第94回 吉岡生夫『草食獣 第七篇』

海苔フィルム外して巻いてゆくときのさみしきさみしき音を聞かしむ
                   吉岡生夫『草食獣 第七篇』
 掲出歌は言うまでもなくコンビニのおにぎりを食す時の風景である。豊葦原瑞穂の国では、いつの間にかおにぎりはコンビニで買うものになり、湿気防止フィルムのおかげで海苔はいつでも癪に障るほどパリパリだ。歌はそのフィルムを外す時の音が寂しいという。コンビニおりぎりを食べている自分が寂しいのではなく、こんな姿になったおにぎりが寂しいと取るべきだろう。ふつうは気がつかないほどの微かな音を歌に拾い上げる手つきは歌人吉岡の真骨頂と言える。
 吉岡の歌人としての特異性は歌集題名によく現れている。第一歌集『草食獣』、第二歌集『続・草食獣』、第三歌集『勇怯篇 草食獣・そのIII』、第四歌集『草食獣 第四篇』、第五歌集『草食獣・第五篇』、第六歌集『草食獣 隠棲篇』、そして昨年暮れに出た第七歌集『草食獣 第七篇』である。そもそも歌人は歌集の題名に工夫を凝らすもので、吉岡のように多少のヴァリエーションはあるものの、「草食獣」一本で通すのは珍しい。第六歌集のあとがきによれば、吉岡に團伊玖磨の「パイプのけむり」を教えたのは故・永井陽子だったという。「パイプのけむり」は團が「アサヒグラフ」に長年連載していたコラムである。単行本にまとめるとき、題名は「続パイプのけむり」次は「続々」次は「又」「又々」と延々と続いてゆく。これだと理論的にはいくらでも続けることができる。最後は『さよならパイブのけむり』でオチが着く。
 この題名の付け方は、一貫してひとつのことを追求する吉岡の姿勢をよく表している。折に触れて作った短歌がある程度集まったので、ここらで何か題名を付けて歌集を編もうかという歌人の態度とは根本的にちがうのだ。草食獣という題名が吉岡自身の発案ではなく、短歌人会先輩の小池光の命名だったことは以前のコラムに書いた。密かに肉食獣への変身を夢見ていた若き吉岡にはショックだったという。これも第六歌集のあとがきによると、分岐点は第三歌集だったとある。それまでは吉岡も変身を希求して足掻いていたわけだ。このあたりで自分にはもうこの道を突き進むしかないと覚悟を決めたのだろう。
 吉岡が腹をくくってから一貫して追及しているのは、〈雅〉を中心として展開してきた和歌・短歌から〈俗〉を回収するという作業である。このことは第三歌集から急に増加する次のような味わいの歌に見てとることができよう。
さてもをどりの名手といはむ鉄板のお好み焼きにふる花がつを
                 『勇怯篇 草食獣・そのIII』
新聞をひろげる視野のかたすみにまた組み変へるOLの脚
負けてこそヒーローならむふりかぶるときの江川の耳はピクルス
 お好み焼きの上で踊る花鰹、ミニスカートのOLの脚、野球選手の大きな耳などは、和歌の伝統的主題である花鳥風月からほど遠いのみならず、〈私〉の歌として自己確立した近代短歌が取り上げる主題の枠外にある。吉岡は和歌・短歌が意図的に見まいとした日常の卑近な些事を掬い上げ、若干のユーモアと苦みをまぶして短歌定型の歌に仕立てるのである。もちろん「世界への鋭い観察による本質の発見」(セレクション歌人『吉岡生夫集』の藤原龍一郎による解説)がこの作業の根底にあることは言うまでもない。
 『草食獣 第七篇』においてもこの姿勢は一貫して保持されている。
アルミ貨に黄銅貨まじり青銅貨ちらばる地蔵尊のあしもと
をとこらの専用車両あらばこそころやすかれあしたゆふべに
男にうまれてきたるかなしみはヘア・トニックをふる髪のなさ
舌圧子もちひて医師がのぞきこむをみなののどにあるのどちんこ
レシートをまず置き釣りを落としたり不可触賤民の手に返すごと
回転の寿司こそよけれ軍艦もイクラをのせてイラクへいかず
 地蔵に祈りを捧げる人たちも賽銭はけちって小銭ばかりを置くという観察が一首目のポイント。この歌のすべては一円玉・五円玉・十円玉と言わなかった所にある。二首目は鉄道の女性専用車両を中年男の目から見た歌で解説は不要だろう。三首目には「男にうまれてきたるよろこびはヘア・トニックを髪にふるとき」という『勇怯篇 草食獣・そのIII』の歌が詞書のように添えられていて、対をなしている。言うまでもなくこの二首の歌が作られた間に多量の毛髪が失われたのである。四首目のおもしろさはもちろん女性と口蓋垂の俗称の取り合わせにある。五首目は店員が客にお釣りを戻すときの手つきを詠ったもの。客の手のひらにレシートを置いてから、その上にお釣りを置くことで、店員の手と客の手が直接接触することを避けるのである。吉岡はすぐ次に「薬剤師なれば白衣に身を包む清潔症候群のへたれが」という歌を置いているので、店員の態度を不潔恐怖症によるものと解釈したのだろう。「へたれ」は関西方言で「弱虫、軟弱者」のこと。ちなみに最近、店によっては不快に感じる客に配慮して店員にそのように指導していると聞いたことがあるので、くだんの店員はへたれではなかったかもしれない。五首目は回転寿司の軍艦巻きを詠ったものでこれも解説は要るまい。
 〈雅〉の世界を離れて〈俗〉の復権を計る吉岡の歩みは、必然的に狂歌へと接近する。本書のあとがきでも吉岡は、狂歌を「和歌が否定した世界、書き継がれることのなかった幻の短歌史」と規定している。その成果はすでに大部の『狂歌逍遙 第1巻狂歌大観を読む』(星雲社 2010年)として結実している。いくつか拾ってみよう。
さりとてはけふまたしちにやれ蚊帳酒にそ我はくらはれにける  暁月坊
鹿の毛は筆になりても苦はやますつゐにれうしのうへてはてけり
                             雄長老
 吉岡のめざす短歌の世界と狂歌の親和性は明らかである。
 吉岡の短歌における〈俗〉の復権という目標に、近年新たな射程が加わったようだ。そのことは『草食獣 第七篇』巻末に付された「文語体と口語体」という文章にもはっきりと書かれており、本書の謹呈栞の次の文言にも現れている。原文では / で改行されている。
 「万葉集を愛すると歌人はいう / 古今和歌集を愛すると歌人はいう/ それは / 能楽師や狂言役者ではないが / 古代語で今を詠えということなのか / 憶良や家持、紀貫之がそうしたように / 今の言葉と向かい合えということではないのか / 高齢化する歌人と / 今年も歌を作ってくれたジュニア世代 / 現実は / そこに架けなければならない / あ / 虹が出ている」
 このように「歌のスタンダードは口語体なのだ」と宣言して、吉岡は「短歌人」の平成22年7月号から現代仮名遣いに移行し、次いで文語体と決別したようだ。私は「短歌人」を講読しておらず、また吉岡のホームページにも近作は紹介されていないので、口語体でどのような歌を作っているのかまだ知らない。いずれにせよ草食獣の短歌世界に新たな展開が生じたようで、その成果を楽しみに待つとしよう。
 最後に私が吉岡の屈指の名歌と思う一首をあげておこう。
サブマリン山田久志のあふぎみる球のゆくへも大阪の空
                『勇怯篇 草食獣・そのIII』