第230回 岡崎裕美子『わたくしが樹木であれば』

春泥を飛び越えるときのスカートの軽さであなたを飛び越える朝
岡崎裕美子『わたくしが樹木であれば』

 岡崎裕美子の第二歌集『わたくしが樹木であれば』(青磁社 2017)は、第一歌集『発芽』(ながらみ書房 2005)から実に12年ぶりの刊行である。小池光がどこかで発言していたが、歌人にとっては第二歌集が重要であるという。第一歌集は作歌の記念として出してそれきりというケースも多いが、第二歌集には歌人として立つ決意が込められているということだろう。第一歌集『発芽』には岡井隆の解説と著者のあとがきがあるが、『わたくしが樹木であれば』には跋文はおろかあとがきすらない。小説家の小池昌代が帯文を寄せている。曰く、「人と獣のあいだをさまよいながよ歩くうたびと」、「所々には刃物のような覚悟も垣間見えて」、「いよいよ岡崎さんは歩み始めたのだ。沼ならば一層、深い沼のほうへ」などと、何やら剣呑な雰囲気なのである。
 掲出歌にはそのような剣呑な様子はない。どちらかといえば明るい陽性の歌である。春先の泥濘を軽々と飛び越える、そんな軽さであなたを飛び越えてしまおうというのは、男性との別れの歌とも読めるが、自立的で決然としている。しかしどうやらこれは岡崎のほんとうの顔ではないようだ。
 本歌集は三章から成る。各章には連作が収録されていて、題名が付けられている。ふつう題名は連作中の歌の一節を切り出して使うことが多い。しかし岡崎の場合、その題名がなかなかユニークなのである。試しに拾ってみると、「降ってきたよ」「春、東京タワーのそばで」「菜の花は食べられます」「落ちるならふたりで落ちる」「鯨とはこのようなもの」「どこからが獣」というような具合である。歌の並べ方の基準は説明がないのでわからないが、読者は巻末に近づくにしたがって歌の凄味が増すことに驚くだろう。
 最初ははこのように始まっている。

飴玉のようなボタンと言いながら外してくれた夜 雑司ヶ谷
濃密な肉だと思う母からのぶどうの皮をそっと剥がせば
捨ててもいい鍵二、三本ポケットの深いところへ 歯を抜きに行く
使われぬ(だろう)臓器の桃色を思うときふいに眠りたくなりぬ
ユニットバスに混ぜてはいけない塩素系洗剤を撒き眠りつつ待つ

 読んで最初に気づくのは歌の中の欠落である。言葉が情景を十分に描いていない。例えば一首目、「飴玉のようなボタンだね」と言ったのはおそらく恋人で、ボタンを外す行為は性愛を思わせる。しかし何のボタンだろう。コートかカーディガンかブラウスか。それは語られないのである。歌には〈私〉の想いが過剰にあり、それに反比例して情景(すなわち写実の「実」の部分)が少ない。
 二首目は「母からのぶどう」がわかりにくい。おそらくは「母から渡されたぶどう」だろうが、作者にはこのように略された措辞がよく見られる。三首目はなかなかおもしろい歌で、「捨ててもいい鍵」とはもう使わない用済みの鍵だから、真っ先に頭に浮かぶのは別れた恋人のアパートの合い鍵だ。それが二、三本あるというから、奔放な恋を連想させる。ところが結句は一転してまったく関係のないことが述べられていて、その意味的連関のなさにどこか投げ遣りな感じがある。四首目もよく似ていて、脳死して臓器提供をする場合、よく使われるのは心臓・腎臓・肝臓・角膜・肺などだが、たぶん脾臓とか直腸などはあまり使われないだろう。そういう臓器の色を思い浮かべているのだが、結句の眠りたいという衝動とは結びつかない。五首目はいささか剣呑な歌。塩素系洗剤は有毒な塩素ガスを発生させることがあるので、「混ぜるな危険」と言われるように他の洗剤などと混ぜてはいけない。その塩素系洗剤をわざと撒いて待つというのだが、何を待つというのか。同居人が混ぜてはいけない洗剤を撒くこと以外考えられない。ここには説明されない殺意がある。
 どうやら肝心なことは言わずに、わざと中心を外して歌を作っている、そのような印象を受けるのである。岡井は『発芽』の解説で、「一首一首が、その場面ごとの感情に対応してゐる」と述べ、「ひらりひらりの瞬間の感情が、一首一首にはりつけられて、歌集の中に漂ってゐる」と続けているが、おそらくはそういうことなのだろう。〈歌一首〉と〈ある感情〉とが対になって結びつけられている。それが歌集を通読したときに感じるある種の浮遊感や輪郭の曖昧さとなっているように思える。
 その〈ある感情〉の多くは不意に湧き上がる衝動であることが多い。

係員呼び出しボタンを思い切り悲しいときに押してもよいか
ライフルを誰かに向けて撃つように傘を広げる真夏の空に
やれという声がするそれをするなという声がする昼間なのに暗い
好きな人の名を大声で呼ぶことの恍惚を思う焼香の列で

 銀行のATMの横にある係員の呼び出しボタンは、ATMの操作がわからない時や間違った時に押すものだが、溢れる悲しさがそのような常識を上回るのだろう。ライフルを誰かに向けて撃つという激しい攻撃性や、しめやかな葬儀の焼香の列で突然好きな人の名を大声でおらぶという衝動に、作者の抱える内面の激しさが窺えるのである。
 帯文で小池が「いよいよ岡崎さんは歩み始めたのだ。沼ならば一層、深い沼のほうへ」と書いたのは、「沼に入る」と題された連作を踏まえてのことである。

深いから入ってはだめと人のいう沼に向かいて歩きいだしぬ
まだ浅い、まだ浅いからと唱えつつ沼に入りぬ濡れていく皮膚
つま先に触るる何かを確かむることをせぬまま深く入りぬ
暁に沼から帰るタクシーは沼の匂いのわたしを運ぶ

 なかなかに恐ろしい歌だが、危険だと知りつつも危険な場所に惹かれてしまう心の動きが押さえがたくあることが感じられる。それは他の連作に収録された「その先に滝あると人の言うを聞き立ち入り禁止の札を無視する」という歌に明らかである。
 『発芽』では大胆な性愛の表現が話題になったが、本歌集にも同じ趣向の歌は多くあり、特に巻末に向かって感情が高まっていくようだ。

年上のほうがたやすくて あなたのことを思い抱かれる
満ちてきたことを言い合う部屋のなかボディソープの百合は香りぬ
立たせれば青き匂いのして君は私のものになりゆく今夜
何度でもしたくなる 朝の光からあなたの白い腕が伸びくる
花のごと赤く染まりし痕に触れパティオをよぎる 妻に戻るため

 岡井が指摘するように、「一首一首が、その場面ごとの感情に対応してゐる」というのが本当ならば、一首はその瞬間を照らし出すが、次の瞬間には再び暗転して闇に戻る。瞬間と瞬間をいくら並べても連続した時間軸は形成されない。暗闇で明滅するストロボが明確な像を映し出さないように、岡崎の歌集を通読してもその背後に統一的な〈私〉の像が浮かび上がることはない。その有様はいかにも現代的と感じられるのである。

 

168:2006年8月 第5週 岡崎裕美子
または、書き割りのような戦場を生きる身体感覚の歌

いっせいに鳩が飛び立つシグナルの青
     あの部屋にブラウスを取りに
          岡崎裕美子『発芽』

 ふつうなら岡崎の代表歌としては、歌集の帯にも印刷されている「したあとの朝日はだるい自転車に撤去予告の赤紙は揺れ」を選ぶところだろう。しかし最初は付箋を付けていなかった上の歌を選んだのは、話題になった「したあとの」の大胆な性愛表現よりも、上の歌の方が岡崎の美質がよく現われていると思ったからである。

 上句「いっせいに鳩が飛び立つシグナルの青」は、交差点の信号が青になり自動車が発進して鳩が飛び立つ光景だろう。しかし、たくさんの鳥が飛び立つ光景は、ヒッチコックの名作『鳥』を待つまでもなく、危機意識や災厄の前兆としての象徴的価値を持っており、上句はどこか危機を孕んだものとして読める。そして一字空けを挟んで下句「あの部屋にブラウスを取りに」が続くのだが、「遠・親」を表す指示詞「あの」で指されているのは、歌のなかの〈私〉と誰かが共有した体験を過ごした場所である。その部屋にブラウスを取りに行くというのだから、たぶん置き忘れた自分の服を取りに行くのであり、同時に恋人との別れを暗示している。上句と下句との間に意味的連関はなく、一字空けがその無関係性をだめ押ししているが、ここには上句と下句の間で成立する短歌的喩がある。だから岡崎は見かけ以上に現代短歌のコードに忠実に則って歌を作っているのであり、さすがは岡井隆の弟子なのである。

 岡崎裕美子は1976年生まれで、「未来」に所属し『発芽』(2005年)は第一歌集。あとがきに高校生の頃から短歌のようなものを作っていたとあるから、たぶん投稿歴があるだろうと探してみたら、『短歌研究』2000年の臨時増刊号「うたう」作品賞に応募していた。投稿歌の多くは『発芽』に収録されているようだ。

 さて、岡崎の短歌世界の特質だが、上にも書いたように、大胆な性愛表現が見られ、あとがきを書いた岡井隆はそれを「ときには掌篇小説のように」と評している。

 蜜よりももっとどろどろした時間確かめもせず君を味わう

 交わってきたわたくしを抱くあなた キャベツのようにしんと黙って

 Yの字の我の宇宙を見せている 立ったままする快楽がある

 しかし性愛表現といえば、すでに1986年には林あまりの 『MARS☆ANGEL マース・エンジェル』が先行していて、短歌の世界ではすでに経験済みである。

 しろっぽい目の妻のこと嬉々として話したあげく抱こうとするのか

 性交も飽きてしまった地球都市したたるばかり朝日がのぼる

 林の歌集の背景には80年代のフェミニスムの台頭と、石岡瑛子とリサ・ライオンに象徴された強い女という時代の雰囲気がある。一方、岡崎にはそのような志向はかけらもなく、林の歌にあった激しく相手を求める男女関係もない。岡崎の歌は同じ性愛を詠っても、どこか淡く投げやりで、相互交通がなく一方的なのだ。

 体などくれてやるから君の持つ愛と名の付く全てをよこせ

 豆腐屋が不安を売りに来たりけり殴られてまた好きだと思う

 平行線上に非常ベル見えていてされるがままになって傾く

 初めてのものが嫌いな君だから手をつけられた私を食べる

 一首目は激しい愛の希求というよりも、捨て鉢感覚が先行する。二首目の上句はおもしろいが、殴られて好きだと思うのは自己愛が不足していはしないか。三首目も恋愛においてあくまで受動的であり、四首目では自分を男の好きな食べ物になぞらえる感覚に驚かされる。80年代のフェミニストなら決してこのような言い方はしないだろう。

 この印象は次のような歌を見ると一層強まるのである。

 こじあけてみたらからっぽだったわれ 飛び散らないから轢いちゃえよ電車

 鳴らぬもの集めてまわる男いてそのトラックにわれも乗りたし

 「渡辺さんですよね」と言われてその日から渡辺さんとして生きている

 なんとなくみだらな暮らしをしておりぬわれは単なる容れ物として

 自分はからっぽだという強い感覚が、電車に自分を轢けという自己破壊衝動として溢れた出す。二首目の「鳴らぬもの」とは、壊れた鳩時計やオルゴールのように、本来鳴るものが鳴らなくなったという意味と解する。ここにも自分はどこかが壊れていて鳴らないという感覚がある。三首目の歌が表しているのはずばりアイデンティティーの希薄さだろう。四首目にも自分を単なる容れ物として把握する凹感覚が見られる。これらの歌に共通して感じられるのは、自己意識の希薄さと投げやり感なのである。

 この感覚はどこかで見たことがあると思っていたら、次の歌に遭遇した。

 通夜のあと告別式の時間まで転がって読む岡崎京子

 そうだ。この感覚は岡崎京子のマンガにただよう空気とどこか似ているのだ。93年から94年にかけて発表された『リバーズ・エッジ』に登場する高校生達。ゲイでいじめられっ子の山田君と、モデルで過食と嘔吐を繰り返す吉川さんが、河原で偶然見つけた人の死体を宝物にしているという物語。作者の岡崎の言葉を借りれば、「あらかじめ失われた子供達。すでに何もかも持ち、そのことによって何もかも持つことを諦めなくてはならない子供達。深みのない、のっぺりとした書き割りのような戦場」を生きる子供達。岡崎の短歌の醸し出す雰囲気は、このマンガの空気感とよく似ている。

 焼けだされた兄妹みたいに渋谷まで歩く あなたの背中しか見ない

 いずれ生む私のからだ今のうちいろんなかたちの針刺しておく

 さいあくだあと吐くように鳴るシャッターを下ろすもうすぐ川を越えるの

 「焼けだされた兄妹」は岡崎京子のマンガの主人公であってもおかしくないし、岡崎の主人公もまた「さいあくだあ」と叫んでいる。「川を越える」というところに、東京近郊に住み電車で通う郊外生活者の感覚がある。二首目の針はたぶんピアスのことで、針をさすことによってかろうじて確認される身体感覚もおそらく短歌の世界では新しいが、小説の世界ではすでに『蛇にピアス』でお馴染みだ。

 このように岡崎裕美子の『発芽』は短歌の技法的にとりわけ新奇な試みを行なっているわけではなく、むしろ現代短歌のコードに乗っているのだが、短歌に歌われた世界、とりわけ〈私〉の自己感覚は極めて現代的だと言ってよいのである。この自己感覚は声高な主張と数の力で世の中を変えてきた団塊の世代の人達にはわからないだろう。「もっとしゃゃきっと生きろ」などと説教されかねない。1973年生まれの佐藤りえや1975年生まれの生沼義朗らの団塊ジュニアあたりの世代感覚にいちばん近いだろう。もちろんすべてが世代論に還元されるわけではなく、岡崎の短歌に表現されている身体感覚は注目されるのであり、その推移はもう少し時間をかけて見守る必要があるだろう。