第385回 久永草太『命の部首』

母牛の乳よりれてそのしく白きを母乳と呼ぶひとのなく

久永草太『命の部首』

 牧場にいる牛の多くは牛乳を取るために飼われている。乳が出るのだから雌の母牛である。その乳を仔牛にやれば母乳と呼ばれるのだろうが、搾乳された乳は牛乳として製品化されて市場に運ばれる。だからその乳は母乳と呼ばれることはない。作者は命と命の近くにある矛盾を鋭く感じ取って歌にしている。

 またこの歌では「生れて」「美しく」「白き」と文語(古語)を使っているのが効果的だ。日常生活で感じる気づきや感情を描くのなら口語(現代文章語)の方が距離感が少なく適している。しかし命は重く、時に厳粛なものだ。その重さを描くには日常から距離感のある文語を選ぶのも有効な選択だろう。作者はそのような文体の差異をよく意識しているものと思われる。

 久永草太は1998年生まれ。宮崎西高に在学中に短歌を始め、2016年に牧水・短歌甲子園で準優勝。その後、宮崎大学に入学し、宮崎大学短歌会・「心の花」に所属。2023年に「彼岸へ」で第34回歌壇賞を受賞している。『命の部首』は受賞作を収めた第一歌集である。吉川宏志、石井大成、俵万智が栞文を、伊藤一彦が跋文を寄せている。ちなみに九大短歌会を創設した石井は久永と同じ宮崎西高出身で、久永を中一の頃から知っているという。また吉川も同じ宮崎県の出身で、歌壇賞の審査員を務めた縁がある。

 歌集題名は次の歌から採られている。

そりゃそうさ口が命の部首だから食べてゆく他ないんだ今日も

 この歌を見て慌てて漢和辞典を引いた。「命」という字の部首は頭に被っている「へ」で「ひとやね」と言い、人偏の一種らしい。だから「口が命の部首」というのは喩である。人間を含めて動物は、口から食べ物を摂取しなくては体を維持できず、動くためのエネルギーも得ることができない。だから口が命の要だということだろう。

 冒頭の掲出歌も上に引いた歌も「命」を主題としているのだが、その理由は作者が宮崎大学の獣医学科に学んだからである。本歌集の大部分は在学中に作った歌で、後半無事に国家試験に合格したことが描かれている。

糞尿も牛の身体も湯気たてる朝の直腸検査あたたか

産むことを正常として臨床繁殖学りんぱんの教科書重くて硬きを開く

治す牛は北に、解剖する牛は南に繋がれている中庭

採算と命の値段のくらき溝 鶏の治療はついぞ習わず

午前中五匹殺した指でさすドリンクメニューのコーヒーのM

 歌壇賞を受賞した「彼岸へ」から引いた。二首目、家畜は仔を産むことが正常と定められ、繁殖学はそのための学問である。教科書が重くその表紙が硬いのは、動物の命を功利的に扱っている人間のエゴを感じているからに他ならない。三首目は現場を経験した人にしか作れない歌だろう。病気や怪我をしていても治療可能な牛は北に集め、治療が可能ではなく屠殺して解剖実習に使う牛は南に繋がれている。まさに命の選別の現場だ。四首目も同じで、鶏は治療しても採算が合わないので鶏の治療法は習わないのである。五首目は解剖実習でラットを殺したのだろうか。動物とはいえ命を奪う重さと自販機のボタンを押す軽さが対比されている。

 歌壇賞の選考座談会で、久永に◎を付けた東直子は、「実験動物として、いわば動物をモノとして扱っているような場で、そういうことに対する罪悪感とともに、動物に対する敬意も全体にあって、いろいろな思いを込めながらうたっている」と評している。また◯を付けた吉川は「すごく思索的な部分があって、それが単なる面白さだけではない、鋭い見方があると思って読みました」と述べている。

 私が久永の短歌を読んで感じたのは、動物の吐く息の暖かさや土の匂いのする歌を読むのは久しぶりだということである。現代の若手作家の作る歌の舞台はおおむね都会であり、滅菌された都市空間の中には花の香りすら漂うことは少ない。スマホのLINEで繋がり、パソコンの電脳空間で映画を視聴する現代では、実際に手で触れて暖かさを感じ、臭いものであれその匂いを嗅ぐという身体感覚が希薄だ。それは若手の人たちの作る短歌にも影響しているだろう。獣医学科で学ぶ久永は、時に動物の糞尿を浴び、牛の腹の中に手を突っ込むという体験を踏まえて歌を作っている。そういう現実のごつごつした手触り感がある短歌は少なくなっているように思う。

 吉川は久永の短歌を評して「思索的」と述べたが、私が感じたのは細かいところへの気づきの感度の良さである。

イヤホンの長さのぶんだけ遅延して椎名林檎が叫ぶ耳元

午後の「午」と「牛」の違いの瑣末さよ午後は千頭ワクチンを打つ

保育士の「おやすみなさい」に潜みたる命令形の影濃かりけり

定番は青ペンらしいベトナムに過ごせば青くなりゆくノート

副住職経を唱える父親を失う日まで副の住職

 一首目、携帯音楽プレイヤーが再生する音楽は電気信号となってコードを伝わり、イヤホン内の震動で音波に変換される。電気信号がコードを伝わる時間の分だけ耳に届くのは遅れる理屈だ。しかしそれは理論上であって、実際に感知できる差異ではない。だからこれは理知でこしらえた歌である。二首目、「午」と「牛」の字画の違いは縦棒が上に突き出ているかどうかだ。伊藤一彦が跋文で紹介している牧水・短歌甲子園に久永が出詠した歌がある。

虐待の記事を読むたび「蹴」の字の隅のひしゃげた犬と目が会う

 これも漢字の字画に着目した歌で、「蹴」の字のいちばん右にある「尤」をひしゃげた犬に喩えている。「尤」の部首名は「まげあし」というらしい。機知の歌であり、久永はこういう見立てが得意なようだ。久永は保育園でアルバイトをしていたらしく、三首目はその経験に基づいた歌。昼寝をする園児たちに保育士がかける「おやすみなさい」という言葉の口調にかすかな命令を感じ取っている。四首目はベトナムに旅行した折の歌。日本ではシャープペンシルや黒のボールペンを使うのが一般的だが、ベトナムでは青いインクのペンを使う。それはベトナムがかつてフランスの植民地だったからである。フランスの学校では生徒や学生はノートを取るときに青いペンを使うのだ。これも現地に行かなくてはわからない気づきである。五首目もおもしろい。寺の副住職は住職の息子だ。だから息子が住職と名乗れるのは、父親が亡くなった時なのである。

 動物の命を扱う職業の人らしいと特に感じるのは次のような歌を読んだときだ。

わたくしを構成するよ今朝食べたバナナも昨日ぶつけたアザも

この春に吸い上げたものでできている梅の産毛の先の先まで

出生をたどれば南の海の水浴びて騒ぐよ木立も子らも

湯船からあふれるお湯の行く末に在る海おもう肩までおもう

 これら歌の主題になっているのは命の循環である。私たち生物はなべて外界と物質とエネルギーをやり取りして生きている。その循環なしには私たちは生きることができない。今朝食べたバナナの糖質はやがてブドウ糖にまで分解され、血管を流れて身体を動かす燃料となる。しかし昨日ぶつけてできたアザもまた私の身体の一部である。二首目の主題も植物の循環であり、今目にしているものには過去に由来があることに気づいている。三首目は水の循環である。南の海で発生した水蒸気がやがて雲となり、日本上空に達して雨を降らせる。四首目は逆に私たちの生活で使う水が、やがては海へと流れ出る姿を想像している。狭隘な「私」という自我にのみ拘泥していては作ることのできない歌ばかりだ。

生命の等価交換 献血の後に卵を十個もらいぬ

銀色のナット落ちていてこの街のどこかで困っているドラえもん

舌筋の走行について考察す焼肉屋にてタン焼きながら

知らぬ語を調べて「斬首」と知りしとき英論文に散りゆく命

背が伸びる夕焼け小焼けたい焼きを匹で数える国に生まれて

 一首目、等価交換はコミックの『鋼の錬金術師』が流行らせた言葉だ。献血するとドリンクやチョコレートをくれる所が多いが、卵をくれる所もあるらしい。二首目はメルヘンの歌。ドラえもんは未来から来たロボットなので、ナットとボルトが付いているのだろう。三首目は獣医学科あるあるなのかもしれない。タンを焼きながら舌の筋肉について話している。このようなそこはかとないユーモアもまた久永の持ち味だ。四首目の「斬首」はたぶん decapitationだろう。このように言葉から空想へと飛躍するのも短歌空間を広げる効果がある。五首目も言葉へのこだわりを示している。牛は「五頭」、ネズミは「五匹」、箪笥は「五棹」などと数える単位は類別詞 (classifier) と呼ぶ。日本語はこれが豊富な言語で、ここでは鯛焼きを匹で数えているのだ。本来ならば魚なので「」かもしれないが。

 伊藤一彦の跋文によると、久永はエッセーの名手でもあるらしい。『命の部首』

は実に読み応えのある歌集である。


 

第384回 『文學界』特集「短歌と批評」

 『文學界』9月号が「短歌と批評」という特集を組んだ。この企画の目玉は総勢13人による歌会である。参加者は、青松輝、我妻俊樹、伊舎堂仁、井上法子、大森静佳、木下龍也、榊原紘、堂園昌彦、永井祐、服部真里子、花山周子、穂村弘、睦月都という豪華なメンバーである。ふつうの歌会と同じく、参加者は作者名を隠して一首ずつ歌を提出している。次に書き写すので、どの歌の作者が誰かを当ててみるのも一興だろう。私は三人くらいしかわからなかった。

[1] 新しい靴の人のとなりで歩く のぼりとくだり ずっと右側

[2] おしっこじゃなくてうんちで体から排泄されるアイスクリーム

[3] 枯れかけをください ぼくはさておいてそれが神さまとして正しい

[4] 草野球一団が立ち去った草の上に空に向かって尖っていった

[5] 舌だしてねむりつづける手術台の猫は新緑の世界の底に

[6] 食品サンプル、それもミートボールスパゲッティ(あなたのこれからの身代金)

[7] 太陽のしろがねの脳ひかる昼わたしも百合も黙考をせり

[8] 梅雨近き窓のむらさき 孤児の猫を抱へて昼をあさく眠りぬ

[9] 古着屋でマネキンがしてるヘッドフォン 愛の言葉はくせになるから

[10] もうしてるのに結婚をしなさいと蟬の顔して祖母が来るのよ

[11] ゆめに ときに しろがねの雨ふるなかをおもかげは影になる幾たびも

[12] (Reおわかれ)という件名のメールが夜に、ララからキキへ

[13] 夕暮れの色の卵を割り開きこころは慣れていく夕暮れに

 文体の手がかりとなるのは、[7]と[8]だけが文語を取り入れていて、それに加えて[8]は旧仮名であることだ。このメンバーの中で文語・旧仮名で歌を作っているのは睦月だけなので[8]は睦月だと知れる。[1]はやはり文体から永井しかいないとわかる。文体とはことほど左様に強力である。また[11]はこの中でいちばん詩に近い顔をしているので、これは井上だろうと推測できる。迷ったのは穂村で、[5]と[12]のどちらかだろうと踏んだのだが、[12]はいかにも『手紙魔まみ 夏の引越し(うさぎ連れ)』をまねたようで、本命は[5]かなと思ったが自信はなかった。最後に作者名を書いておく。

 参加者が一人三首に票を投じる形式で、最も多い6票を集めたのが [10] だったのは少し意外だ。二位は [1]と[13]が5票を集め、三位は4票の[5]と[9]だった。堂園の司会で座談会形式の討論があり、歌をめぐる歌人たちの議論がとても興味深い。驚くこともあった。それについて少し書いてみたい。

 司会の永井が「今日、何が秀歌なのかが次々話題にあがっています」と発言しているように、秀歌とは何かという問題をめぐってひとしきり議論があった。

 [13]について我妻が、メビウスの輪のような捻れた円環構造をなしていて、夕暮れから夕暮れに戻っていくのだが、その動きが同じ面の上ではないと指摘している。穂村はそれを受けて、それは秀歌に多い構造だと言い、続けて、この歌は[1]とは対照的に、共同体が磨いてきた秀歌性に精度高く球を当てている印象があると述べている。そして秀歌性批判をいつもしている自分たちも、やっぱり採らされてしまうほどだと述懐している。これにたいして青松は、この歌はめっちゃうまいと思い採ろうかと思ったが、秀歌性にレプリカ感があり、狙って当てている感じがあって採れなかったと述べている。

 [13]は私もとてもよい歌だと思うが、これがなぜ秀歌なのかをひと言で説明するのは難しい。ここでは穂村が[13]の秀歌性にプラスの反応をし、青松がマイナスの反応をしたことに注目したい。ポイントは青松の言う「レプリカ感」と「狙って当てている感じ」だろう。レプリカとは本物ではなく複製を意味する。つまり青松の目には、[13]は本物の秀歌ではなく、近現代短歌から学んだ秀歌性を擬態したものであり、狙いを付けて作りあげたものと映っているのだ。青松は現役の東大生で、ここに集まったメンバーの中ではいちばん若い。若い青松には、いかにも作りましたという顔をした短歌はわざとらしく見えるのだろう。それはおそらく「リアル」が与える手触りに反応する世代による感性のちがいである。若い人には念入りにトリミングした情景を額縁に入れて壁に飾るような歌はわざとらしく感じられるのかもしれない。この感性のちがいは見過ごせない。青松のように感じる人がこれから増えたとしたら、今後作られる短歌の質も確実に変わるからである。

 時代の変化は[1]のような歌についても露呈している。[1]について井上は、頭の中に「?」が浮かぶ歌だと感想を述べている。初句「新しい」で収まっているかと思えば「靴」につながっているし、「ずっと右側」で立ち位置を表明されるが、いつからいたのか不思議だと述べる。大森は、全体を通して場面を構築せず、視点がずっと自分の顔に付いている感じがするとしている。堂園は歩いている時に、心や身体感覚が変化していくその一回性をとらえていると評する。また読みにくくすることによって、それを体験させているんじゃないかと鋭い指摘を加えている。

 これに対して青松は、この歌が狙っているのは、歌会で「面白かったね」という評を得ることで、ここには「短歌とはこういう豊かさを生み出す装置です。だから票を入れてください」というような計算があると述べている。[13]に対する評価と共通しているのは「作為性」である。

 しかしながら、もし青松の言うことに従うならば、歌が情景をくっきり浮かび上がらせ、そこに籠められた作者の想いが読み手に伝わるように工夫を凝らしたならば、それはすべて作為的ということになりはしないか。そう考えるととても正当な評価とは思えない。穂村は青松らの意見を受けて、[1]は短歌の世界の中で錬磨されてきた秀歌性からかなり外れており、作者は歌を自分の価値観に沿ったものに改変するためにこの文体を開発したのだと述べている。そして、それにもかかわらず、このような文体の耐用年数がもう切れようとしているのかと恐怖を感じるとも付け加えている。穂村は [1] が永井の歌であることを見抜いた上でこのように述べているのだが、穂村の懸念はおそらく杞憂に終わるだろう。永井が試みている短歌の文体の革新は、最初こそ理解されなかったものの、その意図するところが着実に浸透していると思われるからである。

 あとおもしろかったのは[11]をめぐる議論である。永井が「ゆめに ときには」の字空けはかっこいいけど結構チャラいと指摘すると、それを受けて伊舎堂がチャラいを通らないとかっこよくならないので、チャラいを突き抜けないとだめだと述べている。そこで穂村が「突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士のまなこ」という歌を引いて、主題の重さに対してどこかチャラいところがある。兵士が眼を撃たれたことと卵が割れることがオーバーラップして映像に快楽性があるが、倫理的にNGでも歌に快楽性があっていいというところを自分はずっとうまく言えずにいると引き取っている。

 このやりとりを読んで私は少し驚いた。もし芸術作品が描くものに倫理性を求めたら、三島由紀夫の『金閣寺』で修行僧が放火した金閣寺が炎上するのを美しいと感じたり、ヴィスコンティの『ルードウィッヒ』で、国を傾けるほどワグナーに心酔し、ディズニーランドのシンデレラ城のモデルになったと言われるノイシュバンシュタイン城を立てたババリア王ルードウィッヒが湖で死ぬ場面で、浅瀬に横たわる王の開いた口に雨が降り注ぐシーンを美しいと感じてはいけないということになりかねない。いつかある俳優が、映画の中でヤクザが銃で人を撃って車で逃走しようとするときに、ポリコレ的にシートベルトを締めることを求められたら、もう映画は撮れなくなると言っていたが、それと似たところがあるようにも思う。

 またこの座談会の中で穂村は、「短歌には一人称性が釘のように打ち込まれている」とか、「俵万智の一人称性はすごく『みんな性』に近い」などという名言を残している。今まで「短歌の武装解除」「圧縮と解凍」「短歌のくびれ」などさまざまな用語を世に出してきた穂村らしい。とはいえニューウェーヴ短歌の旗手だった穂村も、若手が集まった座談会の中で長老扱いされていることに、いやおうなく時間の流れを感じてしまう。

 この特集では歌会の他に何人かの歌人が評論を寄稿している。その中では伊舎堂仁の「空中ペットボトル殺法」がおもしろかった。

 伊舎堂は次のようなペットボトルを詠んだ歌を比較している。

ああ闇はここにしかないコンビニのペットボトルの棚の隙間に 松木秀

たぶん親の収入は超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく 山田航

開けっ放しのペットボトルを投げ渡し飛び散れたてがみのように水たち 近江瞬

 一首目と二首目では、ペットボトルは私たちの日常になくてはならないものだが、かといって歌の主人公になるほどのものではない。ところが近江の歌では主人公になっている。伊舎堂の言葉を借りれば「短歌へ映れた」のはキャップを外されて水がこぼれたことによって「壊れた」からだという。そして「壊れていると、短歌に映れる」と伊舎堂は言う。戦略として先に自分を壊しておくという手もあるが、そろそろ「壊れている」ことが気まずく感じられるようになってきたとも続けている。かつて中山明は穂村弘について、「上手く破綻した」者の魅力があったと書いたことがあるという。その上で伊舎堂は、「対象も自己も壊さず、短歌を詠むことはできないのだろうか。短歌を読むことはできないのだろうか」と自問している。

 しかしながら「壊れている」ことと文学は長い付き合いがあり、今に始まったことではない。石川啄木も中原中也もある意味かなり壊れていた人たちである。いささか誇張はあるものの、清家雪子の『月に吠えらんねぇ』を読めばそれがよくわかる。フランスの文芸批評家のモーリス・ブランショ (Maurice Blanchot 1907-2003)は、「文学は欠如 (manque) から始まる」と述べているのも他のことではない。

 私がおもしろいと思ったのは、評論の内容もさることながら、伊舎堂の次のような文体である。

【開けっ放】された時点で店頭へは戻れないことの決定により商品として〈壊れ〉、一首内には出てこない、という〈遠さ〉によって「キャップ」から隔てられたことにより保存容器として壊れ、今は空中にあり、その後に中身の大部分が散逸するであろうことで飲めない・飛び散る・光ったなにか・という無意味さに向かって〈意味ごと壊れて〉いる。

 内容には多少異論はあるが、あえて饒舌を志向したスピード感溢れる文体はユニークで読ませる。余談になるが、伊舎堂の評論のタイトル「空中ペットボトル殺法」をパソコンで打とうとして、「さっぽう」から「殺法」が変換できないことに気づいた。「殺法」は広辞苑には立項されていないが、小学館の『精選日本国語大辞典』には項目がある。しかしこれでは眠狂四郎の円月殺法も一度では変換できないことになりとても残念だ。

 

【作者名】

[1] 永井祐 [2] 伊舎堂仁 [3] 木下龍也 [4] 花山周子 [5] 穂村弘 [6] 榊原紘

[7] 服部真里子 [8] 睦月都 [9] 我妻俊樹 [10] 大森静佳 [11] 井上法子

[12] 青松輝 [13] 堂園昌彦

第383回 川野芽生『星の嵌め殺し』

死神の指先はつね清くしてサラダに散らす薔薇の花びら

川野芽生『星の嵌め殺し』 

 第一歌集『Lilith』で第65回現代歌人協会賞を受賞した川野芽生の第二歌集『星の嵌め殺し』が出版された。版元は河出書房新社で、装幀は花山周子である。『Lilith』の装幀はモダンデザインだったが、今回はレース模様とラメを散らした紫色の花模様という古典的な意匠だ。花山は睦月都の『Dance with the invisibles』でもクラシックな装幀が注目されたが、本歌集の装幀はロリータファッションを好むという川野によく合っている。

 本歌集は、第1部「鏡と神々、銀狼と春雷」、第2部「航行と葬送」、第3部「繻子と修羅、薔薇と綺羅」の3部からなる。巻末の初出一覧を見ると、特に編年体というわけではなく、内容を考えて再構成したものと思われる。各部のタイトルにも作者の言葉フェチが現れている。「かがみとかみがみ」の言葉遊び、「こうこうとそうそう」も韻を踏み、「しゅすとしゅら、ばらときら」では頭韻と脚韻が組み合わされている。

 第1部の冒頭部分から何首か引いてみよう。

凍星よわれは怒りを冠に鏤めてこの曠野をあゆむ

交配を望まざりしに花といふつめたき顔を吊るす蘭たち

神父、まひるの野を歩みをり聖痕ゆ菫のせる血を流しつつ

産むことのなき軀より血を流し見下ろすはつなつの船着き場

魔女を狩れ、とふ声たかくひくくしてわが手につつむ錫の杯

 『ねむらない樹』第7号(2021年)の川野芽生特集に発表された「燃ゆるものは」の一連である。これらの歌に籠められた感情は紛れもなく一首目にある怒りだろう。男性中心社会への怒りである。2018年の第29回歌壇賞の受賞のことばに川野は次のように書いている。

「わたしが失語にも似た状況に陥ったのは、大学という学問の場に足を踏み入れたときで、そのときはじめてわたしは、自分が特定の性に、ことばや真実や知といったものを扱い得ないとされる性に、分類されることを知ったのでした。しかしわたしが愛した神聖なことばの世界に逃げ帰ろうとしてみると、そこには空虚で、美しくて、誘惑のためのことばしか発しない〈女性〉たちが詰め込まれていて、わたしは一体いままで、何を読んでいたのでしょう。何を読まされていたのでしょう」(『歌壇』2018年2月号)

 受賞のことばとしては異色である。このような言葉にも現れている思いから、一首目のように川野は冠に怒りを鏤めて男性中心社会という曠野を昂然と歩くのである。二首目の蘭も女性というジェンダーの喩であり、子孫を残すための性という社会の規定への反発を表している。四首目が表現しているのは、自分は子供を産むことはないという決意とは無関係に月のものが訪れる違和だろう。五首目には自分が男性社会から魔女と呼ばれることも厭わないという強い思いが表されている。

 川野は「短歌以前に私が表現したい自分というものはない」とか「私は言葉のしもべ」などと繰り返し発言しているが、その言葉とは裏腹に、現代の若手歌人のなかでは珍しく、射程が深く重い主題を抱えた歌人だと言えよう。

天使の屍跨ぎて街へ出でゆけば花は破格の値で売られをり

罌粟の野のやうなおまへわたしの血の中で二匹の獣となつて駆けやう

オフィーリア、もう起きていい、死に続けることを望まれても、オフィーリア

みづうみを身に着けて歩みくるひとよ白鳥なりし日の澪曳きて

夕暮に庭沈みゆく 生き延びてわれらが淹るる黄金きん色のお茶

 三首目はラファエロ前派のジョン・エヴァレット・ミレーの絵に想を得た歌だろう。上に引いた歌に用いられているのは、現代の若手歌人が使う語彙とは異質な語彙である。川野はこのような硬質な語彙をどのような地層から汲み上げているのだろうか。

さやさやと秋めく夕の厨辺の油に放つ茄子の濃紺

          浅井美也子『つばさの折り目』

血の滲むレアステーキの舌鼓をしづめて酢漬けの青唐辛子

           佐藤元紀『かばん』2024年8月号

 どちらも映像のピントがしっかり合っている歌だ。一首目はいわゆる厨歌で、秋の台所で茄子を揚げている光景が詠まれている。二首目はレストランでの食事風景だろう。「厨辺」は短歌用語だが、それを除けばこれらの歌に用いられているのは日常の語彙である。歌の本意が写実であれ日々の想いであれ、近現代の短歌は日常の語彙を用いて製作するのが基本となっている。それは近現代短歌が作者の日常生活に接地していることが求められているからである。

清見潟まだ明けやらぬ関の戸をたがゆるせばか月のこゆらん 『宗祇集』

岸近く波寄る松の木の間より清見が関は月ぞもりくる 『為仲集』

 清見関は歌枕で、静岡県の三保の松原の近くにあったらしい。どちらも清見関と月を詠んでいて発想が似ている。古典和歌の作者たちがこのような語彙を汲み出すのは日常生活からではない。禁裏と貴族階級に属している人たちに広く共有されていた歌ことばの倉庫からである。明治時代の短歌革新によってこの倉庫は鍵を鎖され、使われなくなって久しい。

 しかしコトバ派の歌人は自らの歌が日常生活に接地することを望まない。歌はもっと高所を目指すべきだと考える。これが言葉の垂直性である。それではコトバ派の歌人はどこから語彙を汲み上げるのか。歴史や神話や空想や幻想からである。川野は東京大学大学院でファンタジー文学を研究する研究者なので、当然ながら言葉を汲む泉はファンタジーなのである。

罌粟の花踏み躙らるるたそがれの騎兵は馬に忘れられつつ

向日葵の花野のやうに死後はあり天使の手より落ちたる喇叭

求婚者をみなごろしにする少女らに嵐とは異界からの喝采

うつつとは夢の燃料 凍蝶のぼろぼろに枯木立よぎりぬ

 三首目の鏖にはルビが振られているが、ルビのない「ちりばめて」「踏みにぢらるる」「はなびら」などの字もあり、読むのに漢和辞典が必要だ。四首目は幻想派の信条を表す標語といってもよい歌である。このように川野が語彙を汲み上げる先が神話やファンタジーなので、ブキッシュ (bookish) な印象を与えることは否めない。

をさな子の辺獄なりや花の蜜満つる菜の花畠は薄暮

百合の花捨てたるのちの青磁器はピアノの絃のふるへ帯びつつ

水沫みなわの死視てゐたるのみ畿千度いくちたび波はわたしの足に縋れど

日のひかりかたぶくかたへ差し伸ぶる手に黄金きんいろの蜜柑のこりぬ

抽象の深みへやがて潜りゆく画家の習作に立つ硝子壜

 詠まれている素材は、一首目では夕暮の菜の花畑、二首目は活けてあった花を捨てた花瓶、三首目は足下に波が打ち寄せる波打ち際で、取り立てて特殊な素材ではないのだが、川野の手にかかるとまるでミダス王の手が触れたように幻想味を帯びる。四首目に至っては、夕方手にミカンを持っているだけなのに、黄金色のミカンは神話の果実のようである。五首目はイタリアの画家モランディを詠んだものかと思うがどうだろうか。

 最後に川野の覚悟をよく表す歌を引いておこう

魔女のため灯す七つの星あればゆけようつくしからぬ地上を

 川野は最近では文芸誌に散文作品を発表しており、『無垢なる花たちのためのユートピア』(東京創元社)、『月面文字翻刻一例』(書肆侃侃房)などの小説や、『現代短歌』に連載していた評論を集めた『幻象録』(泥文庫)などもある。『Blue』では何と芥川賞候補になったと聞く。かつて大辻隆弘が「結局みんな散文に行ってしまうのか」と慨嘆したことがあったが、歌人という肩書きの価値をよく知っている川野はまさかそのようなことはないだろう。

 

第382回 小俵鱚太『レテ╱移動祝祭日』

夭逝、と書けば生まれる七月の孤独なひかりを泳ぐカゲロウ

小俵鱚太『レテ╱移動祝祭日』

  若い頃に夭逝という言葉に憧れを覚えた人は少なくないだろう。夭逝の天才となればなおさらだ。詩人ランボー、数学者ガロワ、小説家ラディゲら夭逝の天才は、夜空に煌めく星座のようだ。しかし大方の人は天才ではなく、夭逝することもなく平凡な日常を生きる。掲出歌はそのことに気づいた日の孤独な青春の鬱屈を感じさせる。

 小俵鱚太こたわらきすたは1974年生まれ。それまで短歌とは縁のない暮らしをしていたが、2018年8月のある日、ふと思いついて作歌を始め、Twitter(現X)などで発信し出したという。2020年の第2回笹井宏之賞において「ナビを無視して」で長嶋有賞を受賞。現在は「短歌人」「たんたん拍子」に所属。『レテ╱移動祝祭日』は2024年刊行の第一歌集である。江戸雪、内山晶太、近江瞬、瀬戸夏子が栞文を寄せている。

 二つの言葉を並べた歌集題名は珍しい。レテはギリシア神話に登場する忘却の川である。死んで冥界に赴く人は、この川の水を飲んで現世のことをすべて忘れるとされる。移動祝祭日は英語の moveable feastの日本語訳で、復活祭のように日付が固定されておらず、年によって日付が異なる祝日を指す。ヘミングウェィの最晩年の作品名として知られている。「もし君が幸運にも若い頃にパリで過ごしたとしたならば、パリは君にいつも着いて回る。なぜならパリは移動祝祭日だからだ」とヘミングウェは友人に語ったとされている。ヘミングウェィの言葉を見ると、本来の意味ではなく、「どこにでも持ち運びできる祝祭」という意味で使っているようだ。二つの言葉を並べた歌集題名はなかなか意味深長だ。人はいつかこの世に別れを告げて、すべては忘却の彼方に沈んでしまうが、それまでの日々は移動祝祭日のように過ごすのがよいと作者は言っているようにも見える。

 小俵の短歌のベースラインを知るためにいくつか歌を引いてみよう。 

焼き鯖を骨抜きにする手を見つつ逢う日は雨でも良いかとおもう

ジャムでしか見たことのないルバーブに出会う気持ちでオフ会へゆく

この子の目、真珠なのかと黒目なき失明犬を抱く夏の朝

たましいのつぼみに見えたギャルの持つお椀が爪に囲まれていて

潮風とレモンドーナツ 観覧車で生まれた人はいるのだろうか 

 一読して感じられるのは、ほどよい脱力感とそこかしこに漂う微かなユーモアだろう。一首目、たぶん女性が自分のために焼き鯖の骨を抜いてくれているのだ。デートは雨で外出できないが、こうして降り籠められているのも悪くないと感じている。二首目、ルバーブは漢方で大黄と呼ばれている植物で、欧州ではジャムにしたりグラタンにしたりする。大方の日本人はジャム以外で出会うことはないだろう。インターネットのオフ会では、それまでネット上でしか知らなかった人に会うので、それをルバーブの実物に喩えている。三首目は特に好きな歌だ。白内障が進行したのか失明して目が真珠のようにまっ白になっている犬を抱く仕草に愛情が満ちている。四首目、ギャルが派手な付け爪をした手で塗りのお椀を持っている。雑煮かぜんざいのお椀だろうか。その様がまるで魂の蕾のようだと喩えている。五首目、おそらく海辺の遊園地で潮風を浴びてメモンドーナツを食べているのだ。目の前で回っている観覧車を見て、観覧車の中で産気付いて出産することはあるのだろうかと考えている。間に合わずにタクシーの中で出産するという話は聞くことがあるが、観覧車は一周するのに数分しかかからないので、まさかそんなことはないだろう。あらぬことを考えているのがポイントだ。

 文体を見ればわかるように、大仰な修辞を用いたりすることなく、平明な言葉を使って見聞きしたり感じたことを綴っている。しかしながら、平易な見かけによらず、これらの歌は単なる写実ではなく、また口語を使ってリアリズムを更新しようとしているのでもない。見かけ以上に作者の想いが盛り込まれている歌だ。ギャルの付け爪の手に収まったお椀を見て、まるで魂の蕾のようだと感じるのは、日頃から魂の形について想いを巡らしていなければできないことである。 

たぶん斜視なんだとおもう友の子に手を引かれつつ浜へおりゆく

間の悪い男かおれは。測量士ふたりの仲を裂かねばならず

泣きながら終電に乗りこむ人のやはり落としたストール、冬の

まだ帰りたくない犬が道に伏せやがていっしょにしゃがむ飼い主

「この蜂は刺さない蜂」と教えたい、紅く燃え立つつつじの頃に 

 上に引いた歌には作者と周囲の人たちとの関係性がよく表れている。一首目、友人の幼い子と手を繋いで浜辺に降りてゆく。子供の視線や歩き方から、「ああ、この子はたぶん斜視なんだ」と感じる。そのまなざしは暖かい。二首目、道路に測量器を置いて二人の人が測量をしている。よくある光景である。私は行きがかり上、その間を通らなくてはならない。やむをえず測量の邪魔をすることをすまなく感じている。三首目、冬の夜に飲んだ帰りか、終電に乗る時に泣きながら乗り込む女性を見かける。何があったのだろう。ストールを落とさなければいいがと思っていたら、案の定落としたという場面である。四首目もよくある光景だ。まだ散歩を続けたい犬がストライキを起こして道に伏せる。やがては付き合ってしゃがむ飼い主にも、犬の気持ちがよくわかるのだ。私は脚を踏ん張ってミスドの店の前から動こうとしない犬を見かけたことがある。五首目、蜂を恐がる子供にこれは刺さない蜂なんだよと教えてあげたいと思う。燃えるような躑躅が咲く五月のことである。これらの歌には、作者が周囲の人々と触れ合う柔らかな関係性が詠われていてとても魅力的だ。 

週末に会う父として、サバイバル先生として自然を見せる

よくハルは「そしたらパパは救ける?」と訊く 誘拐をされる前提で

多動の子にもみなニコニコと対処できる支援クラスの授業参観

ひとりひとり習熟に沿い配られるハルには二年生のさんすう

はま寿司へヒメジョオン持ち土手をゆくハルはハエトリグモの跳ねかた 

 最も愛情が籠もっているのが幼い娘を詠んだ歌だ。離婚した妻と暮らす娘には週に一度しか会えない。そんな娘に草花の名を教え、鉄棒の逆上がりを教え、見守るしかできない父親の姿は心に沁みる。

 小俵はたぶん短歌に芸術を求めているのではないだろう。唯美主義は小俵には無縁である。小俵の短歌は単なる言葉の組み合わせではなく、その奥に揺れ動く日々の想いが詰まっている。そのことに気づくと、まるで噛みしめるにつれて味が増すスルメのように、小俵の短歌も味わいが深くなるのである。

 最後に特に心に残った歌を挙げておこう。付箋がたくさん付いたので、選ぶのがたいへんだがそれはまた楽しみでもある。

ほおずきの生る庭で聴くその家を引っ越す前のしずかなすべて

夕映えのトラットリアを焦らしつつ目指す散歩にかがやける水

言の葉に枯れ葉を交ぜて重くないことだけしゃべる冬のデニーズ

鳥葬はありだとおもう酢に濡れた箸で餃子の羽を剥がして

客死するための旅かと人生をおもう 洋酒に描かれた船

傘につく花びら濡らし行くべきはあかるい午後のデンタルオフィス

亡き王女のためのパヴァーヌ聴きながら朝に認めて悼む冬の死

蝉以外は時間が止まっていたはずの夏の午後撮る証明写真

プールサイドの気だるさがくる遠い濃い夏の日記を読み返かえつつ

 なぜ私は上に引いた歌の前で長く立ち停ったのか。それは一首がどれだけ色濃く情景を喚起するかということなのだが、それに加えて巧みに織り込まれた季節感と、五感に届く感覚刺激があるように感じられる。たとえば一首目の鬼灯の実が生るのは夏で、二首目の夕映えは秋、三首目は冬だ。他の歌も季節がだいたいわかる。また一首目の静けさは聴覚に訴えるし、二首目は視覚、三首目も聴覚で、四首目の酢は嗅覚と味覚という具合だ。また八首目と九首目には、夏特有の暑さと気だるさという感覚がある。ただしこうして自分の好みで選ぶと、作者小俵の「日々の想い」があまり詰まっていない歌ばかりになってしまったが、それはまた別の問題である。

 

 

第381回 2024年U-25短歌選手権

 今年も角川『短歌』が主宰するU-25短歌選手権の季節になった。今年は昨年度の1.7倍の172篇の応募があったという。審査員は全部読んで候補作を選ぶのでたいへんだろう。ちなみに審査員は第一回から変わらず栗木京子、穂村弘、小島なおの三氏である。

 優勝作品に選ばれたのは渓響の「として生きる」である。ネット上での自己紹介によれば、名前は「たにひびき」と読む。平成17年(2005年)生まれで、つくば現代短歌会所属。角川『短歌』の2022年4月号の特集「よし、春から歌人になろう」の全国学生短歌会紹介によれば、つくば現代短歌会は2019年に設立された筑波大学の学生サークルとある。設立から5年の若い学生短歌会だ。渓響は副会長をしているようだ。

このままゆけば海へ到ると知っていて手前の駅で降りた夏の日

傘をさせば雨でことばをひろえずになるほど負う苦はあるかもしれず

リスニングは別室受験 別室はエアコンがぬるく設定してある

難聴者デフパーソンとして生きると決めた日とかないよないけど 夜の歩道橋

でもみんな何者かとして生きていて それだけで夏がうつくしく果てる

 栗木と穂村が最高点の5点を入れ、小島は1点を入れている。栗木は、難聴という身体的な症状を抱えているが、あまり被害者意識を前面に出さず出来事に託して詠んでいるところに力量を感じたと評している。穂村は、ある瞬間のふとした感覚を立ち上げるのが上手いとし、みんな否応なく何者かとして生きざるをえないあり方を俯瞰しているところに魅力があると述べている。選考座談会でも話題になっているが、二首目は「雪に傘、あはれむやみにあかるくて生きて負ふ苦をわれはうたがふ」という小池光の歌へのオマージュであり、同時にささやかな反論となっている。

 小池の歌を本歌取りをしていることからもわかるように、近現代短歌をよく勉強した跡が窺える。特に初句の増音が多く、一首目「このままゆけば」の七音、二首目「かさをさせば」の六音などが巧みである。

 選考座談会でも話題になっているが、短歌賞に応募してきた連作を読むとき、「テーマ」を重視するか「文体」を重視するかはいつも問題になる。座談会で穂村は、テーマ性、秀歌性と並んで文体の開発を挙げていて、与謝野晶子と石川啄木と斎藤茂吉の短歌をシャッフルしても元に戻せるくらい、これはこの人の文体とわかるのが理想だと述べている。ちなみに穂村は昨年度のU-25短歌選手権の選考座談会でも同じことを言っているので、最近の関心事なのだろう。

 渓響の場合、難聴者として生きるという大きくて重いテーマがある。しかし渓の短歌の美質はおそらく、すでに自分の文体らしきものを獲得している点にある。栗木と穂村がそろって最高点を入れたのは、扱われたテーマに着目しただけではないはずだ。

コロナが終われば、と言ってきた約束をなべて果たしてゆくこれからの

いつの染み と思うあいだはそのシャツのチェ・ゲバラと目をじっと合わせて

 渓の文体の特徴を挙げるならば、それは随所に使われた増音が生み出すリズムと、微妙な統語のずれの組み合わせによってポエジーを立ち上げるという手法だろう。一首目「コロナが終われば」の八音の後に読点を置き、「と言ってきた約束を」と続ける流れがそうだし、二首目の「いつの染み と思うあいだはそのシャツの」などはまるで古典和歌の一節のようだ。なかなか楽しみな歌人である。

 ちなみに渓響は今年の短歌研究新人賞にも応募しているが、残念ながら入賞は逃している。次の二首だけ掲載されている。こちらではまた別な文体を試しているようだ。

サウナ・ブームがすごいらしいねって話、しすぎると来ちゃうよ、サウナの人が

予報士が海にふれるとその場から前線がにょきっと出てくるシステム

 準優勝は金井優々の「古典を踊る」が選ばれた。金井は平成15年(2003年)生まれで、京大短歌会所属。ちなみに「優々」は「ゆんゆん」と読む。

村娘役18人王子役1人の稽古場はいがむやろ

記されたバミリの上で待っている花嫁候補のひとりがわたし

凭れれば抱えてくれるそのときの私と角度のあるリノリューム

はぐヴェール・はがされるヴェール 私には古典を変えることができない

だとしても古典を踊る 踏みつける靴の中でずれていく湿布

 栗木が3点、穂村が1点、小島が5点を入れている。小島は、クラシック・バレエというテーマで統一しているのが珍しく、少数の男役と多数の女役がいることから生じるジェンダーの歪みや肉体性などのテーマが重層的に扱われているところが評価のポイントだとしている。栗木は主に自分の感覚を通して得た身体感覚がうまく表現されている点を指摘し、穂村は、高度な連作で、身体性や舞台の現場性がよく捉えられており、連作としての有機性では今まで見たことないくらい高度だと褒めている。

 ここでも「テーマ」と「文体」の問題が顔を出しているが、審査員は主にクラシック・バレエのジェンダーの歪みを感じつつも、バレエを踊らざるを得ない作者のテーマ性を評価したようだ。確かにテーマ的統一性は抜群の濃度で、三首目の「私と角度のあるリノリューム」のような視点性のある身体感覚もよく捉えられている。

 とはいうものの「文体」という観点から見ればまた別の見方ができよう。たとえば「『こんぐらい自分であろうたらええのにね』血だ (チュチュの脚の付け根のとこだ)」のような歌は短歌の韻律から遠く、生すぎて詩的昇華が不足しているように感じられる。上に引いた一首目のように縦書きでアラビア数字を使うのも再考の余地があろう。

 残りは各審査員が押した審査員賞である。栗木京子賞は椎本阿吽の「白亜紀の花」に与えられた。

変革を信じて生きている春の終わり ただ集めてるポストカードを

水色の空に残っている半月あなたの薄いクラムチャウダー

回転扉に一緒に入っていけなくて遅れて分かる暖房の濃さ

 栗木が4点、穂村が3点を入れている。栗木は、愛し合う二人の相聞で、ほのぼのとした情景が鮮明で、整って完成度も高い歌が多いと評している。穂村は、細かい言葉の使い方の打率も高いと述べている。座談会で特に話題になったのは「こうやって二人はずっと暮らしたと覚えておいてね稗田阿礼」という歌である。自分たちの幸福な暮らしを自分たちはもちろん覚えているが、それだけでは不十分で『古事記』の作者にも伝承しておいてほしいという歌である。「稗田阿礼」の選択が光る。

 作者の椎本阿吽は、平成14年(2002年)生まれで所属なしとしかわからず、インターネットで調べてもそれ以上の情報が見つからない謎の歌人である。ふつうは「うたの日」などのネット歌会で活動していて、名前が見つかることが多いのだが。しかし応募作を見ると、とても短歌を始めたばかりのポッと出の素人とは思えない。

 穂村弘賞はこはくの「透明なところを担え」が受賞した。こはくも平成16年(2004年)生まれで所属なしとしかわからない作者である。

もつれない音で私を抱きしめて 半透明になる美術室

きみの書く水平線に立つぼくをさえぎる点P、おまえのはやさ

きまぐれにやさしい空へ招かれて春のひかりに飼われるぼくら

 穂村だけが4点を入れている。感覚の鮮烈さが胸に飛び込んでくるような一連で、「街灯が点滅してる 岐路に立つふたりの空を試すみたいに」は痺れる歌だと穂村が評すると、隣の栗木から「ロマンチスト」とからかわれている。やはり穂村は愛を信じるロマンチストなのかもしれない。連作のタイトルは、「透明なところを担え、わたしたち たましいの色彩を信じて」という歌から採られている。穂村は、「無意識な動作なんだけど、鋭い自意識から、見えない何かへの祈りのような所作に見える」ものがあり、「無為なところにいっぱい意識がいく感じに惹かれます」と述べている。穂村の言わんとするところは何となくわかる。魂のいちばん透明な箇所に触れるように言葉を紡ぐところに本作の魅力がある。

 小島なお賞を受賞したのは大原雨音の「きれいな黙秘」である。大原も平成10年(1998年)生まれで所属なし以外の情報がない。

百均で付箋とのりとグミを買う 永遠なんか無料タダでもいらない

楽しみなことがひとつもない月でアイスの底をかしょかしょと掻く

付き合う、は互いのジェンガを崩すこと お金を出せばイルカに会える

 小島が4点を入れている。日常の隙間に埋もれてしまっているエモーショナルなシーンを拾いながら、時々ふっと社会に自分が接続している意識が覗く連作で、視野の広さや批判性が錘になっていると小島は述べている。穂村は上の句と下の句のつけ方が面白く、「わたしはきみを傷つけるために生きているヒートテックをはみ出しながら」は、成分不明な面白さだと評している。

 残念ながら受賞は逃したが、注目されるのは早瀬はづきの「ヴァニーユ」である。早瀬は平成15年(2003年)生まれで、京大短歌会所属。早瀬は今年 (2024年) の第35回歌壇賞において、「カストラート」で候補作品に選ばれている。

蛇を踏むために聖書に足を置くテミスの像よ盲目のまま

舌のような白木蓮のはなびらよ舌とは水の滲みだす器官

息ふかくあなたはねむる胸元に楽器のような肋をひめて

燃え落ちるように力をぬいたときベッドはやわらかな展翅板

花でみたした棺の底に閉ざされて人の身体が火に終わること

ヴァニーユ キスも処刑も戴冠もなされるときはまぶたをおろす

 栗木が2点、小島が1点を入れている。栗木は一首目の詞書きの「vanillaの語源はvagina」に注目し、香辛料のバニラの甘やかさと生殖器官の二つのイメージが重ね合わされた一連で、身体的・官能的な歌が印象的だったと述べている。一方、小島は、緻密に練られている連作で、神話や戦争や革命の歴史などと哲学の思想が下敷きに張り巡らされていて、川野芽生を彷彿とさせる世界観を持っていると評している。

 タイトルの「ヴァニーユ」(vanille) はフランス語でバニラのこと。語源についてはもう少し複雑なようだ。O.ブロッホとW. von ワルトブルグ編纂になる『フランス語語源辞典』(Dictionnaire étymologique de la langue française, PUF) によると、フランス語のvanilleはスペイン語のvainillaからの借用で、(刀・ナイフの)「鞘」を意味するvainaの指小辞だという。指小辞というのは小さな物を指す接尾辞が付いた語で、vanilleはもともとは (刀・ナイフの)「小さな鞘」を意味する。スペイン語のvainillaはやがてバニラの豆の莢を指すのに使われるようになり、その後バニラ自体を指す語となったらしい。一方、女性器を指すフランス語のvaginは、ラテン語で「鞘」を意味するvaginaに由来する。この語はスペイン語のvainaの語源でもある。したがってフランス語のvanilleは、ラテン語から直接来たのではなく、スペイン語からの借用ということになるのだが、元を遡ればラテン語のvaginaに行き着くことはまちがいない。

 上に引いた一首目のテミスはギリシア神話の正義の女神で、公平を期するため目隠しをして描かれる。蛇と聖書を踏む姿が多いという。しばらく前に「テミスの教室」というTVドラマがあった。ちなみに最高裁に置かれているテミス像は目隠しではなく、目を閉じているらしい。二首目の白木蓮の花びらと舌の連想、三首目の肋骨と楽器、四首目のベッドと展翅板など、連語と喩によって結びつけられた概念が美しく創り上げられた世界を支えている。世界をただ感覚と感情によって捉えるのではなく、歴史や文学や神話などのアイテムを召喚して知的に構成する方法論は、若手歌人にはあまり見られないものである。

 早瀬は『京大短歌』では、「はづき」という名で活動している。最新号の29号(2004年1月)には「回転木馬」という連作が掲載されている。こちらも陰影に富む世界への眼差しがなかなか魅力的だ。

蝶の羽ほどの重さの秒針をまわしつづけて無銘時計は

何重にも影をかさねて一輪の薔薇が奈落としてひらきゆく

こんなにも秋の回転木馬たち眼をしめらせて風葬のなか

ゆうぐれにしかけ絵本をひらくたび町のおんなじところが燃えて

 今回の応募作で点数が入った22篇のうち、15篇が大学短歌会所属の歌人だった。上に引いた角川『短歌』2022年4月号の特集「よし、春から歌人になろう」の全国学生短歌会紹介でもわかるように、大学の学生短歌会が盛んに結成されて活動しているのは喜ばしいことである。まともに活動しているのが早稲田短歌会と京大短歌会くらいしかなかった20年前と較べると隔世の感がある。身贔屓する訳ではないが、京大短歌会から5人も入っているのが頼もしい。続けてがんばってほしいと願うばかりである。

 

 

第380回 『編棒を火の色に替えてから 冬野虹詩文集』

乳母車の車輪を秋の陽はこぼれ歩道の上に唄を移しぬ

冬野虹「かしすまりあ抄」

 先日、自宅に送られて来た封筒を開封すると、かなりぶ厚い本が出てきた。瀟洒なグレイの表紙に『編棒を火の色に替えてから 冬野虹詩文集』とある。版元は素粒社。あの野崎歓が帯文を寄せている。曰く、「冬野虹! その名はふしぎな想像界への扉をひらく合言葉だ。見よ、彼女の手が触れると、あらゆる事物は本来のポエジーを取り戻し、未知の出会いに向けて軽やかに浮遊し始める。」 なかなかの名文だ。文中に「取り戻し」とあるということは、事物には本来ポエジーが備わっていて、それを取り戻すためには触れるだけでよいということだろう。まるで触れた物すべてを黄金に変えたというミダス王の Midas touchのようではないか。私は読み始めた。そして、梅雨時のうっとうしい気候を忘れて、数日の間とても幸福な時間を過ごしたのである。

 本書は冬野のパートナーであった俳人の四ッ谷龍が編纂したもので、四ッ谷は巻末に回想を含む冬野虹論を執筆している。本体は第I部が俳句、第II部が詩、第III 部が短歌、そして第IV部が散文その他という構成になっている。浅学にして冬野の名を知らなかったが、これ以外に絵画作品もあるらしく、ずいぶん幅広く活動した芸術家だったようだ。

 年譜によれば、冬野は本名穴川順子として、1943年大阪に生まれた。実家は繊維業を営む裕福な家だったようだ。大阪は昔、「東洋のマンチェスター」と呼ばれていたこともあるほど繊維業が盛んだった。冬野は帝塚山学院短期大学を卒業後、絵とクラシック・バレエのレッスンを受け始める。したがって画家としての活動が最初ということになる。その後、1976年頃、33歳くらいで俳句を始め、藤田湘子の結社「鷹」に所属する。1992年頃、50歳の手前で短歌に手を染める。特定の師はいなかったようだ。四ッ谷と二人誌「むしめがね」を発行して活動の舞台とする。1995年頃から詩作を始めている。その間、舞踏家ピナ・パウシェ、俳人田中裕明、詩人高橋睦郎らと交流。2002年に虚血性心不全にて急逝とある。還暦を目前にして亡くなったことになる。すでに四ッ谷龍が編纂した三巻本の『冬野虹作品集成』があり、本書はその普及版という位置付けかと思われる。

 まず短歌から見て行こう。解題によれば、冬野は1992年から2001年にかけて677首の短歌を作った。四ッ谷はその中から387首を選び未完歌集『かしすまりあ』として『冬野虹作品集成』に収録したとある。本書には『かしすまりあ』からの抜粋と、未収録の歌が拾遺として掲載されている。まず『かしすまりあ抄』から引く。

部屋の奥で扇のやうに泣いてゐる婦人のためのパヴァーヌは雪

音別おんべつの駅に西瓜を下げた人ふらりと揺れて地に影おとす

籠にあるミネラル水の瓶の絵の氷の山の部分に夏の陽

泉川いづみかは清酢の店の前に来て誰か線香折っている音

深紅のカシスソーダ水つくる長いスプーンの尖のさびの香

はつなつのアテナインクの青のこと友に話しぬ動詞使はずに

 文体は旧仮名遣の定型で、文語(古語)混じりの口語(現代文章語)である。一首目には「式子内親王に」という詞書が添えられているので、平安王朝風の絵巻の場面を想像する。「雪」「扇」は恰好のアイテムだが、パヴァーヌに詩想の飛躍がある。パヴァーヌ (pavane) はフランス語で、16・17世紀に流行したゆっくりとしたテンポの舞曲。孔雀の動きを模倣したと言われている。ラヴェルが作曲した「亡き王女のためのパヴァーヌ」(Pavane pour une infante défunte)が名高いので、誰の脳内にもこの音楽が鳴るだろう。二首目の音別は北海道の釧路に近い場所の地名である。音別と西瓜の取り合わせにおもしろ味がある。夏の光と地面に落ちる影の対比が鮮やかだ。三首目の籠は、ビクニックに持って行ったか、あるいは庭の木陰のガーデンテーブルに置かれているラタン (籐) の籠だろう。ミネラルウォーターのラベルに描かれた雪山に夏の陽が当たっているという場面。「ミネラル水の瓶の絵の氷の山の」とずっと「の」で結んでクローズアップ効果を出している。四首目の泉川清酢いずみかわ せいすは、表千家と裏千家の家元が軒を並べている京都の小川通にある江戸時代から続く酢の製造販売店である。その前を通りかかると線香を折る音が聞こえたという。線香をあげるときに折るのは浄土真宗で推奨されているという。しかしポキッと線香を折るかすかな音が外にまで聞こえるものだろうか。どこかファンタジーの匂いがする。また季節は書かれていないが、夏の盂蘭盆会を連想する。五首目の「カシスソーダ」もまた夏の匂いがする。音数から言って「深紅」は「しんこう」と読み、「尖」は「さき」と読むのだろう。避暑地を思わせる一首である。カシスソーダを飲む女性は、できれば青い水玉模様のサマードレスを着ていてほしい。六首目の「アテナインク」はかつて丸善が製造販売していた万年筆用のインクである。色はたぶんブルーブラックだろう。そのインクのことを動詞を使わずに友達に話したという。「アテナインクを買ったのよ」ではなく、「アテナインクの青がきれいなのよ」ということか。

 歌の全体に「どこか別の国」感というか、「どこにもない国」感が漂っている。詠まれているアイテムは「西瓜」「ミネラルウォーター」「線香」「カシスソーダ」「インク」など、どこにでもある物なのに、冬野の短歌に詠まれてある特定の場面や状況に置かれると、とたんにポエジーを帯びて輝き出すように感じられる。これが野崎の言う「ポエジーを取り戻す」冬野マジックだろうか。

 この「どこにもない国」感は、紀野恵の短歌の世界とどこか似ているように思われる。

九月、日本製バスに乗り墓はらの石の白きを訪ふゆふまぐれ

ヴィクトリア朝風掛椅子朝焼けをじっと坐つて視るための物

               『フムフムランドの四季』

〈きのふまで〉をしづかに包み送り出すゆうびん局のまどろみの椅子

昼を寝(ぬ)るボボリ庭園三毛猫が擦り抜けてゆく時の天使も

                    『La Vacanza

 『フムフムランドの四季』では巻頭言に「フムフムランドは日本国の南方海上三百余里に有り」と高らかに宣言してあり、収録された歌が「どこにもない国」のものであることを明らかにしている。したがって、歌に詠まれたヴィクトリア朝風の椅子も、フィレンツェのボーボリ庭園も現実のそれではなく、フムフムランドという架空の国に転送され、その磁気を帯びたものである。

 冬野の短歌と紀野の歌のもうひとつの共通点は、近代短歌の写実性を支えた情意の主体であり視点主体でもある〈私〉の不在にある。写実性に代わって冬野の歌で追究されているのは、物と物とが触れ合い場を共有することによって立ち上るボエジーである。冬野の短歌にどこかそっと置かれて人を待つような気配が濃厚なのもそのためだろう。この点については紀野の短歌はやや異なる。紀野の短歌には、自らが作りあげたフムフムランドを統べる強い意志が感じられる。

 『かしすまりあ抄』に続いて拾遺に納められた歌にも心に残るものがある。

狭庭はエメラルドいまひとすじのサイダーの気泡夏へのぼりぬ

のそばの紫陽花の色ゆつくりと濃くなるときにまぶた閉ぢらる

風はもうすみれの庭を小走りに春の制服ちくたくと縫ふ

臾嶺ゆれい坂を蝉に押されるやうに下る風呂敷包の中の葛餅と

ベーコン焦げる匂ひのやうな喜遊曲ギャロップギャロップの日暮

 二首目には「龍・父上みまかりき 六月二十七日」という詞書がある。四ッ谷龍の父親が亡くなったのを悼む歌である。四首目の臾嶺坂は、外堀通りを神楽坂下から四谷方面に少し行った所から北に延びる狭い坂道。冬野の短歌のもうひとつの特徴は、ややもすると強すぎることもある「情意」と、短歌に伝統的にまとわりつく「湿り気」から自由であることだ。冬野の短歌を読んでいると、透明な硝子器の中に固く凍った氷片がカラカラと乾いた音を立てながら落ちてゆくような印象を受ける。

 次に俳句を見てみよう。解題によれば、冬野は『雪予報』という句集を1988年に沖積舎から出している。本書には『雪予報』の抜粋と、『網目』と題された未完句集の抜粋が収録されている。

荒海やなわとびの中がらんどう 『雪予報抄』

蚊帳吊草辿れば少女の骨の闇

メリケン粉海から母のきつねあめ

陽炎の広場に白い召使

生まれなさいパンジーの森くらくして

つゆくさのうしろの深さ見てしまふ

子規の忌のたたみの縁のふかみどり

姉死んで妹あける豆の缶

 俳句結社「鷹」と言えば、創立者の藤田湘子に続き、小川軽舟、高柳克弘と続く俳句の名門である。冬野は1981年に鷹新人賞を受賞している。一読して冬野の関心は言葉の組み合わせにあることがわかる。たとえば一句目の「荒海」という荒々しい冬の季語と「なわとび」という可愛らしい物の取り合わせがそうである。三句目の「メリケン粉」と「海」は意外な組み合わせに見えるかもしれないが、「メリケン」は「アメリカン」が訛った語なので、海の向こうからやって来たもので繋がりがある。「きつねあめ」は別名狐の嫁入りで夏の季語。しかしきらきらとした言葉の組み合わせの所々に暗い闇のようなものが潜んでいるのも魅力だ。一句目の「がらんどう」、二句目の「骨の闇」、五句目の森の暗さ、六句目の露草の向こうにある暗さなどである。

こけもものゼリーに淡き冬の妻  『網目抄』

一つ葉にホースの先の水しづか

ゆふぐれのコルクの床に葉書舞ふ

両の眼のひらかれてゆくまんじゅさげ

肉屋ブッチャーの長い休暇や罌粟ひらく

淳之介は海へ薔薇販売人眠れ

ひかりの野蝶々の脚たたまれて

 どの句も絵が鮮明でくっきりとしていて、何より詩情が豊かである。特に二句目や三句目や最後の句は美しい。二句目の一つ葉は庭にもよく植えられているシダ植物で、厚い緑の葉を持つ。ホースから出る水が静かに庭の一つ葉を揺らしているのである。三句目には何か物語があるようだ。ちなみに喘息を病んでいたプルーストはコルク張りの部屋で暮らしていたらしい。六句目の淳之介は吉行淳之介だろうか。

 冬野は書いていた詩を生前詩集に纏めることはなかったようだ。解題によれば、冬野の書いた詩から選んで『頬白の影たち』という未完詩集を『冬野虹作品集成』に主録したとある。本書にはその中から抜粋された詩が掲載されている。詩の引用は長くなるので一篇に留める。「まつゆき草 le perce neige」と題された詩である。

あの山は何だろう?

蒼ざめて

笑っているのは

 

鹿の睫毛に

囲まれたうみの中へ

しずみゆく

地震の寺院

 

私はその山にはいる

そして

私はその山の

裾に咲く

まつゆき草の

もえる

しずかな

ひとしずくの

遺体の

位置を

はっきりと知った

 私には詩の鑑賞を書く能力はないが、冬野の詩の言葉たちは日常の重力から解き放たれて、乾いた砂の上に存在の淡い影を落として浮遊しているように感じられる。その位相は冬野の短歌のそれとさして違わない。冬野の中では短歌と詩はひと続きのものだったのだろう。

 今年は前半を折り返したばかりで気が早いことは重々承知の上だが、本書は今年の収穫の一冊となりそうな予感が濃厚だ。梅雨のじめじめしたうっとうしい季節をひととき逃れて、ひやっと涼しく乾燥した天上的な空気の中で過ごしたいと願う人にはお奨めの一冊である。

 

第379回 第67回短歌研究新人賞雑感

道なりに進めば浄水場があり、あるはずの大きな貯水槽

工藤吹「コミカル」

 『短歌研究』7月号に第67回短歌研究新人賞受賞作が掲載された。今年の新人賞は工藤ふきの「コミカル」である。選考委員の交代もあった。長らく委員を務めた米川千嘉子が退任し、代わりに千葉聡が加わった。これで選考委員の陣容は、石川美南 (1980生)、黒瀬珂瀾(1977年生)、斉藤斎藤(1972年生)、千葉聡(1968年生)、横山未来子(1972年生)となった。誕生日を迎えているとして計算すると、平均年齢は50.2歳となり、ずいぶん若返った印象がある。私の手許にある新人賞受賞作が掲載された最も古い号は今から20年前の2004年9月号である。その年の受賞は嵯峨直樹の「ペイルグレーの海と空」だった。選考委員は岡井隆、石川不二子、馬場あき子、永田和宏、島田修二、道浦母都子の6人である。それからずいぶんと時間が経ったものだとあらためて感じる。

 新人賞の工藤吹は2001年生まれで盛岡出身。誕生日を迎えていれば23歳である。二松学舎大学に在学中の大学生で、結社の所属はないが、一時早稲田短歌会に参加していたこともあるようだ。『早稲田短歌』51号(2022年)を見ると「ミートパイ」という連作が掲載されている。受賞作「コミカル」から引く。

その昼の中に眩しい一室の、生活の、起き抜けの風邪だった

目が合うと段々部屋が散らかっていたことに焦点が合ってくる

遠泳のような余裕をたずさえてポカリのようなもの買いに行く

看板が増えれば町は賑わいのさなか微かに歩調を上げる

どこにでも光は届くものだけど秋には乾ききる用水路

 朝起きると風邪をひいていて、散歩がてら買い物をしに外出する。その道々の様子が実況中継のように詠まれている。選評で石川と斎藤が二人とも「風通しがよい」と評し、石川は続けて「抜群に好感度が高い一連」で、「何でもない時間を肯定的に書いている」と述べる。斉藤も「気分に町の空間の広がりが重なっていく感じがよくて」と評するが、一連の最後の方の歌が弱いとも述べている。

 確かにライブ感の感じられる詠み方で、何気ない日常の風景を肯定的に捉える感性も心地よい。文体に目を転じると、いかにも今風だなあと感じる。かつて近代短歌は、「夏至の日の夕餉をはりぬ魚の血にほのか汚るる皿を残して」(小池光)のように、結像性の高い情景を一幅の絵のように詠む傾向が強く、その際に大きな効力を発揮したのは助動詞である。小池の歌では倒置法が用いられているが、二句の完了の助動詞「ぬ」の力によって歌の情景は過去の時間軸にしっかりと定着する。この助動詞の効力は短歌が口語(現代文章語)化することによって失われた。現代文章語には過去の助動詞「た」一つしかない。その「た」ですら工藤の連作では二首にしか用いられておらず、それ以外の歌の文末は動詞の終止形(現在形ではない)か、さもなくば体言である。工藤の連作のライブ感は、「差し掛かる」「買いに行く」「見えてくる」「歩調を上げる」のように、結句の動詞の終止形を連ねることによって生じている。私の生きる「今」が焦点化されるのが現代の若い歌人たちの一つの特徴である。しかしそれがどこかふわふわした印象を与えることも否めない。

 選考座談会でおもしろかったのは工藤の作に点を入れなかった黒瀬の意見である。黒瀬が点を入れなかった理由はただ一つ、韻律が受け入れられなかったからだという。たとえば「歩道橋使うくらいに気が向いて休日の散歩なら悪くはない」の下句はだめだと述べている。確かに「決めたのは公園を通って帰ること、とても良い思いつきだと思う」の下句も散文的で短歌の韻律ではない。こういう文体を作者の個性として受け入れるか、それとも拒否するかは人によるかもしれない。

 ちょっと調べてみると、工藤は俳句にも手を染めているようだ。「週間俳句 Haiku Weekly」の2022年2月6日付のサイトに「大炬燵」と題された俳句が掲載されている。短歌作品とは趣がちがっていて、有季定型のなかなか良い句なのである。いろいろと異なるジャンルも試しているのだろう。

菓子箱に菓子の模様や冬椿

贈答のハムの転がる冬構

藁細工ほのと湿るや暮の市

箸乾く餅の貧しく付きしまま

白鳥の白や水面のうすにごり 

 今回の選考ではちょっとおもしろいことが起きた。選考委員が一位に推した作が全部異なっていたのである。「コミカル」を一位にした委員はおらず、二位と三位にした委員が一人ずついた。討議の過程で評価が変わることはよくあることで、結果的に「コミカル」が新人賞となったのである。

 工藤の歌で一つ気になったことがあるので書いておく。「窓に背が向くように置いてある本棚の本の色味を気に入っている」という歌があるのだが、本の「背」とは、ページが綴じられている側で、タイトルや作者名などが縦に印刷されている狭い部分を指す。本棚に並べるとこちらを向く部分である。背を窓に向けて置くと、タイトルや作者名が見えない。おまけに窓から入る日光によって日焼けするので、ふつうはそういう置き方はしないものだ。

 次席は津島ひたちの「You know」が選ばれた。津島は2002年生まれで京大短歌会所属である。『京大短歌』29号(2024年1月)を見ると、教育学部の2回生とある。今は進級して3回生だろう。

彼の死は八年前の冬でありそのあと冬は彼の死である

目を瞑れば彼があのころ統べていた教室 そこに声ふり積もる

先生に似合わぬ言葉が言えそうな鼻声だった渡り廊下に

カーテンは重たく濡れてこの部屋に朝になっても生きている蝿

子どもにはわたしに見せぬ顔がありわたしに見せてしまう顔もある

 8年前のおそらくクラス担任だった教師の突然の死を軸に展開する一連である。横山が一位に推している。横山は「孤独感と虚無感が伝わって余韻が長く残る」と述べ、また声や音を意識して詠っている点も印象に残ったと続けている。千葉と石川は七位に、黒瀬は八位に入れている。ただし、長いスパンにまたがる記憶を描く割には時間意識が薄いと黒瀬が指摘する点は確かに瑕疵かもしれない。

 黒瀬が一位に推したのは湯島はじめ「あなたの町に」である。

お互いの城下の古いアパートへ入居を青い契約印で

避難ということばの遠さわたしには汀はプール 海ではなくて

暴力のような芽吹きの町にいてあなたひとりが聴く犬の声

 湯島は1992年生まれで「かばん」所属。調べてみると『ジャッカロープの毛のふるえ』という短歌集を出しているようだ。選評で黒瀬は、「誰かと生きる、ということへの様々な試行が綴られる。そこには、他者と我とはそれぞれ独立した存在であり、けっして融合しないという確固たる認識がある」と述べている。石川は五位で取っている。また背景に福島の帰還困難区域の置かれた現状があるのではないかとも述べている。たしかに東日本大震災を背景に読むと、またちがった読みができるかもしれない。「かばん」の最新号を見ると、「光と希死いつも同時に瞬いてソルトアイスに顔顰めたり」のように良い歌を投稿している。

 石川が一位に推したのは穴根蛇にひきの「雪と雪の鵺」である。

初冬の結露を載せてもらわれる子どものようにしずかな鏡

新生児並べるようにタッパーへ夜のしじまへご飯を分ける

いつか痛みを花に喩えて言うときに声まで百合のように裂けつつ

 穴根蛇は「とにたん」「ウィーンガシャン派」「時庭歌会」所属とある。確か昔「かばん」でこの筆名を目にした記憶があるのだが。石川は、「ストレートな抒情を感じる歌が多く、一首一首の完成度が高い」と評している。黒瀬は七位に取り、「触覚や粘性、身体感覚を鋭く描写している」と評価する一方で、「世界の上澄みをすくっているように思ってしまった」とも述べている。現代の若手歌人とは異なる作風がおもしろいのだが、一首の中にたくさんのものを詰め込み過ぎているきらいもある。

 千葉が一位に推したのは石田犀の「あるブルー」である。石田は「塔」所属で1991年生まれ。

階段をあなたが先に降りていく想像上の指でつむじ押す

質量であなたは音を語りつつ意図がわたしに届くスピード

舌ひとつ青き火種として渡す冷えたふたつの耳殻のために

 千葉は「ジャズのライブに行き、ひととき音楽に身を委ねて、また日常に戻る。ライブの様子を、音楽そのものよりも、音楽に纏わりつく諸々で多くを語っている」と評している。黒瀬は、「テーマ一つで押し出してきて、力のある人だと思いました」と語る一方、ジャズ自体の歌にあまり魅力を感じなかったと述べている。千葉は短歌と音楽は相性がいいとしているが、そうでもなくて、言葉で音楽を語ることは存外難しい。掲載された抜粋からジャズ演奏の歌がすっかり抜け落ちているのもそのためだろう。

 斉藤斎藤が一位に推したのは梨とうろう「8週目の天気」である。

友だちはたぶん農家を継いでいて毎年野菜を送ってくれる

いつか見たホームページにあったドット絵の桜吹雪が流れるしかけ

夢を見る後部座席で遠ざかる動物園のネオンの光

 梨とうろうは東京大学Q短歌会所属。斉藤の選評が抜群におもしろい。斉藤は梨の文体が、「直球と変化球でフォームが変わらないダルビッシュのように、現実と幻想がおなじ文体で詠われている」と述べ、短歌を読んでいるとロイター板が見えるときがあるが、梨の連作にはそれがなく、「ずっとぬるっといく」というやり方もあるとする。ロイター板とは跳馬などの競技で使う踏切板のこと。斉藤が言いたいのは、「来るぞ、来るぞ」という構えが見えてしまう短歌があるということだ。梨の短歌にはそれがないという。また「物を見るのも夢を見るのも、それを認識して言葉に起こすときには同じOSを使っている」、「みんながコンテンツとかアプリを作っているとすれば、この人はOSに食い込んだところをやっていて、そこにアドバンテージがあると思いました」と激賞している。

 斉藤が言いたいのはこういうことだろう。OS (Operating System) とはコンピュータを動かす基本システムのことで、「短歌のOSがちがう」というのは穂村弘もよく用いる比喩である。他の候補者たちが同じOS、つまり同じ短歌の作り方で、そこに何を盛るかというコンテンツで勝負しているのにたいして、梨はOSそのものを改変する、あるいはOS自体に独自性を与えるような勝負をしているということだ。

 千葉は「斉藤斎藤コード」で読む納得できておもしろい歌もあるが、いきなり一首出されても意味がわからない歌があるとし、横山は「かみなりの流れに沿って一辺が16センチの悪魔と踊る」という歌の意味が取れないとしている。また石川は永井祐の文体に似ているところがあるが、ちょっとついていけない歌があると否定的である。斉藤のOS論は歌論としてはおもしろいが、他の選考委員にはあまり響かなかったようだ。

 最後の候補作は吉田懐の「白い虚」である。

サイレンを遠く遠くに聴きながら絵の具のひろがる水を見ていた

駅名を右から左へなぞり読むその頬骨の裏にある虚

泣き喚く子どもは画面に収まってきつく回している魔法瓶

 吉田は所属なしの大学生である。横山と千葉が二位に押している。横山は「大きな出来事はないが、流れゆく時間や他者との距離感を繊細な感覚で捉えている」と評し、千葉は「なかなか意識できないような微妙な部分を詠んでいる。一首の完成度の高さにも惹かれる」と述べている。確かに抜粋ながら私がいちばん多く○を付けたのは吉田の連作だった。

 2023年に角川短歌賞で佳作に選ばれ、2021年の短歌研究新人賞では長井めもの筆名で最終選考を通過している永井駿は残念ながら最終選考通過で終わっている。佐原キオも同様である。驚いたのは2005年の第41回短歌研究新人賞で最終選考を通過している今村章生(まひる野)が今回も「特別な日々」で最終選考通過作品に選ばれていたことだ。

 2023年のU-25短歌選手権で優勝したからすまぁ、栗木京子賞を獲得した雨澤佑太郎、小島なお賞に選ばれた市島色葉、2022年のU-25短歌選手権で栗木京子賞を受賞した酒田現、穂村弘賞をもらった今紺しだは佳作となっている。果敢に挑戦するものの、短歌研究新人賞のハードルはなかなか高いようだ。

 なお今回の応募総数は579篇で、昨年の718篇に較べると大きく減っている。理由は定かではない。ちなみに2004年の第47回の応募総数は603篇である。今回も無所属の歌人が多かった。無所属の人はインターネット歌会やネットプリントを媒体として活動していることが多い。今後もこの傾向は続くだろう。


 

第378回 金田光世『遠浅の空』

加湿器の水はしづかに帰り着く空を濡らして降る絵の雨へ

金田光世『遠浅の空』

 最後まで読んで「アッ」と声が出た歌である。加湿器のタンクの水は水蒸気に相転移して部屋の空気を湿らせる。空中の湿気はやがて上昇気流に乗り、空の高みに達して雲となる。そして雨となって降り地上に戻る。というのならば「水の循環」を詠った歌になる。しかし結句に至って雨が降るのは壁に掛かった絵の中だと知れる。まるでエッシャーの騙し絵のように、現実の世界と絵の中の世界が接続されていて、読む人は知らないうちに異なる世界に足を踏み入れることになる。これが作者のたくらみである。この「異なる世界を接続する」というあり様は、単に作歌の技巧や手法に留まらず、作者の深い所に根差す心持ちであるように思われる。

 歌集に作者のプロフィールがないので詳細は不明だが、金田光世は塔短歌会所属の歌人。栞文を寄せている浜松市立高校の国語教員の後藤悦良によれば、金田は高校在学中から文芸誌に短歌を寄稿しており、高校3年の時に塔短歌会に入会したようだ。その後、京大短歌会に籍を置いた時期もある。本歌集は20年以上にわたって詠んだ歌をまとめた第一歌集だという。ずいぶん遅い第一歌集だ。そのせいもあってか、収録された歌数がとても多い。またほぼ編年体で構成されているので、歌風の変遷も読み取ることができる。栞文は結社の大先輩の花山多佳子、先輩の澤村斉美と、前述の後藤悦良に小林久美子が稿を寄せている。版元は青磁社で、最近珍しいクロス装のハードカバーの造本である。

 花山はかつて結社の中にあった同人誌『豊作』に掲載された次のような歌を引いて、金田はこういう浮遊する感覚を持つひとであるとする。 

このからだどんなに深く眠つても根を張ることをしらないからだ

心より水にしたしい手をもつて水に紛れる心を掬ふ

 また歌の随所に見られる「イメージの飛躍」「イメージの拡散」や「抽象性」が金田の歌の特質だとしている。

 小林は、「金田さんの短歌の書き方には、明確に言語に託すことのできない純粋であえかな感覚や現象に向かって身を投じ、深い注意で見つめ、記憶し、時に幻想し、そして時に消し、やがて呼び戻して新たに知る、その連なりのなかで諒解され得たものごとを言葉に成してみる、そういう手法を思う」と綴っている。金田の短歌に見られる浮遊感と逡巡のよって来たる深源を捉えたすばらしい批評で、金田の短歌世界の特質を言い当てている。小林の短歌世界と金田のそれとはどこか深いところで繋がっているようにも思える。その理由は後で触れる。

 最初に注目したのは第I章の次のような歌群である。 

空の穴押さへて吹けばりゆうりゆうと夕闇は来る海の底より

目に見えるものは空へはのぼれない無口になつたサイダーの瓶

ガラスコップ桃色であるあやふさに水の光をくづして止まず

貝殻の合ひ間に匙を埋めればアサリスープにたましひ揺れる

フリージアの形をなくし夕刻の時計店へとしみてゆく影 

 一首目、穴を押さえて吹くのだから管楽器だろうと思うのだが、押さえるのは空の穴だという。人が押さえられるものではない。押さえるのは大いなるものだろう。「りゆうりゆうと」という壮麗なオノマトペと共にやって来るのは夕闇である。つまりは夕暮れの印象を描いた歌なのだが、異質な意味野から語彙を集めているためにイメージが散乱する。二首目、「目に見えるものは空へはのぼれない」という箴言風の上句である。この命題の対偶を取ると、「空へのぼれるのは目に見えないものだけである」となる。目に見えないものとは魂と天使と風か。下句は一転してサイダーの空き瓶の視覚像で終えている。三首目、ガラスのコップが桃色であるのはよいとして、それがなぜ「あやふい」のかが明かされていない。「水の光をくづす」というのはコップの水が光を反射したり屈折したりする様だろうか。四首目、スプーンで浅蜊のスープを飲んでいる。チャウダーかもしれない。するとスープの中に魂が揺れるという。ここにも異質なものの唐突な組み合わせがある。五首目はとりわけ美しい歌だ。フリージアは特徴のある形をした花だが、それが形をなくすというのは夕闇に紛れるからである。花は時計店の中に飾られているのだろう。店内に夕闇が拡がってゆく様を「しみてゆく」と感覚的に表現している。

 これらの歌に共通して見られる特徴は、可視と不可視、現実と幻想、思惟と感覚、具体と抽象といった相反する領域が一首の中にないまぜにされているために、統一的な視覚像に収斂することなくイメージが散乱するという点である。それがうまく行けば両立しえない領野を強引に接続することで、火花が散って詩が生まれる。しかしうまく行かなければ統一的なイメージを得られないフワフワした歌になる。花山の指摘する浮遊感の原因はこのあたりにあるかと思われる。

 金田の短歌のもうひとつの大きな特質は一首の独立性である。いちおう連作の体裁を採ってはいるものの、並べられている歌と歌の間に意味的あるいは主題的な連関はない。単純過去形で書かれる伝統的な小説とは異なり複合過去形で書かれているカミュの『異邦人』の文体について、かつてサルトルは「一つ一つの文が島」であると書いたことがあるが、金田の歌も一首一首が孤立した島であり、その間に橋は架かっていないのである。試しに「白く浮かぶ」と題された連作から三首引いてみよう。

薄雲はそのままに暮れ白桃を投げ込めば落ちてゆきさうな空

水があればその水を吸ふ綿棒は目の退化した生き物のやう

みつしりと詰められてゐる綿棒を取り出す前の気配、初雪

 一首目は薄雲のかかる空、二首目は綿棒、三首目も綿棒かと思えばそれは喩で初雪が詠まれており主題はばらばらである。

 連作というのは、ひとつの主題を中心に置き、近づいたり離れたり主題からさまざまな距離を取りながら変奏することで、一首では表しきれない意味世界の深まりを実現する手法である。どうやら金田が目指しているのはそのような境地ではなく、一首を独立性の高い絵のように仕立てるということのようだ。この一点において金田の短歌と小林久美子の短歌には共通するところがあるように思われる。

 

隔たりを均等にして

部屋に干す

時雨にぬれたGounod グノーの楽譜

           小林久美子『小さな径の画』

光線の端はゆびさき

壁の絵の少女に

触れる刻をゆるされ

 

 2022年に出版された最新歌集から引いた。小林は画家なので、一首を壁に掛けられたミニアチュールのように彫琢しているかのようだ。読むこちらもそのように読むのが正しい読み方かと思われる。

 栞文で澤村は「透明感に満ちたその作品世界を、私は一読者としてはつかみかねる時期もあった」と書いている。さらに「一首、一首は淡く、はかなく、清く、確かに美しい。しかし、そうした歌が並ぶとき、イメージが清浄に統御され、言葉がその枠からはみ出してこないというのか」と続けている。これは上に書いたような金田の短歌世界の特質をよく言い当てた言葉である。しかし第II章に入ると言葉が動き出し、「イメージがイメージの世界で完結し、『わたし』をなかなか出してこなかって金田さんの歌の大きな変化を示すものだと思う」と澤村は書いている。確かにその通りで、一幅の清涼な絵のような第I章の歌から時間を経て、金田の歌は変化したようだ。そのことは2022年に塔短歌賞を受賞した「川岸に」と題された巻末の連作を見ればよくわかる。

あなたがかつて暮らした国へひとつひとつの時間をかけて夕暮れは来る

洋梨が剥かれゆくやうな明るさに別れ来し人を一人一人思ふ

受胎するかどうかひかりに問ふ秋のイチヤウ黄葉は透きとほりゆく

女たちが残していつた椅子たちが見上げる先に半分の月

グァバ色の夕空へ鳥は帰りゆくかつて生きてゐたものたちも皆

 かつてのように可視と不可視や具体と抽象を強引に接続する歌風はもう見られない。これらの歌には風景を目にする〈私〉、何かの思いを抱く〈私〉がいる。考えようによっては、金田は長い道程を経て近代短歌へと着地したとも言えるかもしれない。

 最後になるが、増音を嫌わずきちんと助詞を置くのは好感が持てる。しかし口語(現代文章語)を基本としながら旧仮名遣いというのはどうだろうか。いささか疑問に思う所もある。20年以上にわたる歌歴が結実した充実の一巻である。

 

われアルカディアにもあり 窪田政男『Sad Song』書評

 『Sad Song』は2017年に上梓された第一歌集『汀の時』に続く窪田の第二歌集である。FPM(Fantastic Plastic Machine)として活躍しているミュージシャンの田中知之、同じ結社の松野志保、そして著者と世代の近い藤原龍一郎の三名が栞文を寄せている。田中と窪田は、大阪の出版社で一時机を並べて勤務した縁があるという。

 複数の宿痾を身に養う窪田が今回上梓した歌集には、遠からず訪れるであろう自らの死を意識した歌が多くみられる。まず立ち止まるべきは歌集標題ともなった「Sad Song」の一連であろう。この一連は一月から十二月に楽曲を一つずつ配した構成となっている。一月のサイモンとガーファンクルの「The Sounds of Silence」に始まり、十二月のジョン・レノンの「imagine」に終わる十二曲は、作者窪田がこよなく愛する楽曲なのだろう。歌集巻末にレコードのライナーノーツよろしく十二曲の解説を付してあるほどだ。邦題「悲しき天使」のようなポップスから、シャンソンやミュージカルやプログレッシヴ・ロックやモダンジャズまで選曲は幅広い。栞文で藤原が、自分たちの世代にとって洋楽は感受性を開花させるのにまたとない刺激だったと書いているとおりで、音楽、特に洋楽が窪田の人生において重要な位置を占めていることを物語っている。

手の椀で受けてもついにあふれゆく水のささやき内耳に残る

三月のLa Mer教えてよ波にさらわれ眠る人の名を

ベタ記事の命ちいさく報じられ灯油をかぶって火を放ちし人

蝉声の突然に止み八月のラジオのノイズいまも続けり

やわらかに命令形を持たぬゆえ独りぼっちを超えてゆく声

 そんな中にもいくつもの出来事が遠く反響している。三首目は、一九六九年三月三十日にビアフラの飢餓に抗議して焼身自殺したフランシーヌ・ルコントを詠んだ歌で、日本では新谷のり子の「フランシーヌの場合」という歌で知られた事件である。四首目の蝉声の突然の停止は、広島への原爆投下とも天皇の終戦の玉音放送ともとれる。十二月に「imagine」を置いたのは窪田のささやかな願いであろう。訳詞が「想像しなさい」という強い命令形でなく、「想像してごらん」という柔らかな言い方になっていることに、遠くへと届く声を感じているのである。栞文で田中が書いているように、挙げられた十二曲は自らへのレクイエムであり、自分の葬儀で流して欲しい曲を並べたプレイリストにちがいない。

 歌集巻頭付近には戦争に関わる歌が多く配されている。

花の名はアンビヴァレンツ朝に発つ兵士はすでにヘルメットを脱ぎ

戦火のなか雪のにおいがやってくるそしていつもの春にはならず

声に出しベルゲン・ベルゼン眼を瞑りベルゲン・ベルゼン安らかであれ

 ベルゲン・ベルゼンはナチスの強制収容所のあったドイツの町である。制作年代は不明ながらも、これらの歌は二○二二年二月に始まったロシアによるウクライナ侵攻に触発された歌と思われる。あとがきに、自分の内向きだったベクトルが少しだけ外に向き始めた時に、新型コロナ流行とウクライナ侵攻が起きたと書かれている。とはいえ窪田は一方的に侵攻を非難することなく、「命じられ撃つかも知れぬ、撃つだろう弱き者ほど弱き者撃つ」という歌が示すように、その眼差しは我が身に返って来るのである。窪田が執拗にナチスドイツに関わる歌を作るのは、繰り返される人類の愚行への憤怒と嘆きからであろう。

 「十四で聴いたS&G、今Old Friendsの歌詞を生きている」という歌は、サイモンとガーファンクルのHow terribly strange to be seventyという歌詞を踏まえており、「選択のひとつに足さん安楽死勝手にしやがったジャン=リュック・ゴダール」は、昨年スイスで安楽死したゴダールの代表作『勝手にしやがれ』を踏まえた歌である。あちこちにこのような仕掛けが施されており、同じ時代を生きた者には響く。最後にとりわけ心に迫る一首を挙げておこう。

見るだろう驟雨のあとのさよならをしずかにひかる夏のいのちを

『月光』2013年12月号に掲載

 

 

第377回 山田恵理『秋の助動詞』

ひそやかに語る女生徒ふたりいて渡り廊下は校舎の咽喉のみど

山田恵理『秋の助動詞』

 本コラムを書くときにはまず冒頭の掲出歌を選ぶ。付箋の付いた歌を中心に歌集を読み返す。そうすると歌人の体質や体温といったものが改めて強く感じられる。本歌集を読み返したとき、やはり選びたくなるのは生徒を詠んだ歌である。そこに作者の心の襞や傾きが最もよく感じられるからだ。

 歌の舞台は高校の校舎の渡り廊下。学校を舞台にするとき、絵になるのは教室よりも屋上や体育館の裏や渡り廊下だろう。生徒の表の顔ではなく、ほんとうの顔が見られるからだ。渡り廊下で女子生徒がふたり顔を近づけ声を低くして何かを話している。憧れの男子生徒の話だろうか。渡り廊下を校舎の咽喉に喩えているのには二重の意味があるだろう。咽喉は発声器官で、渡り廊下は本音が語られる場所だという類似性と、喉が口と胃や肺を結ぶ通路で、渡り廊下は校舎と校舎を結ぶ通路だという類似性である。

 山田恵理は1965年生まれの歌人。「コスモス短歌会」に所属し、同人誌「COCOON」にも参加している。本書は2023年に六花書林から刊行された第一歌集である。梶原さい子と大松達知が栞文を寄せている。

 作者は公立高校の国語教員であり、三人の娘の母でもある。つまり教師と妻と母とう三つの役割と顔を持っているのだが、集中で最も惹かれるのは何といっても教員として詠んだ歌だ。

モヒカン刈り叱られ教室飛び出した生徒を探し月曜はじまる

我ながらほれぼれするほど響くこえ隣の校舎の生徒を叱る

二人欠け修学旅行ははじまりぬお金のない子と行きたくない子

一番のやんちゃ坊主の担任を外れて少しつまらない 春

明日からは来ぬ生徒らの名を呼びぬ春まだ浅き体育館に

 一首目、さすがにモヒカン刈りは校則違反なのだろう。叱られた生徒はどこかにトンズラしてしまい捜索隊が出る。二首目、教員は教室の奥まで届く声で授業しなくてはならないので、自然と声帯が鍛えられる。中庭を挟んで向かいの校舎で良からぬことをしている生徒を大音声で叱っている。三首目、修学旅行に参加しない生徒が二人いて、それぞれ理由がちがっている。生徒を引き連れての修学旅行は日本独特の習慣で、引率する先生は大変だ。四首目、学年が変わりクラス一のやんちゃな生徒が別の組になった。ほっとすると同時に少し淋しい気持ちにもなるという歌だ。五首目は卒業式の場面である。高校生活のクライマックスといえば文化祭や体育祭もあるが、何と言っても真打ちは卒業式だろう。作者は卒業して明日からはもう学校に来ない生徒の名を、淋しさを感じながら読み上げている。

 これらの歌を一読して感じるのは、生徒たちへの深い愛情と、だからこそ保たれている生徒との適切な距離感である。教員たるもの生徒に愛情を持つのは当然だ。愛なくして教育はない。かといって生徒の生活や心の中に限度を越えて踏み込むのもよろしくない。作者は細やかな眼で生徒たちを見つめながら、適切な距離感を保っているように感じられる。

赤ペンで汚れし右手にお釣り受く閉店間際のスーパーレジ

プリントを出せない理由は殴られて血がついたから 鬱の養父に

時に手で黒板ぬぐった二十代チョークにきっちりカバーする今

四度目の異動希望を清書せり 窓の外には空しかなくて

「えいやっ」と定時に帰る西の空 雲の入り江にまだ青き波

 一首目、教員の大事な仕事に試験問題作りと採点がある。授業が終わってから放課後に採点をするので、勢い帰宅するのはスーパーの閉店間際になるのだ。教員は最初から給与を少しだけ上乗せしているのと引き替えに、残業手当が支払われない。残業し放題というブラック企業と変わらない。ちなみに採点するときには太字のペンがよいので、私が愛用していたのはOHTOのSaiten Ball 1.0とLamyの太字万年筆である。二首目、言葉を失う家庭内暴力の話で、これはもうソーシャルワーカーと警察の領分だろう。三首目、素手でチョークを握ると手が荒れる。若い頃は気にしなかったが、年齢を重ねて手を労るようになるという歌。四首目、公立高校の先生には異動が付きものなのだろう。異動はまた別れでもある。五首目、忙しい先生が定時に帰宅するにはこれくらい決断が必要なのかもしれない。

これだけは覚えておけよサッカー部 カ行一段動詞「蹴る」

「セカンドのサードの間」とヒント出し野球部員に読ませる「せうと」

いくつもの口を開きて人生を呑みゆくごとし「癌」という文字

はね、止めを呑みこんでいるゴシック体文化を滅ぼす字体にあらん

竜、竜人、竜之介もいる一年生 来年入ってくるか巳之介

 国語の先生らしい歌を引いてみた。一首目、「蹴る」は古語ではケ・ケ・ケル・ケル・ケレ・ケヨと活用するカ行下一段動詞である。二首目は旧仮名遣いで「せうと」はショートと読むことを野球に掛けて教えている。三首目は父親が癌と診断されたときの歌だが、「癌」という文字のなかに口がいくつも開いていることを不気味と感じている。四首目、漢字の習字で大事なのは書き順とはね・とめである。文字に書く順序があると説明すると外国人は驚く。この歌ははねも止めもないゴシック体の活字は国語の文化を滅ぼすとしている。新しいクラスを持つときのいちばんの悩みは生徒の氏名の読み方だ。私が在職中いちばん驚いたのは「東海左右衛門」という苗字の学生がいたことである。近頃はいわゆるキラキラネームが多くて、「空」と書いて「スカイ」と読ませたりするらしく油断がならない。五首目はクラスの生徒の名前に「竜」の字が多いことをおもしろがる歌。巳之介はおそらく谷崎潤一郎の小説の登場人物だろう。

 上に引いた歌にもユーモアが感じられるが、集中には「湯を沸かすのみが仕事の薬罐にてなぜか鍋よりよく磨かれる」という歌もあり、このようなユーモアも作者の魅力となっている。

雨の日は水槽のごとき校舎なり昇降口に藻のにおいして

 前にも一度書いたことがあるが、生徒らが登校して上履きに履き替えたりする場所でロッカーが並んでいる出入り口を「昇降口」と呼ぶ地方があるようだ。作者は愛知県に在住なので愛知ではそう呼ぶのだろう。関西では言わない。「昇降口」と聞くと、フォークリフトで持ち上げて荷物を積む飛行機の貨物室の開口部かと思ってしまう。

 学校の歌ばかり引いたが、両親や娘たち家族を詠んだ歌や身めぐりを詠んだ歌にもよい歌がある。家族や友人は近景、職場や町内は中景、国家や政治は遠景と区別すると、本歌集に収録された歌のほとんどは近景と中景である。「私」を滅却して短歌の芸術性を追求する歌人もいるが、作者はそうではない。あとがきに「怒濤のように流れていく」日常生活の中で、「何かを表現したい」、「形を残したい」という動機から作歌を始めたと書かれている。短歌は人生の伴走者であり、自分が生きた記録なのだ。

 短詩型文学には俳句と短歌と川柳があるが、このような特性がいちばん強いのは短歌だろう。俳句は人生の記録にするには短すぎる。ルナールの蛇の逆だ。世界を見まわしても、こういう文学は短歌を措いて他にはないのではないかと思う。そもそも有力新聞がこぞってポエムの欄を設け、毎週何千というポエムが投稿されるという国は日本以外にない。短歌を考える上で忘れてはならないことである。

いちまいの布になりたし子の展く空間図形に秋の風吹く

死は必然 生は偶然 なかぞらに圧倒的な死者のひしめく

形なきものが形を持つときにるる優しさ初雪が降る

木蓮のつぼみふくらみ青空に禅智内供の鼻のつめたさ

球児らの「あの夏」になるこの今を皆が見つめる高き高きフライ

教室の窓よりうろこ雲ながめふりむけばしばし暗む生徒ら

女生徒がふたり笑えば雲よりもはるかに白い夏のセーター

「ほぼほぼ」という語なずきは拒めどもほぼほぼ馴染みほぼ定着す

 二首目を読んで確かにそうだなあと思う。私がこの世に「私」として生を受けたのは偶然であり、そのうち死ぬことは必然だ。人の一生とはこの偶然と必然の間に挟まれた須臾の間である。四首目の禅智内供は芥川龍之介の短編で、木蓮のつぼみを禅智内供の大きな鼻に喩えたところが面白い。五首目の「高き高き」とくり返されたフライは、もちろん捕球されゲームセットとなる凡打である。六首目は生徒が何かに悩んで暗い顔をしていたということではない。明るい外を見ていて暗い教室に視線を移すと、目が慣れていないため暗く見えるという順応の歌だ。最後の歌は定着しつつある「ほぼほぼ」という言い方を取り上げたもの。「ほぼほぼ」を二度くり返し、自分は「ほぼ」を使っているところにささやかな抵抗がある。

 読後の爽やか歌集である。