第208回 國森晴野『いちまいの羊歯』

親指はかすかにしずみ月面を拓くここちで梨を剥く夜
國森晴野『いちまいの羊歯』
 短歌に登場する果物でいちばん人気があるのはおそらく桃だろう。ブドウも捨てがたく、梨もなかなか健闘している。
暑のひきしあかつき闇に浮かびつつ白桃ひとつ脈打つらしき  小池光
童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり  春日井建
たましいを預けるように梨を置く冷蔵庫あさく闇をふふみて 島田幸典
 掲歌の舞台は梨を剥く秋の夜である。日中の残暑は収まり、窓の外からは虫すだく音が聞こえている。月の比喩があるので、剥いている梨は幸水などの赤梨系統ではなく、色白の二十世紀梨がよかろう。この歌のポイントは「親指はかすかにしずみ」で、剥くために梨をつかむと親指がかすかに果肉に沈むというのだ。果肉には弾力があるので、確かに指が沈むかもしれないが、それはごくわずかなものである。そのわずかな沈みに着目したところがこの歌の手柄だ。次に「月面を拓くここち」とあるので、未踏の大地に足を踏み入れる、あるいは人類初の偉業を成し遂げる、といった心持ちが感じられる。たかが梨を剥くだけなのに大げさなと思われるかもしれないが、作者にはそのように表現すべき理由があったのだろう。
 『いちまいの羊歯』は書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズの一冊として今年 (2017年) 3月に刊行されたばかりの歌集である。プロフィールによれば、作者の國森晴野は2010年からNHK文化センターで東直子の短歌講座を受講して作歌を始めたようだ。東北大学工学部の大学院で土木工学を学んだ理系女子、いわゆるリケジョである。監修と解説は東が担当している。
 あとがきによれば、東の短歌講座を受講する少し前の2007年に、東と穂村の共著『回転ドアは、順番に』を手に取ったのが短歌との出会いだったという。やはり今の若い人たちの多くは、東と穂村を入り口として短歌に触れるようだ。國森の作風も、東や穂村と同じく口語定型文体を採っている。
 ただし、同じ口語定型と言ってもその内実は多様である。國森の作る短歌は、「言葉の選択」、「定型のリズム感」、「結句の着地感」の三点において際だって優れており、伝統的短歌に固執する頭の固いオジサンにも抵抗なく受け入れられるだろう。私も感心しながら最後まで楽しんで読んだ。そうたびたびはない経験である。新たな才能の出現と言ってもよかろう。
 短歌は抒情詩なので、短歌で用いられる言葉は詩の言葉でなくてはならない。しかし詩の言葉といっても、特別な言語があるわけではなく、私たちが日常用いている言葉と素材は同じである。素材は同じでも、詩の言葉になっている場合と、そうでない場合があるのはなぜか。それは置かれた場所がちがうからである。少し専門的に言うと、置かれた場所とは「文脈」で、新たな文脈に置かれることで新しい言葉の組み合わせが生まれ、意味が生まれるのである。國森の場合はどうか。いくつか歌を引いてみよう。
コンナコトキミダケデスと囁いた舌のうえにはいちまいの羊歯
バーナーの炎がつくる真円しんえんに降るものはなくきよらかな円
真夏日の街をまっすぐゆく君が葉擦れのように鳴らすスカート
さよならのようにつぶやくおはようを溶かして渡す朝の珈琲
せかいにはもういらないの糸鋸であなたのかたちを切り抜く真昼
 一首目は歌集題名にもなった歌。「コンナコトキミダケデス」が片仮名表記されているのは、直接話法であるからだけではなく、恋人同士のあいだでだけ通じ耳に届く秘密の言葉だからである。舌の上に置かれた羊歯が何の象徴かという謎が歌に奥行きを与える。二首目は実験室の情景で、「真円」という非日常語が効果的に使われている。炎に上から降る資料などがあるときは真円は乱れる。今は何も降っていないので炎は真円を保っている。真円はこの時の作者の心を現しているのだろう。三首目はピンと背筋の伸びた現代女性の肖像。「葉擦れのように」と表現することで、女性の身体とスッと立つ森の木立が二重写しになる。着ているのはきっとタイトスカートだろう。四首目は恋愛関係の終わりを予感しているカップルの歌。実際にコーヒーに溶かすのは砂糖かクリープなのだが、それを「おはようを溶かして渡す」と表現するところに詩的転倒と逸脱がある。五首目は一読して驚いた歌。恋人と別れたら、いっしょに写した写真から相手だけ鋏で切り取るという話は聞いたことがあるが、この歌では糸鋸である。糸鋸が衝撃的だ。ベニヤ板かプラスチック板に拡大した二人の写真が貼り付けてあるのだろうか。  
「言葉のセンス」と言ってしまえば身も蓋もないのだが、國森は文脈に即して適切な意外性のある言葉を選び取る感覚が優れている。また「定型のリズム感」と「結句の着地感」は密接に関係しているのだが、短歌の印象は下句で決まることが多い。上に引いた歌の下句を見てみると、「舌のうえには / いちまいの羊歯」は、音数が3・4と5・2となっており、ほぼ左右対称であることが着地感を生み出している。二首目は「降るものはなく / きよらかな円」で、5・2と5・2で今度は同じ音数の反復がリズムを作る。三首目は「葉擦れのように / 鳴らすスカート」で4・3と3・4、四首目は「溶かして渡す / 朝の珈琲」でまた4・3と3・4、五首目は「あなたのかたちを / 切り抜く真昼」で4・4と4・3。四句が増音されている五首目を除けば、いずれも左右対称型か同音数反復型である。國森が意識してそうしているのか、それとも無意識のうちに短歌のリズムを感得しているのか定かではないが、内的韻律に欠けることが多い現代口語短歌のなかでは、古典的な印象を受けるくらいに國森の短歌は韻律が優れている。
 集中で特に個性が光るのはリケジョならではの次のような歌だろう。
無いものは無いとせかいに言うために指はしずかに培地を注ぐ
コロニーと呼べばいとしい移民たち生まれた星を数える真昼
蛍光を放つかすかな色調を96けつプレートに置く
鈍色のきりんの群れが鉄を食む足元をゆく工場の朝
ナトリウムイオンの量でかなしみを測るあなたは定時に帰る
 一首目は菌を培養するためにシャーレに寒天培地を流し込む作業を詠んだ歌である。科学者は何かが存在することを証明するためではなく、存在しないことを証明するために実験をすることもあるのだ。二首目の「コロニー」は増殖した菌の塊のことで、顕微鏡で菌の数を数えているのである。菌を星に喩えたところに対象に対する愛情が感じられる。三首目では「96穴プレート」という専門用語が効果的。なぜ96かというと、8×12コの穴が並んでいるからである。四首目は工場の風景で、鉄骨を持ちあげるクレーンをキリンに喩えている。クレーンをキリンに喩えるのは常套手段ではあるが、「鉄を食む」にリアル感がある。五首目のナトリウムイオンはおそらく涙に含まれたイオンのことだろう。いかにも化学分析を職業とする理系人間の使いそうな言葉だ。
 「かたおもい」と題された連作には折り句が集められている。
正解をみつけたことを知らせずにぐいと飲みほす檸檬サイダー  せみしぐれ
読まれずに砂に埋もれた手紙には枇杷の葉ひとつ綴じられており  よすてびと
向こう岸 手を振るひとに告げぬままポラロイドには海だけのこし  むてっぽう
 折り句であることを忘れても十分に鑑賞に耐えるよい歌で、作者が言葉の斡旋に長けている人であることがよくわかる。才能に溢れた歌人の出発を喜びたい。最後にいつものように心に残った歌をいくつか挙げておこう。
千葉行きの車輌で向かいあうひとのつまさきばかりひかる二時半
うすがみに包まれているはつなつをひらいて僕らは港へ向かう
ゆうやけを縫いつけてゆくいもうとの足踏みミシンはちいさく鳴いて
指先にかすかな色をのこしつつ今日がひらいてゆく青の町
薄氷うすらいの蝶は遙かなひとからの手紙のようで触れたらひかり
色つきのひよこは知らない明日など見ずに空だけ見て鳴いている