第284回 北大路翼『見えない傷』

我が歩幅越ゆることなき蜷の道

北大路翼『見えない傷』 

 になは田螺に似た小さな巻き貝で、ここでは田んぼや小川にいる川蜷だろう。田んぼの水底の泥の上を川蜷が移動すると、轍のような後がかすかに残る。それが蜷の道である。蜷はとても小さく移動もゆっくりなので、移動した痕跡はいつも短く、私の一歩の歩幅を越えることがないという句である。季語は蜷で春。人と蜷の大小の対比のおもしろさ、ゆっくりと流れる春の時間、変わることなき自然の摂理といったものを感じさせる句である。

 北大路翼は1978年生まれの俳人。小学生の時に種田山頭火を知り、無季俳句を作り始めたというから、相当な早熟で無頼への憧れもすでに芽生えていたのだろう。中学に進むと国語の教師が今井聖だったというから驚きだ。田中槐の高校の国語の先生が村木道彦だったというのと同じくらいの出会いである。以来有季定型句に転校し現在に到る。新宿歌舞伎町を根城として俳句一家「屍派」の家元を名乗っている。『見えない傷』は『天使の涎』、『時の瘡蓋』に続く第三句集である。

 北大路というと昨年(2019年)の夏頃に、TV番組「激レアさんを連れて来た」でその姿を見た。めったにしないような特異な経験をした人を連れて来て、その一部始終をアナウンサー広中綾香が手書きのパネルで語るという番組である。北大路はツバサ君という名で紹介された。登場したとたん、ゲストの女優足立梨花が「あっ、歯がない!」とつぶやいたのをよく覚えている。前歯が何本か欠けていたのである。歯が欠けていると無頼メーターが跳ね上がる。しかし身にまとわせている無頼な空気とは裏腹に、作る俳句は実にまっとうな旧仮名遣いの有季定型句である。

刃物みな淑気に満ちて台所

ゴミ捨て場飛び出してゐる破魔矢かな

喰積や人来るたびに箸出して

リムジンが曲がれぬ垣根の落ち葉焚き

一月の茶碗の中の山河かな

 2017年新年から引いた。一句目の淑気は正月のめでたい気分のことで新年の季語。刃物が淑気に満ちていると感じられるのは、歳の暮れに慌ただしくおせち料理をこしらえた後、きれいに研いで仕舞われているからだろう。凜とした正月の空気を感じさせる。二句目、破魔矢は正月の縁起物として飾られるが、松が取れて用済みになるとふつうのゴミとして捨てられる。しかし長いのでビニールのゴミ袋を突き破って飛び出しているのである。決して美しい光景ではないのにこのような場面を詠むのは、俳句が些細なことにおかしみや哀感を感じ取る詩型だからである。この句では「飛び出してゐる」がポイント。三句目の喰積は重を重ねるおせち料理のこと。年始の客が来る度に祝い箸を出しておせちを勧めるという正月の場面である。四句目の季語は落ち葉焚きで冬。リムジンが道の狭い住宅街を通っている。リムジンの車体は長いので角を曲がれないのだ。リムジンは芸能人やセレブが好んで乗る車なので、なぜこんな庶民の住宅街に来ているのかという所に何か物語がありそうだ。五句目の山河は茶碗の内側の絵付けと取ることもできるが、ふつう茶碗の内側には絵付けをしないのでそうではなかろう。茶碗には五目ご飯か炊き込みご飯が盛られている。その具を山河と捉えたものと取る。この句では一種の誇張法によって、一椀の飯に山河を見る壮大さがポイントである。

 上に引いた句を読んでいると少しおかしいと感じることがある。時代がやや古いのである。今どき正月に年始の客が次々と来ておせち料理を食べる家があるだろうか。また住宅街の道で落ち葉焚きをしている光景もとんと目にすることがなくなった。下手をすると消防に通報されてしまう。北大路がこれらの句に詠んでいるのは、記憶の中にあるなつかしい日本ではないだろうか。

桃の花こぼれてゐたる名刺受

海市立つ流木踏めば骨の音

新学期画鋲の穴にまた画鋲

問診に嘘少しまぜ春の昼

石鹸玉祈る言葉がつぎつぎと

 一句目、ふつうの家に名刺受けはないので会社の光景だろう。花瓶に挿した桃の花だろうか、名刺受けに零れているという美しい場面。花びらが自然が寄越した名刺という見立もできる。二句目の海市は蜃気楼のことで春の季語。浜辺を歩いている場面である。風雨に曝された流木が骨に似ているというのはいささか普通か。三句目は小学校の教室の場面だろう。壁に画鋲の穴があいているのは掲示物を貼ったからである。新学期を迎えて新たに掲示物を貼るときに、その穴にまた画鋲を刺すという句である。「だから何だ」と言われると困るのだが、こういう些事におかしみを感じるのが俳句なのだ。四句目は会社の定期健康診断か。身長や体重測定、視力検査の後に医者の問診が控えている。「お酒はどのくらい飲みますか」とか「煙草は一日何本くらい吸いますか」という質問にやや過少申告しているのである。五句目、子供が庭でシャボン玉を作って遊んでいる。シャボン玉はくるくる回りながら虹のように煌めいたかと思うと、パチンと割れて消えてしまう。次々と生まれては消えてゆく様を眺めていると、永遠の輪廻という思いが浮かんで祈りの言葉が湧いて来るという句だ。

 こうして鑑賞しているときりがないので、付箋の付いた句を挙げておこう。山のようにあるので厳選する。

ブロッコリー緑の粒の謀

かげろひてをり海苔弁の蓋の裏

夏至の雨は泣いている男の子の匂ひ

硝子戸の雫は海で死んだ人

ヨガ用の小さきマットや獺祭忌

白菜の芯まで煮えて一人きり

大根も過去もいづれは透き通る

花冷えの麻雀牌の彫り深し

滅びゆくものの匂ひや缶ビール

冷蔵庫の小さくなつてゐた実家

薬局の白さの残る洋菓子店

境内の形に合はす踊りの輪

吃音の少年を買ふ寒の雨

 一句目「ブロッコリー」を読んで、穂村弘・東直子・沢田康彦『短歌はプロに訊け』に収録された「めきゃべつは口がかたいふりをして超音波で交信するのだ」という本上まなみの歌を思い出した。ブロッコリーの緑の粒粒を見ていると、ふと何か陰謀を巡らせているのではという気がするという句。「ヨガ用の」の句は脊椎カリエスで寝たきりだった正岡子規へのオマージュ。ヨガ用の小さなマットから子規が寝ていた布団を思うという句である。「冷蔵庫」の句は、夫婦二人になり歳をとって料理も作らなくなって、電気代のかからない小さな冷蔵庫に買い換えたという句。「薬局の」は元は薬局だった建物を改装して洋菓子店を開いたのだが、塗装に白さが残っているのだろう。「吃音の」の句は特に無頼の匂いがする。

 特に感じ入ったのは次の句だ。

春巻の断面よぎる蝶の影

 春巻きの断面に蝶の影が差すことは現実にはあるまい。だからこれは幻影の句である。しかしながら春巻という庶民的な食べ物と、どこかふらふらと漂う死者の魂を思わせる蝶の取り合わせがよい。春巻を羊羹や蒲鉾に換えても句は成り立つが、やはりここは春巻がよく動かない。

 かねてより不思議に思うのは、同じ短詩型文学なのに短歌より俳句の方が無頼風狂の度合いが高いのはなぜだろう。俳句は短歌より短いために、逆説的ながらより自由度が高くて前衛・過激に向かうのかもしれない。