脱いでなほ思ふかたちよ冬帽子
鈴木牛後『にれかめる』
鈴木牛後は話題の俳人である。それは句作を初めて10年で伝統ある角川俳句賞を2018年に受賞したからである。『にれかめる』はその翌年上梓された第一歌集。巻末のプロフィールによると1961年生まれ。2009年から夏井いつきが主催していたネット俳壇「俳句の缶づめ」に投稿を始める。2011年に黒田杏子の主催する結社「藍生」に入会。2016年に旭川に本拠を置く俳句結社「雪華」に入会。2017年には北海道俳句協会賞と藍生賞を受賞している。すでに注目の俳人だったわけだ。
俳号の牛後は中国の故事に由来する鶏口牛後、つまり「鶏口となるとも牛後となるなかれ」から採られている。この故事を逆手に取り、自分はリーダーではなく牛の群れに後から着いて行く人間だということから付けた俳号だろう。句集題名の「にれかめる」は動詞の「にれかむ」から来ている。「にれかむ」とは牛や山羊や羊などの動物が食べた草を反芻すること。集中には「にれかめる」を含む句が二句ある。
にれかめる山羊と秋思の目を合はす
にれかめる牛に春日のとどまれり
かつての師の黒田杏子が寄せた「牛飼詩人六十頭の草を干す」という句が巻頭を飾っている。鈴木は北海道で酪農を営んでいたので、句の素材のほとんどは牛と牧場から採られたものである。酪農は牛と自然を相手にする仕事なので、牧場での日々の作業のそれぞれに自然の移ろいが感じられる
羊水ごと仔牛どるんと生まれて春
餌箱に牛の残せし春うれひ
水温むほぐして香る草ロール
夏草や牛のあひだを鳶の影
霏霏と雪牛の眠りのみじかさに
一句目は牛の出産で季節は春。春は命の息吹が感じられる季節だ。三句目の季語は「水温む」で春。刈り取った牧草はビニールで巻いてロールにして保存し冬の飼料とする。草のロールをほぐすと閉じ込められていた牧草の匂いがあたりにたちこめるのだ。北海道の夏は短く冬は長くて厳しい。霏霏と雪の降る冬は牛の眠りも短いのだろう。
命を相手にする仕事なので、仔牛が誕生することもあれば、飼っている牛が死ぬこともある。次の四句目は話題になった句で、本句集の帯にも印刷されている。
牛の死に雪は真白を増しゆけり
牛の死に雪のつめたくあたたかく
幾度見る死せし仔牛や日雷
牛死せり片眼は蒲公英に触れて
牧場を取り巻く自然は豊かで、そこに暮らす生きものの死もまた詠まれている。
ばつた死せりそのかたはらに肢死せり
トラクターに乗りたる火蛾の死しても跳ね
越冬の蝿うららかに覚めては死
出来事は小さく冬の蝶が死ぬ
牛や生きものの死を詠んだこのような句を見て、第一次大戦後にドイツで起きた芸術運動の新即物主義(ノイエ・ザハリッヒカイト)を思い浮かべた。その大きな特徴は過剰な主観性の排除と客観描写にある。牧場で牛を飼い毎日世話をして、ミルクを出してくれる牛が可愛くないはずはない。牛が死ねば悲しいだろうし、経済的損失も大きかろう。しかし鈴木の句には過剰な悲しみは表現されておらず、むしろ淡々とした態度である。生きものを飼っていると、新たな命が産まれることもあれば、さっきまで元気だった命が死ぬこともある。それは自然の大きな流れで、生と死は隣合わせというような思いがこれらの句には感じられる。
特に感心したのは次の句である。白い蝶が元気に羽ばたいているときの白が死ぬときにはその色を失うという句だが、死んだときに色を失うではなく、色を失ったときに死ぬという逆転の発想が秀逸だ。
白蝶の白をうしなふとき死せり
牧畜を離れた句にもおもしろいものが多い。
みな殴るかたち炎暑の吊革に
トラクターの影にわが影ある晩夏
ちろろ抱く拳もっともやはらかく
八月を飛ぶたましひとレジ袋
蝦夷梅雨の馬具は革へと戻りたき
一句目は電車かバスの吊革を握っている様が、人を殴る拳のようだという句。確かに吊革を握り締めている様子は拳闘の拳に見えなくもない。二首目は詩情溢れる句。挽歌の夕暮れの西日だろう。トラクターの大きな影と自分の小さな影とが重なっている。季節は晩夏がぴったりだ。三首目の「ちろろ」はコオロギのこと。コオロギを捕まえて握っているのだが、強く握るとコオロギを潰してしまうのでそっと柔らかく握っている。命の愛しさが感じられる句だ。四句目、八月は盂蘭盆会の季節なので、先祖の魂がこの世に戻ってくる。見えているのは風に飛ばされるレジ袋だが、その傍らに先祖の魂も飛んでいるかもしれない。五句目、梅雨の湿り気で革製品の馬具が元の動物の皮に戻ろうとしているかのごとき生々しい艶を帯びている。
獣声のけおんと一つ夏果つる
いちまいの葉の入りてより秋の水
くものすのいつぽん春風が見える
暮れてゆく白蝶翅を畳むたび
牛追つて我の残りし秋夕焼
倒木はみな仰向けと思ふ秋
盆の夜の電灯揺るるとき楕円
いずれも詩情溢れる句ばかりだ。こう書き写して並べてみると、鈴木の句風の特徴がよくわかる。先に鈴木の俳句は新即物主義を思わせると書いたが、それはいささか修正が必要なようだ。それは鈴木の句が純粋な写生ではなく、どこかに〈私〉の分子が含まれているからである。五句目の「牛追つて」には「我」があるので明らかだが、一見そうは見えない句にもそれは潜んでいる。例えば二句目「いちまいの」では、落葉が一枚水に落ちたときから秋の水になるというのは客観描写ではない。〈私〉がそう感じたから秋になったのである。六句目「倒木は」ではもっとはっきりしている。本来は倒木に仰向けもうつ伏せもない。しかし〈私〉には木が力尽きてどうと仰向けに倒れたように感じられたのである。
鈴木は数年前牧場を人に譲って離農し、現在は埼玉県に在住と聞く。牛を離れた鈴木はこれからどういう句を作ってゆくのか見るのが楽しみだ。