第413回 佐々木朔『往信』

生きているものだけが病む明け方の運河は鴨とひかりをあつめ

 佐々木朔『往信』

 読み方は二句切れだろう。生きているものだけが病む、確かにその通りだ。死者は病むことがない。病むのは生きている証とも言える。この箴言は文脈から切り離されて、ポツンと独り言か呟きのように置かれている。三句以下は情景描写で、鴨の群れる運河に明け方の光が斜めに射している。二句目までと三句目以下の間をつなぐ橋がない。二句目までは時間と場所を持たない真理で、三句目以下にははっきりと時間と場所がある。こういう造りは想像力を刺激し、時には物語を起動する。歌の中の〈私〉は病室で近しい人の看病をしているのかもしれない。それならば二句目までは〈私〉の呟きか心の声で、三句目以下は病室の窓から見えた外の景色ということになる。もちろんこれが唯一の読みということはなく、一首全体は読みの未決定性の海を漂っている。それはたぶん作者が意識してのことだろう。

 佐々木朔は1992年生まれの歌人で、早稲田短歌会を経て「羽と根」同人。『往信』は今年(2025年)刊行された著者第一歌集である。SF作家の飛浩隆が一篇の詩のような帯文を寄せている。栞文は榊原紘、川野芽生、平岡直子。『短歌研究』11月/12月合併号の座談会「短歌ブーム、拡大と深化」の最後で、石川美南と郡司和斗の二人が本歌集を今年注目した歌集として挙げている。中身を見て行こう。

坂沿いののぼりに一つずつふれる 祭りのあとの寺へとすすむ

忘れそうになって線路をたどるときどこからか川の音がきこえる

あけがたのベッドの上から生活をよこぎってゆく蜘蛛をながめる

ほんとうに山下町は山の下 ゆっくり過ぎてゆくでかい犬

7億円がここで出たって書いてある 7億はやばくない? 7億は

 文体はゆるやかな定型意識による口語短歌で、現代文章語の口語よりも会話体に近い。体言止めを除けば結句に動詞の終止形(ル形)終わりが多い。それによって浮上するのは作中の〈私〉の〈今〉と、今を生きる意識である。文語の助動詞を用いた豊富な過去表現から遠ざかるのが現代の若手歌人の特徴のひとつで、佐々木もその例外ではない。過去の陰影を纏わない短歌は、フラットな〈今〉の表現に重心がかかる。

 もうひとつの特徴は、近現代短歌によく見られる「問と答の合わせ鏡」(by永田和宏)の構造がなく、俳句で言う一物仕立てのように作られていることだ。典型的なのは三首目で、一首の中に意味の切れがなく、どこまでも伸びる県道のようにずっと続いている。四首目には意味の切れがあり、それを強調するように一字空けされているが、上句の個人的な感想と下句の情景の間には、合わせ鏡のようにお互いを照射し反射し合うような緊張感はなく、ただ置かれているだけに見える。このような意味で佐々木の短歌は、現代の短歌シーンに広くみられるフラットな今を生きる等身大の〈私〉の歌のように見える。

 しかし次のような歌に接するとそのような感想は裏切られる。

香水に触れた指からにおいたつ記憶の煉瓦造りの街区

こころにさかえた遺跡をうみにしずませてだれもが去ってから会いに来た

とびっきりのポストカードを手放してそれからのたいくつな日のこと

わたしは本ヤークニーガと言いまちがえてはるかなる国の図書館にしまわれる

ペンギンのかき氷器が置いてあるほかにはなにもない海の家

 これらの歌には詩の欠片がある。それは短詩型文学の性質上、十分には展開されてはいないものの、想像力という水をかけてやると大きく育つ詩の欠片である。たとえば一首目、匂いが記憶を呼び覚ますのは『失われた時を求めて』以来の定番だが、この歌で呼び覚まされるのは煉瓦造りの街並みだ。それは外国の町のようにも、また子供の頃に童話で読んだ町のようにも見え、何かの物語が動き出す。すでに物語になっているのが四首目で、ロシア語で「私は本」と言い間違えたために、私は本になって外つ国の図書館の書架に並ぶという。五首目の夏の空虚の背後にも何かの物語が隠されているように感じられる。

 このような佐々木の作る短歌の特性として挙げることができるのは、一首単位で詩の欠片を内包しているために、連作の体裁をとってはいるものの、連作としての主題の連続性が希薄で、一首ごとにポツンと立っている街路樹のようである。どの歌をとっても、隣の歌との間に意味を呼び合う橋が架かっていない。

 また先に「問と答の合わせ鏡」の構造がないと指摘したが、それはとりもなおさず一首で詩の欠片を立ち上げるという佐々木の力業によるものである。このような作り方に近いのはと探してみると、たとえば小林久美子の名が頭に浮かぶ。佐藤弓生にもそういう香りのする歌がある。

こちらは雪になっているのを知らぬままひかりを放つ遠雷あなた

                  小林久美子『恋愛譜』

手ぶくろをはずすとはがき冷えていてどこかにあるはずの薄い街

                    佐藤弓生『薄い街』

 境涯を詠うことを主にする歌人を「人生派」、言葉によって美意識に叶う世界を創り上げる歌人を「コトバ派」と呼んでいるが、こういう作風の人はどちらにも分類できない。あえて名付けるならば「ポエジー派」とでも呼べるだろうか。このような作風の歌人も現代短歌の重要な一角を占めていることを忘れてはならないだろう。

花の名を教えるひとと聞くひとのそれぞれにそれぞれの花園

はつなつのひたすら青い青空と骨組みだけのスケートリンク

死ななくてよかった登場人物がしぬとき映画にふる小糠雨

きみの本のページを繰れば唐突な死語がうるわしい夕まぐれ

扉のまえでくちづけをして押しあけてそのまま夏のみどりのなかへ

関係を名づければもうぼくたちの手からこぼれてゆく鳳仙花

映画づくりに賭けてたひとの泣き顔をすこしだけ思いだす終電車

 特に心に残った歌を挙げた。どの歌にも詩の欠片があり、何かの物語が立ち上がるように感じられる。特に好きなのは四首目「扉のまえで」で、まるでSF小説かファンタジー小説のようだ。帯にSF作家から帯文をもらっているので、ひょっとしたら作者はSF小説の愛好家かもしれない。そういえばハインラインの『夏への扉』というSFの名作小説があった。佐々木の短歌は下句に特徴があって、読んでいると足がもつれそうになる句跨がりと字余りがある。

 最後に歌集題名の『往信』だが、この単語は返信と対になっていて、誰かに送る手紙を意味する。佐々木はこの歌集全体を誰かに送り届ける言葉として編んだものと思われる。王朝時代には和歌はコミュニケーションの手段で、お互いに歌を送り合ったものだが、短歌からそのような機能が失われて久しい。佐々木が世に送り出した往信に返信があることはないが、そのことは作者がいちばんよく心得ていることだろう。