014:2003年8月 第2週 高野公彦
または、夜の中へと身を浸す裸形の生命者

白き霧ながるる夜の草の園に
    自転車はほそきつばさ濡れたり

           高野公彦『汽水の光』
 1941年生まれの高野の短歌は、同世代の他の歌人の歌とともに、「微視的観念の小世界」(篠弘)と批判されたことがある。「小さい私的な思念をよりどころにして」、美しいが小さくまとまりがちであり、「時代にたいする歴史的感覚を喪失しがちだ」という趣旨の批判である。篠はもちろんリアリズム短歌の視座から、批判の意味をこめて「微視的観念の小世界」と形容したのであるが、私にはこれはむしろ褒め言葉のように聞こえる。処女歌集『汽水の光』の跋文で、大岡信が「意識の夜の中へ身を浸して」おり、「内面へのかがみこみが著しい」と表現したその短歌の資質は、すでにこの時点で十全に発揮されていると言えるだろう。若い時に近親者の死を多く経験し、般若心経に親しんだという高野にとって、「すべての人間は死といふものに向かつて時間の座標の上をゆつくりと (しかし確実に) 移動してゐる裸形の生命者」(『地球時計の瞑想』) にすぎないとする認識が、歌の随所に通奏低音のように響いている。

 少年のわが身熱をかなしむにあんずの花は夜も咲(ひら)きおり

 精霊ばつた草にのぼりて乾きたる乾坤を白き日がわたりおり

 あきかぜの中のきりんを見て立てばああ我といふ暗きかたまり

 小池光は、高野の歌のエッセンスは「見立て」にあり、歌の中に俳句が一句潜んでいるというおもしろい解釈を出している(『街角の事物たち』五柳書院)。確かに掲載歌では、公園に忘れられた自転車が、翼を閉じてうずくまる鳥に見立てられている。鳥は翼を閉じて休息しているようにも見え、また濡れた翼はもう二度と羽ばたかないようにも感じられる。

 高野の見立ての極みは、次の代表歌に見られる。

 ふかぶかとあげひばり容れ淡青(たんじょう)の空は暗きまで光の器

 ここでは、ひばりが舞い上がる空が上下反転されて、ひばりを入れる容器に見立てられている。それを「光の器」と呼んだところがこの上なく美しいのはもちろんだが、空を上下反転するダイナミックな空間構成もまた見事と言えよう。このような空間構成の力業は、「精霊ばつた」では、草にとまった小さなバッタとゆっくり移動する日輪という、異常に拡大された遠近法的対比として現われている。まるで望遠カメラを使ったようなこの遠近感覚は、次の歌に顕著である。まるで宇宙空間に浮かぶ地球を人工衛星から眺めているような感覚がある。

 みどりごは泣きつつ目ざむひえびえと北半球にあさがほひらき

 次の歌は本来の意味の見立てではないが、見えないはずのものを見る感覚が新鮮である。

 夜の暗渠みづおと涼しむらさきのあやめの記憶ある水の行く

 あやめを活けた花瓶の水か、あやめの花が咲く水辺を通って来た水か、とにかく水にあやめの記憶が残るという見方は新しく清冽である。ちなみに、「水の歌」のところで触れたが、ここにも「みづ」「水」と、かなと漢字で二度同じ語が反復されている。短歌を読むと歌から歌への連想が湧くのだが、これまたついでに書いておくと、暗渠と花の取り合わせは、どうしても塚本邦雄の次の歌を連想させずにはおかない。

 暗渠の渦に花揉まれをり識らざればつねに冷えびえと鮮(あたら)しモスクワ