第193回 西橋美保『うはの空』

たましひのほの暗きこと思はせて金魚を容れし袋に影あり
西橋美保『うはの空』
 第一歌集『漂沙鉱床』(1999年)に続く西橋の第二歌集である。両歌集を隔てる17年という時間は長く、本歌集を読めばその長さに重い意味があることがわかる。本コラムの前身で『漂沙鉱床』を取り上げたのは2005年のことである。その時は西橋の短歌の特徴を、「奇妙な味わい」「奇想」「視点のユニークさ」「異界・異類への共感」などのキーワードとして論じた。本歌集でもこのような西橋の短歌世界の特徴は基本的には変わっておらず、また下句への落とし込みのうまさも健在だ。
 しかし本歌集でどうしても触れざるを得ないのは、第二歌集までの17年の不在期間の主な原因となった家族のしがらみと舅による家庭内暴力である。藤原龍一郎は帯文に「文学少女が成長して、おとなの世界に棲み始める。実はそこは地縁や血縁のしがらみが絡まりあうカオスだった」と書いているが、「カオス」としたのは表現上の遠慮からであり、ほんとうは「地獄」と書きたかっただろう。
殴らんと構へしひとに手向かひてつかみしスリッパふにやふにやなりき
家族とふそれぞれの髪がよぢりあふ排水口とふ闇の入り口
放ちたる殺気はさすが元兵士ちちなるひとは殴らんとして
柳田國男のあによめいびられ自殺せしそのくだり読む何度もなんども
この家を出ていきたいと七夕の星につくづく願ひをかける
冬の夜聖なる家長が殴る殴る殴れどああ、と泣かざる女を
殴られても殴られても従はぬ女が憎いか春ちかき夜の
 嫁いだ婚家で作者は「従わぬ嫁」であり、舅から執拗な暴力を受ける。その主な原因が読書にあったことは次のような歌で知れる。
読む罪を問はれてをりぬ文字の禍は渦となりつつ生者をまきこむ
萬葉集を燃やせし祖父の裔われら「文字もんじの呪ひ」のあるを伯母いふ
八番目の大罪あれば読書する罪ぞと祖父は萬葉集焼く
好きなだけ読んでもいいと伯父だけがわれにやさしく吃音なりき
 「萬葉集焼く」とはまるで始皇帝の焚書ではないか。教養の修得と人格の涵養のため読書を勧めるのがふつうであり、「文字の呪ひ」とは尋常ではない。こういう家庭もあるのかと心底驚いた。上に引いたような家庭内暴力の歌は数としてはそれほど多くはないものの、印象が強烈でややもすれば他の歌を圧してこちらに迫って来る。
 歌から読み解くと、作者は暴力に絶えきれず婚家を離れて別の町に住み、独身時代の職業である中学か高校の教員に一時戻ったようだ。やがて年月は流れ舅も鬼籍に入る。家庭内暴力の歌以上に戦慄するのが舅の死去以後の歌である。
くるしみのすでに終はれば海岸の真夏の病院ひきしほを待つ
死者を連れゆく道のあり「鬼の道」決してひとりはかへらざる道
わたくしを殴りしその手の持ち主は死にたりその手を焼くまへに拭く
墓穴をめざして雨はふりそそぐ墓あばくごと納骨すれば
たましひを啄みし鳥は死者の乗る舟となるべし夕焼け小焼け
死者の目に写真のなかから見られつつ死者の遺せし片づけをする
われを殴りし箒にわれは手を添へてただ床を掃くただの日常
吊されていまだ死者ゐるかたちなる服の胸倉あたりをつかむ
亡きひとの日記の二冊は嫁われをまだいきいきと罵りやまず
死者の靴あつめて積めばテキメンに靴塚ぐづりと崩れ雨降る
 前半の五首は舅の死去から葬儀・納骨までの歌で、後半は無人となった舅の家の片付けの歌である。親が亡くなり家財道具や衣服や大量のアルバムが残る家を片づけるのは並大抵のことではない。これらの歌には自分を殴った舅への怨嗟や遺恨だけではなく、そうして過ごして来た過去の日々への想いと、これでもう暴力から解放されるという気持ちも滲んでいるように感じられる。
 さて他の歌にも触れなくてはならない。先に奇想と異界と書いたがその入り口となるのは多く何かに映った映像のようだ。
映り込んだ月を盥でざぶざぶと洗つてさつぱりきれいな月だ
をさな日の恐怖のひとつ姿見のうらに塗られて剥がれし朱色
そよぎつつ光をかへすゆふぐれの桜は鏡ぞ異界を映す
鏡には何が映つてゐたのだらう私が覗きこまない真昼は
あをぞらに身をなげしとふはるばると井戸の底なる青空めざし
 盥に映った月、姿見の裏側、咲き誇る桜、また鏡と、「何かを映す」存在に作者の偏愛が感じられる。五首目は若い頃に方違えのため自殺者の出た家に住んだことを詠った一連にある歌だが、ここにも井戸の底に映った青空がある。第一歌集『漂沙鉱床』にも「井戸の底はるかはるかの青空を背にした私がこちらを見てゐる」という歌があるが、映像を用いた上下反転による空間の位相転換は西橋の得意技である。異界と言えば大津仁昭が頭に浮かぶが、大津がわが故郷は異星であり、この世の我はかりそめの存在と観じているのにたいして、西橋はあくまでこの世の住人であり、時折ばっくりと異界が顔を出すところがちがっている。
髪を地に擦らせて笑まふ藤にただ樹は巻かれつつうつとりと死ぬ
光あつまり散りゆくところ渚にて果てしは敦盛そして小次郎
直実なほざねに斬られてむかし敦盛がその肩越しに見た空と海
響きあふグラスのソーダのしろき泡ちりちりと鳴くこゑ夕雲雀
つばくろの雛ふと黙しふさるびあの蒼ふかぶかと咲けるま昼を
みづうみのおもてに散り敷く花を踏み死者は日本の春をおとなふ
代理ミュンヒハウゼン症候群にあらざれど風摘むごとく薔薇摘むゆふべ
 一首目は藤が他の木に巻きつく習性を読んだ歌で、「髪を地に擦らせて笑まふ藤」という擬人化が怖い。怖い歌はよい歌である。二首目は渚を光が集まり散ってゆく場所と捉えた把握が秀逸で、ここでも作者の下句の落とし方が冴えている。上句は誰でも何とかなるが、下句にこそ作歌の腕前が出る。敦盛は熊谷直実に討ち取られた平敦盛で、小次郎はいわずとしれた佐佐木小次郎。三首目にはお得意の視点の転換があり、仰向けに組み伏された敦盛の目から見ている。「その肩越し」は直実の肩越しなのだが、この「その」は文法的にはやや苦しい。四首目はソーダ水の泡がはじけるかすかな音を夕雲雀に見立てた美しい歌。視覚と聴覚とソーダ水の爽快感が渾然一体となっているところがよい。五首目はツバメのヒナが見られる時期だから初夏だろう。黄色い口を開けて餌を求めて騒ぐヒナの声がふと止む瞬間を捉えている。こういう瞬間に魔が通り過ぎる。サルビアの花は赤いのだがなぜ蒼なのだろう。六首目は湖に散る桜の花を詠んだ歌で、関西人ならば琵琶湖北端の花の名所である海津大崎を思い浮かべるだろう。七首目は「代理ミュンヒハウゼン症候群」というあまり短歌に詠まれない素材ゆえ引いた。代理ミュンヒハウゼン症候群とは、周囲の同情を引き献身的な親と見てもらうため自分の子供を傷ける病気である。ここでは薔薇を摘む行為を他傷行為に見立てているのだが、こんなに長い病名を詠み込むのはなかなかの力業である。
夢前の川面に映りしみづからの影に触れつつ消えてゆく雪
春の雨満員のバスはめぐりつつ花影町から東雲町しののめちやう
何を見てわれは病みしか花のころ鷹匠町の眼科に通ふ
お蜜柑を買ひに出でしが紺屋町あたりで日は暮れ雪に降られる
 「夢前川ゆめさきがわ」「東雲町しののめちょう」「鷹匠町たかじょうちょう」「紺屋町こんやまち」はいかにも詩的な町名で、作者の創作かと一度は思ったが、調べてみると作者の在住する姫路市に実際に存在するので驚いた。塚本邦雄が最も好んだのは京都に実在する町名の「天使突抜」だったそうだ。短歌を作る人は多かれ少なかれ「言葉フェチ」だが、最近の若い歌人にはあまりそういう言葉への執着が見られないのはなぜだろう。
ここでかの「バールのやうなもの」ひとつさし出す淑女のたしなみとして
 本歌集には上に引いたように、文語定型の表裏を知り尽くし言葉の斡旋に長けた作者の歌が散りばめられているのだが、最後におもしろい歌を引いた。「バールのやうなもの」とは、ニュースで盗難事件が報じられるとき、「夜間に侵入した犯人は金庫をバールのようなものでこじ開けたと思われます」とお約束のように登場するあれである。まるで「バールのやうなもの」という名前の器具が存在するかのようだ。このようなそこはかとないユーモアもまた西橋の魅力と言える。