第419回 林祐一『Curriculum Vitae / ポリクリノート』

リスフラン関節きらりと輝かせ素足の二十三歳が来る

林祐一『Curriculum Vitae / ポリクリノート』

  リスフラン関節とは足の甲の骨と足指の骨をつなぐ関節のことで、持ち主はおそらく後に作者の妻となる女性と思われる。季節は初夏で女性は素足にサンダルを履いているのだろう。サンダルの網目の隙間から関節がのぞいているのだ。「素足の二十三歳」は属性で主体を表す換喩(メトニミー)だが、それ以上に描写の焦点をリスフラン関節に絞った手法がおもしろい。作者は医学者なので、このような理系用語が短歌にうまく織り込まれている。

 巻末のプロフィールによれば、林は1974年生まれで、歌林の会に所属している。第10回の歌壇賞(1999年)で優秀作品に選ばれ、結社内ではかりん賞とかりん力作賞を受賞している。坂井修一の解説によれば、この二つの賞をダブル受賞したのは林ただ一人だという。本歌集は昨年(2025年)上梓された第一歌集で、馬場あき子が帯文を、坂井修一が解説を寄せている。歌集題名のCurriculum Vitaeはラテン語で履歴書を意味する。医学の研究者である作者は、あちこちのポストに応募するたびに履歴書を書くのである。また後半のポリクリノートとは、学部時代の臨床実習のノートのことだという。ポリクリはドイツ語のPoliklinikの略語である。医学にはカルテやクランケやルンゲなどドイツ語が多く使われている。題名の後半が作者の医学生時代を、前半がボスドクの研究者の時代を表している。

 さて、作者の作風だが、実に正統的な近代短歌で、歌意を取れない歌はひとつもない。巻頭あたりから何首か引いてみよう。

キャリアとは馬車の轍に由来せり雪は静かに我に見せるも

一滴のオイルを落とし見に行けば黄昏色に染まる細胞

骨箱の骨は指紋にまみれつつくぼみは長き名前を持てり

夕暮れの水を小さな胸で押す鴨に時間を与えしうみ

長く長く手術見学立ちし夜『短歌一生』買いて帰りぬ

 一首目はプロローグとして一首だけ置かれた巻頭歌。作者は医学の研究者としてキャリアを積んで階梯を上らなくてはならないのだが、それは時に肩に重くのしかかる。窓の外に静かに降る雪がその重みと対比されている。二首目は細胞の染色実験だろうか。顕微鏡の視野が黄昏色に染まる。三首目は口頭試問の情景で、試験官は骨箱から骨を取り出して部位の名称を問うのだろう。四首目は叙景歌で、湖面を滑るように泳ぐ鴨を詠んでいる。鴨の一生は短く、湖の寿命は果てしなく長い。五首目の『短歌一生』は上田三四二の著書。あとがきによれば、作者が短歌を作り始めたのは斎藤茂吉の歌に接したことがきっかけだという。茂吉も医学者であり、上田もまた医者であった。医者で歌人という系譜に林もまた連なるのである。

 医者として勤務する現場を詠んだ歌は、広い意味で職業詠と言えるだろう。それは第II章から始まる。最初の勤務地は新潟だったようだ。

昏睡の人へも朝の挨拶を 診察のたび深く思えり

肺癌を肺炎というさみしさよ麻薬の紅きハンコを押せば

死を告げて来たりし夜を刻むごと雨こぼしたり紫陽花の街

背に負いて患者の目方測りたりもう今は亡き人となりしが

眠れざる患者に夜を付き添えば家でしずかに死にたしという 

 一首目には作者の誠実さがよく現れている。朝の回診時に昏睡している患者にも「おはよう」と声をかけるのである。二首目、今では癌の告知は進んでいるが、昔は本人に告知しないことが多かった。本当は肺癌なのに本人には肺炎と嘘を告げるのだ。そして鎮痛作用のある麻薬を処方している。特別な処方なので赤い印を押す決まりなのだろう。三首目、亡くなった患者の家族に「ご臨終です」と告げるのは医者の辛い役目だ。季節は紫陽花の咲く梅雨時である。四首目、死亡診断書に体重を書かなくてはならないが、亡くなった人は体重計に乗らないので、医者が背負ってだいたいの体重を推測するのか。五首目、入院や手術は患者にとって大きな身体的負担である。入院が長引くと、もう治療は止めて家で最後の時を迎えたいと思うのは無理もない。

 掲出歌もそうだが、医学などの理系用語が詠み込まれている歌はおもしろい。

遠き君に伝えむとする肝臓のリーデル葉のうつくしさなど

フェノチット開胸器にて開かるる人体に深きくれないの闇

立春の大地に深く眠りたるモホロビチッチ不連続面

ロピタルの定理はいつも鮮やかに娘と我は似た手を使う

白衣脱ぐ ライプニッツの公式に心を寄せる我が昼さがり

ペンローズの階段我はせつせつと登りしごとくまた春は来る

 一首目のリーデル葉とは肝臓の一部が舌のように垂れ下がったものらしい。二首目のフェノチット開胸器は外科手術で胸部を開く器具。ネットで検索してみると、ラチェットの付いた恐ろしげな器具の写真が出てくる。三首目のモホロビチッチ不連続面は地表面とマントルの境界面で、そこを通過する時に地震波の波長が変化する。四首目のロピタルの定理は微積分で使う定理で、ベルヌーイの定理とも呼ばれているらしい。作者は進路を考えるときに、医学を選ぶか数学を選ぶか迷ったことがあるくらい数学に造詣が深い。一人娘と数学を通して交流できるとはうらやましい。五首目のライプニッツの公式は円周率の値を求めるための公式。六首目のペンローズの階段はいくら登り続けても上に行けずに元の場所に戻る不可能図形で、エッシャーのだまし絵に描かれている。

 私はかねてより理系と短歌は相性がよいと考えているのだが、上に引いた歌のように本来は抒情詩である短歌の中に硬質の理系用語が詠み込まれると、異質な言葉が混じることによって抒情の質が変化するように感じられる。それはあたかもウィスキーの古酒に数滴の水を垂らすと、封印されていた香りが立ち上るようでもある。

 勤務医をしながら医学研究をする日々はなかなかたいへんなようだ。

自らを励ましながら登る坂 研究はいたる所、坂道

我もまた研究テーマを捨てる夜の苦々しきを『遍歴』に見つ

ロンドンで冷たくされし論文に心あたため朱を入れてゆく

ポスドクのように扱われることも石のごとくに耐えねばならず

途中から傾斜のきつき四十代 講師を二回更新したり

 二首目の『遍歴』は斎藤茂吉の第五歌集で、海外留学中の出来事を詠んだ歌が収められている。研究者にとって研究テーマを捨てるのは辛いことである。三首目は専門雑誌に投稿した論文がリジェクトされたのである。投稿するにはかなりのお金を払わなくてはならないジャーナルもあると聞く。四首目の「ポスドク」とは、博士号を取得した後で任期付きのポストについて研究に従事する人のこと。まだ任期なしの専任ポスト(テニュア)がなく、所属先を転々とすることも多い。ポスドクのように扱われるのは悔しいことなのだ。

 家族を詠んだ歌にも人生に誠実に向き合おうとする姿が見える。人生と仕事と家族がバランスよく詠まれていて、最近そのような歌集をあまり読んだ記憶がない。所々に挟まれている叙景歌にも心に響くものがある。 

人間の死を見過ぎたる目玉かな今宵まぶたの裏まで洗う

明日殺すネズミに餌を与えむと夕暮れてひとり上がる階段

馬酔木咲く村の小さな道に来て風の曲がれば我も曲がりぬ

王宮にもう座らざる赤き椅子腰かけている夕べのひかり

我が去りし埠頭に一つ石冷えて船虫長き触覚を持つ

もう誰も降りぬ駅にも秒針の進みて夏の終わりを告げる

玄関にひとつ静かに立っていた斜めを好む我の雨傘

 特に心惹かれた歌を引いた。最後の歌の斜めを好む雨傘は作者の自画像だろう。巻末にエピローグとして次の一首が置かれている。 

数学と医学のわかれ道はあり追わずに過ぎしニコラ・ブルバキ 

 ブルバキはフランスの数学者グループで、ニコラ・ブルバキという架空の人物名で活動し、数学界に大きな影響を与えた。思想家シモーヌ・ヴェイユの兄のアンドレ・ヴェイユも創立メンバーの一人。作者の過ぎ越して来た人生を振り返っての一首である。