第391回 遠藤由季『北緯43度』

驟雨去り歩道にひらく反転の世界に深く蒼き空あり

遠藤由季『北緯43度』

 驟雨はにわか雨なので、季節は夏だろうか。雨があがると歩道に水溜まりができている。水溜まりは短歌ではにわたずみとも呼ばれていて、歌人に好まれる素材だ。水溜まりに青空が映っている。鏡像はふつうは左右が反転するが、水溜まりは水平で、それを斜めの角度から見ているので、上下が反転したかのように見える。水溜まりの中にもうひとつの世界がある。しかしこの歌に続けて「みずからの深きところにひろげたる蒼知らぬまま消える水溜まり」という歌が置かれていて、その世界はたまゆらのものだという認識がある。しかし翻って考えてみれば、私たちの生きているこの世界もそれほど永続的なものかという疑問が心をよぎる。コロナ禍のパンデミックを経験した今となっては、その問はそれほど馬鹿げたものとも思えない。

 『北緯43度』は遠藤の第三歌集で、2021年(令和3年)に上梓されている。遠藤は1973年生まれで歌林の会に所属しており、第一歌集『アシンメトリー』(2010年)、第二歌集「鳥語の文法」(2017年)がある。私は両方とも本コラムで取り上げているので、本歌集で三度目ということになる。意図して全部取り上げて論評しようとしたわけではなく、「次はどの歌集を読もうかな」と書庫を漁って自然にそうなっただけである。歌集題名の『北緯43度』は札幌の緯度で、彼の地を訪れた折の連作から採られている。版元は短歌研究社で、装幀は花山周子。あとがきによれば、『短歌研究』誌などに発表した短歌を中心にまとめたもので、二転三転して最終的に形となったのは新型コロナウィルスが蔓延する前の世界をパッケージしたものだという。確かに新型コロナのパンデミック以前と以後とでは、世界のあり方がずいぶん変わったと感じられるので、それ以前の世界をとどめておきたかったという作者の願いも無理からぬものがある。

 私小説というわが国特有の文芸形式を除けば、短歌ほど作者の人生が反映される文芸はない。それはひとえに明治時代の短詩型文学革新運動の結果、短歌は〈自我の詩〉となったからである。それによって近現代短歌は、花鳥風月の美意識と様式美が重んじられた和歌の伝統と別れることとなった。

〈御社〉へは膝上スカート穿いてゆけ不思議な呪い今もあるらむ

ストッキングと笑顔で氷河を渡らんと挑戦したり若きわたしは

おんなゆえ減点されたり墨染めのたそがれに咲いているゆうがお

久しぶりに給与を得たり皆人の得るべきという給与を得たり

この夏の母に受給の始まった年金われらにはしんきろう

苗字戻さず誰かと墓石を分かち合うこともなからむわたしの骨は

 作者の遠藤は第二次ベビーブーム(1971年〜1974年)の時代に生まれ、大学を卒業した頃は就職氷河期だった世代である。そんな時代を生き抜いて来た女性の姿が上に引いた歌によく現れている。一首目は入社試験の面接で、「御社」は試験を受ける会社を指す常套句。私は入社試験というものを経験したことがないのでわからないのだが、女子は膝上スカートを穿いて行けという暗黙のルールがあったのだろうか。二首目は就職氷河期世代の心意気を表す歌。四首目には「再就職」という詞書があるので、それまで勤めていた会社を辞めて再就職した折の歌だろう。五首目、母親は65歳となり年金受給が始まったが、自分たちの世代がその年齢を迎えたころに年金制度がどうなっているのかわからない。六首目を読むと、作者は離婚して苗字を旧姓に戻していないようだ。だから苗字の同じ元夫の墓にも、苗字が異なる親の墓にも入らないのだ。しかしそのような身の上を歌に詠みつつも、いたずらに嘆くことなく強く生きようとする姿勢が感じられる。

 文体は新仮名遣いの文語(古語)定型に口語(現代文章語)を取り混ぜたもので、川本千栄の言うキマイラ文語である。言葉の選び方と連接の手つきは揺るぎなく、読んで歌意がはっきりしない歌は一首もない。増音のほとんどはセオリー通り初句で行われていて、前衛短歌の遺産である下句での句割れ・句跨がりも非常に少ない。近代短歌の語法をしっかり守った歌風である。コトバ派の歌人は短歌文体の更新を目指すことがあるが、遠藤は人生派の歌人なのでそのようなことは目指さないのだろう。そのような歌風なので、毎日の暮らしのあらゆる場面が歌の素材となる。

血を分けた存在なれど他人の子 姪と子のなきわれの焼き肉

飢餓あるいは発熱により突然の別れとなりぬiPhone 6

夏風邪にからだは正直者となりうどんとプリンを食べたいという

この町には良いパン屋なしと思いつつそれから十年その町に住む

 作者には姉がいるらしく、一首目の姪はその姉の子で、いっしょに焼き肉を食べている。若い人には焼き肉が一番だ。二首目は愛用のスマホが突然故障した様を詠んだもの。三首目は夏風邪に罹ったときの歌。こういうときは誰でも喉通りのよい食べ物が欲しくなる。作者は無類のパン好きらしく、四首目のようにパンを読んだ歌が散見される。余談ながら京都人はパンが大好きで、私が住んでいる左京区はパン屋の激戦区である。このように日々の生活とともにある歌というのが、近現代短歌のひとつの典型的なあり方で、新聞の短歌欄に投稿される歌も同じ大陸の住人である。

 しかし遠藤の美質がこのような歌にあるかといえば、私にはあまりそうは感じられないのである。次のように叙景に徹した歌のほうが良いように思われる。

並べたる翡翠の色を夏の陽に磨かれアオスジアゲハは照りぬ

噴水のしぶきが風に散るたびに子らはひかりをくぐる幾度も

冬枯れのあめりかやまぼうし累々と分離帯からはみ出さず立つ

銅色に照りつつ蟬は啼いているしずかに閉じるまぶたの中に

一斉に藤の花房煽られて抜け道のような風を見せたり

 とはいえこれらの歌は単なる写生ではない。一首目では「並べたる」に蝶の羽根の模様がまるで翡翠を並べたようだという喩が折り畳まれていて、二首目では噴水の噴き上げる水がまるで光の煌めきのようだという把握がある。三首目の「累々と」は、同じものが連なる様を表すが、その他に志を得ない、あるいは元気をなくしている様も表す意味がある。街路樹の冬枯れのヤマボウシには分離帯をはみ出す気概がないのだ。四首目、啼いている夏蟬の叙景かと思えば、下句に至って実は歌の中の〈私〉は目を閉じていることが明かされる。五首目、藤棚に一陣の風が吹き抜けて開いた空間を抜け道と捉えている。このように写生に基づく叙景歌に気づきにくいほどの量の心情を織り交ぜるところに遠藤の真骨頂があるように思う

 歌集を読むと教えられることが多い。たとえば次の歌がそうだ。

よくきょうを光らせて発つ鳥だったドアミラー照り返したあの人

 小中英之に『翼鏡』という歌集があり、珍しい言葉なので小中の造語かと思っていた。遠藤の歌にもあったので調べてみたら、鳥の風切羽の一部で金属的な光沢があるのでそう呼ばれているという。何とも風雅な名称かと感心した。

キラルなるわれの両手で明日よりは煮炊きすさよなら化学薬品

キラル (chiral) はふつうの辞書には載っていない化学の専門用語である。ギリシア語の「手のひら」を意味する語に由来し、右手と左手のように重なり合うことのない鏡像異性体の分子構造をさす。遠藤は理科系の学問を学んだいわゆるリケジョなのだ。こういう歌をもっと作るとおもしろいだろうと思う。理系と短歌は実は相性がよいというのがかねてより私の持論である。

青みなきイルミネーション懐かしく銀座通りの電飾見つむ

 町を彩るクリスマスのイルミネーションに靑色がなかったのは、1993年に開発されるまで靑色のLEDがなかったからである。靑色LEDを開発した中村修二氏らはその後ノーベル賞を受賞することになる。こんな所にも理科系の視点が感じられる。

 最後に集中白眉の美しい歌を挙げておこう。

かもめ飛ぶ空から水面へ夜は垂れ沼の底まで暮れ尽くしたり

 ゆりかもめが飛ぶ千葉県北部にある手賀沼の風景である。「夜は暮れ」ではなく「夜は垂れ」とし、夕暮れが沼の底にまで及ぶ場面に想像を加えている。本来は詠嘆の意のない完了の助動詞「たり」にまで詠嘆が感じられるほどである。


 

第390回 太田二郎『季節の余熱』

生き延びることゆるされて耳寒し夜風に曲がる冬の噴水

太田二郎『季節の余熱』

 「ゆるす」にはふつう「許す」という字を使う。「許す」ならば「許可する」という意味で、やってよろしいとゴーサインを出すことである。「宥す」という字は、「まあよかろう」と大目に見ることを意味する。掲出歌の作者はどこかに生き難さを抱えている。しかしどういう成り行きか、まあ生き延びてもよかろうと寛恕を得て、いまだこの世に在るという思いを持っている。冬の夜の公園は無人である。ただ噴水だけが虚しく水を噴き上げていて、その水は吹きつける風に曲がっている。曲がる噴水が〈私〉の喩であることは言うまでもない。

 この歌集が私の目を引いたのは、塚本靑史が寄せた解題のせいである。それによると、太田が2016年に玲瓏に入会したとき、古株たちが「あの太田二郎」とどよめいたという。太田は1980年代に塚本邦雄が週刊誌で担当していた投稿欄の常連だったらしく、その筋では名高い存在だったようだ。巻末のプロフィールによれば、太田は1951年生まれ。塚本と寺山に影響されて29歳から作歌を始めたとある。投稿時代が長かったようだ。あとがきによると、短歌を始めたきっかけは塚本の言葉の魔術に衝撃を受けたからだという。歌歴は長いが『季節の余熱』は今年 (2024年)の夏に刊行された第一歌集である。歌集題名『季節の余熱』の季節は後に余熱を残すくらいだから、それは朱夏つまり青春にちがいない。

 塚本の影響下で作歌を始めた歌人ならば、その人はコトバ派にちがいないと思われるのだが、案に相違して本歌集に収録された歌には人生がぎっしり詰まっている。それは重くて生き難い人生である。

十五歳鬱が何かを知らねどもアッシャア家巻末の月光

鬱という重き字積みて吃水は深し乗り換えられぬわが船

秋の川あるいは鬱の置き場所はここかも知れず雲一つ浮く

生きるのがだんだん重くなる夕べ時は無傷で過ぎてはくれぬ

 一首目、十五の少年に鬱は無縁なるも、既にしてポーの世界に惹かれていたか。二首目、鬱という漢字は画数が多く、それを抱えた〈私〉という船は今にも沈みそうだ。三首目は希死念慮の歌で、この川の流れに〈私〉ごと鬱を捨てようかと思案している。四首目、黄昏が迫ると暗い思念か頭をもたげる。時は無傷ではないと感じるのは、過去に悔恨があるからだろう。

 その理由が奈辺にあるかは不明ながら、作者は人生に大いに生き難さを感じている。それは本歌集の章につけられた小題にも現れていて、「撤退」「難破船」「敗軍の兵」「傍観者」といった具合だ。

明日もかく生きよというか壁際に予定調和のごときワイシャツ

部屋の灯へ蕩児のごとく帰宅して脱いだ背広にぎっしりと闇

途中駅桜いっぽん咲きおればふと人生を降りる瞬間

地下街に紛れ込みたる蛾のごときわれか前後を死の挟み打ち

紺背広皮膚剥ぐように投ぐるとき溢れ出すわがうちのくらやみ

 作者は勤め人らしく背広とワイシャツを着用している。それは仕事に必要なものではあるが、〈私〉にとっては身の内にある言い知れぬ闇を包んで隠す第二の皮膚のようなものらしい。だから帰宅して背広を脱ぎ捨てると、包みこまれていた闇が溢れ出すのだろう。

 そのように日々を送る人にとって、ほんとうに恐ろしいのは過去ではなく未来である。「手帳」や「カレンダー」というアイテムが登場するのはそのためだ。

さしあたり死の予定なくまっさらの手帳一年分の未来が

死ぬ理由生くるよすがもともになく徹夜終えざらざらの舌先

日時計のごとく暮らしてその影のように消えむかこの地上より

ともかくも今日やり過ごしアリバイの外れ馬券は風に委ねる

生きているそれも何かの手違いで目覚め冷凍庫のごとき部屋

 二首目にあるように、作中の〈私〉には生きるよすががなく、生に意味を見出すことができない。かといって積極的に死ぬ理由もない。そんな〈私〉にとって、何の予定も書かれていないまっさらの手帳は恐怖である。作歌の技法としては、上に引いた「溢れ出すわが / うちのくらやみ」や、すぐ上の「徹夜終えざら / ざらの舌先」、 「目覚め冷凍 / 庫のごとき部屋」のような句割れ・句跨がりに前衛短歌の強い影響が見られる。しかし塚本が得意とした初句六音はあまり使わないようだ。

ママレード壜の底なる美しさ腐敗わが晩秋がはじまる

驟雨去る街路の凹み数ミリの水に沈みし空の深さよ

踏切の向こうもこの世 回送の列車は運ぶ空席のみを

つむじから踵へ至る弾劾のそれぞれ深く駅行くわれら

花瓶より百合引き抜けば生じたる花火が消えし後ほどの闇

ああどこにいても場違い珈琲のカップに充ちるたけなわの春

落ちてゆく夕日に向けばおのずから残照となるわれの西側

立つものはすべて祈りのかたちして鋭し雨の中の電柱

 特に注目した歌を引いた。巻末に初期作が掲載されていて、「野望破れたり初夏へ窓開き部屋に籠もれるバッハを放つ」のような清新な歌も捨てがたい。

 

 

第389回 小田桐夕『ドッグイヤー』

窓辺にはブリキの犬が置かれゐて胴の継目はくきやかにあり

小田桐夕『ドッグイヤー』

 喫茶店の風景だろうか。窓辺にブリキの犬のおもちゃが置いてある。ブリキ製のおもちゃは今ではもう作られることが少ないので、たぶん昔のものだろう。ところどころ錆びているかもしれない。製作時に半身ずつ作って繋いだので、胴体に継ぎ目がはっきりと見えている。そのような情景を感情を交えずに詠んだ歌である。

 しかし歌から何の感情も伝わって来ないかというと、そんなことはない。胴に継ぎ目を残したままずっと窓辺に置かれている犬のおもちゃに向ける暖かい眼差しが感じられる。またそのような姿で置かれているブリキ製の犬に対するかすかな憐憫の情も滲んでいるように思う。

 私たちは言葉で作られた短歌を読んで、なぜ作った人の心がわかるのだろうか。短歌に限らず、私たちは日頃から他人の感情や心を察して行動することがある。なぜ私たちには他人の心がわかるのだろうか。

 私が研究している言語学は、心理学を含む認知科学から多くのことを学んでいる。言語は認知の結晶だからである。私たちになぜ他者の心理や知識状態がわかるのかという問題は、「心の理論」(英 theory of mind / 仏 la théorie de l’esprit)と呼ばれ、昔から議論されている問題である。私たちには読心術という超能力はない。したがって何らかの方法で他者の心理を推論するプロセスがあるはずだ。

 現在では次のように考えている研究者が多い。私たちは自分の心の一部に、他者の心のメンタルモデルを作っている。そのモデルは、私たちが他者について知っていることや、他者の言動などを材料にして、無矛盾的に構成されると考えられる。

 言語学からひとつ例を挙げよう。日本語には自分が知らない単語には「というのは」とか「って」などメタ形式と呼ばれる記号を使うという規則がある。

 

 (1) Aさん : 昨日、Kさんの出版記念パーティーで、三枝さんに会ったよ。

   Bさん : 三枝さんって誰ですか。

 

AさんはBさんも三枝さんを知っていると思って話したのだが、Bさんは知らない人なので「って」を使ってたずねている。これなしで「×三枝さんは誰ですか」とは言えない。英語では Who is Saigusa?と言い、メタ形式は必要ない。

 おもしろいのは、日本語では相手が知らないだろうと思われる単語にも「という」を付けなくてはならないことである。

 

 (2) 私は京都で生まれました。

 (3) 私は山口県の三隅町という所で生まれました。

 

 山口県の三隅町という町はそれほど知られていない所なので、「という」を付けている。ちなみに三隅町は母方の祖父が住んでいた所で、画家の香月泰男の故郷でもある。一方、京都はよく知られているので付けていない。もし「私は京都という町で生まれました」と言ったら、「京都くらい知ってるわい」と言われてしまう。このようにメタ形式の使用が義務的な言語は日本語以外にはないようだ。日本語は相手の心の状態を察する言語なのである。

 私たちはこのように、自分の心の一部に他者の心のメンタルモデルを作っている。だから何かを見たときに、「あの人ならばこう感じるだろうな」と推測することができる。このモデルが共感の基盤になっていると考えられる。自分の心と他者のメンタルモデルの一致点が多いときに共感が生まれる。

 前置きが長くなった。小田桐夕は1976年生まれで、2014年から「塔」に所属している。第14回塔短歌会賞で次席に選ばれており、「記憶を残す╱継ぐ ─ シベリア抑留と短歌をめぐって」という評論で、塔の七十周年記念評論賞を受賞している。プロフィールなどで本人についてわかるのはこれくらいだ。『ドッグイヤー』は今年 (2024年)に上梓された第一歌集である。小島なお、梶原さい子、そして師の真中朋久が栞文を寄せている。

 歌集タイトルのドッグイヤーとは、直訳すれば「犬の耳」で、雑誌や本などで印を付けておきたいページの隅を三角形に折ることをいう。集中の「いくそたび巡るページか一冊はドッグイヤーに厚みを増して」から採られている。

 作者の歌風だが、旧仮名遣いを用いていることもあってか、所属する結社「塔」の歌人では珍しく、古典的でときには王朝的な雰囲気を纏う歌が多いのが特徴と言える。歌集の冒頭付近から引く。

文字を書く手とわたくしを撫づる手のおなじとおもへず まなぶたを閉ず

とほき灯のつらなりのごとき林檎飴あぢははぬまま思春期過ぎき

沸点がたぶんことなるひととゐる紅さるすべり白さるすべり

うしろから抱かれゆくことゆるすときあなたから取る鍵のひとつを

死をもつて話がをはる必然を両手のなかに撓めて夜更け

 一首目では、パートナーが書き物をしているときの手と、自分を愛撫するときの手とは表情がちがうとしている。二首目はお祭の夜店で売られているリンゴ飴を詠んだもの。紅色のリンゴ飴を遠い灯火に喩えている。短歌定型の最強の修辞は喩である。「つらなりのごとき」の増音が、リンゴ飴がたくさん並んでいる情景のアイコン的な喩となっているとも取れる。この歌では過去の助動詞は「けり」ではなく「き」がふさわしい。本歌集の隠れた主題はおそらく自己と他者の差異の確認なのだが、三首目はそれを端的に表した歌。沸点とは、何かに夢中になるポイントとも、怒り出す限界値とも解釈できる。下句の「紅さるすべり白さるすべり」がまるで童謡のようなリフレインの効果を出している。四首目、パートナーが自分をバックハグするとき、相手から鍵をひとつ奪い取るという少々恐い歌である。その鍵は相手に秘めていた小箱の鍵か。五首目では誰かの死で終わる物語を読んでいる。その結末は避けることができない必然である。しかし両手の中で撓めているのはペーパーバックの本だ。「必然」は抽象概念であり、撓めることができない。このように抽象と具象とを強引に連結するのもまた短歌の修辞のひとつである。

 作者はどうやら絵を描く人で、パートナーもそうらしいということが歌を読んでいるとわかる。

白紙つてこんなに広い コピックのさきを素足のやうに置きたり

窓のを見てゐる人を描くとき私のまなこは絵のなかの窓

病室でスケッチはじめミリペンで白い蛇腹の凹凸を追ふ

花嫁のまはりに薔薇を描きゆくきみは植物図鑑ひらいて

たのまれて絵筆を握るきみがもつとも描きたい世界とは、なに

趣味なのか仕事にするか迷ひゐしわがすぎゆきをふかく沈める

筆先になにかを探すやうな顔いくたびも見きこれからも見る

 一首目のコピックとは、デザイナーなどが使う水性の不透明マーカーで、色の種類が多い。三首目のミリペンとは、漫画家などが使う細い線を引くドローイングペンのこと。いずれも絵を描く人の専門用語だ。四首目、五首目を見ると、パートナーも絵を描くことがわかる。六首目からは絵を趣味とするか職業とするか迷っている様子が窺われる。

 画家であることは短歌製作にどのような影響があるか。画家とは、何よりも対象を視る人である。そのことは短歌における事物の描き方に影響するにちがいない。それはたとえば次のような歌に感ずることができる。

なびきゐるゑのころの穂のあひのみづ、うつりこむ街、町つつむ空

 えのころ草の穂が風に揺れている。穂と穂の間に小さな水面があり、その水に町の風景が反転して映っていて、その上に空が拡がっているという描き方は、視点の反転とズーム効果がありとても映像的だ。

 しかしながら物事を映像的に描くのが小田桐の短歌の眼目かというと、そうではないように思われる。

けふをまだ記しをはつてゐないのに罫線にかすれるボールペン

くやしさをおぼえてゐたい点描のなかにしずもる花のひとつの

いひわけを遠くの海に流したいすこしいたんだサンダル履いて

散りをへてかすかににほふだれかれのそしてわたしの血と葉とほたる

真冬にはしろく固まるはちみつの、やさしさはなぜあとからわかる

 一首目の日記を書き終える前にかすれるボールペンは、そのままの事実とも何かの喩とも取れるが、そこに未完の残余を思う気持ちがある。二首目でも点描の中の花は、実際に見た絵と喩との間をたゆたって、意味の未決感を漂わせる。読者にはなぜかがわからないが、その花は〈私〉の悔しさと結びついているらしい。三首目でも〈私〉は何かの言い訳をしたことを悔やんでいる。四首目は秋の紅葉を詠んだ歌だが、結句に不思議な激しさが感じられる。五首目では三句目までが序詞のように置かれている。それは後になって気づく人の優しさの喩としてもある。

 思うに小田桐は、毎夜に机に向かってその日の出来事を日記につけるように歌を作っているのではないか。その日の出来事はその時に感じた感情と結びついている。もしそうだとすると、歌は日々の感情の記録でもあることになる。これは小説や詩などの他の文芸にはない機能である。短歌が長く命脈を保ってきた理由はそのあたりにあるのかもしれない。

ためらひをふふめる筆の穂の先にかするるままにはらはらと、空

そそぎくるひかりの束をうけとめてちひさき傘は夏をただよふ

湿りゐる髪をたがひに持つことを夏のはじめの切符とおもふ

世のなかは空の瓶だとおもふ日にひときは響く雨音がある

ひらかるる日までひかりを知らざれば本のふかみに栞紐落つ

まなぶたにアイマスクの熱そつと乗す一日ひとひの底にいをは沈むよ

 特に印象に残った歌を引いた。書き写していて改めて感じるのは言葉の連接の滑らかさで、そのあたりに小田桐の歌が古典調と感じられる理由がありそうだ。ごつごつした手触りの観念的な言葉がなく、言葉から言葉への移行に無理がない。それは声に出して朗読してみるとよくわかる。

 集中で最も技巧的な歌はおそらく次の歌だろう。これもまた古典的な美を現代に蘇らせている。

葉のあひにひかりは漉され流れこむはだらはだらに午後のあやぎぬ


 

第388回 堀静香『みじかい曲』

停車中の電車は少し傾いていまここにあるだけの奥行き

堀静香『みじかい曲』

 以前から不思議に思っているのだが、歌集を読んでいて、すっと心に入って来る時と、なかなか入って来ない時がある。どうやら読んでいるこちらの体調や気持ちの浮き沈みが微妙に影響しているらしい。体調がいい時にすっと入って来るかというと、どうもそういう訳でもないようだ。多少疲れてぼんやりしているときに短歌が心に沁みることもある。歌と心の距離の遠さ近さには一筋縄ではいかない複雑な面があるらしい。

 今回取り上げる堀の『みじかい曲』は、少し疲れている時に読んだのだが、その時に私を捉えた感覚を言葉にするならば、それは多幸感と呼ぶしかない。喩えるならば、寒い部屋で電気毛布にくるまっているような、暗い道で遠くに灯りを見つけたような、目覚めに暖かいチキンスープを一口飲んだような、とでも言えばいいだろうか。

 掲出歌で作中の〈私〉は電車に乗っている。電車は信号か駅で停車していて、地面に傾斜があるせいか、車体が少し傾いている。〈私〉は車内を見まわして、自分が乗っている車両の奥行きを確認している。それは「いまここにあるだけ」の奥行きだという。考えてみるまでもなく当たり前のことである。車両の奥行きが日によって変化することはないので、奥行はいつも一定だ。しかし〈私〉がそれを「いまここにあるだけ」と改めて確認することによって、歌に詠まれた情景に繰り返しのきかない「一回性」が生まれる。〈私〉はいまここに在る自分が一回きりの存在だと自覚する。すると見慣れたはずの風景もふだんとは違った色を帯びるのである。

 堀静香は1989年生まれで、「かばん」所属。第11回現代短歌社賞で佳作に選ばれており、本歌集で第50回現代歌人集会賞を受賞している。短歌の他にエッセーも手がけていて、『がっこうはじごく』『せいいっぱいの悪口』などの著書がある。『みじかい曲』は2024年に刊行された著者の第一歌集で、服部真里子、堂園昌彦、大森静佳の三人が栞文を寄せている。装丁は花山周子で、表紙の絵はドーナツだろうか。版型やタイトルから、歌集と言うよりハヤカワ・ミステリの一冊のような趣がある。

どこに生きても雨には濡れるよろこびを言えば静かに頷いている

なんてことない一度きりの夕焼けの町にあなたを差し出している

その人を好きだったって横顔できみがきちんと包む春巻き

そこからは何も見えない踊り場でただとどまって色うつす空

あの日着ていたなんてことないTシャツがこの夕映えに照り返されて

 歌集の冒頭あたりからランダムに引いた。詠まれているのは日常のどうということのない出来事や情景で、大仰な言葉や表現やおどろおどろしい漢字は使われていない。そのためルビもほとんどない。特筆すべきなのは喩もほぼ皆無なことである。パラバラとめくると、「パラフィン紙みたいなうすい満月が高圧線の向こうに覗く」という歌に直喩があるくらいだ。喩は短歌にとって重要な修辞技法である。その喩をほぼ封印して短歌を作る作者は何をめざしているのか。

 一首目、どこで生きていても雨が降れば濡れる。それを喜びだという。静かに頷くのは恋人か伴侶だろう。二首目に詠まれているのは何ということのない夕焼けだ。その夕焼けは一度きりだという。ここにも強く生の一回性への想いが感じられる。三首目、相手が元カノの話をしているのだろうか。話しながらも春巻きをきちんと包んでいる。四首目に詠まれているのは何も見えない階段の踊り場だ。見えるのは切り取られた空しかない。五首目も何ということのないTシャツが、「いまここ」にある一度切りの夕映えに照らされている。

 堀がこれらの短歌で捉えようとしているのは、日々の日常のひとコマひとコマに刻印されている「生の一回性」の煌めきなのではないだろうか。もう二度と同じ情景に会うことはないと思えば、平凡なTシャツも踊り場も春巻きもいとおしい。それを描くのに大仰な言葉はいらない。

 文体的な特徴を探すと、まず初句の増音が多い。上に引いた歌でも一首目と二首目と五首目が初句七音である。また体言止めと結句に「ている」形が多く使われている。現代日本語は時制の貧弱な言語で、タ形(過去形)・ル形(非過去形)という時制以外に、テイル形とテイタ形というアスペクト形式を併用している。テイル形は現在の状態や現在進行している動作を表す。堀のように「いまここ」を捉えようとすると、勢いテイル形を使うことになるのだろう。

通りの名をはじめて知って少しずつあなたに馴染んでゆく信号機

きれぎれのこうふくだろうあなたからレーズンパンを受けとる夕べ

どこに向かってというのではなく風に向かって自転車を漕ぐ 朝の半月

小さめのを三つではなく大きめのを二つ握って包んで渡す

残り少ないグミを分け合う冷房が効きすぎた後部座席のすみで

 こういう歌を読んでいると、「小確幸」という言葉が頭に浮かぶ。「小確幸」というのは、「小さいけれど確かな幸せ」をつづめて略したもので、村上春樹のエッセー集『ランゲルハンス島の午後』に出て来る村上の造語である。余談だが田口トモロヲと池田エライザが出演している『名建築で昼食を』を見ていたら、その中で「小確幸」が使われていて驚いた。引越先で通りの名を初めて知る、相手からレーズンパンを受けとる、弁当に作ったおにぎりを渡すといった些細なことから日常はできている。そのひとつひとつに小さな幸せを感じている。そういう歌だろう。

 しかし堀が感じているのはもちろん小さな幸せだけではない。

たくさん生きて一回死ぬのだ僕たちも 夏この成層圏の明るさ

骨だけがこの世に残るおかしさの掃き出し窓をあふれくる風

ほんとうはきっとまぶしい死ぬことも 自動筆記のように狂えば

きみが死ぬこわさを言えばふと痛む右耳の端がまた切れている

死ぬまでの立ち往生に食べかけのケチャップライスがまとう粘り気

 生の裏側には死がぴったりと張りついている。生の一回性の果てには一回の死がある。その冷厳な事実をふと思うとき、私たちは歩みを停めてその場に立ち止まる。堀もまたそのことはよくわかっている。わかっているからこそ日常の何気ない出来事が輝くのだろう。

いき違う話の途中なめらかなカーテンレールに見ているひかり

自転車のかごにミモザはいまあふれ、何度か握り直すハンドル

ふいに綿毛が目の前にきて目で追えば乾いた朝の横断歩道

うれしくっても駆け出さない みな命ある限り生きればうつくしい皿

天国へゆくことだけをこの世のめあてのように鳩の首のきらめきは

 その他に心に残った歌を引いた。堀の新しいエッセー集の感想として、「かばん」の先輩の穂村弘は「永遠に初心者マークを付けているような」と言ったそうだ。初心者の気持ちを持ち続けているからこそ見えるものもある。そういうことだろう。

 


 

第387回 第70回角川短歌賞

 角川『短歌』11月号に今年の角川短歌賞受賞作が掲載されたので、今回はこれについて書いてみたい。角川短歌賞の審査員は、昨年までの俵万智が中川佐和子に交替して、松平盟子、坂井修一、藪内亮輔と中川の4人が務めている。

 今年度の角川短歌賞を射止めたのは平井俊の「光を仕舞う」である。

影のいろは黒ではないと吾の手に手を添え母は絵筆をすす

〈バートナー〉と口にするときのざらつきよ言い得ることば無きこの国に

流木のように互いを添わせたり産めないからだと産めないからだ

目を伏せて話し始めるまでの間はフォークを沈む苺のムースに

燃え尽きる精子のごとく降る雪を高架歩道ペデストリアンデッキに見上ぐ

 作者の平井は1990年(平成2年)生まれ。「八雁」に所属し、阿木津英に師事している。平井はすでに2018年の第64回角川短歌賞で「蝶の標本」と題した連作で次席となっている。今回で5度目の挑戦だという。平井の所属する「八雁」は、石田比呂志の歌誌「牙」が石田の死去により終刊になった後、かつて「牙」に所属し「あまだむ」を主宰していた阿木津英が島田幸典らと創刊した歌誌である。「八雁」は「はちかり」と読み、万葉集から取られている。

 「光を仕舞う」には、藪内が5点を、坂井が4点を入れている。連作の主な登場人物は作者とその母親である。連作の主題は同性を愛している作者と、それを母親に告げるまでの葛藤であり、LGBTQという極めて今日的なテーマを扱っている。1位に押した藪内は、一連の構成がしっかりしており、一つの気持ちをこちらに伝えてくるという意味で他の作品とは明確な違いがあると評している。坂井も、完成度が高く、作品の読ませ方を心得ていると述べている。

 今回の「光を仕舞う」はテーマ性の方が前面に出ているが、以前に次席となった「蝶の標本」も読んだときに注目した作品である。文語(古語)の歌も混じっていて、今回の受賞作よりも抒情性が高い。審査員の伊藤一彦などは、作者は若い女性だろうと言っているほどだ。

心臓を持たざるものはうつくしく胸をそらしてマネキンは立つ

薔薇色の香りに飢えた傷兵の集まるようなスターバックス

鎖骨へと指を這わせるまっしろな朝のひかりの満ちたる部屋で

 今回の角川短歌賞の選考座談会はいつにも増して激論となり、その結果、次席はなしで佳作が3点という結果となった。

 佳作の一人目は刈茅の「アパートメント」である。名前をどう読むのかわからない。「かるかや」だろうか。1968年(昭和43年)生まれで、この人も「八雁」の所属なので、今回は「八雁」がワンツーフィニッシュということになる。

地にあくた掃きたつる音のぼりきてはらはらねむり解けゆく朝は

洗濯を晴れわたりたればせねばとて硬貨を借りに隣人が来る

アパートは夜をいさかひやまぬおとどこかで水のほとばしる音

隣室のふたり小雨を出でゆけりひとりしらかみひとりはあふろ

Noli me tangereわたしにふれるなかれよ 椅子のうへ折りたたまれて丸めがねあり

 作者については情報が一切ない。坂井が受賞作の「光を仕舞う」とどちらにしようか迷ったと言いつつ5点を、藪内が2点を入れている。まず連作題名が素っ気ない。また内容はたぶん古いアパートに住んでいる一人暮らしの作者の日常が淡々と詠まれているだけで、特に事件もなく盛り上がりもないという不思議な感触の作品である。しかし、芥、飲食おんじきましらくさびら予言かねごと翡翠そにどりなどの古語が散りばめられていて、なかなかの歌人かとお見受けする。淡々とした詠み振りながら何とも言えない味わいがある。坂井は「光を仕舞う」の方が作品の質は高いが、こちらの方が文学的に何か形にしようという意図が強いので選んだと述べている。何となく言いたいことはわかる。

 しばらく前の朝日新聞の「折々の言葉」というコラムに、哲学者の鷲田清一が社会学者の鶴見和子の言葉を紹介していた。データをいくら取って統計処理しても学問にはならない。学問にするためには魂をくぐらせねばならないという意味の言葉だった。含蓄のある言葉だ。

 「アパートメント」の作者の詠風にも似たようなことが言えるかもしれない。作者は現実をありのままに描いているのではなく、〈私〉という眼鏡を通して世界を見ているのだが、その眼鏡が独特の歪み方をしている。その歪み方がブンガクなのだ。

 佳作の二人目は藤島花の「花を抱えて」が選ばれた。藤島は2004年(平成16年)生まれで、応募時の年齢は19歳となっている。京大短歌会の所属。

医療とはサービス業と説かれたる講堂の机は傾いて

学生のうちに読めよと渡されし『偶然と必然』のつややか

可惜夜の星のかたちの細胞が脳にあるらし 教科書を閉ず

君の背を指でなぞりて椎骨に棘突起あることを確かむ

死に向かうものの一人として我は交差点ゆく花を抱えて

 中川が5点を、藪内が1点入れている。中川は知的な抒情性で詩情が豊かなのが魅力だと言い、藪内は技巧もありつつ華もあってバランスがいいと評している。

 連作の題名は五首目から採られている。私たちはなべて死へと向かう存在であるという冷厳な事実が詠われている。一首目を読むと、医学部に入学して1年目か2年目だということがわかる。講堂の机が傾いているような気がするのは、先生が思いがけないことを言ったからだ。サービス業ではなく、人のために働く仕事とでも言えばよかろう。二首目の『偶然と必然』は分子生物学者ジャック・モノーの名著。私は原文をときどき教材に使っていた。三首目の可惜夜は「あたらよ」で、何もせずに過ごすのは惜しいような夜のこと。「惜夜」と書くことの方が多い。脳に星形の細胞があるとは知らなかった。若手の歌人には珍しく文語(古語)を巧みに使っていて、清新な抒情性のある歌で、全体に歌のレベルが高い。

 作者の藤野は関西の医科大学に通う大学生で、今までは本名の船田愛子名義で歌を作っていたという。『京大短歌』29号に船田名義の短歌が掲載されている。高校生の時から短歌を作っていたらしく、『短歌研究』の第1回短歌研究ジュニア賞の高校生部門で金賞を受賞している。受賞作は次の歌で、高校一年生の時の作である。

「エル・グレコの受胎告知みたいな空」指差す君にうなずいてみる

 この他に、大友家持大賞児童生徒の部で大賞を受賞したりしていて、歌の完成度が高いのも頷ける。

 第1回短歌研究ジュニア賞が発表されている『短歌研究』2021年1月号を見ていたら、第1回U-25短歌選手権で優勝した中牟田琉那の「真夜中の台所にてリプトンの光の部分だけを飲み干す」という歌が入選作に選ばれていたことに気づいた。中牟田も当時は高校1年生である。いずれ劣らぬ将来が楽しみな歌人だ。

 三人目の佳作は千代田らんぷの「雨宿り」が選ばれた。千代田は1985年(昭和60年)生まれで、所属なしとある。

こんなにも卵を抱えて立っていて子宮の位置にある製氷器

体内を覗くことなく終わるのにプラネタリウムの暮れていく空

自分だけ濡れていなくてきっと夢、水族館は順路を逆へ

パンだけを並べた店の明るさに手を閉じ込めて帰る黄昏

県境の川 お互いの性別が逆だったらと噛む林檎飴

 松平が5点を入れている。言葉の展開のさせ方に意外性があり、こう来たらこう行くかと思うとそうじゃない方に読者を運んでくれると評している。藪内も上位に残っていた作品で、ノスタルジックなイメージがあると述べている。

 なかなかおもしろい歌だと思うが、意味が取れない歌も少なくない。一首目は冷蔵庫に卵を仕舞おうとしている場面だろう。自分は手に鶏卵を持っていて、製氷器のある位置に自分の子宮があり、そのなかにも卵があるということか。二首目は私たちは自分の体内を見ることができないのに、プラネタリウムでは何光年も遠くにある星を見ることができるという驚きを詠んだ歌。プラスチック容器に入った鶏卵と自分の子宮内の卵、人間の体内と遠い星辰のように、遠くにあるものを結びつけてポエジーを発生させるという手法か。三首目は、水槽の魚はみんな水に濡れているのに、自分だけは濡れていなくて乾いているのが夢だろうという歌。水族館なのだから魚が水の中にいて、観客は濡れていないのは当たり前なのだが、その常識を敢えてひっくり返している。

 千代田は千代田環の名前でも短歌を書いており、南紀短歌大会や和歌の浦短歌賞などでも入選している。故郷の和歌山に根を下ろして歌を作っている人らしい。

 今回の角川短歌賞の応募総数は721篇で、昨年より150篇少なかったというが、昨年が870篇という過去最高の応募者数だったので特に少ないわけではない。しかし予選通過作品一覧を見ると、昨年は短歌賞の渡邊新月、次席の福山ろかなど入選者が多かった東京大学Q短歌会に所属する人が一人も入っていない。学生短歌会は有力会員の卒業などメンバーの入れ代わりがあるので、そのせいかもしれない。昨年は短歌賞以外に次席が1篇と佳作が4篇あったが、今年は次席なしで佳作が3篇とやや淋しい結果となっている。

 

第386回 古志香『バンクシア』

ほどかれたき一対と見る洗ふたび片はう水に沈みゆく箸

古志香『バンクシア』

 これは厨歌と呼ばれる歌の一種である。食事が終わり、皿やお椀や箸を洗い桶に漬けて洗う。すると水に漬けた一膳の箸の片方だけが底に沈む。箸の微妙な重さのちがいか、塗りのむらによるものか。しかも洗う度毎に同じことが起きる。描かれた現象はここまでであり、それ自体は何ということもない日常の些事である。しかし作者はそこから一歩踏み込んで、現象に意味を読み取る。一対の箸はお互いに別れたいと思っているというのだ。だから片方だけ水に沈むのである。これはもはや意味を読み取っているのではなく、意味を読み込んでいると言うべきだろう。なぜそんなことをするのか。それは作者の心内に押さえがたい感情が鬱積しているからだ。だからこれは万葉集にまでさかのぼる寄物陳思の歌であり、単なる叙景歌ではないのである。

 古志香は1957年生まれの歌人。歌林の会に所属し、第一歌集『光へ靡く』(2014年)がある。『バンクシア』は2024年刊行の第二歌集である。島田修三、小島ゆかり、奥田亡羊が栞文を寄せている。歌集題名のバンクシアとは、オーストラリア原産の植物の名だという。養分の少ない荒れ地にも生え、硬い殻に包まれた種子は主に山火事によって爆ぜて散種するという。集中の「バンクシアの花言葉『心地よい孤独』やせこけた地によく育つとふ」から採られた題名だが、ここにも作者の自己が投影されていることは言うまでもない。自らの生きる環境を「やせこけた土地」と認識しており、自分は心地よい孤独を愛しているのである。

 まったく未知の歌人である古志の歌集に注目したのは、短歌定型を操る並々ならぬ手練れの業に瞠目したからである。

抵抗がふはりと緩む瞬間にわれに返りぬ葛あん練れば

風に荒れ青きはまれる空のした硝子板積むトラックに遭ふ

ひとの願ひかくつつましくありし世を思ひ出させて「魔法瓶」あり

さざなみは仰向けの蟬揺らしをりエアコンホーズの生む水たまり

 一首目、火にかけた葛あんを力を込めて練っている場面である。しばらく練らなくてはならないので、途中で意識が散漫になり何か別のことを考えている。すると突然葛あんの抵抗が緩んではっと我に返る。その瞬間を捉えている。二首目、風の強い冬空だろう。一点の曇りもない青空の下、荷台にガラス板を積んだトラックが走っている。おそらくガラス板にも青空が映っているだろう。ボオドレエルは「巴里の憂愁」に板硝子を運ぶ職人を描いたが、この歌は憂愁の影もなく明るい。三首目は昭和レトロを思わせる魔法瓶である。その昔、どの家庭にも花柄の魔法瓶があった。初めの頃は持ち上げて注ぎ口から熱湯を注いだが、そのうち上部の大きなボタンのようなものを押すとポンプで汲み上げる仕組みに変わった。「わざわざ沸かさずともいつでも熱い湯があればなあ」という人の願いが結実したものだということに作者は思いを馳せている。四首目、夏の終わりに仰向けになって死んでいる蟬を詠んだ歌はたくさんある。この歌ではエアコンのホースから出た水が作る水溜まりの漣を配しているところに工夫がある。

 いずれも短歌定型の骨法を知悉した隙のない造りの歌で、よく言う「動く」語句がない。それに加えて古志の歌風の特徴は、最後まで全部を述べていて、何かをわざと省いたりぼかしたりして余韻を残すということがない点にある。これは美点であると同時に弱点にもなりうることでもあるだろう。

 なぜ美点なのかは説明するまでもなかろうが、全部を述べることによって、歌の意味の曖昧さや複数の解釈の可能性を排除することになり、作者が意図した形で歌を読者に手渡すことができるからである。歌の解釈が分かれる有名な例は寺山修司の次の歌だろう。

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

 解釈が分かれるのは、歌中の「われ」がなぜ両手を広げているかである。ひとつの解釈は「海はこんなに大きいんだよ」と海の広さを両手で表現しているというもので、もうひとつの解釈は少女が自分から離れて海へ行こうとしているのを通せんぼして阻止しようとしているというものである。この歌には両手を広げた目的が書かれていないため、このように複数の解釈が生じる。5W1HのうちのWhy?がないのである。

 逆に一首の中で全部を述べることが弱点になりうる理由はいくつか考えられる。まず、あまりにきっちりと全部を述べると、読み手から読みの自由を奪うということがある。読み手は一首の中に残された空白に想像の触手を伸ばしてあれこれ考えるのだが、全部述べられているとその余地がなくなってしまう。

猫に降る雪がやんだら帰ろうか 肌色うすい手を握りあう 笹井宏之

 笹井の歌では誰が誰に向かって「帰ろうか」と言っているのかわからない。また肌色の薄い手を握り合うのも誰なのか不明である。読み手に手渡された材料が少ないと、読み手は言葉の向こう側にいろいろなものを見ようとする。

 また5W1Hのいくつかを欠落させることによって、日常の言語を詩の言語へと浮揚させることもある。

落としたら一度洗って陽に干して もとのかたちにもどれなくても  東直子

 東の歌では、落としたら陽に干すように言われているのが何なのかが明かされていない。意味を限定しない言葉はいろいろなものに適用できる。意味の限定と適用範囲は反比例の関係にあるからである。陽に干すのはTシャツかもしれないが、ひょっとしたら人生の目標かもしれない。意味解釈に必要なパラメータを隠すことによって言葉が実用性の束縛を解かれて詩として羽ばたくこともあるのだ。

 栞文を寄せた歌人たちは一様に、古志の歌には静かな悲哀や孤独の影があると指摘している。一方、『ノートルダムの椅子』の歌人にして近代日本文学の研究者である日置俊次は、古志の短歌を特徴づけるのは「怒り」であるブログに書いている。確かにそのようなことを思わせる歌はある。

「女にはロレンスはわからない」上書きのできぬ記憶に柳瀬尚紀は

麻婆豆腐の痺れのうちにわが見たる潰れきれない花椒ホアジァオの粒

とうめいな纏足われに施した母の無自覚 われは苦しむ

弟はためらはずまた疑わずわが看し母の喪主となること

弟は「さん」づけわれは呼び捨ての母の日記に動悸はじまる

われに沁む枕詞の「いゆししの」、「むらぎもの」より「玉かぎる」より

 一首目には「大学一年、必修英語の若き教師は柳瀬尚紀だった」という詞書きがある。柳瀬はジョイスの『ユリシーズ』の翻訳で知られる英文学者である。その柳瀬にしての暴言は、作者の心の深くにずっとわだかまっている。二首目の麻婆豆腐に残る花椒の粒はもちろん周囲に違和感を感じている自分の自画像だ。日置の言う怒りが見えるのはとりわけ歌集後半の母親の死をめぐる歌群においてである。三首目は母親が目に見えない拘束を作者に課したこと、またそれに無自覚だったことを詠んでいる。四首目や五首目にあるように、母親は作者の弟を可愛がったのだ。作者は母親と同居して最後を看取ったにもかかわらず、弟は自分が喪主となることを疑わない。そんな作者が好む枕詞は「いゆししの」だという。「いゆししの」は矢で射られた獣の意味から、「心を痛み」「行き死ぬ」にかかる。心が痛んでいるのである。

 とはいえ本歌集を象徴するのが「怒り」であるとまでは言えないだろう。むしろ古志の真骨頂は次のような歌にあると思われる。

しづかにしづかにパトカーは来てアパートの孤独死が処理された秋の日

分かされにうち捨てられし花の束朽ち果てる前つよく香れる

春の雪はるかにひるを流れゆきひんやり光る避雷針見ゆ

主役の花捨てられしのち残りたる白きかすみ草瓶をあふれて

サフラン色のゆふぐれは来て思ふかな土耳古の中のしづかなる耳

パンタグラフの影地を走るその迅さ追ひたり電車の窓にもたれて

映すこと課されドローンは飛び上がりまづ捉ふおのが地に落ちし影

 一首目は巻頭歌である。この歌を巻頭に置くからには、作者には意図があるにちがいない。マンションではなくアパートである。二階建てで外階段があるアパートだろう。独居老人の孤独死は事件にもならずそっと処理されるという現実を冷静に見ている。二首目、道端に捨てられた花束は後は朽ち果てるしかないのだが、最後に強く香るというところに作者の思いがある。三首目は逆に思いのない叙景歌である。春の雪が流れるというから風花だろう。ポイントは「ひんやり」だ。四首目も二首目と同工の歌。かすみ草は主役になれない脇役の花だが、脇役に注ぐ目が温かく、少しは自己を投影しているのだろう。五首目は機知の歌。トルコを漢字で書くと土耳古となり、三文字のまん中に「耳」という漢字がある。五首目、電車の車窓からパンタグラフの影を見ているが、その走る速さは電車の速度と同じはずだ。六首目もおもしろい。ドローンで何かを撮影すべく飛び立たせるのだが、ドローンがまず映したのは自分の影だという歌。実体ではなくその影に着目するところにもまた作者の心の傾きが見てとれる。

 とりわけ印象に残ったのは次の歌である。

枯れつくす野に現はれし蛇口ありわが意味づけを拒みて光る

 いかに写実に徹した叙景といえども、その景を選んだところに何らかの心情は投影される。短歌を作る際に重要なのは景と情のバランスと、情から景への距離感である。ある時は情に傾き、またある時は景に傾く。情から景への距離感も近くなったり遠くなったりする。それは自然なことであり、それが多様な歌を生む。古志の歌の中にも自己が投影され、事物に意味を読み込んだものが多くあるが、上に引いた歌では枯れ野に突如出現した蛇口が一切の意味づけを拒んで鈍く光っているところがおもしろい。


 

第385回 久永草太『命の部首』

母牛の乳よりれてそのしく白きを母乳と呼ぶひとのなく

久永草太『命の部首』

 牧場にいる牛の多くは牛乳を取るために飼われている。乳が出るのだから雌の母牛である。その乳を仔牛にやれば母乳と呼ばれるのだろうが、搾乳された乳は牛乳として製品化されて市場に運ばれる。だからその乳は母乳と呼ばれることはない。作者は命と命の近くにある矛盾を鋭く感じ取って歌にしている。

 またこの歌では「生れて」「美しく」「白き」と文語(古語)を使っているのが効果的だ。日常生活で感じる気づきや感情を描くのなら口語(現代文章語)の方が距離感が少なく適している。しかし命は重く、時に厳粛なものだ。その重さを描くには日常から距離感のある文語を選ぶのも有効な選択だろう。作者はそのような文体の差異をよく意識しているものと思われる。

 久永草太は1998年生まれ。宮崎西高に在学中に短歌を始め、2016年に牧水・短歌甲子園で準優勝。その後、宮崎大学に入学し、宮崎大学短歌会・「心の花」に所属。2023年に「彼岸へ」で第34回歌壇賞を受賞している。『命の部首』は受賞作を収めた第一歌集である。吉川宏志、石井大成、俵万智が栞文を、伊藤一彦が跋文を寄せている。ちなみに九大短歌会を創設した石井は久永と同じ宮崎西高出身で、久永を中一の頃から知っているという。また吉川も同じ宮崎県の出身で、歌壇賞の審査員を務めた縁がある。

 歌集題名は次の歌から採られている。

そりゃそうさ口が命の部首だから食べてゆく他ないんだ今日も

 この歌を見て慌てて漢和辞典を引いた。「命」という字の部首は頭に被っている「へ」で「ひとやね」と言い、人偏の一種らしい。だから「口が命の部首」というのは喩である。人間を含めて動物は、口から食べ物を摂取しなくては体を維持できず、動くためのエネルギーも得ることができない。だから口が命の要だということだろう。

 冒頭の掲出歌も上に引いた歌も「命」を主題としているのだが、その理由は作者が宮崎大学の獣医学科に学んだからである。本歌集の大部分は在学中に作った歌で、後半無事に国家試験に合格したことが描かれている。

糞尿も牛の身体も湯気たてる朝の直腸検査あたたか

産むことを正常として臨床繁殖学りんぱんの教科書重くて硬きを開く

治す牛は北に、解剖する牛は南に繋がれている中庭

採算と命の値段のくらき溝 鶏の治療はついぞ習わず

午前中五匹殺した指でさすドリンクメニューのコーヒーのM

 歌壇賞を受賞した「彼岸へ」から引いた。二首目、家畜は仔を産むことが正常と定められ、繁殖学はそのための学問である。教科書が重くその表紙が硬いのは、動物の命を功利的に扱っている人間のエゴを感じているからに他ならない。三首目は現場を経験した人にしか作れない歌だろう。病気や怪我をしていても治療可能な牛は北に集め、治療が可能ではなく屠殺して解剖実習に使う牛は南に繋がれている。まさに命の選別の現場だ。四首目も同じで、鶏は治療しても採算が合わないので鶏の治療法は習わないのである。五首目は解剖実習でラットを殺したのだろうか。動物とはいえ命を奪う重さと自販機のボタンを押す軽さが対比されている。

 歌壇賞の選考座談会で、久永に◎を付けた東直子は、「実験動物として、いわば動物をモノとして扱っているような場で、そういうことに対する罪悪感とともに、動物に対する敬意も全体にあって、いろいろな思いを込めながらうたっている」と評している。また◯を付けた吉川は「すごく思索的な部分があって、それが単なる面白さだけではない、鋭い見方があると思って読みました」と述べている。

 私が久永の短歌を読んで感じたのは、動物の吐く息の暖かさや土の匂いのする歌を読むのは久しぶりだということである。現代の若手作家の作る歌の舞台はおおむね都会であり、滅菌された都市空間の中には花の香りすら漂うことは少ない。スマホのLINEで繋がり、パソコンの電脳空間で映画を視聴する現代では、実際に手で触れて暖かさを感じ、臭いものであれその匂いを嗅ぐという身体感覚が希薄だ。それは若手の人たちの作る短歌にも影響しているだろう。獣医学科で学ぶ久永は、時に動物の糞尿を浴び、牛の腹の中に手を突っ込むという体験を踏まえて歌を作っている。そういう現実のごつごつした手触り感がある短歌は少なくなっているように思う。

 吉川は久永の短歌を評して「思索的」と述べたが、私が感じたのは細かいところへの気づきの感度の良さである。

イヤホンの長さのぶんだけ遅延して椎名林檎が叫ぶ耳元

午後の「午」と「牛」の違いの瑣末さよ午後は千頭ワクチンを打つ

保育士の「おやすみなさい」に潜みたる命令形の影濃かりけり

定番は青ペンらしいベトナムに過ごせば青くなりゆくノート

副住職経を唱える父親を失う日まで副の住職

 一首目、携帯音楽プレイヤーが再生する音楽は電気信号となってコードを伝わり、イヤホン内の震動で音波に変換される。電気信号がコードを伝わる時間の分だけ耳に届くのは遅れる理屈だ。しかしそれは理論上であって、実際に感知できる差異ではない。だからこれは理知でこしらえた歌である。二首目、「午」と「牛」の字画の違いは縦棒が上に突き出ているかどうかだ。伊藤一彦が跋文で紹介している牧水・短歌甲子園に久永が出詠した歌がある。

虐待の記事を読むたび「蹴」の字の隅のひしゃげた犬と目が会う

 これも漢字の字画に着目した歌で、「蹴」の字のいちばん右にある「尤」をひしゃげた犬に喩えている。「尤」の部首名は「まげあし」というらしい。機知の歌であり、久永はこういう見立てが得意なようだ。久永は保育園でアルバイトをしていたらしく、三首目はその経験に基づいた歌。昼寝をする園児たちに保育士がかける「おやすみなさい」という言葉の口調にかすかな命令を感じ取っている。四首目はベトナムに旅行した折の歌。日本ではシャープペンシルや黒のボールペンを使うのが一般的だが、ベトナムでは青いインクのペンを使う。それはベトナムがかつてフランスの植民地だったからである。フランスの学校では生徒や学生はノートを取るときに青いペンを使うのだ。これも現地に行かなくてはわからない気づきである。五首目もおもしろい。寺の副住職は住職の息子だ。だから息子が住職と名乗れるのは、父親が亡くなった時なのである。

 動物の命を扱う職業の人らしいと特に感じるのは次のような歌を読んだときだ。

わたくしを構成するよ今朝食べたバナナも昨日ぶつけたアザも

この春に吸い上げたものでできている梅の産毛の先の先まで

出生をたどれば南の海の水浴びて騒ぐよ木立も子らも

湯船からあふれるお湯の行く末に在る海おもう肩までおもう

 これら歌の主題になっているのは命の循環である。私たち生物はなべて外界と物質とエネルギーをやり取りして生きている。その循環なしには私たちは生きることができない。今朝食べたバナナの糖質はやがてブドウ糖にまで分解され、血管を流れて身体を動かす燃料となる。しかし昨日ぶつけてできたアザもまた私の身体の一部である。二首目の主題も植物の循環であり、今目にしているものには過去に由来があることに気づいている。三首目は水の循環である。南の海で発生した水蒸気がやがて雲となり、日本上空に達して雨を降らせる。四首目は逆に私たちの生活で使う水が、やがては海へと流れ出る姿を想像している。狭隘な「私」という自我にのみ拘泥していては作ることのできない歌ばかりだ。

生命の等価交換 献血の後に卵を十個もらいぬ

銀色のナット落ちていてこの街のどこかで困っているドラえもん

舌筋の走行について考察す焼肉屋にてタン焼きながら

知らぬ語を調べて「斬首」と知りしとき英論文に散りゆく命

背が伸びる夕焼け小焼けたい焼きを匹で数える国に生まれて

 一首目、等価交換はコミックの『鋼の錬金術師』が流行らせた言葉だ。献血するとドリンクやチョコレートをくれる所が多いが、卵をくれる所もあるらしい。二首目はメルヘンの歌。ドラえもんは未来から来たロボットなので、ナットとボルトが付いているのだろう。三首目は獣医学科あるあるなのかもしれない。タンを焼きながら舌の筋肉について話している。このようなそこはかとないユーモアもまた久永の持ち味だ。四首目の「斬首」はたぶん decapitationだろう。このように言葉から空想へと飛躍するのも短歌空間を広げる効果がある。五首目も言葉へのこだわりを示している。牛は「五頭」、ネズミは「五匹」、箪笥は「五棹」などと数える単位は類別詞 (classifier) と呼ぶ。日本語はこれが豊富な言語で、ここでは鯛焼きを匹で数えているのだ。本来ならば魚なので「」かもしれないが。

 伊藤一彦の跋文によると、久永はエッセーの名手でもあるらしい。『命の部首』

は実に読み応えのある歌集である。


 

第384回 『文學界』特集「短歌と批評」

 『文學界』9月号が「短歌と批評」という特集を組んだ。この企画の目玉は総勢13人による歌会である。参加者は、青松輝、我妻俊樹、伊舎堂仁、井上法子、大森静佳、木下龍也、榊原紘、堂園昌彦、永井祐、服部真里子、花山周子、穂村弘、睦月都という豪華なメンバーである。ふつうの歌会と同じく、参加者は作者名を隠して一首ずつ歌を提出している。次に書き写すので、どの歌の作者が誰かを当ててみるのも一興だろう。私は三人くらいしかわからなかった。

[1] 新しい靴の人のとなりで歩く のぼりとくだり ずっと右側

[2] おしっこじゃなくてうんちで体から排泄されるアイスクリーム

[3] 枯れかけをください ぼくはさておいてそれが神さまとして正しい

[4] 草野球一団が立ち去った草の上に空に向かって尖っていった

[5] 舌だしてねむりつづける手術台の猫は新緑の世界の底に

[6] 食品サンプル、それもミートボールスパゲッティ(あなたのこれからの身代金)

[7] 太陽のしろがねの脳ひかる昼わたしも百合も黙考をせり

[8] 梅雨近き窓のむらさき 孤児の猫を抱へて昼をあさく眠りぬ

[9] 古着屋でマネキンがしてるヘッドフォン 愛の言葉はくせになるから

[10] もうしてるのに結婚をしなさいと蟬の顔して祖母が来るのよ

[11] ゆめに ときに しろがねの雨ふるなかをおもかげは影になる幾たびも

[12] (Reおわかれ)という件名のメールが夜に、ララからキキへ

[13] 夕暮れの色の卵を割り開きこころは慣れていく夕暮れに

 文体の手がかりとなるのは、[7]と[8]だけが文語を取り入れていて、それに加えて[8]は旧仮名であることだ。このメンバーの中で文語・旧仮名で歌を作っているのは睦月だけなので[8]は睦月だと知れる。[1]はやはり文体から永井しかいないとわかる。文体とはことほど左様に強力である。また[11]はこの中でいちばん詩に近い顔をしているので、これは井上だろうと推測できる。迷ったのは穂村で、[5]と[12]のどちらかだろうと踏んだのだが、[12]はいかにも『手紙魔まみ 夏の引越し(うさぎ連れ)』をまねたようで、本命は[5]かなと思ったが自信はなかった。最後に作者名を書いておく。

 参加者が一人三首に票を投じる形式で、最も多い6票を集めたのが [10] だったのは少し意外だ。二位は [1]と[13]が5票を集め、三位は4票の[5]と[9]だった。堂園の司会で座談会形式の討論があり、歌をめぐる歌人たちの議論がとても興味深い。驚くこともあった。それについて少し書いてみたい。

 司会の永井が「今日、何が秀歌なのかが次々話題にあがっています」と発言しているように、秀歌とは何かという問題をめぐってひとしきり議論があった。

 [13]について我妻が、メビウスの輪のような捻れた円環構造をなしていて、夕暮れから夕暮れに戻っていくのだが、その動きが同じ面の上ではないと指摘している。穂村はそれを受けて、それは秀歌に多い構造だと言い、続けて、この歌は[1]とは対照的に、共同体が磨いてきた秀歌性に精度高く球を当てている印象があると述べている。そして秀歌性批判をいつもしている自分たちも、やっぱり採らされてしまうほどだと述懐している。これにたいして青松は、この歌はめっちゃうまいと思い採ろうかと思ったが、秀歌性にレプリカ感があり、狙って当てている感じがあって採れなかったと述べている。

 [13]は私もとてもよい歌だと思うが、これがなぜ秀歌なのかをひと言で説明するのは難しい。ここでは穂村が[13]の秀歌性にプラスの反応をし、青松がマイナスの反応をしたことに注目したい。ポイントは青松の言う「レプリカ感」と「狙って当てている感じ」だろう。レプリカとは本物ではなく複製を意味する。つまり青松の目には、[13]は本物の秀歌ではなく、近現代短歌から学んだ秀歌性を擬態したものであり、狙いを付けて作りあげたものと映っているのだ。青松は現役の東大生で、ここに集まったメンバーの中ではいちばん若い。若い青松には、いかにも作りましたという顔をした短歌はわざとらしく見えるのだろう。それはおそらく「リアル」が与える手触りに反応する世代による感性のちがいである。若い人には念入りにトリミングした情景を額縁に入れて壁に飾るような歌はわざとらしく感じられるのかもしれない。この感性のちがいは見過ごせない。青松のように感じる人がこれから増えたとしたら、今後作られる短歌の質も確実に変わるからである。

 時代の変化は[1]のような歌についても露呈している。[1]について井上は、頭の中に「?」が浮かぶ歌だと感想を述べている。初句「新しい」で収まっているかと思えば「靴」につながっているし、「ずっと右側」で立ち位置を表明されるが、いつからいたのか不思議だと述べる。大森は、全体を通して場面を構築せず、視点がずっと自分の顔に付いている感じがするとしている。堂園は歩いている時に、心や身体感覚が変化していくその一回性をとらえていると評する。また読みにくくすることによって、それを体験させているんじゃないかと鋭い指摘を加えている。

 これに対して青松は、この歌が狙っているのは、歌会で「面白かったね」という評を得ることで、ここには「短歌とはこういう豊かさを生み出す装置です。だから票を入れてください」というような計算があると述べている。[13]に対する評価と共通しているのは「作為性」である。

 しかしながら、もし青松の言うことに従うならば、歌が情景をくっきり浮かび上がらせ、そこに籠められた作者の想いが読み手に伝わるように工夫を凝らしたならば、それはすべて作為的ということになりはしないか。そう考えるととても正当な評価とは思えない。穂村は青松らの意見を受けて、[1]は短歌の世界の中で錬磨されてきた秀歌性からかなり外れており、作者は歌を自分の価値観に沿ったものに改変するためにこの文体を開発したのだと述べている。そして、それにもかかわらず、このような文体の耐用年数がもう切れようとしているのかと恐怖を感じるとも付け加えている。穂村は [1] が永井の歌であることを見抜いた上でこのように述べているのだが、穂村の懸念はおそらく杞憂に終わるだろう。永井が試みている短歌の文体の革新は、最初こそ理解されなかったものの、その意図するところが着実に浸透していると思われるからである。

 あとおもしろかったのは[11]をめぐる議論である。永井が「ゆめに ときには」の字空けはかっこいいけど結構チャラいと指摘すると、それを受けて伊舎堂がチャラいを通らないとかっこよくならないので、チャラいを突き抜けないとだめだと述べている。そこで穂村が「突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士のまなこ」という歌を引いて、主題の重さに対してどこかチャラいところがある。兵士が眼を撃たれたことと卵が割れることがオーバーラップして映像に快楽性があるが、倫理的にNGでも歌に快楽性があっていいというところを自分はずっとうまく言えずにいると引き取っている。

 このやりとりを読んで私は少し驚いた。もし芸術作品が描くものに倫理性を求めたら、三島由紀夫の『金閣寺』で修行僧が放火した金閣寺が炎上するのを美しいと感じたり、ヴィスコンティの『ルードウィッヒ』で、国を傾けるほどワグナーに心酔し、ディズニーランドのシンデレラ城のモデルになったと言われるノイシュバンシュタイン城を立てたババリア王ルードウィッヒが湖で死ぬ場面で、浅瀬に横たわる王の開いた口に雨が降り注ぐシーンを美しいと感じてはいけないということになりかねない。いつかある俳優が、映画の中でヤクザが銃で人を撃って車で逃走しようとするときに、ポリコレ的にシートベルトを締めることを求められたら、もう映画は撮れなくなると言っていたが、それと似たところがあるようにも思う。

 またこの座談会の中で穂村は、「短歌には一人称性が釘のように打ち込まれている」とか、「俵万智の一人称性はすごく『みんな性』に近い」などという名言を残している。今まで「短歌の武装解除」「圧縮と解凍」「短歌のくびれ」などさまざまな用語を世に出してきた穂村らしい。とはいえニューウェーヴ短歌の旗手だった穂村も、若手が集まった座談会の中で長老扱いされていることに、いやおうなく時間の流れを感じてしまう。

 この特集では歌会の他に何人かの歌人が評論を寄稿している。その中では伊舎堂仁の「空中ペットボトル殺法」がおもしろかった。

 伊舎堂は次のようなペットボトルを詠んだ歌を比較している。

ああ闇はここにしかないコンビニのペットボトルの棚の隙間に 松木秀

たぶん親の収入は超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく 山田航

開けっ放しのペットボトルを投げ渡し飛び散れたてがみのように水たち 近江瞬

 一首目と二首目では、ペットボトルは私たちの日常になくてはならないものだが、かといって歌の主人公になるほどのものではない。ところが近江の歌では主人公になっている。伊舎堂の言葉を借りれば「短歌へ映れた」のはキャップを外されて水がこぼれたことによって「壊れた」からだという。そして「壊れていると、短歌に映れる」と伊舎堂は言う。戦略として先に自分を壊しておくという手もあるが、そろそろ「壊れている」ことが気まずく感じられるようになってきたとも続けている。かつて中山明は穂村弘について、「上手く破綻した」者の魅力があったと書いたことがあるという。その上で伊舎堂は、「対象も自己も壊さず、短歌を詠むことはできないのだろうか。短歌を読むことはできないのだろうか」と自問している。

 しかしながら「壊れている」ことと文学は長い付き合いがあり、今に始まったことではない。石川啄木も中原中也もある意味かなり壊れていた人たちである。いささか誇張はあるものの、清家雪子の『月に吠えらんねぇ』を読めばそれがよくわかる。フランスの文芸批評家のモーリス・ブランショ (Maurice Blanchot 1907-2003)は、「文学は欠如 (manque) から始まる」と述べているのも他のことではない。

 私がおもしろいと思ったのは、評論の内容もさることながら、伊舎堂の次のような文体である。

【開けっ放】された時点で店頭へは戻れないことの決定により商品として〈壊れ〉、一首内には出てこない、という〈遠さ〉によって「キャップ」から隔てられたことにより保存容器として壊れ、今は空中にあり、その後に中身の大部分が散逸するであろうことで飲めない・飛び散る・光ったなにか・という無意味さに向かって〈意味ごと壊れて〉いる。

 内容には多少異論はあるが、あえて饒舌を志向したスピード感溢れる文体はユニークで読ませる。余談になるが、伊舎堂の評論のタイトル「空中ペットボトル殺法」をパソコンで打とうとして、「さっぽう」から「殺法」が変換できないことに気づいた。「殺法」は広辞苑には立項されていないが、小学館の『精選日本国語大辞典』には項目がある。しかしこれでは眠狂四郎の円月殺法も一度では変換できないことになりとても残念だ。

 

【作者名】

[1] 永井祐 [2] 伊舎堂仁 [3] 木下龍也 [4] 花山周子 [5] 穂村弘 [6] 榊原紘

[7] 服部真里子 [8] 睦月都 [9] 我妻俊樹 [10] 大森静佳 [11] 井上法子

[12] 青松輝 [13] 堂園昌彦

第383回 川野芽生『星の嵌め殺し』

死神の指先はつね清くしてサラダに散らす薔薇の花びら

川野芽生『星の嵌め殺し』 

 第一歌集『Lilith』で第65回現代歌人協会賞を受賞した川野芽生の第二歌集『星の嵌め殺し』が出版された。版元は河出書房新社で、装幀は花山周子である。『Lilith』の装幀はモダンデザインだったが、今回はレース模様とラメを散らした紫色の花模様という古典的な意匠だ。花山は睦月都の『Dance with the invisibles』でもクラシックな装幀が注目されたが、本歌集の装幀はロリータファッションを好むという川野によく合っている。

 本歌集は、第1部「鏡と神々、銀狼と春雷」、第2部「航行と葬送」、第3部「繻子と修羅、薔薇と綺羅」の3部からなる。巻末の初出一覧を見ると、特に編年体というわけではなく、内容を考えて再構成したものと思われる。各部のタイトルにも作者の言葉フェチが現れている。「かがみとかみがみ」の言葉遊び、「こうこうとそうそう」も韻を踏み、「しゅすとしゅら、ばらときら」では頭韻と脚韻が組み合わされている。

 第1部の冒頭部分から何首か引いてみよう。

凍星よわれは怒りを冠に鏤めてこの曠野をあゆむ

交配を望まざりしに花といふつめたき顔を吊るす蘭たち

神父、まひるの野を歩みをり聖痕ゆ菫のせる血を流しつつ

産むことのなき軀より血を流し見下ろすはつなつの船着き場

魔女を狩れ、とふ声たかくひくくしてわが手につつむ錫の杯

 『ねむらない樹』第7号(2021年)の川野芽生特集に発表された「燃ゆるものは」の一連である。これらの歌に籠められた感情は紛れもなく一首目にある怒りだろう。男性中心社会への怒りである。2018年の第29回歌壇賞の受賞のことばに川野は次のように書いている。

「わたしが失語にも似た状況に陥ったのは、大学という学問の場に足を踏み入れたときで、そのときはじめてわたしは、自分が特定の性に、ことばや真実や知といったものを扱い得ないとされる性に、分類されることを知ったのでした。しかしわたしが愛した神聖なことばの世界に逃げ帰ろうとしてみると、そこには空虚で、美しくて、誘惑のためのことばしか発しない〈女性〉たちが詰め込まれていて、わたしは一体いままで、何を読んでいたのでしょう。何を読まされていたのでしょう」(『歌壇』2018年2月号)

 受賞のことばとしては異色である。このような言葉にも現れている思いから、一首目のように川野は冠に怒りを鏤めて男性中心社会という曠野を昂然と歩くのである。二首目の蘭も女性というジェンダーの喩であり、子孫を残すための性という社会の規定への反発を表している。四首目が表現しているのは、自分は子供を産むことはないという決意とは無関係に月のものが訪れる違和だろう。五首目には自分が男性社会から魔女と呼ばれることも厭わないという強い思いが表されている。

 川野は「短歌以前に私が表現したい自分というものはない」とか「私は言葉のしもべ」などと繰り返し発言しているが、その言葉とは裏腹に、現代の若手歌人のなかでは珍しく、射程が深く重い主題を抱えた歌人だと言えよう。

天使の屍跨ぎて街へ出でゆけば花は破格の値で売られをり

罌粟の野のやうなおまへわたしの血の中で二匹の獣となつて駆けやう

オフィーリア、もう起きていい、死に続けることを望まれても、オフィーリア

みづうみを身に着けて歩みくるひとよ白鳥なりし日の澪曳きて

夕暮に庭沈みゆく 生き延びてわれらが淹るる黄金きん色のお茶

 三首目はラファエロ前派のジョン・エヴァレット・ミレーの絵に想を得た歌だろう。上に引いた歌に用いられているのは、現代の若手歌人が使う語彙とは異質な語彙である。川野はこのような硬質な語彙をどのような地層から汲み上げているのだろうか。

さやさやと秋めく夕の厨辺の油に放つ茄子の濃紺

          浅井美也子『つばさの折り目』

血の滲むレアステーキの舌鼓をしづめて酢漬けの青唐辛子

           佐藤元紀『かばん』2024年8月号

 どちらも映像のピントがしっかり合っている歌だ。一首目はいわゆる厨歌で、秋の台所で茄子を揚げている光景が詠まれている。二首目はレストランでの食事風景だろう。「厨辺」は短歌用語だが、それを除けばこれらの歌に用いられているのは日常の語彙である。歌の本意が写実であれ日々の想いであれ、近現代の短歌は日常の語彙を用いて製作するのが基本となっている。それは近現代短歌が作者の日常生活に接地していることが求められているからである。

清見潟まだ明けやらぬ関の戸をたがゆるせばか月のこゆらん 『宗祇集』

岸近く波寄る松の木の間より清見が関は月ぞもりくる 『為仲集』

 清見関は歌枕で、静岡県の三保の松原の近くにあったらしい。どちらも清見関と月を詠んでいて発想が似ている。古典和歌の作者たちがこのような語彙を汲み出すのは日常生活からではない。禁裏と貴族階級に属している人たちに広く共有されていた歌ことばの倉庫からである。明治時代の短歌革新によってこの倉庫は鍵を鎖され、使われなくなって久しい。

 しかしコトバ派の歌人は自らの歌が日常生活に接地することを望まない。歌はもっと高所を目指すべきだと考える。これが言葉の垂直性である。それではコトバ派の歌人はどこから語彙を汲み上げるのか。歴史や神話や空想や幻想からである。川野は東京大学大学院でファンタジー文学を研究する研究者なので、当然ながら言葉を汲む泉はファンタジーなのである。

罌粟の花踏み躙らるるたそがれの騎兵は馬に忘れられつつ

向日葵の花野のやうに死後はあり天使の手より落ちたる喇叭

求婚者をみなごろしにする少女らに嵐とは異界からの喝采

うつつとは夢の燃料 凍蝶のぼろぼろに枯木立よぎりぬ

 三首目の鏖にはルビが振られているが、ルビのない「ちりばめて」「踏みにぢらるる」「はなびら」などの字もあり、読むのに漢和辞典が必要だ。四首目は幻想派の信条を表す標語といってもよい歌である。このように川野が語彙を汲み上げる先が神話やファンタジーなので、ブキッシュ (bookish) な印象を与えることは否めない。

をさな子の辺獄なりや花の蜜満つる菜の花畠は薄暮

百合の花捨てたるのちの青磁器はピアノの絃のふるへ帯びつつ

水沫みなわの死視てゐたるのみ畿千度いくちたび波はわたしの足に縋れど

日のひかりかたぶくかたへ差し伸ぶる手に黄金きんいろの蜜柑のこりぬ

抽象の深みへやがて潜りゆく画家の習作に立つ硝子壜

 詠まれている素材は、一首目では夕暮の菜の花畑、二首目は活けてあった花を捨てた花瓶、三首目は足下に波が打ち寄せる波打ち際で、取り立てて特殊な素材ではないのだが、川野の手にかかるとまるでミダス王の手が触れたように幻想味を帯びる。四首目に至っては、夕方手にミカンを持っているだけなのに、黄金色のミカンは神話の果実のようである。五首目はイタリアの画家モランディを詠んだものかと思うがどうだろうか。

 最後に川野の覚悟をよく表す歌を引いておこう

魔女のため灯す七つの星あればゆけようつくしからぬ地上を

 川野は最近では文芸誌に散文作品を発表しており、『無垢なる花たちのためのユートピア』(東京創元社)、『月面文字翻刻一例』(書肆侃侃房)などの小説や、『現代短歌』に連載していた評論を集めた『幻象録』(泥文庫)などもある。『Blue』では何と芥川賞候補になったと聞く。かつて大辻隆弘が「結局みんな散文に行ってしまうのか」と慨嘆したことがあったが、歌人という肩書きの価値をよく知っている川野はまさかそのようなことはないだろう。

 

第382回 小俵鱚太『レテ╱移動祝祭日』

夭逝、と書けば生まれる七月の孤独なひかりを泳ぐカゲロウ

小俵鱚太『レテ╱移動祝祭日』

  若い頃に夭逝という言葉に憧れを覚えた人は少なくないだろう。夭逝の天才となればなおさらだ。詩人ランボー、数学者ガロワ、小説家ラディゲら夭逝の天才は、夜空に煌めく星座のようだ。しかし大方の人は天才ではなく、夭逝することもなく平凡な日常を生きる。掲出歌はそのことに気づいた日の孤独な青春の鬱屈を感じさせる。

 小俵鱚太こたわらきすたは1974年生まれ。それまで短歌とは縁のない暮らしをしていたが、2018年8月のある日、ふと思いついて作歌を始め、Twitter(現X)などで発信し出したという。2020年の第2回笹井宏之賞において「ナビを無視して」で長嶋有賞を受賞。現在は「短歌人」「たんたん拍子」に所属。『レテ╱移動祝祭日』は2024年刊行の第一歌集である。江戸雪、内山晶太、近江瞬、瀬戸夏子が栞文を寄せている。

 二つの言葉を並べた歌集題名は珍しい。レテはギリシア神話に登場する忘却の川である。死んで冥界に赴く人は、この川の水を飲んで現世のことをすべて忘れるとされる。移動祝祭日は英語の moveable feastの日本語訳で、復活祭のように日付が固定されておらず、年によって日付が異なる祝日を指す。ヘミングウェィの最晩年の作品名として知られている。「もし君が幸運にも若い頃にパリで過ごしたとしたならば、パリは君にいつも着いて回る。なぜならパリは移動祝祭日だからだ」とヘミングウェは友人に語ったとされている。ヘミングウェィの言葉を見ると、本来の意味ではなく、「どこにでも持ち運びできる祝祭」という意味で使っているようだ。二つの言葉を並べた歌集題名はなかなか意味深長だ。人はいつかこの世に別れを告げて、すべては忘却の彼方に沈んでしまうが、それまでの日々は移動祝祭日のように過ごすのがよいと作者は言っているようにも見える。

 小俵の短歌のベースラインを知るためにいくつか歌を引いてみよう。 

焼き鯖を骨抜きにする手を見つつ逢う日は雨でも良いかとおもう

ジャムでしか見たことのないルバーブに出会う気持ちでオフ会へゆく

この子の目、真珠なのかと黒目なき失明犬を抱く夏の朝

たましいのつぼみに見えたギャルの持つお椀が爪に囲まれていて

潮風とレモンドーナツ 観覧車で生まれた人はいるのだろうか 

 一読して感じられるのは、ほどよい脱力感とそこかしこに漂う微かなユーモアだろう。一首目、たぶん女性が自分のために焼き鯖の骨を抜いてくれているのだ。デートは雨で外出できないが、こうして降り籠められているのも悪くないと感じている。二首目、ルバーブは漢方で大黄と呼ばれている植物で、欧州ではジャムにしたりグラタンにしたりする。大方の日本人はジャム以外で出会うことはないだろう。インターネットのオフ会では、それまでネット上でしか知らなかった人に会うので、それをルバーブの実物に喩えている。三首目は特に好きな歌だ。白内障が進行したのか失明して目が真珠のようにまっ白になっている犬を抱く仕草に愛情が満ちている。四首目、ギャルが派手な付け爪をした手で塗りのお椀を持っている。雑煮かぜんざいのお椀だろうか。その様がまるで魂の蕾のようだと喩えている。五首目、おそらく海辺の遊園地で潮風を浴びてメモンドーナツを食べているのだ。目の前で回っている観覧車を見て、観覧車の中で産気付いて出産することはあるのだろうかと考えている。間に合わずにタクシーの中で出産するという話は聞くことがあるが、観覧車は一周するのに数分しかかからないので、まさかそんなことはないだろう。あらぬことを考えているのがポイントだ。

 文体を見ればわかるように、大仰な修辞を用いたりすることなく、平明な言葉を使って見聞きしたり感じたことを綴っている。しかしながら、平易な見かけによらず、これらの歌は単なる写実ではなく、また口語を使ってリアリズムを更新しようとしているのでもない。見かけ以上に作者の想いが盛り込まれている歌だ。ギャルの付け爪の手に収まったお椀を見て、まるで魂の蕾のようだと感じるのは、日頃から魂の形について想いを巡らしていなければできないことである。 

たぶん斜視なんだとおもう友の子に手を引かれつつ浜へおりゆく

間の悪い男かおれは。測量士ふたりの仲を裂かねばならず

泣きながら終電に乗りこむ人のやはり落としたストール、冬の

まだ帰りたくない犬が道に伏せやがていっしょにしゃがむ飼い主

「この蜂は刺さない蜂」と教えたい、紅く燃え立つつつじの頃に 

 上に引いた歌には作者と周囲の人たちとの関係性がよく表れている。一首目、友人の幼い子と手を繋いで浜辺に降りてゆく。子供の視線や歩き方から、「ああ、この子はたぶん斜視なんだ」と感じる。そのまなざしは暖かい。二首目、道路に測量器を置いて二人の人が測量をしている。よくある光景である。私は行きがかり上、その間を通らなくてはならない。やむをえず測量の邪魔をすることをすまなく感じている。三首目、冬の夜に飲んだ帰りか、終電に乗る時に泣きながら乗り込む女性を見かける。何があったのだろう。ストールを落とさなければいいがと思っていたら、案の定落としたという場面である。四首目もよくある光景だ。まだ散歩を続けたい犬がストライキを起こして道に伏せる。やがては付き合ってしゃがむ飼い主にも、犬の気持ちがよくわかるのだ。私は脚を踏ん張ってミスドの店の前から動こうとしない犬を見かけたことがある。五首目、蜂を恐がる子供にこれは刺さない蜂なんだよと教えてあげたいと思う。燃えるような躑躅が咲く五月のことである。これらの歌には、作者が周囲の人々と触れ合う柔らかな関係性が詠われていてとても魅力的だ。 

週末に会う父として、サバイバル先生として自然を見せる

よくハルは「そしたらパパは救ける?」と訊く 誘拐をされる前提で

多動の子にもみなニコニコと対処できる支援クラスの授業参観

ひとりひとり習熟に沿い配られるハルには二年生のさんすう

はま寿司へヒメジョオン持ち土手をゆくハルはハエトリグモの跳ねかた 

 最も愛情が籠もっているのが幼い娘を詠んだ歌だ。離婚した妻と暮らす娘には週に一度しか会えない。そんな娘に草花の名を教え、鉄棒の逆上がりを教え、見守るしかできない父親の姿は心に沁みる。

 小俵はたぶん短歌に芸術を求めているのではないだろう。唯美主義は小俵には無縁である。小俵の短歌は単なる言葉の組み合わせではなく、その奥に揺れ動く日々の想いが詰まっている。そのことに気づくと、まるで噛みしめるにつれて味が増すスルメのように、小俵の短歌も味わいが深くなるのである。

 最後に特に心に残った歌を挙げておこう。付箋がたくさん付いたので、選ぶのがたいへんだがそれはまた楽しみでもある。

ほおずきの生る庭で聴くその家を引っ越す前のしずかなすべて

夕映えのトラットリアを焦らしつつ目指す散歩にかがやける水

言の葉に枯れ葉を交ぜて重くないことだけしゃべる冬のデニーズ

鳥葬はありだとおもう酢に濡れた箸で餃子の羽を剥がして

客死するための旅かと人生をおもう 洋酒に描かれた船

傘につく花びら濡らし行くべきはあかるい午後のデンタルオフィス

亡き王女のためのパヴァーヌ聴きながら朝に認めて悼む冬の死

蝉以外は時間が止まっていたはずの夏の午後撮る証明写真

プールサイドの気だるさがくる遠い濃い夏の日記を読み返かえつつ

 なぜ私は上に引いた歌の前で長く立ち停ったのか。それは一首がどれだけ色濃く情景を喚起するかということなのだが、それに加えて巧みに織り込まれた季節感と、五感に届く感覚刺激があるように感じられる。たとえば一首目の鬼灯の実が生るのは夏で、二首目の夕映えは秋、三首目は冬だ。他の歌も季節がだいたいわかる。また一首目の静けさは聴覚に訴えるし、二首目は視覚、三首目も聴覚で、四首目の酢は嗅覚と味覚という具合だ。また八首目と九首目には、夏特有の暑さと気だるさという感覚がある。ただしこうして自分の好みで選ぶと、作者小俵の「日々の想い」があまり詰まっていない歌ばかりになってしまったが、それはまた別の問題である。