第419回 林祐一『Curriculum Vitae / ポリクリノート』

リスフラン関節きらりと輝かせ素足の二十三歳が来る

林祐一『Curriculum Vitae / ポリクリノート』

  リスフラン関節とは足の甲の骨と足指の骨をつなぐ関節のことで、持ち主はおそらく後に作者の妻となる女性と思われる。季節は初夏で女性は素足にサンダルを履いているのだろう。サンダルの網目の隙間から関節がのぞいているのだ。「素足の二十三歳」は属性で主体を表す換喩(メトニミー)だが、それ以上に描写の焦点をリスフラン関節に絞った手法がおもしろい。作者は医学者なので、このような理系用語が短歌にうまく織り込まれている。

 巻末のプロフィールによれば、林は1974年生まれで、歌林の会に所属している。第10回の歌壇賞(1999年)で優秀作品に選ばれ、結社内ではかりん賞とかりん力作賞を受賞している。坂井修一の解説によれば、この二つの賞をダブル受賞したのは林ただ一人だという。本歌集は昨年(2025年)上梓された第一歌集で、馬場あき子が帯文を、坂井修一が解説を寄せている。歌集題名のCurriculum Vitaeはラテン語で履歴書を意味する。医学の研究者である作者は、あちこちのポストに応募するたびに履歴書を書くのである。また後半のポリクリノートとは、学部時代の臨床実習のノートのことだという。ポリクリはドイツ語のPoliklinikの略語である。医学にはカルテやクランケやルンゲなどドイツ語が多く使われている。題名の後半が作者の医学生時代を、前半がボスドクの研究者の時代を表している。

 さて、作者の作風だが、実に正統的な近代短歌で、歌意を取れない歌はひとつもない。巻頭あたりから何首か引いてみよう。

キャリアとは馬車の轍に由来せり雪は静かに我に見せるも

一滴のオイルを落とし見に行けば黄昏色に染まる細胞

骨箱の骨は指紋にまみれつつくぼみは長き名前を持てり

夕暮れの水を小さな胸で押す鴨に時間を与えしうみ

長く長く手術見学立ちし夜『短歌一生』買いて帰りぬ

 一首目はプロローグとして一首だけ置かれた巻頭歌。作者は医学の研究者としてキャリアを積んで階梯を上らなくてはならないのだが、それは時に肩に重くのしかかる。窓の外に静かに降る雪がその重みと対比されている。二首目は細胞の染色実験だろうか。顕微鏡の視野が黄昏色に染まる。三首目は口頭試問の情景で、試験官は骨箱から骨を取り出して部位の名称を問うのだろう。四首目は叙景歌で、湖面を滑るように泳ぐ鴨を詠んでいる。鴨の一生は短く、湖の寿命は果てしなく長い。五首目の『短歌一生』は上田三四二の著書。あとがきによれば、作者が短歌を作り始めたのは斎藤茂吉の歌に接したことがきっかけだという。茂吉も医学者であり、上田もまた医者であった。医者で歌人という系譜に林もまた連なるのである。

 医者として勤務する現場を詠んだ歌は、広い意味で職業詠と言えるだろう。それは第II章から始まる。最初の勤務地は新潟だったようだ。

昏睡の人へも朝の挨拶を 診察のたび深く思えり

肺癌を肺炎というさみしさよ麻薬の紅きハンコを押せば

死を告げて来たりし夜を刻むごと雨こぼしたり紫陽花の街

背に負いて患者の目方測りたりもう今は亡き人となりしが

眠れざる患者に夜を付き添えば家でしずかに死にたしという 

 一首目には作者の誠実さがよく現れている。朝の回診時に昏睡している患者にも「おはよう」と声をかけるのである。二首目、今では癌の告知は進んでいるが、昔は本人に告知しないことが多かった。本当は肺癌なのに本人には肺炎と嘘を告げるのだ。そして鎮痛作用のある麻薬を処方している。特別な処方なので赤い印を押す決まりなのだろう。三首目、亡くなった患者の家族に「ご臨終です」と告げるのは医者の辛い役目だ。季節は紫陽花の咲く梅雨時である。四首目、死亡診断書に体重を書かなくてはならないが、亡くなった人は体重計に乗らないので、医者が背負ってだいたいの体重を推測するのか。五首目、入院や手術は患者にとって大きな身体的負担である。入院が長引くと、もう治療は止めて家で最後の時を迎えたいと思うのは無理もない。

 掲出歌もそうだが、医学などの理系用語が詠み込まれている歌はおもしろい。

遠き君に伝えむとする肝臓のリーデル葉のうつくしさなど

フェノチット開胸器にて開かるる人体に深きくれないの闇

立春の大地に深く眠りたるモホロビチッチ不連続面

ロピタルの定理はいつも鮮やかに娘と我は似た手を使う

白衣脱ぐ ライプニッツの公式に心を寄せる我が昼さがり

ペンローズの階段我はせつせつと登りしごとくまた春は来る

 一首目のリーデル葉とは肝臓の一部が舌のように垂れ下がったものらしい。二首目のフェノチット開胸器は外科手術で胸部を開く器具。ネットで検索してみると、ラチェットの付いた恐ろしげな器具の写真が出てくる。三首目のモホロビチッチ不連続面は地表面とマントルの境界面で、そこを通過する時に地震波の波長が変化する。四首目のロピタルの定理は微積分で使う定理で、ベルヌーイの定理とも呼ばれているらしい。作者は進路を考えるときに、医学を選ぶか数学を選ぶか迷ったことがあるくらい数学に造詣が深い。一人娘と数学を通して交流できるとはうらやましい。五首目のライプニッツの公式は円周率の値を求めるための公式。六首目のペンローズの階段はいくら登り続けても上に行けずに元の場所に戻る不可能図形で、エッシャーのだまし絵に描かれている。

 私はかねてより理系と短歌は相性がよいと考えているのだが、上に引いた歌のように本来は抒情詩である短歌の中に硬質の理系用語が詠み込まれると、異質な言葉が混じることによって抒情の質が変化するように感じられる。それはあたかもウィスキーの古酒に数滴の水を垂らすと、封印されていた香りが立ち上るようでもある。

 勤務医をしながら医学研究をする日々はなかなかたいへんなようだ。

自らを励ましながら登る坂 研究はいたる所、坂道

我もまた研究テーマを捨てる夜の苦々しきを『遍歴』に見つ

ロンドンで冷たくされし論文に心あたため朱を入れてゆく

ポスドクのように扱われることも石のごとくに耐えねばならず

途中から傾斜のきつき四十代 講師を二回更新したり

 二首目の『遍歴』は斎藤茂吉の第五歌集で、海外留学中の出来事を詠んだ歌が収められている。研究者にとって研究テーマを捨てるのは辛いことである。三首目は専門雑誌に投稿した論文がリジェクトされたのである。投稿するにはかなりのお金を払わなくてはならないジャーナルもあると聞く。四首目の「ポスドク」とは、博士号を取得した後で任期付きのポストについて研究に従事する人のこと。まだ任期なしの専任ポスト(テニュア)がなく、所属先を転々とすることも多い。ポスドクのように扱われるのは悔しいことなのだ。

 家族を詠んだ歌にも人生に誠実に向き合おうとする姿が見える。人生と仕事と家族がバランスよく詠まれていて、最近そのような歌集をあまり読んだ記憶がない。所々に挟まれている叙景歌にも心に響くものがある。 

人間の死を見過ぎたる目玉かな今宵まぶたの裏まで洗う

明日殺すネズミに餌を与えむと夕暮れてひとり上がる階段

馬酔木咲く村の小さな道に来て風の曲がれば我も曲がりぬ

王宮にもう座らざる赤き椅子腰かけている夕べのひかり

我が去りし埠頭に一つ石冷えて船虫長き触覚を持つ

もう誰も降りぬ駅にも秒針の進みて夏の終わりを告げる

玄関にひとつ静かに立っていた斜めを好む我の雨傘

 特に心惹かれた歌を引いた。最後の歌の斜めを好む雨傘は作者の自画像だろう。巻末にエピローグとして次の一首が置かれている。 

数学と医学のわかれ道はあり追わずに過ぎしニコラ・ブルバキ 

 ブルバキはフランスの数学者グループで、ニコラ・ブルバキという架空の人物名で活動し、数学界に大きな影響を与えた。思想家シモーヌ・ヴェイユの兄のアンドレ・ヴェイユも創立メンバーの一人。作者の過ぎ越して来た人生を振り返っての一首である。

「フランス語100講」第17講 目的補語と動詞のタイプ

【補語という用語に注意しましょう】

 さて、今回は目的補語とそれに基づく動詞のタイプの話をするのですが、その前にちょっと断っておきたいことがあります。それは「補語」(complément) という用語についてです。第9講でも少し触れましたが、英語の「補語」(complement) という用語と混同しないようにしてください。英語では次の例 (1) (2) のようにbe動詞の後に置かれた形容詞・名詞を主格補語と呼びます。(フランス語ではこれを主語の属詞 attribut du sujetと言います)また (3) (4) のように目的語にかかる形容詞・名詞を目的格補語と呼びます。(フランス語では直接目的補語の属詞 attribut du complément d’objet directと言います)

 

 (1) Peter is tall. ピーターは背が高い。

 (2) Jane is a pilot. ジェーンはパイロットだ。

 (3) He found the book interesting. 彼はその本をおもしろいと思った。

 (4) They made their son a doctor. 彼らは息子を医者にした。

 

 一方、フランス語で補語と呼ばれているのは、文の主語・動詞・属詞以外の名詞要素です。(5)の直接目的補語、(6)の間接目的補語、(7) (8) の状況補語があります。

 

 (5) Nicole a acheté une robe bleue. ニコルは青いドレスを買った。

 (6) Je pense aux vacances d’été. 私は夏休みのことを考えている。

 (7) Il se promène dans le jardin public. 彼は公園の中を散歩している。

 (8) Mes parents resteront une semaine. 両親は2週間滞在する予定だ。

 

 また「補語」という用語に与えている意味が英語とフランス語でちがうことにも注意しなくてはなりません。英語の「補語」には次のような意味がこめられています。

「動詞の中には、I am .(私は、△である)とか、They made Bill . (彼らは、ビルを△にした)のように、主語または目的語と結びついただけでは完全な意味を表すことができないものがある。(…)これらの文は、△の位置に、それぞれ happyとか their leaderとかを補ってはじめて、文意が完全になる。(…)このように、主語または目的語について、それが『何であるか』、あるいは『どんな状態にあるか』を述べて叙述を完全にする語句を補語 (complement, C)と言う。」(注1)                               

 上の引用からわかるように、英語でいう「補語」とは、それなくしては完全な文にならないどうしても必要な要素をさしています。これにたいして、フランス語の補語は多くの場合、それがなくても文として成り立つが、あればさらに文の意味がはっきりするものをいいます。

 

 (9) Paul travaille dans cette usine. ポールはこの工場で働いている。

 (10) Le mur du voisin est couvert de lierre. お隣の塀はツタで覆われている。

 

 (9) dans cette usineは状況補語で、これがなくても Paul travaille.だけで文として成り立ちます。dans cette usineは「どこで」という情報を付け加えています。また (10) du voisinは名詞の補語と呼ばれていて、これを省いても Le mur est couvert de lierre.は文として成立します。du voisinは「どの塀か」という情報を付け加えています。このように同じ「補語」という用語を使っていても、フランス語と英語とではその意味がちがっているのです。

 

【直接目的補語と間接目的補語】

 目的補語には直接目的補語 (complément d’objet direct) と間接目的補語 (complément d’objet indirect) があります。(11)のように前置詞なしで動詞に続くのが直接目的補語で、(12) (13) のように前置詞を挟んで動詞に続くのが間接目的補語です。

 

 (11) Clarisse conduit une voiture allemande. クラリスはドイツ車を運転している。

 (12) J’ai téléphoné à une agence de voyage. 私は旅行代理店に電話した。

 (13) Nous doutons de ta sincérité. 私たちは君の誠実さを疑っている。

 

 前置詞があるかないかで区別できるのではっきりしています。フランス語には英語のような二重目的語構文はありません。英語のI gave Peter a necktie. 「私はピーターにネクタイをあげた」では Peterが間接目的語で a necktieが直接目的語ですが、どちらにも前置詞なしの名詞なので、見た目では区別できません。しかしフランス語ではこういうことはなく前置詞の有無で区別できます。

 

【動詞のタイプ】

 動詞のタイプ分けは目的補語の取り方に基づいて行われています。

 まず目的補語をまったく取らない動詞は自動詞 (verbe intransitif) と呼ばれています。intransitifというのは、動詞が表す動作・行為が主語以外のものに及ばないという意味です。たとえば次の例の動詞は典型的な自動詞です。

 

 (14) Les enfants dorment dans leur chambre.

   子供たちは寝室で眠っている。

 (15) Quelque chose a bougé dans la cuisine.

   台所で何か動いた。

 

 直接目的補語を取る動詞を他動詞 (verbe transitif) と呼びます。transitifというのは、動詞が表す動作・行為が目的補語の表す事物に直接に及ぶという意味です。

 

 (16) Jean a mangé une banane.

   ジャンはバナナを食べた。

 (17) J’adore les films d’amour.

   私は恋愛映画が大好きだ。

 

 とは言っても動詞が表す動作・行為の及ぶ程度はさまざまです。(14)ではジャンがバナナを食べればバナナはなくなってしまいます。しかし (15)では私が大好きだからといって恋愛映画が何か変化するわけではありません。mangerは他動性 (transitivité) が高い他動詞で、adorerは他動性が低い他動詞です。

 間接目的補語を取る動詞を間接他動詞 (verbe transitif indirect) と呼びます。動詞が表す動作・行為が目的補語が表すものに間接的に及ぶとされているので、このような呼び名があります。

 

 (18) Il ressemble beaucoup à son grand-père.

   彼は祖父にとてもよく似ている。

 (19) Il a abusé de la naïveté de Pierre.

   彼はピエールの世間知らずにつけこんだ。

 (20) Je compte sur vous.

   私はあなたを頼りにしています。

 

 間接目的補語に付く前置詞は (18) のように à がいちばん多いのですが、(19)のように de (20)のようにsurが使われることもあります。

 このような動詞が間接他動詞と呼ばれている理由は、動詞だけでは意味が完結せず、目的補語が必要だからです。たとえば ressembler「似ている」はそれだけでは使うことができず、à 〜「何々に」という間接目的補語がなくてはなりません。間に前置詞を挟んでいる分だけ、動詞の表す動作・行為が目的補語に及ぶ度合いは低くなりますが、間接目的補語がなくては動詞の意味が完成しないために間接他動詞と呼ばれています。

 しかしこのような動詞の分類の仕方に問題がないわけではありません。たとえば (20) compterという動詞は、(21)のように自動詞としても (22) のように他動詞としても使うことができます。

 

 (21) Cet enfant sait compter jusqu’à dix.

   この子は10まで数えられる。

 (22) Elle a compté les élèves.

   彼女は生徒の数を数えた。

 

 そうすると辞書の compterの項目には、「自動詞」「他動詞」「間接他動詞」の三つの用法を挙げなくてはならず、とても複雑になってしまいます。このような煩雑さを避けるために、間接他動詞という部類を認めず自動詞とする立場もあります。

 また間接他動詞の中で目的補語を必要とする度合いにもちがいがあります。上に挙げた ressemblerà 〜「何々に」がないと使えません。しかし penser「考える」や croire「思う、信じる」は目的補語がなくても使えます。

 

 (23) Il pense à son projet d’avenir.[目的補語あり]

   彼は将来の計画のことを考えている。

 (24) Je pense, donc je suis.[目的補語なし]

   我思う、故に我あり。(デカルト)

 (25) Elle croit en Dieu. [目的補語あり]

   彼女は神を信じている。

 (26) Pierre est là ? — Oui, je crois. [目的補語なし]

   「ピエールはいるかい」「うん、いると思うよ」

 

  (24) (26) のような目的補語のない間接他動詞と、Il dort.「彼は眠っている」のような自動詞とどこがちがうのかということを問題にする人もいるでしょう。

 (24) (26) のように目的補語を取らない使い方を絶対用法 (emploi absolu) と呼ぶことがあります。他動詞にも絶対用法があります。

 

 (27) Hélène lit beaucoup.

   エレーヌは読書家だ。

 (28) Il faut manger pour vivre.

   生きるためには食べなくてはならない。

 

 また自動詞も稀に直接目的補語を取ることがあります。

 

 (29) Il dort un sommeil paisible.

   彼は安らかな眠りを眠っている。

 

 目的補語のsommeil「眠り」はdormir「眠る」という動詞の意味に含まれているので、このような補語を同族目的語 (objet interne)と呼びます。このように自動詞・他動詞・間接他動詞というタイプ分けは絶対的なものではなく、タイプの境界を越えることもあります。

 

【代名動詞のタイプ】

 フランス語には se promener「散歩する」のように再帰代名詞seが付いた代名動詞 (verbe pronominal) と呼ばれるものがあります。あまり教えられてはいませんが、代名動詞にも自動詞・他動詞・間接他動詞の区別があります。再帰代名詞のseの大部分は直接目的格なので、いちばん多いのはそれ以外に目的補語を取らない自動詞的な代名動詞でしょう。

 (30) Clarisse s’est reveillée tôt le matin.

   クラリスは朝早く目覚めた。

 (31) Ill se promène dans le jardin public.

   彼は公園を散歩している。

 

 間接目的補語を必要とする間接他動詞的な代名動詞も少なくありません。

 

 (32) Je me souviens de cet événement.

   私はこの出来事を覚えている。

 (33) Mon fils s’intéresse à l’astrologie.

   息子は天文学に興味がある。

 

 少数ながら直接目的補語を取る他動詞的なものもあります。この場合、再帰代名詞seは間接目的格になります。

 

 (34) Mon frère s’est procuré une nouvelle voiture.

   兄は新しい車を手に入れた。

 (35) Je ne me rappelle plus son prénom.

   彼(女)のファースト・ネームが思い出せない。

 

(注1)安藤貞雄『現代英文法講義』開拓社、2005.

 

 

 

 

 

第418回 荒川梢『火をよせる』

ちらばった折り紙を寄せととのえた一番上は夏からの私信

荒川梢『火をよせる』

 作者の荒川は1988年生まれで、「まひる野」に所属する歌人。今までに現代短歌社賞の候補作や佳作に選ばれたり、第35回歌壇賞(2024年)の予選通過作品になったりしている。本歌集は昨年(2025年)の暮れに上梓された第一歌集。歌集題名は歌壇賞に応募した連作中の「灯心に火をよせるとき一瞬の祈りがよぎり小さき火ともる」から採られている。

 職場詠が多いのが本歌集の特徴だが、作者が葬儀社に勤務しているということから葬儀にまつわる歌にまず目が行く。

受話器からしっとり雨の匂いする冷房強き葬儀社オフィスに

さよならを言うために幾度もたましいは家族をなして木蓮の白

もうこれは葬儀依頼の声だけど依頼されるまでファの声通す

ニン」でなく「ケン」と数える かなしみに呑み込まれないまじないとして

地獄すらいけないだろう御目閉ざすお守りとしてアロンアルファを

 いずれも現場感溢れる歌である。三首目、電話を受けてすぐ葬儀の依頼だとわかっているが、実際に依頼が口にされるまでは事務的なニュートラルな声で話している。依頼の内容を先取りしてはいけないのだ。四首目、その日に葬儀依頼を受けた亡くなった人を「〜人」ではなく「〜件」と数えるのは、「〜人」だとあまりに生々しいからだろう。五首目にはちょっと驚いたが、ご遺体の目がどうしても閉じないときの万一に備えて、瞬間接着剤をポケットに忍ばせているということか。罰当たりなことだと本人も自覚しているので、地獄すら行けないのだ。

はい(と声をあわせて)もちあ、がらないですね 担架の持ち手を手首に巻いて

持ち手の痕みっしり残る右手首使ってすする春雨スープ

六人で霊柩車へ乗せたのにケーキ箱ほどにおかえりなさい

燃やさるるお役目果たせず横たわる桐平棺は研修室に

きみを抱く指先から指先までの五尺にて測る長き白布を 

 一首目はご遺体を担架で運んでいる場面。数人で持ち上げようとするが、重すぎて持ち上がらない。「もちあ、がらないですね」と読点で区切ってあるのは、「もちあ」までは力を込めて持ち上げようとしているのだが、読点の箇所で持ち上がらないことに気づいたからである。時間的な意識の流れを読点で表現しているのがおもしろい。担架の取手に付いている紐を手首に巻いたため、二首目にあるように手首に痕がくっきりと残る。「みっしり」は物が詰まっている様を表すので、ここではあまり適切ではないだろう。三首目、六人がかりで運んだご遺体も、焼き場で骨となって戻って来ると、ケーキ箱程度の大きさになる。人生の終わりに人が占める容積はこの程度だという認識。四首目と五首目は研修の様子を描いている。研修室に置かれた棺は、本来ならば焼き場で燃やされるはずなのだが、燃えることなくある。認識の逆転を詠んでおもしろい。五尺は約1.5mで両手を広げた長さに当たる。ご遺体に掛ける白い布の長さを測るのである。「指先から指先まで」という具体性が歌をリアルなものにしている。

 作者が勤務している職場はなかなかハードなようで、疲れた心と体を詠んだ歌が多い。 

一週間で消えた派遣の空っぽのデスクに今日の昼ごはん置く

ないだろうな特別ボーナス 如月のやわらかな雨をじっと仰いで

歌集なら四冊買えるミュージカル一回見られる「葬儀概論」

パンフレット顧客情報チラシを広げいざ勘違い野郎クレーマーに電話をかけん

出勤を阻んでおくれ道の影よ起き上がりわれを包みこむように 

 厚労省認定の葬祭ディレクターの資格を取得するには、『葬儀概論』というぶ厚い本を読んで、模擬問題集などで勉強しなくてはならない。折しも浜辺美波と目黒蓮主演の『ほどなく、お別れです』という映画が公開されている。シフトによって夜の電話番も回って来る。人は死ぬ時を選べないので24時間稼働しているのだろう。葬儀会社にもクレーマーがいることにも驚く。五首目は特に疲労感が強い。道に落ちた自分の影が起き上がって、出勤を妨害してほしいと願っている。

 読んでいて気づいたのは、とてもユニークな喩が多いことだ。 

海底へひしゃげていった空き缶のようにわたしの背中丸まる

劣勢のオセロのようにつぎつぎと夜の電話番シフトが増える

びしょびしょのポイのようなる角膜で画鋲の金を案にねじ込む

土星の環ひっかかりたるのみどかな咳の軌道に身体がよじれる

クッキーのほろほろ崩れる歯触りのように過ぎゆく春のひと日は

弦張らば天の向こうまで裂いていく弓になれそうな立葵生る

揚げ忘れた碇が底の岩盤にひっかかるごとの奥うずく 

 一首目では背中の丸まりを水圧でひしゃげた空き缶に喩えている。オセロでは形勢が逆転すると盤面の色が突然変わる。職場の壁に貼られた電話番シフト表はたぶん枡目になっているのだろう。三首目のポイは金魚すくいで使う道具。びしょびしょのポイはもはや破れる寸前だ。喉のいがいがを土星の環に喩えるのは珍しい。また軌道は土星の縁語である。五首目では「クッキーのほろほろ崩れる歯触りのように」までが直喩で、歌のほとんどを占めている。最後の「過ぎゆく春のひと日は」は、まるで俳句の季語のように置かれている。ここまで喩が長いと、虚と実の逆転現象が起きて、虚の方が実感として感じられるほどだ。それは六首目にも言えて、「弦張らば天の向こうまで裂いていく弓になれそうな」までが直喩になっていて、どうやら作者はこのような手法を好んでいるとも思える。このことは最後の歌にも当てはまる。 

あおはるの貯金箱のごといつまでも光のにおいを溜めるワイシャツ

青空から切り取り青いバケツへと葡萄の眼にはいつまでも青

指先を離すときこそ水紋は拡がっていく夜のすみずみ

雨やどり終えて飛びたつ天使ミカエルの羽からしたたる日照雨そばえのひかり

十月のちからによってひらかれる金木犀の重い香りは

レースより生き還りくる鳩の軽さ 安置布団あんちぶとんはわずかに沈む 

 特に心に残った歌を引いた。四首目のミカエルは単なる天使ではなく、天使階級最上位の大天使だ。残りはマリアに処女懐胎を告げたガブリエルと戦士ミカエルである。「日照雨」は「にわたずみ」と並んで歌人なら一度は使ってみたい単語だ。六首目にもとても魅力的な喩が使われている。作者にはこんなに抒情に溢れた優れた歌を作る能力が備わっているのだから、ぜひこの方向に進んでほしいものだ。最後に最も惹かれた歌を挙げておこう。 

あれは雲ではなく海だったものたちよ振り上げた手に啼くクラクション

 

 

「フランス語100講」 こぼれ話 (5) ー gentiléの話

 あまり知られていない単語だが、gentilé(ジャンティレ)とは地域・地方・町などの住民をさす単語をいう。パリに住む人はun Parisien / une Parisienne、ノルマンディー地方la Normandieに住む人なら un Normand / une Normandeである。ちなみにgentiléはそのまま形容詞としても使えるので、頭を小文字にして la mode parisienne「パリのファッション」un cidre normand「ノルマンディー産のシードル」のように使う。

 gentiléは派生語 (mot dérivé) の一種なので、名詞から形容詞を派生する語尾を持つものが多くある。次の単語の語尾の –al, -ois, -ien, -ainなどは、名詞から形容詞を作るときによく使われるものである。

 

 la Provence プロヴァンス地方→ un Provençal / une Provençale プロヴァンス地方の住民

 la Suèdeスウェーデン → un Suédois / une Suédoise スウェーデン人

    l’Alsace アルザス地方 → un Alsacien / une Alsacienne アルザス地方の住民

 l’Amérique アメリカ → un Américain / une Américaine アメリカ人

 

 しかし国や地域・地方・町の名は固有名詞なので、ふつうの形容詞を派生する語尾とはちがう形になるものもある。たとえばモナコ公国 la Principauté de Monacoの住人は un (une) Monégasque という。このように予想のつかない形があるので、gentiléはクイズ番組でもよく出題される。

 gentiléを知るために参考になる文献としては次のものが挙げられる。

 ・新倉俊一他『フランス語ハンドブック』白水社、1978.

 巻末にフランスの地方名とその形容詞、世界の国名一覧表とその住民名が掲載されている。しかし古い本なので、国名が変わっていることもあり、新しくできた国は載っていない。都市の住民名も出ていない。

 ・倉方秀憲『倉方フランス語講座 II 語形成』トレフル出版、2024.

 第4章「形容詞を作る」に、「国・都市・地域などを表す形容詞を作る接尾辞」という項目があり、多くの例が挙げられている。しかしあくまで語形成の規則を扱っているため、例外的で特殊なgentiléは載っていない。

 こんなとき頼りになるのがインターネットだ。フランス語版 Wikipediaを引くとその都市の住民名が書いてある。たとえばパリ郊外の町の Saint-Germain-en-Layeの住人は un (e) Saint-Germanois(e)というとわかったりする。

 ヨーロッパの国の住民名は教科書などに載っていることが多いので、フランス語を学ぶ人にもなじみが深いだろう。

 

 l’Espagne スペイン → un(e) Espagnol(e) スペイン人

 lAllemagne ドイツ → un(e) Allemand(e) ドイツ人

 l’Angleterre イギリス → un(e) Anglais(e) イギリス人

 la Belgique ベルギー → un(e) Belge ベルギー人

 

 しかしあまりなじみのない国だと住民を表す単語にも意外性がある。

 

 le Yémen イエメン → un(e) Yéménite イエメン人

 le Congo コンゴ → un(e) Congolais(e) コンゴ人

 le Lichtenstein リヒテンシュタイン → un(e) Lichtensteinois(e) リヒテンシュタイン人

 

 イエメン人の語尾の-iteは住民を表すときによく使われる語尾で、京都の住民は un(e) Kyotoïte、東京の住民は un(e) Tokyoïteという。「キョトイット」「トキョイット」と読む。

 都市名で定冠詞の付いている都市名は定冠詞を取ってgentiéを作る。

 

 Le Havre ルアーブル → un(e) Havrais(e)

 La Rochelle ラロシェル → un(e) Rochelais(e)

 

Saint-の付く都市名はSaint-を取るものが多い。

 

 Saint-Tropez サン・トロペ → un(e) Tropézien(ne)

 Saint-Malo サン・マロ → un(e) Malouin(e)

 

 都市名が複合語になっている場合は、その一部だけを使ってgentiléを作ることが多いようだ。

 

 Aix-en-Provence エクス・アン・プロヴァンス → un(e) Aixois(e)

 Salon de Provence サロン・ド・プロヴァンス → un(e) Salonais(e)

 

ただし、Aixois(e)Aix-les-Bainsの住民もさすのでややこしい。

 まったく予想のつかない gentiléもある。その多くは昔のラテン語の綴りから来ていることが多い。

 

 Saint Etienne サン・テティエンヌ → un(e) Stéphanois(e)

 Cahors カオール → un(e) Cadurcien(ne)

 Le Mans ル・マン → un Manceau / une Mancelle

 

 サン・テティエンヌの住民名は、Etienneという人名がラテン語でStephanus「ステェファヌス」だったことに由来する。またカオールの住民名は、昔その地方に住んでいたcadurci「カドゥルキ族」の名に由来するという。ル・マンは自動車の24時間耐久レースが行われることで知られている町である。ちなみに un Manceau / une Mancelleはル・マンのあるメーヌ地方の住民も指す。その地方は古フランス語ではMancelと呼ばれていて、そこから来た住民名のようだ。

 

第417回 川野里子対話集『短歌って何?と訊いてみた』

 今回は久しぶりに歌集ではなく歌書である。歌人の川野里子がさまざまな分野の人と短歌をめぐって対話するという贅沢な企画だ。歌誌『歌壇』に「ことば見聞録」というタイトルで2021年から14回にわたって連載したものに、新たに俳人の高野ムツオとの対話を加えたものだという。東大教授で古代ギリシア哲学研究者の納富信留に始まり、サンキュー・タツオ、伊藤比呂美、三浦しをん、宮下規久朗など多彩な顔ぶれである。「今、なぜ短歌を作るのか」という問に自覚的な川野だけに、それぞれの対話は問題の深い層にまで及んでいて読み応えがある。ありすぎて読了するまでに相当な時間がかかってしまった。以下、やむをえず断片的になるが、印象に残った発言を中心に見てみたい。

 はじめに納富信留との対話から。

川野 しかも定型詩の言葉って私のものと言えない気がするんです。典型的には枕詞とか季語ですが、それ以上に定型詩というものに言葉を差し出すときに、「私」の言葉でありつつ、「私」と読者の中間あたりに言葉を差し出すような気もする。そういう中間地点に言葉を差し出すことが詩を書くことのような気がするんです。

納富 仰ること非常によくわかるんです。(…)大きなクラウドみたいなのがあって、我々はそこからただ借りてきているというと極端かな。喋ってる私の主体性がどれくらいあるのかという問題だと思うんです。 

 対話の流れを見ると、川野は定型詩に限定して話しているが、納富は言葉一般の使用について語っているように聞こえる。「私」と「あなた」の中間に言葉を差し出すというのは、言葉一般の使用についても当てはまるが、定型詩ではさらに重要だと言えるかもしれない。日常会話で「今夜はステーキが食べたい」と言うとき、その欲求は100%話し手である「私」の感じているものである。この文の言葉は「私」について語っている。しかし津村信夫が次のような詩を書くとき、その言葉は何について語っているのだろうか。(引用はママ)

私は憶えている。

尾花の手にさげた婦人が、まるで肖像のように立っていた

家の入口を、あるいは、午後を。       「秋の歌」 

 これは津村の「私」の言葉ではない。生身の津村個人について語っていないからである。しかし津村の言葉ではないとも言えない。津村が自分のペンを使って記したからである。詩の言葉は、子供がうっかり手を放した風船のように、「私」へと係留する紐が切れて一種の虚空間を漂う。そして時おり読者の許を訪れる。そういう言葉である。

 次は俳人の井上弘美との対話から。本書の対話が行われたのは、コロナ禍が日本中に猛威を奮っていた時期である。コロナ禍で集えないという状況が俳句や短歌に影響したかという司会者からの問に答えての発言である。 

井上 俳句はまさに三密から生まれ、三密が育てている文芸なので、当初は本当に参りました。俳人は皆、座の文芸であることを大切にしています。今回、川野さんの歌集を改めて拝読して、一首一首が作者の中で、完結しているんだなと思いました。だけど俳句は、他者によって評価されることで一句として成立するところがあるのです。ここが、五七五に七七がある短歌と、七七の部分が無い俳句の大きな相違点だと思います。 

 俳人ならではの感想である。まず俳句は座の文芸であり、他の人から評価されることで一句として成立するということ。具体的には結社誌に出詠したり、句会で発表したりして他者の評価に晒す。選者が「この句は取りましょう」と決めたり、句会で多くの票が入って句としてひとり立ちする。俳句では他者との協働や共有が重要であり、五七五という短い詩型の俳句は「外部」の支えによって成立するとも言える。井上が短歌には七七があると述べているのは示唆的だ。短歌では、上句の五七五で提示したものを下句の七七で回収する。これが短歌は「完結している」という感想につながる理由である。しかし、井上との対話で川野も触れているように、完結するからこそ短歌はモノローグになりやすいということも憶えておく必要があるだろう

 次は俳人で歌人でもある堀田季何との対話から。 

堀田 ある世代から「私性」が激減してゆきました。赤裸々な「私」を表現するのが恥ずかしい、いやだという感覚があったり、「ぼくたち」「わたしたち」という言葉や感覚が増えたりして、そこから変わってきましたね。パラダイム・シフトが起こっています。

川野 確かにそれを感じます。「私」が「わたしたち」に変わったということでしょうか。以前は短歌にとって厄介だった「私性」というものがむしろ弱まって、群像的になっています。(…)複雑で陰々とした時間経過を表現するのが得意なのが文語表現だと思いますが、口語短歌が主流になるとその「時間」が消えてしまいました。どこを切っても「今」です。 

 「私性」は近現代短歌にとって永遠の課題である。確かに堀田が指摘するように、今の若い作者の短歌には赤裸々な私はあまり見られない。しかし短歌にとって赤裸々な私が果たして良いものかも疑問だ。唯一無二の「私」という近代的な概念は、明治維新によって西欧から輸入され、その後、自然主義の思潮に乗って広まったものだ。私小説では日本独自の展開を見せてもいる。また河野が指摘している「私性」の希薄化と口語短歌における時間の消滅は相関しているだろう。永田和宏が『現代短歌雁』48 (2000)に書いた「時間は無垢か」という評論がしきりに思い出されるのである。

 次は美術史家の宮下規久朗との対話から。日本では背景知識がなくても鑑賞できる印象派の絵画に人気があるが、それ以前の絵を見るには知識がいる。宮下はそのような絵画の見方を教えてくれる人である。宮下はカラヴァッジョの専門家なので、ローマのサン・ルイージ・フランチェージ教会にある「聖マタイの召命」に描かれた人物のどれがマタイかという話がとてもおもしろい。しかしこれは短歌には関係がない。

 話は静物画に及んで、高橋由一の「鮭」について、川野が「あれは短歌的世界ではないのか」と発言すると、それを受けて宮下は次のように述べている。 

宮下 全くそのとおりです。西洋の静物画は、いろいろなものを置いて描く。でも由一の「鮭」は、そのまま台所に吊るしてあるのを描いた。俎板の上の豆腐を描いたり、どれも非常に身近なものです。

川野 「鮭一匹に神を宿らせる」的なタッチですね。

宮下 そうです。そういう切り取られた自然みたいなものって、結構、日本の特色だと思うんです。まさに短詩型文学の世界ですよ。でもその神様は厳しいものではなくて、馴染みやすいものです。西洋の神とは全然違う、もっとやさしい、どこにでもいる、アニミズム的な神、そういうものですね。

 西洋の絵画や室内装飾は空白を恐れるようにさまざまなものを詰め込むが、日本の美術はそうではなく、逆に余分なものを削ぎ落とす。フランス料理もいろいろな味を重ねてゆくが、和食は引き算の料理だ。「鮭一匹に神を宿らせる」精神は短詩型文学に通じるだろう。

 驚いたのは、18世紀までの日本美術には青空がなかったという話だ。青い空に白い雲という対比に日本人が気づくのは、西洋近代に触れてからだという。

 武蔵野美術大学教授でキュレーターの新見りゅうとの対話から。

新見 いい絵画って、絵画とは何かを最も深い形で造形的に問うている。すばらしい彫刻、第一級の彫刻って彫刻とは一体何かというもっとも深い疑問が彫刻の形で表れている。疑問の深度が造形化されているかだけ。たとえば、(絵画で)線引くわけだけど、その線みたいなものがさっと引かれているように見えるけど、さっと引かれてる30センチのなかに何万回も振動しているような線でなければそれは線じゃない。(…)「魂が震えている」線こそが絵画とは何かを問いかける。 

 「絵画とは何か」という疑問を問い掛ける絵画が良い絵画だということは、他の芸術にも当てはまる。しかしそれは、小説の中で「小説とは何か」という問題が論じられるメタ小説のようなことではない。作品制作がその根源的な疑問から出発しているということだ。たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチの絵がそうだろう。死ぬまで手放さず手を加え続けた「モナリザ」がその一例である。またジャコメッティの絵では、人物の顔の立体的な奥行きを捉えようとして何十本もの線を引いた結果、人物像は輪郭が曖昧になり靄のうしろに隠れてしまう。何十本も重ねて引かれたジャコメッティの線は、「絵画とは何か」を問い続けた苦闘の跡だ。

 さて、本書を一読して「短歌とは何か」という疑問に答が出たかというと、もちろんそんなことはない。しかし、異なる分野の人たちとの対話を通して、「短歌とは何か」という疑問を掘り下げたことは確かである。そもそもアートとは、答を求めて放浪する旅であり、答に到達した瞬間に旅は終わってしまう。しかしその認識ですら幻影に過ぎない。そういうものではないだろうか。

「フランス語100講」第16講 直接語順と感情表現

 私が通っていた中学・高校は、フランス革命の直後にリヨンで創設され、その後カナダに本拠を移した修道会が運営していた学校です。そのためカナダ人の神父やブラザー(注1)が多くいました。大学に入ってしばらくして母校を訪ねたとき、校長だったアラール神父様に再会し、J’apprends le français à l’université.「大学でフランス語を勉強しています」と報告すると、神父様は Ça me réjouit.とおっしゃいました。日本語ならば「それはうれしいですね」と言うところですが、フランス語では「それは私を喜ばせる」と言うのです。第14講と第15講でお話した直接語順による表現が日本語と最も大きく異なるのは感覚や感情を述べるときの表現パターンではないかと思います。いくつか見てみましょう。

 

 (1) La géopolitique m’intéresse.

  私は地政学に興味がある(直訳 : 地政学は私の興味を引く)

 (2) Les abats me dégoûtent.

  私は臓物料理が苦手だ。(直訳 : 臓物料理は私に嫌悪感を与える)

 (3) Les loups me font peur.

  私はオオカミが恐い。(直訳 : オオカミは私を恐がらせる)

 (4) Tu es toujours en retard. Ça m’énerve !

  君はいつも遅刻するな。イライラするよ。(直訳 : それは私をイライラさせる。)

 (5) La tête me tourne.

  頭がくらくらする。(直訳 : 頭が私においてくらくらする)

 (6) Je n’aime pas ce pull. Ça me pique au col.

   私はこのセーターが嫌いだ。首のところがチクチクする。

  (直訳 ; それは私の首のところを刺激する)

 

 このような直接語順を用いない表現のやり方もないわけではありません。(1) Je m’intéresse à la géopolitique.「私は地政学に興味がある」のように「私」を主語にして代名動詞 s’intéresserを用いて言うこともできます。また(2) Je n’aime pas les abats.「私は臓物料理が嫌いだ」、(3) J’ai peur des loups. 「私はオオカミが恐い」のように「私」を主語にした別の言い方もあります。しかし (4) (5) (6) はちょっと他の言い方が思いつかないほどフランス語に定着しています。

 日本語でこのような感覚・感情を表現するやり方はフランス語と大きく異なります。好き嫌いのように時間によって変化しない性質や、「心配だ」のようにある程度長く続く感情では「私」を主語にするのがふつうです。

 

 (7) 私は牡蠣が嫌いだ。

 (8) 私は父の健康が心配でならない。

 

 しかし、たった今感じている感覚や感情は、「私」を表に出さずに言います。この場合 (9) のように無主語文になることも珍しくありません。

 

 (9) ああ、暑い!

 (10) 腰が痛い。

 

 一方、フランス語では上の (1) (6) を見ればわかるように、直接語順の表現パターに従って、次の三種類の関係を重ね合わせた言い方を使います。

 

 a.〈主 語〉─〈動詞〉─〈直接目的補語〉

 b.〈動作主〉─〈動作〉─〈被 動 作 主〉

 c.〈原 因〉─〈影響〉─〈影響が及ぶ対象〉

 

 ですから例 (2) Les abats me dégoûtent.のように、あたかも主語のles abats「臓物」が私に対して嫌悪感を抱かせるという表現になるのです。

 フランス語をちょっと離れて英語を見てみましょう。英語を習っているときに、心理や感情を表すのに〈be動詞+過去分詞〉をよく使うことを不思議だと感じませんでしたか。

 

 (11) I’m interested in history.

   私は歴史に興味がある(直訳 : 私は歴史に興味を引かれている)

 (12) I’m deeply concerned about my father’s health.

   私は父の健康状態を憂慮している。

  (直訳 : 私は父の健康状態に心配させられている)

 (14) I was surprised by the test results.

   私は試験の結果に驚いた。(直訳 : 私は試験の結果に驚かされた)

 

 これらの表現で使われている〈be動詞+過去分詞〉は、もともとは受動態ですから「私が〜される」という意味を持っています。ただし受動態由来ではあっても、これらの表現の中の過去分詞は形容詞に近づいていると考えられます。

 英語もフランス語同様に直接語順を好む言語ですので、たとえば (14) The test results surprised me.「試験の結果は私を驚かせた」のように、〈動作主〉─〈動作〉─〈被動作主〉パターンを使って言うこともできます。しかし英語では心理や感情の主体である「私」を主語にして〈be動詞+過去分詞〉を用いる言い方が多く見られるようです。そのほうが心理や感情の主体である「私」について語っているというニュアンスが強くなるからでしょう。

 フランス語でも感情や心理を表す動詞を受動態で使うことはあります。

 

 (15) J’ai été étonné de la franchise de ses paroles.

   私は彼(女)の物言いの率直さに驚いた。

 

 しかし英語ほど多くはありません。それにはいくつか理由が考えられます。

 第一の理由はフランス語が受動態を嫌うということです。(注2)同じことを表現するときに、フランス語は英語より受動態を使うことが少ないことが知られています。受動態を使うと、〈主語─動詞─直接目的補語〉という統語構造に〈被動作主─動作─動作主〉という意味役割が与えられることになるので、直接語順の表現パターンから外れてしまいます。ですからフランス語は英語以上に直接語順を好む言語だということになるでしょう。

 もう一つの理由はフランス語には代名動詞があることです。初級文法のクラスでは代名動詞に次の3つの用法があると習うことが多いでしょう。

 

 (16) Je me lave la figure. [再帰用法]

   私は顔を洗う。

 (17) Ils se téléphonent tous les jours.[相互用法]

   彼らは毎日電話をかけあう。

 (18) Le vin blanc se boit frais.[受動用法]

   白ワインは冷やして飲むものだ。

 

 しかしもう一つ大事な用法があります。それは「自発」、つまりしようと思ってするのではなく、ひとりでに起きることを表す用法です。(注3

 

 (19) Clarisse s’est réveillée tôt le matin.

   クラリスは朝早く目覚めた。

 (20) La porte s’ouvre toute seule.

   ドアは自動的に開く。

 (21) Les fleurs se sont fanées.

   花はしおれてしまった。

 

 (19)se réveillerは再帰用法に分類されることがありますが、目覚めるのはしようと思ってすることではなく自然に起きることですから、自発に分類するのがいいでしょう。(20) (21) のように無生物が主語のときは当然ひとりでに起きることを表します。

 心理や感情を表す表現には代名動詞が多く見られます。その理由は次のように考えられます。たとえば「思い出す」se souvenir de 〜を例に取ると、確かに人の名前を失念してしまい、懸命に思い出そうとすることはあります。しかしそうではなく何かをきっかけとしてふと思い出すということもあるでしょう。そんなときは過去の記憶が自然に甦ったように感じます。À la vue de ce paysage, Clarisse s’est souvenue de son enfance.「その風景を見てクラリスは子供時代のことを思い出した」と言うときは、思い出は向こうからやって来たように感じられます。次に挙げるのはいずれも心理や感情を表す代名動詞の自発用法です。

 

 (22) Il s’est aperçu de son erreur.

   彼は自分のまちがいに気づいた。

 (23) Elle s’est repentie de son passé.

   彼女は自分の過去を後悔した。

 (24) Je m’inquiète de perdre mon emploi.

   私は職を失うことを心配している。

 (25) Il se fâche pour un rien.

   彼はちょっとしたことで怒り出す。

 

 étonner「驚かす」という動詞にもs’étonner「驚く」という代名動詞の用法があります。ですからフランス語には次の3通りの言い方があることになります。

 

 (26) a. La séparation de Jean et de Nicole m’a étonné.

   (直訳)ジャンとニコルが別れたことは私を驚かせた。

    b. J’ai été étonné de la séparation de Jean et de Nicole.

   (直訳)私はジャンとニコルが別れたことに驚かされた。

   c. Je me suis étonné de la séparation de Jean et de Nicole.

    私はジャンとニコルが別れたことに驚いた。

 

 (26 a) étonnerを他動詞として用いた直接語順の表現です。(26 b)は同じ動詞を受動態で用いたもので、(26 c) は代名動詞s’étonnerを使っています。英語には (26 a) のような他動詞の言い方と、(26 b) のような受動態の言い方しかありません。ところがフランス語には (26 c) のような代名動詞を用いた表現方法があります。このためにフランス語は英語ほど受動態由来の言い方を使わないのだと考えられます。

 このようにフランス語では心理や感情を述べるときに代名動詞が活躍するのですが、この問題についてはまた回を改めてお話することにしましょう。

 

(注1)ブラザー (brother、仏 frère)とは、布教やミサ聖祭には携わらず、修道院の日常業務を担当する修道士のこと。辞書では「平修道士」と訳されていることがあるが、入会時に神父になるかブラザーになるかは本人が選ぶので、神父とブラザーに上下関係はない。

(注2)フランス語が受動態を嫌うことは第50講で詳しく検討する。

(注3)自発用法は emploi neutre「中立的用法」と呼ばれることもある。

 

第416回 佐藤弓生、町田尚子『花やゆうれい』

花の死と花でない死と分けながら いいえ、誰もがいずれゆうれい

佐藤弓生、町田尚子『花やゆうれい』

  とても楽しい本が出た。佐藤弓生が短歌を詠み、画家の町田尚子が絵を描いた歌画集『花やゆうれい』である。版元は絵本出版で知られたほるぷ出版。巻末の初出一覧によると、佐藤の短歌は書き下ろし(詠み下ろし?)ではなく、「かばん」や「うた新聞」などに発表されたものである。町田の絵は過去に描いたものと本作のために書いたものがあるようだ。帯に「猫の絵、多め!」とあるようにほとんど猫の絵である。町田には『隙あらば猫』という画集があるので、無類の猫好きと見える。キャンバスのざらついた質感とメルヘン風の絵が懐かしさを醸し出す。題名の「花やゆうれい」は冒頭に置かれた「名もなき、だなんて言っても誰も名を知らないだけの花やゆうれい」から採られている。

 もともと佐藤の短歌は境涯を詠む「人生派」ではなく、言葉によって現実とは異なる世界を作り出すポエジー派であり、ファンタジー的要素も持っているので、町田の描くメルヘン的な絵と絶妙に響き合う。たとえば上に引いた「名もなき」の歌は右ページに一首だけ置かれていて、左ページには空に薄い月がかかる草原にポツンとコンクリートの階段があり、その上に青い服を着て手に花を持った猫が描かれている。階段には花を挿した空き瓶がいくつも置かれている。階段の上の平たい場所にはブールに入るときに使うような金属の梯子があり、先は地面に刺さっている。描かれているのはこの世のどこにもない、想像力が生み出した場所である。空き瓶に刺してある花は「名もなき花」なのだろう。誰だったか植物学者が「雑草という名の草はない」と言ったが、名もなき花というのもないのだ。それは人間の博物学的情熱の賜物である。

 また別のページには、「射す光あれば差す影ふかくなる夏のうつわの玻璃はりのめぐりに」というため息の出るような美しい歌があり、添えられた絵には夏の庭の緑陰でゆったりと紅茶を飲む猫が描かれている。空はあくまで青く、庭にはラベンダーが咲き乱れている。紅茶のカップはたぶんガラス製だろう。歌を読んで絵を見て再び歌を読むと、言葉の宇宙と絵の宇宙との交感が深く感じられる。

 もうひとつ紹介しよう。歌は「送る日も天気はえらべないけれどレオンハルトさんここは雪です」。絵にはガス灯がともる薄暮の街路に雪が降っている。コートを着て、昔風の革のトランクを持った猫が、舗道に置かれた家の模型をじっと見つめているという寂寥感の漂う絵である。歌の「送る日」はおそらく永訣の日のことだろう。確かに人は死ぬ日を選べない。でも「レオンハルトさん」とはいったい誰だろう。

 いくつか歌を引いてみよう。 

これも読む宝石 聞いたことのない花の名のならぶ校正刷りも

花綱はなづなとなってあなたを飾ろうよ使い果たしたからだを編んで

どれほどの紙の匂いにみたされて集密書架のこれは音楽

ほかほかと生まれることはこわいけど枝豆ごはんのはだかのみどり

よく光る外階段に落ちているカナブン秋のボタンとなりて

 一首目、印刷所から届いた校正刷りにはずらりと花の名前が並んでいる。その名から発する煌めきはまるで読む宝石だという。二首目、花綱はフランス語でギルランド (guirlande)という。ルネサンス期のフィレンツェの画家にドメニコ・ギルランダイオという人がいるが、ギルランダイオはイタリア語で花綱のこと。この歌のポイントは「使い果たしたからだ」である。花にも動物にも命の限りがある。命は天からの預かり物で、いつかは返さなくてはならない。花綱となっている花は命を使い果たした花なのだ。三首目、図書館にはスペースの節約のために集密書架が置かれていることが多い。そこに収められた大量の本から紙の匂いが立ち上る。それを音楽のようだという。四首目、ほかほかに炊きあがった枝豆ご飯の緑の豆を、今生まれたばかりのはだかの命と捉えている。これもまた命のひとつの姿である。五首目、夏の終わりに死んで地面に落ちている蟬を詠んだ短歌は多い。この歌は蟬ではなくカナブンである。それを秋のボタンと形容したところにポエジーがある。

 ここまで収録された歌を見て来ると、『花やゆうれい』という題名にこめられた意味に思いが至る。「花」とは命が目に見える形で存在するもので、「ゆうれい」は命が尽きて目に見えない形に変じたものだ。この歌画集に集められた短歌は、直接的にあるいは間接的に、命がさまざまに姿を変えてやがて彼方に去ってゆく様子を詠んでいるのだ。それが猫に託されていることにもおそらく意味がある。 

どこにでも入ってゆける猫だから爪あとほどの夜の隙間へ

耳欠けてこのあとどこへゆくのでしょうむかしの切符みたいな猫は

  一首目で詠われているように、猫は小さな隙間でも通り抜ける。夜の隙間を通って導かれるのは、昼の現実とは異なる夜の世界である。二首目の猫は喧嘩をして耳が欠けたのか、それとも不妊手術を施されたのか。昔の鉄道切符は硬券で、改札口で駅員が鋏を入れた。それが猫の欠けた耳に似ていることからの連想だ。 

どんな死をくぐってきたの 海岸で買った貝殻とても乾いて

まるでまあ死んでるみたい はつなつのひつぎのなかにおとなのひとは

この子はきっと地球最後のテディベア藍いろの目を縫いつけられて

しらほねのにおいがします春の午後あるじのいない明るい部屋は

夕あかり汚れるままに 水をむ この世からしか汲めない水を 

 どことなく終末観の漂う歌ではないだろうか。終末観と相性が良いのは宗教とSFである。幻想小説やSFに詳しい佐藤はそこから終末観に馴染んだのだろう。佐藤の歌集『世界が海におおわれるまで』にはすでに「風鈴を鳴らしつづける風鈴屋世界が海におおわれるまで」という世界の終わりを思わせる歌がある。上の五首目と組み合わされた絵には、花咲く草原に赤さびたドラム缶と古いポンプがあり、ドラム缶の上にはピンクのドレスを着た猫が描かれている。見たことがない風景なのに懐かしさを感じるのが不思議だ。

 少し暖かくなって辛夷の花が咲き始めた頃に、植物園の人気のない沈床花壇のベンチに座って開きたくなるような素敵な本である。

 

「フランス語100講」第15講 無生物主語構文 (2)

 なぜフランス語の無生物主語構文をそのまま日本語にすると不自然に感じられるのでしょうか。夏目漱石は無生物主語構文を嫌っていたようで、次のような言葉を残しています。

「元来余は所謂抽象的事物の擬人法に接する度毎に、其多くの場合が態とらしく気取りたるに頗る不快を感じ、延いては此語法を総じて厭ふべきものと断定するに至れり。これ恰も多年の修養を都会に積みし田舎漢を再び昔の山出しに引き直して、しばらく十年前の気分に帰れと強ふるが如し、不自然もまた甚だしと云ふべし。」

                     (夏目漱石『文学論』1906) 

 漱石は英文学者でイギリスにも留学しており、英語には通じていたはずなのにすごい反発ぶりですね。よほど嫌いだったのでしょう。

 日本語で無生物主語構文が不自然なのにはいくつか理由があります。そのひとつは、フランス語の動詞は人にも物にも使われることが多いということです。

 

 (1) a. Jean marche sous la pluie.

    ジャンは雨の中を歩いている。

   b. Cette machine à laver marche bien.

    この洗濯機は快調に動いている。

 (2) a. Hélène a écrit une lettre de recommendation.

    エレーヌは推薦状を書いた。

   b. Ce stylo à bille écrit rouge.

    このボールペンのインクの色は赤だ。

 

 ですからたとえばfavoriserという動詞を、(3 a)のように人を主語にして使っても、(3 b)のように抽象名詞を主語にして使っても不自然にはなりません。

 

 (3) a. Le président favorise les grandes entreprises.

    大統領は大企業を優遇している。

   b. L’obscurité a favorisé notre opération.

    暗闇が我々の作戦に有利に働いた。

 ところが日本語の運動動詞は主語に人をとるか物をとるかが決まっているものが多いのです。次の例のbalayerという動詞は、人が「掃除する、掃く」とも、物が「吹き飛ばす」とも使えます。しかし日本語で「掃く」は主語に人しかとることができないので、 (5 b) はとても不自然になってしまいます。

 

 (4) a. Claris a balayé le living. クラリスは居間を掃いた。

   b. Le vent a balayé les nuages. 風が雲を吹き払った。

 (5) a. 太郎は居間を掃いた。

   b. ??風が雲を掃いた。

 

 しかしこれだけが理由ではありません。フランス語で無生物主語構文がよく使われる最大の理由は、第7講と第13講でも触れた「直接語順」(ordre direct)にあります。ちょっとおさらいすると、直接語順とは、〈主語+他動詞+直接目的補語〉という統語構造の裏側に〈動作主+動作+被動作主〉という意味構造が張り付いていることをさしています。次の例を見てください。

 

 (6) Le gouvernement a augmenté l’allocation familiale.

   〈動作主〉 ─ 〈動作〉 ─〈被動作主〉

   政府は家族手当を増額した。

 

 (6)では主語のle gouvernementが動作主、つまり「何かをする側」で、動詞のa augmentéが動作を表していて、直接目的補語のl’allocation familialeが被動作主、つまり「何かをされる側」になっています。これが典型的な直接語順です。

 政府は政策を実行するので、何かをする側として振る舞うのは自然です。しかしフランス語の特性は、このパターンを本来何かをする側ではないものにまで拡張して適用するところにあります。同じaugmenterという動詞を次のように使うことができます。

 

 (7) L’attitude de Jean a augmenté la colère de son père.

     〈動作主〉 ─ 〈動作〉 ─〈被動作主〉

   ジャンの態度は父親の怒りに油をそそいだ。

 

 (7)ではl’attitude de Jean「ジャンの態度」という抽象名詞があたかも「何かをする側」であるかのように動作主として振る舞っています。l’attitude de Jeanがほんとうに何かをしているわけではなく、父親の怒りが激しくなったことの原因です。〈動作主〉 ─〈動作〉─〈被動作主〉という行為連鎖を、〈原因〉─〈影響〉─〈影響が及ぶ対象〉という因果関係にまで拡張するのが無生物主語構文の本質と言えるでしょう。

 しかし、日本語では不自然になる無生物主語構文がフランス語では自然なのはなぜなのでしょうか。アメリカ構造主義言語学の泰斗ブルームフィールド (Leonard Bloomfield 18871949) は主著『言語』Language (1933)の中で、すべての言語には常用文形式 (favorite sentence-type) というものがあり、英語のそれは actor— actionであると述べました。(注1)続けて、現在の印欧諸語の相当数のものは、同じ常用文形式を用いる点で英語と軌を一にすると書いています。actor — actionとは「誰かが何かをする」という表現のパターンで、actorは主語、actionは動詞がそれを表します。つまりブルームフィールドは、英語を初めとするヨーロッパの言語では「誰かが何かをする」という表現パターンが基本だと考えているのです。

 しかし日本語はそうではありません。この点に関する研究では、元東京大学教授の池上嘉彦氏の『「する」と「なる」の言語学』(注2)がおそらく最初でしょう。これに続いて、荒木博之『やまとことばの人類学』(注3)、安藤貞雄『英語の論理・日本語の論理』(注4)などでも同じ考えが展開されています。その骨子は、英語はものごとを「誰かが何かをする」と捉えて表現することを好む「する言語」なのにたいして、日本語は誰かがするのではなく、ひとりでにそうなるという捉え方を好む「なる言語」だというものです。次の例を見てみましょう。

 

 (8) a. Voici venir le printemps.

    b. 春になった。

 (9) a. J’ai perdu un bouton.

    b. ボタンが取れた。

 (10) a. J’ai entendu un cris.

   b. 叫び声が聞こえた。 

 (11) a. Je vois un voilier au loin.

      b. 遠くヨットが見える。

 (12) a. Il fait beau.

   b. 天気がよい。

 

 (8 a)では春がこちらに移動して来ると捉えていますが、日本語では「なる」を使っています。(9 a)ではjeが主語になり、ボタンがとれることが「私」の行為として表現されていますが、(9 b)には「私」はどこにも表されていません。このちがいは (10) (11) のような知覚動詞にはっきり現れます。(10 a)では「私が聞いた」と表現されていますが、(10 b)では「聞こえる」という可能動詞を使っていて、主体は「叫び声」であり、聞いた「私」は表に出ません。(11)についても同じことが言えます。(12)のような天候表現でもずいぶん大きな違いが出ます。フランス語では非人称主語ilを立てて、動作動詞であるfaireを用いていることからもわかるように、フランス語も英語と同様に「する言語」なのです。このために天気のような自然現象についても、「誰かが何かをする」という表現パターンを当てはめて使います。この表現パターンを支えているのが、〈主語+他動詞+直接目的補語〉という統語構造の裏側に〈動作主+動作+被動作主〉という意味構造が張り付いている直接語順であることはおわかりでしょう。

 しかし、どうやらフランス語は昔からこのような言語ではなかったようです。そのことは英語の歴史で研究が進んでいます。たとえばthink「考える」やdream「夢を見る」やlike「好きである」といった動詞は、古英語の時代は非人称動詞でした。「私」は与格に置かれて Me thinkθ that…「〜のように私には思われる」のように使いました。今なら主語にItを起きますが、この時代にはまだ使われていません。likeも現代のように I like…「私は〜が好きだ」ではなく、Me lykeθ…「私に〜が好まれる」と表現していました。古英語の時代には現代でも非人称である天候表現の他に、思考・認識や好き嫌いを表す動詞は非人称だったのです。今よりも少し「なる言語」に近かったということです。スペイン語やイタリア語では非人称ではなく倒置構文になりますが「私」が与格に置かれるところがよく似ています。

 (13) スペイン語

  Me gustan las naranjas. 私はオレンジが好きだ。

  私に好まれる定冠詞(pl.)-オレンジ

 (14) イタリア語

  Mi piace la musica. 私は音楽が好きだ。

   私に好まれる定冠詞音楽

 

 古英語の時代には40ほどの非人称動詞があったと言われていますが、これらの動詞は人称化していきました。人称化というのは、Me thinkθ 「私に思われる」の与格のMeが主語と再解釈されてI think「私は考える」へと変化したのです。これには名詞の格変化の消滅にともなうSVO語順の増加が関わっていました。この変化は英語史の中でも最も大きな統語的変化として知られています。

 フランス語でも古フランス語の時代には非人称動詞がもっと使われていたようです。(注5remembrer「思い出す」のように今では消えてしまった動詞もあり、またse souvenirは昔は非人称動詞でした。その名残りはアポリネールの「ミラボー橋」(Le pont Mirabeau)という詩に見られます。

 

 Faut-il qu’il m’en souvienne ?  思い出す必要があるだろうか

   La joie venait toujours après la peine 辛いことの後にはいつも喜びが待っていた

 

 フランス語もSVO語順の確立によって、直接語順が強まるにつれて非人称動詞が使われることは少なくなりました。つまり直接語順の定着によって、フランス語は「する」言語の性格を強めたということになるでしょう。このことはフランス語と日本語を較べたときに表現パターンのちがいとなって現れます。一つ例を挙げると、フランス語は所有表現を好みますが、日本語は存在表現を好むということです。

 

 (15) a. J’ai deux enfants.

      b. 私には二人子供がいます。

 (16) a. Cette pièce a deux portes.

   b. この部屋にはドアが二つある。

 

 市場で買い物をするときに日本語では「アスパラガスありますか」と聞きますが、フランス語では Vous avez des asperges ?と言うのが普通ですね。所有表現は「する」言語の表現パターンで、存在表現は「なる」言語が好む言い方です。

 

(注1)もう一つの常用文形式は Come !「来い」のような不定詞を用いた命令文だとされている。

(注1)大修館書店、1981

(注3)朝日選書、1985

(注4)大修館書店、1986

(注5Ménard, Ph., Syntaxe de l’ancien français, SOBODI, 1973

第415回  松本実穂『ソムリエナイフ』

出逢ひたる日よりはじまる引き算の時間の淵に人とただよふ

 松本実穂『ソムリエナイフ』

 作者の松本は2012年に佐佐木幸綱がリヨンを訪れたのをきっかけに作歌を始め、「心の花」に入会する。パリ短歌会などで活動し、2020年に第一歌集『黒い光 二○一五年パリ同時多発テロ事件・その後』を上梓。この歌集の評で私は、「作者は日本に帰国したようだ。その後、どのような歌を作るのか楽しみだ」と書いた。日本に帰国後の歌を中心に編まれたのが第二歌集『ソムリエナイフ』(2025年)である。作者は公認のソムリエ資格を取得していて、歌集題名はそこから採られている。ソムリエナイフは、ソムリエ (sommelier) がワインのコルク栓を開けるのに使う器具で,胸に留める葡萄模様のバッジとともにソムリエの象徴と言える。ちなみにフランスではソムリエナイフを単にコルク栓抜き(tire-bouchon)と呼ぶのがふつうだ。

 第I部には長年にわたるフランス生活を切り上げて日本に帰国した時の違和感が詠われている。

フランスとは逆回しなる鍵穴のいまだ間違ふわが左手は

どの駅も錯覚のために停車する薄目あければモンパルナスの

夜に灯る自販機中段まんなかにひとつ傾くチオビタ・ドリンク

ふらんすと口に乗せれば零れゆく電線のない空が見たいよ

ウィルソン橋、ベルクール広場、ローヌ河畔人のをらぬをネットに見つむ

 私は気づかなかったが、鍵を回す向きが日本とフランスとでは逆だという。のこぎりも日本では手前に引くときに切れるが、フランスでは押して切るというように、細かい点でちがいがある。それを身体が記憶しているので、帰国した時にとまどうのだ。三首目に自販機の歌があるが、フランスにはほとんど自販機がない。ずらっと自販機が並んでいるのは日本独特の風景だ。しかも中央に置かれているのが栄養ドリンクというのがお国柄を表している。五首目のウィルソン橋はリヨンを流れるローヌ河に架かる橋、ベルクール広場は市の中心部にある広場。作者はリヨンの風景を懐かしんでストリートビューを見ているのだろう。

 本歌集を読んで気付くのは、あちこちに死の臭いが漂うことである。

うつすらと駅舎の窓の遺りたり羽を広げて死んだかたちは

生きる者と生きゐし者のゆきちがふ石橋ならん黒猫の過ぐ

夏目坂上りきたれば降る雨に墓石鈍く照りそむる夜

まだ持たぬエンディングノートに書く言葉ひとつ思ひて雨を戻りぬ

死してなほ負はさるるのか駆け出だす凄き姿に馬は留まる

 一首目はおそらく蛾の屍骸の影が窓ガラスに残っているのだろう。京都の一条戻り橋の伝承にあるように、橋はしばしば此岸と彼岸を結ぶ場所である。二首目の黒猫はさしずめ彼岸への案内者か。三首目の夏目坂は東京の牛込あたりにある坂で、作者は掃苔に墓所を訪れているのだろう。五首目は博物館を訪れて馬の剥製を見ての歌。

 もっとはっきりと死が描かれているのが「首」と題された連作である。

すでに首を切り落とされたるカナールを説明どほりナイフに捌く

取り出だす肝臓フォアグラの重さこもごもに計りて人は嬉々としている

昨日まで翔けまはりゐし裏庭に首はあつたか羽根ひろげたか

美味しいね、鴨美味しいねと卓上ににんげんたちは首を並べる

ゆふぐれが夕闇となり闇となる帰路に車を降りて吐きたり

 鴨牧場を訪れてフォアグラを取り出す作業に参加した折の歌である。フォアグラは鴨に強制的に餌を食べさせて作る脂肪肝で、世界の三大珍味のひとつとされている。しかし料理をおいしく食べるには、その素材の処理工程は見ないほうがよい。牛・豚・家禽類の肉とその加工食品を常食とするのは、牧畜を生業とする欧州の人たちだ。日本人は肉食の歴史が浅く、血のソーセージなどは苦手な人が多いだろう。これらの歌に描かれた光景は実に生々しい。作者は命をいただく食卓に列なりながらも冷静にその場を見つめている。

 興味深いのはソムリエの仕事を詠んだ歌である。

「商材」と言葉にすれば遠ざかる葡萄畑をわたりゆく風

親指を支点に押さへひといきにソムリエナイフは弧を描き切る

饒舌家、内気、妖艶、やんちやつこ 香りのなかに見抜かんとして

色を見る香りをさぐる口にふふむゆきわたらせて舌に確かむ

「罪深い」はほめ言葉なり熟成のバルバレスコの深きルビー色

 三首目はワインの性格を見きわめる歌だが、フランス人のソムリエは、「焦がしたヘーゼルナッツと湿った苔の香り」のようにワインの味と香りを言葉で表現する。饒舌家とは惜しみなく味と香りを振りまくワインで、内気とは時間をかけて味わわないと真価を味わえないワインだろう。五首目のバルバレスコはイタリア北部のピエモンテ州で産するワインで、バローロと並んでイタリアを代表するワイン。これらの歌は職業詠なのだが、ソムリエの仕事が歌に詠まれるのはとても珍しい。

 ふたつの国、ふたつの文化にまたがる暮らしをしてきた作者の人生への思いの深まりを感じさせる歌に目が停まる。

どれほどの水位だらうかにんげんの記憶をひとが残しうるのは

まがなしくひとはひとりで立つものを石に咲きつぐ菊の切り花

水菜みづなふたり過ごした時間から取りこぼされて残るひと茎

立ちどまる人につられて立ちどまる生き合はせたるこの狭き道

水底に砂をすくひにもぐりゆくやうな時間をすぐしてきたり

 四首目の「生き合はせたる」は「行き合わせたる」ではないことに注意しよう。「行き合わせる」は偶然に誰かと出逢うことだが、「生き合わせる」は造語で「たまさか誰かと共に生きることになる」という意味だろう。直接に人生を詠むのではなく、喩と修辞を駆使して間接的に詠んだ境涯とそれへの思いの歌である。長い年月を経て熟成したワインのように、読むほどに味わいが深まる歌である。

 

 

 

「フランス語100講」第14講 無生物主語構文 (1)

 中学校で世界史を学んでいたとき、「都市の空気は自由にする」というドイツの諺を知りました。封建制のもとで自由がなかった農奴でも、都市に逃げ込んで一定の期間が過ぎると市民権を与えられたという制度を言い表したものです。しかし、子供心にもこの言い回しは不自然な日本語だと感じたものです。なぜそう感じたのでしょうか。

 この諺はドイツ語のStadtluft macht freiを訳したもので、分解すると「都市の空気」+「する」+「自由」で、英語にするとUrban air makes free.となります。不自然に感じた理由は、「する」という運動動詞の主語が「都市の空気」という無生物だったからなのです。これが今回の講義のテーマである無生物主語構文です。この構文はフランス語が直接語順 (ordre direct) を異常なまでに好む言語であることから生まれたものだと考えられます。

 フランス語の文法書で無生物主語構文が取り上げられることはありません。代表的な文法書である朝倉季雄『新フランス文法事典』(白水社 2002年)にも、目黒士門『現代フランス広文典』(白水社 2015年)にも無生物主語構文は立項されていません。わずかに町田健『フランス語文法総解説』(研究社 2015年)が1ページを割いてこの構文を取り上げ、次のような例文を載せています。

 

 (1) La pauvreté de sa famille a obligé François à quitter l’école.

     家が貧しかったので、フランソワは学校を辞めなければならなかった。

   (直訳 : 家庭の貧しさがフランソワに学校を辞めることを強いた)

 

 (2) La nécessité crée l’invention.

  必要から発明は生まれる(直訳 : 必要が発明を生み出す)

 

 なぜ文法書が無生物主語構文を取り上げないのかは明らかです。このような文は〈主語+動詞+直接目的補語(+間接目的補語)〉という規範どおりの文で、文法の上で特別な解説が必要な点はどこにもありません。フランス語を使う人にとっては不自然なところはないのです。これを不自然だと感じるのは私たちが日本語を話しているからに他なりません。つまりフランス語と日本語とを比較対照するという見方がなくては特に問題とはならない現象なのです。

 名著『翻訳仏文法』(注1)の著者の鷲見洋一氏は第1章「フランス語の特性」で無生物主語構文に触れて、それを「フランス語は抽象性の強い言語である」という項目の一部として解説しています。La curiosité l’avait amené dans cette ville.「かれはもの珍しくてこの町に立ち寄った」(直訳 : 好奇心が彼をこの町に連れて来た)という例文を挙げて、この文にはある人物が好奇心から町に来たという意味内容以上のものが含まれていると述べています。それは何かと言うと、

「話し言葉における人間中心の写実表現を一度バラバラに解体し、人(かれ)ともの(好奇心)を同一平面上に位置づけなおしてから、今度は因果関係を軸にして叙述の方法を決めるという抽象表現がそれである。」(同書、p. 48)

と書かれています。鷲見氏は無生物主語構文をフランス語の抽象性を表す特徴として捉えています。フランス語の書き言葉が抽象性の強い言語であるということは確かにそうなのですが、それはいったん脇に置いておいて、意志を持たず動く能力もない無生物が運動動詞の主語になっているという点に注目しましょう。(注2)

 明治時代になり外国人が日本文化を研究するようになると、日本語では無生物主語構文が使われないことに着目した人もいました。1873年に来日し東京帝國大学で教鞭を執ったイギリス人のチェンバレン(Basil Hall Chamberlain 1850〜1935)は次のように書いています。

「(日本語の)もうひとつの欠点は、擬人法を避けるという習慣である。この特徴は大変深く根ざした一般的なもので、中性名詞(=抽象名詞)を他動詞と結びつけて用いるということすら妨げられてしまう。例えば、日本語では『熱気が私をだるく感じさせる』The heat makes me feel languid.『絶望が彼を自殺へ追いやった』Despair drove him to commit suicide. などといった表現は許されない。『暑いので私は身体がだるい』とか、『希望を失って彼は命を絶った』などと言わなくてはならないのである。言うまでもなく、日本語のこのような欠陥のために、詩は散文以上に損失を被っている。」  (Things Japanese1890、高梨健吉訳『日本事物誌』東洋文庫)

 

 チェンバレンが上の文章で抽象名詞を主語にした擬人法と呼んでいるのが無生物主語構文に他なりません。チェンバレンは無生物主語構文がないことを日本語の欠陥と見なしています。

 一つ注意しておかなくてはならないのは、無生物主語構文が書き言葉に属するということです。フランス語は話し言葉と書き言葉の落差が大きい言語です。抽象名詞を主語にした無生物主語構文は日常の話し言葉ではあまり使われず、もっぱら書き言葉で使われるものです。このことをよく示しているのが鷲見洋一氏の著書でも紹介されている Eloi LegrandのStylistique française『フランス語文体論』(注3)というフランスの学校でよく使われていた教科書です。この本は左側に話し言葉の文を、右側にそれを書き言葉に直した文を配した形式で書かれています。その中の長い複文をコンパクトな単文に書き換える練習に無生物主語構文が登場します。いくつか例を挙げてみましょう。それぞれのペアのa.が日常会話や緩い書き言葉の表現で、b.がお奨めの無生物主語構文です。

 

 (3) a. Parce que vous manquez de suite dans votre conduite, vous ne réussirez pas.

    あなたの行動には一貫性が欠けているので、将来の成功はおぼつかない。                          

           b. L’inconséquence de votre conduite vous empêchera de réussir.

    直訳 : あなたの行動の一貫性の欠如が成功を妨げるでしょう。

 (4) a. Lorsque nous sommes sans inquiétude, nous cessons d’être d’accord.

    人は不安にかられていないときには意見がばらばらになるものだ。

       b. La sécurité nous divise.

    直訳 : 安心安全は私たちを分断する。

 (5) a. Bien que nos opinions soient différentes, nous restons bons amis.

    私たちは考えはちがうがずっと仲のよい友人だ。

          b. Nos divergences d’opinions n’altèrent en rien notre amitié.

    直訳 : 私たちの意見の相違はいささかも友情を損なうことがない。

 

 この本を見るとフランスでは無生物主語構文は文法ではなく文体の問題とされていることがわかります。引き締まった高級な文章を書くために心がけるべき訓練というわけです。しかしフランス語を学ぶ私たちにとっては、無生物主語構文はたんなる文体の問題ではありません。それは私たちが話している日本語がフランス語とは大きく異なる文法を持っているからです。フランス語話者には文体の問題であっても、日本語を使っている私たちにとってはフランス語の文法的な特徴として理解すべきことなのです。「フランス語らしさ」の一つの要素となっていると考えてもよいでしょう。

 それではどのようにすれば無生物主語構文を使いこなせるようになるでしょうか。ここでもルグランの『フランス語文体論』が役に立ちます。(3)〜(5)に挙げた例のような複文から単文を作る手順は次のように説明されています。

 i) 従属節の動詞や属詞を抽象名詞に変える。

 ii) 従属接続詞を削除する。

 iii) 抽象名詞を新しい文の主語に置く。

 iv) 主節の動詞を意味が適切なものに置き換える。

ちょっとやってみましょう。元になるのは次の複文だとします。

 

 (6) Comme le temps était orageux, nous n’avons pas pu partir.

          天気が荒れ模様だったので、私たちは出発できなかった。

 

 手順のi) で属詞のorageux「荒れ模様」を名詞の orage「嵐」に変えます。ii) に進んで接続詞のcommeを消します。iii) で L’orage…を主語にします。ちょっと難しいのはiv)です。「嵐のせいで出発できなかった」では「嵐」は出発できなかった原因です。直接語順に基づく無生物主語構文では、〈主語+動詞〉という統語構造に〈動作主+動作〉という意味が張り付いています。ですから「嵐」が何かをしたように表現しなくてはなりません。「嵐のせいで私たちが出発できなかった」ということは、「嵐が私たちの出発を妨げた」と言い換えることができます。使う動詞は empêcher「妨げる」ですね。すると (6) は次のような無生物主語構文に書き直すことができます。

 

 (7) L’orage a empêché notre départ.

   直訳 : 嵐が私たちの出発を妨げた。

 

 もう一つのやり方を見てみましょう。

 

 (8) a. On arrive en Italie par ce col.

   この峠を越えればイタリアに行ける。

  b. Ce col donne accès en Italie.

          直訳 : この峠はイタリアに通じている。

 (9) a. Par suite de ma vieillesse, je dois enfin me retirer des affaires.

    歳を取ったせいで私は商売を辞めざるを得ない。

  b. La vieillesse m’arrache des affaires.

    直訳 : 老化が私を商売から引き離す。

 

 (8 a)では場所の状況補語のpar ce colのce colが (8 b) では主語になっていて、まるで場所が何かをしているように表現されています。また (9 a)では理由を表す par suite de ma vieillesseという状況補語の中から vieillesseという抽象名詞が取り出されて (9 b)の主語に取り立てられています。(9 b) のように、無生物主語構文の主語に置かれた抽象名詞は、原因・理由という意味を帯びやすいのです。このために動詞には entraîtner「引き起こす」、empêcher「妨げる」、permettre「可能にする」のような状態変化動詞がよく使われます。

 最後に無生物主語構文の極北といえる文を挙げておきましょう。

 

 (10) Noblesse oblige.

             貴族の身分には義務が伴う

   (直訳 : 貴族の身分は強制する)

 

 

 主語のnoblesseに冠詞が付いていないのは昔のフランス語の名残で、ことわざにはよくあることです。obligerという動詞は、ふつう Son père a obligé Jean à étudier les droits. 「父親はジャンに法学を学ぶよう強いた」のように、直接目的補語と〈à+不定形〉が続くのですが、(10) ではそれがなく、いわゆる他動詞の絶対用法になっていることも特徴的です。そういえば最初に挙げた「都市の空気は自由にする」も目的補語がない絶対用法で、日本語にしたときの不自然さの原因の一つとなっています。

                             (この稿次回に続く)

 

(注1)もともと『翻訳の世界』という雑誌に連載されたもので、日本翻訳家養成センターから1985年に上下2冊で刊行。後にちくま学芸文庫として2003年に再刊された。

(注2)鷲見氏より前に『翻訳の世界』に連載を持っていた安西徹雄氏の『翻訳英文法』(日本翻訳家養成センター、1982年)も第III章で無生物主語構文を大きく取り上げている。この本は『英文翻訳術』とタイトルを変えてちくま学芸文庫から再刊されている。安西は江川泰一郎『英文法解説』(金子書房 1953)ですでに無生物主語構文の指摘があるとしている。私は改訂三版 (1991)を取り寄せて見てみたが、確かに「日本語と異なる名詞の用法」という章で無生物主語構文が取り上げられている。

(注3)J. de Gigord社刊、1924年初版。ただし購入するときは Livre du maître(教師用)を買うのがお奨め。