、荒木博之『やまとことばの人類学』(注3)、安藤貞雄『英語の論理・日本語の論理』(注4)などでも同じ考えが展開されています。その骨子は、英語はものごとを「誰かが何かをする」と捉えて表現することを好む「する言語」なのにたいして、日本語は誰かがするのではなく、ひとりでにそうなるという捉え方を好む「なる言語」だというものです。次の例を見てみましょう。

 

 (8) a. Voici venir le printemps.

    b. 春になった。

 (9) a. J’ai perdu un bouton.

    b. ボタンが取れた。

 (10) a. J’ai entendu un cris.

   b. 叫び声が聞こえた。 

 (11) a. Je vois un voilier au loin.

      b. 遠くヨットが見える。

 (12) a. Il fait beau.

   b. 天気がよい。

 

 (8 a)では春がこちらに移動して来ると捉えていますが、日本語では「なる」を使っています。(9 a)ではjeが主語になり、ボタンがとれることが「私」の行為として表現されていますが、(9 b)には「私」はどこにも表されていません。このちがいは (10) (11) のような知覚動詞にはっきり現れます。(10 a)では「私が聞いた」と表現されていますが、(10 b)では「聞こえる」という可能動詞を使っていて、主体は「叫び声」であり、聞いた「私」は表に出ません。(11)についても同じことが言えます。(12)のような天候表現でもずいぶん大きな違いが出ます。フランス語では非人称主語ilを立てて、動作動詞であるfaireを用いていることからもわかるように、フランス語も英語と同様に「する言語」なのです。このために天気のような自然現象についても、「誰かが何かをする」という表現パターンを当てはめて使います。この表現パターンを支えているのが、〈主語+他動詞+直接目的補語〉という統語構造の裏側に〈動作主+動作+被動作主〉という意味構造が張り付いている直接語順であることはおわかりでしょう。

 しかし、どうやらフランス語は昔からこのような言語ではなかったようです。そのことは英語の歴史で研究が進んでいます。たとえばthink「考える」やdream「夢を見る」やlike「好きである」といった動詞は、古英語の時代は非人称動詞でした。「私」は与格に置かれて Me thinkθ that…「〜のように私には思われる」のように使いました。今なら主語にItを起きますが、この時代にはまだ使われていません。likeも現代のように I like…「私は〜が好きだ」ではなく、Me lykeθ…「私に〜が好まれる」と表現していました。古英語の時代には現代でも非人称である天候表現の他に、思考・認識や好き嫌いを表す動詞は非人称だったのです。今よりも少し「なる言語」に近かったということです。スペイン語やイタリア語では非人称ではなく倒置構文になりますが「私」が与格に置かれるところがよく似ています。

 (13) スペイン語

  Me gustan las naranjas. 私はオレンジが好きだ。

  私に好まれる定冠詞(pl.)-オレンジ

 (14) イタリア語

  Mi piace la musica. 私は音楽が好きだ。

   私に好まれる定冠詞音楽

 

 古英語の時代には40ほどの非人称動詞があったと言われていますが、これらの動詞は人称化していきました。人称化というのは、Me thinkθ 「私に思われる」の与格のMeが主語と再解釈されてI think「私は考える」へと変化したのです。これには名詞の格変化の消滅にともなうSVO語順の増加が関わっていました。この変化は英語史の中でも最も大きな統語的変化として知られています。

 フランス語でも古フランス語の時代には非人称動詞がもっと使われていたようです。(注5remembrer「思い出す」のように今では消えてしまった動詞もあり、またse souvenirは昔は非人称動詞でした。その名残りはアポリネールの「ミラボー橋」(Le pont Mirabeau)という詩に見られます。

 

 Faut-il qu’il m’en souvienne ?  思い出す必要があるだろうか

   La joie venait toujours après la peine 辛いことの後にはいつも喜びが待っていた

 

 フランス語もSVO語順の確立によって、直接語順が強まるにつれて非人称動詞が使われることは少なくなりました。つまり直接語順の定着によって、フランス語は「する」言語の性格を強めたということになるでしょう。このことはフランス語と日本語を較べたときに表現パターンのちがいとなって現れます。一つ例を挙げると、フランス語は所有表現を好みますが、日本語は存在表現を好むということです。

 

 (15) a. J’ai deux enfants.

      b. 私には二人子供がいます。

 (16) a. Cette pièce a deux portes.

   b. この部屋にはドアが二つある。

 

 市場で買い物をするときに日本語では「アスパラガスありますか」と聞きますが、フランス語では Vous avez des asperges ?と言うのが普通ですね。所有表現は「する」言語の表現パターンで、存在表現は「なる」言語が好む言い方です。

 

(注1)もう一つの常用文形式は Come !「来い」のような不定詞を用いた命令文だとされている。

(注1)大修館書店、1981

(注3)朝日選書、1985

(注4)大修館書店、1986

(注5Ménard, Ph., Syntaxe de l’ancien français, SOBODI, 1973

「フランス語100講」第7講 文 (1)

【文とは何か】

 フランス語統語論を論じようと思えば、「文とは何か」という問を避けることはできません。しかし、「言語学者の数だけ文の定義がある」と言われるほど、文を定義するのはむずかしいのです。

 佐藤房吉・大木健・佐藤正明『詳解フランス文典』(駿河台出版社1991)は、文を次のように定義しています。

 1個の単語、または文法に則して配列された1群の単語が、ある思想や感情や意志などを表明している時、これを文 (phrase) と言う。1個の文は、例えば Oh ! là ! là !(やれやれ、なんてこった)のように間投詞だけから、あるいは Oui(そうだ)のように副詞だけから成る場合もあるが、ふつうは1個または数個の動詞を含んでいる。〔間投詞や副詞だけの文を語句文(mot-phrase)と言う〕(p. 408)

 伝統的にはこのように、文とは「ひとつのまとまった思想や感情を表す」ものであり、いくつかの単語からできているが、Oui.のように1つの単語だけでも文となる場合がある、というように定義されることが多いようです。

 しかし次の引用はこのような定義のむずかしさを示しています。

   En grammaire traditionnelle, la phrase est un assemblage de mots formant un sens complet qui se distingue de la proposition en ce que la phrase peut contenir plusieurs propositions (phrase composée et complexe). Cette définition, qu’on rencontre encore dans certains manuels, s’est heurtée à de grandes difficultés. Pour définir la phrase, on ne peut avancer l’unité de sens, puisque le même contenu pourra s’exprimer en une phrase (Pendant que je lis, maman coud) ou en deux (Je lis. Maman coud.). Si on peut parler de « sens complet », c’est justement parce que la phrase est complète. En outre, on a posé à juste titre le problème de telle phrase poétique, par exemple, dont l’interprétation sera fondée uniquement sur notre culture et notre subjectivité, et de tel « tas de mots » ayant un sens clair et ne formant pas une « phrase » , comme dans Moi y en a pas d’argent.

 (Jean Dubois et als. Dictionnaire de linguistique, Larousse, 1973)

伝統文法では、〈文〉とは、全体で1つのまとまった意味をなす語の集まりで、複合的な文や複文ではいくつもの節を含むことがあるという点で、節とは区別される。この定義は、今なお一部の教科書に見られるものだが、大きな難点がある。文を定義するために、意味のまとまりをもちだすことはできないのである。Pendant que je lis, maman coud.「ぼくが本を読んでいる間、ママはお裁縫をしている」と Je lis. Maman coud.「ぼくは本を読んでいる。ママはお裁縫をしている」のように、同じ内容が2つの文でも1つの文でも表現できるからである。《まとまった意味》と言えるのも、文がまとまっているからにほかならない。さらに、例えば、もっぱら我々の教養及び主観に基づいて解釈されるような詩的な文とか、moi y en a pas d’argent「ぼく、お金、ないの」のように、意味ははっきりしているが、《文》を形成しない《語の集積》のごときものとかの問題も、当然のことながら起こってくる。(伊藤晃他訳『ラルース言語学用語辞典』大修館書店)

 上の引用で持ち出されている例「ぼくが本を読んでいる間に〜」は、1つの文からなる単文と、主節と従属節からなる複文のちがいを示すためのものです。終わりの方で引用されている Moi y en a pas d’argent.はくだけた話し言葉の言い方で、もう少し文法的に正しく書き直すと、Moi, il n’y en a pas, d’argent.となります。中性代名詞のenは最後のd’argentを受けているので、文法的には余剰で、話し言葉ではよくあることです。「僕、そんなものないよ、お金なんて」くらいの意味でしょうか。しかしだからといって「語の集積」と言うのは言いすぎのような気もします。

 これよりもっと過激なものもあります。ムーナン (Georges Mounin 1910-1993) が編集した『言語学事典』には、なんと定義が5つも並べられているのです。

   Il existe au moins cinq classes de définitions différentes de ce concept intuitif.

1/ Une phrase est un énoncé complet du point de vue du sens.

2 / C’est une unité mélodique entre deux pauses.

3/ C’est un segment de chaîne parlée indépendant syntaxiquement (… ) Autrement dit, la phrase (…) est la plus grande unité de description grammaticale. (…)

4/ Une phrase est une unité linguistique contenant un sujet et un prédicat.

5/ C’est un énoncé dont tous les éléments se rattachent à un prédicat unique ou à plusieurs coordonnés

                     (Georges Mounin (ed.) Dictionnaire de la linguistique, PUF, 1974)

 

「文」というのは直感的な概念であり、少なくとも5つの異なる定義群がある。

1/ 文とは意味の点においてまとまった1つの発話である。

2/ 文とは2つの休止に挟まれた音調単位である。

3/ 文とは統語的に独立した話線の切片である。(…)言い換えれば、文は文法が記述する最大の単位である。

4/ 文とは、主語と述語からなる言語の単位である。

5/ 文とはそれを構成するすべての要素が、1つまたは複数の述語の組み合わせと関係する発話である。

 

 1/は「まとまった意味を表す」という伝統的な定義ですね。2/は音調曲線に着目したものです。イントネーションは文の始まりから上昇し、文の終わりで下降します。3/は文が統語的に最大の単位であることを述べたもので、ここには構造主義や生成文法の考え方が見られます。4/は文が主語と述語からなるとしています。これは上に引用した佐藤他の文法書や、Duboisの辞典にはなかったものです。5/は4/をさらにくわしく述べたものです。定義を5つも並べているのは、どれも満足のいく定義ではないからでしょう。

 このようにすべてのケースに当てはまることをめざしたやり方とはちがって、たいへんユニークな考え方が橋本陽介氏の『「文」とは何か ─ 愉しい日本語文法のはなし』(光文社新書)に見られます。それは「文とは、必要なことが必要なことだけ表されたものである」という見方です。次の例を見てください。

(1) A : 今日、いつ大学に行くの?

     B : 3限目から。

 ふつうはBの答の「3限目から」は完全な文ではなく、「今日、僕は3限目から大学に行く」が省略されたものされるでしょう。しかし、「文とは、必要なことが必要なことだけ表されたものである」という見方に立てば、これも立派な文です。これだけで必要にして十分なことを述べているからです。橋本さんはこのような考え方を野間秀樹氏の『言語存在論』(東京大学出版会 2018)から学んだようです。『言語存在論』では、言葉の意味が最初からあるのではなく、意味になるのだとされています。解読者(聞き手、または読み手)が、その言葉を解読する具体的な場において、その都度意味を作り出すのであって、言語は話し手から聞き手への単純な意味の伝達ではないということでしょう。(注1)

 私はこのような考え方に賛成です。論理学と隣り合わせの西欧の言語学の伝統では、「完全な文」というものがあり、そこには現実を過不足なく表現するものだという思想が根強くあります。ですからこの基準にそぐわないものは、不完全なもの、省略されたもの、崩れたものと断じがちです。しかし、言葉の意味はあらかじめ文の中にあるものではなく、具体的な場において作り出されるものだと考えるならば、「完全な文」などなくなります。

 

【文は主語と述語からなる】

 ムーナンの『言語学辞典』の文の定義 4/ にあるように、文は主語(仏 sujet / 英 subject)と述語(仏 prédicat / 英 predicate)からなるというのも西欧の言語学の伝統的な考え方です。それはアリストテレスにさかのぼると言われています。主語にあたるsubjectumは、sub-「下へ」と-jectum「投げられた」からなりますが、それは「今からこれについて話しますよ」と相手の前に提示されたものという意味です。ですからそれは話題の中心で、今日の言語学でいう「主題」(仏 thème / 英 topic)に近いものです。〈文 = 主語+述語〉という考え方は、代表的な英文法にも当然見られます。

 文は、1語からなるものもあるが、通例は、「ある事柄について、何かを述べる」という形式をもっている。伝統的に、「ある事柄」の部分は主部 (subject)、「何かを述べる」部分は述部 (predicate) と呼ばれている。以下の例で、太字体の箇所が主部、斜字体の箇所が述部である。

 (1) Birds sing. (鳥は歌う)

 (2) The pupils went to a picnic.(生徒たちはピクニックに行った)

 (3) The doors of the bus open automatically.(このバスのドアは自動的に開く)

                (安藤貞雄『現代英文法講義』開拓社 2005

 上の引用に挙げられている例では、どれを主語と認定するかは特に問題がありません。しかし主語を「ある事柄について、何かを述べる」の「ある事柄」だとすると、次のような例では問題が生じます。

(2) Il est bien connu que Homo Sapiens est né en Afrique.

  ホモ・サピエンスがアフリカで生まれたことはよく知られている。

 この文で「ある事柄」は「ホモ・サピエンスがアフリカで生まれたこと」で、それについて「よく知られている」ことが述べられています。しかし (que) Homo Sapiens est né en Afriqueはこの文の主語ではなく、主語は非人称のilです。教室ではこのような場合、ふつうilは何も指さない「見かけ上の主語」(sujet apparent)であり、(que) Homo Sapiens est né en Afriqueが「実主語」または「真主語」(sujet réel) だと説明します。

 次のような例も問題となります。

(3) Des touristes américains, on en trouve partout.

    アメリカ人の観光客ならどこにでもいる。

 この文は「アメリカ人観光客」について何かを述べている文です。しかし、Des touristes américainsは文頭に遊離 (détachement)あるいは転位 (dislocation)されていて、代名詞enで受けられています。代名詞enは文中では直接目的補語になっています。すると「アメリカ人観光客」はこの文の主語とは認められなくなってしまいます。そうなることを避けるために、Des touristes américainsは文法的主語 (sujet grammatical)ではなく、「心理的主語」(sujet psychologique) だとする考え方が生まれました。

 主語には伝統的にもうひとつの考え方があります。それは他動的な動詞の動作の主体、つまり「何かをする人・物」を主語とする定義です。言語学では「動作主」(agent) といいます。

(4) Les députés socialistes ont critiqué vivement les politiques du gouvernement.

   社会党の議員たちは政府の政策をきびしく批判した。

(5) Les politiques du gouvernement ont été vivement critiquées par les députés socialistes.

   政府の政策は社会党の議員たちにきびしく批判された。

 能動文の (4)では批判しているのは les députés socialistesですから、それが動作の主体で主語になっています。ところが受動文の (5) ではそうではありません。動詞の活用を支配している文法的主語はLes politiques du gouvernementで、les députés socialistesは動作主補語 (comlément d’agent) になっています。このように動作主が典型的な主語であるという考え方を保持するために、(5)でles députés socialistesは「論理的主語」(sujet logique) であるとする向きもあります。動作主を主語とする考え方は、フランス語は「直接語順」(ordre direct) の言語であるという考え方に基づきます。

 しかし、「文法的主語」「見かけ上の主語」「心理的主語」「論理的主語」などのように、主語がまるでウォーリーのように増えるのは好ましいことではありません。現在では、「論理的主語」は意味論における「動作主」で、「心理的主語」は談話文法における「主題」であると整理されています。しかしこのようにいろいろな主語が提案されてきたことは、ヨーロッパの言語において〈文=主語+述語〉という思想の呪縛がいかに強いかを物語っています。

 『象は鼻が長い』を書いた日本語学者の三上章はかつて「主語廃止論」を唱え、日本語では「主語という概念は百害あって一利なし」と断じました。またモントリオール大学の金谷武洋氏は『日本語に主語はいらない』(講談社2002)という本を出しています。確かに日本語ではそうかもしれませんが、主語が大きな役割を担っているフランス語ではそういう訳にもいきません。この点に関して、日本語とフランス語は類型論的に別のグループに属しています。何だかんだ言ってもフランス語には主語が必要なのです。                                                      (この稿次回につづく)

 

(注1)橋本陽介『「文」とは何か ─ 愉しい日本語文法のはなし』には、文についてもうひとつの重要な指摘がある。それは、話し手の主観を表すモダリティこそが、文を成立させるものだという指摘である(p. 53)。モダリティというのは、「今日は暖かい」では「断定」、「洋子さんは元気?」では「疑問」、「柴漬け食べたい」では「願望」などの話し手の判断を指す。これは日本語学特有の「陳述論」に基づく考え方で、ヨーロッパの言語学には見られないものである。「陳述論」はフランス語学にも貢献できる重要な考え方なので、また別の場所で取り上げたい。

「フランス語100講」こぼれ話 (2) ─ フランス語の発音異聞

 先日、何気なくNHK・Eテレのフランス語講座を見ていたら、出演していた若いフランス人男性が、impressionismeを「アンプレショニム」、japonismeを「ジャポニム」と発音していたので仰天した。語尾の-ismeは「イスム」と濁らずに発音するのが決まりのはずだ。

 教室では綴り字の –s- は前後を母音字で挟まれたときだけ [z] と濁ると教わる。たとえば maisonは「メゾン」で、désertは「デゼール」だ。子音字と隣り合ったときは、veste 「ヴェスト」、dessert「デセール」のように濁らない。テレビの若いフランス人が –ismeを「イズム」と濁って発音したのはおそらく英語の影響だろう。

 最近、次のようなことも耳にした。来日したフランス人の言語学者が、linguistiqueを「ランギスティック」と発音したというのだ。フランス語の綴り字の –guiはふつう「ギ」と発音する。languir「ランギール」、guide「ギード」などがそうである。しかし、aiguille「エギュィーユ」、linguistique「ランギュィスティック」など少数の語では「ギュイ」[ɡɥi] と発音する。フランス人の言語学者が「ランギスティック」と発音したのが英語の影響によるものかどうかはわからない。英語でlinguisticsは「リングゥィスティックス」と発音し、「リンギスティックス」ではないからである。

 確かに発音は時代とともに変化する。たとえば綴り字の –oiは、もともとはローマ字どおりに「オイ」と発音していたのだが、時代とともに変化して、次は「ウェ」となった。絶対王政をよく示す有名な L’État, c’est moi.「朕は国家なり」という言葉を、ルイ14世は「レタ セ ムェ」と発音していたはずである。古い文章を見ていると、半過去形の avaisがavoisと綴られていることがあるが、これは当時の読み方の名残りである。その後、-oiは現在の「ウァ」[wa] へと変化した。

 だから –ismeも将来「イズム」と発音するのがふつうになるかもしれないが、未来のことは誰にも予言できない。国語学の泰斗金田一春彦先生が若い頃、「東京山手方言(標準語)のガ行鼻濁音はいずれ消滅するだろう」と書いたことがある。しかし、その後、何十年経っても鼻濁音はなくなることがなかった。金田一先生は、「言語の未来は予測できない」と反省したという。フジテレビの「めざましテレビ」の軽部真一アナウンサーが見事なガ行鼻濁音を出しているのを聞くにつけ、確かにそのとおりだと痛感するのである。

    *        *         *

 フランス語を学ぶ人を悩ませるもののひとつにリエゾン (liaison) がある。読まない子音字で終わる単語の次に母音で始まる単語が来ると、読まないはずの子音字を読むようになるという現象である。次の例ではlesの語尾の –sを「ズ」と読むようになる。

 

 les「レ」+enfants「アンファン」→ les enfants「レザンファン」

 

 なぜこのようなややこしい規則があるかというと、それはフランス語が母音連続 (hiatus)を嫌う言語だからである。(注1)フランス語では、[子音+母音+子音+母音]のように開音節(注2)が並ぶのを好む。もしリエゾンをしなければ「レアンファン」となり、「エア」と母音が続いてしまう。これを嫌うので語尾の-sを「ズ」と発音して母音連続になるのを避けるのだ。

 無音のhで始まる語はリエゾンするが、有音のhで始まる語はリエゾンしないとも習う。ややこしいのは無音・有音と言いながら、どちらのhも発音しないことである。無音のhと有音のhの区別はフランス語の歴史にさかのぼる。

 フランス語の親であるラテン語では、紀元ゼロ年頃にはすでにhを発音しなくなっていたと言われている。homo「人間」は「オモ」だったわけだ。このようにラテン語由来の語が無音のhで、その意味は「ラテン語ですでに無音となっていたh」ということである。しかし5世紀頃に始まるゲルマン民族の大移動で、フランク族がやって来た。ゲルマン語はhを強く発音する。ゲルマン語から流入したhache「斧」、haie「生垣」、hanche「腰」などの単語の頭の hはやがて黙字となったが、発音していた歴史のせいで、今でも子音字扱いされてリエゾンしないのである。

 母音・無音のhで始まる単語でも、数詞のhuit「8」やonze「11」はリエゾンしない。toutes les huit heures「8時間ごとに」は「トゥート レ ユイ トゥール」で、les onze garçons「その11人の少年」は「レ オンズ ギャルソン」と発音する。数は重要な情報なので、数詞であることをはっきりさせるためにリエゾンしないのである。un enfant de huit ans / de onze ans「8歳 / 11歳の子供」のようにエリジヨンもしない。

 有音のhについては謎がいくつかある。haut「高い」はラテン語のaltusから来ていてゲルマン語由来ではない。しかし形容詞では珍しく有音のhなのは、ゲルマン語の hohの影響とされている。もっと不思議なのは héros「英雄、主人公」だ。これもラテン語の herosから来ているのに有音のhとされている。Le Bon usageなどの文法書に書かれている説は、リエゾンして les héros「レゼロ」(英雄たち)と発音すると、les zéros「レゼロ」(役立たず、能なし)と混同されるからというものである。どうやらこの説の源はヴォージュラ(Claude Fabre de Vaugelas 1585-1650) らしい。(注3)17世紀に一人の文法家が唱えた説が今でも引き継がれているのは驚くべきことだ。この説が正しいかどうかは神のみぞ知るである。

 ヨーロッパ統合によってフランスの通貨のフランがユーロになったせいで、フランスで買い物をする日本語話者には新たな問題が生じた。deux euros「2ユーロ」とdouze euros「12ユーロ」の混同である。eurosが母音字始まりなので、deux eurosは「ドゥーズューロ」とリエゾンする。するとdouze eurosとの発音のちがいは –eu– [ø]-ou- [u]の差だけになり、発音し分けるのはとてもむずかしい。誤解を避けるには、deux euros, deux、douze euros, douzeと deux, douzeを繰り返すのがいいだろう。カフェで給仕が注文を厨房に伝えるときにも、deux cafés, deuxと数字を繰り返すことがあるが、それと同じやり方だ。

 リエゾンについてはおもしろい思い出がある。フランスにZ’amino「ザニモ」という動物の形をしたビスケットがある。この製品名はリエゾンに関する子供の誤分析に由来する。子供は類推により次のように誤って言葉を句切る。

 

 les crayons 「レ・クレヨン」(鉛筆)

 les animaux「レ・ザニモ」(動物)

 

 子音字始まりの単語で「レ」が定冠詞だと理解し、それを母音字始まりの単語にも当てはめて、「動物」の複数形は「ザニモ」だと考えるのである。

 フランスの幼稚園に通って半年ほどになる当時5歳の娘が、家族で南仏を旅行していたときに、「次はどこのノテルに泊まるの?」とたずねるのを耳にして驚いた。これも子供がよくやる誤分析である。

 

 un crayon「アン・クレヨン」(鉛筆)

 un hôtel「アン・ノテル」(ホテル)

 

 子音字で始まる単語に不定冠詞の単数形が付くと、「アン・クレヨン」となる。それを母音字で始まる単語にも当てはめると、-nのリエゾンがあるので「アン・ノテル」と聞こえる。そこから「ホテル」の単数形は「ノテル」だと考えるのである。フランスに滞在して半年にしかならない子供が、類推によって新しい言語を習得していく姿を目の当たりにするのはとても印象深い体験だった。

 

(注1)最近、ハイエイタスというロックバンドがいることを知った。ハイエイタスは hiatusの英語読みである。

(注2)開音節とは ma 「マ」のように母音で終わる音節のこと。but「ビュット」のように子音で終わる音節を閉音節という。

(注3)『フランス語覚え書き』Remarques sur la langue françoise, 1647.

「フランス語100講」第6講 人称代名詞 (3)

第6講 人称代名詞 pronom personnel (3)

─ 自立形人称代名詞は人も物もさすのか

 

 1・2人称は話し手と聞き手をさすので、moi, toi, nous, vousが人をさし、物をささないのは当然です。(注1)しかし3人称の代名詞は先行詞があれば、人だけでなく物もさすことができます。では自立形のlui / elle / eux / ellesが物をさすことはあるのでしょうか。ほとんどの文法書はこの点について沈黙しています。また文法書で挙げられている例文は人をさす例ばかりです。

 

 (1) Les plus heureux ne sont pas eux.

   最も幸せな人は彼らではない。

          (目黒士門『現代フランス広文典』白水社)

 (2) On parle de lui pour la présidence.

  大統領候補に彼の名があがっている。

        (Grevisse, M. , A. Goose, Le Bon usage, Editions Duculot)

 (3) Il ne pourrait pas vivre sans elle.

  彼は彼女なしでは生きていけないだろう。

        (六鹿豊『これならわかるフランス語文法』NHK出版)

 

 3人称の自立形が人ではないものをさす例が見つからないわけではありません。

 

 (4) Nous ne voyons pas les choses memes ; nous nous bornons, le plus souvent, à lire les étiquettes collées sur elles.   (Henri Bergson, Le rire)

私たちは物自体を見ているのではない。たいていは物の上に貼り付けられたラベルを読むことで済ませている。

 (5) … les nations se trouvent nécessairement des motifs de se préférer. Dans la partie perpétuelle qu’elles jouent, chacune d’elles tient ses cartes.

               (Paul Valéry, Grandeur et décadence de l’Europe)

どんな民族にも他の民族より自分たちのほうが優れていると考える根拠がある。民族どうしがお互いを較べあう際限のないゲームでは、どの民族も切り札を握っているのだ。

 (6) La liberté est une valeur primordiale. Nous combattons pour elle.

   自由はかけがえのない価値である。私たちは自由のために戦っている。

 

 しかしよく見ると、(4)でellesが指しているのは les choses「事物」という意味がぼんやりした単語ですし、(5)では les nations「民族」は抽象名詞である上に、擬人化されて人間のように扱われています。(6)は私が作った例ですが、これも擬人化の匂いがします。

 一方、次も作例ですが、自立形が具体物を指すのは難しいように見えます。(*印はその文が非文法的であることを表す)

 

 (7) Hélène trouva une souche dans la clairiaire. *Elle s’assit sur elle pour se reposer.

         エレーヌは森の中の空き地に切り株を見つけた。彼女は休むためにそれに腰掛けた。

 (8) *Il a sorti un couteau de sa poche et a épluché une pomme à l’aide de lui.

         彼はポケットからナイフを取り出すと、それを使ってリンゴを剥いた。

 

 朝倉季雄『新フランス文法事典』(白水社)のsoiの項目を見ると、自立形は物を指すのにふつうに用いられると書かれており、次のような例文が見つかります。

 

 (9) tous les maux que la guerre entraîne après elle

   戦争がその後に引き起こすあらゆる災害

 (10) Les fautes entraînent après elles les regrets.

      過ちは後で後悔を招く。

 

 しかしこの例文はどちらも ellesがさしているのは entraîner「引き起こす」という能動的動作の主体で、多分に擬人化されていますし、さしているものも la guerre「戦争」、les fautes「過ち」のような抽象名詞です。

 同書のluiの項目には、「àde以外の前置詞とともに用いられた自立形は原則として人を表すが、物について用いられる場合もまれでない」と書かれていて、その条件が次のように示されています。

① 前置詞の副詞的用法が不可能か、俗用となる場合

J’apercevais au sommet d’un monticule herbeux une haute tour, semblable au donjon de Gisors et je me diregeais vers elle.

草の茂った小さな丘の頂きにGの城の主塔に似た高い塔を見つけ、そのほうに向かっていった。

② 前置詞が sur, sous, dans, au-dessus de, auprès de, autour deなどならば、これに対応する副詞 dessus, dessous, dedans, au-dessus, auprès, autourを用いて、事物を表すlui, eux, elle(s)を避けるのが普通

Ce siège est solide, asseyez-vous dessus.

この腰掛けはしっかりしています。これにお掛けなさい。

 

 順番を逆にして②から見たほうがわかりやすいです。surは前置詞で、ふつう sur la chaise「椅子の上に」のように後に名詞を必要とします。一方、surと意味の上で対応する dessus「その上に」という副詞があり、これは後に名詞を必要としません。ですから次のようなペアを作ることができます。

 

 (11) Il s’est assis sur la chaise.

   彼は椅子の上に座った。

 (12) Il s’est assis dessus.

   彼はその上に座った。

 

 (12)のように副詞を使うことで、Il s’est assis sur elle.を避けるというのが②の趣旨です。やはりla chaise「椅子」のような具体物に自立形を使うのは避けるべきとされているのです。

 上の①が述べているのは、避けられないときに限って、しかたなく具体物に自立形を用いるということです。たとえば次の例のように前置詞avecを副詞のように使うのは俗用とされています。

 

 (13) Il a pris son manteau et il est parti avec.

         彼はマントを取り、それを着て出かけた。(『小学館ロベール仏和大辞典』)

 

 やはり自立形代名詞は人をさすのが原則で、物をさすのは他にやり方がない場合に限られるのです。

 アントワープ大学のタスモフスキー教授も同じ意見です。(14) のように動詞の支えがなく単独で用いられたとき、自立形は必ず人をさすと述べています。たとえば、自分の自動車 (ma voiture) が思いがけない場所にあるのを見つけたときでも、自動車に自立形elleを使うことはできません。(14 b) のように指示代名詞のçaを使うそうです。(14 a) のようにするとelleは人をさすことになります。

 

 (14) a. Elle, ici ! 彼女がここにいるなんて。

            b. Ça, ici ! これがこんな所にあるなんて。

 

【人称代名詞の指示傾斜】

 人称代名詞についてここまで見てきたことをまとめると、次のようになります。○はさすことができる、×はさすことができない、△は微妙を表しています。

 

 (15)  主格 ─ 直接目的格 ─ 間接目的格 ─ 自立形

  人   ○            ○                    ○        ○

  物   ○            ○                    △        ×

 

 ここから次のような一般化を導くことができるでしょう。

 

 (16) 動詞にとって中核的な文法役割では、代名詞は人・物の区別をしない。

   文法役割が周辺的になるにつれて、代名詞は人をさす傾向が強くなる。

 

 「動詞にとって中核的な文法役割」とは、主語と直接目的補語のことです。ちょっとカッコ良くこの一般化を「人称代名詞の指示傾斜」と呼んでおきましょう。

 人称代名詞がさすものについて、なぜこのような傾斜が見られるのでしょうか。前にも少し書きましたが、日本語とは異なり、フランス語は人と物をあまり区別しません。同じ動詞や形容詞を人にも物にも使うことができます。

 

 (17) Jacques a marché des kilomètres sous la pluie.[Jacquesは人]

   ジャックは雨の中を何キロも歩いた。

 (18) Cette machine à laver a dix ans, mais elle marche encore bien.[洗濯機は物]

   この洗濯機は買って10年になるが、今でもよく動く。

 (19) Sa mère est morte il y a cinq ans.[お母さんは人]

   彼女のお母さんは5年前に亡くなった。

 (20) Cette ampoule est morte.[電球は物]

   この電球は切れている。

 

 人と物を区別しないという特徴は、(17)〜(20)に挙げた主語の場合と、次に挙げる直接目的補語に強く表れます。

 

 (21) La chaleur a abattu Jean.[Jeanは人]

   暑さでジャンは参ってしまった。

 (22) Ils ont abattu le mur de leur maison.[壁は物]

   彼らは家の壁を取り壊した。

 

 これはなぜかというと、フランス語の構文の基本は動詞の持つ他動性(仏 transitivité, 英 transitivity)を軸として組み立てられていて、他動性で中核的な役割を果たすのが主語と直接目的補語だからです。

 もう少しわかりやすく説明してみましょう。フランス語の構文の基本は、主語Aが動詞の表す動作・行為を通じて、直接目的補語Bに何らかの変化を引き起こすという図式です。フランス語では多くの出来事をこの他動性の図式で捉えて表現します。

 

 (23) Cécile a mangé une pomme.

   セシルはリンゴを食べた。

 (24) La rouille a mangé la grille.

   錆で鉄柵が腐食している。

 (25) Cette voiture mange trop d’essence.

   この車はガソリンを食いすぎる。

 

(23)ではセシルがA、リンゴがBで、「食べる」という行為がAからBへと及んでいます。(24)では錆がAで鉄柵がBで、ほんとうに食べるわけではありませんが、まるで食べるかにように腐食させると表現しています。(25)では自動車がA、ガソリンがBで、自動車はまるで大食いの人みたいにガソリンを消費すると言っています。このような他動性の図式では、AがBを変化させるということだけが大事で、AやBが人か物かは問題にされません。

 一方、間接目的補語ではちょっと事情が違います。〈A─動詞─à B〉という図式を当てはめると、(26)では le directeur「部長」がA、sa secrétaire「秘書」がBですが、tenir à〜「〜に執着する」という行為は間接目的補語である秘書さんに何か影響を及ぼすわけではありません。(27)でもAのPierreはBの「計画」にたいして「あきらめる」という行為をするのですが、それによってBの「計画」が変化することはありません。

 

 (26) Le directeur tient à sa secrétaire. Ça se voit.

   部長は秘書の女性にご執心だ。見え見えだよ。

 (27) Pierre a renoncé à ce projet.

   ピエールはこの計画をあきらめた。

 

 つまり間接目的補語では直接目的補語ほど動詞の表す行為が対象に及ばないので、「AがBに何かをする」という他動性の図式からすると、間接目的補語はこの図式から少し外れたものになるのです。

 状況補語になるとそれはいっそうはっきりします。

 

 (28) Les enfants jouent dans le jardin.

   子供たちは庭で遊んでいる。

 

 子供たちが遊ぶことで庭が何か変化することはありません。多少花壇が踏み荒らされるかもしれませんが、それは語用論的推論でjouerという動詞の意味には含まれていません。

 このように他動性の図式でどれだけ中核的な役割を果たすかを図式化すると、次のような階層が得られます。

 

 (29) [主語・直接目的補語]>[間接目的補語]>[状況補語などその他]

 

 このような他動性の階層が (15) で示した人称代名詞の指示傾斜の原因だと考えられます。

 しかし、教室での授業でここまで説明するのは難しいでしょう。フランス人の友人にたずねてみると、*Elle a trouvé une chaise et s’est assise sur elle. [elle=la chaise]はだめで、〜s’est assise dessus とするのがよいという答がすぐに返って来ました。〈前置詞+具体物を指す自立形〉が使えない場合もあることには授業で触れてもよいかもしれません。

 

(注1)野菜のなぞなぞで、Je pousse dans la terre. Je sers à faire des frites. On peut me faire en purée.「僕は土の中で育つよ。僕はフライにするけど、ピュレにしてもいいよ」のように、ジャガイモが擬人化されている場合はもちろん別である。

(注2)Tasmowski-De-Ryck, Liliane et S. Paul Verluyten, “Linguistic control of pronouns”, Journal of Pragmatics 1 (4), 1982

「フランス語100講」第5講 人称代名詞 (2)

第5講 人称代名詞 (pronom personnel) (2)

 

 前回は接辞代名詞である主格 (je, tu, etc.)、目的格 (me, te, etc.)についてお話しました。今回取り上げる話題は残る強勢形人称代名詞です。

 

【強勢形という呼び名は適切か】

 前回「強勢形」という呼び名は音声の特徴に着目した名称で、統語的振舞いを反映していないので、あまりよい呼び名ではないと書きました。ではどういう呼び名がいいのでしょうか。「自立形」と呼ぶ人もいます。接辞とはちがって、動詞から離れて自立的に使うことができるからです。「離接形」(forme disjointe)と呼ぶ人もいます。Moi, je suis d’accord.「私はOKですよ」のように文から離れた位置で使うこともあるからです。同じ理由から「遊離形」(forme détachée) と呼ぶ人もいて、呼び方はまちまちです。

 言語学では他の語にくっついて使われる形態素を「拘束形態素」(英 bound morpheme)、他の語にくっつかず単独で使えるものを「自由形態素」(英 free morpheme)といいます。それにならえば強勢形人称代名詞は「自由形」とでも呼ぶのがよいのでしょうが、これだと水泳の泳ぎ方の一種とまちがわれかねないので、ここでは「自立形」としておきましょう。

 

【自立形人称代名詞はどんなときに使うのか】

 接辞代名詞と自立形の代名詞の用法はほぼ相補分布(distribution complémentaire)の関係にあります。つまり、接辞形が使える場所では自立形が使えず、接辞形が使えない場所で自立形を使う補完関係にあるということです。接辞形を使う主語・直接目的補語・間接目的補語の位置では自立形は使えません。これらは言語学では「項」(英 argument)と呼ばれていて、動詞が完全な意味を持つために必須の要素とされています。意味的・統語的に動詞と密接な関係のある項の位置には接辞代名詞が用意されているのです。次の各ペアのb.が示すように、この位置では自立形は使えません。

 

 (1)   a. Je vais bien. 私は元気です。(主語)

           b. *Moi vais bien.

 (2)   a. Claire n’est pas là ? Je la cherche depuis une heure.(直接目的補語)

             クレールはここにいませんか。1時間前から探しているんですけど。

           b. *Je elle cherche depuis une heure.

 (3) a. Jeanne ne vient pas. Je lui ai dit de venir ici à dix heures.(間接目的補語)

        ジャンヌは来ないな。10時にここに来るように言ったのに

         b. *Je elle ai dit de venir ici à dix heures.

 

 ただし、いつくか例外があります。自立形の3人称のlui, elle, eux, ellesは、接辞形に代わって主語になることができます。この場合、主語に多少の強調が置かれます。

 

 (4) Lui au moins soutient notre proposition.

       少なくとも彼は私たちの提案を支持してくれている。

 

 またなんらかの文法的理由によって接辞形が使えないときには、他にしようがないので自立形を使います。次の例 (5) は ni… ni…によって等位接続しているケースです。否定される項目を並べた ni… ni…は動詞の後に置かなくてはならず、接辞形のme, teは使えないので自立形を使います。

 

(5) Carine n’aime ni toi ni moi.

    キャリーヌは私も君も好きじゃないんだよ。

 

 またne…queによる制限では「Aだけ」のAは必ずqueの後に置かなくてはならないので、この場合も接辞形は使うことができず自立形を使います。

 

 (6) Carine n’aime que toi.

        キャリーヌが好きなのは君だけだ。

 

 以上のことは間接目的格でも同じです。

 

 (7) Sandrine ne parle ni à toi ni à moi.

         サンドリーヌは君にも私にも話さない。

 (8) Eléonore n’a parlé qu’à toi.

         エレオノールは君にしか話さなかった。

 

 今まで見てきたのとは逆に、接辞形の代名詞が使えないところでは自立形を使います。それは主に次のような場合です。

 

 (9)[属詞]Qui est là ? — C’est moi.

        「そこにいるのは誰ですか」「私です」

 (10)[前置詞の目的語]Venez avec moi.

          私といっしょに来てください。

 (11)[形容詞・副詞の比較級のqueの後]

            Pierre est plus fort que moi au tennis.

           ピエールはテニスで私より強い。

 (12)[同格]Xavier, lui, m’approuvera.

           グザヴィエなら私の意見に賛成してくれるだろう。

 (13)[aussi, non plus, autres, seulなどとともに]

            Je suis fatigué. — Moi aussi.

         「私は疲れました」「私もです」

            Lui seul est venu.

            彼だけが来た。

 (14)[動詞を省略した文で]

            Qui m’aidera ? — Moi.

      「誰が手伝ってくれる?」「私」

 (15)[関係節が付くとき](注1)

            Il est déjà huit heures. Et moi qui n’ai pas fini de me maquiller !

            もう8時だわ。なのにまだお化粧も終わっていないなんて。

 

 上の例の自立形代名詞を名詞に置き換えると、(9) C’est Paul.「ポールです」、(10) Venez avec Hélène.「エレーヌといっしょに来てください」、(11) Pierre est plus fort que Nicolas au tennis.「ピエールはニコラよりテニスが強い」などとなり、自立形代名詞はふつうの名詞と同じ場所で使えることがわかります。

 また (9) から (15) で自立形が使われているのは動詞と密接な関係を持たない場所です。たとえば (10) はavec moiを取り去って Venez.「いらっしゃい」だけでも十分使えます。接辞形が動詞と結びつきが強い「項」の位置で用いられ、動詞と融合してしまうのにたいして、自立形が用いられるのは「項」ではない周辺的な場所なのです。(注2)

 

luiyのどちらを使うか問題】

 英語と比較したときに、フランス語の人称代名詞の大きな特徴は、3人称で人と物を区別しないという点にあります。英語では人を指す he / sheと物を指す itを区別しますが、フランス語ではil / elle は人に物にも使われます。目的格のle / laも同じです。

 

 (16) Jacques ? Il s’occupe de ses enfants. [人]

            ジャックですか。子供たちの世話をしています。

 (17) Ma voiture ? Elle est garée dans la cour.[物]

            私の車ですか。中庭に駐めてあります。

 (18) Sandrine ? Je l’ai vue à la bibliothèque.[人]

            サンドリーヌですか。図書館で見かけましたよ。

 (19) Mon vélo ? Je l’ai vendu à un ami.[物]

            私の自転車ですか。友達に売りました。

 

 しかしこのことが言えるのは人称代名詞の主格と直接目的格までです。間接目的格になると、事情が少しちがいます。多くの文法書では人称代名詞 lui / leurは人を指し、物を指すときには中性代名詞のyを用いると書かれています。たとえば朝倉季雄『新フランス文法事典』(白水社)には、「à qn (=quelqu’un), à qch (=quelque chose)のどちらも伴い得る動詞では lui, yで人・物が区別される」(p. 293)と書かれていて、次のような例文が挙げられています。

 

 (20) Il m’a écrit et je lui ai répondu.

            彼は私に手紙をくれたので、私は彼に返事を書いた。

 (21) Cette lettre était insolente, je n’y ai pas répondu.

            その手紙は無礼だったからそれには返事を書かなかった。

 

 répondre「返事をする(書く)」という動詞は、人に返答するときも、手紙に返事を書くときも使えて、間接目的補語は人・物の両方が可能なので、多くの文法書の例文として使われています。白状すると私も『フランス文法総まとめ』(白水社)では安易にこの動詞を使っていまいました。

 ただし朝倉文法事典の記述には続きがあります。「多くは、〈à+人〉を補語とする次の動詞は、luiが人を表すと解される恐れのない場合には、物についても lui, leurを用い得る」とあり、物でも lui / leurを取ることができる動詞が並んでいます。次はその一部です。

            comparer「比較する」、consacrer「捧げる」、donner「与える」、

   ôter「奪う」、 rendre「返す」、nuire 「損なう」、demander「要求する」、

           obéir「従う」、etc.

 

 そして次のような例文が挙げられています。

 

 (22) La lune baignait la salle et lui donnait une blancheur aveuglante.

            月の光は一面に差しこみ、部屋はまばゆいばかりに白かった。

 (23) De plus en plus, les machines nous commandent, et nous leur obéissons.

            ますます機械は我々に命令し、我々はその言うままになる。

 

 これとは逆に人なのに yを使う場合もあります。次の例ではyは後に置かれた à ton lieutenantを受けています。

 

 (24) Tu y penses toujours, à ton lieutenant ?

            相変わらず思いつめているの、例の中尉さんのことを。

 

 これはどういうことなのでしょうか。実はこれは大変ややこしい問題なのです。多くの文法書に書かれている「3人称の間接目的補語では人には lui / leurを、物にはyを使う」というのは、教育的な配慮からうんと単純化したものなのです。

 多くの研究者がこの問題に挑みました。元神戸大学教授の林博司さんは、「受影性」と「主題性」による説明をしています。(注3)「受影性」とは影響を受ける度合のことです。

 

 (25) Laisse donc tes chaussettes. Tu va leur faire des trous.

            靴下をいじくるのはやめなさい。穴をあけてしまいますよ。(注4)

 (26) Il y tient toujours, à cette fille. (注5)

            彼はこの娘にあいかわらずくびったけだ。

 

 (25)は物なのにleurが、(26)は人なのにyが使われています。それは「穴をあける」が影響の大きなこと、つまり「受影性」が高く、一方「執着する」は相手にほとんど影響を与えません。つまり「受影性」が高いとlui / leurが使われる傾向にあり、「受影性」が低いとyが使われるというわけです。

 これにたいして元西南学院大学教授の西村牧夫さんは、間接目的補語の「自立性」で説明しようとしています。(注6)

 

 (27) Frapper la balle de biais de manière à lui imprimer un movement de rotation sur elle-même.

            ボールが回転するように斜めから打つ。

 (28) Votre description est trop sèche, ajoutez-y quelques détails.

            あなたの描写は味も素っ気もない。少しディテールを加えなさい。

 

 どちらも間接目的補語は物ですが、(27)では打ったボールはその後自立的に回転するのにたいして、(28)ではあなたの描写は何かを加えられるだけで、自立性がありません。同じ物でも自立性が高いときは lui / leurが、低いときはyを使うというのが西村さんの説明です。

 以上の分析を総合すると、lui / leurは間接目的補語がさすものの個体性が高く、自立的に動くことができたり、動詞の表す行為によって影響を受けやすいものをさすときに使われると言えそうです。自立性が高く影響を受けやすいものの典型は人です。一方、yはもともとは J’habite à Paris. 「私はパリに住んでいます」→ J’y habite.「私はそこに住んでいます」のように、場所を表す副詞的代名詞ですので、場所のように状態性が強く自分では動かず、また動詞の表す行為によって影響を受けにくいものをさすと考えられます。その典型は場所や物です。しかしその境界線は微妙でグラデーションをなしていて、「ここまでは lui / leurでここからはy」のように、はっきり線引きできるものではないようです。

 実は今回の講義は、lui / leuryの使い分け問題に決着を付けるためのものではありません。目的は別のことなのですが、だいぶ長くなりましたので、次回にお話することにします。                     (この稿次回につづく)

 

(注1)ただし次のような場合には接辞代名詞に関係節を付けることができる

           i) Je l’ai vu qui pleurait. 私は彼が泣いているところを見た。

 これは J’ai vu Paul qui pleurait.の直接目的補語 Paulを代名詞化したもので、関係節は擬似関係節である。これについては別のところで改めて扱う。

(注2)(9)の属詞(英文法では主格補語)は取り去ってしまうと *C’est.となり、非文法的になってしまうので、コピュラ動詞êtreに必須な項とする考え方もある。

(注3)林博司「『à+名詞句』を受けるy とluiについて — フランス語におけるdatifとlocatif」、大橋保夫他『フランス語とはどういう言語か』駿河台出版社、1993.

(注4)文意を考えて日本語訳は原文とは異なるものにした。

(注5)例にしやすいように例文を少し変えた。

(注6)西村牧夫「間接補語y vs à lui vs lui」、東京外国語大学グループ《セメイオン》『フランス語を考える ─ フランス語学の諸問題 II』三修社、1998.

 

 

「フランス語100講」こぼれ話 (1) フランス語で一番長い単語

 私が大学生の頃、通っていた関西日仏学館(現 Institut français du Kansaï)でニコラ(Nicolas)君というフランス人の少年と知り合った。ニコラ君はふだんは東京の九段にあるフランス人学校(lycée français)に通っているのだが、夏休みで京都に滞在していたのだ。

 ある日のこと、ニコラ君は私にクイズを出した。

 

─ Quel est le plus long mot du français ?

 「フランス語でいちばん長い単語はな〜んだ?」

 

 私が「知らない」と答えると、ニコラ君は肺に空気を一杯吸い込む仕草をして、得意そうに言った。

 

─ Anticonstitutionellement.

 

 これは「憲法に違反して」という意味の副詞である。議論好きのフランス人ならば、ここで「いちばん長い」の定義をめぐって議論が起こるところだが、ここでは「いちばん文字数が多い」としておこう。この単語は25文字ある。どうやらフランス人の間ではこれがいちばん長い単語だということはよく知られているらしい。ただし「現行の辞書に載っている単語の中では」という条件が付く。

 最近では無理やりひねり出した感のあるintergouvernementalisations「政府間交渉化」(27字)がいちばん長いとする意見があるらしいが、こちらはまだ代表的な辞書に採用されていない。

 何の役にも立たない情報もうひとつ挙げておこう。フランス語には単数形で男性名詞だが複数形では女性名詞になる単語が3つある。

 

─ Quels sont les trois mots qui sont masculins au singulier et féminins au pluriel ?

 

 答は amour「愛」、délice「歓喜、恍惚」、orgue「オルガン」である。ただし、amour は mes premières amours「私の初恋」のように恋愛を意味する場合に限られる。また複数形の orgues は教会などにある大きなパイプオルガンを指す。朝倉文法事典には Cette cathédrale a de belles orgues.「この大聖堂にはりっぱなオルガンがある」という用例がある。また amourと orgue は載っているが délice についての記述はない。M. Grevisse / A. Goosse, Le Bon usage (Duculot, 12e éditon) を見ると、déliceは単数では男性で複数では女性だとちゃんと書かれている。知っていても何の役にも立たないが、座興でクイズにするにはよいかもしれない。

 

「フランス語100講」第3講 人称 (3)

〈1人称複数 nous

 1人称複数というのは問題の多い人称です。まずnousが複数の話し手をさすということはふつうありません。60年代の学園紛争が盛んな時代に、ヘルメット学生が声をそろえて「われわれは勝利するぞ!」と叫ぶ場合とか、小学校の卒業式で行われているシュプレヒコールで、先導者が「私たち卒業します」と言うと、卒業生全員が「私たち卒業します」と唱和するような場合にしか複数の話し手というものはありません。

 1人称複数にはふたつのケースがあります。〈私+あなた(方)〉つまり1人称+2人称の「私たち」か、〈私+彼(ら)/彼女(ら)〉つまり1人称+3人称の「私たち」のどちらかです。(1)が一つ目の場合で、(2)が二つ目の場合に当たります。

 

 (1) Toi et moi, nous serons toujours ensemble.

   君と僕はずっといっしょにいようね。

 (2) Ta mère et moi, nous pensons à ton avenir.

   お母さんも私もおまえの将来を考えているんだよ。

 

 言語学では聞き手を含む一つ目を「包括的 nous」 (nous inclusif)、聞き手を含まない二つ目を「排除的 nous」(nous exclusif) と呼ぶことがあります。言語によっては異なる語形を使うものがあるからです。(注1)日本語でも、「私ども」とか「手前ども」と言うときは、「ども」が謙譲を表すので、聞き手を含まない排除的な人称詞になります。

 実はフランス語にも同じような現象があるのです。nous や vous に autres を付けた次のような表現です。

 

 (3) Nous autres Allemands, nous avons l’habitude de juger les hommes

        d’après leurs œuvres. Nous possédons le goût du travail pour lui-même.

                                    (Ernst-Robert Curtius, Essai sur la civilization en France)

  私たちドイツ人は、人を評価するときに、その人がなし遂げた業績を重んじ

  るきらいがある。私たちドイツ人は仕事自体を好むのだ。

 

 著者のクルチウスはドイツ人で、この文章は「私たちドイツ人」nous autres Allemandsと「あなた方フランス人」vous autres Françaisとの国民性のちがいを論じています。この nous autres は聞き手を含まない排除的な1人称複数です。これを知らないと「私たち他のドイツ人」などと訳しかねませんね。

 1人称複数が孕むもうひとつの問題は、nous のさす範囲が大きくなったり小さくなったりして、変幻自在だという点にあります。次の例のような哲学の文脈では、nous は人間一般を広く指します。これが nous の取り得る最大値でしょう。

 

(4) Nous ne voyons pas les choses mêmes ; nous nous bornons, le plus souvent,

     à lire des étiquettes collées sur elles. Cette tendance, issue du besoin, s’est

    encore  accentuée sous l’influence du langage.           (Henri Bergson, Le rire)

 私たちは物自体を見ていない。たいていは物に貼られたラベルを見ているのだ。必要

 から生まれたこの傾向は、言語の影響を受けてさらに強まった。

 

 では次の文章ではどうでしょうか。

 

 (5) Notre civilisation est une somme de connaissances et de souvenirs accumulés

        par les générations qui nous ont précédés. Nous ne pouvons y participer qu’en

       prenant contact avec la pensée de ces générations. Le seul moyen de le faire et

      de devenir ainsi un homme cultivé, est la lecture.       (André Maurois, Les livres)

 われわれの文明は先人たちが積み重ねた知識と記憶の集合体である。先人たちの思想に

 触れることなくしては、文明に参画することはできない。先人たちの思想に触れて教養

 ある人士となる唯一の方法は読書である。

 

 この例の nous を広く取れば「人類全体」になります。しかし文字を持たず、本というものがない民族もあるので、人類全体と取るのは多少抵抗を感じます。著者はフランスを含むヨーロッパを中心に考えているようにも思えますね。もしそうだとすると nousは 西欧文明に属する人たちということになります。 

 このように nous は民族や地理といった要因によって伸び縮みするので、単に「私たち」と訳すのは危険です。それだけではありません。時間の影響も受けるのです。次の例の所有形容詞 notre の背後にいる nous は現代に生きる私たちです。ですから過去の人は含みません。

 

 (6) Paul Morand, qui est sans doute l’un des observateurs les plus pénétrants de

       notre époque, a fait remarqué que le XXe siècle n’avait inventé qu’un seul vice

       nouveau, la vitesse.                                (André Siegfried, Aspects du XXe siècle)

 おそらく現代で最も洞察力のある批評家であるポール・モランは、20世紀が生み出し

 た悪習はひとつしかないと指摘した。それはスピードである。

 

 たぶん nous の取る最小値は次のような表現でしょう。

 

 (7) Entre nous, je vais quitter la boîte le mois prochain.

   ここだけの話だが、私は来月会社を辞めるんだ。

 

nous は本や論文の著者をさすときにも使います。「著者の nous」 (nous d’auteur) とか「謙遜の nous」(nous de modestie)といいます。この場合は「私たち」と訳してはいけません。君主や枢機卿など高位の人が自分をさすときにも使い。これを「威厳を表す nous」(nous de majesté)といいます。

 

 (8) Hormis de légères retouches intégratives et une réunion des références mises

        à jour dans une bibliographie générale, nous ne leur (=les sept travaux qui

        constituent ce recueil) avons volontairement pas apporté de remaniements.

                                               (Georges Kleiber, Anaphores et pronoms, Duculot, 1994)

 用語の統一などの軽微な修正と、参考文献を最新のものにしてひとつにまとめた以外

 は、私は本論文集に収録した7つの論文にわざと手を加えずそのまま掲載した。

 

 ただし、最近は著者のnousに代わってjeと書く人も増えてきました。この用法で属詞が形容詞や過去分詞のときは単数形にします。さしているのは一人の人だからです。さしている人が女性のときは女性形になります。

 話し言葉では nous は親愛の情をこめて tu の代わりに使われることもあります。

 

 (9) Avons-nous été sage ? お利口にしてたかな。

 

〈2人称複数 vous

 ていねいに一人の聞き手をさす用法以外に、vousには主に文章で読者一般をさす用法があります。英語のyouと同じですね。

 

 (10) Damandez à plusieurs personnes de vous expliquer ce qu’est le temps. Vous obtientrez probablement autant de réponses différentes.

何人かの人に「時間とは何ですか」とたずねてごらんなさい。たぶんたずねた人の数だけ異なる答が返って来ることでしょう。

 

〈3人称複数 ils / elles

 さしているのがすべて男性の場合は男性複数の ils、すべて女性のときは女性複数の elles になるのは当然です。しかし男性と女性が混じっているときは ils を使うことに違和感を感じる人もいることでしょう。言語学では男性と女性の対立が中和されると考え、この ils を男性ではなく「通性」と呼ぶことがあります。とはいうものの、99人の女性と1人の男性の集まりでも ils になるのですから、ジェンダー的には問題と言えるかもしれません。

 男性複数形の ils にはちょっと特殊な使い方があります。先行詞なしで使う次のような例です。

 

 (11) Ils ont encore augmenté les impôts.

   あいつらまた税金を上げやがった。

 

 この用法では話し手も聞き手も含まずに不特定の人をさし、「当局、その筋」などのお偉方を意味することが多いようです。同じく不特定の人をさす代名詞に on がありますが、on は話し手や聞き手を含むこともあるので、この点で ils と使い分けされています。

 

〈人称の転用〉

 人称代名詞はそれがさしている本来の人称以外の人称に転用されることがあります。上の (9) で挙げた tu の代わりに使われる nous もそのひとつです。

 近年のフランス語学の研究で注目されているのは1人称の je の次のような使い方です。(注2)次の例の動詞validerはもともとは「有効なものにする」という意味です。

 

 (12)[路線バスの表示]

         Je monte (直訳)私は(バスに)乗車する

         Je valide (直訳)私は(切符に)打刻する

 

 パリの街を走る路線バスは、1時間半以内ならば同じ切符で乗り換えができます。このため乗車したら切符を機械に差し込んで、乗車時刻を印字しなくてはなりません。これを怠ると高額の罰金を取られることがあります。(12)を日本語風の言い方にすると、「バスに乗車したら切符に時刻を印字しましょう」とでもなるでしょうか。

 (12)の je は誰をさしているのでしょうか。主語 をon に変えて On monte, on valide.とすることもできます。on は漠然と人一般をさす代名詞ですから、こう書き変えると、切符に印字するのは誰にでも求められていることだということになります。ところが je は人一般をさす代名詞ではありません。ではどうして (12)が乗客一般に当てはまる標語になるのでしょうか。それは今まさにバスに乗車しようとしている人が、この標語を読むことによって自分を je の立場に置くからだと考えられます。つまり乗車という状況が持つ場面の特定化によって、パスに乗る人がjeの立場に立つのです。je が人一般を表す代名詞ではないのに、乗る人すべてをさすように見えるのはこのようなメカニズムによると考えられます。次の例も同様です。(注3)

 

 (13) J’AIME MON QUARTIER (直訳)私はこの町が好きです。

          JE RAMASSE        (直訳)私は(犬の糞を)拾います。

 

 パリの公園などにある注意書きです。この標語は犬を散歩させている人に、糞を拾って持ち帰るように呼びかけています。この場合にも犬を散歩させているという場面の力によって、散歩させている人がこの標語の je に当てはまる立場であると理解するのです。

 しかしjeは話し手をさす代名詞ですが、公園でこの注意書きを読む人は発話していません。発話行為によって定義づけられているはずの1人称代名詞なのにどういうことなのでしょう。

 上の注意書きは2人称を用いて、Si vous aimez votre quartier, vous ramassez.「あなたがこの町が好きなのならば、糞を拾いましょう」とすることもできます。こうすると、標語を書いた当局の人から、犬を散歩させている「あなた」への呼びかけとなり、ふつうの依頼の表現です。しかし je を用いた標語を読む人は、「読む」という行為を通して自分を潜在的な話し手の立場に置くのではないかと考えられます。文章を読むときは、実際には声を出していなくても、心の中で音読していますよね。こうして潜在的な話し手の立場に置かれた人は、vousを使った標語よりもずっと強い強制力を感じるのではないかと思います。標語に je を使う のはこのような理由によるのではないでしょうか。

 

(注1) インド亞大陸の南部で話されているドラヴィダ諸語やオーストラロネシア諸語では包括的nousと排除的nousを区別している。

(注2)フランス・ドルヌ「偽装された命令 Je monte, je valide」、川口順二編『フランス語学の最前線』第3巻特集「モダリティ」、ひつじ書房、2015.

(注3)泉邦寿「一人称のレトリック的用法について」『川口順二教授退任記念論文集』2012. https://shs.hal.science/halshs-01511628

 この用法は牧彩花「一人称詞を用いた引用表現に潜む『声』」、阿部宏編『物語における話法と構造を考える』ひつじ書房、2022でも詳しく論じられている。

「フランス語100講」第2講 人称 (2)

〈1人称単数 je

 1人称は話し手をさし、話し手が男性でも女性でも、子供でも老人でも使うのはjeです。これは考えてみると驚くべきことではないでしょうか。

 日本語ではニュートラルな「私」の他に、男性は「僕」「俺」「わし」、女性は「あたし」「うち」などと自分を呼び、性別によって異なる語を使うことがあります。多少文語的ですが、その他にも「吾輩」「小生」などもあります。警察官は自分のことを「本官」、役人は「小職」などと言いますし、天皇や国王専用の「朕」という代名詞まであります。なぜ日本語にはこんなにたくさん1人称代名詞があるのでしょうか。

 日本語でさらに驚くべきなのは、相手が誰かによってちがう代名詞を使うことです。同じ人が会社で上司に話すときは「私」と言い、同僚と話すときには「僕」と言い、家で家族と話すときには「俺」と言ったりします。相手によって自分をさす人称代名詞を使い分ける言語はとても珍しいのです。

 さらにおもしろいのは、本来は代名詞ではない役割名詞を用いて自分をさすことです。学校で生徒に話すときには「先生はこう思うよ」と言い、家で子供に話すときには「お父さんはうれしいな」と言います。靴紐が結べないよその子供に「おばさんが手伝ってあげる」と言うこともあります。こういうものまで人称代名詞と呼ぶことはできないでしょう。「人称詞」や「自称詞」あたりが適切ではないでしょうか。

 フランス語ではいついかなる場合でも話し手は je なのに、日本語では場面や話し相手によって人称詞がころころ変わるのはなぜでしょうか。それはフランス語の人称代名詞と日本語の人称詞では担っている機能がちがうからです。

 フランス語の人称代名詞 je には、大きく分けて二つの機能があります。意味的機能は「話し手をさす」ことで、文法的機能は「動詞の活用を支配する」ことです。je にそれ以外の機能はありません。一方、日本語の1人称詞「僕」「私」には、「話し手をさす」という意味的機能はありますが、「動詞の活用を支配する」という文法的機能はありません。主語が「僕」でも「君」でも動詞の形は変わらないからです。

 そのかわり日本語の人称詞にはフランス語の人称代名詞にはない働きがあります。それは語用論的機能、とりわけ対人的機能です。語用論的機能(fonction pragmatique)というのは、言葉が使われる「場面」を言語に反映することをいいます。改まった場面なのか、くだけた場面なのかというちがいが人称詞の選び方を決めます。対人的機能とは、話し手と聞き手の人間関係にかかわるものです。相手に対する敬意やていねいさや親愛の情や侮蔑を表す働きで、これも人称詞の選び方に影響します。親しくない人には「私」と言う人が、家に帰れば家族に「俺」と言うのがそれです。教室では教師という社会的役割が前面に出て自分を「先生」と呼び、家庭では親子関係に基づいて自分のことを「お父さん」と言ったりします。日本語ではこのように「場面」が大きな語用論的機能を担っています。日本語は文法がすべてを決める言語ではなく、文法の外にある場面や対人関係が言葉の選び方に強く働く言語なのです。

 

〈2人称単数 tu と複数 vous

 フランス語では珍しく2人称には日本語とよく似た語用論的機能があります。親疎の区別です。家族や友人などの親しい間柄では tu を、初対面の人や目上の人にはたとえ相手が一人でも複数形の vous を用います。

 なぜ1人称にはなかった語用論的機能が2人称にはあるのでしょうか。それは2人称が聞き手をさす代名詞だからです。自分をどう呼ぶか以上に、相手をどう呼ぶかは対人関係において重要です。ヨーロッパの言語には2人称で親疎の区別のあるものが多く、英語にも昔は thou〜youの区別がありましたが、消えてしまいました。

 では tu の複数形の vous を使うとどうしてていねいになるのでしょうか。ていねいさを表す鍵は「相手を直接さすことを避ける」ことです。では相手を直接ささないためにはどうすればよいでしょうか。やり方は二つあります。「ぼかす」か「ずらす」かです。相手が一人でも複数形を用いるのはぼかすためです。イタリア語では「ずらす」ことを選び、2人称の代わりに3人称代名詞を使います。フランス語でも特殊な場合には3人称を使って敬意を表すことがあります。国王に話しかけるとき Votre Majesté partira quand elle voudra.「陛下におかれましてはいつでもご出発くださいますように」(注1)のように3人称を使って国王を直接さすのを避けます。また昔は召使いが雇い主に話すとき Madame est servie.「奥様、お食事の支度が調いました」と言って、主人に3人称を使っていました。

 教室ではよく tu は日本語の「君」や「お前」に当たると教えます。これはまずまず正しいでしょう。しかし神様に呼びかけるときには tu を使うので、少し感覚がずれるところもあるようです。困るのは vous ですね。便宜上、教室では vous には3つの意味があって、tu の複数の「君たち」「お前たち」、ていねいな単数の「あなた」、ていねいな複数の「あなた方」であると教えます。しかしほんとうはこれはとてもまずいのです。というのは日本語ではていねいに目上の人を呼ぶときに、決して「あなた」とは言わないからです。会社で社長に向かって「あなた」と言ったらクビになりかねません。日本語ではていねいな vous に相当する人称詞はないのです。それに代わって「部長はどうお考えですか」とか、「先生は明日大学にいらっしゃいますか」のように、「部長」や「先生」などの役職名を使います。日本語は相手を直接さすことをとても嫌うのです。これもまた日本語が文法のみによって駆動される言語ではなく、場面や人間関係などの語用論的配慮が強く働くことを表していると言えるでしょう。

 留学中にパリ第8大学(Université de Paris VIII–Vincennes、現在はUniversité Paris VIII-Vincennnes-Saint-Denis)の授業に出たときは驚きました。学生が先生に話しかけるときに tu を使っていたのです。第8大学は5月革命の後に実験校として設立された大学で、とても自由な校風だったのですね。

 

〈3人称単数 il / elle

 3人称代名詞がさす対象は人と物と非人称に分かれます。フランス語には英語の it のような物専用の代名詞がないので、非人称には男性単数形の il  を使うのは周知のとおりです。非人称についてはまた別の所でお話します。

 il / elle が物をさすときは特に問題ないのですが、問題は人をさすときです。次の例を見てみましょう。

 

     (1) En ouvrant la porte, elle crut que ce vendredi serait semblable aux autres, ni plus gai, ni plus triste ; pourtant, elle ne devait jamais, par la suite, oublier ce jour où se déclencha la machination. Elle se pencha pour ramasser l’hebdomadaire posé en équilibre sur la bouteille de lait, referma la porte et se dirigea vers la cuisine en traînant ses savates.

                          (Catherine Arley, La Femme de paille)

ドアをあけながら、その日が金曜であったことに気づいた。彼女はすべての策謀が始められたこの日を、あとになると決して忘れることができなくなる。しかし、今はそれを知る由もなかった。その日も、ただ、一週間のうちの単なる一日であり、ほかの日よりも悲しくも嬉しくもなかった。彼女は、身をこごめて、牛乳瓶の上に、落ちないようにうまく置いてあった週間新聞をとりあげると、ドアをしめ、スリッパをひっかけ、台所へ入った。           

       (カトリーヌ・アルレー『わらの女』安藤信也訳、創元推理文庫)

 

 最初の elle は訳されていませんが、2つ目以降の elle は全部「彼女」と訳されています。このような翻訳も多いのですが、少し年配のベテラン翻訳家だと次のようになっています。(注2)英語の例ですが事情は同じです。

 

     (2) ‘Unsolved mysteries.’

     Raymond West blew out a cloud of smoke and repeated the words with a kind of deliberate self-conscious pleasure.

   ‘Unsolved mysteries.’

   He looked round him with satisfaction. The room was an old one with broad black beams across the ceiling and it was furnished with good old furniture that belonged to it. Hence Raymond West’s approving glance. By profession he was a writer and he liked the atmosphere to be flawless.

    (Agatha Christie, The Thirteen Problems, “The Tuesday Night Club”)

「迷宮入り事件」  

 レイモンド・ウェストは、タバコの煙をパッと吐きだしてくりかえした。ゆっくり味わいかえしているようなうれしそうな口調だった。 

 「迷宮入り事件」

 レイモンド・ウェストは満足そうに一座を見まわした。古風な部屋だった。天井には太い黒っぽい梁がわたされ、部屋相応にどっしりした古めかしい家具が置かれている。レイモンド・ウェストが好ましげに眺めたのもむりはなかった。レイモンド・ウェストは作家だった。

      (アガサ・クリスティー『火曜クラブ』中村妙子訳、ハヤカワ文庫)

 

 この訳では原文で he となっているところを全部「レイモンド・ウェスト」としています。私もそうなのですが、人によっては人称代名詞の il / elle や  he / she を「彼」「彼女」と訳すことに抵抗を感じます。それはなぜでしょうか。それは日本語の「彼」「彼女」の歴史に由来します。

 古語で「彼」は遠い所にあるものをさす遠称の指示詞でした。「たそがれ」という表現は、元は「誰そ彼」で、「あの人は誰だろう」を意味し、人の顔の見分けがつかない夕暮れをさします。この意味は現代語でも「山の彼方」という言い方に残っています。「彼方」というのは遠い場所という意味ですね。また多くの言語で遠称の指示詞は、話し手も聞き手も知っているものをさします。現代日本語の遠称の指示詞は「あの〜」や「あれ」ですが、部長が部下に「山田君、あの件はどうなった?」と言うときは、「あの件」がさすものは部長さんにも山田君にもわかっているのです。同じように古語の「彼」は共有知識に属するものを指していました。この意味は現代日本語にもかすかに残っていて、次のような場合には「彼」は使えません。(注3)例文の (*)記号は非文法的な文であることを表しています。

 

     (4) Aさん : イタリア語の翻訳ができる人を探しているんだけど、誰か知らない?

           Bさん : 僕の知り合いに澤口さんという人がいて、イタリア語が得意ですよ。

     Aさん : じゃあ、{その人 / *彼}に頼もうかな。

 

 Aさんは澤口さんを知らないので「その人」と言わなくてはならず、「彼」を使うことはできません。このような感覚を今でも持っている人は、小説の翻訳で il / elle を「彼」「彼女」と訳すのに抵抗を覚えるのです。日本語ではフランス語のように同じ単語の繰り返しを嫌わないので、Paulを受ける代名詞 il を「彼」と訳さずに、「ポール」と繰り返すか、もっとよいのは省略することです。

 

     (5) Paul avait sommeil ; il n’avait pas bien dormi la veille.

    ポールは眠かった。昨夜はよく眠れなかったのだ。

 

 そもそも il を「彼」と訳すことができないケースも少なくありません。たとえば先行詞が「神」のときがそうです。

 

     (6) Dieu sait tout. Il connaît non seulement les moindres détails de nos

             vies, mais aussi de celles de tout notre entourage.

   神はすべてをご存知である。神は私たちの暮らしの細かいことのみならず、

   私たちのまわりの人たちの生活の細部までもご存知である。

 

 もし教室で学生が「彼」と訳したら、「君は神様とそんなに親しいのですか」とからかいたくなるところです。「彼」は本来よく知っている人をさすからです。

 次のように先行詞が総称の場合も問題になります。

 

     (7) Tandis que le Français, lui, trouve indigne de porter atteinte à un certain

          équilibre entre le travail et l’oisiveté. Il veut jouir de la vie, fût-ce de la

         façon la plus modeste.

                     (Ernst-Robert Curtius, Essai sur la civilisation en France)

  一方、フランス人は仕事と余暇のあいだのほどよいバランスを壊すのは適切で

  はないと思っている。フランス人はたとえささやかであっても人生を楽しみた

  いのだ。

 

 「彼」は特定の人しかさすことができないので、「フランス人一般」をさす総称の il を「彼」と訳すことはできません。

 次のように先行詞が不定代名詞のときも同様です。もしこの例で il を「彼」と訳したら、それは特定の人をさすことになってしまいます。

 

     (8) Personne ne croit qu’il est malade.

         自分が病気だと思う人は誰もいない。

 

 この例で従属節の il は特定の人をさすのではなく、主語のpersonneのとる値に連動してさすものが変化します。このような代名詞を統語的代名詞 (英 syntactic pronoun)と呼び、先行詞がPaulのように特定の人のとき、それを受ける代名詞 il を語用論的代名詞 (英 pragmatic pronoun) と呼ぶことがあります。(注4)日本語の「彼」は特定の人をさす語用論的代名詞で、統語的代名詞に当たるものはありません。(注5)このようにフランス語の il / elleと日本語の「彼」「彼女」は異なる点が多いのです。                                                                     (この稿次回につづく)

 

(注1)『小学館ロベール仏和大辞典』

(注2)中村妙子さんはC.S.ルイスやアガサ・クリスティーの翻訳で知られる翻訳家である。私はパリで一度お会いしたことがある。

(注3)田窪行則「名詞句のモダリティ」、仁田義雄、益岡隆志編『日本語のモダリティ』(くろしお出版、1989)などに詳しい。

(注4)Bosch, Peter, Agreement and Anaphora. A Study of the Role of Pronouns in Syntax and Discourse, Academic Press, 1983に詳しく論じられている。

(注5)例(8)の訳の「自分」を統語的代名詞とする見方もある。