第414回 黒木三千代『貴妃の脂』

貝殻骨あらはに夏のひかり浴びホルンを運びゆく海辺まで

黒木三千代『貴妃の脂』

 貝殻骨とは肩甲骨の異称。肩甲骨が露出しているのだから、タンクトップのような真夏の服を着ているのだろう。ホルンという選択がまたいい。きらきらと陽光を反射する金管楽器である。海辺にホルンを運ぶのが何のためかは明かされていない。しかし、肩甲骨、真夏の陽光、ホルンと海岸という言葉の組み合わせによって、一首はきらめく光に包まれる。下句が大胆な句跨がりになっているところに前衛短歌の影響が垣間見られる、

 ついに『貴妃の脂』を読むことができた。ずいぶん前のことになるが、「『貴妃の脂』を読みたいのだが、どこかで見つからないだろうか」と黒瀬珂瀾君にたずねたら、「あの歌集はほぼ幻です」という答が返ってきた。「幻」とは、誰もがその存在は知っているのだが、現物を見た人がほとんどいないという意味である。現代短歌文庫の『黒木三千代集』が刊行され、やっとこの幻を読むことができた。望外の幸せである。『黒木三千代集』には、『貴妃の脂』、『クウェート』、『草の譜』の全篇が収録されている。黒木の歌集はこの三冊ですべてである。

 いまさら紹介することもなかろうが、黒木は1942年(昭和17年)生まれだから、誕生は太平洋戦争のただ中である。作歌を始めたのは夫の転勤により金沢に居を移した40代からだというからずいぶん遅い。新聞投稿などで歌を発表していたら、縁あって未来短歌会に入会。岡井隆を師とする。1987年に「貴妃の脂」で第30回短歌研究新人賞を受賞。第一歌集『貴妃の脂』を1989年に刊行する。第二歌集『クウェート』(1994年)によりながらみ現代短歌賞、第三歌集『草の譜』(2024年)により読売文学賞、日本歌人クラブ賞、小野市詩歌文学賞を受賞。『貴妃の脂』というユニークな歌集題名は、「叛心のなきならねどもバスタブに貴妃の脂の浮くべくもなく」という歌から採られている。「主婦の座に飽き足らず謀叛を起こす気持ちもないではないが、かといって誰もがひれ伏すような美姫でもない私」という意味である。慚愧と断念の歌と読んだ。不思議な歌集題名の謎がようやく解けた。

 黒木の短歌の世界は、黒木が2歳の時に28歳という若さで亡くなった父親の影が色濃く見られる。集中に「父よ」という連作がある。 

部屋隅に薔薇逆さ吊り為すなくて死にたりしわかきちちよ父よ

遠霞む歳月の端潤めれど父はの吾は父の悔しみ

体臭を知らざることを悲しみの根幹として歳月ゆるる

 『草の譜』にも次のような歌が見られる。

薬包紙赤かりし不意に胸に来て 二十八で死にし父を覚えず

「命名書」父が書きたる墨色の掠れしところ風が渡れり 

 父親の書斎には日本の古典文学の本がたくさん残されており、黒木はそれを読み耽って育ったという。黒木の歌に古語法が多く用いられているのはそのためだろう。塚本邦雄や岡井隆らの前衛短歌から作歌法を学び、古語を駆使する黒木の短歌はしばしば難解と評されている。

 さて本歌集を流れる主情は何かと言えば、それは慚愧と憤怒ではないかと思う。 

ファム・ファタールには成れざるわれが練り上ぐる葛 透きとほるだけ透きとほらしめ

影のごとま鯉集まり紛れざる緋鯉一尾は恥のごとしも

きらら桜、ほたりと椿 立ち枯るるほかなきをみなわれはなにせむ

家中にわが髪の毛の落ちてゐて死にたるのちも誰も気づかぬ

レモン切れば尖る鋭きかなしみや昔むかしも美姫たらざりき

 一首目のファム・ファタールはフランス語のfemme fatale。直訳すれば「宿命の女」で、男を魅了して破滅させる女性をいう。自分はしょせんファム・ファタールにはなれないと考えながら台所で葛を練る手には力が籠もっている。二首目、池を泳ぐ真鯉の群れに一尾だけ緋鯉が混じっているのがまるで恥のようだという。緋鯉が男に混じる女の私であることは言を待たない。三首目、咲き誇る桜や落ちてなお美しい椿に較べ、自分は立ち枯れるばかりだと嘆いている。四首目、主婦として家にいる私の髪の毛がそこらじゅうに落ちているはずだが、私が死んでも誰もそのことに気づかないだろうという歌。自分の存在感のなさが髪の毛に託されている。五首目、漂う檸檬の香りが美姫ではなかったという慚愧を誘い出す。

 このような慚愧と憤怒は家庭婦人であったという境遇に由来するものだろう。次のようにそのことを直接的に詠った歌もある。 

初期ローマ皇帝秘書は奴隷なり或いは妻も似たやうなものか

ひとの妻・子の母として知らさるる死亡記事なるをんなのなまへ

二十年妻たる不思議オレンジを食べ終るときわらひ捨てたり

花茗荷鍋に放ちて何者にありしかわれはここにはたとせ 

 二首目に詠われているように、新聞の訃報記事に女性は「〇〇議員の妻」とか「〇〇会社社長の母」などと書かれることが多い。要するに付属品扱いだ。読売文学章受賞のインタビューで黒木は、大阪の夫の実家近くに暮らしていた頃は、自分はまるで家具のようだったと述懐している。本歌集に解説を寄せた岡井隆は、「これでもかこれでもかと迫ってくる怨念のようなもの」と表現している。

 このような慚愧と憤怒が高じると、次のような復讐と殺意の歌になる。

ありつたけのガラス器にひとつづつ虹飼ふとまひる復讐のごと思ふなり

金の鎖のみどに辷りあやを為すせつな殺意のごとくきらめく

 しかし黒木の短歌の世界はこのように慚愧と憤怒を詠んだ歌に尽きるものではない。「きそのゆふがほ」と題された連作では、古典の素養に基づいた王朝風の言葉の饗宴が縦横無尽に繰り広げられる。

草深野くさぶかぬ〉この露けくてあえかなることばを忍ぶる恋のあしたに

かき上ぐる額髪ぬかがみしろきおもかげに添ふわたくしのきそのゆふがほ

そののちの松浦まつらの浦の恨みじを臥す切岸の夢のただ中

秋風しうふうになりてむ何もはかなくてうち見るほどに昏む桔梗よ

恋ひわたるとはいかやうにわたるなる夜深きをゆく鳥の声よ

 この連作の最初には「結露するマンションの窓 時代などは見えぬ見えねば 虚辞をここだく」という詞書が置かれている。「ここだく」とは「こんなにたくさん」の意。要するにこれは言葉に過ぎないと言っているのだ。「きそのゆふがほ」は「昨日の夕顔の花」の意。三首目の「松浦の浦」は佐賀県にある歌枕。「そののちの松浦の浦の」までは「恨み」を導く序詞。「恨みじ」の「じ」は形容詞を作る接尾辞かと思われる。このように言葉の贅を尽くした王朝風の歌には、コトバ派の雄の塚本邦雄の影響が色濃く感じられる。

 そうかと思えば次のようにむくつけなまでにストレートな歌もある。

うつたうしき景物としていついかなる行動にも鴨はつがひなるべし

油そそがれしもの〈メシア〉なら漆黒のミシンあやつる母おそるべし

眠剤をひとり使ひて入水せし津島修治の人非人ひとでなし

老いほけなば色情狂になりてやらむもはや素直に生きてやらむ

人間の息深ぶかと吹き込みて成るガラス器よ浄きはずなし

 三首目の津島修治は太宰治の本名。これらの歌にはもしかしたらユーモアも含まれているのかも知れないが、思いが直截に表現されていておもしろい。上に引いた王朝風の歌と並べてみると、振り幅の大きさに驚かされる。ひと言で括ることのできる歌人ではないということだ。

てのひらにすくひてはこぼす花びらはひかり いくたびもわれは失ふ

逆光に灰色のはねすきとほり過ぎにしミカエルの裔の鳩らよ

跳ね上がる鯉いつしゆんのしし締まりすなはち顕はなり 死後硬直リゴルモルティス

ここ過ぎて死者行きたらむ地下街の水底みなそこにしてひかるアルミ貨

降る雪のソルティー・ドッグわたくしのけぶりてぞゆく群肝むらきものため

朝を割る卵のひとつ腐れればつひにここよりは死に場所なけむ

膚寒き天変の夏ダリ展に聖麒麟燃ゆ佇ちてしづかに

 特に心に残った歌を挙げた。私の個人的な好みも混じっているだろうが、前衛短歌の血脈を継ぐ歌が目立つ。『貴妃の脂』が出版された1989年の時代背景を見てみよう。1987年には俵万智の『サラダ記念日』が刊行され、一大ベストセラーになった。小池光は「俵によって短歌はそれまでのウラミの世界から解放された」とどこかで述べていた。ウラミを基調とする『貴妃の脂』は明るい世界へと進む短歌の世界に真っ向から逆行している。同年には加藤治郎の『サニー・サイド・アップ』が出て、1991年には荻原裕幸が新聞に「現代短歌のニューウェーヴ」という文章を発表し、時代は一気にライト・ヴァースの方向へと舵を切る。岡井隆や塚本邦雄らが推進した前衛短歌の時代はこのあたりで終わりを告げたのである。このように時代の流れに置いてみると、『貴妃の脂』は前衛短歌の掉尾を飾る歌集とも見えるのである。

 

「フランス語100講」第13講 主語(4)─ 主語の意味役割

 第10講で主語の定義を検討し、主語とは文に不可欠の名詞・代名詞で、動詞の活用を支配するものであることを見ました。これは確かに主語の定義としての必要条件と言えます。主語ならあまねく持っている特徴を述べているからです。しかしこの定義は主語の文法的な特徴は捉えているものの、主語の意味的な性質については何も述べていません。伝統的な主語の定義には、主語は能動文で動作主 (agent) を表す要素であるということが含まれていました。今回は主語が文の中でどのような意味役割を持っているのかを見ることにしましょう。

 まず予備的作業として、動詞を大きく二つの種類に分けます。状態動詞 (verbe d’état) と運動動詞 (verbe d’action) です。

 

 (1) Angéla est italienne.

  アンジェラはイタリア人です。

 (2) Yves ne sait pas l’adresse de Pierre.

  イヴはピエールの住所を知らない。

 (3) Claire court à toute vitesse.

  クレールは全速力で走っている。

 (4) Jean a ouvert une conserve de thon.

  ジャンはツナ缶を開けた。

 

 話をかんたんにするために、主語はすべて人にしました。(1)のêtre「〜である」や (2) のsavoir「知っている」などは時間によって変化しない状態を表す状態動詞です。(3)のcourir「走る」や (4) のouvrir「開ける」は時間によって変化する動作を表す運動動詞です。

 主語が動作主を表しているのは、動詞が運動動詞である (3)と(4)です。(3)ではクレールは走る人で、(4)ではジャンは缶詰を開ける人です。「何かをする人」であるためには動詞が運動動詞でなくてはなりません。動詞が状態動詞である (1) と (2) では、アンジェラやイヴは「何かをする人」ではありません。(1)でアンジェラは「イタリア人」という国籍を持っている人で、(2)でイヴはピエールの住所という知識を保有していない人です。このようなとき、(1) や (2) の主語は動作主という意味役割ではなく、siège de la prédication「主述関係の座」と呼ぶことがあります。述語が表している状態や性質がある場所というくらいの意味です。(1)ではアンジェラが「イタリア人である」という属性が成り立つ主体であり、(2)ではイヴは「ピエールの住所を知らない」という状態が成り立っている人と言えるでしょう。

 では動詞が運動動詞のときは、主語は必ず動作主なのかというと、そうとも言えません。動作主がみずから主体的に行動するものとするならば、それができるのは意志を持つ人間か動物に限られます。意志を持たない無生物は動作主にはなりません。

 

 (5) Le Rhône coule vers le sud.

  ローヌ河は南に流れている。

 (6) Le couteau est tombé par terre.

  ナイフは床に落ちた。

 (7) La bombe a explosé.

  爆弾は爆発した。

 

 (5) でローヌ河はそうしようと思って南に流れているわけではありません。地形という自然の要因によってそうなっているだけです。(6) でもナイフは自分で落ちたのではなく、誰かが取り落としたのでしょう。(7) でも爆弾が爆発したのは、誰かがスイッチを入れたか、時限装置が作動したせいです。

 では (5)〜(7)の主語が動作主でないとすると、それを何と呼べばよいのかという問題が生じます。このような不都合を避けるために、動作主という意味役割から意図性 (intentionalité) を除外しようとする考え方もあります。つまり自分でしようと思ってしたのかどうかとは関係なく、運動の主体となっているものはすべて動作主と呼ぼうということです。このような考え方を採るならば、(5)〜(7)の主語も広い意味で動作主と呼ぶことができます。

 

 (8) Les soldats ont subi une torture.

  兵士たちは拷問を受けた。

 (9) Jacques a reçu une averse en rentrant de l’école.

   ジャックは学校からの帰りににわか雨に遭った。

 

 (8) (9) となるとますます主語を動作主と呼ぶのが難しくなります。(8)では兵士はそうしようと思って拷問を受けたわけではありません。 (9) でもジャックは自分で何かをしたわけではありません。広義の動作主と見なそうとすると、(8)の兵士や (9)のジャックを運動の主体と見なさなくてはなりませんが、 (8) の兵士は拷問という行為の主体ではなく拷問を受ける側です。また (9) でもジャックは雨に降られているので、運動の主体とは言えません。

 このような例を見ると、たとえ広い意味に取ったとしても、運動動詞の主語をすべて動作主と見なすのは難しいことがわかります。ではどうして伝統的な主語の定義には動作主という意味役割を含むものが多いのでしょうか。そこにはどうやら二つの理由があるようです。

 まず状態動詞と運動動詞の数を較べると運動動詞の方が多いという事実があります。このために動詞の主語は何かの動作・行為の主体と見なされやすいのです。この点で日本語は極端で、状態動詞は「いる」「ある」「できる」「思う」「値する」くらいしかなく、後は「書ける」「見える」などの可能動詞で、これらを除く残りの動詞は全部運動動詞です。フランス語では状態動詞の savoir「知っている」やressembler「似ている」も、日本語の「知る」「似る」は運動動詞です。確かに状態の種類より運動の種類の方が多いので、運動動詞が多いのは言語によらずよく見られることです。

 また自動詞より他動詞の方が多いことも挙げられます。他動詞ではPaul a cassé un verre à vin.「ポールはワイングラスを割った」のように、主語は何かの動作をする側で、直接目的補語は動作の影響をこうむる側です。このために主語が動作主である場合が出来事のプロトタイプのように見なされたのだと考えられます。

 しかしこの問題には歴史的な背景もあるようです。昔からラテン語・ギリシャ語などの古典語やヨーロッパの他の言語と比較して、フランス語が優れた言語であることが論じられてきました。なかでもよく知られているのはリヴァロルの『フランス語の普遍性について』です(注1)。この文章の中でリヴァロルはフランス語の優れた点として、直接語順 (ordre direct) を挙げています。その部分を引用して拙訳を添えておきます。

 

   Ce qui distingue notre langue des langues anciennes et modernes, c’est l’ordre et la construction de la phrase. Cet ordre doit toujours être direct et nécessairement clair. Le français nomme d’abord le sujet du discours, ensuite le verbe qui est l’action, et enfin l’objet de cette action : voilà la logique naturelle à tous les hommes ; voilà ce qui constitue le sens commun. Or cet ordre, si favorable, si nécessaire au raisonnement, est presque contraire aux sensations, qui nomment le premier l’objet qui frappe le premier. C’est pourquoi tous les peuples, abandonnant l’ordre direct, ont eu recours aux tournures plus ou moins hardies, selon que leurs sensations ou l’harmonie des mots l’exigeaient ; et l’inversion a prévalu sur la terre, parce que l’homme est plus impérieusement gouverné par les passions que par la raison. Le français, par un privilège unique, est seul resté fidèle à l’ordre direct (…).

 古典語や他の現代語と較べたとき、わが国の言語の特色は語順と文の組み立て方にある。この語順は常に直接的でなくてはならず、必然的に明晰なものである。フランス語ではまず文の主語を述べ、次に行為を表す動詞を置く。そして最後に行為の対象を述べる。これが万人にとって自然な論理である。これこそ常識というものである。ところがこの語順は推論にとって実に好適で必然的ではあるものの、感覚の命じるところとはほぼ逆となる。なぜなら感覚においては、私たちの五感が最初に捉えた対象をまず名指すからである。このような理由によって、あらゆる民族は直接語順を捨てて、感覚や語の調和が命じるままに、程度の差はあれ奇抜な言い回しを採用した。こうして地上に倒置がはびこることとなった。というのも人間は理性よりも感情に支配されることが多いからである。特別に選ばれたフランス語のみが変わることなく直接語順に忠実に従っている。

 

 リヴァロルはこの引用にあるように、〈主語─動詞─目的語〉という語順を直接語順 (ordre direct) と呼び、それがもっとも理性にかなった語順であるとしています。この文章が書かれたのは18世紀の啓蒙主義の時代で、数年後にはフランス革命が勃発するという頃です。「理性」は人間を正しく導くものとして重んじられていました。そして〈主語─動詞─目的語〉という直接語順の裏側には、〈動作主─動作─被動作主〉という意味役割が張り付いています。直接語順は動作主から被動作主へと向かう動作の方向をそのまま表したものとされているのです。上の引用のすぐ後によく知られたCe qui n’est pas clair n’est pas français. 「明晰でないものはフランス語ではない」という文章が続きます。

 リヴァロルはこのように直接語順をフランス語の明晰さと普遍性の鍵と考えたのです。驚くのはこの直接語順の神話が現代でも生きているということです。フランス学士院 (Institut de France) の名誉総裁 (chancelier) であったド・ブロイ (Gabriel de Broglie) がアカデミー・フランセーズの代表団長として2014年に北京を訪問した折に、「フランス語の美しさ」(La beauté de la langue française) と題する講演を行いました。その一節を引いてみましょう。(注2)

 

 Le principal caractère c’est l’ordre direct. Le français obéit à l’ordre direct. (…) La langue française commence par ce qui commande la compréhension, le sujet, puis par ce qui découle de ce qui vient d’être dit, c’est-à-dire que l’ordre rigide des mots est régi par leur fonction et leur rapport. La proposition principale vient avant la proposition subordonnée. Le sujet vient avant le verbe qui exprime l’action et le verbe est suivi de ses compléments directs, puis indirects qui indiquent les conditions dans lesquelles le sujet a agi. C’est cela l’ordre direct.

 フランス語の重要な特性は直接語順です。フランス語は直接語順に従います。(…)フランス語では文の最初に理解の要となる主語を置きます。次に置かれた主語から発するものを述べます。つまり単語の厳格な順序はその機能と関係によって支配されているのです。主節は従属節の前に置きます。主語は行為を表す動詞の前に来ます。そして動詞の後には、主語がどのような条件で働きかけたかを示す直接補語と間接補語が続きます。これこそが直接語順です。

 

 まるで18世紀の亡霊が現代に蘇ったようですね。現代の言語学では、〈主語─動詞─目的語〉という語順が「最も理性にかなった」ものだということは否定されています。主語をS、動詞をV、目的語をOと書くと、順列組み合わせによって次のような6通りの語順が可能になります。ある統計によれば(注3)、世界中の言語でそれぞれの語順の占める割合は次のようになっています。

 

 SOV 39%   SVO 36%   VSO 15%   VOS 5%   OSV/OVS 5%

 

 フランス語のようなSVO言語は36%を占めていますが、日本語のようなSOV言語は39%あり、それより多くなっています。SVO言語以外の語順の言語を話している人が合わせて64%もいるのですから、その人たちが「理性にかなっていない」言語を話しているとは考えられないでしょう。自分たちの言語のSVOという語順が最も良いものだというのは、よく見られる自民族中心主義 (ethnocentrisme) に他なりません。

 では直接語順というのも一種の幻想なのでしょうか。いえいえ、そんなことはありません。フランス語が直接語順を好む言語であるということは厳然たる事実です。また〈主語─動詞─目的語〉という統語構造の裏側に〈動作主─動作─被動作主〉という意味役割が張り付いているというのも、フランス語という言語の大きな特徴となっています。このことはすぐ後にお話する無生物主語構文を理解するのに大いに役立つでしょう。                      

(注1)Antoine de Rivarol, De l’universalité de la langue française, 1784.

(注2)https://www.academie-francaise.fr/la-beaute-de-la-langue-francaise

(注3)クロード・アジェージュ『言語構造と普遍性』白水社、1990.

 

 

第413回 佐々木朔『往信』

生きているものだけが病む明け方の運河は鴨とひかりをあつめ

 佐々木朔『往信』

 読み方は二句切れだろう。生きているものだけが病む、確かにその通りだ。死者は病むことがない。病むのは生きている証とも言える。この箴言は文脈から切り離されて、ポツンと独り言か呟きのように置かれている。三句以下は情景描写で、鴨の群れる運河に明け方の光が斜めに射している。二句目までと三句目以下の間をつなぐ橋がない。二句目までは時間と場所を持たない真理で、三句目以下にははっきりと時間と場所がある。こういう造りは想像力を刺激し、時には物語を起動する。歌の中の〈私〉は病室で近しい人の看病をしているのかもしれない。それならば二句目までは〈私〉の呟きか心の声で、三句目以下は病室の窓から見えた外の景色ということになる。もちろんこれが唯一の読みということはなく、一首全体は読みの未決定性の海を漂っている。それはたぶん作者が意識してのことだろう。

 佐々木朔は1992年生まれの歌人で、早稲田短歌会を経て「羽と根」同人。『往信』は今年(2025年)刊行された著者第一歌集である。SF作家の飛浩隆が一篇の詩のような帯文を寄せている。栞文は榊原紘、川野芽生、平岡直子。『短歌研究』11月/12月合併号の座談会「短歌ブーム、拡大と深化」の最後で、石川美南と郡司和斗の二人が本歌集を今年注目した歌集として挙げている。中身を見て行こう。

坂沿いののぼりに一つずつふれる 祭りのあとの寺へとすすむ

忘れそうになって線路をたどるときどこからか川の音がきこえる

あけがたのベッドの上から生活をよこぎってゆく蜘蛛をながめる

ほんとうに山下町は山の下 ゆっくり過ぎてゆくでかい犬

7億円がここで出たって書いてある 7億はやばくない? 7億は

 文体はゆるやかな定型意識による口語短歌で、現代文章語の口語よりも会話体に近い。体言止めを除けば結句に動詞の終止形(ル形)終わりが多い。それによって浮上するのは作中の〈私〉の〈今〉と、今を生きる意識である。文語の助動詞を用いた豊富な過去表現から遠ざかるのが現代の若手歌人の特徴のひとつで、佐々木もその例外ではない。過去の陰影を纏わない短歌は、フラットな〈今〉の表現に重心がかかる。

 もうひとつの特徴は、近現代短歌によく見られる「問と答の合わせ鏡」(by永田和宏)の構造がなく、俳句で言う一物仕立てのように作られていることだ。典型的なのは三首目で、一首の中に意味の切れがなく、どこまでも伸びる県道のようにずっと続いている。四首目には意味の切れがあり、それを強調するように一字空けされているが、上句の個人的な感想と下句の情景の間には、合わせ鏡のようにお互いを照射し反射し合うような緊張感はなく、ただ置かれているだけに見える。このような意味で佐々木の短歌は、現代の短歌シーンに広くみられるフラットな今を生きる等身大の〈私〉の歌のように見える。

 しかし次のような歌に接するとそのような感想は裏切られる。

香水に触れた指からにおいたつ記憶の煉瓦造りの街区

こころにさかえた遺跡をうみにしずませてだれもが去ってから会いに来た

とびっきりのポストカードを手放してそれからのたいくつな日のこと

わたしは本ヤークニーガと言いまちがえてはるかなる国の図書館にしまわれる

ペンギンのかき氷器が置いてあるほかにはなにもない海の家

 これらの歌には詩の欠片がある。それは短詩型文学の性質上、十分には展開されてはいないものの、想像力という水をかけてやると大きく育つ詩の欠片である。たとえば一首目、匂いが記憶を呼び覚ますのは『失われた時を求めて』以来の定番だが、この歌で呼び覚まされるのは煉瓦造りの街並みだ。それは外国の町のようにも、また子供の頃に童話で読んだ町のようにも見え、何かの物語が動き出す。すでに物語になっているのが四首目で、ロシア語で「私は本」と言い間違えたために、私は本になって外つ国の図書館の書架に並ぶという。五首目の夏の空虚の背後にも何かの物語が隠されているように感じられる。

 このような佐々木の作る短歌の特性として挙げることができるのは、一首単位で詩の欠片を内包しているために、連作の体裁をとってはいるものの、連作としての主題の連続性が希薄で、一首ごとにポツンと立っている街路樹のようである。どの歌をとっても、隣の歌との間に意味を呼び合う橋が架かっていない。

 また先に「問と答の合わせ鏡」の構造がないと指摘したが、それはとりもなおさず一首で詩の欠片を立ち上げるという佐々木の力業によるものである。このような作り方に近いのはと探してみると、たとえば小林久美子の名が頭に浮かぶ。佐藤弓生にもそういう香りのする歌がある。

こちらは雪になっているのを知らぬままひかりを放つ遠雷あなた

                  小林久美子『恋愛譜』

手ぶくろをはずすとはがき冷えていてどこかにあるはずの薄い街

                    佐藤弓生『薄い街』

 境涯を詠うことを主にする歌人を「人生派」、言葉によって美意識に叶う世界を創り上げる歌人を「コトバ派」と呼んでいるが、こういう作風の人はどちらにも分類できない。あえて名付けるならば「ポエジー派」とでも呼べるだろうか。このような作風の歌人も現代短歌の重要な一角を占めていることを忘れてはならないだろう。

花の名を教えるひとと聞くひとのそれぞれにそれぞれの花園

はつなつのひたすら青い青空と骨組みだけのスケートリンク

死ななくてよかった登場人物がしぬとき映画にふる小糠雨

きみの本のページを繰れば唐突な死語がうるわしい夕まぐれ

扉のまえでくちづけをして押しあけてそのまま夏のみどりのなかへ

関係を名づければもうぼくたちの手からこぼれてゆく鳳仙花

映画づくりに賭けてたひとの泣き顔をすこしだけ思いだす終電車

 特に心に残った歌を挙げた。どの歌にも詩の欠片があり、何かの物語が立ち上がるように感じられる。特に好きなのは四首目「扉のまえで」で、まるでSF小説かファンタジー小説のようだ。帯にSF作家から帯文をもらっているので、ひょっとしたら作者はSF小説の愛好家かもしれない。そういえばハインラインの『夏への扉』というSFの名作小説があった。佐々木の短歌は下句に特徴があって、読んでいると足がもつれそうになる句跨がりと字余りがある。

 最後に歌集題名の『往信』だが、この単語は返信と対になっていて、誰かに送る手紙を意味する。佐々木はこの歌集全体を誰かに送り届ける言葉として編んだものと思われる。王朝時代には和歌はコミュニケーションの手段で、お互いに歌を送り合ったものだが、短歌からそのような機能が失われて久しい。佐々木が世に送り出した往信に返信があることはないが、そのことは作者がいちばんよく心得ていることだろう。

 

「フランス語100講」こぼれ話(4)─ onとl’on

 不定代名詞の onは et, ou, où que, siなどの単語に続くときは、l’onと綴ることがある。

 

 (1) si l’on considère l’état actuel de notre pays…

   わが国の現状に鑑みるならば

 (2) Il faut que l’on se mette d’accord sur ce point.

        その点についてみんなが同意する必要がある。

 

 そうする理由は、もし si onや où onとすると、フランス語が嫌う母音衝突 (hiatus) を起こしてしまうからだと説明される。queは qu’onとエリジヨンして母音衝突を避けることができるが、他の単語ではそうはいかない。

 しかしもし母音衝突を避けるのが目的ならば、他の子音字でもかまわないはずだ。事実、疑問倒置では A-t-elle été en Espagne ?「彼女はスペインに行ったことがありますか」のように –t- が使われている。l’onl’はエリジヨンしない形は leで、これは定冠詞の男性単数形である。なぜonに定冠詞が付くかを知るには、フランス語の歴史をさかのぼらなくてはならない。

 onの語源はラテン語の homo「人」である。現在でも生物学の学名ではラテン語が使われているので、 現世人類はHomo sapiensホモサピエンス」と呼ばれている。「言語を使う」というヒトの特徴を捉えて Home loquens「話すヒト」などと言うこともある。onはもともとは「人」を表す名詞のhomoだったために、定冠詞を付けてl’onのように用いるのは、その昔は珍しいことではなかった。ところが現代フランス語では si l’onのように母音衝突を避ける場合にしか使われなくなったのである。

 さて、ラテン語の homoからはhomme「人、男性」という単語も生まれた。こちらはれっきとした男性名詞である。なぜラテン語の一つの単語からフランス語の二つの単語が生まれたのだろうか。その理由もフランス語の歴史の中にある。

 フランス語の親のラテン語には名詞の格変化 (déclinaison) があった。格とは、日本語ならば「花が」「花を」「花に」のように、格助詞のガ・ヲ・ニなどを使って表す文法関係を、名詞の語尾変化で表すことをいう。ラテン語には全部で6つの格があった。やがてラテン語は俗ラテン語の時代を経て、だいたい9世紀くらいに古フランス語になったと考えられている。名詞の格体系は大幅に簡略化されて、主格と斜格の2格体系になった。主格 (cas sujet) は名詞を主語や呼びかけに用いる場合で、斜格 (cas oblique) は直接目的語などそれ以外の場合に用いる。次はmur「壁」という単語の格変化である。添えられた定冠詞も格変化している。

 

 

 ざっくり言うと、主格単数形と斜格複数形に –sの語尾が付いた。(注1)見てわかるように、斜格の単数形 le murと複数形 les mursが後に現代フランス語の単語となった。なぜ主格ではなく斜格の語形が生き残ったのだろうか。それは統計的な頻度の問題である。次の物語の冒頭部分を見てみよう。

 

 (3) Delphine et Marinette revenaient de faire des commissions pour leurs parents, et il leur restait un kilomètre de chemin. Il y avait dans leur cabas trois morceaux de savon, un pain de sucre, une fraise de veau, et pour quinze sous de clous de girofle. Elles le portaient chacune par une oreille et le balançaient en chantant une jolie chanson. À un tournant de la route, et comme elles en étaient à « Miroton, miroton, mirotaine », elles virent un gros chien ébouriffé, et qui marchait la tête basse.             (Marcel Aymé, Les contes du chat perché)

デルフィーヌとマリネットは両親に頼まれた買い物を終えて家に戻るところでした。家まではもう1kmしかありません。買い物籠のなかにはせっけんが3つ、砂糖の固まりが1つ、仔牛の腸間膜と15スー分の丁字が入っています。二人は買い物籠の取っ手をひとつずつ持って、すてきな歌を歌いながら籠を揺らしていました。曲がり角にさしかかり、ちょうど歌が「ミロトン、ミロトン、ミロテーヌ」まで来たとき、毛を逆立てて頭を下げて歩く大きな犬が見えました。

 

 主語はボールド・イタリック体にして、直接目的補語には下線を引いた。主語は Delphine et Marinetteだけが名詞で、あとは il / il / elles / elles / elles とすべて代名詞である。これは第11講で触れた主題の一貫性(英 topic continuity)の原則による。談話やテクストでは、一つの主題について連続して語ることが多い。このため同じものをさす代名詞が多くなるのである。一方、直接目的補語を見ると、un kilomètre de chemin / trois morceaux de savon / un pain de sucre / une fraise de veau / pour quinze sous de clous de girofle / le / le / un gros chien ébouriffé, et qui marchait la tête basseとなっていて、代名詞leが二つあるが、残りは全部名詞である。(注2)しかも長い名詞が多い。一般に新しい名詞が登場するのは直接目的補語の位置であることが知られている。

 これは物語という書き言葉の話だが、話し言葉ではこの傾向はもっと強くなる。Colette Jeanjeanは話し言葉のコーパス調査から、すべての文のうち名詞の主語を持つ文の割合は2%〜2.8%にすぎないと報告している。(注3)私自身の調査でも、名詞主語の出現率は 2.4%〜5.7%であった。これにたいして直接目的補語は名詞であることが多く、フランス語で最もよく見られる文型は、〈代名詞主語+動詞+名詞の直接目的補語〉という組み合わせなのだ。(注4)このように主語は代名詞が多く、直接目的補語は名詞が多いために、よく目にする斜格形が名詞の形として残ったのである。

 しかしながらon / hommeは例外的に主格形と斜格形の両方が残った。その理由は、onが「人一般」を指したりnousの代用形として用いられたりして、主語人称代名詞と同じような使われ方をするために、使われる頻度が高かったためと考えられる。 on / homme以外にも主格形と斜格形の両方が残った単語がいくつかある。

 

         主格形          斜格形

  copain          compagnon 「仲間」

       gars(俗語で)若者     garçon「少年、男の子」

  sire (呼びかけて)陛下    seigneur「領主」

 

 これらの単語はすべて人をさす単語で、呼びかけで使うことが多い。呼びかけには主格形が使われる。このために主格形と斜格形の両方が残ったのだと考えられる。

 以上のことから何を導くことができるだろうか。それは「言語使用が文法を作る」(英 Usage makes grammar.)ということではないだろうか。フランス語でも日本語でも文法は誰か特定の人が設計図を描いて作ったものではない。(注5)言葉の使用が集積して、やがて慣習として固まったものである。野原を横切るときに、たくさんの人が同じルートを歩くと、やがて草が踏み固められて道ができる。文法とはそのようにしてできたものではないだろうか。

 

(注1)主格単数形の語尾の –sは、Georges、Jacquesなどの人名にその名残を留めている。

(注2)非人称構文の il leur restait、il y avaitに続く名詞は、文法的には直接目的補語である。

(注3)Jeanjean, Colette, “L’organisation des formes sujets en français de conversation. Etude quantitative et grammaticale de deux corpus”, Recherches sur la français parlé 3, 1981.

(注4)東郷雄二「話し言葉のフランス語に見る文法の形成過程の研究」、文部科学省科学研究費補助金基盤研究(C)研究成果報告書、1998.

(注5)ポーランドの眼科医であったザメンホフが作ったエスペラントのような人工言語は例外で、一人の人が考案した言語である。

第412回 種市友紀子『蓮の島』

つぎつぎに窓閉ざさるるゆふぐれの窓のひとつに鳥の歌きこゆ

種市友紀子『蓮の島』

 街は夕暮れを迎え、それまで開いていた窓が閉じられてゆく。窓が開いていたのだから、爽やかな時候でたとえは初夏などか。昔なら豆腐屋のラッパの音が遠くに聞こえる時刻だ。そんな窓のひとつから鳥の歌が聞こえてくるという。問題はこの鳥の歌である。鳥籠で飼われている本物の鳥のさえずりかもしれない。フランス語では鳥の鳴く声をle chant des oiseaux「鳥の歌声」と表現する。カタルーニァ民謡に同じ題名の歌がある。だとすればレコードかCDから流れる歌か。クレマン・ジュャヌカンにも同じ題名の曲がある。はたまた杉田かおるが昔歌った歌もある。ならば部屋の中にいる人の鼻歌かもしれない。ここに大きな未決定が潜んでいるのだが、その未決定は歌意を曲げるほどではない。灯ともし頃に小さな音で心地よい音楽が聞こえてくるという点が大事だ。上句の「つぎつぎに窓閉ざさるる」によって夕方の時間の経過が表現されていることもポイントだろう。

 種市友紀子は1979年生まれの歌人である。大学生のときに水原紫苑の「文藝演習」を受講したのがきっかけで作歌を開始し、早稲田短歌会に入会したという。その後、「笛の会」に所属し藤井常世の薫陶を受ける。『pool』『まいだーん』にも参加している。『蓮の島』は第一歌集で、作歌を始めてから26年目ということだ。版元は本阿弥書店、装幀は花山周子、水原紫苑が帯文を寄せている。歌集題名は船に乗って手賀沼の蓮を見た体験から採られている。

 歌集の冒頭付近から何首か引いてみよう。

鉄塔はさみしく空を区切りつつまた鉄塔とつながる緑地

存分に待ちうる時を贅沢として無花果の実は重りゆく

今日以外なべて昨日に埋もるるなづきに氷ひとかけら落つ

扉から漏るる光のまぶしさにそびらより入る未知なる部屋へ

生まるれば帰るすべなき戸惑ひに赤子は泣きぬ声しぼりつつ

 文体は旧仮名遣による文語(古語)定型が基本。作風は情景や事物の描写のおちこちに感情の水脈が走ると言えるか。たとえば一首目、高圧線を支える鉄塔を詠んでいる。鉄塔一基だと青空を背景に淋しくポツンと立っているように見えるが、電線の先を辿ると別の鉄塔に繋がっている。それはまるで人間の有り様だと作者の呟く声が聞こえる。二首目は時間の嵩と重さを詠んだ歌。無花果が重く実るためには長い時間を待たなくてはならない。待つことに費やす時間は無意味ではない。三首目、私たちは〈今〉という時を生きているので、それ以外は昨日という名の過去に埋没する。四首目、光溢れる未知の部屋に入るのには勇気が要る。だから背中でドアを押しながら入るという。何かの喩とも読める歌である。五首目、赤ん坊はこの世に生まれればもう帰る所はない。赤子が泣くのはそのせいだという。師の藤井常世に「血によりてれたるものよきよきゆゑ修羅のはじめの声あげむとす」という歌がある。

 情景描写の中に感情の水脈が走るという作風は、師の藤井に学んだものかもしれない。

よじれつつのぼる心のかたちかと見るまに消えし一羽の雲雀

                 藤井常世『紫苑幻野』

咲き急ぎ散り急ぐ花を見てあればあやまちすらもひたすらなりし

抱きゐる闇ふかきゆゑ枇杷の木もわれもひそけき花保つべし

                     『草のたてがみ』

 藤井の歌を読むと言葉の陰に隠れた感情の濃密さが感じられ、ここにあるのは単なる言葉としての言葉ではないとも思われる。種市の短歌も写実としての情景描写ではなく、言葉の背後に何らかの強い感情や深い想いを隠しているようだ。それはとりわけ次のような歌に感じられる。

子が唄ふ〈ロンドン橋〉はくりかへし架けては落つるまぼろしの橋

結び目と思ふ記憶はほどかれてその人となる古木こぼくの木瘤

巻くものの何も見えねば自らを縛りて空を泳ぐ藤蔓

折れ曲がる光のために誰も彼も胸にひとつの虚像やしなふ

行く先をあへて思はずいまここに桜並木の終はりの暗渠

 一首目、「ロンドン橋は落ちた」(London bridge is broken down)はマザー・グースの童謡。唄われる度ごとに橋が落ちるというのは、現実と幻想の皮膜に架かる虹のごときものか。二首目は「狂言『萩大名』に寄す」と題された連作中の一首。三首目、藤蔓は藤棚や他の木に巻きついて育つが、ここにある藤は巻きつくものがない。まるで自分自身を縛っているかのようだという歌。藤を眺める目に強い感情が感じられる。四首目は逃げ水を詠んだ歌。夏の暑い盛りに見られる逃げ水は、地表の熱によって空気の層ができて光が屈折するために起きる。それを私たちが持ちやすい虚の思念に喩えた歌である。五首目の桜並木と暗渠は人生の喩にちがいない。これらの歌に用いられている言葉はまるで感情の磁力を帯びているかのようだ。

 その想いの向けられる先はさまざまであるが、いつも立ち返るのは人の生である。 

フラスコの中の泡なる一生と思ふ誰が手に揺るるフラスコ

刑期とも思ひ恩寵とも思ふ湯より鼻腔を出してしばらく

誰も彼も死を逃れえずゆるやかにボールは止まる泥水のなか

始まりも終はりもしらぬ芝居なり花房の下をひとはくぐりぬ

 人の生がフラスコの泡ならば、そのフラスコを振るのは誰か。今ここに生きているのは刑務所で刑期を勤めているとも、神から与えられた恩寵とも感じられる。ころがるボールがやがて止まるように、人の生の果てには死が待っている。人の生は始まりも終わりもわからない芝居のようだ。私たちはみな有限の生を生きているという冷厳な事実に思いを致すとき、パスカルの深淵に飲み込まれそうな思いがする。

 本歌集の中には職場詠や家族詠も収められているが、子を詠んだ歌に惹かれるものがある。

海ならむ空ならむ子はいちまいの布を両端より持ちあげて

みづからの影に手を振るをさなごに影はやさしく慕はしく添ふ

ぶらんこを漕ぐ足先は生まれくるまへの時間に触れて戻りつ

蝶ひとひ籠に閉ぢこめ弱りたるゆふべに放つ円環に子は

 布を広げて一人遊びに興じる子や、地面に落ちた自分の影に手を振る子を見る眼差しは温かい。とはいうものの子供可愛い短歌には陥っておらず、ブランコを漕ぐ子供の足先に時間の始原を感じたり、籠の蝶を空に放つ子にエリアーデ風の円環を感じる眼差しはユニークだ。

いくたびも錨をおろす夜の船に記憶の岸はがれていたり

それぞれの宿世は奪ふべくもなくあさゆふの鳥の声高くして

亡き人のことばを胸に降りるたび坂はうしろに燃えゆくリボン

音よりも音の置かれぬ空間の広さを思ひ、春、Solo Monkソロモンク

永遠に跳ぶ縄跳びの中にして蝶となりたる一瞬ありき

今日といふさやかなる日を投げ入れて記憶の川のひかり揺れをり

 心に残った歌を引いた。四首目のMonkはジャズ・ピアニストのセロニアス・モンク。音楽は時間の芸術だが、同時に空間の芸術でもある。五首目に詠まれた子供が縄跳びをする様子は歌人の想像力を刺激するようだ。塚本邦雄の「少女死するまで炎天の縄跳びのみづからの圓驅けぬけられぬ」という歌が思い出される。ただしここでは少女は蝶に変身する。六首目は巻末に一首だけ離して置かれた歌。作者の今の想いを詠んだ歌だろう。

 最後に余談になるが、国文学者にして詩人の藤井貞和が藤井常世の弟であることを初めて知った。ここにも折口信夫の系譜が続いていることになる。

「フランス語100講」第12講 主語 (3) – 主語と主題のちがい

 フランス語では主語は無標の主題としてはたらくこと、そして主語は主題が文法化されて生まれたものと考えられることを見てきました。では主語と主題はどこがどうちがうのでしょうか。いくつかポイントを見てみましょう。

 

(A) 主語は必須だが主題はなくてもよい

 フランス語では主語は動詞の活用を支配し、文にとってなくてはならないものです。このため天候表現のように主語を考えにくい自然現象にも非人称主語のilが必要なのです。このように何もささないilを虚辞 (explétif) と呼ぶこともあります

 

 (1) Il pleut à torrents.

  どしゃ降りだ。

 

このように主語は文法によって規定され要請される要素です。これにたいして主題は、相手に何を伝えるかという談話レベルの概念で、しばりも緩やかなものです。文によっては主題がないものもあります。

 

 (2) Une vieille dame entra dans la salle d’attente de l’hôpital Cochin.

   コシャン病院の待合室に一人の老婦人が入って来た。

 

 この文には主題がありません。このようなタイプの文は、出来事文とか現象文と呼ばれています。これについてはまた別の所でお話しします。

 

(B) 主語は文に一つだが、主題は複数あることもある

 主語は動詞の活用を支配するものですから、文に一つしかありません。Paul et Jean「ポールとジャン」のように複数の名詞が等位接続されているものは、全体がひとつの主語になります。

 

 (3) Paul et Jean sont partis en voyage.

  ポールとジャンは旅行に出かけた。

 

 主題は文がそれについて語るものですから、文あたり一つなのがふつうです。しかしそうではない場合もあります。私の指導教授の一人だったキュリオリ先生 (Antoine Culioli) が好んで講義で挙げたのは次のような文でした。こういうものは何十年経っても覚えているものです。

 

 (4) Moi, mon frère, son vélo, la peinture, elle est partie.

    僕、お兄ちゃんね、自転車ね、塗装がね、剥げちゃったんだ。

 

 この例では最初に並んでいる moi, mon frère, son vélo, la peintureは、「僕」→「僕の兄」→「兄の自転車」→「その塗装」とまるでリレーのようにつながっています。一つ一つを主題と考えれば、この文には複数の主題があることになります。ただし、文の主語のelleがさしているのは最後の la peintureですから、これがほんとうの主題で、残りはそれを導くための呼び水のようなものと考えることもできます。

 

 (5) Les élections législatives, je m’en fous, moi.

       国会議員選挙なんて、どうでもいいさ、俺。

 

 この例では文頭の les élections législatives 「国会議員選挙」が主題ですが、文末にもmoiが付いています。この人称代名詞自立形のmoiは、Moi, les élections législatives, je m’en fous.「俺、国会議員選挙なんて、どうでもいいよ」のように文頭に置くこともできます。ですからmoiは文の主題としてはたらくこともあるのですが、例 (5) のように文末に置かれることも多いのです。このmoiは「私について言うと」くらいの意味なので、文末のmoiも主題と見なすならば、(5) にも二つの主題があることになります。ただし、文頭のles élections législativesは明らかに主題ですが、文末のmoiは主題というよりは、文の内容が誰に関わるものかという「関与」を表すというはたらきのちがいを認めることができます。

 

(C) 主語は動詞の前に置くが、主題はそうでないこともある

 平叙文では主語は動詞の前に置かれるのがふつうです。

 

 (6) Les vins français sont appréciés dans le monde entier.

   フランス産のワインは世界中で高く評価されている。

 

平叙文でも次の例のように主語が倒置 (inversion) されて動詞の後に来ることがありますが、これについてはまた別の場所でお話しします。

 

 (7) Sur le boulevard défilèrent les soldats américains.

   大通りではアメリカ兵が行進した。

 

 一方、主題は文頭に置かれることが多いのですが、文末に置かれることもあります。

 

 (8) Il est à qui, ce briquet ?

   誰の、このライター?

 

 この場合は、「誰の?」という言いたいことを先に言ってから、後から思いついたように「このライター」と付け加えています。Ce briquet, il est à qui ?「このライター、誰の?」のように主題を文頭に置く構文を左方転位 (dislocation à gauche) 、(8)のように主題を文末に置く構文を右方転位 (dislocation à droite) と呼びます。(注1)TVドラマ「太陽に吠えろ!」で松田優作が演じたジーパン刑事が腹を撃たれた傷に触れて、「何じゃ、こりゃ!」と叫ぶシーンはよく知られています。ここでも「何じゃ」と言いたいことを先に言ってから「こりゃ」と主題を後から出しています。日常会話ではよくあることですね。

 

(D) 主題は定だが主語はそうでなくてもよい

 主題とはその文で話題の中心になっているものですから、話し手も聞き手も知っているものでなくてはなりません。このために主題は定 (défini) である必要があります。定なのは、固有名詞と定冠詞・所有形容詞・指示形容詞が付いている普通名詞です。これらの名詞は次のように有標の主題にすることができます。

 

 (9) La Joconde, tu l’as vue ?

   モナリザって見たことある?

 (10) Le nouveau prof de math, il est génial.

   新任の数学の先生やばいよ

 (11) Mon vélo, il est parti je ne sais où.

   僕の自転車どこかに行っちゃった。

 (12) Ces pommes, elles sont bonnes.

   このリンゴ、おいしいよ。

 

 不定冠詞と部分冠詞が付いている名詞は不定 (indéfini) で、聞き手が知らないものをさすので主題にできません。(注2)次の文はだめです。

 

 (13) *Une chaise, elle est cassée.

   椅子が一脚壊れている。

 (14) *Du café, je l’ai bu réchauffé.

   コーヒーは温め直して飲んだ。

 

 ただし不定冠詞が付いていても総称を表すときは主題にできます。総称 (générique) というのは、たとえばこの世にいる「犬というもの」全体をさす場合を言います。(注3)

 

 (15) Un enfant, ça salit tout.

   子供って何でも汚してしまう。

 

 このように主題を表す名詞句は定か総称でなくてはならないのですが、主語にはそのような制約はありません。主語は不定でもかまいません。

 

 (16) Un chasseur errait dans la fôret.

   一人の猟師が森をさまよっていた。

 (17) Des enfants jouaient dans le squarre.

   公園で子供たちが遊んでいた。

 

 ただし、すでに見たように主語は無標の主題ですから、無標とはいえ主題の性質も持っています。このため、実際に用いられる文では、主語は圧倒的に定が多数を占めています。エクス・マルセイユ大学のジャンジャン (Colette Jeanjean) の調査によれば、話し言葉では主語が不定の割合は2%〜2.8%にすぎないとされています。(注4)

 文頭を占める主語には定の名詞句や代名詞を置く傾向が強いため、たとえば (17)は次のように il y a構文を用いて表されることが多いのです。

 

 (18) Il y avait des enfants qui jouaient dans le squarre.

    公園には遊んでいる子供たちがいた。

 

 不定の主語として特に避ける傾向が強いのは、次の例のように部分冠詞の付いた名詞句です。このような文は容認度が特に低いようです。ですから定でも不定でもどんな名詞句も主語に使えるというわけではありません。次のような文は容認されません。

 

 (19) *De l’eau coulait sur le plancher.

   床に水が流れていた。

 

(E) 動詞は主語を選ぶが主題は選ばない。

 主語は動詞が表す意味に合ったものでなくてはなりません。たとえばmanger「食べる」という動詞の主語には、食べるという行為を行う人間か動物が選ばれるのがふつうです。(注5)これを動詞による主語の選択制限 (restriction sélectionnelle) といいます。(22)では石はふつうものを食べないのでおかしな文になってしまいます。このように動詞と主語のあいだには、意味の面でも緊密な関係が見られます。

 

 (20) Pierre a mangé une pomme.

   ピエールはリンゴを食べた。

 (21) Le chat a mangé du fromage.

   ネズミはチーズを食べた。

 (22) *La pierre a mangé du blé.

   石が麦を食べた。

 

 ところが主題はそうではありません。たとえば次の文では les huîtres「カキ」が主題ですが、それと呼応するような意味の動詞は文の中にはありません。主題はこのように文との文法的・意味的な関係が主語よりも緩いものになっています。

 

 (23) Ah, oui. Les huîtres, je crois que le restaurant de Paul est le meilleur.

       ああ、カキなら、ポールのレストランがいちばんだと思うよ。

                            (この稿次回に続く)

 

(注1)左方転位と右方転位のあいだには談話的なはたらきのちがいが少しあるが、ここでは触れない。また右方転位は後から思い出して取って付けたように置かれるので、英語ではafter thought「後からの思いつき」と呼ぶことがある。

(注2)ただし Des tiques, il y en a partout. 「ダニはどこにでもいる」のように、不定冠詞複数形のdesが付いた名詞は、中性代名詞のenで受け直すとき主題になれるが、この問題についてはあまりよくわかっていない。

(注3)(15)のように転位されている総称名詞句に不定冠詞 unが使われているときは、それを受ける代名詞はçaを用いる。これについてはまた別の所で論じる。

(注4)Jeanjean, Colette, “L’organisation des formes sujets en français de conversation. Etude quantitative et grammaticale de deux corpus”, Recherches sur la français parlé 3, 1981.

(注5)ただしmangerが比喩的に使われた場合は、Le soleil a mangé les couleurs du rideaux.「日光でカーテンの色があせてしまった」のように、主語が人間・動物以外のこともある。これは一種の擬人化である。

第411回 第71回角川短歌賞(2025年)

 今年の角川短歌賞の選考結果が角川『短歌』11月号に掲載された。短歌賞の受賞は船田愛子の「雪の影」であった。船田は2004年生まれで京大短歌会所属。昨年の角川短歌賞では藤島花の筆名で応募した「花を抱えて」で佳作に選ばれている。今回は本名に戻しての受賞である。

欄干に羽をたためる白鷺の像あり首に雪の積もりぬ

中庭の白木蓮に寄るひとに花芽の影の淡くうつりぬ

記憶という湖に手を浸さんとすれば魚の黒きかげ見ゆ

寛解と完治のあわい わが骨の髄に残火のごときはあらん

わが臓器をわれが捕らうることのなし薔薇窓に夕微光さしこむ

 選考委員のうち坂井修一と藪内亮輔が5点、中川佐和子が2点を入れている。藪内は、大病に罹った経験と医学人としての覚悟が上手く噛み合っていて、迫力もあり隙がないと評し、坂井は完成度が高く、難の無さで言うとこの一連が強いと推している。中川は、視線が透徹した冷めた感じがあり、また叙情的なところもあると控え目に述べている。一方、松平盟子は、評価しないのではなく、上手すぎるから点を入れなかったので、新人賞はどこか破綻があってもいいと意見している。

 上に引いた四首目を見ると、作者は過去に骨髄に関わる病気を患い、現在は寛解の状態にあるらしい。関西の医科大学に通って勉学中なので、患者の視点と医学生の視点とが両立しているのも特色だろう。

 若い歌人には珍しく新仮名遣いながら文語定型で、歌のレベルがとても高く揃っている。とりわけ三首目の「手を浸さんとすれば」という語法などを見ると、短歌の骨法をよく理解していることが知れる。また詠まれているものの大方は、微かな気づきやはかなく過ぎ行く事柄で、短歌という詩型の生理によく合っている。例年の短歌賞の選考座談会では、どの作品に賞を与えるかで激論が交わされることもあるが、今回は拍子抜けするほどあっさりと船田の作品に決まっている。2012年の第58回では、現在は選考委員を務めている藪内の「花と雨」が満票で受賞してみんなを驚かせた。これほどすんなり受賞作が決まるのはその時以来ではなかろうか。

 次席に選ばれたのは千代田らんぷの「待ち合わせ」である。

雨傘は雨に出会って雨傘になりその後は雨を弾いた

生きている動物たちに生きている私を見せに行く動物園

クレープの巻紙少しずつ千切る今日を忘れる練習として

相槌を打ちやすいよう美容師に架空の船の架空の航路

私のち私の空の下にいてレインコートの重さごと行く

 作者の千代田は1985年生まれで所属なし。昨年の角川短歌賞では「雨宿り」で佳作に選ばれている。藪内が4点を入れ高評価で、松平が2点を入れている。藪内は「何を前景として見せて何を後景とさせるかというところを操作して、認知のすり替え、ずらしを行っている」と述べ、松平は、最初この作品に5点を入れていたと明かす。ひとつのイメージの喚起力が非常に鮮やかで、ギリギリの危ういサーカスみたいにうまい形で結句につないでいると評している。

 千代田の短歌の特色はユニークな視点と、それを表現するための屈折した語法だろう。たとえば一首目、雨傘は雨が降って初めて雨傘になるという。売り場でも雨傘と日傘は区別して売られているので、屁理屈と言えば屁理屈だがその視点がおもしろい。二首目は視線の相互性を詠んだ歌で、見る者は同時に見られる者でもあるという気づき。五首目の「私のち私」など不思議な表現も目立つ。短歌賞の船田が近現代短歌の王道だとすれば、千代田の短歌は変化球のナックルボールというところか。

 佳作は伊藤汰玖の「ノット・オーバー」が選ばれた。伊藤は1982年生まれで「かばん」所属の歌人である。

連日の疲れがにじむ朝礼を「ご安全に」の唱和で締める

真上から怒声が降れば母国語で小さく愚痴る若い作業者

雨のなか薄れる街の輪郭と少し濃くなる街の体臭

夜光する繁華街では暫定の更地に闇が仮置きされる

明け方の道玄坂で魔改造キックボードが鴉を散らす

 松平が一人5点を入れ、渋谷を見る眼差しが現代の一面をよく表していて、その中で駒として働く人間のリアルが感じられると評している。これにたいして中川は、いい歌と表現としてこれはどうなんだろうという歌が混じっていて、渋谷の移り変わりを追い過ぎていると感想を漏らしている。 

 今回の受賞者の中では最も主題性が強く、歌の〈私〉の境涯が見える作品だろう。〈私〉は工事現場で働く作業員で、舞台は世紀の大改造が進行中の渋谷である。古いビルは解体されて更地となり、作業員の中には異国の言語を話す人も少なくないことが描かれていてリアルさはある。

 伊藤は2022年の第68回角川短歌賞でも「ショートスリーパーズ」で佳作に選ばれている。この作品では「誰を待つドン・キホーテの水槽の青い光に滲む少女は」、「内臓の何処かに積もる白砂が不意に欲しがる一杯の水」のように、作中主体も場面も不透明な歌が多かったが、今回の応募作ではそれがくっきりと見えるものとなっている。しかし都市の描き方がやや類型的かもしれないと感じる。

 もう一人の佳作は大津穂波の「次の季節」である。大津は1998年生まれで所属なしとある。

札勘の上手さで勤続年数が分かってしまう四年目の春

公用車数台多く停まりおり監事監査の朝の清しさ

シヤチハタのインクを補充するようにウイダーゼリー一息に飲む

またひとり同期が辞めて使わなくなってしまったLINEグループ

見慣れぬ駅を見慣れた駅にする時間きみと別れてからの車窓は

 中川が5点を入れている。中川は比喩や詩情の豊かさが微妙な心理につながっていて一位に推したと述べている。藪内は歌の決め方をよくわかっている人だとしながらも、エッセイや漫画でなく短歌の言葉である必然性があるのかと問うている。

 札勘はおそらく金融関係の現場用語でお札を数えることなので、作者は銀行か信用金庫に勤務しており、入社4年目を迎えているのだろう。転職する同僚もいるが、本人はそこまで踏み切れず勤め続けているという心の揺れが詠まれている。

 大津は京大短歌会のOGで、会誌『京大短歌』25号(2019年)に初めてその名が見える。26号に次のような歌を出詠している。しっとりとした抒情的な歌で、作者はこういう引き出しも持っていることがわかる。

何も手につかない昼の片隅に転がしている紙の風船

ティーバッグ引き上げるとき朝焼けのしずくこぼして鴫飛び立てり

 今回の短歌賞の応募は昨年よりやや少ないながら708篇あったという。内訳を見ると、20代が151名でいちばん多い。短歌や俳句という短詩型文学は高齢になっても続けることができるが、青春の輝きを詠んだ歌はその時にしか作れない。若い人たちに短歌が広まっていることは喜ばしい。

 

 

 

 

「フランス語100講」第11講 主語 (2) – 主語と主題

【無標の主題としての主語】

 前回の終わりに書いたように、フランス語で主語は無標の主題 (thème non marqué)としてはたらきます。その意味するところを少し見てみましょう。

 

 (1) Nicolas a oublié son parapluie dans le bus.

   ニコラはバスに傘を忘れた。

 

 (1)をふつうのイントネーションで発話したとき、この文は主語のNicolasについて何かを述べる文と解釈されます。(1) は次のような文に続けて使うことができます。実際の対話ではNicolasはilと代名詞化されますが、それはここでは考えません。

 

 (2) Quoi de neuf avec Nicolas ?

   ニコラについて何かニュースはあるかい。

    ─ Nicolas a oublié son parapluie dans le bus.

     ニコラはバスに傘を忘れたよ。

(3) Qu’est-ce qu’il a, Nicolas ? Il a l’air triste.

   ニコラに何があったんだい。しょげているよ。

     ─Nicolas a oublié son parapluie dans le bus.

    ニコラはバスに傘を忘れたんだよ。

 

 (2) (3) の文においてニコラは話題の中心になっています。このように「それについて語るもの」(ce dont on parle) を「主題」(thème) といいます。(1)の文は、「ニコラについて何か語るなら、彼はパスに傘を忘れたのだ」と言い換えができます。

 (1)では主語が主題を兼ねているので、主語を無標の主題と呼びます。無標というのは、特別な理由がない限り選ばれるものという意味で、デフォルトということです。

 

【主題の連続性の原則】

 ここまで述べたことを踏まえて、次の例文を見てみましょう。

 

 (4) Jean a frappé Paul au ventre. Il s’est mis à pleurer.

  ジャンはポールのお腹を殴った。彼は泣き出した。

 

 さて、泣き出したのはJeanでしょうか。それともPaulでしょうか。殴られた方が泣き出したと考えたくなりますが、正解は殴った方のJeanです。そう解釈できるのは、フランス語には次のような原則があるからです。(注1)

 

 (5) 3人称の人称代名詞の主語は原則として前の文の主語をさす。

 

 例文 (4) では前の文の主語はJeanですから、IlはJeanを指すと解釈されるのです。なぜこのような原則があるのでしょうか。それは「主題の連続性」(英 topic continuity / 仏 continuité thématique)のはたらきによります。主題とは話題となっているものですね。私たちが何かを話すとき、ある話題についてしばらく続けて話すことが多いでしょう。たとえば新しいカフェが駅前にオープンしたら、あの店のコーヒーはおいしいとか、あの店ではWifiが無料だとか、「新しいカフェ」がしばらくのあいだ話題の中心になるでしょう。これが主題の連続性です。もし「駅前に新しいカフェができた」に続けて、「今日のフランス語の授業は休講だ」、「私は昨日寝坊した」などと続けたら、話題がころころと変わってしまい、一貫した会話になりません。ですから主題の連続性はフランス語に限ったものではなく、どの言語でもある程度成り立つ普遍的な原則だと考えられます。

 ただし、(5) は談話の進め方についてできるだけ守るべきとされるゆるやかな原則で、文法の規則のように破ってはだめというものではありません。主語が人称代名詞ではなく名詞のときは、次の例のように新しい主語に変えても差し支えありません。

 

 (6) Claire est entrée dans le salon. Georges lisait le journal.

   クレールは居間に入った。ジョルジュが新聞を読んでいた。

 

 また (5) の原則が成り立つのは3人称の人称代名詞 il(s) / elle(s)に限られます。同じ代名詞で主語として使われる指示代名詞の ce には当てはまりません。

 

 (7) Hélène a vu bouger quelque chose au coin de la cuisine. C’était une souris.

   エレーヌは台所の隅で何かが動くのを見た。それはネズミだった。

 

(7)ではふたつ目の文の主語になっているC’ (=Ce) は、ひとつ目の文の直接目的補語 quelque choseをさしていて、主語の Hélèneをさしているのではありません。

 

【主題をスイッチする手段】

 それでは (4) の文に続けて、主語のJeanではなく直接目的補語のPaulを次の文の主語にしたいときにはどうすればよいのでしょうか。そのときは指示代名詞 celui / celle–ciという接辞を付けたものを使います。次の例を見てみましょう。女性名詞のla radioではなく、男性名詞のle radioとなっているのは男性の無線技師を指しているからです。(注2)

 

 (8) Le radio toucha l’épaule de Fabien, mais celui-ci ne bougea pas.

   無線技師はファビアンの肩に手を触れたが、ファビアンは身じろぎもしなかった。

                          (Saint-Exupéry, Vol de nuit

 

 mais以下の文でもし il ne bougea pasのように人称代名詞のilを使うと、前の文の主語のle radio「無線技師」をさすことになってしまいます。このように celui-ci は主語を別のものに切り替える手段となっています。

 このはたらきは指示代名詞 celui / celleの次のような用法に由来するものです。

 

 (9) La Seine et le Rhône sont deux grands fleuves français ; celui-ci coule vers le sud et celle-là vers le nord.

セーヌ川とローヌ川はフランスの二大河川です。後者(ローヌ川)は南に流れ、前者(セーヌ川)は北に流れています。(注3)

 

 もともとの直示的用法では接辞の –ciは話し手から近い場所を、-làは話し手から遠い場所をさします。名詞の後に付けて次のように使います。

 

 (10) Lequel préfères-tu, ce vélo-ci ou ce vélo-là ?

   こっちの自転車とそっちの自転車のどちらがいい?

 

 指示代名詞のcelui-ciは、〈指示形容詞 ce+人称代名詞の自立形 lui+接辞 –ci〉が組み合わさってできたものです。日本語で言うと「こっちのほう」くらいになるでしょうか。このように celui-ciは話し手に近いものを、celui-làは話し手から遠いものをさす直示的用法が基本だと考えられます。

 

【物理的空間からテクスト空間への拡張】

 ところが例文 (9) ではcelui-ci / celui-làは発話の場にあるものをさすのではなく、celui-ciは前の文にある le Rhôneを、celui-là はla Seineをさしています。これはどういうことでしょうか。フランス語には次のような原則があるのです。

 

 (11) 発話の場にあるものを直示的にさす言語記号は、テクスト内にある

   ものを照応的にさす記号として用法が拡張される。このときテクス

   トは擬似的な発話の場としてはたらく。

 

 このような用法の拡張によって、celui-ciはそれが用いられたテクスト上の場所から前にさかのぼって近い所にあるものをさします。(9)で近い所にあるのは le Rhôneですから、celui-ciはle Rhôneをさします。一方、eelle-làは遠い所にあるものをさすのでla Seineが先行詞となります。ですからcelui-ciは「後者」、celle-làは「前者」と訳すこともできるのです。

 このような発話の場という物理的空間からテクストという言語空間への拡張は、次のような例にも見られます。

 

 (12) Voici ce que tu dois faire. Finis tes devoirs et va au lit.

   今からお前がしなくてはならないことを言うよ。宿題を済ませて寝なさい。

 (13) On n’y pouvait rien faire. Voilà tout ce qu’il m’a dit.

   どうしようもなかったんだ。これが彼が私に言ったことのすべてです。

 

 voici / voilàは提示詞 (présentatif) と呼ばれていて、voiciは話し手から近いもの、voilàは話し手から遠いものを提示します。

 

 (14) Voici mon lit et voilà le vôtre .

     こっちが私のベッドで、そっちがあなたのです。

 

 この用法から拡張されて、(12)ではテクスト上でこれから述べることを、(13)ではそれまでに述べたことをさします。この用法ではこれから述べることが話し手から近いもの、今まで述べたことが遠いことと見なされています。

 

【有標の主題】

 主語は無標の主題ということはお話ししました。それでは主語以外のものを主題にしたいときはどうするのでしょうか。それには特別な統語的手段を使って、主題であることをはっきりさせます。特別な手段を使って主題としたものは、有標の主題 (thème marqué) といいます。フランス語では主に次のような手段が用いられます。

 

 (15) a. 転位構文 (dislocation) / 遊離構文 (détachement)

   主題となる語句を文頭に置き、それを文中で代名詞で受けます。i)では主語が、

   ii) では直接目的補語が転位されています。主題化 (thématisation) と呼ぶこと

   もあります。

   i) Mon père, il est terrible. うちのお父さんときたら、ひどいんだよ。

   ii) Cette poupée, je l’ai trouvée au marché aux puces.

    この人形はノミの市で見つけました。

   b. 主題標識

  Quant à 〜「〜については」、Pour ce qui est de 〜「〜に関しては」、Concernant〜「〜については」、A propos de〜「〜については」のような表現は、文頭に置いてそれが主題であることを示します。

   i) Quant à la rémunération, on en parlera plus tard.

       報酬についてはまた後で相談しましょう。

   ii) Pour ce qui est du tennis, Claude est le meilleur.

    テニスに関してはクロードが一番だ。

 

 有標の主題は談話の途中で主題を変更する場合などに使われます。

 

 (16) Ton père est gentil. Tu as de la chance. Mon père, il est terrible.

   君のお父さんは優しいね。君はついてるよ。僕の父ときたら、そりゃひどいんだよ。

 

 この例では最初は ton père「君のお父さん」が主題ですが、途中から mon père「僕の父」に主題が切りかわっています。         (この稿次回に続く)

 

(注1)フランスの学校でよく使われている E. Legrand, Stylistique française, J. de Gigordにも次のように書かれている。

Pierre a volé Paul ; il a porté plainte.

   On veut dire que Paul a porté plainte ; on dit en réalité que Pierre est à la fois le voleur et le plaignant. (…)En effet, quand deux propositions se suivent, il / elle , en tête de la seconde, représente toujours le sujet de la première. (Livre du maître, p. 68)

ピエールはポールから盗んだ。彼は訴えた。

 ポールが訴えたと言いたいのだろうが、実際にはピエールが泥棒であると同時に訴えた人であるという意味になる。(…)二つの文が続くとき、二つ目の文頭のil / elleは常に一つ目の文の主語をさす。        

(注2)朝倉季雄『新フランス文法事典』(白水社)の文例。 

(注3)京都大学フランス語教室編『新初等フランス語教本〈文法篇〉』白水社         

第410回 穂崎円『オメラスへ行く』

死にたいと殺してやるの境目に差し込みひらくうつくしい傘

 穂崎円『オメラスへ行く』

 歌集巻末のプロフィールによれば、作者の穂崎円ほさきまどかは2012年頃から作歌を始めたようだ。2019年に第30回歌壇賞候補、2019年に第1回笹井宏之賞の最終選考候補、今年 (2025年) 第68回短歌研究新人賞の最終選考を通過している。掲出歌は笹井宏之賞に応募した連作「くりかえし落日」の中の一首である。

 『オメラスへ行く』は今年 (2025年)の9月に刊行されたばかりの著者第一歌集で、佐藤弓生、東直子、岩川ありさが栞文を寄せている。岩川は早稲田大学教授で、現代日本文学、フェミニズム、クィアやトラウマ研究の専門家ということだ。歌集題名の「オメラス」とは、SF作家のアーシュラ・ル=グインの短編『オメラスから歩み去る人々』から採られている。架空の世界オメラスはみんなが幸福に暮らす場所だが、その安寧は一人の子供の不幸の上に成り立っているという設定の思考実験的デストピア小説である。小説ではオメラスから人が出て行くのだが、歌集題名ではオメラスに行くと方向性が逆になっている。そこに何かの著者の意図があるのだろう。

 余談になるが、アーシュラ・ル=グインの父親は人類学者のアルフレッド・クローバーで、母親シオドーラは『イシ ─ 北米最後のインディアン』を著した文化人類学者という家系である。ル=グインのSFに異世界構築型の小説が多いのは両親の影響だろう。

 著者の穂崎について私は何も知らないが、巻末のプロフィールに、BL短歌合同誌「共有結晶」vol.2-4編集部と、二次創作短歌非公式ガイドブック主催とある。BLとはboys’ loveの略で、男性同士の同性愛を扱った小説やコミックスに使われる用語で、BL短歌とはその短歌版である。また「二次創作」とはコミックスやアニメの登場人物を素材として自由に創作することをいい、コミケ(コミック・マーケット)に多く出品されている。また収録された短歌の初出を見ると、SFウェブマガジンなどが含まれており、サブカルチャーの世界と親和性の強い人物と見受けられる。『ヴァーチャル・リアリティー・ボックス』と題された私家版の歌集もあるようで、SFの世界とも通じているらしい。

ないことになるはずはなく薄明ににごった水の匂いがのぼる

死んでのち行く場所のこと まだ何の証も持たぬ査証ビザ欄の白

生きものは重たいにおい。雨の夜に捲り続けたグレッグ・イーガン

パスポート開いたままで押し出して許されるまでの霧の湖

光へと指紋をひたしながら待ついつか遺跡に変わる空港

 巻頭の「オデッセイ」と題された連作から引いた。三首目のグレッグ・イーガンはオーストラリアの覆面SF小説家。『しあわせの理由』、『ディアスポラ』などが邦訳されている。穂崎はあとがきで、「短歌をつくることは『本当のことを』『ありのままに』書くべきだ、それは誰にでも障害なくできることのはずだという要請・見解への苛立ち」を綴っている。生活実感と写生という近現代短歌の王道を真っ向から否定しているわけだ。ではそれに代わる作歌の手法として穂崎がめめざすものは何かというと、それは詩や小説などと同じ位相の創作としての短歌だと思われる。想像力を解き放って、ル=グインのように私たちが生きている現実とは異なる世界を創り上げること。連作「オデッセイ」では古代ギリシアの物語が枠組として利用されていて、テーマは「果てしない旅」である。査証、パスポート、空港などのキーワードからそれが読み取れる。このような作歌姿勢をとる作者の短歌を読むときには、歌の中に作者の生活の断片や、作者が投影された〈私〉を探すのは無意味だ。言葉の作り出す異世界に身を委ねるしかない。

 とはいえ短歌は抒情詩なので、どうしても歌の基底に何らかの感情が流れるのを避けることができない。また歌に使われた語彙から作者の心の傾きを感じ取ることもできる。そのような感情のベースラインを読み取ると、いくつかのキーワードが得られる。その一つは「喪失」である。

トランクを開ければすでに干上がってもう語られぬ係累たちよ

Longとはつまり一生、と気が付いてそれからずっと白夜のなかを

はじいても音を立てないプロフ写真砕かれていく暗い雑踏

生きるためのまぼろしをもう信じないまた起動するスクリーンセーバー

 二首目の詞書きに添えられたLong Covidとは、新型コロナウイルスに罹患した後に長く残る後遺症のこと。四首目のスクリーンセーバーをもう知らない人もいるだろう。パソコンのモニターがブラウン管だった頃に、画面の焼き付きを防止するために流す画像のことで、私は空飛ぶトースターを使っていた。これらの歌に通底するのは何かを失ったという感覚である。ゲームやアニメの世界では核戦争で荒廃した世界などが舞台になることがよくあるので、そんな設定と関係しているのかもしれない。

 もう一つよく出くわすテーマは「死」である。

くりかえし死ぬ狼の疾走を硝子をへだてて雨などと呼ぶ

キューブラー・ロスの受容は五段階ここは踊り場のような明るさ

まだ死ぬと知らない頃の君の声どの声の君も死ぬって知らない

うたふとき口腔暗く光りたりいかな死者にも翼のなくて

 二首目のキューブラー・ロスは精神科医で、人が死を告げられたときにそれを受け入れるのには五つの段階を踏むと提唱したことで知られる。歌の中の「ここ」は私たちが生きている今・ここである。何人も生の果てには死が待っている。現在はロスの五段階のどの段階かと問うているのだ。三首目には物故した歌手のアルバムを聴いているという背景がある。このように繰り返し現れる主題を通じて、作者の心がどこに向かって傾いているかを感じ取ることができる。言葉を使う以上、それは避けられずどこかに着いて来るものだ。

 集中には音楽のライブを詠んだ歌や、アイルランドの文化や音楽に想を得た歌もあるのだが、ちょっと不思議なのは「カタコンベの魔女」と題された連作である。

被災地に行きて目視で数へよと長(おさ)は言ひきと遠風にこゑ

表下にアステリスクの付記増えぬ─調査時点、地震なゐ、津波、死者

死者達の数の寄せくる気配して紙の真白をしばし恐れつ

 東日本大震災を背景とした連作だと思われる。ここでは旧仮名が使われているが、それは著者によると異なる「声」を持つためだという。歌の中の〈私〉はどうやら震災対策本部のような部署で、震災で亡くなった人のリストと統計を作成する仕事をしているらしい。短歌は創作という立場をとる作者だが、現実の共鳴はいやおうなく伝わって来るということか。

それぞれに悲鳴を上げる方法は異なっていて静かな水面

書棚にも水際のありてあふるれば鳥野辺のごと積まれ行くのみ

差し出せば両のてのひら湿らせる死者の名前のごとく流水

折れ曲がる自分の影に囲まれてヴァイオリン弾きが弾く変拍子

海馬という無性の馬を曳きながらひたすらに行く霧雨のなか

海よりも遠い記憶を懐かしみひとは左右に耳たぶひらく

花びらは音もたてずにひび割れて終わらない神さまの金継ぎ

美しい古代神話のように見るWikipedia・ブラキストン線の項

 特に心に残った歌を引いた。最後の歌のブラキストン線とは、本州と北海道の間にある生物境界線のこと。二首目は大いに共感した歌だ。書棚の水際とは、本が置かれた場所とまだ置かれていない場所の境目だろう。本が増えると水際はどんどん後退する。やがて置く場所がなくなり、本は床に山積みされることになる。愛書家なら誰もが知っていることだが、本は背表紙が読めて、すぐ取り出せるように書架に縦に並んでいないといけない。横向きに山積みされた本はやがて死ぬ。本にも生命というものがある。歌の中の「鳥野辺」が平安京以来死者の遺骸を風葬していた場所をさすのなら、「鳥辺野」が正しいのではなかろうか。「ヴァイオリン弾きが弾く変拍子」の増音破調や、「終わらない神 / さまの金継ぎ」の句割れ・句跨がりなど韻律に関わる修辞もうまく処理されている。

 一風変わったテイストを持つ歌集で、現在の短歌シーンでは伝統的な写生・写実によらない歌風を持つ作者が増えていることを感じさせる。

 

 


 

「フランス語100講」第10講 主語 (1) – 主語とは何か

 第8講の文(1)に書いたことですが、フランス語や英語のような欧米の言語では、文の基本構造は〈主語+述語〉(sujet+prédicat)だとされています。「主語」という用語は、中学校の英語の授業で初めて耳にする人が多いでしょう。しかし文の組み立ての基本だとされているにもかかわらず、主語とは何かをきちんと定義しようとするとなかなか面倒なのです。代表的な定義をいくつか見てみましょう。

 (1) La grammaire traditionnelle définit le sujet comme celui qui fait ou subit l’action exprimée par le verbe. C’est ainsi un terme important de la phrase puisqu’il est le point de départ de l’énoncé et qu’il désigne l’être ou l’objet dont on dit quelque chose en utilisant un prédicat.          

  (Jean Dubois et als. Dictionnaire de linguistique, Larousse, 1973)

伝統文法では、主語を、動詞によって表現される行為をするもの、または受けとるものと定義する。それゆえ、主語は発話の出発点でもあり、また人物や事物を指し、それについて述語を用いることにより、何かを語るものであるので、文の重要な辞項である。

   (伊藤晃他訳『ラルース言語学用語辞典』大修館書店、1980)

 まず伝統文法の定義が挙げられています。動詞が表す行為をするもの、または受けとるものというのは次のようなことを想定しています。

 

 (2) Le directeur a grondé Julia.

   部長はジュリアを叱った。

 (3) Julia a été grondée par le directeur.

   ジュリアは部長に叱られた。

 

 (2) の能動文では部長が「叱る」という行為をする人で、(3) の受動文ではジュリアが「叱る」という行為を受ける人です。つまり主語とは、能動文では動作主 (agent) で、受動文では被動作主 (patient) であるという意味論的な概念によって定義されています。しかしよく考えてみてください。(2)の能動文ではジュリアが動作を受ける人ですが、主語ではなく直接目的補語です。また(3)では部長が動作をする人なのですが、これも主語ではなく動作主補語 (complément d’agent) です。これはちょっとまずいですね。どれが主語かを判定することが、能動文・受動文という態 (voix) に依存しているからです。

 上の定義の後半では、「それについて何かが語られるもの」(ce dont on dit quelque chose) と述べられています。しかし、現代の言語学では「それについて何かが語られるもの」は「主題」(thème / topique) と呼ぶのがふつうです。主題というのは談話文法でよく使われる概念です。実はアリストテレスのいう主語 subjectumは、sub-「下に」+ jectum「投げ出された」で、「これからこれについて話しますよ」と相手に提示するもののことで、今で言う主題に近い概念です。こうして見ると、上に挙げられている伝統文法による主語の定義は、意味論の概念と談話文法の概念をミックスしたものになっていて、ほんとうの意味で文法的な定義とは言いにくいものです。

 次の定義はこれとはちょっとちがっています。

 (4) SUJET. Ce mot dénote la fonction assumée par le terme ou le membre qui confère à un verbe ses catégories de personne, de nombre et éventuellement de genre. Il a donc une valeur strictement grammaticale et n’est pas à confondre avec les termes qui évoquent l’agent, le siège ou le patient du procès.

(Wagner, R. L. et J. Pinchon, Grammaire du français classique et moderne, Hachette Université, 1962)

主語。この語は、動詞に人称・数そして場合によっては文法的性のカテゴリーを付与する語句または文要素が担う機能を指す。したがって主語は完全に文法的な価値を持つものであり、動作主や行為の座や被動作主といった概念を表す用語と混同してはならない。 

 おやおや、ヴァグネールとパンションは、「動作主や被動作主と混同してはならない」とわざわざ伝統文法の定義に陥らないよう釘を刺していますね。彼らによれば、主語とは、文の中核的要素である動詞の人称・数を支配するという文法的機能のみによって定義されるものです。

 もうひとつ見てみましょう。代表的な文法書である Le Bon usageのものです。ここではJean rougit.「ジャンは顔を赤らめる」という2語からなる文を例に挙げて、どのような基準によって主語と判定するかが論じられています。それによると主語は次の4つの基準によって特徴づけられるとされています。

 

 (5) a. 語順:平叙文では先に来るのが主語

   b. 品詞:主語は名詞で、述語は動詞

   c. 活用の支配:主語は動詞の人称・数を決める

   d. 主題:主語はそれについて何かを述べるもの (ce dont on dit quelque chose)

 

 ところが同書ではこれに続けてこのような基準を満たさない例を挙げて、Par conséquent, il est impossible de donner du sujet et du prédicat des définitions qui satisfassent entièrement. 「したがって、主語と述語に完全に満足のいく定義を与えることは不可能である」と匙を投げる始末です。

 

【主語とは相対的概念である】

 現代の言語学で主語をめぐる議論は1970年代から80年代にアメリカで盛んに行われました。その代表的なものはキーナン (Edward Keenan) の研究です(注1)。その研究のなかでキーナンは主語が持つ計30ほどの特徴をリストにしています。それらはおおまかに4つのグループに分かれます。代表的な特徴だけ挙げてみましょう。

 

 (6) 主語の特徴

 (A) 指示の自立性 (autonomy principles)

  i) 主語は文に不可欠の要素である、ii) 主語名詞句は自立した指示を持つ

 (B) 格表示 (case marking properties)

  主語名詞句はしばしば格の表示を持たない

 (C) 意味役割 (semantic role)

  主語名詞句は能動文では動作主、受動文では被動作主の役割を持つことが多い

 (D) 直接支配 (immediate dominance)

  Sノードに直接支配され、動詞の人称・数を決める

 

 キーナンは、このように主語を定義する特徴を列挙した上で、ある言語Lでこれらの特徴をいちばん多く持つ要素を主語と認定することを提案しています。つまりある要素が主語であるかどうかは程度問題ということです。(注2)世界中の言語を考慮に入れて主語を定義しようとすると、どうしてもこうなってしまうのですね。

 しかし心配することはありません。フランス語では主語はとてもはっきりと定義することができます。それは上に挙げたヴァグネールとパンションの主語の定義に近いものです。次のように考えればよいでしょう。

 主語は、i) 文に不可欠の名詞句・代名詞である

     ii) 動詞の人称・数を支配する 

この定義によれば、次の例文のボールド・イタリック体の語句が主語となります。

 

 (7) Paul adore les macarons.

  ポールはマカロンが大好きだ。

 (8) Il me serait agrébale de vous rencontrer.

  あなたにお会いできればうれしいのですが。

 (9) Il lui est arrivé un grand malheur.

  彼(女)の身に不幸な出来事が起きた。

 (10) Ça, c’est une autre histoire.

  それはまた別の話だ。

 

 (8) と (9) は非人称構文ですが、非人称主語のilは文に不可欠であり、動詞の人称・数を決めているので上の条件を満たしています。(de) vous rencontrerや un grand malheurを実主語とか真主語と呼ぶかどうかはまた別の問題です。どうしてフランス語ではこのようなシンプルな定義で済むのでしょうか。

 

【主語優位言語と主題優位言語】

 注(1)に挙げた Subject and Topicという論文集に収められているリーとトンプソンの論文(注3)は新しい類型論を提案してその後の研究に大きな影響を与えました。その類型論によると、世界中の言語は主語 (subject) が優位な言語と、主題 (topic) が優位な言語に分けられるとされています。(注4)

 フランス語や英語は典型的な主語優位言語 (subject prominent language) です。主語優位言語では、主語は文に欠かせない要素で、また文中の名詞句のどれが主語かを比較的はっきり判定できるとされています。このような言語では〈主語+述語〉が文の基本的な構造となります。(英)It rains. / (仏)Il pleut.「雨が降る」のような非人称構文を持つのもこのタイプの言語の特徴です。どうしても主語が必要なので、何も指さない it / ilのような意味的に空の要素を主語に置くのですね。

 一方、中国語や日本語は主題優位言語 (topic prominent language) です。このような言語では〈主題+解説〉(topic+comment) という構造が文の基本となり、主題は明らかならば省略できるので、「車の運転できますか?」という質問に「できます」と解説だけで答えられます。主題卓越言語では、主語がはっきり定義できなかったり、「象は鼻が長い」のようないわゆる二重主語構文があるのが特徴です。

 日本語とフランス語がこのように異なる類型に属していることを知るのも、フランス語を学ぶ上で大事なことです。

 

【主語は文法化された主題】

 川本茂雄編著『フランス語統辞法』(白水社、1982)は、主語についてユニークな解説をしています。まず文とは何かを考えるにあたって、Fermé「閉め切り」、Horrible !「おそろしい!」のように、単語ひとつからなるものを挙げて、これを一肢文と呼んでいます。ひとつの要素からできているという意味です。たとえばドアにFermé「閉め切り」という貼り紙があるとしましょう。閉め切りなのは貼り紙が貼られたドアですから、これはCette porte est fermée.「このドアは閉めきりです」という意味です。この「〜は」の部分を主題 (thème) と呼びます。この場合のように、使われている状況から主題が明らかならば主題は省略されます。Ferméは説述 (propos) (注5)といい、一肢文は主題を省略して説述のみからなる文です。

 次に二肢文が挙げられています。Moi, mentir !「僕、嘘付くって!」、Cela, impossible !「そりゃあ、出来ないことだ!」のように、ふたつの単語からできている文です。二肢文では、Moiが主題で mentir ! が説述になります。これに続けて同書では次のように述べられています。

 (11) 上掲の例において、 « Maman, partie. »は « Maman est partie. », « Cela, impossible ! »は « Cela est impossible ! »とほぼ同じ意味をもつものである。このことから、主題は文法において〈主語〉と一般に称されるものに近いということがわかるであろう。(…)多くの文が主語を備えているという事実は、何らかの説述が行われるためには主題が与えられることが必要であり、主題はしばしば文法上の主語として表されるものであことを、ここにすでに予見することができる。(同書、p. 15)

 ここには〈主題+説述〉という関係が〈主語+述語〉の関係へと発展していったというニュアンスが読み取れます。現代の言語学ならば、「主語は文法化された主題である」と言うところです。このため現代フランス語においても、主語は無標の主題 (thème non marqué) として働きます。「無標」というのは構造主義言語学の用語で、特に理由がないときに選ばれる要素、つまりデフォルト要素ということです。

                      (この稿次回に続く)

 

(注1)Keenan, Edward L., “Toward a universal definition of ‘subject’”, Charles N. Li (ed.) Subject and Topic, Academic Press, 1975.

(注2)”Thus the subjecthood of an NP (in a sentence) is a matter of degree.” (Keenan, op. cit. p. 307)「このように(ひとつの文で)どの名詞句が主語であるかは程度問題ということになる」

(注3)Li, Charles, N. & Sandra A. Thompson, “Subject and topic: A new typology of language”, Charles N. Li (ed.) Subject and Topic, Academic Press, 1975.

(注4)正確には提案されているのは4つのタイプである。i) 主語が優位な言語 ii) 主題が優位な言語 iii) 主語も主題も優位な原語 iv) 主語も主題も優位ではない言語。日本語は iii) に分類されているのだが、フランス語と対比させるために、ここでは日本語は主題が優位な言語として話を進める。

(注5)『フランス語統辞法』の用語をそのまま用いている。本稿では説述とは言わず、解説 (commentaire) と呼んでいる。thèmeと proposは、Charles Bally, Linguistique générale et linguistique française, Editions Francke, 1932が使っている用語。