第397回  門脇篤史『自傾』

レジ横に温かきまましづもりてからあげクンは鶏の諡

 門脇篤史『自傾』

 最後の文字「諡」は「おくりな」と読む。天皇・貴人・高僧が亡くなった後に贈られる名前のことで「諡号しごう」とも言う。からあげクンはコンビニLAWSONの人気商品で、レジ横の保温容器に入って売られている。生きているときはおおざっぱに鶏と呼ばれているが、死んで揚げられてからあげクンになる。だからからあげクンは鶏の諡号だというのである。

 まずユーモアがある。ユーモアは短歌の重要な成分だ。次に気づきがある。私たちは何の疑問もなく「からあげクンください」と注文しているが、からあげクンは鶏が屠殺され調理された後に初めて帯びる名である。少し現代文明批判も感じられる。鶏の唐揚げにからあげクンなどという可愛い名を付けて売る大衆消費社会に対してだ。またこの歌を短歌たらしめているのは「しづもりて」だろう。「しづもる」は明治時代に作られた歌語だという。落ち着いて深閑としているさまを言うので、ふつうは神社の境内の森や咲き誇る山桜などに使う。たとえば河野裕子の名高い歌では次のように使われている。

たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり

                       『桜花』

 こんな荘重な表現をからあげクンに使うのはいかにも大袈裟だ。しかしこの修辞的選択によって一首は「しづもる」という動詞の共示的意味を帯びることになり、一気に短歌として成立する。作者はこのような言葉の生理を知悉しているのだ。

 作者の門脇は1986年(昭和61年)生まれの歌人で、未来短歌会で大辻隆弘に師事している。2018年に現代短歌社賞を受賞し、翌年第一歌集『微風域』を上梓。同歌集により第26回日本歌人クラブ新人賞と第13回日本一行詩大賞新人賞を受賞。『自傾』は2024年に刊行された第二歌集である。版元は第一歌集と同じく現代短歌社。これまた第一歌集と同じくあとがきがない。したがってどこに発表された歌なのか、またどのように編まれた歌集なのかわからない。作者はあまり自分について語りたくない控え目な性格のようだ。そのことは収録された歌にも見て取れる。歌集の冒頭付近からランダムに引いてみよう。

手のひらを冷やせるのちに銀色のシンクにとよむ水道のみづ

牛乳の白き水面に生るるあわ野田琺瑯のはだへの熱に

人生はとほくに濡れて掌に結ぶ冷めたきみづにのみどを漱ぐ

〈五年後の私〉を語る隣席のをとこに紅きネクタイは垂る

断面にみづはにじみてしろがねの匙もて抉るキウイの果肉

 門脇の歌は新字・旧仮名遣の文語(古語)定型で、字余り・字足らずなどの破調はほとんど見られない。また前衛短歌が駆使した句割れ・句跨がりもない。実に端正な定型歌で、言葉を五・七・五・七・七の韻律に納める技術は同世代の歌人と較べても抜群に高い。

 では歌の題材はどこに求めているかと言えば、そのほとんどが日常の瑣事である。一首目は水道の水の音がシンクに響く、二首目は牛乳を温めたら泡が出た、三首目は手に受けた水を飲んだ、四首目は職場で隣の男が赤いネクタイを締めている、五首目はスプーンでキウイをすくって食べるというただそれだけのことである。僅かに「人生はとほくに濡れて」という句に作者の感慨が滲んでいる。

 短歌の題材を求める場所に近景・中景・遠景という区別がある。近景とは身辺の日常・家族・友人で、中景とはもう少し範囲を広げて職場・地域・サークルなど。そして遠景は作者の手の届かない国家・政治・世界・戦争などである。この区別を援用するならば、門脇の短歌は徹底して近景から素材を得ており、なおかつ〈私〉を語ることが極めて少ない。これがほんとうに「自我の詩」として成立した近代短歌なのだろうかといぶかしく思えるほどである。

 とはいえ次のような歌には門脇の〈私〉が少しだけ顔を出している。

空欄を埋めつつ生きてあと何度聞くのだらうかマズローの説

人生の目標を問ふ質問に良い歌を作りたいとは言へず

昼食にぬるきスープを飲み干せり誰かの生の端役を生きて

文中に滲む怒りを矯めながら光のすじをじつとみてゐる

革靴を明日のために磨くときはつかにくゆる火薬のにほひ

 一首目のマズローはアメリカの心理学者で、五段階の欲求説を唱えたことで知られている。この説は職場研修などでよく使われており、一首目で作者は研修を受けているのである。五首目では明日の出勤のために靴を磨いている作者の心の中には火薬が燻っている。しかしながらどれも抑制の効いた表現となっていて、作者の心情は燠火のように表現されるに留まり、決して爆発することはない。

 ここまで日常の瑣事を素材としながら、どうして門脇の歌が詩として浮揚しているのか。まず気づくのは、門脇の歌のほとんどが俳句で言う「二物仕立」ではなく「一物仕立」だということである。二物仕立は「遺失物係の窓のヒヤシンス」(夏井いつき)のように二つの物の取り合わせからなる句で、一物仕立は「平然と夏蝶前を横切れり」(星野高士)のようにただ一つの物を描く句を言う。門脇の短歌は徹底して一物仕立である。たとえば次の歌では花瓶に活けられた一本のスイートピーのみを描写している。

切り口は花瓶の底に触れてゐてスイートピーのたもつ直線

 だから当然ながら〈景の描写+作者の心情〉が組み合わされた「問と答の合わせ鏡」(永田和宏)にもなっていない。しかし一物仕立だからといって単調かと言えばそんなことはない。それは門脇の歌の多くが〈景の描写+私の発見〉という構造をなしているからである。上に引いた歌の上句は「花の切り口が花瓶の底に触れている」という写生だが、下句は「花瓶に活けられてなおスイートピーの茎は直線を保っている」という作者の発見である。「ゆふぐれを蕨餅屋の灯はともるあをきコンビニ潰えしところ」という歌でも上句は写生で、下句は「そういえばここは以前LAWSONがあった場所だ」という作者の気づきになっている。「問と答の合わせ鏡」で〈私〉の心情が入る場所を、門脇の短歌では〈私〉の発見が占めているのである。

 二物仕立では取り合わされた二つの物の遠すぎず近すぎない関係の妙が俳句の読み所となる。一方、一物仕立ではただ一つの物を凝視して新たな発見を導くことが肝要となる。一つの物を凝視すると焦点が狭い範囲に絞られる。それがまさに門脇の歌に起きていることだ。今まで引いた歌にもそれは十分に読み取れるが、たとえば次の歌を見てみよう。

ひときれの鰤のくぐれるせうゆゆゑ暗き水面は輝きを帯ぶ

 鰤の刺身を小皿に入った醤油につけると、鰤の脂によって醤油の表面が虹色に光る様を詠んだ歌である。鰤の脂で醤油の表面が光ることに気づいたのも発見だが、それ以上に印象的なのは焦点の絞り込みである。この歌では醤油の小皿だけが詠まれている。門脇の歌は焦点の絞り込みがすごくて、描かれた画面がとても狭い。日常の瑣事を詠みながら門脇の短歌がポエジーを帯びるのは、このように一つの物に焦点を絞り込んでそこに〈私〉の気づきが表現されているからである。人も知るように優れた詩は私たちの世界の見方を更新する。

 門脇の短歌のもう一つ注目される特色は、カタカナ名前を詠み込んだ歌にある。

とほき日のわれらの時間を奪ひにしナーシャ・ジベリの奇術羨しゑ

音に触れひかりに触れてルディ・ヴァン・ゲルダーといふ遙かなる射手

終はらざることなどありや永遠に馬群を牽きてサイレンススズカ

父といふはかなき呼称バイアリータークしづかに血を流しけむ

終焉のしづけさのなか外つ国のクリスザブレイヴ生きてゐるべし

 一首目のナーシャ・ジベリは「ファイナル・ファンタジー」の開発に関わった天才プログラマー。二首目のルディ・ヴァン・ゲルダーは多くのジャズの名盤を生み出した録音技師。門脇は競馬が好きなのか、三首目以下は競馬馬の名前である。三首目のサイレンススズカは重賞レースに多く勝利するも、天皇賞で骨折し安楽死の処置を受けた悲劇の馬ということだ。

 カタカナの固有名を歌に詠み込むのはよい点と悪い点がある。よい点の一つは音で、たとえばナーシャ・ジベリとかサイレンススズカは音の連続が美しく、歌の韻律的側面を前面に出す効果がある。またカタカナの固有名には「アブラカダブラ」のように呪文を唱えるような効果もある。悪い点は、あまり知られていない固有名を詠むと、読者の頭は「?」となってしまい理解が停止することだ。しかしネット時代の現代にあってはどんな固有名もたちどころに検索できるので、もはやさしたる問題ではなかろう。

たつたいま使ひきりたるくれなゐの小壜に残る小壜の重さ

ゆふぐれをあんぱん並みて塩漬けのさくらはなびらめり込みてをり

モンブランひかりの中に並み立ちてわづかにちがふ栗のかたちは

いくつもの狭き水面を閉ぢ込めて自動販売機のひかりかそけし

画家の絵は色をかへつつしづやかに死期に向かひて並べられをり

しづやかに氷は水へはつなつのレモンサワーの抜け殻として

くれなゐに色をふされし父の名の夏の素水のしたたるくぼみ

金麦の缶のあをきを圧す指にアルミは影をつくりてゆがむ

 特に心に残った歌を引いた。三首目では、ケーキ屋のショーケースに並ぶモンブランに乗せられた栗の形がわずかずつ異なることに気づくあたりが門脇の独壇場だろう。微差を詠む短歌である。四首目では自販機に入れられた缶飲料の水面という目には見えないものを詠んでいる。「水面」は門脇が特に好む単語らしい。また五首目も読んでハッとする。画家の回顧展では絵が制作年代順に並べられ展示されていることが多い。その順番は見方を変えれば死期へと近づく並びなのである。充実の歌集であり、おそらく世の高い評価を受けることだろう。