初級文法の中ほどで目的格の補語人称代名詞を習います。直接目的格の代名詞は次のようになります。me, te, le, laは母音・無音のhの前で m’、t’、l’、l’とエリジヨンします。

(1) Claire m’aime. クレールは私を愛している。
(2) Je vous accompagne jusqu’à la gare. 駅までごいっしょします。
(3) Je cherche Micheline. — Je l’ai vue à la bibliothèque.
「ミシュリーヌを探しているんだが」「図書館で見かけたよ」
補語人称代名詞は動詞の前に置きます。目的語が名詞のときフランス語はSVO言語なのですが、目的語が代名詞のときは SOVの語順になり、日本語と同じ語順になります。
【補語人称代名詞は接辞である】
補語人称代名詞について注意しておかなくてはならないのは接辞 (clitique) であるということです。接辞についてはすでに第4講で触れていますが、単独で使われることはなく、いつも動詞にくっついて使われる小さな単語です。(4) のような単純時制では動詞のすぐ前、(5) のような複合時制では助動詞のすぐ前に置きます。それは (6) (7) のような倒置疑問文でも同じです。
(4) Je vous remercie. ありがとうございます。
(5) Je vous ai cherché partout. あなたをあちこち探しましたよ。
(6) Nous connais-tu ? 君は私たちを知っていますか。
(7) Où m’attendait-elle ? 彼女は私をどこで待っていたのですか。
接辞代名詞は模式的に示すと、Je vous=remercie.の [=] が表しているように動詞とくっついていて離すことができません。まるで一つの単語のように振る舞います。ですから倒置をするときにもvous=remercieは一体として動きます。[=] の間に入り込むことができるのは、Je vous en remercie.「そのことについてお礼を言います」の中性代名詞のenや、 Je le lui ai montré. 「私は彼(女)にそれを見せた」の間接目的補語のluiのような他の接辞代名詞に限られます。このときも Je vous=en=remercie.のように、〈接辞代名詞1+接辞代名詞2+動詞〉のかたまりは一つの単語のように振る舞います。
肯定命令に限り補語人称代名詞は動詞の後に置き、間にtrait d’union [-](ハイフン)を挟みます。
(9) Attendez-nous à la gare. 私たちを駅で待っていてください。
(10) J’ai acheté des poires. Mets-les dans la corbeille.
洋梨を買って来たよ。果物かごに入れておいて。
このときmeはmoiに、te はtoiに変わります。(12)は代名動詞です。
(11) Attends-moi en bas. 下で待っていて。
(12) Mets-toi là. そこに座って。
これは純粋に音声的な現象で、meとteは母音が [ə] で弱くアクセントを置くことができないので、自立形(強勢形)のmoi, toiを用いるのです。肯定命令で補語人称代名詞が置かれる動詞の後はアクセントが落ちる場所です。(注1)
【補語人称代名詞はなぜ動詞の前に出るのか】
フランス語はSVO言語なので、平叙文では目的語はふつう J’aime Marie.「私はマリーが好きだ」のように動詞の後に置きます。それなのに目的語を代名詞にするとなぜ Je l’aime.「私は彼女が好きだ」のように動詞の前に出るのでしょうか。
これはフランス語だけでなく、イタリア語やスペイン語などの他のロマンス語でも見られる現象です。
(13)[イタリア語]Ti amo. (私は)君が好きだ。
(14)[スペイン語]José te llama. ホセが君を呼んでいるよ。
名詞の目的語と代名詞の目的語のちがいはどこにあるのでしょうか。名詞はたとえば parapluie「傘」と名指すことによって、相手の注意をそこに向けることができます。
(15) Nicolas a oublié son parapluie dans le métro.
ニコラは傘を地下鉄の中に置き忘れた。
それまでこの話を聞いたことがない人にとって son parapluie「彼の傘」は初めて知るものです。それを談話文法(英 discourse grammar / 仏 grammaire du discours)では「新情報」と呼びます。これにたいして代名詞は3人称の場合は先行詞があり、一度話題になったものをさします。
(16) Où est-ce que Nicolas a oublié son parapluie ? — Il l’a oublié dans le métro.
「ニコラはどこに傘を置き忘れたの」「地下鉄の中だよ」
上の例では代名詞のl’ (le)は一つ目の文の son parapluieをさしています。このように3人称代名詞が表すものはすでに談話の中にあるので旧情報といいます。
フランス語には次のような談話原則があります。(注2)
《文中の情報の流れに関する談話原則》
旧情報は文頭に近い位置に、新情報は文末に近い位置に置く。つまり、文中の情報の流れは[旧→新]であることが望ましい。
この談話原則に基づく現象はたくさんあるのですが、ここでは一つ紹介するに留めます。質問にたいする答を考えるとわかりやすいでしょう。Aさんの質問にたいするB1とB2の二つの返答を比較します。B2の [?] 記号は、非文法的というほどではないけれども、不自然な文であることを表します。
(17) A : À qui as-tu prêté ton dictionnaire ?
君は辞書を誰に貸したんだい。
B1 : J’ai prêté mon dictionnaire à Jérôme.
僕は辞書をジェロームに貸したんだ。
B2 : ?J’ai prêté à Jérôme mon dictionnaire.
僕はジェーロムに辞書を貸したんだ。
Aさんの質問は「誰に」とたずねているのですから、返答では à Jérômeが新情報です。B1ではà Jérômeが文末に来ているので、上の談話原則を守っています。しかしB2では、旧情報のmon dictionnaireが新情報のà Jérômeを差し置いて文末に置かれているので、答として自然さに欠けます。
目的格の補語人称代名詞 le / la / lesが動詞の前に出るのは、代名詞が旧情報を表しているために上の談話原則が適用されたからと考えることができます。
3人称の代名詞は先行詞があるので旧情報なのですが、それでは1・2人称の代名詞はどう考えればいいでしょうか。第1講でお話したように、1・2人称の代名詞には先行詞を持つ照応用法はありません。1・2人称の代名詞を定義しているのは発話 (énonciation) という行為です。私たちが何かを話すとき、私は話し手として振る舞い、あなたは聞き手として振る舞います。話すという行為には話し手と聞き手が必ず含まれています。ですから1・2人称の代名詞は元から旧情報であると考えることができるのです。
【なぜ肯定命令では補語人称代名詞は動詞の後に置くのか】
否定命令では目的格の代名詞は平叙文と同じように動詞の前に置きます。ところが肯定命令では動詞の後に置きます。これはなぜでしょう。
(18) Je mets les oranges dans la corbeille ?
「オレンジは果物かごに入れる?」
— Non, ne les mets pas dans la corbeille. Mets-les dans le frigo.
「いや、果物かごには入れないで。冷蔵庫に入れて。」
なぜ肯定命令に限って目的格代名詞を動詞の後に置くのかを説明したものを見たことがありません。みんな「規則だから」と覚えるように言うのですが、それではおもしろくありませんね。肯定命令と否定命令とではどこがちがうのでしょうか。またどういう仕組みによって語順が決まっているのでしょうか。
イタリアを旅行していた折の出来事です。ある博物館に中世の甲冑が展示されていました。私が何気なく触ろうとしたところ、博物館の監視員に Non toccare.「触らないで」と注意されてしまいました。展示物に触れてはいけません。この監視員が言った Non toccare.には「それに触らないで」の「それに」に当たる代名詞がありません。その場の状況から見て、私が触れようとしているのが甲冑であることが明白なので省略されているのです。このように否定命令は、相手が何かしようとしているのを止める時によく使われます。相手が何かしようとしている対象は、私の場合の甲冑のように発話の場に存在していてもうわかっていることが多く、この意味で旧情報と考えることができます。こう考えれば否定命令では目的格の代名詞が平叙文と同じように動詞の前に出ることが理解できるでしょう。
次の例文で肯定命令と否定命令のちがいを見てみましょう。
(19)[家出した人の書き置き]
探さないでください。
家出した人の書き置きに「誰を」という情報が欠けているのは、それが「私を」であることが明白だからです。(注3)これにたいして肯定命令で「探して」と言われたら、誰でも「何を?」と聞き返すでしょう。肯定命令の目的語が発話の場にあるとは限らないからです。
道を歩いていて何かに気づき、隣にいる友人に Regarde !「見て!」という場面を考えてみましょう。「何を」に当たる目的語はありません。しかし友人は言った人の視線の先や指差した方向に目を向けて何かを探すでしょう。カラスが飛んで来てベンチに座っている人の頭を突いているのが見えたら、それが探しているものです。この場合は省略された目的語がさしているものは発話の場にあり、視線や指差しなどのヒントを手がかりにして見つけることができます。
しかしもし「私を見て」と相手に伝えたいとき、Regarde ! だけでは不十分です。言われた人は何を見ればいいのかわかりません。「私」は話し手を表すので発話の場に存在しており、旧情報として扱われることが多いのですが、「私を見て」と言うときには、「私」が「見て」という肯定命令形の動詞の目的補語であるという統語関係は聞き手の知らない新情報です。このため肯定命令では Regarde-moi.「私を見て」のように、新情報が置かれる文末、つまり動詞の後に置かれるのです。この場合、「私」が新情報なのではなく、「私」が regarder「見る」という行為の対象であることが新しい情報と見なされるのです。 (この稿次回に続く)
(注1)3人称女性形のlaは母音が強いのでアクセントを置くことができる。しかし男性形のleは母音が meやteと同じ弱い[ə] なのにもかかわらず形が変わらない。肯定命令ではleは[ø]と強く発音する。自立形(強勢形)のluiを使わず、発音を変えることで対応している理由は第6講で論じたように、luiがもっぱら人をさし、具体物をさすことができないからだと考えられる。
(注2)この談話原則はフランス語だけでなく、多くの言語に認められる普遍的なものと考えられる。ただし、この原則がどれくらい強く働くかは、それぞれの言語の文法組織によって異なる。
(注3)この一連の考察から、否定命令には「前提」(présupposition) が含まれるという一般化ができそうだがここではこれ以上論じない。