第409回 上川涼子『水と自由』

ながくひかりを吸つてこころはうつろふとしてピンホールカメラにのこる冬の市

上川涼子『水と自由』

 大幅に字余りの歌で全部で38音節ある。おまけに句の意味の係り方がよくわからない。「ながくひかりを吸つて」はピンホールカメラに繋がるのだろう。ピンホールカメラは露光時間が長いからだ。カメラには冬の市の風景が上下逆さまに写されている。しかし途中に挟まれた「こころはうつろふとして」が行き所なく漂流する。いったい誰の心なのか、ピンホールカメラとどんな関係があるのか、また連語的接続助詞の「として」が何と何を結ぶのかも不明である。この句はあたかも独り言か心内語でもあるかのように歌の中を浮遊する。これは景物を視覚的に描く伝統的な短歌の作法ではない。しかし「ひかり」と「うつろうこころ」と「冬の市」がゆるやかに結びつけられて、言葉は詩的浮揚を果たし、そこに清新な詩情が生まれている。はたして作者は短歌に手を染める前に詩を書いていたというからむべなるかなと言えよう。

 作者の上川涼子は1988年生まれで、未来短歌会所属、短歌同人誌「波長」同人。『水と自由』は第一歌集で版元は現代短歌社。詩人・小説家の小池昌代、詩人の石松佳、歌人の菅原百合絵が栞文を書いている。この人選にも作者の立ち位置が現れているようだ。

 歌集題名にも含まれているが、本歌集は「水の歌集」である。水を詠んだ歌がたくさん収められている。いくつか引いてみよう。

(サイン・コサイン)(サイン・コサイン)わづかなる波紋は雨にみひらきて消ゆ

如雨露よりみづ降らせをり降るみづは鳥の喉ほどやはらかく反る

カミツレの石鹸をうすく湿らせてみづは春へと流れゆくべし

水鳥のかばねは昏くまろやかにみづに研がれし石のごとしも

水の肌くぐりて水の影うごく光の視力届くかぎりを

 一首目の(サイン・コサイン)は、水面に重なりながら拡がる波紋を正弦波に喩えたものかと思う。「雨にみひらきて」に目を開く喩があるので二重の喩となっている。二首目は庭の植物に撒水している場面を詠んだ歌で、今度は如雨露の水である。集中に「放尿の抛物線のごとく昏れ犬につづいてゆく人の影」という歌があり、作者は物が描く曲線に関心があるようだ。三首目は浴室の歌。「カミツレ」はカモミーユとも呼ばれるハーブの一種。香りか高くハープティーにも用いる。浴室から流れ出す水の行方は春である。四首目の「ごとしも」は昨今あまり使わなくなった表現だが、水鳥の屍骸を川の流れで丸くなった石に喩えた歌。五首目はいちばん作者らしい歌で、水の中を水の影が動くと表現するところがおもしろい。

 あとがきに「水は一日をとおして色を転じながら、しかし闇を湛えても透明です。そのように澄んだ眼で、あるいは文体で、一切を見透すことができたら、と水のめぐりに思います」と書かれており、水の清澄と透明にひとかたならぬ憧憬を覚えていることが知れる。また次の一種が印象に残る。

景物はぬれて映れりみづうすく張りてひらける人の眼に

 この水は目の角膜の表面を覆っている涙である。人の目はいつも濡れていて、私たちは涙を通して現実を見ているということにはっと気づかされる。

 一巻を読んでいて注目されるのは作者の繊細な感性である。

音の名で楽譜を歌う直截は手をつなぐときの骨の直截

はつあきの産毛にふれてゐるごとし夜半ふかく動く大気を聴きて

活版が紙をりたる稜を撫でいまゆつくりと詩行へと入る

淡き輻を風に吹きゆくたんぽぽに風の面もわづか崩れき

釘の上に帽子を掛けて夜がふつと近くなるふつとやはらかになる

 一首目、楽譜に書かれた音符を歌詞ではなくドレミで歌うと、音楽により近く触れる気がする。それを手をつないで感じる人の骨との触れ合いに喩えている。二首目、秋の夜更けに感じた空気の動きが産毛に触れるようだというのは見た覚えのない喩。三首目、活版印刷の本のページには活字を押した窪みがある。それを指先で愛しんでから詩の世界に足を踏み入れるという美しい所作。四首目、蒲公英の花弁を自転車のスポークに喩えており、そこに吹く風はその抵抗で少し向きを変えるという微細な描写だ。五首目もおもしろい。帽子掛けに帽子を掛ける。すると夜が近く感じられるという。いずれも物との触れ合いを繊細な感覚で捉えている。

 次に引く歌にはどれにも詩的飛躍があり、読んでいてとても楽しい。

月、そしてそこから冷えてゆく音叉 ひかりにみちて鳴ることもなし

指をぬらして傘を結はふるひとときの透明な透明な都市の花束

飛来地に立つのは素足 ベランダにこの世のどこかから夜が来る

蠟梅や モジュラーシンセサイザーの回路にめぐり逢ふ0と1

冷えびえと床にビー玉散りみだれ乱り尾をひく孔雀見ゆ、見る

 月と音叉、ビニール傘と花束、渡り鳥の飛来地とベランダ、蠟梅とモジュラーシンセサイザー、ビー玉と孔雀の間に詩的飛躍があり、これらの歌を読むとき、私たちの脳内シナプスの接続がふだんは使わない形に組み替えられる思いがする。それが詩や短歌や俳句を読むときに私たちが感じる根源的体験に他ならない。

豹のを模る蓋の重さにて壜のなかなる香気うごかず

いちまいの羽根、放たれてしばしのち時の錘りに鎮むまで見つ

釣り糸にとほくつながる食卓にペスカトーレの海老はすはだか

同じ川に二度は入れず真鍮のちひさき把手ノブを引きてもどれり

春雷にしたがひ暗き帆を立つるグランドピアノに影ゆきわたる

水平線のあたりしづかに足折りて瞑るけものよ貿易船よ

 集中のあちこちに散りばめられた貴石のようなこれらの歌を、川中の飛び石を渡るように楽しみながら読んだ。四首目の「同じ川に二度は入れず」という言葉を残したのは「万物は流転す」(パンタレイ)のヘラクレイトス。充実の一巻と言えよう。

       *        *        *

 元大阪大学学長で哲学者の鷲田清一氏が、朝日新聞の朝刊に「折々のことば」というコラムを連載している。2025年10月3日の朝刊に那須耕介さんの本の一節が取りあげられた。那須さんは大学の私の同僚で法哲学者だったが、病を得て若くして泉下の人となった。刀を振り上げて論破するような言葉ではなく、人の傷にやさしく触れるような言葉で語る人だった。近所にあるけいぶん社という書店の書棚の一角に、那須さんの著作がずっと置かれている。折に触れて立ち寄り一冊を手に取ると、那須さんの思想がその本の中に生き続けていることが感じられる。肉体は滅びても言葉は残る。

 

【追記】

 本歌集は第51回現代歌人集会賞を受賞した。おめでとうございます。

 

「フランス語100講」こぼれ話(3)─ duとdesをめぐる話

 フランス語の初級文法の最初の方に冠詞が出て来る。フランス語では原則として名詞には何かの冠詞が付いているので、早くから学ばなくてはならないのだ。不定冠詞 は単数形がun / une 、複数形がdesで、定冠詞は単数形が le / la 、複数形がlesであり、部分冠詞は du / de laと学ぶ。

 同じ頃に前置詞の deと定冠詞の縮約も登場する。deleduになり、delesdesとなる。ここでおかしなことに気づかないだろうか。deleが縮約したduは部分冠詞の男性形と形が同じで、delesが縮約したdesは不定冠詞の複数形と同じではないか。実にまぎらわしい。jouer du piano「ピアノを弾く」のduがどちらなのかはまちがう人が多い。これはdeleの縮約形である。一方、jouer du Mozart「モーツアルトを弾く」のduは部分冠詞だ。これはどういうことだろうか。

 もうひとつおかしなことがある。不定冠詞の単数形のun / uneと複数形のdesは形がちがいすぎる。おまけに複数形のdesは前置詞のdeと定冠詞のlesが縮約したものと形が同じだ。これも不思議なことである。

 このことを理解するには、フランス語がたどってきた歴史を振り返る必要がある。フランス語の親であるラテン語には冠詞がなかった。冠詞はラテン語からフランス語に変化する間に作り出されたものである。英語でもそうだが、不定冠詞の単数形は数詞の1の un / uneから作られた。古フランス語の時代には冠詞の体系は次のようになっていた。

 

       男性    女性

     単数  複数  単数  複数

 主格  uns         un

                                                  une        unes                   

 斜格  un           uns

 

 

 主格単数のunsの語尾の-sは、複数の印ではなく主格の印である。この表のうち斜格の形が残って、現代語の不定冠詞となった。unの複数形はもともとはunsなのだ。スペイン語は今でもそうで、不定冠詞の男性単数形はunoで複数形はunosである。このほうがずっとすっきりしている。ではどうしてdesunsにとって代わったのだろうか。それには部分冠詞の形成が関係している。

 部分冠詞は不定冠詞からずいぶん遅れて現れた。その形成過程は次のようである。まず前置詞のdeにはもともと何かの部分を表す意味があった。今でもその意味は残っていてIl a mangé de ces fruits.「彼はその果物を少し食べた」ように使う。定冠詞はラテン語の指示詞から発達したもので、le painには今のように「パンというもの」を表す総称の意味はなく、「目の前にあるパン」(現場指示用法)「(話題に出た)そのパン」(前方照応用法)を意味した。deleが縮約したものは当時はdelと綴ったので、mangier del painは「(特定の)そのパンの一部を食べる」を意味した。何かの一部なので部分冠詞 (article partitif)と呼ばれたのである。やがて定冠詞は総称の意味を持つようになり、それにともなって manger du painは今のように「(不特定の)パンを(少し)食べる」を意味するようになった。複数形のdesは使われることが少なかったが、類推によって同じように変化したと考えられる。manger des cerisesが「そのサクランボの一部を食べる」という部分の意味から、「サクランボを(少し)食べる」という不定の意味へと変わり、やがてunsを駆逐して不定冠詞複数形の場所に収まったのである。こうして不定冠詞は単数形が un / uneで複数形がdesという不ぞろいな形になってしまった。

 このように部分冠詞の男性形のduが前置詞deと定冠詞leの縮約形と同じ形をしており、また不定冠詞複数形のdesが前置詞deと定冠詞lesの縮約形と同じ形なのは決して偶然の一致ではなく、もともとは同じものだったから当然のことなのだ。

 少し古い時代の文法書では、desは不定冠詞ではなく部分冠詞の複数形としているものがある。たとえば次がそうだ。(注1)

Les formes de l’article partitif sont : du (anciennement de le, del, deu), de l’, de la, des (anciennement de les, dels).         

部分冠詞の形態は、du(古くは de le, del, deu)、de l’、de laとdes(古くはde les, dels)である。

 フランス語の歴史を考えれば、確かにこうまとめた方がすっきりしている。

 部分冠詞が前置詞deと定冠詞の縮約形に由来することを知っていると、次の文法規則がよく理解できる。前置詞deの次に不定冠詞複数形のdesや部分冠詞の du / de laが続くと、冠詞は削除されて名詞が無冠詞になる。

 

 (1) le toit couvert {de+des} ardoises → le toit couvert d’ardoises

   スレートで覆われた屋根

 (2) la table pleine {de+de la} poussière → la table pleine de poussière

   ほこりだらけのテーブル

 

ところが不定冠詞の単数形だけは削除されずそのまま残る。

 

 (3) Nous avons besoin {de+un} bon dictionnaire.

  → Nous avons besoin d’un bon dictionnaire.

     私たちにはよい辞書が必要だ。

 

 (1)をもし de des ardoisesとすると、元を正せば {dedeles} となり、前置詞のdeが二度重複して現れる。これはまずい。だから前置詞dedesが続くとdesは省略されるのだ。{dedele}も同じである。一方、不定冠詞の単数形の {deun / une}という連続には何の問題もない。だから不定冠詞の単数形は省略されないのである。

 最後に部分冠詞 (article partitif)という呼び名に異議を申し立てたい。何かの部分を表しているのは昔の用法で、今のフランス語では boire du vin「ワインを飲む」は、そこにある特定のワインの一部を飲むことではなく、不特定のワインを少し飲むという意味だ。何かの部分ではないので部分冠詞という呼び名はふさわしくない。今のフランス語では「非可算名詞用の不定冠詞」と呼ぶほうが実態に即している。(注2)

 

(注1)Anglade, Joseph, Notes sur l’emploi de l’article en français, Didier, 1930.

(注2)森本英夫『フランス語の社会学』(駿河台出版社、1988)で森本氏も、「部分冠詞」という呼び方は混乱のもとなので、いっそ不定冠詞は「数冠詞」、部分冠詞は「量冠詞」と呼び替えてはどうかと提案している。

第408回 岩岡詩帆『蔦の抒べ方』

仰がるるところ木蓮咲くゆゑにひかりを負ひて花暗みたり

岩岡詩帆『蔦の抒べ方』

 木蓮は早春の時期に咲く花である。白木蓮の方が早く開花し、紫木蓮はやや遅れて咲く。それほど高木ではないが、見上げる位置に花をつける。だから「仰がるるところ」なのだ。この助動詞「る」の意味は自発だろう。「おのずから仰ぎ見る」というほどの意味である。「ゆゑに」は因果関係を表すので、詩歌では嫌われる。因果は理知に属するからである。しかし短歌ではそれほどではなく、掲出歌では上句と下句とをうまく橋渡ししている。上句は「木蓮の花はやや見上げる位置に咲く」という一般論、もしくは百科事典的知識を述べている。そこに〈私〉はない。一方、「それゆえに」と続く下句は観察であり写生である。歌の中の〈私〉は逆光で花を見ている。日光が花の背後から差しているので、白いはずの花が暗く見えるのだ。この的確な描写によって、木蓮の花と歌の中の〈私〉との位置関係が明確に叙せられる。このように現実を理知的に把握し、それを歌に書き下ろす作風が作者の持ち味なのだ。また自然とともに歩む落ち着いた歩調も好ましい。

 最近、拙宅に届けられた歌集の中に注目すべきものがいくつかあったので、順次取り上げてゆきたい。今回は岩岡詩帆『つたべ方』である。作者の岩岡は未来短歌会に所属。2013年に未来年間賞を受けている。病床にあった岡井隆に師事することを許されたとあとがきにあるので、岡井の最後の弟子ということになろう。巻末のプロフィールに生年が記されていないが、文語(古語)を駆使し、難解語を多く使っているので、それなりの年齢の方とお見受けする。歌集を読みつつ辞書を引くことが何度もあった。本歌集には、石川美南、さいとうなおこ、山田富士郎が栞文を寄せている。歌集題名は「うつくしき書体のやうに罅に添ふ蔦には蔦の抒べ方のある」から採られている。

 歌集巻頭あたりからいくつか歌を引いてみよう。

日を追ひて満ちゆく月は重からむしづかにけふの手秤に載す

ほのしろく枇杷は咲きたり僧院の出入りわづかにふゆるこの頃

畝におく夜明けの霜のうすあおく火よりしづけく灼くもののあり

寒林を近づくひとの珈琲の湯気たなびけり神さびながら

抜きさりし本の厚みに薄闇のととのひてゐて寒の図書館

 一首目、新月から満月に向かって満ちる月は、まるで太ってゆくようで身体が重かろうと想像を巡らす。そんな月を手のひらに載せて支えてあげる仕草をする。上手いのは「けふの」だ。この一語によって〈私〉が生きる〈今〉という時間か現出する。二首目、枇杷の花は晩秋から冬にかけて開花する。この歌集にはキリスト教に関連する歌がいくつかあるので、僧院はおそらくキリスト教のものだろう。枇杷の開花という自然の営みと、僧院への訪れという人の営みとがゆるやかに結びつけられている。三首目、夜明け、田の畝に霜が降りている。それがガスの炎のように薄青く見えて、まるで畝を焼いているかのようだという歌。四首目、寒林は冬枯れの林という意味だが、その昔、インドの王宮近くにあった死体を捨てる林という意味もあり、転じて墓地を指すこともある。そこに手にコーヒーを持った人が現れるのだが、その様が神々しいという歌。五首目、〈私〉は図書館の書庫にいるのだが、誰かが借りたのか、本が一冊書架から抜き取られていて、その虚空間が薄闇をいっそう際立たせている。

 端正な文語定型で、言葉の斡旋をとっても句の連接をとっても、間然とするところがない。このレベルの歌がずらりと並んでいる歌集は滅多に見られるものではない。また特筆すべきは歌の季節感である。上の五首は「天体の庭」と題された連作から引いたのだが、歌の季節は冬で統一されている。後に続く連作は春・夏・秋の順に配されていて、最後はまた冬が巡って来るという構成である。あたかも古典の和歌集の部立にならったかのごとくである。

 一巻を通読して気づくのは、ほとんどが自然を詠んだ歌で、人事の歌がほとんどない。家族で登場するのは「寝返りてわがふところにゐるおさなすべらかに夜は球体をなす」などの数首の歌に詠まれた子供にとどまる。どうやら作者の関心事は自然の移りゆきと、その一部として含まれる〈私〉にあるようだ。

 とはいえ読み進むと次のような歌に出会ってはっと虚を突かれる思いがする。

やはらかくさざなみのるこの海にみづかねひそと流されをりき

すなどればじきにつながるかなしみの牡蠣殻れてうづたかきかな

しづけさに鳥帰る見ゆさきがけて戦はじめし国をさしつつ

花のさきに白き花ありいまもなほ硝煙とほくあがりつづけて

毀たれてぬかれし窓のひとつ見ゆ没陽のなかにイコンのやうに

 一首目の「みづかね」は水銀のこと。チッソの流した有機水銀によって引き起こされた未曾有の公害水俣病を詠んだ歌である。二首目にあるごとく有明海は有数の漁場だ。三首目以下はロシアによるウクライナ侵攻に想いを馳せた歌。作者の態度は時事を歌に詠む際にも、直截に怒りなどの感情をぶつけるのではなく、いったん身の内に引き取って、心の中に湧き上がる言葉によって出来事を綴るというもののようだ。

 栞文の中で石川は「歌のなかに『今・ここ』以外﹅﹅の空間を立ち上げるのが抜群にうまい」と評し、それと呼応するように山田は「幻想と書いたが、幻想から出発するのではなく、言語表現をていねいに錬磨してゆく過程で自然に生まれてくるもののように思える」と述べている。また石川は「岩岡作品においては、しばしばこのような喩と実景の反転が起きる」とも書いている。二人とも「幻想」「異界」と「喩」との関係に着目しているのだ。少し見てみよう。

みづからの息の白さのなかにをり物語よりはぐれて鹿は

うす青き窓に来てをりクラバートその表紙絵のごとき鴉が

しづかなる春の海退ありしかにけふ花びらの嵩は見えざり

とほき世に蹴られし鞠も越えて来よ山吹咲きてあかるめる里

散文を読みすすみゆくしばらくは冬の灌木帯のあかるさ

 一首目、白く息を吐く鹿はまるで物語の中から出て来たかのように森のはずれに佇んでいる。「物語よりはぐれて」が喩で、白い息を吐く鹿が実景なのだが、両者は融合しているかのようである。二首目のクラバートはオフリート・プロイスラーのファンタジーの主人公で、表紙絵では人面の鴉として描かれている。「クラバートその表紙絵のごとき」が喩なのだが、この一首を読む人の脳裡にはクラバートの表紙絵の方が強く浮かぶだろう。三首目、「しづかなる春の海退ありしかに」が喩。海退とは海進の反対語で、地面の隆起などによって汀が遠ざかること。実景としては桜が散り、昨日まで見えていた一面の花が見えないということ描いているのだが、実景が不在だけに喩の印象が強まる。四首目の実景は山吹の咲く春の里だが、その昔に王朝人によって蹴られた鞠が時空を超えて来るという想像の方が歌の中で重さがある。五首目にも同様のことが言えて、実景の読書の有様は描かれていないため、灌木帯を進むような明るさという喩の方にハイライトが当たる。このように岩岡の作る短歌世界では、喩は単に歌の主意を際立たせるための修辞という役割を超えて、歌の実景と同じ比重で機能しているように思われる。

このうみを空としあふぐひともゐむ冥府あかるむ四月は来たり

黒揚羽あふられゆける八月の、光にかげとルビを打ちたり

水無月のすがりの坂を上りゆくとほき山河のみづをひきて

ゆつくりと息つくときにしづみゆく鎖骨しづかに夜の底ひまで

十薬を目路のかぎりに置きて去る五月の挙措のうつくしきかな

貝殻にヤコブ掬ひしみづうすき五月よわれもかすか渇して

 特に印象に残った歌からいくつか引いた。一首目の湖を空として仰ぐ人は、おそらくこの湖で溺死した人だろう。二首目の読点がなければ「八月の光」と繋がるはずだが、作者は「八月の」でひと呼吸置いて、「の」を間投助詞にしたかったのだろう。三首目はコンビニで南アルプスの水というミネラルウォーターを買って坂を登る場面を詠んでいるのだが、それをかくも典雅に描くとは言葉の魔術である。六首目のヤコブの貝殻とは、聖ヤコブが帆立貝の貝殻で水をすくったという言い伝えから。フランス語では帆立貝を「聖ヤコブの貝」(coquille Saint-Jacques)と呼ぶ。

 私が感服したのは次の歌である。

水差しの夜半は二重におく影のあはきひとつを指になぞりぬ

 ほんとうに影が二重になるものか実験してみた。硝子の水差しに水を入れ、部屋を暗くしてひとつの光源で照らしてみる。すると水が凸レンズのはたらきをするためか、影の中央に明るい部分ができる。どうもこれではないようだ。すると光源がふたつあって、ふたつの影が重なる部分が濃くなるということか。いずれにせよ作者が現実を知的に把握する様をよく表している歌である。

ほそき火をさらに細うす 冬瓜を煮てをり神の時間のなかに

筋道のしき葉脈透けながらイザヤの書には桑の木のこと

声ひたにキリエをうたふ重なりは翅脈のやうにをひろげつつ

油を足して均せる生地に陽のぬくみカナンしづかにいまだあるべし

丸椅子にかけて夕餉を待つイエスあかがね色の鍋のとなりに

 集中にはキリスト教につながる歌が散見される。作者はキリスト者ではないにせよ、キリスト教に親和性を持つ人なのだろう。そんな人にとっては移りゆく季節の時間は神の時間なのだ。歌を読んでいて狭小な〈私〉を超えるものへのまなざしを感じるのはそのためかもしれない。

 

「フランス語100講」第9講 フランス語の基本文型

 フランス語の文法書で基本文型についてきちんと説明しているものは意外に少ないものです。基本文型とは、疑問文・命令文・感嘆文などを除く平叙文の主節において、どのような要素がどんな順序で並ぶかをタイプ分けしたものをいいます。英語ではふつうSV、SVC、SVO、SVOO、SVOCの5文型を習うことが多いでしょう。不思議なことにフランス語ではこのように教えることはあまり一般的ではありません。

 文を形作る構成要素は、名詞・動詞・形容詞などのいろいろな品詞 (partie du discours) です。しかし、これらの品詞は文の中で文法機能 (fonction grammaticale) を持ちます。ですから基本文型は品詞ではなく、文法機能によって記述しなくてはなりません。フランス語の文の中で品詞が持つ文法機能には次のようなものがあります。(注1)

 

 (1) a. 主語 (sujet)

   b. 直接目的補語 (complément d’objet direct)

        c. 間接目的補語 (complément d’objet indirect)

        d, 状況補語 (complément circonstanciel)

   e. 属詞 (attribut)

 

 英文法の用語とのちがいに注意しましょう。英文法で補語 (complement)というと、次の例の斜体太字の部分をさします。

 

 (2) John is a teacher.

   ジョンは先生だ。[主格補語]

 (3) I found the book interesting.

   私はその本をおもしろいと思った。[目的格補語]

 

 しかしフランス語では英語の「補語」を「属詞」(attribut) と呼びます。フランス語で補語 (complément) というのは、主語と属詞以外のすべての句をさします。たとえば次の文では、主語のCélineと動詞の a rencontréを除いて、後は全部補語と呼ばれます。英文法では à la Gare de Lyon「リヨン駅で」のように場所を表したり、la semaine dernière「先週」のように時間を表す語句は「付加詞」(adjunct) と呼びますが、フランス語では補語になります。(注2)

 

 (4) Céline / a rencontré / une vieille amie / à la Gare de Lyon

         主語      動詞             直接目的補語           状況補語 

        / la semaine dernière.

                状況補語

        セリーヌは先週リヨン駅で旧友にばったり出会った。

 

 主語をS、動詞をV、直接目的補語をCOD、間接目的補語をCOI、属詞をAと略称すると、フランス語の基本文型は次のようになります。(注3)

 

 i) S-V  

       Jean travaille.

       ジャンは働いている(働く)。

  動詞は目的補語を取らない自動詞 (verbe intransitif) です。

 ii) S-V-A

        Annie est pianise.

  アニーはピアニストだ。

  Pierre restera célibataire.

  ピエールは独身のままだろう。

 動詞はコピュラのêtreの他に、rester「〜のままでいる」、devenir「〜になる」、paraîrre「〜のように見える」などの準コピュラ動詞 (verbe copulatif) です。属詞は主語にかかる主語の属詞 (attribut du sujet) です。

 iii) S-V-COD

        Luc regarde la télé.

  リュックはテレビを見ている(見る)。

  動詞は直接目的補語を取る他動詞 (verbe transitif) です。

 iv) S-V-COI

         Nicole ressemble à sa tante.

    ニコルは叔母さんに似ている。

         Lucie s’occupe de ses enfants.

   リュシーは子供たちの世話をする。

  動詞は間接目的補語が必要な間接他動詞 (verbe transitif indirect) です。(注4)

 v) S-V-COD-COI

          Karine a offert un stylo à son père.

    カリーヌはお父さんに万年筆をあげた。

  動詞は直接目的補語と間接目的補語の両方を取る動詞です。

 vi) S-V-COD-A

          Je trouve ce flim intéressant.

           私はこの映画はおもしろいと思う。

  属詞は直接目的補語の属詞 (attribut de l’objet direct) です。

 

 ここでひとつ注意しておきたいのは直接目的補語と間接目的補語の見分け方です。英語には次のような二重目的語構文があります。

 

 (5) I gave Peter a book.

  私はピーターに本をあげた。

 

 Peterは間接目的語、a bookは直接目的語なのですが、どちらも裸の名詞で形だけでは見分けがつきません。しかしフランス語にはこのような二重目的語構文はありません。フランス語では動詞に続く裸の名詞が直接目的補語で、間接目的補語には必ず前置詞のàdeが付きます。次の例では前置詞のない un livreが直接目的補語で、前置詞のあるà Pierreが間接目的補語です。

 

 (6) J’ai donné un livre à Pierre.

  私はピエールに本をあげた。

 

 さて、上に示した i)〜vi)の基本文型は構文として必ず必要な要素だけをあげているので、状況補語や副詞などのその他の要素は入っていません。場所や時を表す状況補語は文の中のあちこちに置くことができますが、基本は次の三箇所です。

 

 (7) 文頭

   En France, on roule à droite.

   フランスでは車は右側通行だ。

 (8) 動詞の直後

   Le café occupe dans la vie des Français une place importante.

   カフェはフランス人の生活で重要な位置を占めている。

 (9) 文末

   Mon grand-père avait l’habitude de promener son chien dans le jardin public.

   祖父は公園に犬を散歩に連れていくのを日課にしていた。

 

 これ以外の場所に状況補語を置くときは、前後にヴィルギュール ( , )を置きます。ヴィルギュールに挟まれた語句は挿入句 (incise) となります。

 

 (10) Il est courant, dans beaucoup de pays, d’attendre que celui qui parle ait terminé pour prendre la parole.

   多くの国では話している人が話し終えるのを待って発言するのがふつうだ。

 

 では上にあげたフランス語の基本文型は、実際にはどのくらいの頻度で使われているのでしょうか。少し古い文献ですが、次のような調査結果があります。(注5)数字は見つかった用例の数です。順位が飛び飛びになっているのは、C’est構文やIl y a構文などの非人称構文を別に数えているからです。

 

 1位 S-V-COD     [415]

 2位 S-V-A         [244]

 3位 S-V           [234]

 4位 S-V-COI       [115]

 9位 S-V-COD-COI [16]

 13位 S-V-COI-COD [10]

 16位 S-V-A-COD   [6]

 

 数から見ると、上位の4位までが圧倒的に多いですね。9位や13位の目的補語を二つ持つ文は実際には少ないことがわかります。

 さて、基本文型を構成する主語や直接目的補語や間接目的補語は、それがなくては文が成り立たない必須要素です。これにたいして状況補語は場所や時間の情報を付け加えて文の意味をより豊かにするものとされています。

 しかしこう考えると都合の悪いこともあります。次の例文を見てみましょう。

 

 (11) Ma grand-mère habite à Nice.

   私の祖母はニースに住んでいる。

 (12) Je vais à Londres demain.

   私は明日ロンドンに行く。

 (13) Elle pèse quarante-huit kilos.

   彼女の体重は48kgだ。

 (14) Ce livre coûte vingt euros.

   この本の値段は20ユーロだ。

 (15) Je me souviens de cet événement. 

   その出来事は覚えている。

 

 (11)でもし à Niceを取ってしまうと、*Ma grand-mère habite.「私の祖母は住んでいます」となり、意味をなしません。他の例も同様です。同じ à Niceという前置詞句でも、次の例文では必須ではない状況補語です。à Niceを取り去っても文として成立します。

 

 (15) Claire a trouvé un bon appartement à Nice.

   クレールはニースでよいアパルトマンを見つけた。

 

 このため最近では (11)〜(14)の斜体太字の補語を complément essentiel 「必須補語」と呼ぶようです。この場合、補語はもう単なる「補い」ではなく、文とって必要な要素になります。

 ということは à Niceという前置詞句は、それ自体では省略可能な補語かそれとも必須補語かが決まっているわけではなく、(11) の動詞 habiterが必須補語を必要とするために、à Niceは必須補語という役割を果たしているということになるでしょう。この意味でも文を作る主役は動詞だと言えます。

 

(注1)(1)に挙げたもの以外に「同格」(apposition) を文法的役割に含めることがあるが、それがはたして適切かどうかは議論の余地がある。

(注2)「補語」(complément) という用語はフランス語の世界では古くから使われていて、人によって意味するものが少しちがうことがある。たとえば la montre de mon père「父の腕時計」のように名詞の意味を限定したり、Elle est allergique à la farine.「彼女は小麦アレルギーだ」のように形容詞の意味を限定する語句も補語と呼ぶことがある。

(注3)主語 (S) や直接目的補語 (COD) や属詞 (A) は文法機能 (fonction grammaticale)だが、動詞 (V)はそうではなく品詞である。したがってS-V-CODなどの基本文型は、文法機能と品詞が混在した不ぞろいなものである。このことは言語学では古くから認識されていた。ここでは伝統に従うものとする。

(注4)間接他動詞という分類を認めず、ressembler à 〜、obéir à 〜などを自動詞に含める立場もある。

(注5)Corbeil, Jean-Claude, Les structures syntaxiques du français moderne, Klincksieck, 1968.

第407回 白川ユウコ『ざざんざ』

蒼いまま眠れバジルよヴェローナの夕空をゆく鳥たちの声

白川ユウコ『ざざんざ』

 作者の白川は1976年生まれの歌人。「コスモス」編集委員であり、同人誌「COCOON」に所属している。第一歌集『制服少女三十景』、第二歌集『乙女ノ本懐』があり、本歌集は第三歌集にあたる。歌集題名の「ざざんざ」は集中の、「遠州のざっざざんざ風つよく松の木を打つざっざざざんざ」から採られている。強く吹く海からの風を表す擬音語で、オノマトペが題名になっている歌集は珍しい。雨宮処凜が帯文を寄せている。曰く、「ページを開いた瞬間、90年代から今に至るまでの爆裂にエモい風が吹き抜けてきた。」そう、作者の生年が鍵なのだ。ロスジェネ世代と呼ばれた就職氷河期を生きた世代どんぴしゃなのである。

 歌集を開いて驚いた。巻頭の「1999 キットカットとカッターナイフ」に収められているのはなんと自殺未遂の歌なのだ。

かつてわれ屋上の柵乗り越えし東急プラザ解体される

「落ちますよ!」「どいてくださーい」下に来たひとたちに言う大きな声で

神妙に靴を揃えてみたものの膝から下をぶらぶらさせる

パトカーが着いてわたしのはるか下、白いなにかを広げはじめた

警官は優しい声のおじいちゃんそんなに歳じゃないかもだけど

 鳥居の歌集を読んだときにも衝撃を受けたが、確か自殺未遂の歌はなかったように思う。幸い未遂に終わり、作者はその後の生を生きてこの歌集を編んでいるわけだが、ここまで赤裸々に過去を語る人も珍しい。その後にも「ローソンで『袋いいです』二十四時キットカットとカッターナイフ」、「無保険で生きてる友の妊娠の検査のために貸す保険証」などの歌が続く。カッターナイフを買ったのはリストカットのためか。まさに「生きずら短歌」で雨宮処凜が共感したのはこの辺りだろう。リアリティがありフィクションとは思えない。

 本歌集は1999年に始まり編年体で編まれており、作者の人生行路を順番に辿ることができる。

静岡を出でてわたしは三島にて産まれた人と浜松に住む

新居にはわたしひとりの部屋があり夫婦ふたりの暮らす浜松

浴衣見る松屋三越プランタン旧友は知るわが派手好み

結婚は散文的な生活で起承転結まだ「承」あたり

遠州の風にはアルミサッシ鎖したったひとりの耳鳴りを聴く

 作者は結婚して浜松の海辺にほど近いマンションに住む。あとがきの言葉を借りれば、「大きな病気や怪我もなく、喧嘩や失恋もなし、労働も不要、親は死なず子も産まれない、奇跡的な天下泰平の日々が続いた」という。この後は巻頭の歌のようにどっきりする歌はなく、生活のさまざまな場面で出会った事柄が詠まれている。おもしろいのはその視点と思いきりの良さである。

美酒うまさけの一升瓶は〈八海山〉妊る前に飲んでしまおう

御休憩したことありしホテル燃ゆ燃え落ちるべしニュースを見つむ

もはやわれを雹のごとくに叱る人あらわれるまい三十九歳

鏡台をまえに思ほゆこの世とは神様用のリカちゃんハウス

韓国の旅行を勝手に申し込みさすがに怒られたるが、仁川インチョン

一首目は新潟の銘酒八海山の一升瓶を妊娠しないうちに飲もうという酒飲みの歌。二首目は入ったことのあるラブホテルが火事で焼け落ちたという歌。短歌は抒情詩ということになっているので、ふつうはこういうことを歌には詠まない。それをあけすけに歌にするところが作者の個性で、こう言っては失礼だが歌の上手さよりも作者の人としてのおもしろさで読ませる歌である。三首目は不惑を目前にして、もう自分をひどく叱る人はいるまいという居直りの歌。四首目は発想が愉快だ。子供がリカちゃんハウスで遊び、人物を着せ替えたり家具を配置したりするように、天の神さまはこの世の私たちを操って遊んでいるという。五首目は夫に内緒で韓国旅行を申し込み、怒られつつも仁川空港に到着しているという歌である。ぺろっと舌を出している作者の顔が見えるようだ。

 そんな一見泰平な暮らしの中にも悩みはそっと忍び寄る。

引き戸あけまた引き戸あけ襖あけテレビの前の母にただいま

なにかっていうと「わたしには孫がいないから」母のつぶやく仏間の狭さ

母さきに去らばさびしき父ならんやがて猫屋敷となりゆかん

びろーどが剥げてスポンジ飛び出したピアノの椅子を捨てられぬ父

父いつか母いつか去るひとつひとつ小石を積んだこの世を去るよ

 静岡の実家には老いた父母が暮らしている。自分には孫がいないことを嘆く母親と、物が捨てられずに溜め込む父親。よくある光景で、誰もがいつかは通らなくてはならない道である。とはいえ老いて弱っていく両親を見るのは辛いことだ。これも現世の苦のひとつである。

 あとがきによると本歌集を編んでいる間に実父と夫の父親が相次いで旅立ったという。「世界は変わってしまっています」と作者は書いていて、本歌集が西暦の年号で区切った編年体になっている意味が少しわかった気がする。折に触れて新型コロナの流行や、安部元首相の暗殺事件や、裏千家の跡目を継ぐはずだった千明史君の死去などが詠まれているのは世界の移り変わりを記録するという意図もあるにちがいない。

 作者の人となりで読ませる歌が多いと書いたが、短歌王道の叙景歌や叙情歌ももちろんある。

お昼寝をしているあいだ扇風機を初秋の風がしずかにまわす

細き影冬の光に折り曲げて枯れたる蓮の茎のこりおり

河骨は水に死にたる水鳥のたましいの黄にささやかに咲く

絶版の本を貸したるままのひと一人を想う夏の終わりは

春の野は死後の世界にひろがりて少年の吹く細きフルート

アルプスのマロヤ峠にうかぶ雲 死に近きもの白さを帯びて

まなざしはななめに垂れてメンタルは昏い貌してにんげんのなか

 一首目は後京極藤原良経の名歌「手にならす夏の扇とおもへどもただ秋かぜのすみかなりけり」の現代版とでも言うべきか。二首目の枯蓮は俳句によく詠まれるアイテムで実に渋い。これらの歌は短歌的に美しい。ただできれば旧仮名遣で読みたかったという気もする。読み応えのある歌集である。


 

「フランス語100講」第8講 文 (2)

 国語学・日本語学を学んだ目で欧米の言語学を眺めると、「文」は〈主語+述語〉からなるという一本槍で、とても硬直した印象を受けます。一方、国語学・日本語学では昔から文タイプの研究が盛んに行われてきました。その理由のひとつは、日本語には次の例のように助詞の「ハ」と「ガ」の区別があることです。

 

 (1) a. 空青い。

         b. あっ、空まっ赤だ!

 (2) a. Le ciel est bleu.

         b. Tiens ! Le ciel est tout rouge !

 

 フランス語では (2 a) (2 b) のように〈主語+être+形容詞〉という文型にちがいが現れません。日本語の文タイプについては今までにさまざまな提案が行われてきました。ここでは仁田義雄氏(注1)と三尾いさご氏(注2)の文タイプを見てみましょう。(注3)

 仁田氏はモダリティのちがいに基づいて次のような文タイプを提案しています

 

 (3) 働きかけ         命令「こっちに来い」

                                   依頼「いっしょに食べましょう」

 (4) 表出           意志・希望「今年こそがんばろう」

                                   願望「明日天気になあれ」

 (5) 述べ立て      現象描写文「子供が運動場で遊んでいる」

                                   判定文「彼は評議員に選ばれた」

 (6) 問いかけ         判断の問いかけ「彼は大学生ですか」

                                   情意・意向の問いかけ「水が飲みたいの」

 

 このうちでここでの話に関係があるのは「述べ立て」です。「働きかけ」や「問いかけ」とはちがって、「述べ立て」は何らかの事実や判断を述べるときに用いる文です。「述べ立て」には「現象描写文」と「判定文」の2種類があるとされています。現象描写文と判定文にはいろいろなちがいがありますが、ここで重要なのは次の特徴です。

 

 (7) a. 現象描写文は助詞「ハ」でマークされた主題を持たない(無題)。

    i) 子供が遊んでいる。

   b. 判定文は「ハ」でマークされた主題を持つ(有題)。

    ii)私はこのチームのキャプテンです。

 (8) a. 現象描写文は疑問や否定の対象にならない。(注4)

         i)?あっ、荷物が落ちるか?

           ii) ?あっ、荷物が落ちない。

                (文頭の疑問符は容認度が低いことを表す)

   b. 判定文は疑問や否定の対象になる。

    i) あなたはこのチームのキャプテンですか?

    ii) 私はこのチームのキャプテンではありません。 

 

 (7 a) (7 b)が示しているように、現象描写文と判定文のちがいは、助詞の「ハ」と「ガ」のちがいと強く結びついています。さきほどフランス語では文型のちがいは現れないと書きましたが、実はフランス語にも次のような現象描写文に特有の文型があります。しかしフランス語学ではこのような文タイプはあまり注目されていません。(注5)

 

 (9) Tiens ! Le facteur qui passe.

   ほら、郵便屋さんが通る。

 

 次に三尾氏の文の理論を見てみましょう。三尾氏の理論では「場」という概念が重要な役割を担っています。その定義はちょっとわかりにくいので、私の解釈を交えて説明してみましょう。

 日常、私たちは何のきっかけもなく「空は青い」などと言うことはありません。隣に座っている人が突然そう言ったら驚きますね。私たちが何かをのべるときには何らかのきっかけがあります。たとえば、「あっ、雨だ」と言うときには、雨が降り出したという外界の様子がきっかけです。また、「あなたはどちらのご出身ですか」とたずねられて、「京都です」と答えるときは、相手の質問がきっかけになります。このように、何かの発話をうながすきっかけとなるものが三尾氏の言う「場」なのです。

 「何だ、それは言語学で言う発話状況 (situation d’énonciation) と言語文脈 (contexte linguistique) を足し合わせた co-texteのことじゃないか」と思った人もいるでしょう。しかしふつう言語学では、発話状況や言語文脈は、文のあいまい性を除去し解釈を助けるものとされています。しかし三尾氏の文理論では、「場」はそのような補助的なものではなく、ときには文の一部となるものだというちがいがあります。

 「場」と文との関係に基づいて、三尾氏は次のような4つの文タイプを提案しています。

 

 (10) 場の文(現象文) 「雨が降っている」

 「場の文」は「現象文」とも呼ばれています。現象文は、現象に判断の加工をほどこさずありのままに述べたものとされています。形式的には、格助詞の「ガ」が使われ、述部は動詞で「〜ている」や「〜た」の形になります。「場の文」では、場と文とは一体化しているとされます。

 (11) 場を含む文(判断文)

 「場を含む文」は「判断文」とも呼ばれています。この文タイプの特徴は助詞の「ハ」でマークされた主題を持つことで、「AはBである」という話し手の判断を表します。

 (12) 場を指向する文(未展開文)「あ! 」「雨だ!」

 梅が咲いていることに気づいて「あ!」と言葉を漏らしたり、雨が降り出して「雨だ!」と言うとき、文の内容は十分に展開されておらず不十分ですが、「梅が咲いている」や「雨が降り出した」という「場」を指向して表現しようとしています。

 (13) 場と相補う文(分節文) (これは?)「梅だ」

 「場と相補う文」は、「これは?」とたずねられたときに、「梅だ」と答える場合です。「これは?」という問が場として働き、それを受けて「梅だ」と答えるので、「これは(場)+梅だ」のように、場と相補って文として成り立ちます。

 

 三尾氏の「現象文」はほぼ仁田氏の「現象描写文」、「判断文」は「判定文」と同じものとみなしてよいでしょう。三尾氏のユニークな点は、未展開文や分節文のように、ふつうは文の断片とされるものまで文タイプに含めたところにあります。

 このように日本語学で提案されている文タイプは、フランス語を考えるときにどのような手がかりになるのでしょうか。それは文というものをどう捉えるかという問題に深く関わります。文法書には次のような例文がよく見られます。(注6)

 

 (14) Ce qui entend le plus de bêtises dans le monde est peut-être un tableau de musée.   (Les Goncourt)

世の中でいちばんたわ言を聞かされているのは、おそらく美術館に展示されている絵だろう。(ゴンクール兄弟)

 この例文の特徴は、〈主語+述語〉の構造を取っているだけでなく、文の意味を解釈するために文脈も発話状況も必要としないという点にあります。教科書や辞書の例文は、それだけで十分に意味が取れるものでなくてはなりません。この例文の意味を理解するために、誰が、誰に向けて、いつ、どこで、何を受けて発話されたかという付随的な情報が必要ないのはそのためです。三尾氏の用語を使うと、「場」の拘束や規定が一切ないのです。「場」に影響されることなく、いわば無重力の真空中を漂っているような文です。

 しかし、実際に私たちはこのように場の影響を受けずに話すことはありません。実際のフランス語の会話例を見てみましょう。家の改装計画を工事業者と話しているところで、Aが業者で、Bが発注者です。(注7)

 

 (15) A : Voilà alors euh je vais vous expliquer ce que j’ai fait.

            B : Oui.

            A : Puis après vous regardez les prix.

            B : C’est le prix qui intéresse en plus en premier.

            A : Ah, non. C’est quand même le travail … c’est… voilà je vous ai fait un petit croquis là.

            A : じゃあ私が用意したものを説明しましょう。

            B : ええ。

            A : それから後で値段を見てください。

            B : いちばん大事なのは値段ですよね。

            A : いや、でも仕上がりの方が…、それは…、ここにかんたんな図面を用意しました。

 

 自宅の改装工事の話をしているという説明がなければ、何の話をしているのかさっぱりわからないでしょう。工事を発注するという話し手Bの意図や、業者Aが用意した図面、ひとつ前のターンで相手が言ったことなどが、この会話の「場」を形成しています。私たちが実際に言葉を使うときには、話し手と聞き手のキャッチボールのようなやり取りの中で、「場」に規定され、「場」と呼応するように会話が進むのです。

 フランス語で「場」を考慮に入れなければ意味が取れない文をひとつ紹介しましょう。(注8)

 

  (16)[夫にベッドで朝食をとらせようと運んで来たのに夫がもう起きているのを見て]

   Moi qui me réjouissais de te server ton petit-déjeuner au lit !

                                                                   (Simenon, Un Noël de Maigret)

   あなたにベッドで朝食を食べてもらうのを楽しみにしていたのに!

 

 この〈Moi+関係節〉構文は、期待・予期していたこととは逆のことが起きたときに使います。妻は夫のメグレ警視にベッドで朝食を食べてもらおうと、寝室まで朝食を運んで来たのですが、夫はもう起床して服を着替えていたのです。この文には次の① ② が発話を支える場として働いています。

 ①「夫にベッドで朝食を食べてもらおう」という話し手の意図

 ② 予想に反して「夫はもう起きていた」という出来事

 どちらが欠けてもこの文は成立しません。このような構文を理解するには「場」という概念はとても有効だと思います。

 

(注1)仁田義雄『日本語のモダリティと人称』ひつじ書房、1991.

(注2)三尾砂『国語法文章論』三省堂、1948.『三尾砂著作集 I』ひつじ書房、2003に再録。

(注3)国語学における文タイプの研究は、おそらく松下大三郎『標準日本文法』(1924)までさかのぼる。松下は「有題的思惟性断定」と「無題的思惟性断定」を区別した。また三上章『続・現代語法序説 — 主語廃止論』(1959)は、「有題文」と「無題文」の区別を提案している。これ以外にも、Kuroda, S.-Y.(黒田成幸)の categorical judgement(二重判断)/ thetic judgment(単一判断)、益岡隆志の「属性叙述文」と「事象叙述文」などがあり、文タイプの研究は日本語学では盛んに行われている。

(注4)ただし、「あっ、財布がない!」のような現象文では否定が可能である。

(注5)フランス語学ではDanon-Boileau, L. « La détermination du sujet », Langages 94, 1989が、現象文と判定文に相当する文タイプを提案している。Un étudiant a appelé ce matin pour toi.「今朝、学生が君に電話してきた」のような文は énoncé événement「出来事文」と呼ばれていて「現象文」に当たる。Ravaillac détestait la poule au pot.「ラヴァイヤックは鶏のポトフが嫌いだった」のような文はénoncé de type propriété「属性叙述文」と呼ばれていて、「判定文」に相当する。

(注6)京都大学フランス語教室編『新初等フランス語教本 文法篇』白水社

(注7)エクス・マルセイユ大学 (Université d’Aix-Marseille) 大学で採取されたフランス語会話コーバスより。

(注8)このタイプの文は、小川彩子「〈Moi+擬似関係節〉型構文と脱従属化」『フランス語学研究』54, 2020 でくわしく考察されている。

第406回 洞口千恵『芭蕉の辻』

しろたへの袖朝羽振り夕羽振りだれをさがしに来る鷺娘

洞口千恵『芭蕉の辻』

 詞書に板東玉三郎特別講演とある。舞踊の名作演目の鷺娘の舞台である。演劇や絵画などを題材として短歌を詠むのはなかなか難しい。芝居や絵の描き出す世界が大きすぎて呑まれてしまい、距離を取ることができなくなるからだ。しかし掲出歌はその弊から逃れている。初句の「しろたへの」は「衣、袖、帯」などの白い布製品にかかる枕言葉。「朝羽振り」と「夕羽振り」は万葉集でも使われた言葉で、朝夕に鳥が羽ばたいたり風が吹いたりする様を表す。対で使われることが多く、何かの様子を表しているとはいえ、その意味は空疎で枕言葉か序詞に近い。全体として玉三郎が鷺を表す白い袖を振りながら舞っている様を詠んでいるのだが、その描写は写実ではなく、古来より受け継がれてきた定型的な言葉によるものである。一首の中で意味を持つのは下句のみだが、これとて写実ではなく演目の内容の一部を書いたものに過ぎない。ところが全体を読むと舞台の上で美しく舞う玉三郎の姿が目に浮かぶ。これはひとえに言葉の力によるものである。

 洞口ほらぐち千恵は1971年生まれで、「短歌人」会所属。『緑の記憶』(2015年)という第一歌集がある。『芭蕉の辻』は今年(2025年)刊行された著者第二歌集である。帯文は小池光。洞口は東北大学で小池の後輩にあたるという。歌集題名の「芭蕉の辻」とは、仙台市の中心部にある交差点の名で、城下町の町割りの起点となり、かつては商店が軒を連ね栄えていた場所だという。本歌集は仙台愛に溢れた歌集なのだ。

 あとがきによれば、歌風を「人生派」と「表現派」(=コトバ派)に二分するならば、洞口は人生派だと自認している。しかしその割に作者は自分を詠むことが少なく、何をなりわいとしているのかまるでわからないという不思議な人生派である。帯文に小池も書いているように、本歌集の大きなテーマは東日本大震災と父親の死である。第I章は震災前、第II章は震災と父の死まで、第III章は父の死以後という分類がなされていることからも、このふたつのテーマが作者の人生においてひときわ重要であることが知れる。

 第II章から引く。

空間のひづめるところ反るところをりをり見えつ激震のなか

瓦礫の浜、浸水の田にさす朝陽の余光がとどくわが窓の辺に

おほなゐに崩れゆきたるふるさとの団地をおもふ雪しづるとき

みづに降る雪もろともに汲みあげて運び来たりき震災四日目

風花がひかりのいろとなるときに還へらぬひとらまたたきにけり

 まさに震災被害の当事者の歌である。東日本大震災をきっかけに多くの短歌が生まれたことは記憶すべきことだ。激しい体験は激しく詠むとよいかと言えばそんなことはない。激しい体験を静かに詠むことによって伝わることがある。例えば上に引いた一首目は大津波が押し寄せる瞬間を詠んだ歌だが、まるでストップモーションで時間が止まったかのようである。他の歌でも表現は押さえ気味に詠まれており、全体としてとても静謐な世界を描いているように見える。また「わたつみ」「おおなゐ」などの古語を用いることは、〈私〉と詠む対象のあいだに適度な距離感を生み出すようにも感じられる。五首目は平仮名を多用し、鎮魂の気持ちが溢れていて心を打たれる。 

犠牲者の生をぬすみて在るわれかおくずかけのなかとろける豆麩

をさなきころ塩豚浜とおぼえゐし菖蒲田浜がガレキの浜に

震災のときに着てゐしセーターを棄てむとすれどまた洗ひをり

見ゆる塵見えざる塵の降るなかを祈りのごとく来る散水車

餓死したる福島の牛の写真見つ骨よりも歯のあらはとなれる 

 震災が過ぎても以前の日常は戻らない。一首目に詠まれているように、震災死を逃れた人には自分だけが生き残ったという思いがあるからだ。作者が住む場所は原発事故が起きた福島県から距離はあるが、四首目の「見えざる塵」の中には空から降るセシウムが含まれているかもしれない。読んでいて感心するのは語の適切な選択である。一首目は「とろける」、二首目は「おぼえゐし」、三首目は「棄てむとすれど」、四首目は「祈りのごとく」、五首目は「あらはとなれる」が歌のポイントを作っている。

 震災から数年後に作者の父親は病に斃れる。 

青衣なる救急隊員に抱へられ父は出でゆく春のうつつを

仙台のさくらの季を病み籠りすこしく白みたる父のかほ

いつまでの父と娘か桜雨に冷えたる朝を車椅子押す

名月の出を待つ窓のカーテンがはげしくはためき 父逝きにけり

父はもう障害者ならずかるらかなる足に越ゆらむよもつひらさか 

 歌集のこのあたりはずっと病床に伏す父親を詠んだ歌で占められている。あとがきによると、作者は父親の死を契機として、自分のルーツに目を向けることになった。それによると作者の父方の祖父は戦前に小学校の訓導をしていたという。訓導とは旧制小学校の正規教員のこと。芦田恵之助の考案した国語教育法の信奉者で、国語学者の山田孝雄よしおとも接点があったらしい。作者はこの祖父のことをたいそう誇らしく感じているようだ。 

八十年やととせまへ祖父が満州へと発ちし仙台駅に甘栗を買ふ

仙台駅の地霊はおぼえゐたるべし「洞口先生万歳」のこゑ

新聞のとりもつ縁や木町小に学びし晩翠と父

デブ先生と呼ばれし祖父をおもはしめ偉軀そびえ立つ瞑想の松

すめろぎに最敬礼する六年生男子のなかの丸刈りの父 

 作者の祖父は国語教育のために戦前に満州に赴いたようで、一首目と二首目はそのことを想った歌。五首目は昭和天皇が父親の通っていた小学校を視察に訪れたことを詠んだ歌である。このように作者の父親と父方の祖父への思いは、時を越えて歴史を繋ぐ意識となっている。

 このように東日本大震災と父親の死を契機に遡ることになった自らのルーツが本歌集の大きなテーマなのだが、私が心惹かれたのはむしろ第I章に収められたそれ以前の歌である。

水張田をすべりゆく鷺のしろき影ひと畔ごとに小さくなりぬ

春の砂にあさりは深く眠りゐむ塩乾珠しほひるたまのひかりを帯びて

うすべにをゆるしの色とおもふとき闇を脱ぎゆくしののめの空

てのひらより生るるさみしさ丸めつつしらたま作る春の逝く日を

行きあひの空の底ひの地上にてわれは馬俑のしづけさに立つ

 一首目、時は五月、田植えに備えて水を張った水田の上を白い鷺が飛ぶ。水田に映る鷺の影は、ひと畔飛ぶごとに小さくなってゆくという動きのある歌である。二首目の塩乾珠は、海幸彦山幸彦の物語に登場する珠で、潮を引かせる霊力があるとされている。春ののどかな海辺の砂の中で浅蜊が眠っているだろうという歌。三首目は夜明けの曙光を詠んだ歌で、聴色とは禁色の逆で誰でも着用できる服の色のこと。四首目は厨歌で、立夏を控えた日に白玉団子をこしらえている。〈私〉は何に悲しみを感じているのか。五首目、「行き会ひの空」とは夏から秋に変わる季節の空のこと。馬俑は古代中国で墳墓に納められた馬を象った陶器である。空から地上へと移動する視線がダイナミックな歌だ。

 言葉に無理をかけることなくすらすらと歌が生まれているような印象を受けるが、そのように見せるところが作者の技倆というものだろう。瞠目の歌集である。

 

「フランス語100講」第7講 文 (1)

【文とは何か】

 フランス語統語論を論じようと思えば、「文とは何か」という問を避けることはできません。しかし、「言語学者の数だけ文の定義がある」と言われるほど、文を定義するのはむずかしいのです。

 佐藤房吉・大木健・佐藤正明『詳解フランス文典』(駿河台出版社1991)は、文を次のように定義しています。

 1個の単語、または文法に則して配列された1群の単語が、ある思想や感情や意志などを表明している時、これを文 (phrase) と言う。1個の文は、例えば Oh ! là ! là !(やれやれ、なんてこった)のように間投詞だけから、あるいは Oui(そうだ)のように副詞だけから成る場合もあるが、ふつうは1個または数個の動詞を含んでいる。〔間投詞や副詞だけの文を語句文(mot-phrase)と言う〕(p. 408)

 伝統的にはこのように、文とは「ひとつのまとまった思想や感情を表す」ものであり、いくつかの単語からできているが、Oui.のように1つの単語だけでも文となる場合がある、というように定義されることが多いようです。

 しかし次の引用はこのような定義のむずかしさを示しています。

   En grammaire traditionnelle, la phrase est un assemblage de mots formant un sens complet qui se distingue de la proposition en ce que la phrase peut contenir plusieurs propositions (phrase composée et complexe). Cette définition, qu’on rencontre encore dans certains manuels, s’est heurtée à de grandes difficultés. Pour définir la phrase, on ne peut avancer l’unité de sens, puisque le même contenu pourra s’exprimer en une phrase (Pendant que je lis, maman coud) ou en deux (Je lis. Maman coud.). Si on peut parler de « sens complet », c’est justement parce que la phrase est complète. En outre, on a posé à juste titre le problème de telle phrase poétique, par exemple, dont l’interprétation sera fondée uniquement sur notre culture et notre subjectivité, et de tel « tas de mots » ayant un sens clair et ne formant pas une « phrase » , comme dans Moi y en a pas d’argent.

 (Jean Dubois et als. Dictionnaire de linguistique, Larousse, 1973)

伝統文法では、〈文〉とは、全体で1つのまとまった意味をなす語の集まりで、複合的な文や複文ではいくつもの節を含むことがあるという点で、節とは区別される。この定義は、今なお一部の教科書に見られるものだが、大きな難点がある。文を定義するために、意味のまとまりをもちだすことはできないのである。Pendant que je lis, maman coud.「ぼくが本を読んでいる間、ママはお裁縫をしている」と Je lis. Maman coud.「ぼくは本を読んでいる。ママはお裁縫をしている」のように、同じ内容が2つの文でも1つの文でも表現できるからである。《まとまった意味》と言えるのも、文がまとまっているからにほかならない。さらに、例えば、もっぱら我々の教養及び主観に基づいて解釈されるような詩的な文とか、moi y en a pas d’argent「ぼく、お金、ないの」のように、意味ははっきりしているが、《文》を形成しない《語の集積》のごときものとかの問題も、当然のことながら起こってくる。(伊藤晃他訳『ラルース言語学用語辞典』大修館書店)

 上の引用で持ち出されている例「ぼくが本を読んでいる間に〜」は、1つの文からなる単文と、主節と従属節からなる複文のちがいを示すためのものです。終わりの方で引用されている Moi y en a pas d’argent.はくだけた話し言葉の言い方で、もう少し文法的に正しく書き直すと、Moi, il n’y en a pas, d’argent.となります。中性代名詞のenは最後のd’argentを受けているので、文法的には余剰で、話し言葉ではよくあることです。「僕、そんなものないよ、お金なんて」くらいの意味でしょうか。しかしだからといって「語の集積」と言うのは言いすぎのような気もします。

 これよりもっと過激なものもあります。ムーナン (Georges Mounin 1910-1993) が編集した『言語学事典』には、なんと定義が5つも並べられているのです。

   Il existe au moins cinq classes de définitions différentes de ce concept intuitif.

1/ Une phrase est un énoncé complet du point de vue du sens.

2 / C’est une unité mélodique entre deux pauses.

3/ C’est un segment de chaîne parlée indépendant syntaxiquement (… ) Autrement dit, la phrase (…) est la plus grande unité de description grammaticale. (…)

4/ Une phrase est une unité linguistique contenant un sujet et un prédicat.

5/ C’est un énoncé dont tous les éléments se rattachent à un prédicat unique ou à plusieurs coordonnés

                     (Georges Mounin (ed.) Dictionnaire de la linguistique, PUF, 1974)

 

「文」というのは直感的な概念であり、少なくとも5つの異なる定義群がある。

1/ 文とは意味の点においてまとまった1つの発話である。

2/ 文とは2つの休止に挟まれた音調単位である。

3/ 文とは統語的に独立した話線の切片である。(…)言い換えれば、文は文法が記述する最大の単位である。

4/ 文とは、主語と述語からなる言語の単位である。

5/ 文とはそれを構成するすべての要素が、1つまたは複数の述語の組み合わせと関係する発話である。

 

 1/は「まとまった意味を表す」という伝統的な定義ですね。2/は音調曲線に着目したものです。イントネーションは文の始まりから上昇し、文の終わりで下降します。3/は文が統語的に最大の単位であることを述べたもので、ここには構造主義や生成文法の考え方が見られます。4/は文が主語と述語からなるとしています。これは上に引用した佐藤他の文法書や、Duboisの辞典にはなかったものです。5/は4/をさらにくわしく述べたものです。定義を5つも並べているのは、どれも満足のいく定義ではないからでしょう。

 このようにすべてのケースに当てはまることをめざしたやり方とはちがって、たいへんユニークな考え方が橋本陽介氏の『「文」とは何か ─ 愉しい日本語文法のはなし』(光文社新書)に見られます。それは「文とは、必要なことが必要なことだけ表されたものである」という見方です。次の例を見てください。

(1) A : 今日、いつ大学に行くの?

     B : 3限目から。

 ふつうはBの答の「3限目から」は完全な文ではなく、「今日、僕は3限目から大学に行く」が省略されたものされるでしょう。しかし、「文とは、必要なことが必要なことだけ表されたものである」という見方に立てば、これも立派な文です。これだけで必要にして十分なことを述べているからです。橋本さんはこのような考え方を野間秀樹氏の『言語存在論』(東京大学出版会 2018)から学んだようです。『言語存在論』では、言葉の意味が最初からあるのではなく、意味になるのだとされています。解読者(聞き手、または読み手)が、その言葉を解読する具体的な場において、その都度意味を作り出すのであって、言語は話し手から聞き手への単純な意味の伝達ではないということでしょう。(注1)

 私はこのような考え方に賛成です。論理学と隣り合わせの西欧の言語学の伝統では、「完全な文」というものがあり、そこには現実を過不足なく表現するものだという思想が根強くあります。ですからこの基準にそぐわないものは、不完全なもの、省略されたもの、崩れたものと断じがちです。しかし、言葉の意味はあらかじめ文の中にあるものではなく、具体的な場において作り出されるものだと考えるならば、「完全な文」などなくなります。

 

【文は主語と述語からなる】

 ムーナンの『言語学辞典』の文の定義 4/ にあるように、文は主語(仏 sujet / 英 subject)と述語(仏 prédicat / 英 predicate)からなるというのも西欧の言語学の伝統的な考え方です。それはアリストテレスにさかのぼると言われています。主語にあたるsubjectumは、sub-「下へ」と-jectum「投げられた」からなりますが、それは「今からこれについて話しますよ」と相手の前に提示されたものという意味です。ですからそれは話題の中心で、今日の言語学でいう「主題」(仏 thème / 英 topic)に近いものです。〈文 = 主語+述語〉という考え方は、代表的な英文法にも当然見られます。

 文は、1語からなるものもあるが、通例は、「ある事柄について、何かを述べる」という形式をもっている。伝統的に、「ある事柄」の部分は主部 (subject)、「何かを述べる」部分は述部 (predicate) と呼ばれている。以下の例で、太字体の箇所が主部、斜字体の箇所が述部である。

 (1) Birds sing. (鳥は歌う)

 (2) The pupils went to a picnic.(生徒たちはピクニックに行った)

 (3) The doors of the bus open automatically.(このバスのドアは自動的に開く)

                (安藤貞雄『現代英文法講義』開拓社 2005

 上の引用に挙げられている例では、どれを主語と認定するかは特に問題がありません。しかし主語を「ある事柄について、何かを述べる」の「ある事柄」だとすると、次のような例では問題が生じます。

(2) Il est bien connu que Homo Sapiens est né en Afrique.

  ホモ・サピエンスがアフリカで生まれたことはよく知られている。

 この文で「ある事柄」は「ホモ・サピエンスがアフリカで生まれたこと」で、それについて「よく知られている」ことが述べられています。しかし (que) Homo Sapiens est né en Afriqueはこの文の主語ではなく、主語は非人称のilです。教室ではこのような場合、ふつうilは何も指さない「見かけ上の主語」(sujet apparent)であり、(que) Homo Sapiens est né en Afriqueが「実主語」または「真主語」(sujet réel) だと説明します。

 次のような例も問題となります。

(3) Des touristes américains, on en trouve partout.

    アメリカ人の観光客ならどこにでもいる。

 この文は「アメリカ人観光客」について何かを述べている文です。しかし、Des touristes américainsは文頭に遊離 (détachement)あるいは転位 (dislocation)されていて、代名詞enで受けられています。代名詞enは文中では直接目的補語になっています。すると「アメリカ人観光客」はこの文の主語とは認められなくなってしまいます。そうなることを避けるために、Des touristes américainsは文法的主語 (sujet grammatical)ではなく、「心理的主語」(sujet psychologique) だとする考え方が生まれました。

 主語には伝統的にもうひとつの考え方があります。それは他動的な動詞の動作の主体、つまり「何かをする人・物」を主語とする定義です。言語学では「動作主」(agent) といいます。

(4) Les députés socialistes ont critiqué vivement les politiques du gouvernement.

   社会党の議員たちは政府の政策をきびしく批判した。

(5) Les politiques du gouvernement ont été vivement critiquées par les députés socialistes.

   政府の政策は社会党の議員たちにきびしく批判された。

 能動文の (4)では批判しているのは les députés socialistesですから、それが動作の主体で主語になっています。ところが受動文の (5) ではそうではありません。動詞の活用を支配している文法的主語はLes politiques du gouvernementで、les députés socialistesは動作主補語 (comlément d’agent) になっています。このように動作主が典型的な主語であるという考え方を保持するために、(5)でles députés socialistesは「論理的主語」(sujet logique) であるとする向きもあります。動作主を主語とする考え方は、フランス語は「直接語順」(ordre direct) の言語であるという考え方に基づきます。

 しかし、「文法的主語」「見かけ上の主語」「心理的主語」「論理的主語」などのように、主語がまるでウォーリーのように増えるのは好ましいことではありません。現在では、「論理的主語」は意味論における「動作主」で、「心理的主語」は談話文法における「主題」であると整理されています。しかしこのようにいろいろな主語が提案されてきたことは、ヨーロッパの言語において〈文=主語+述語〉という思想の呪縛がいかに強いかを物語っています。

 『象は鼻が長い』を書いた日本語学者の三上章はかつて「主語廃止論」を唱え、日本語では「主語という概念は百害あって一利なし」と断じました。またモントリオール大学の金谷武洋氏は『日本語に主語はいらない』(講談社2002)という本を出しています。確かに日本語ではそうかもしれませんが、主語が大きな役割を担っているフランス語ではそういう訳にもいきません。この点に関して、日本語とフランス語は類型論的に別のグループに属しています。何だかんだ言ってもフランス語には主語が必要なのです。                                                      (この稿次回につづく)

 

(注1)橋本陽介『「文」とは何か ─ 愉しい日本語文法のはなし』には、文についてもうひとつの重要な指摘がある。それは、話し手の主観を表すモダリティこそが、文を成立させるものだという指摘である(p. 53)。モダリティというのは、「今日は暖かい」では「断定」、「洋子さんは元気?」では「疑問」、「柴漬け食べたい」では「願望」などの話し手の判断を指す。これは日本語学特有の「陳述論」に基づく考え方で、ヨーロッパの言語学には見られないものである。「陳述論」はフランス語学にも貢献できる重要な考え方なので、また別の場所で取り上げたい。

第405回 2025年 第4回 U-25 短歌選手権

 今年もこの季節がやって来た。第1回の応募総数は98篇、第2回は100篇、第3回は172篇、今回は144篇あったという。昨年に較べれば少し減ったものの、相当な応募数だ。やはり若い人たちの間でも短歌は流行っているのだろうか。選考委員は変わらず栗木京子、穂村弘、小島なおが勤めている。

 優勝作品に選ばれたのは東京大学Q短歌会に所属する山本仮名の「TOKYO」である。

誰しもが片手になにか引いていて下船のような新宿・二月

旅人の資格のように渡されるリーフレットに簡易な神話

靑色は誰かの停止と引き替えになんども往来を点る色

 山本は今年の第36回歌壇賞にも同名の連作「TOKYO」で応募しているが受賞を逃している。今回は小島が4点、穂村が1点を入れた。小島は「さまざまな人種や文化を持つ人が混在するサラダボウルとしての東京を描き出している」とし、「主体がこの都市を眺めるまなざしが、内からというよりどちらかというと異国からのまなざしで」あることが不思議だと評している。穂村は「全体にハイセンスで、近未来のような不思議な空気感がある」が、「代表歌を挙げるとなると、どれを挙げていいのか悩んでしまう」と述べている。点を入れなかった栗木は、「言葉にいいセンスがあって面白いけれども、脈絡が掴めない作品もある」としている。「下船のように」、「旅人の資格のように」や、「救命浮環のような」などの喩が目を引く。しかし中には「別々の場所のパネルへ全員の僕が押し込む同じ四ケタ」のように歌意がよくとれない歌もある。東京大学Q短歌会は第2回にからすまぁが「春風に備えて」で優勝しており、この選手権での活躍が目立つ。

 準優勝は塔短歌会所属の椎本阿吽の「なんだかんだピース」である。椎本は昨年のU25選手権では「白亜紀の花」で栗木京子賞を受賞し、今年の短歌研究新人賞で「獣の系譜」により次席に選ばれている。

変革を信じて生きる春の終わり ただ集めてるポストカードを

                     「白亜紀の花」

水色の空に残っている半月あなたの薄いクラムチャウダー

湖に海が混じっているようなあなたの名前に紛れる私

 

ホールケーキ切らずに掘って食べあえば徐々にかたむく砂糖人形

                        「獣の系譜」

あなたと寝たシーツを干した 聖骸布扱うように端まで伸ばす

パートナーシップ制度は降り出した雨が窓へと張り付くごとく

 

大根のみずみずしさに刃を落とす音立てながら履くコンバース

                  「なんだかんだピース」

献血のティッシュ配りをおおらかに避けてそうして落ち葉を踏んだ

二つともおんなじ柄のミトンだけどあなたにとっての左右があった

 穂村が4点、栗木が3点を入れた。穂村は、「従来のオールドファッションな口語の文体から永井祐以降の文体まで自在に駆使されているような印象です」と言い、栗木は「日常の小さな気づきがとてもけなげな明るさを伴って詠まれていて、読んでいるうちに、嬉しい気持ちになる」としている。点を入れなかった小島は好きな歌がたくさんあるとしながらも、「こういう多くの人に受け入れられる親切な作品が短歌ブームのひとつの中心になっている気がして」いると述べている。

 後は審査員賞で、栗木京子賞ははじめてのたんかの「就職前夜」に与えられた。

ベランダの椅子に花瓶を置き咲かすガーベラ卒業したよ婆ちゃん

それぞれに就職前夜 ビジネスの角度にひげを揃えろサンタ

窓のないエレベーターは階を告げ人はうたがうことを知らない

 栗木一人が5点をつけた。「何かのモラトリアム期間が終わりかけて、これから新たな一歩を踏み出す。今まで既成の事実として、当然に思っていたことをもう一度見つけ直してみる。やや斜交いからの視点の作品にいい歌が多かった」と評している。

 「はじめてのたんか」は筆名で、所属なし、平成14年生まれという以外何もわからい謎の人物である。筆名の選び方が巧みで、「はじめてのたんか」で検索すると、穂村弘の著書ばかりが出て来る。検索を逃れるうまい手だ。

 穂村弘賞には木本奈緒の「Alice in Wonderland」が選ばれた。

歯磨きのすがたを反射し終えたらひとり光れり夜の鏡は

大学の木が樹となれるまでの風、その舞い方を語る先生

制服の胸元チェスト にありしおメダイは失せやすくなり鍵につければ

 穂村が5点を入れている。「一連の中で不思議の国とされているものは普通の大学生活で、クリスチャンである『私』はそこに飛び込んだアリスということだと思います。」と述べ、「しばしば自分の中の聖的な世界とリアルな外界がぶつかる瞬間が描かれている」と評価している。また小島は、「イノセントに昇華された世界観が一連の美質だと思います」と述べながらも、「主体自らを少女アリスとする世界観に若干の無防備さを感じました」と付け加えている。

 木本はカトリック系の女子校に通っていたようだ。男子学生もいる大学に入学すると、驚くことばかりでそれが不思議の国に飛び込んだアリスということだろう。三首目の「おメダイ」とは、「メダイユ」の省略形に「お」を付けたもので、フランス語のmédailleのこと。カトリックで信者が持つ金属製のメダルである。高校の時は制服の胸元に付けていたのだが、大学生になって制服がなくなって、今ではキーホルダーに付けている。木本は各地で開催されている若者対象の短歌コンクールに応募しているようだ。「そういえば留学の地で妹は口にすらむや教えし祈り」のように文語(古語)にも果敢に挑戦している。ちなみに「そういえぱ」の文語は「まことにや」である。いつまでもアリスではいられないので、今しか作れない時分の花だろう。

 小島なお賞は月島理華の「Hidden」が受賞した。

その朝に予感のように触れてみたおとうとの山川の世界史

とうさつ、と母の唇 藤の花は学名の重たさにひらいて

被害者の子の歳のころ描いた絵のスイミーが褪せている勝手口

 月島はつくば現代短歌会所属。第3回のU-25選手権では同じつくば現代短歌会の渓響が優勝したのが記憶に新しい。「Hidden」は今回の最大の問題作と言えるだろう。弟が盗撮容疑で警察に捕まり、家族には賠償の責任が生じ、〈私〉の志望大学は私立から公立に変わったという内容だからである。「カメラには無数のこども 磨り硝子ひとつひとつに夕闇が来る」、「弁償のこと話すとき両親のチェスを置きあうような音階」のように、事件が起きてからの推移に叙景と抒情を重ね合わせたような歌が特徴的である。

 本作品に5点を入れた小島は、「選者賞に推したいんですけど、これがもし当事者からの作品だった場合に、私は被害者の感情が気になって、表彰されるべきではないと思ってしまう気持ちがどうしてもあります」と述べ、迷いに迷った末に選者賞に選んでいる。しかし小島には気の毒だが、小島の懸念は杞憂に終わったのである。月島はnoteへの書き込みで「Hidden」は100%フィクションで、加害者の家族側の視点から描いてみたかったと述懐しているからである。寺山修司の先例もあり、短歌でフィクションを描くのがいけないということはまったくない。問題はそれが作品としてどれくらい昇華されているかである。とはいえ今回のように審査員を大いに悩ますことがあることは知っておいていいだろう。

 月島は今年の第36回歌壇賞に「ペルセウス」で応募し、候補作品に選ばれている。

四十ミリ測って水を飲む 父の左脳を溢れた血を思いつつ

一艘の小舟は父を離岸してわたしがゆっくりと引くロープ

ペルセウス流星群の夜 父は失語という椅子に腰掛ける

 父親が脳溢血で倒れて言葉を失う後遺症を背負ったという内容である。読んだ限りでは、「Hidden」よりも「ペルセウス」の方に優れた歌が多いように感じた。ちなみにnoteへの書き込みによると、こちらは80%ノンフィクションだそうだ。優れた歌が多いように感じたのは事実の力によるところがあるのかもしれない。

「フランス語100講」こぼれ話 (2) ─ フランス語の発音異聞

 先日、何気なくNHK・Eテレのフランス語講座を見ていたら、出演していた若いフランス人男性が、impressionismeを「アンプレショニム」、japonismeを「ジャポニム」と発音していたので仰天した。語尾の-ismeは「イスム」と濁らずに発音するのが決まりのはずだ。

 教室では綴り字の –s- は前後を母音字で挟まれたときだけ [z] と濁ると教わる。たとえば maisonは「メゾン」で、désertは「デゼール」だ。子音字と隣り合ったときは、veste 「ヴェスト」、dessert「デセール」のように濁らない。テレビの若いフランス人が –ismeを「イズム」と濁って発音したのはおそらく英語の影響だろう。

 最近、次のようなことも耳にした。来日したフランス人の言語学者が、linguistiqueを「ランギスティック」と発音したというのだ。フランス語の綴り字の –guiはふつう「ギ」と発音する。languir「ランギール」、guide「ギード」などがそうである。しかし、aiguille「エギュィーユ」、linguistique「ランギュィスティック」など少数の語では「ギュイ」[ɡɥi] と発音する。フランス人の言語学者が「ランギスティック」と発音したのが英語の影響によるものかどうかはわからない。英語でlinguisticsは「リングゥィスティックス」と発音し、「リンギスティックス」ではないからである。

 確かに発音は時代とともに変化する。たとえば綴り字の –oiは、もともとはローマ字どおりに「オイ」と発音していたのだが、時代とともに変化して、次は「ウェ」となった。絶対王政をよく示す有名な L’État, c’est moi.「朕は国家なり」という言葉を、ルイ14世は「レタ セ ムェ」と発音していたはずである。古い文章を見ていると、半過去形の avaisがavoisと綴られていることがあるが、これは当時の読み方の名残りである。その後、-oiは現在の「ウァ」[wa] へと変化した。

 だから –ismeも将来「イズム」と発音するのがふつうになるかもしれないが、未来のことは誰にも予言できない。国語学の泰斗金田一春彦先生が若い頃、「東京山手方言(標準語)のガ行鼻濁音はいずれ消滅するだろう」と書いたことがある。しかし、その後、何十年経っても鼻濁音はなくなることがなかった。金田一先生は、「言語の未来は予測できない」と反省したという。フジテレビの「めざましテレビ」の軽部真一アナウンサーが見事なガ行鼻濁音を出しているのを聞くにつけ、確かにそのとおりだと痛感するのである。

    *        *         *

 フランス語を学ぶ人を悩ませるもののひとつにリエゾン (liaison) がある。読まない子音字で終わる単語の次に母音で始まる単語が来ると、読まないはずの子音字を読むようになるという現象である。次の例ではlesの語尾の –sを「ズ」と読むようになる。

 

 les「レ」+enfants「アンファン」→ les enfants「レザンファン」

 

 なぜこのようなややこしい規則があるかというと、それはフランス語が母音連続 (hiatus)を嫌う言語だからである。(注1)フランス語では、[子音+母音+子音+母音]のように開音節(注2)が並ぶのを好む。もしリエゾンをしなければ「レアンファン」となり、「エア」と母音が続いてしまう。これを嫌うので語尾の-sを「ズ」と発音して母音連続になるのを避けるのだ。

 無音のhで始まる語はリエゾンするが、有音のhで始まる語はリエゾンしないとも習う。ややこしいのは無音・有音と言いながら、どちらのhも発音しないことである。無音のhと有音のhの区別はフランス語の歴史にさかのぼる。

 フランス語の親であるラテン語では、紀元ゼロ年頃にはすでにhを発音しなくなっていたと言われている。homo「人間」は「オモ」だったわけだ。このようにラテン語由来の語が無音のhで、その意味は「ラテン語ですでに無音となっていたh」ということである。しかし5世紀頃に始まるゲルマン民族の大移動で、フランク族がやって来た。ゲルマン語はhを強く発音する。ゲルマン語から流入したhache「斧」、haie「生垣」、hanche「腰」などの単語の頭の hはやがて黙字となったが、発音していた歴史のせいで、今でも子音字扱いされてリエゾンしないのである。

 母音・無音のhで始まる単語でも、数詞のhuit「8」やonze「11」はリエゾンしない。toutes les huit heures「8時間ごとに」は「トゥート レ ユイ トゥール」で、les onze garçons「その11人の少年」は「レ オンズ ギャルソン」と発音する。数は重要な情報なので、数詞であることをはっきりさせるためにリエゾンしないのである。un enfant de huit ans / de onze ans「8歳 / 11歳の子供」のようにエリジヨンもしない。

 有音のhについては謎がいくつかある。haut「高い」はラテン語のaltusから来ていてゲルマン語由来ではない。しかし形容詞では珍しく有音のhなのは、ゲルマン語の hohの影響とされている。もっと不思議なのは héros「英雄、主人公」だ。これもラテン語の herosから来ているのに有音のhとされている。Le Bon usageなどの文法書に書かれている説は、リエゾンして les héros「レゼロ」(英雄たち)と発音すると、les zéros「レゼロ」(役立たず、能なし)と混同されるからというものである。どうやらこの説の源はヴォージュラ(Claude Fabre de Vaugelas 1585-1650) らしい。(注3)17世紀に一人の文法家が唱えた説が今でも引き継がれているのは驚くべきことだ。この説が正しいかどうかは神のみぞ知るである。

 ヨーロッパ統合によってフランスの通貨のフランがユーロになったせいで、フランスで買い物をする日本語話者には新たな問題が生じた。deux euros「2ユーロ」とdouze euros「12ユーロ」の混同である。eurosが母音字始まりなので、deux eurosは「ドゥーズューロ」とリエゾンする。するとdouze eurosとの発音のちがいは –eu– [ø]-ou- [u]の差だけになり、発音し分けるのはとてもむずかしい。誤解を避けるには、deux euros, deux、douze euros, douzeと deux, douzeを繰り返すのがいいだろう。カフェで給仕が注文を厨房に伝えるときにも、deux cafés, deuxと数字を繰り返すことがあるが、それと同じやり方だ。

 リエゾンについてはおもしろい思い出がある。フランスにZ’amino「ザニモ」という動物の形をしたビスケットがある。この製品名はリエゾンに関する子供の誤分析に由来する。子供は類推により次のように誤って言葉を句切る。

 

 les crayons 「レ・クレヨン」(鉛筆)

 les animaux「レ・ザニモ」(動物)

 

 子音字始まりの単語で「レ」が定冠詞だと理解し、それを母音字始まりの単語にも当てはめて、「動物」の複数形は「ザニモ」だと考えるのである。

 フランスの幼稚園に通って半年ほどになる当時5歳の娘が、家族で南仏を旅行していたときに、「次はどこのノテルに泊まるの?」とたずねるのを耳にして驚いた。これも子供がよくやる誤分析である。

 

 un crayon「アン・クレヨン」(鉛筆)

 un hôtel「アン・ノテル」(ホテル)

 

 子音字で始まる単語に不定冠詞の単数形が付くと、「アン・クレヨン」となる。それを母音字で始まる単語にも当てはめると、-nのリエゾンがあるので「アン・ノテル」と聞こえる。そこから「ホテル」の単数形は「ノテル」だと考えるのである。フランスに滞在して半年にしかならない子供が、類推によって新しい言語を習得していく姿を目の当たりにするのはとても印象深い体験だった。

 

(注1)最近、ハイエイタスというロックバンドがいることを知った。ハイエイタスは hiatusの英語読みである。

(注2)開音節とは ma 「マ」のように母音で終わる音節のこと。but「ビュット」のように子音で終わる音節を閉音節という。

(注3)『フランス語覚え書き』Remarques sur la langue françoise, 1647.