第404回 村上きわみ『とてもしずかな心臓ふたつ』

誰も彼もだれかの死後を揺れながらこの世の庭に実る野葡萄

村上きわみ『とてもしずかな心臓ふたつ』

 本書は村上の第一歌集『fish』、第二歌集『キマイラ』に加えて、それ以後に発表された1,600首ほどから405首を選び、歌友の錦見映理子の編集によって上梓された遺歌集である。版元は左右社で、穂村弘、岡野大嗣、平岡直子、枡野浩一、田中槐が栞文に代えて一首評を寄せている。

 村上が2023年にこの世を去ったことを私は不覚にも知らなかった。入手が困難になっている第一歌集と第二歌集に加えて、結社誌「未来」や題詠マラソンに投稿されて未刊行だった歌群が一冊に纏められたことは実に喜ばしい。錦見映理子の尽力の賜物である。錦見自身が使っている「歌友」という言葉がとてもよい。しかし村上と錦見は、短歌によって繋がっているだけの友人というだけではなかったようだ。あとがきによると、二人は2000年代の頃にネット掲示板で知り合ったという。その後、実際に顔を合わせるようになり、同じ「未来」に所属して、錦見は村上をたった一人の友人と思うようになったとある。

 私は2003年の4月から短歌評をネットで書き始めた。当時は「今週の短歌」という味も素っ気もないタイトルである。その年の12月に村上の評を書いているので、最初期に書いたものの一つということになる。きっかけはその年の5月に創刊された『短歌ヴァーサス』に掲載された村上の「かみさまのかぞえ方」という連作を読んだことである。興味を引かれた私は『fish』を取り寄せた。ただし、私が入手したのはヒヨコ舎から刊行されたもので、今回の遺歌集では緑鯨社から出たオリジナル版を底本としているので、内容が一部異なる。短歌評をアップしてまもなく、村上から第二歌集『キマイラ』が郵便で送られてきた。同封されていたマン・レイのモンタージュ作品の絵葉書に、癖のある文字で短歌評へのお礼が綴られていた。また川柳作家のなかはられいこと共作の『まめきりん』という手作りの豆本も同封されていて楽しい驚きだった。この豆本は今でも愛蔵している。

 今回『とてもしずかな心臓ふたつ』を通読して、改めて村上きわみは繊細な感性と鋭い言語感覚に恵まれた優れた歌人だとの思いを深くした。その言葉が創り上げる作品世界は静かで親密な手触りに満ちていて、個人的に私の好む世界でもある。今回村上の作品世界を旅して私の耳に届いたのは「押し殺した無音の叫び」だった。それは次のような歌に見え隠れするものだ。 

それからは悲鳴のような沈黙のつづく静かなれんあいでした

(にくたいはいつなくなるの)樹木から今こんなにもしたたるしずく

街路樹を順に見送る どの木にもよく似た傷がつけられている

いま口をひらけばぬるい夕闇がどっとこぼれてしまうのだろう

ある朝はちぎれるように立ち上がり誰の名前を呼んでいるのか

親しさにも骨格はあり或る夜にふっと語られる希死のこと

その胸はしずかな沃野 傷口に赤ダリア白ダリア咲かせて

 一首目の「悲鳴のような沈黙」は撞着語法(オクシモロン)だが、沈黙の中に押し殺した悲鳴が感じられると解する。二首目の(にくたいはいつなくなるの)は無音の叫びを括弧に括ることで言語化したものと思われる。その疑問文は作者村上のものでもあり、またその歌を読む人のものでもあろう。新緑の樹木からは生命のしずくが滴り落ちているのに、私たちの肉体はやがて滅びる定めにある。三首目の「見送る」は不思議な語法で、まるで街路樹が列をなして移動しているかのようだ。どの街路樹も傷を負っているのはこの世にあるからに他ならない。四首目にあるように、村上には「内部が開かれる」ことへの畏れがあったように思われる。口から夕闇がこぼれ出すというイメージは禍々しい。五首目では「ちぎれるように」が激しさと切迫感を感じさせる。誰かの名前を大声で呼んでいるのだが、おそらく答える声はないのだ。六首目、「親しさにも骨格はあり」とは、親しい間柄でも守るべき距離はあるということか。にもかかわらずふと口を突いて出るのは希死念慮の思いである。七首目、胸は沃野と言いつつ、ダリアを咲かせているのは血の滴る傷口である。このような歌を読んでいると、詩的空間の中に声のない叫びが満ちている思いがする。叫びたくなる理由は、私たちがこの世にあり、私たちの存在には終わりがあるからだ。

 ここで村上が短歌の中で用いる言語の特徴について考えてみたい。村上が歌を綴る言語は見事なまでに詩的言語になりおおせている。日常言語と詩的言語の根本的差異は、言語学者ヤーコブソン (Roman Jakobson 1896-1982) の提唱する言語の6つの機能のうちの関説機能 (referential function) のちがいにある。平たく言えばそれは何かを指す (refer) はたらきである。日常言語は現実の出来事を指す。「私は昨日散歩中に犬に吠えられた」と言えば、それは私が体験した現実の出来事である。日常言語は現実ではないことも語ることがある。「いつかアマルフィに行きたい」は私の願望で、「昨夜の夢で私は空を飛んでいた」は夢の中の出来事で現実ではない。しかし私がそのような願望を抱いていることや、夢を見たことは現実であり、これらも広い意味で現実を指す言葉と言える。一方、詩的言語はこのような関説機能から解き放たれている。

堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。

金魚の影もそこに閃きつ。

 伊東静雄がこのように詠っても、誰も〈私〉がほんとうに水中花を空に向かって投げたとも、そこに金魚の影が閃いたとも思わない。詩的言語は現実の位相から浮上して、意味を伝達するという有用性から自由になる。日常言語は意味を伝達すれば役目を終えて消滅するが、詩的言語は意味と引き替えに物質性を獲得するために消えることがない。詩や短歌はいつまでもそこに留まり、何度もの鑑賞に耐えるのだ。村上の短歌の言語はこのような意味で詩的言語たりえており、このため私たちは村上の短歌を読むとき、現実とは異なる「村上ワールド」にさまよいこむのである。

きざみのりふりかけるとき息を止めおかあさんおそろしいおかあさん

祖父おおちちの胡座であそぶ真冬日の煙管の羅宇がまだあたたかい

そしてすべてが父につながる悔しさを補遺とさだめて飲むふゆの水

死に近き時間をねむるはげしさも豊かさも母そのものなれば

ゆっくりと世界に別れを告げていた とても静かな絶唱でした

 集中でわずかに親族を詠んだ歌があり、他の歌との位相のちがいが注目される。一首目は、袋から刻み海苔を振りかけるとき、飛ばさないように息を止める母が恐ろしいという歌だが、妙にリアリティがある。二首目の羅宇は、キセルの火口と吸い口をつなぐ竹の管のこと。祖父の膝で遊んだ記憶を詠んでいる。村上の父親の村上白郎は『新墾』『潮音』『樹氷』などに所属した歌人で歌集が二冊あるという。村上が短歌に手を染めたのは父親の影響からなのだ。しかし三首目では自分のすることのすべてが父親に繋がることを悔しく感じている。四首目は母親が亡くなったときの歌で、「父に」という詞書きを持つ五首目は村上白郎氏がこの世に別れを告げた折の歌である。

 第二歌集『キマイラ』から引く。

名を告げあい名を呼びあって河口までひかがみに水匂わせてゆく

宇宙論冷えゆく真昼 すさまじき色に煮崩れゆくヘビイチゴ

花ミモザ咲きあふれ咲きこぼれして天金本の天汚すまで

パパに踏まれたプリンみたいにぼくたちは世界をにくむよりほかなくて

ニッポニアニッポンほろびさわさわときざはしに咲く少女らの臍

 一首目の「ひかがみ」は膝の裏の窪みのこと。五首目のニッポニアニッポンは絶滅した日本固有種のトキ。村上から送ってもらい、今から22年前に読んだ『キマイラ』を書庫の奥から引っ張り出して、今回付箋の付いた歌と昔付けた付箋の歌とを較べてみた。するとすでに四半世紀近くの時を隔てているにもかかわらず、付箋を付けた歌のちがいは数首しかなかった。私の昔と今とを結ぶ世界線にブレがないことに安堵した。

 『キマイラ』以後の歌から引く。

ひかりなす螺旋の溝につかのまの青をこらえて硝子のペンは

ただならぬことの次第を告げにゆく痩せた冬田に鳥を招いて

少しずつ遅れて響く真冬日の肉体というさびしい音叉

どの性もすこしふるえて立っているあおいうつしみ芯までひやし

戦から次のいくさへ春服の少女がこぼす焼き菓子の粉

 こうして書き写して改めて気づいたことがある。村上の作歌の基本は口語(現代文章語)の定型なのだが、口語短歌につきまとう文型の単調さからうまく逃れている。特に結句の処理が単調になりがちだが、村上の歌の場合、上に引いた歌だけでも、「ペンは」の倒置法、「招いて」のテ形終止、「音叉」の体言止め、「ひやし」の連用止めなどの技法を駆使している。一方で前衛短歌によく見られる句割れ・句跨がりは少なく、定型をほぼ遵守している。口語(現代文章語)定型でこれだけの短歌が作れるというよいお手本である。また問と答の合わせ鏡(by永田和宏)のように上句と下句とが対比をなすような歌はあまり見られず、俳句によく見られる二物衝撃も少ない。一首全体で読み下す造りになっていて、一首全部で何事かを語っているのも特徴と言えるだろう。ルビが少ないのも言葉に余計な負荷をかけていない証拠だ。

 やはり私にとって村上と言えば『fish』所収の次の歌だ。

出刃たてて鰍ひらけば混沌はいまだ両手にあふれるばかり

 歌友錦見の尽力によって刊行された本書を手に取って、村上の短歌ワールドを訪れる人が門前市をなすことを願う。ちなみに神さまの数え方は「一柱」「二柱」である。


 

「フランス語100講」第6講 人称代名詞 (3)

第6講 人称代名詞 pronom personnel (3)

─ 自立形人称代名詞は人も物もさすのか

 

 1・2人称は話し手と聞き手をさすので、moi, toi, nous, vousが人をさし、物をささないのは当然です。(注1)しかし3人称の代名詞は先行詞があれば、人だけでなく物もさすことができます。では自立形のlui / elle / eux / ellesが物をさすことはあるのでしょうか。ほとんどの文法書はこの点について沈黙しています。また文法書で挙げられている例文は人をさす例ばかりです。

 

 (1) Les plus heureux ne sont pas eux.

   最も幸せな人は彼らではない。

          (目黒士門『現代フランス広文典』白水社)

 (2) On parle de lui pour la présidence.

  大統領候補に彼の名があがっている。

        (Grevisse, M. , A. Goose, Le Bon usage, Editions Duculot)

 (3) Il ne pourrait pas vivre sans elle.

  彼は彼女なしでは生きていけないだろう。

        (六鹿豊『これならわかるフランス語文法』NHK出版)

 

 3人称の自立形が人ではないものをさす例が見つからないわけではありません。

 

 (4) Nous ne voyons pas les choses memes ; nous nous bornons, le plus souvent, à lire les étiquettes collées sur elles.   (Henri Bergson, Le rire)

私たちは物自体を見ているのではない。たいていは物の上に貼り付けられたラベルを読むことで済ませている。

 (5) … les nations se trouvent nécessairement des motifs de se préférer. Dans la partie perpétuelle qu’elles jouent, chacune d’elles tient ses cartes.

               (Paul Valéry, Grandeur et décadence de l’Europe)

どんな民族にも他の民族より自分たちのほうが優れていると考える根拠がある。民族どうしがお互いを較べあう際限のないゲームでは、どの民族も切り札を握っているのだ。

 (6) La liberté est une valeur primordiale. Nous combattons pour elle.

   自由はかけがえのない価値である。私たちは自由のために戦っている。

 

 しかしよく見ると、(4)でellesが指しているのは les choses「事物」という意味がぼんやりした単語ですし、(5)では les nations「民族」は抽象名詞である上に、擬人化されて人間のように扱われています。(6)は私が作った例ですが、これも擬人化の匂いがします。

 一方、次も作例ですが、自立形が具体物を指すのは難しいように見えます。(*印はその文が非文法的であることを表す)

 

 (7) Hélène trouva une souche dans la clairiaire. *Elle s’assit sur elle pour se reposer.

         エレーヌは森の中の空き地に切り株を見つけた。彼女は休むためにそれに腰掛けた。

 (8) *Il a sorti un couteau de sa poche et a épluché une pomme à l’aide de lui.

         彼はポケットからナイフを取り出すと、それを使ってリンゴを剥いた。

 

 朝倉季雄『新フランス文法事典』(白水社)のsoiの項目を見ると、自立形は物を指すのにふつうに用いられると書かれており、次のような例文が見つかります。

 

 (9) tous les maux que la guerre entraîne après elle

   戦争がその後に引き起こすあらゆる災害

 (10) Les fautes entraînent après elles les regrets.

      過ちは後で後悔を招く。

 

 しかしこの例文はどちらも ellesがさしているのは entraîner「引き起こす」という能動的動作の主体で、多分に擬人化されていますし、さしているものも la guerre「戦争」、les fautes「過ち」のような抽象名詞です。

 同書のluiの項目には、「àde以外の前置詞とともに用いられた自立形は原則として人を表すが、物について用いられる場合もまれでない」と書かれていて、その条件が次のように示されています。

① 前置詞の副詞的用法が不可能か、俗用となる場合

J’apercevais au sommet d’un monticule herbeux une haute tour, semblable au donjon de Gisors et je me diregeais vers elle.

草の茂った小さな丘の頂きにGの城の主塔に似た高い塔を見つけ、そのほうに向かっていった。

② 前置詞が sur, sous, dans, au-dessus de, auprès de, autour deなどならば、これに対応する副詞 dessus, dessous, dedans, au-dessus, auprès, autourを用いて、事物を表すlui, eux, elle(s)を避けるのが普通

Ce siège est solide, asseyez-vous dessus.

この腰掛けはしっかりしています。これにお掛けなさい。

 

 順番を逆にして②から見たほうがわかりやすいです。surは前置詞で、ふつう sur la chaise「椅子の上に」のように後に名詞を必要とします。一方、surと意味の上で対応する dessus「その上に」という副詞があり、これは後に名詞を必要としません。ですから次のようなペアを作ることができます。

 

 (11) Il s’est assis sur la chaise.

   彼は椅子の上に座った。

 (12) Il s’est assis dessus.

   彼はその上に座った。

 

 (12)のように副詞を使うことで、Il s’est assis sur elle.を避けるというのが②の趣旨です。やはりla chaise「椅子」のような具体物に自立形を使うのは避けるべきとされているのです。

 上の①が述べているのは、避けられないときに限って、しかたなく具体物に自立形を用いるということです。たとえば次の例のように前置詞avecを副詞のように使うのは俗用とされています。

 

 (13) Il a pris son manteau et il est parti avec.

         彼はマントを取り、それを着て出かけた。(『小学館ロベール仏和大辞典』)

 

 やはり自立形代名詞は人をさすのが原則で、物をさすのは他にやり方がない場合に限られるのです。

 アントワープ大学のタスモフスキー教授も同じ意見です。(14) のように動詞の支えがなく単独で用いられたとき、自立形は必ず人をさすと述べています。たとえば、自分の自動車 (ma voiture) が思いがけない場所にあるのを見つけたときでも、自動車に自立形elleを使うことはできません。(14 b) のように指示代名詞のçaを使うそうです。(14 a) のようにするとelleは人をさすことになります。

 

 (14) a. Elle, ici ! 彼女がここにいるなんて。

            b. Ça, ici ! これがこんな所にあるなんて。

 

【人称代名詞の指示傾斜】

 人称代名詞についてここまで見てきたことをまとめると、次のようになります。○はさすことができる、×はさすことができない、△は微妙を表しています。

 

 (15)  主格 ─ 直接目的格 ─ 間接目的格 ─ 自立形

  人   ○            ○                    ○        ○

  物   ○            ○                    △        ×

 

 ここから次のような一般化を導くことができるでしょう。

 

 (16) 動詞にとって中核的な文法役割では、代名詞は人・物の区別をしない。

   文法役割が周辺的になるにつれて、代名詞は人をさす傾向が強くなる。

 

 「動詞にとって中核的な文法役割」とは、主語と直接目的補語のことです。ちょっとカッコ良くこの一般化を「人称代名詞の指示傾斜」と呼んでおきましょう。

 人称代名詞がさすものについて、なぜこのような傾斜が見られるのでしょうか。前にも少し書きましたが、日本語とは異なり、フランス語は人と物をあまり区別しません。同じ動詞や形容詞を人にも物にも使うことができます。

 

 (17) Jacques a marché des kilomètres sous la pluie.[Jacquesは人]

   ジャックは雨の中を何キロも歩いた。

 (18) Cette machine à laver a dix ans, mais elle marche encore bien.[洗濯機は物]

   この洗濯機は買って10年になるが、今でもよく動く。

 (19) Sa mère est morte il y a cinq ans.[お母さんは人]

   彼女のお母さんは5年前に亡くなった。

 (20) Cette ampoule est morte.[電球は物]

   この電球は切れている。

 

 人と物を区別しないという特徴は、(17)〜(20)に挙げた主語の場合と、次に挙げる直接目的補語に強く表れます。

 

 (21) La chaleur a abattu Jean.[Jeanは人]

   暑さでジャンは参ってしまった。

 (22) Ils ont abattu le mur de leur maison.[壁は物]

   彼らは家の壁を取り壊した。

 

 これはなぜかというと、フランス語の構文の基本は動詞の持つ他動性(仏 transitivité, 英 transitivity)を軸として組み立てられていて、他動性で中核的な役割を果たすのが主語と直接目的補語だからです。

 もう少しわかりやすく説明してみましょう。フランス語の構文の基本は、主語Aが動詞の表す動作・行為を通じて、直接目的補語Bに何らかの変化を引き起こすという図式です。フランス語では多くの出来事をこの他動性の図式で捉えて表現します。

 

 (23) Cécile a mangé une pomme.

   セシルはリンゴを食べた。

 (24) La rouille a mangé la grille.

   錆で鉄柵が腐食している。

 (25) Cette voiture mange trop d’essence.

   この車はガソリンを食いすぎる。

 

(23)ではセシルがA、リンゴがBで、「食べる」という行為がAからBへと及んでいます。(24)では錆がAで鉄柵がBで、ほんとうに食べるわけではありませんが、まるで食べるかにように腐食させると表現しています。(25)では自動車がA、ガソリンがBで、自動車はまるで大食いの人みたいにガソリンを消費すると言っています。このような他動性の図式では、AがBを変化させるということだけが大事で、AやBが人か物かは問題にされません。

 一方、間接目的補語ではちょっと事情が違います。〈A─動詞─à B〉という図式を当てはめると、(26)では le directeur「部長」がA、sa secrétaire「秘書」がBですが、tenir à〜「〜に執着する」という行為は間接目的補語である秘書さんに何か影響を及ぼすわけではありません。(27)でもAのPierreはBの「計画」にたいして「あきらめる」という行為をするのですが、それによってBの「計画」が変化することはありません。

 

 (26) Le directeur tient à sa secrétaire. Ça se voit.

   部長は秘書の女性にご執心だ。見え見えだよ。

 (27) Pierre a renoncé à ce projet.

   ピエールはこの計画をあきらめた。

 

 つまり間接目的補語では直接目的補語ほど動詞の表す行為が対象に及ばないので、「AがBに何かをする」という他動性の図式からすると、間接目的補語はこの図式から少し外れたものになるのです。

 状況補語になるとそれはいっそうはっきりします。

 

 (28) Les enfants jouent dans le jardin.

   子供たちは庭で遊んでいる。

 

 子供たちが遊ぶことで庭が何か変化することはありません。多少花壇が踏み荒らされるかもしれませんが、それは語用論的推論でjouerという動詞の意味には含まれていません。

 このように他動性の図式でどれだけ中核的な役割を果たすかを図式化すると、次のような階層が得られます。

 

 (29) [主語・直接目的補語]>[間接目的補語]>[状況補語などその他]

 

 このような他動性の階層が (15) で示した人称代名詞の指示傾斜の原因だと考えられます。

 しかし、教室での授業でここまで説明するのは難しいでしょう。フランス人の友人にたずねてみると、*Elle a trouvé une chaise et s’est assise sur elle. [elle=la chaise]はだめで、〜s’est assise dessus とするのがよいという答がすぐに返って来ました。〈前置詞+具体物を指す自立形〉が使えない場合もあることには授業で触れてもよいかもしれません。

 

(注1)野菜のなぞなぞで、Je pousse dans la terre. Je sers à faire des frites. On peut me faire en purée.「僕は土の中で育つよ。僕はフライにするけど、ピュレにしてもいいよ」のように、ジャガイモが擬人化されている場合はもちろん別である。

(注2)Tasmowski-De-Ryck, Liliane et S. Paul Verluyten, “Linguistic control of pronouns”, Journal of Pragmatics 1 (4), 1982

第403回 丸地卓也『フイルム』

解決と死で厚みゆくクロニクル相談記録に日付を記す

丸地卓也『フイルム』

 作者は医療機関で医療相談員をしている。患者と家族に対して、介護・障害や経済的困窮の相談にのり、社会保障制度や福祉サービスについての助言をする職業だという。一日の業務の終わりに日誌をつける。相談を受けたなかには解決した課題もあれば、患者の死によって終止符が打たれた課題もある。作者はそのどちらも記録するので、日誌は日々厚みを増す。その厚みは過ぎて行く日々の嵩でもあり、その重みは肩にずっしりとのしかかる。最近、職業詠を読むことが少なくなった気がするが、自分の仕事を正面から見据えた職業詠である。

 作者の丸地卓也は1988年生まれ。歌林の会に所属している。『フイルム』は昨年 (2024年) 上梓された第一歌集で、坂井修一・北山あさひ・寺井龍哉が栞文を寄せている。歌集題名の「フイルム」を含む歌は、「戦争と感染症をお決まりに加えてフィルムはまだ回りいる」という歌しかないので、この歌から採られたものと思われる。歌の中では「フィルム」のように「ィ」は小さいが、歌集題名では他の字と同じ大きさである。歌集題名では旧仮名のつもりなのかなとも思うが、真相はわからない。

 一読してやはり目に止まるのは医療相談員という職業に関わる歌だろう。

名を抜かれ症例になる患者おり故郷の海はわれしか知らず

ご遺族はカルテでは〈遺族〉泣きながら挨拶されたことも書かざり

ホスピスに移る前の死キャンセルの電話をいれてカルテを閉じる

病窓の灯り灯りにいのちあり冬の夜ことに明るく見える

結核の男のカルテに書かれいる家族関係図に名はひとつ

 一首目、入院患者は「山田さん」という名前ではなく、「5号室の肺癌」のように症例で医者に呼ばれることがあるのだろう。人格と個性は背景に後退し、病がその人の顔となることに作者は一抹の悲しみを感じている。そこに私だけは故郷の海を知っているという思いに重ねている。二首目、会話では「ご遺族」と呼ぶが、カルテには「遺族」と書く。亡くなった患者の家族から、「お世話になりました」という涙の挨拶を受けるのだ。三首目、終末期の患者は苦痛軽減のためホスピスに入るが、それも間に合わず患者は死亡する。ホスピスには予約キャンセルの電話を入れるのも仕事のひとつである。夜に外から病院を見ると、病室の窓に灯るひとつの灯りの下にひとつの命があることを作者は噛みしめている。五首目、カルテには連絡のために血縁者の氏名を書くが、結核を患う男性のカルテには名がひとつしかない。その名は老母のものだろうか、それとも子供のものだろうか。いずれも命に関わる職業の実相を伝える歌である。

 とはいえ作者は医療相談員という職業にのみ自分という存在を感じているわけではない。職業に還元されえない〈余剰〉が作者の〈私〉を支えているようだ。

一方の鞄の奥に潜ませる江戸川乱歩の怪人たちを

ふところに明りの苦手な歌の精しのばせ医療相談員われ

 そんな作者が日常の風景を眺める視線は、時にほろ苦く、時に文明批評の色彩を帯びる。その視線がなかなかおもしろい。

永遠に上がりつづける階段のだまし絵のなかの勤め人たち

なれ鮨にしてやりたいと獄卒は通勤電車に男を詰める

スキナーの鳩の幸福感が満ちメダルゲームに興じるおとこ

所得格差はジェンガのごとくして一番下のピースを抜くか

からだ中ひかる警備の男いて闇に溶けないこともかなしい

 一首目の騙し絵はエッシャーだろう。朝の駅で急ぎ足で階段を上る勤め人がまるで騙し絵の中の人のように見える。このように丸地の作歌法の基本は「見立て」である。見立てとは、ある物を何かになぞらえることを言う。これは江戸時代の浮世絵でも駆使された技法で、役者の顔を茄子になぞらえたり、幕府のお偉方を動物になぞらえたりする日本の伝統的表現法である。鍾乳洞の鍾乳石が地蔵菩薩や屏風に見立てられているように、日本は見立ての王国と言ってもよい。二首目では満員電車に乗客を押し込む駅員が獄卒に見立てられている。びっしりと詰め込まれた通勤客はまるで樽に詰められたなれ鮨のようだという。これもひとつの見立てである。三首目のスキナーはアメリカの行動主義の心理学者。スキナーの鳩の実験とは、ゲージに入れた鳩がどのような行動を取っても一定の時間に餌が出て来るようにしておく。するとやがて鳩はある特定の行動を取るようになるという実験である。鳩はその行動をすると餌がもらえると信じ込むらしい。かくのごとく私たちは根拠もなく、風が吹けば桶屋がもうかる式の因果関係を信じているというわけだ。四首目は社会に拡がる格差の歌。いつも犠牲になるのはジェンガの一番下にいる社会的弱者だ。五首目、夜間工事の警備員は安全のために光る電飾を付けた服を着ている。ふつうならば人間は闇に溶け込んで目立たなくなることができるのに、闇に輝く警備員はそれすらもできないことを作者は悲しんでいる。

人生に迷ったようなカナブンをよけて向えり早朝の駅

糸のなき凧が青さに飲まれゆくかくなる終わりにあこがれており

七割が再現部分の土器ありきその三割を縄文と呼ぶ

キャスター付回転椅子は上座にも下座にも動くいもたやすく

未開通のまま遺跡になるのだろ深草しげるバイパス道路

 一首目、カナブンが人生に迷っているように見えるのは、作者自身が人生に迷いを感じているからだ。二首目はストレートに脱出と消滅への憧れを詠んでいる。三首目、博物館に展示されている縄文土器の七割は再現された部分で、元の土器は三割しかないのにこれを縄文土器と呼ぶのかという歌。一滴でも源泉が混じっていれば、「源泉掛け流し」と称することができるのと似ている。四首目も皮肉が効いている。字面ではキャスター付きの椅子が移動しやいすことを詠みながら、その裏では会議で上座に座っている人にも下座に座っている人にもいい顔をするご都合主義を皮肉っているのだろう。五首目も見立ての歌で、用地買収が難行しているのか、何十年も塩漬けになっているバイパス工事はそのまま遺跡になるだろうという歌。

 ここで「見立て」の効用について考えてみよう。その一つは未知のものに既知のものを当てはめて理解するという認知的効果である。パンダの家族がいるとする。観客はお父さんパンダ、お母さんパンダ、子供パンダと呼ぶだろう。しかし、パンダの家族関係と人間の家族関係が同じである保証はない。人間の家族関係をパンダに投影することで、パンダの世界を理解しようとしているのだ。

 「見立て」にはもう一つ別の効用がある。それは対象と〈私〉を切り離す効果である。上に引いた「なれ鮨にしてやりたいと獄卒は通勤電車に男を詰める」という歌では、満員の通勤電車の乗客がなれ鮨に、乗客を詰め込む駅員が獄卒に見立てられている。見立てとは、〈私〉もそこに属している世界の一部を、突然別の世界にワープさせる知的操作である(この「世界」をフォコニエのメンタル・スペース理論では「スペース」と呼ぶ)。満員の通勤電車は、獄卒となれ鮨の世界へと転轍されることによって無害化される。本来は〈私〉も通勤電車の乗客の一人なのだが、見立ての効果によって満員電車の光景は〈私〉から切り離されるのである。丸地が見立てを多用するのにはこのような動機もあるのではないだろうか。

手のひらに蟻を歩かせ生命線途切れるあたりで吹き飛ばしたり

母に似た祖母が施設にはいる日よ菜の花ゆれてわれ少し老ゆ

流木の椅子に座りし君のいて話せばわれに届く波紋が

子の無くば地の果てに立つ心地せり背後に人類史を感じつつ

磨りガラス越しに過ぎゆく人の見ゆ気配と声をそれぞれこぼし

遠景の団地の灯りはまぼろしの家族のたましい手を伸ばしたり

うつし世の夢の蠟梅木製のベンチに微睡む老い人たちは

 特に心に残った歌を引いた。とてもよい歌だと思う。かと思えば「医療費の日割増額えぐられた地層を拡大鏡でみるわれ」のような現実そのままの歌もある。このような歌では言葉が詩の言葉になっていないと感じる。言葉を蒼穹の高みへと飛翔させるのは難しいとしても、地上から数ミリでも浮揚させないと詩の言葉にならない。現実を指示するという実用性からどのくらい離脱することができるかで詩の純度が決まる。そういう歌を読みたいと思うのである。

 

「フランス語100講」第5講 人称代名詞 (2)

第5講 人称代名詞 (pronom personnel) (2)

 

 前回は接辞代名詞である主格 (je, tu, etc.)、目的格 (me, te, etc.)についてお話しました。今回取り上げる話題は残る強勢形人称代名詞です。

 

【強勢形という呼び名は適切か】

 前回「強勢形」という呼び名は音声の特徴に着目した名称で、統語的振舞いを反映していないので、あまりよい呼び名ではないと書きました。ではどういう呼び名がいいのでしょうか。「自立形」と呼ぶ人もいます。接辞とはちがって、動詞から離れて自立的に使うことができるからです。「離接形」(forme disjointe)と呼ぶ人もいます。Moi, je suis d’accord.「私はOKですよ」のように文から離れた位置で使うこともあるからです。同じ理由から「遊離形」(forme détachée) と呼ぶ人もいて、呼び方はまちまちです。

 言語学では他の語にくっついて使われる形態素を「拘束形態素」(英 bound morpheme)、他の語にくっつかず単独で使えるものを「自由形態素」(英 free morpheme)といいます。それにならえば強勢形人称代名詞は「自由形」とでも呼ぶのがよいのでしょうが、これだと水泳の泳ぎ方の一種とまちがわれかねないので、ここでは「自立形」としておきましょう。

 

【自立形人称代名詞はどんなときに使うのか】

 接辞代名詞と自立形の代名詞の用法はほぼ相補分布(distribution complémentaire)の関係にあります。つまり、接辞形が使える場所では自立形が使えず、接辞形が使えない場所で自立形を使う補完関係にあるということです。接辞形を使う主語・直接目的補語・間接目的補語の位置では自立形は使えません。これらは言語学では「項」(英 argument)と呼ばれていて、動詞が完全な意味を持つために必須の要素とされています。意味的・統語的に動詞と密接な関係のある項の位置には接辞代名詞が用意されているのです。次の各ペアのb.が示すように、この位置では自立形は使えません。

 

 (1)   a. Je vais bien. 私は元気です。(主語)

           b. *Moi vais bien.

 (2)   a. Claire n’est pas là ? Je la cherche depuis une heure.(直接目的補語)

             クレールはここにいませんか。1時間前から探しているんですけど。

           b. *Je elle cherche depuis une heure.

 (3) a. Jeanne ne vient pas. Je lui ai dit de venir ici à dix heures.(間接目的補語)

        ジャンヌは来ないな。10時にここに来るように言ったのに

         b. *Je elle ai dit de venir ici à dix heures.

 

 ただし、いつくか例外があります。自立形の3人称のlui, elle, eux, ellesは、接辞形に代わって主語になることができます。この場合、主語に多少の強調が置かれます。

 

 (4) Lui au moins soutient notre proposition.

       少なくとも彼は私たちの提案を支持してくれている。

 

 またなんらかの文法的理由によって接辞形が使えないときには、他にしようがないので自立形を使います。次の例 (5) は ni… ni…によって等位接続しているケースです。否定される項目を並べた ni… ni…は動詞の後に置かなくてはならず、接辞形のme, teは使えないので自立形を使います。

 

(5) Carine n’aime ni toi ni moi.

    キャリーヌは私も君も好きじゃないんだよ。

 

 またne…queによる制限では「Aだけ」のAは必ずqueの後に置かなくてはならないので、この場合も接辞形は使うことができず自立形を使います。

 

 (6) Carine n’aime que toi.

        キャリーヌが好きなのは君だけだ。

 

 以上のことは間接目的格でも同じです。

 

 (7) Sandrine ne parle ni à toi ni à moi.

         サンドリーヌは君にも私にも話さない。

 (8) Eléonore n’a parlé qu’à toi.

         エレオノールは君にしか話さなかった。

 

 今まで見てきたのとは逆に、接辞形の代名詞が使えないところでは自立形を使います。それは主に次のような場合です。

 

 (9)[属詞]Qui est là ? — C’est moi.

        「そこにいるのは誰ですか」「私です」

 (10)[前置詞の目的語]Venez avec moi.

          私といっしょに来てください。

 (11)[形容詞・副詞の比較級のqueの後]

            Pierre est plus fort que moi au tennis.

           ピエールはテニスで私より強い。

 (12)[同格]Xavier, lui, m’approuvera.

           グザヴィエなら私の意見に賛成してくれるだろう。

 (13)[aussi, non plus, autres, seulなどとともに]

            Je suis fatigué. — Moi aussi.

         「私は疲れました」「私もです」

            Lui seul est venu.

            彼だけが来た。

 (14)[動詞を省略した文で]

            Qui m’aidera ? — Moi.

      「誰が手伝ってくれる?」「私」

 (15)[関係節が付くとき](注1)

            Il est déjà huit heures. Et moi qui n’ai pas fini de me maquiller !

            もう8時だわ。なのにまだお化粧も終わっていないなんて。

 

 上の例の自立形代名詞を名詞に置き換えると、(9) C’est Paul.「ポールです」、(10) Venez avec Hélène.「エレーヌといっしょに来てください」、(11) Pierre est plus fort que Nicolas au tennis.「ピエールはニコラよりテニスが強い」などとなり、自立形代名詞はふつうの名詞と同じ場所で使えることがわかります。

 また (9) から (15) で自立形が使われているのは動詞と密接な関係を持たない場所です。たとえば (10) はavec moiを取り去って Venez.「いらっしゃい」だけでも十分使えます。接辞形が動詞と結びつきが強い「項」の位置で用いられ、動詞と融合してしまうのにたいして、自立形が用いられるのは「項」ではない周辺的な場所なのです。(注2)

 

luiyのどちらを使うか問題】

 英語と比較したときに、フランス語の人称代名詞の大きな特徴は、3人称で人と物を区別しないという点にあります。英語では人を指す he / sheと物を指す itを区別しますが、フランス語ではil / elle は人に物にも使われます。目的格のle / laも同じです。

 

 (16) Jacques ? Il s’occupe de ses enfants. [人]

            ジャックですか。子供たちの世話をしています。

 (17) Ma voiture ? Elle est garée dans la cour.[物]

            私の車ですか。中庭に駐めてあります。

 (18) Sandrine ? Je l’ai vue à la bibliothèque.[人]

            サンドリーヌですか。図書館で見かけましたよ。

 (19) Mon vélo ? Je l’ai vendu à un ami.[物]

            私の自転車ですか。友達に売りました。

 

 しかしこのことが言えるのは人称代名詞の主格と直接目的格までです。間接目的格になると、事情が少しちがいます。多くの文法書では人称代名詞 lui / leurは人を指し、物を指すときには中性代名詞のyを用いると書かれています。たとえば朝倉季雄『新フランス文法事典』(白水社)には、「à qn (=quelqu’un), à qch (=quelque chose)のどちらも伴い得る動詞では lui, yで人・物が区別される」(p. 293)と書かれていて、次のような例文が挙げられています。

 

 (20) Il m’a écrit et je lui ai répondu.

            彼は私に手紙をくれたので、私は彼に返事を書いた。

 (21) Cette lettre était insolente, je n’y ai pas répondu.

            その手紙は無礼だったからそれには返事を書かなかった。

 

 répondre「返事をする(書く)」という動詞は、人に返答するときも、手紙に返事を書くときも使えて、間接目的補語は人・物の両方が可能なので、多くの文法書の例文として使われています。白状すると私も『フランス文法総まとめ』(白水社)では安易にこの動詞を使っていまいました。

 ただし朝倉文法事典の記述には続きがあります。「多くは、〈à+人〉を補語とする次の動詞は、luiが人を表すと解される恐れのない場合には、物についても lui, leurを用い得る」とあり、物でも lui / leurを取ることができる動詞が並んでいます。次はその一部です。

            comparer「比較する」、consacrer「捧げる」、donner「与える」、

   ôter「奪う」、 rendre「返す」、nuire 「損なう」、demander「要求する」、

           obéir「従う」、etc.

 

 そして次のような例文が挙げられています。

 

 (22) La lune baignait la salle et lui donnait une blancheur aveuglante.

            月の光は一面に差しこみ、部屋はまばゆいばかりに白かった。

 (23) De plus en plus, les machines nous commandent, et nous leur obéissons.

            ますます機械は我々に命令し、我々はその言うままになる。

 

 これとは逆に人なのに yを使う場合もあります。次の例ではyは後に置かれた à ton lieutenantを受けています。

 

 (24) Tu y penses toujours, à ton lieutenant ?

            相変わらず思いつめているの、例の中尉さんのことを。

 

 これはどういうことなのでしょうか。実はこれは大変ややこしい問題なのです。多くの文法書に書かれている「3人称の間接目的補語では人には lui / leurを、物にはyを使う」というのは、教育的な配慮からうんと単純化したものなのです。

 多くの研究者がこの問題に挑みました。元神戸大学教授の林博司さんは、「受影性」と「主題性」による説明をしています。(注3)「受影性」とは影響を受ける度合のことです。

 

 (25) Laisse donc tes chaussettes. Tu va leur faire des trous.

            靴下をいじくるのはやめなさい。穴をあけてしまいますよ。(注4)

 (26) Il y tient toujours, à cette fille. (注5)

            彼はこの娘にあいかわらずくびったけだ。

 

 (25)は物なのにleurが、(26)は人なのにyが使われています。それは「穴をあける」が影響の大きなこと、つまり「受影性」が高く、一方「執着する」は相手にほとんど影響を与えません。つまり「受影性」が高いとlui / leurが使われる傾向にあり、「受影性」が低いとyが使われるというわけです。

 これにたいして元西南学院大学教授の西村牧夫さんは、間接目的補語の「自立性」で説明しようとしています。(注6)

 

 (27) Frapper la balle de biais de manière à lui imprimer un movement de rotation sur elle-même.

            ボールが回転するように斜めから打つ。

 (28) Votre description est trop sèche, ajoutez-y quelques détails.

            あなたの描写は味も素っ気もない。少しディテールを加えなさい。

 

 どちらも間接目的補語は物ですが、(27)では打ったボールはその後自立的に回転するのにたいして、(28)ではあなたの描写は何かを加えられるだけで、自立性がありません。同じ物でも自立性が高いときは lui / leurが、低いときはyを使うというのが西村さんの説明です。

 以上の分析を総合すると、lui / leurは間接目的補語がさすものの個体性が高く、自立的に動くことができたり、動詞の表す行為によって影響を受けやすいものをさすときに使われると言えそうです。自立性が高く影響を受けやすいものの典型は人です。一方、yはもともとは J’habite à Paris. 「私はパリに住んでいます」→ J’y habite.「私はそこに住んでいます」のように、場所を表す副詞的代名詞ですので、場所のように状態性が強く自分では動かず、また動詞の表す行為によって影響を受けにくいものをさすと考えられます。その典型は場所や物です。しかしその境界線は微妙でグラデーションをなしていて、「ここまでは lui / leurでここからはy」のように、はっきり線引きできるものではないようです。

 実は今回の講義は、lui / leuryの使い分け問題に決着を付けるためのものではありません。目的は別のことなのですが、だいぶ長くなりましたので、次回にお話することにします。                     (この稿次回につづく)

 

(注1)ただし次のような場合には接辞代名詞に関係節を付けることができる

           i) Je l’ai vu qui pleurait. 私は彼が泣いているところを見た。

 これは J’ai vu Paul qui pleurait.の直接目的補語 Paulを代名詞化したもので、関係節は擬似関係節である。これについては別のところで改めて扱う。

(注2)(9)の属詞(英文法では主格補語)は取り去ってしまうと *C’est.となり、非文法的になってしまうので、コピュラ動詞êtreに必須な項とする考え方もある。

(注3)林博司「『à+名詞句』を受けるy とluiについて — フランス語におけるdatifとlocatif」、大橋保夫他『フランス語とはどういう言語か』駿河台出版社、1993.

(注4)文意を考えて日本語訳は原文とは異なるものにした。

(注5)例にしやすいように例文を少し変えた。

(注6)西村牧夫「間接補語y vs à lui vs lui」、東京外国語大学グループ《セメイオン》『フランス語を考える ─ フランス語学の諸問題 II』三修社、1998.

 

 

第402回 辻和之『夏の雪』

はじまりと終はりと海をすこしだけいれておくから夏のふうとう

辻和之『夏の雪』 

 「海水浴」と題された連作中の一首である。「日に焼かれうなだれたまま海水を拭つてもらふちひさなからだ」のように、自分の子供時代の、あるいは自分の子を連れての海水浴の光景と思われる歌があり、これは確かに海水浴である。しかし掲出歌はそうではなく謎に満ちている。「夏のふうとう」とあるので、誰かに当てて手紙を送るのだろう。しかしその中に封入するのが「はじまりと終はりと海」だというのだから、これは現実の事柄ではない。一気に想像または非現実の世界にワープする。「海をすこし」というのはまだわかる。しかし実際に封筒に海水を入れたらふやけて破れてしまうので、これは海の思い出ということだろう。わからないのは「はじまりと終はり」だ。何の始まりと終わりかが明かされていないからだ。ここからは読者が各自想像力を働かせる領域になる。私は自分の人生の始まりと終わりと読んだ。それに海の思い出を加えて封筒に封入し誰かに向けて送るのは、まるで未来に届くタイムカプセルのようだ。この封筒は子供に残すものかもしれない。

 辻和之は1965年生まれで、「短歌人」に所属する歌人という巻末のプロフィールに書かれていること以外はいっさいわからない。あとがきに書かれているのは子供時代の思い出だけだ。今年 (2025年) 6月に上梓された本歌集はおそらく著者の第一歌集だろう。同じ「短歌人」の藤原龍一郎が「黙示録としての一巻」と題された栞文を寄せていて、その冒頭に「この歌集は他の歌集とはまったく異なっている」と藤原は記している。拙宅に送られて来た本歌集を一読して喫驚した。確かに藤原の言うように本歌集は他のどの歌集にも似ていない。何より驚いたのは辻の文体である。私は文芸の肝は文体にありと考えており、そのことを実証したような歌集である。

 藤原が「黙示録」というのは、歌集冒頭に配された次のような歌を見ればその理由がわかる。歌集題名と同じ「夏の雪」と題された連作である。

雪あれは灰かそれともみわかねどみわかぬままにひとひらぞふる

まぶしげに胸をはだけて手団扇の、「暑いねえ」「ええ」、八月六日。

てのひらにゆきのひとひら世界史のふりぬるおとはなほもかそけし

 一首目には「たらちねは夏姿してちのみこは胸にすいつきいくさおはんぬ」という歌が、二首目には「なほ夏を消さずとどめよつば広の帽のかげなる時じくの目に」という歌が詞書き風に添えられている。「いくさ」「八月六日」「世界史」と散りばめられたヒントからわかるように、これらの歌は1945年8月6日に広島に投下された原爆を詠んだものなのである。「夏の雪」とは夏空から降り落ちる放射性の灰の喩だ。この連作の題名を歌集タイトルに選んだところに作者の強い思い入れが感じられる。

 文体の特徴としてまず挙げられるのは、平仮名を多用していることだろう。これにより歌の姿が王朝時代の和歌に似る。それと平行して古典和歌の言い回し、例えば一首目の「それともみわかねど」や三首目の「ふりぬる」など使っている。ひょっとしたら本歌取りもしているのかもしれないが、そこまではわからない。

 もう一つ指摘しておかなくてはならないのは、タイポグラフィの工夫というか、その凝りようだ。たとえば上に引いた「夏の雪」の連作中には、活字のポイントを落として、斜めに頭下げした次のような歌が挿入されている。

ああ果てだ加速するトンボそいつといまあの夏にゐるわかつてる

 天のやうに明かかりけむそはひとが灰をふり蒔く野であるゆゑに

  日は雲にひとさしゆびはくちびるに死者との距離があまりに近い

   気づいたら火のふところに町はゐてあやされながら星を見てゐる

 そうかと思えば次のようにページ上に配された「数へうた」という連作もある。

はは来よ

ここ来よ

 

 

     来よ来よ

     はよ来よ

 

 

          ひふみや

          いむなや

          くちすさまうよ

 推察するに、作者は活字のポイントやページ上での配列などのタイポグラフィ的な設計まで含めて、一巻を有機的な詩集として彫琢したかったのではないだろうか。これはまるでマラルメだ。版元の六花書林は組版に苦労したことだろう。実際に苦労したのは版元から組版を発注された印刷業者だが。

 辻が操る多様性な文体も見逃せない。上に引いたような王朝和歌を思わせる古雅な文体の歌と並んで、次のような歌もある。

いちどでも橋をわたるとなによりも橋をわたるとにどと会へない

声がして死霊を真似てともに飛ぶ さうだつたのか 声だ ぼくらは

いまはよるははにぶたれたゆきのよるかあさんぼくはゆきのよるです

おとうさんぼくもほんとは馬なんだむすこよあすはうみまでいかう

 一首目と二首目はそれまでとは打って変わって口語(現代文章語)である。また三首目と四首目は子供が話すような言葉遣いで書かれている。辻はまるで魔術師のようにさまざまな文体を操っている。

 平仮名表記の効果について考えてみよう。平仮名を多く使うと読字時間が長くなる。漢字の場合、私たちは一文字文字読んでいるのではない。パターン認識によって数文字を一気に認識している。たとえば「石破首相衆院解散を決定か」という新聞の見出しがあるとすると、「石破首相」「衆院解散を」「決定か」くらいのまとまりで認識している。これは視線の滞留と跳躍を測定する器具でわかる。読むスピードが早いのは表意文字の特性である。ところが表音文字の平仮名はふつう一文字ずつ読む。まして短歌のように切れ目なく一行に並んでいると、読者は意味の切れ目を探しながら読むので、一首の滞留時間がさらに長くなる。場合によっては意味の切れ目を探して、行きつ戻りつすることもあり、さらに滞留時間が長くなる。平仮名は読者を長く歌の中に閉じ込めるのだ。それに加えて漢字はいかめしい雰囲気があるが、平仮名は流麗でやわらかい印象を与える。そんな特性を持つ平仮名を用いて死の灰のように深刻なテーマを詠むと、まるで恐ろしいわらべ歌を聴く心地がするのである。

 冒頭の連作「夏の雪」に限らず、本歌集には死が充満している。

海を死を少女の胸を起伏する沃野を見たよ、夏といふ名の

ペコちゃんのふりをしてにこやかになりその日いちにち死霊とあそぶ

さんぐわつの母にほほよせほろほろとなにほろぶみるつねよりながく

わたしにはいま死者は死にちかけれど死にはとどかじなどおもはれる

あめさりて木膚のにほひ朽ちかけの死すらあたらし生きざらめやも

ほんたうにおかへりなさいあちらでは死者とよばれてゐたさうですね

綿で塞がれわづかにひらきをり死の人が人の死に逢うてわらふ

 三首目の「さんぐわつの」は御母堂が逝去されたことを詠んだ「気韻」の前に置かれた歌だがおそらく関係しているだろう。五首目「あめさりて」の結句「生きざらめやも」はおそらく堀辰雄が『風立ちぬ』で引用したヴァレリーの詩句の翻訳「風立ちぬ、いざ生きめやも」を踏まえたものだろう。原文は Le vent se lève, il faut tenter de vivre.で、直訳すると「風が吹き始めた、生きようとしなくてはならない」となる。大野晋と丸谷才一は『日本語で一番大事なもの』の中で堀の翻訳を誤訳だと批判した。「生きめやも」だと、「生きようか、いや、断じて生きない、死のう」という意味になるというのだ。これについては仏文学者の牛場暁夫が『受容から創造へ』で興味深い論考を試みている。七首目「綿で塞がれ」は、亡骸が棺に収められ、耳や口に綿を詰められている葬式の場面を詠んだものだろう。「死の人」とはやがて死ぬ生者のことである。まさに本歌集はMemento Mori「死を想え」の歌集と言ってよい。しかしこの金言には続きがある。Carpe diem「その日を生きよ」である。まこと生と死はあざなえる縄のごときものだ。だから本歌集には生を詠んだ向日性の歌もある。

桃を剥く妻の背中に蟬しぐれ妻と向きあふ笑ふしづかに

光る皿たれそ洗ひ置きたる夕日のいとほそやかに差し入るに

をとこのこ雨をみあげてをんなのこ鞠をかかへて大楠の下

あのかげを待つているのか木陰から海へと光る麦わら帽子

幼名を呼ばれながら駆け上がりてし石段を妻と下りゆけり

 生と死は光と影、その光の部分は多く思い出につながっているようにも見える。分量としては光よりも影のほうが多い。

夕くれの名づけられないものたちが州に舞ひ降りて骨を啄む

むすびおくおもひはあせず落ち椿しべもあらはにいろくゆりたる

石楠花を見つめゐる人うす紅を塗られしくちに笑みこぼれたる

踏みしだかれて桑の実のいのちあたらしむらさきに今を染めなむ

あさがほに出づるいのちのあをやかさゆるされてうなづきてかぞへよ

甘やかな肉なる葡萄わが闇のふかきふちへとちかしくながれ

いのれどもゆきよりしろきかげはなしこゑとどまらぬあけぐれのそら

 特に心に残った歌を引いた。どれも単純な写実の歌ではない。石楠花や朝顔などの素材は現実の自然に借りているが、そこから立ち上る詩想は極めて理知的かつ思弁的である。一首の意味を説明せよと言われるとはたと口ごもるしかないが、本来詩とはそういうものである。日常的な意味に還元できない想念が韻律の力を借りて姿を与えられている。確かにこの歌集は藤原の言うように、他の歌集とはまったく異なっていると言わざるを得ない。

忘れよとをんなのこゑのゆふがほの半身の花のしづむゆふやみ

 この歌は集中の白眉と思う。辻が構築した詩的世界が多くの人の訪れることになるよう祈念するところである。


 

「フランス語100講」第4講 人称代名詞 (1)

第4講 人称代名詞 pronom personnel (1)

 

 フランス語の人称代名詞をまとめて次の表に示します。

 

                           主格 直接目的格 間接目的格 強勢形(自立形)

1人称単数            je (j’)    me (m’)      me (m’)          moi

2人称単数            tu         te (t’)           te (t’)               toi 

      男性   il         le (l’)           lui                   lui

3人称単数  女性   elle      la (l’)           lui                  elle

      不定   on                                                  soi

1人称複数           nous     nous            nous             nous

2人称複数           vous     vous            vous              vous

3人称複数  男性    ils        les               leur               eux

     女性    elles    les              leur               elles

 

onをどこに入れるか問題】

 上の表がふつうの文法書とちがうのは、3人称単数に不定のonを置いているところです。ふつうon は不定代名詞 (pronom indéfini) とされています。しかしonは人称代名詞に含めたほうがよいのです。(注1)その理由はいくつかあります。

 

《理由その1》

 他の不定代名詞の quelqu’un, quelque chose, chacun, ne… rienなどは主語だけでなく、他の文法役割でも使われます。

 

 (1) Quelqu’un est venu.  [主語]

        誰か来ました。

 (2) J’ai vu quelqu’un dans le jardin.  [直接目的補語]

       庭に誰かいるのを見ました。

 (3) Ça ne sert à rien.  [間接目的補語]

      そんなこと何の役にも立たない。

 

 しかしonは主語としてしか使えません。

 

 (4) On peut être heureux et triste en même temps.

  人には嬉しいと同時に悲しいことがある。

 

《理由その2》

   onは (5) のように疑問文では動詞と単純倒置します。単純倒置とは、主語代名詞と動詞の順序を入れ替えて、間にハイフンを置くことをいいます。onが (6) の主語人称代名詞と同じように単純倒置することは人称代名詞の仲間であることを示しています。

 

 (5) Arrive-t-on bientôt à la gare ?

   まもなく駅に着きますか。

 (6) A-t-elle été en Chine ?

        彼女は中国に行ったことがありますか。

 

 他の不定代名詞は (7) のように複合倒置しなくてはなりません。複合倒置とは、主語 (quelqu’un)をいったん代名詞 (il) で受けて、代名詞と動詞を倒置することを言います。フランス語では英語とはちがって、Is the president sick ?「大統領は病気ですか」のように主語の名詞 (the president)と動詞 (is)を倒置することはできません。このことはon以外の不定代名詞が普通の名詞と同じ部類に属することを示しています。

 

 (7) Quelqu’un est-il venu ?

   誰か来ましたか。

 (8) *Est-quelqu’un venu ?

 

《理由その3》

 これは根拠というよりは利点というべきですが、onを人称代名詞の表に含めておくと、強勢形のsoiをうまく教えることができます。教科書では強勢形の人称代名詞の表にsoiは含まれておらず、触れる機会がないこともままあります。(注2)

 

 (9) On a souvent besoin d’un plus petit que soi.

  人は自分より小さいものの助けが要ることままもある。

 

【接辞代名詞と自立代名詞のちがい】

 上の表にまとめて示した人称代名詞は大きく二つのグループに分かれます。1人称単数を例にとると、主格 (je) / 直接目的格 (me) / 間接目的格 (me)がひとつのグループをなし、強勢形 (moi)だけが別になります。

 ちょっと横道に逸れますが「強勢形」という呼び名について少し触れましょう。強勢形人称代名詞はフランス語では pronom personnel toniqueといいます。toniqueというのは「強勢がある」という意味で、これにたいして主格・直接目的格・間接目的格の代名詞はpronom personnel atoneと呼ばれます。atoneとは「強勢がない」という意味です。

 英語では主語人称代名詞の にも強勢を置いて次のように言うことができます。

 

 (10) I dit it.(他の人ではなく)私がやったんだ。

 

 しかしフランス語ではこれはできません。主格の je に限らず、目的格の me にも強勢は置けないのです。ですからatoneと呼ばれているのです。

 これにたいして強勢形は次のような場合に使います。(11)では属詞として、(12)では前置詞とともに使われています。

 

 (11) C’est moi.  それは私です。

 (12) Viens jouer avec moi.  私と遊びにおいで。

 

 フランス語では強勢(アクセント)は英語ほど強くはなく、リズム・グループ(注3)の最後に置かれます。(11)や(12)で moi はちょうど強勢が落ちる位置にあり、このために強勢形と呼ばれるのです。このように強勢形というのは音声に着目した呼び名で、文法書でふつうに使われていますが、あまりよい呼び名とは言えません。それはこの代名詞の文法的な振る舞い、少しむずかしく言うと統語的実態を表していないからです。

 統語的に見ると、主格・直接目的格・間接目的格は接辞代名詞(仏 pronom clitique / 英 clitic pronoun)と見なされます。接辞というのは言語学の用語で、独立して使うことはなく、他の語にくっついて使う小さな記号のことをいいます。たとえば名詞の接頭辞で「再び」を表す ré- / re-などがそうです。redescendre のように、動詞の前に付いて「再び降りる」という意味を作ります。

 これと同じように、Je crois que oui.「私はそうだと思う」/ Il me déteste. 「彼は私を嫌っている」/ Elle me téléphone.「彼女は私に電話する」のように使われた人称代名詞も接辞なので、必ず動詞といっしょに使われます。

 「動詞にくっついていない。離して書かれているじゃないか」と思った人も多いことでしょう。そのとおりですね。アンドレ・マルチネ André Martinet (1908〜1999)という高名な言語学者は、je mange「私は食べる」のようにjeとmangeを離して書く習慣になっているが、ほんとうはjemangeと続けて書いた方がよいと言いました。卓見だと思います。それほど主語人称代名詞と動詞は緊密に結びついているのです。この結果、次のようなことが起こることに注意しましょう。

 

《その1》

 接辞代名詞は動詞と隣り合った位置でしか使えません。(13)は動詞の前にあり、(14)では疑問倒置されていますが、動詞のすぐ後にあるのでOKです。しかし(15)のように動詞から離れてはだめです。(注4)

 

 (13) Je pense, donc je suis.

          我思う、故に我あり。(Descartes)

 (14) Que sais-je ?

         私は何を知っているというのか。(Montaigne) 

 (15) *Paul gagne plus que je.

        ポールは私より稼いでいる。

 

 英語の人称代名詞は接辞性が弱く、自立性が強いので、(16)のように動詞から離れた場所でも使えます。しかし は主語人称代名詞なので、英語の授業ではつじつまを合わせるために「〜 than I (do)のようにdoが省略されている」と説明することが多いですね。

 

 (16) Paul earns more that I. ポールは私より稼いでいる。

 

《その2》

 接辞である人称代名詞は動詞と強く結びついているために、他の語が間に入ることができません。たとえば英語では often、always、seldomなど頻度を表す副詞は、(17)のように主語と動詞の間に置くのがふつうです。しかし、(18)でわかるようにフランス語ではこれはできません。(19)のように副詞は動詞の後に置きます。

 

 (17) I often go to school on foot. 

           私はよく学校まで歩いて行きます。

 (18) *Je souvent vais à l’école à pied.

 (19) Je vais souvent à l’école à pied.

           私はよく学校まで歩いて行きます。

 

 複合時制を作るavoir / êtreなどの助動詞は、(20)のように主語代名詞と動詞の間に置かれているように見えますね。しかし複合時制では助動詞が動詞の役割を果たしていて、過去分詞 atteintはいわば動詞のミイラとなって動詞としての特性を失っています。ですから nousは新たに動詞の役割を引き受けたavonsの前で使われているのでOKです。

 

 (20) Nous avons atteint le sommet.

          私たちは頂上に到達した。

 

 この原則の例外は (21)の否定辞のneと、(22)のlaや (23)のenなどの他の接辞代名詞です。enは中性代名詞と呼ばれていますが、人称代名詞と同じく接辞代名詞の仲間です。

 

 (21) Je n’aime pas les chats. Ils sont capricieux.

           私はネコがきらいだ。ネコは気まぐれだ。

 (22) Nicole ? Je l’ai vue ce matin au bureau de poste.

          ニコルですか。私は今朝郵便局で見かけましたよ。

 (23) Tiens, il y a un serpent. J’en ai peur.

          ほら、ヘビがいる。僕はヘビが恐い。

                         (この稿次回につづく)

 

(注1)『フランス文法総まとめ』を書いたときは、他にはない独創的な見解だと思っていたのだが、朝倉季雄『新フランス文法事典』(白水社)に、「一般に不定代名詞の1つとみなされるが、これを主語人称代名詞の中に加えることができる」(p. 344)と書かれていることに後で気づいた。また倉方秀憲『倉方フランス語講座 I 文法』(トレフル出版、2023)にも、「onは不定代名詞と呼ばれる品詞に分類されますが、動詞の主語として用いられる代名詞という点では主語人称代名詞と同じです」(p. 42)と書かれている。

(注2)朝倉季雄『新フランス文法事典』(白水社)では、soionではなく、再帰代名詞seの強勢形とされている。目黒士門『現代フランス広文典』(白水社)でも同じ見解を採っている。しかしながら、seil / elleの再帰代名詞でもあるが、特定の人を指すil / ellesoiは使わないので、そこにいささかの齟齬が感じられる。

 ちなみのsoionだけでなく、plus d’un(一人ならずの人々)、personne … ne (誰も〜ない)、tout le monde(みんな)、quiconque(誰でも)などの不定代名詞の強勢形としても使われる。 

  i) Tout le monde dit du bien de soi.

        誰しも自分のことをよく言うものだ。

 したがってsoionだけの強勢形ではなく、先行詞が不定のときや、le respect de soi(自尊心)のように先行詞が表現されていないときに用いるとするほうがより正確である。

(注3)リズム・グループ (groupe rythmique)の定義は難しいが、統語的・意味的に一つのまとまりをなす語群をさす。統語的には句(仏 syntagme、英phrase)に対応することが多い。次の例では / / がリズム・グループの境界を表す。

 i) / Il est à la maison. /

          彼は自宅にいる。

 ii) Un grand homme / n’est pas toujours / un homme grand.

        偉大な人は背が高いとは限らない。

(注4)公的文書などでは次のように人称代名詞jeを動詞から離して用いる例がある。

   i) Je soussigné, Président de l’Université de Paris VI– Sorbonne, certifie que…

        私、パリ第4大学ソルボンヌ校の学長は〜であることを証明する。

 これはjeなどの人称代名詞が強勢を持つことがあり、自立的に使われていた古フランス語の名残りである。

第401回 鈴木牛後『にれかめる』

脱いでなほ思ふかたちよ冬帽子

                                 鈴木牛後『にれかめる』

 

 鈴木牛後は話題の俳人である。それは句作を初めて10年で伝統ある角川俳句賞を2018年に受賞したからである。『にれかめる』はその翌年上梓された第一歌集。巻末のプロフィールによると1961年生まれ。2009年から夏井いつきが主催していたネット俳壇「俳句の缶づめ」に投稿を始める。2011年に黒田杏子の主催する結社「藍生あおい」に入会。2016年に旭川に本拠を置く俳句結社「雪華ゆきはな」に入会。2017年には北海道俳句協会賞と藍生賞を受賞している。すでに注目の俳人だったわけだ。

 俳号の牛後は中国の故事に由来する鶏口牛後、つまり「鶏口となるとも牛後となるなかれ」から採られている。この故事を逆手に取り、自分はリーダーではなく牛の群れに後から着いて行く人間だということから付けた俳号だろう。句集題名の「にれかめる」は動詞の「にれかむ」から来ている。「にれかむ」とは牛や山羊や羊などの動物が食べた草を反芻すること。集中には「にれかめる」を含む句が二句ある。 

にれかめる山羊と秋思の目を合はす

にれかめる牛に春日のとどまれり 

 かつての師の黒田杏子が寄せた「牛飼詩人六十頭の草を干す」という句が巻頭を飾っている。鈴木は北海道で酪農を営んでいたので、句の素材のほとんどは牛と牧場から採られたものである。酪農は牛と自然を相手にする仕事なので、牧場での日々の作業のそれぞれに自然の移ろいが感じられる 

羊水ごと仔牛どるんと生まれて春

餌箱に牛の残せし春うれひ

水温むほぐして香る草ロール

夏草や牛のあひだを鳶の影

霏霏と雪牛の眠りのみじかさに 

 一句目は牛の出産で季節は春。春は命の息吹が感じられる季節だ。三句目の季語は「水温む」で春。刈り取った牧草はビニールで巻いてロールにして保存し冬の飼料とする。草のロールをほぐすと閉じ込められていた牧草の匂いがあたりにたちこめるのだ。北海道の夏は短く冬は長くて厳しい。霏霏と雪の降る冬は牛の眠りも短いのだろう。

 命を相手にする仕事なので、仔牛が誕生することもあれば、飼っている牛が死ぬこともある。次の四句目は話題になった句で、本句集の帯にも印刷されている。 

牛の死に雪は真白を増しゆけり

牛の死に雪のつめたくあたたかく

幾度見る死せし仔牛や日雷

牛死せり片眼は蒲公英に触れて 

 牧場を取り巻く自然は豊かで、そこに暮らす生きものの死もまた詠まれている。 

ばつた死せりそのかたはらに肢死せり

トラクターに乗りたる火蛾の死しても跳ね

越冬の蝿うららかに覚めては死

出来事は小さく冬の蝶が死ぬ 

 牛や生きものの死を詠んだこのような句を見て、第一次大戦後にドイツで起きた芸術運動の新即物主義(ノイエ・ザハリッヒカイト)を思い浮かべた。その大きな特徴は過剰な主観性の排除と客観描写にある。牧場で牛を飼い毎日世話をして、ミルクを出してくれる牛が可愛くないはずはない。牛が死ねば悲しいだろうし、経済的損失も大きかろう。しかし鈴木の句には過剰な悲しみは表現されておらず、むしろ淡々とした態度である。生きものを飼っていると、新たな命が産まれることもあれば、さっきまで元気だった命が死ぬこともある。それは自然の大きな流れで、生と死は隣合わせというような思いがこれらの句には感じられる。

 特に感心したのは次の句である。白い蝶が元気に羽ばたいているときの白が死ぬときにはその色を失うという句だが、死んだときに色を失うではなく、色を失ったときに死ぬという逆転の発想が秀逸だ。 

白蝶の白をうしなふとき死せり 

 牧畜を離れた句にもおもしろいものが多い。 

みな殴るかたち炎暑の吊革に

トラクターの影にわが影ある晩夏

ちろろ抱く拳もっともやはらかく

八月を飛ぶたましひとレジ袋

蝦夷梅雨の馬具は革へと戻りたき

 一句目は電車かバスの吊革を握っている様が、人を殴る拳のようだという句。確かに吊革を握り締めている様子は拳闘の拳に見えなくもない。二首目は詩情溢れる句。挽歌の夕暮れの西日だろう。トラクターの大きな影と自分の小さな影とが重なっている。季節は晩夏がぴったりだ。三首目の「ちろろ」はコオロギのこと。コオロギを捕まえて握っているのだが、強く握るとコオロギを潰してしまうのでそっと柔らかく握っている。命の愛しさが感じられる句だ。四句目、八月は盂蘭盆会の季節なので、先祖の魂がこの世に戻ってくる。見えているのは風に飛ばされるレジ袋だが、その傍らに先祖の魂も飛んでいるかもしれない。五句目、梅雨の湿り気で革製品の馬具が元の動物の皮に戻ろうとしているかのごとき生々しい艶を帯びている。 

獣声のけおんと一つ夏果つる

いちまいの葉の入りてより秋の水

くものすのいつぽん春風が見える

暮れてゆく白蝶翅を畳むたび

牛追つて我の残りし秋夕焼

倒木はみな仰向けと思ふ秋

盆の夜の電灯揺るるとき楕円 

 いずれも詩情溢れる句ばかりだ。こう書き写して並べてみると、鈴木の句風の特徴がよくわかる。先に鈴木の俳句は新即物主義を思わせると書いたが、それはいささか修正が必要なようだ。それは鈴木の句が純粋な写生ではなく、どこかに〈私〉の分子が含まれているからである。五句目の「牛追つて」には「我」があるので明らかだが、一見そうは見えない句にもそれは潜んでいる。例えば二句目「いちまいの」では、落葉が一枚水に落ちたときから秋の水になるというのは客観描写ではない。〈私〉がそう感じたから秋になったのである。六句目「倒木は」ではもっとはっきりしている。本来は倒木に仰向けもうつ伏せもない。しかし〈私〉には木が力尽きてどうと仰向けに倒れたように感じられたのである。

 鈴木は数年前牧場を人に譲って離農し、現在は埼玉県に在住と聞く。牛を離れた鈴木はこれからどういう句を作ってゆくのか見るのが楽しみだ。

 

「フランス語100講」こぼれ話 (1) フランス語で一番長い単語

 私が大学生の頃、通っていた関西日仏学館(現 Institut français du Kansaï)でニコラ(Nicolas)君というフランス人の少年と知り合った。ニコラ君はふだんは東京の九段にあるフランス人学校(lycée français)に通っているのだが、夏休みで京都に滞在していたのだ。

 ある日のこと、ニコラ君は私にクイズを出した。

 

─ Quel est le plus long mot du français ?

 「フランス語でいちばん長い単語はな〜んだ?」

 

 私が「知らない」と答えると、ニコラ君は肺に空気を一杯吸い込む仕草をして、得意そうに言った。

 

─ Anticonstitutionellement.

 

 これは「憲法に違反して」という意味の副詞である。議論好きのフランス人ならば、ここで「いちばん長い」の定義をめぐって議論が起こるところだが、ここでは「いちばん文字数が多い」としておこう。この単語は25文字ある。どうやらフランス人の間ではこれがいちばん長い単語だということはよく知られているらしい。ただし「現行の辞書に載っている単語の中では」という条件が付く。

 最近では無理やりひねり出した感のあるintergouvernementalisations「政府間交渉化」(27字)がいちばん長いとする意見があるらしいが、こちらはまだ代表的な辞書に採用されていない。

 何の役にも立たない情報もうひとつ挙げておこう。フランス語には単数形で男性名詞だが複数形では女性名詞になる単語が3つある。

 

─ Quels sont les trois mots qui sont masculins au singulier et féminins au pluriel ?

 

 答は amour「愛」、délice「歓喜、恍惚」、orgue「オルガン」である。ただし、amour は mes premières amours「私の初恋」のように恋愛を意味する場合に限られる。また複数形の orgues は教会などにある大きなパイプオルガンを指す。朝倉文法事典には Cette cathédrale a de belles orgues.「この大聖堂にはりっぱなオルガンがある」という用例がある。また amourと orgue は載っているが délice についての記述はない。M. Grevisse / A. Goosse, Le Bon usage (Duculot, 12e éditon) を見ると、déliceは単数では男性で複数では女性だとちゃんと書かれている。知っていても何の役にも立たないが、座興でクイズにするにはよいかもしれない。

 

第400回 滝本賢太郎『月の裏側』

催花雨に濡れてやわらかき夜の街を菜の花色の電車はすべる

滝本賢太郎『月の裏側』

 「催花雨」とは花の開花を促す春の雨のこと。春の雨が静かに降る夜の街を、車体が黄色い路面電車がすべるように走っているという叙景歌である。しかしこの歌には言葉の仕掛けが施されている。催花雨はいつしか「菜花雨」と表記されるようになり、この語が「菜種梅雨」という言い方の元になったとされている。菜種と菜の花は同じものだ。すると歌に詠まれた電車が菜の花色なのは偶然ではなく、「催花雨」と「菜の花色」は裏側で縁語関係で繋がっていたことになる。

 滝本は1985生まれ。宝珠短歌会、りとむ短歌会を経て、まひるの会に入会。『月の裏側』は今年 (2025年)二月に上梓された第一歌集である。まひるの会代表の島田修三が帯文を寄せている。版元は六花書林。歌集題名は「たぶんここは月の裏側人と会う予定断り眠り続けて」という歌から採られている。

 帯文で島田は「戦後短歌からの現代短歌へと流れる水脈のひとつに、都市生活を背景とした知的抒情の系譜がある」とし、滝本の短歌はこの系譜を正統的に受けつぐものだとしている。作者はドイツ文学者で、現在大学でドイツ語やドイツ文学を教えているらしい。本歌集はほぼ編年体で編まれているのだが、読み進むにつれて歌風の変化が感じられる。

 歌集冒頭付近には次のような端正な歌が多く見られる。

クラウセヴィッツ語りしわれと向きあいてただ剥かれゆく甘夏の皮

夏至過ぎの空を沈めて昏みゆく窓につかのま海がきこえる

都市というセンチメントにふるるまで夕べを籠もるロイヤルホスト

またしても天使のことを話しつつあがたざかいの橋を越えたり

残暑とう光に濡れている路地のここより街の名前が変わる

 一首目のクラウセヴィッツは『戦争論』の著者。ナポレオンを初め多くの人が影響を受けたとされている。四首目の「あがたざかい」は県境のこと。文語(古語)定型の清新な抒情歌で、感性の若さが感じられる。大学の修士課程に在学していた頃の歌と思われる。

単位取得退学届に名を記し石積むごとくルビを振りたり

十代の半ばに泥みしスラングの日吉駅裏ひようら 、日吉のタクシーひよたく、とりわけ日大日吉ひよぽん

ひようらの裏の義塾の坂道を昼の無人に影をくぐらす

 大学院の博士課程で所定の単位を取得したら退学する。満期退学ということもある。その後博士論文を提出し、審査に合格すれば博士号が授与される。作者は慶應義塾大学日吉キャンパスで学んだようだ。三首目の「坂道を昼の無人に影をくぐらす」の助詞の使い方や、「影をくぐらす」という言い回しに修辞の工夫が感じられる。しかし滝本はこのように助詞にまで神経を使う清新な歌風を徐々に変化させてゆく。そのきっかけはおそらくドイツ留学にある。滝本は2年間ハイデルベルク大学に留学する。目的は博士論文の執筆である。博論の執筆は孤独な戦いだ。

博論のための留学たましいの半分くらいは学業に売る

ドイツにはもう慣れましたと嘘を書くしずかに轆轤回せるように

布袋に詰めれば鈍器となるほどの本携えて教授と会いぬ

世之介のごとく漁色に生くべきを学知のごとき世事にまみれて

ドイツとの金の切れ目の近ければ粛々と書く解約通知

 博士論文のために魂を半分売るくらいは学問を志す人は誰でもする。しかしこの歌には自嘲が感じられる。二首目にあるように留学先の異国に慣れるのは難しいこともある。三首目の「鈍器」には殺意が感じられて穏やかでない。四首目、学知を世事と断じるところにも自嘲がほの見える。五首目の解約通知は借りていたアパートの大家宛だろう。滝本はこうして2年の留学を終えて帰国するが、「よい思い出はほとんどない」と記している。

芦田愛菜をしまう校舎を窓越しに眺めて午後の教材を刷る

採点をつけつつ知りぬ九月より見ざる男の退学のこと

ドイツ語検定どくけんを無事取れましたとメール来る単位をせがむメールのあい

 芦田愛菜は慶應義塾大学法学部に入学したので、滝本も慶應でドイツ語を教えることになったのだろう。私も大学で教えていたので、大学教員あるあるだと感じる歌がいくつもある。このあたりから滝本の歌には憂鬱と疲労の霧が濃く立ちこめるようになる。それと平行して次の五首目のようななげやりな調子の歌も見られるようになる。どうやら作者は教員生活があまり楽しくないのか、あるいは孤独に苛まれているのかもしれない。

さびしさの臨界点をとっぷりと越ゆる夕べを浅蜊は煮える

労働がドイツ語がわれに背負わせる愁い捨つべし夜毎に走る

トルソーに対いつづけているごとく春のはじめのきまじめに鬱

夕過ぎていよよ濃くなるわが内の霧へ注げり大和のジンを

切れ味のよい歌がもうなんか無理シャワーヘッドは頭皮に当てる

 かと思ったら最終章の「炎、熾せば」では突然恋人が出現し、ラブラブの結末となり驚かされる。

指と指からめて繋ぐ手は熱く他愛ないことしかしゃべっていない

すみれの花の砂糖菓子より甘々きスタンプ送り合うにも馴れて

五時間の通話の内にまた君へ春の星座と共に傾く

 二首目のすみれの砂糖菓子はフランスのトゥールーズの名産品。同じ歌の「スタンプ」はLINEのものだろう。滝本の憂鬱はどこかへ吹っ飛んだようで、ご同慶の至りである。その後、結婚して幸せな新婚生活を送っていると聞き及ぶ。

分析のすずしさに指添わせつつわれも踏みゆく言語野の冬

ほのぼのと酔えば二階のこのバーの岸を離るる舟のごとしも

鷺一羽立たせる川に動かざりあぶらのように照るさびしさは

黒瑪瑙オニキスのカフスを通し冬立てば清しきまでに冷たしシャツは

たましいの彩度を上げるイタリアのリュートの楽を部屋に満たして

朝なさなコーヒー豆を挽くあいのわが頬を打つ夢の尾鰭は

冬の夜の重たさあれは憂鬱の酸っぱさだったかザワークラウト

 島田修三が帯文に書いた「都市生活を背景とした知的抒情」が感じられるのは上に引いたような歌だろう。一首目はドイツ語の文献を読んでいる歌で、指を添わせているのは印刷された文章である。二首目の「離るる」は「はなるる」ではなく「さかるる」と読みたい。酔いが回って陶然となった状態を詠んだ歌。三首目の「立たせる」は滝本がよく使う修辞で、「鷺が立つにまかせる、そのままにしておく」の意か。四首目には「オニキス」と「カフス」にス音の韻があり、その他にも「すがしき」「シャツ」にS音があって忍び寄る冬の冷気を感じさせる。最後の歌の「ザワークラウト」は乳酸発酵させた酸っぱいキャベツでドイツ料理に欠かせない保存食。

 プロフィールによると、滝本は文藝作品をその印象からお茶とスパイス料理で表現する「文スパの会」を主催しているという。テネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』だったら舞台はニューオルリーンズなので、料理はジャンバラヤとなるのだろうか。何やら楽しそうだ。


 

「フランス語100講」第3講 人称 (3)

〈1人称複数 nous

 1人称複数というのは問題の多い人称です。まずnousが複数の話し手をさすということはふつうありません。60年代の学園紛争が盛んな時代に、ヘルメット学生が声をそろえて「われわれは勝利するぞ!」と叫ぶ場合とか、小学校の卒業式で行われているシュプレヒコールで、先導者が「私たち卒業します」と言うと、卒業生全員が「私たち卒業します」と唱和するような場合にしか複数の話し手というものはありません。

 1人称複数にはふたつのケースがあります。〈私+あなた(方)〉つまり1人称+2人称の「私たち」か、〈私+彼(ら)/彼女(ら)〉つまり1人称+3人称の「私たち」のどちらかです。(1)が一つ目の場合で、(2)が二つ目の場合に当たります。

 

 (1) Toi et moi, nous serons toujours ensemble.

   君と僕はずっといっしょにいようね。

 (2) Ta mère et moi, nous pensons à ton avenir.

   お母さんも私もおまえの将来を考えているんだよ。

 

 言語学では聞き手を含む一つ目を「包括的 nous」 (nous inclusif)、聞き手を含まない二つ目を「排除的 nous」(nous exclusif) と呼ぶことがあります。言語によっては異なる語形を使うものがあるからです。(注1)日本語でも、「私ども」とか「手前ども」と言うときは、「ども」が謙譲を表すので、聞き手を含まない排除的な人称詞になります。

 実はフランス語にも同じような現象があるのです。nous や vous に autres を付けた次のような表現です。

 

 (3) Nous autres Allemands, nous avons l’habitude de juger les hommes

        d’après leurs œuvres. Nous possédons le goût du travail pour lui-même.

                                    (Ernst-Robert Curtius, Essai sur la civilization en France)

  私たちドイツ人は、人を評価するときに、その人がなし遂げた業績を重んじ

  るきらいがある。私たちドイツ人は仕事自体を好むのだ。

 

 著者のクルチウスはドイツ人で、この文章は「私たちドイツ人」nous autres Allemandsと「あなた方フランス人」vous autres Françaisとの国民性のちがいを論じています。この nous autres は聞き手を含まない排除的な1人称複数です。これを知らないと「私たち他のドイツ人」などと訳しかねませんね。

 1人称複数が孕むもうひとつの問題は、nous のさす範囲が大きくなったり小さくなったりして、変幻自在だという点にあります。次の例のような哲学の文脈では、nous は人間一般を広く指します。これが nous の取り得る最大値でしょう。

 

(4) Nous ne voyons pas les choses mêmes ; nous nous bornons, le plus souvent,

     à lire des étiquettes collées sur elles. Cette tendance, issue du besoin, s’est

    encore  accentuée sous l’influence du langage.           (Henri Bergson, Le rire)

 私たちは物自体を見ていない。たいていは物に貼られたラベルを見ているのだ。必要

 から生まれたこの傾向は、言語の影響を受けてさらに強まった。

 

 では次の文章ではどうでしょうか。

 

 (5) Notre civilisation est une somme de connaissances et de souvenirs accumulés

        par les générations qui nous ont précédés. Nous ne pouvons y participer qu’en

       prenant contact avec la pensée de ces générations. Le seul moyen de le faire et

      de devenir ainsi un homme cultivé, est la lecture.       (André Maurois, Les livres)

 われわれの文明は先人たちが積み重ねた知識と記憶の集合体である。先人たちの思想に

 触れることなくしては、文明に参画することはできない。先人たちの思想に触れて教養

 ある人士となる唯一の方法は読書である。

 

 この例の nous を広く取れば「人類全体」になります。しかし文字を持たず、本というものがない民族もあるので、人類全体と取るのは多少抵抗を感じます。著者はフランスを含むヨーロッパを中心に考えているようにも思えますね。もしそうだとすると nousは 西欧文明に属する人たちということになります。 

 このように nous は民族や地理といった要因によって伸び縮みするので、単に「私たち」と訳すのは危険です。それだけではありません。時間の影響も受けるのです。次の例の所有形容詞 notre の背後にいる nous は現代に生きる私たちです。ですから過去の人は含みません。

 

 (6) Paul Morand, qui est sans doute l’un des observateurs les plus pénétrants de

       notre époque, a fait remarqué que le XXe siècle n’avait inventé qu’un seul vice

       nouveau, la vitesse.                                (André Siegfried, Aspects du XXe siècle)

 おそらく現代で最も洞察力のある批評家であるポール・モランは、20世紀が生み出し

 た悪習はひとつしかないと指摘した。それはスピードである。

 

 たぶん nous の取る最小値は次のような表現でしょう。

 

 (7) Entre nous, je vais quitter la boîte le mois prochain.

   ここだけの話だが、私は来月会社を辞めるんだ。

 

nous は本や論文の著者をさすときにも使います。「著者の nous」 (nous d’auteur) とか「謙遜の nous」(nous de modestie)といいます。この場合は「私たち」と訳してはいけません。君主や枢機卿など高位の人が自分をさすときにも使い。これを「威厳を表す nous」(nous de majesté)といいます。

 

 (8) Hormis de légères retouches intégratives et une réunion des références mises

        à jour dans une bibliographie générale, nous ne leur (=les sept travaux qui

        constituent ce recueil) avons volontairement pas apporté de remaniements.

                                               (Georges Kleiber, Anaphores et pronoms, Duculot, 1994)

 用語の統一などの軽微な修正と、参考文献を最新のものにしてひとつにまとめた以外

 は、私は本論文集に収録した7つの論文にわざと手を加えずそのまま掲載した。

 

 ただし、最近は著者のnousに代わってjeと書く人も増えてきました。この用法で属詞が形容詞や過去分詞のときは単数形にします。さしているのは一人の人だからです。さしている人が女性のときは女性形になります。

 話し言葉では nous は親愛の情をこめて tu の代わりに使われることもあります。

 

 (9) Avons-nous été sage ? お利口にしてたかな。

 

〈2人称複数 vous

 ていねいに一人の聞き手をさす用法以外に、vousには主に文章で読者一般をさす用法があります。英語のyouと同じですね。

 

 (10) Damandez à plusieurs personnes de vous expliquer ce qu’est le temps. Vous obtientrez probablement autant de réponses différentes.

何人かの人に「時間とは何ですか」とたずねてごらんなさい。たぶんたずねた人の数だけ異なる答が返って来ることでしょう。

 

〈3人称複数 ils / elles

 さしているのがすべて男性の場合は男性複数の ils、すべて女性のときは女性複数の elles になるのは当然です。しかし男性と女性が混じっているときは ils を使うことに違和感を感じる人もいることでしょう。言語学では男性と女性の対立が中和されると考え、この ils を男性ではなく「通性」と呼ぶことがあります。とはいうものの、99人の女性と1人の男性の集まりでも ils になるのですから、ジェンダー的には問題と言えるかもしれません。

 男性複数形の ils にはちょっと特殊な使い方があります。先行詞なしで使う次のような例です。

 

 (11) Ils ont encore augmenté les impôts.

   あいつらまた税金を上げやがった。

 

 この用法では話し手も聞き手も含まずに不特定の人をさし、「当局、その筋」などのお偉方を意味することが多いようです。同じく不特定の人をさす代名詞に on がありますが、on は話し手や聞き手を含むこともあるので、この点で ils と使い分けされています。

 

〈人称の転用〉

 人称代名詞はそれがさしている本来の人称以外の人称に転用されることがあります。上の (9) で挙げた tu の代わりに使われる nous もそのひとつです。

 近年のフランス語学の研究で注目されているのは1人称の je の次のような使い方です。(注2)次の例の動詞validerはもともとは「有効なものにする」という意味です。

 

 (12)[路線バスの表示]

         Je monte (直訳)私は(バスに)乗車する

         Je valide (直訳)私は(切符に)打刻する

 

 パリの街を走る路線バスは、1時間半以内ならば同じ切符で乗り換えができます。このため乗車したら切符を機械に差し込んで、乗車時刻を印字しなくてはなりません。これを怠ると高額の罰金を取られることがあります。(12)を日本語風の言い方にすると、「バスに乗車したら切符に時刻を印字しましょう」とでもなるでしょうか。

 (12)の je は誰をさしているのでしょうか。主語 をon に変えて On monte, on valide.とすることもできます。on は漠然と人一般をさす代名詞ですから、こう書き変えると、切符に印字するのは誰にでも求められていることだということになります。ところが je は人一般をさす代名詞ではありません。ではどうして (12)が乗客一般に当てはまる標語になるのでしょうか。それは今まさにバスに乗車しようとしている人が、この標語を読むことによって自分を je の立場に置くからだと考えられます。つまり乗車という状況が持つ場面の特定化によって、パスに乗る人がjeの立場に立つのです。je が人一般を表す代名詞ではないのに、乗る人すべてをさすように見えるのはこのようなメカニズムによると考えられます。次の例も同様です。(注3)

 

 (13) J’AIME MON QUARTIER (直訳)私はこの町が好きです。

          JE RAMASSE        (直訳)私は(犬の糞を)拾います。

 

 パリの公園などにある注意書きです。この標語は犬を散歩させている人に、糞を拾って持ち帰るように呼びかけています。この場合にも犬を散歩させているという場面の力によって、散歩させている人がこの標語の je に当てはまる立場であると理解するのです。

 しかしjeは話し手をさす代名詞ですが、公園でこの注意書きを読む人は発話していません。発話行為によって定義づけられているはずの1人称代名詞なのにどういうことなのでしょう。

 上の注意書きは2人称を用いて、Si vous aimez votre quartier, vous ramassez.「あなたがこの町が好きなのならば、糞を拾いましょう」とすることもできます。こうすると、標語を書いた当局の人から、犬を散歩させている「あなた」への呼びかけとなり、ふつうの依頼の表現です。しかし je を用いた標語を読む人は、「読む」という行為を通して自分を潜在的な話し手の立場に置くのではないかと考えられます。文章を読むときは、実際には声を出していなくても、心の中で音読していますよね。こうして潜在的な話し手の立場に置かれた人は、vousを使った標語よりもずっと強い強制力を感じるのではないかと思います。標語に je を使う のはこのような理由によるのではないでしょうか。

 

(注1) インド亞大陸の南部で話されているドラヴィダ諸語やオーストラロネシア諸語では包括的nousと排除的nousを区別している。

(注2)フランス・ドルヌ「偽装された命令 Je monte, je valide」、川口順二編『フランス語学の最前線』第3巻特集「モダリティ」、ひつじ書房、2015.

(注3)泉邦寿「一人称のレトリック的用法について」『川口順二教授退任記念論文集』2012. https://shs.hal.science/halshs-01511628

 この用法は牧彩花「一人称詞を用いた引用表現に潜む『声』」、阿部宏編『物語における話法と構造を考える』ひつじ書房、2022でも詳しく論じられている。