第420回 菅野朝子『花巡る』

河原の砂に横とう黒き玻璃陽を釣りあげて炎えさかりゆく

菅野朝子『花巡る』

 「河原」は音数から「かわはら」と読みたい。河原に黒いガラス瓶の欠片が落ちている。そこに真夏の強い陽光が差していて、まるで燃え上がっているかのようという情景。その様が太陽を釣り上げているように見えるという。およそ和歌・短歌の素材として好まれる花鳥風月からはほど遠い景色である。一読して気がつくのは表現の強さで、原色で描いた表現主義の絵画のようだ。この表現の強さは等身大の日常の〈私〉を詠む現代のフラットな歌には無縁なもので、そこに時の流れを感じざるを得ない。

 菅野かんの朝子は1945年生まれの歌人。第一歌集『くれない』(1982年)を刊行後、未来短歌会に入会し岡井隆の選を受ける。第二歌集『どこまでも橋』(1986年)を上梓した後、しばらく会を離れて2023年に再度入会している。『花巡る』は38年振りの第三歌集。版元は現代短歌社。佐伯裕子の帯文によれば、菅野はかつて岡井の率いる朗読会で注目を集めた歌人であったという。

 本歌集は三章からなる。一の章には未来短歌会に出詠した歌や、他の短歌誌に掲載された歌が収録されていて、「音楽とのセッション」と題された二の章には、フルートやサキソフォンなどの楽器とのセッションで書き下ろした歌が収められている。三の章は未来短歌会に再入会して以後の歌で、ほぼ編年体で構成されている。東日本大震災が起きた時、作者は福島にいたらしく、三の章にはその折の体験を詠んだ歌や、海の彼方の戦禍などを詠んだ時事的な歌が散見されるが、何と言っても作者の力量が冴えるのは初めのふたつの章の歌ではなかろうか。

が窓ゆしずかに垂るるしろがねの帯は天なる水へ続かむ

そうやってあなたの海が退いてゆく視ているだけの二人掛倚子ラヴシートです

ああ鳩は時のしずくよぎんいろの火をくわえつつ天に滴る

ふるさとをはつかにくらき円型の鳥籠として吊れば雪降る

家妻と寒の魚など食むきみをメルヒェンとして真夜を別れき 

 一首目は自室の窓から差し込む月光を詠んだ歌。その様が水のようなので、天の水へと続いているのだろうと想像を巡らせている。作者の作風は新仮名遣いで文語(古語)が基本だが、時折二首目のような口語(現代文章語)の歌も混じる。恋人と思しき男女が海辺でラヴシートに腰掛けている。隣に座っている男性の気持ちが離れてゆくのを女性は感じているのだ。三首目のように、初句が間投詞「ああ」から始まるのは近現代短歌のひとつのパターンかもしれない。例歌をいくつか挙げてみよう。

ああ接吻くちづけ海そのままに日は行かず鳥ひながらせ果てよいま

                        若山牧水

ああこんな処に椿 十年を気づかずにこの坂を通いぬ 

                    佐佐木幸綱

ああ夕日 明日あしたのジョーの明日あしたさえすでにはるけき昨日きのうとならば  

                       藤原龍一郎 

 鳩が時の滴というのはどのような発想かは不明ながら、どことなく神話的な世界感覚を感じる。四首目、喩が短歌の要であることは言をまたないが、故郷を鳥籠に例える喩の奇矯さには驚かれさる。菅野の歌には抒情的な場面で雪が降ることが多く、何かの心情と心の中で結びついているものと思われる。五首目は男女の歌。今まで会話に興じ酒を酌み交わしていた男が、妻の待つ家庭に帰って行くのを童話の一場面に仕立てている。童話にするのは心を離すためだろう。

 帯文で佐伯裕子は菅野の歌のリズムに触れ、長い沈黙を破って再び作り始めた歌は仏足石歌や長歌を思わせると述べている。確かに定型を大きくはみ出す歌も見られる。 

あるいはみんなみの鬱のきわみに熟れながら奔るプライドのカベルネ・ソーヴィニヨン

山坂には狂躁の夏極む頃 あでやかな大人になって訪れてくるソナチネの曲たち

やがてこころゆくまで指組みかわすため霜月はわれからを聴く繊き音きく 

 一首目は初句を九音と数えれば、三句目まではまだ定型の枠内だが、その後は八、九と大きく破調になっている。二首目も似ていて、六・七・五の後が大幅に破調だ。ちなみに作者は若い頃ピアノが得意で、先生は音大に進学するものだとばかり思っていたという。音楽は心の友なのだろう。三首目となるともう句割りもおぼつかない。心に溢れるものが大きすぎて定型の枠内に収まりきらないのかもしれない。

 作者は終戦の年の1945年(昭和20年)生まれなので、戦後のベビーブーマーで団塊の世代の先頭に当たる。60年代に猖獗を極めた大学紛争を担った主力の世代でもある。そのことを窺わせる歌も散見される。第一歌集『くれない』から数首が引かれている巻頭の歌にもそれはある。 

学園を追われて明大借りし頃 帰る坂道桜うつくしき

桜咲き知らぬ顔して散りかかる 動き見せぬスト われ何をなさん

 学園を追われたのは学生たちがバリケードを築いたか、あるいは大学がロックアウトしたからだろう。作者が青春時代を過ごしたのはお茶の水あたりかと思われる。次は歌集本体から。 

壮年は黒き油の井を掘れとひそやかに恋う「風のクロニクル」

朗読は相聞、挽歌 フルートは青春のシュプレヒコールへと続かう

真夜の地下道フランス式デモをするわれらにやさしき鐘れしめよ 

『風のクロニクル』は1985年に出版された早大闘争を描いた桐山襲の小説。二首目のシュプレヒコールはデモに付きものだ。フランス式デモは道路をジグザクに進むデモで、禁止されているため必ず機動隊と衝突する。

 男女の愛恋を詠んだ歌も多く見られる。 

九つ違いがなんだってんだ もやもやと風の通わぬ曲り小路は

きみに逢えぬひと目ひとひを張りつくしおさのようにももの想うかな

きみに逢えばにくしみさえも青空に零れゆく蜜 五月よ停まれ

わたくしの嘆き放電させながらあなたは帰る家族回路へ

禁忌ひとつ解きはなたれて妻の声驟雨のごとく降る電話口 

 二首目の筬は機織りに使う器具で、竹を櫛のように並べて横糸を通し、縦糸を通す度に押し付けて目を整えるのに使う。「ひと目」「張りつくし」が縁語となっている。四首目の「放電」と「回路」も縁語である。どうやら作者のお相手は9歳違いの既婚男性らしい。五首目はその妻から掛かって来た電話で修羅場の匂いが濃厚だ。歌から読み取れる嘆きや悲しみの多くはこの男性との関係に由来するものと思われる。 

陽の坂に釘殴たれいるわたくしを突端として揺れやまぬ街

秋生るる空が一枚の帆布なら鳩よきらめく水先を翔べ

かの時のかのことばこそやさしけれ秋の螺旋をたどる白き蝶

くちづけの黄昏こうこんの輪を曳きながらひれしみじみと冷ゆる魚なれ

湖も春も統べつつゆかなれんぎょうの炎ひとむらきみを灼くまで

菜の花の黄のいちまいを過ぎてのちくらき油を曳ける自転車

哭きてのち窓を放てばはつ夏の青いきいきと満てる河あり 

 特に心に残った歌を引いた。いずれも激しい感情を強い言葉で詠っており、近頃読むことが少なくなった作風の短歌だ。また歌集題名の『花巡る』が示しているように、季節の移り変わりを〈私〉の位相と連動させる詠み方も現在ではあまり見られない。現代の若手歌人たちはこのような歌を受け止めるのだろうか。ちょっと知りたい気もするのである。