町歩きと短歌

町歩きとは何だろうか

 町歩きは楽しい。しかしよく考えてみると、町歩きと散歩はどこがどうちがうのだろうか。「町歩き」という言葉は広辞苑にも日本国語大辞典にも載っていない。一部の人たちに慣用として使われている言葉だ。私見になるが、散歩と町歩きは町なかを歩くという行為自体は同じでも、その目的がちがう。散歩の目的は気分転換か体力維持といったところだろう。一方、町歩きの目的は知らないものに出会う発見にある。ここが単なる散歩と大きくちがう点なのだ。

 一九八五年頃だったろうか。その頃、私はある仏和辞典の編纂に加わっていて、編集会議のためによく東京に出掛けていた。編集会議は土曜日に開かれる。会議が終わると、出版社の人たちと夕食をとって解散となる。出版社が目黒にマンションを持っていたので、よくそこに泊まらせてもらった。一夜明けると日曜日で、京都に帰る他は特にすることもない。目黒のマンションを出て、急な権之助坂を上り、目黒通りを東に進む。首都高速二号線をくぐって間もなく、緑に包まれた屋敷のような場所に「日本画による初春展」という看板が掲げられていた。こんな所に美術館があったかなと思いながらも入ることにした。長いアプローチを進むと、木陰からクリーム色の建物が見えてくる。建物の入口にある乳白色の大きなガラスに翼を拡げ胸を反らした女神像が浮き彫りになっている。その美しさにうっとりと眺めることしばし、ガラスの隅に目をやるとR. Laliqueとサインがあるではないか。私は驚愕した。ルネ・ラリックといえば高名なフランスのガラス工芸家である。ラリックの作品が人知れずこんな所にあるとは。入場券を買って中に入り、凝った造りの室内装飾にまた驚いた。東京都庭園美術館として知られているその建物は、戦前に皇族の朝香宮邸として建設された日本でただひとつのアールデコの館だったのである。庭園美術館として発足したのが一九八三年の十月というから、私は開館間もない頃に偶然遭遇したことになる。それ以来この美術館が私がとりわけ好む場所となったことは言うまでもない。

 実は私の町歩きには教科書がある。赤瀬川原平、藤森照信、南伸坊編『路上觀察學入門』(筑摩書房、一九八六年)である。赤瀬川原平は前衛芸術家で、尾辻克彦名義で芥川賞を受賞した作家でもある。後に『老人力』(筑摩書房、一九九八年)で「老人力」という言葉を流行させることになる。藤森照信は東京大学生産技術研究所助教授(当時)で専門は建築史。『建築探偵神出鬼没』(朝日新聞社、一九九〇年)など多くの本で建築探偵を名乗る。今では近江八幡にあるラ・コリーナなどの設計で有名な建築家でもある。南伸坊は多芸多才なイラストレーターで文筆家。あるとき三人は意気投合して路上観察学会なる団体を立ち上げるのだが、その源流は早稲田大学の建築学教授であった今和次郎の考現学にあるという。この本にはマンホールの蓋のデザインをスケッチして集めている人や、解体される建築の欠片を集めている人や、女子高校生の制服を観察している人などが登場する。極めつきは赤瀬川の超芸術トマソンだろう。トマソンとは、建物の二階が撤去され用済みなのに残されているどこにも行けない階段や、続きの建物がなくなったため用をなさなくなったドアなどのことで、赤瀬川はそこに「無用の美」を見出そうとした。トマソンとは、その昔、読売巨人軍に入団するもまったく打てなかった助っ人外国人選手の名に由来する。詳しくは赤瀬川原平『超芸術トマソン』(ちくま文庫、一九八七年)に譲る。

 いつのことだったか、東京の京橋を歩いていると、偶然INAXギャラリー(後にLIXILギャラリーと改称、現在は廃館)で開催中の一木努の「建築の忘れがたみ」展に出くわした。一木は『路上觀察學入門』で紹介されていた解体される建物の欠片を収集している人である。偶然に感謝しつつ入場し、展示されている建物の欠片を心ゆくまで鑑賞したのは言うまでもない。ここにもまた町歩きのおかげの発見があった。

 

町歩きと都市の風景

 町歩きをするとき、どのようなものに目を留めるかは人によってちがうだろう。行き交う人を眺める人もいれば、公園や民家の庭の花を愛でる人もいるだろう。私は特に建物と地形に注意を引かれる。建築はもともと好きで、とりわけ明治・大正期の洋館や擬洋風建築を見るのが好きだ。東京には池之端の旧岩崎邸や、駒場公園の旧前田侯爵邸、若松河田にある旧小笠原伯爵邸など洋館建築がたくさん残っている。しかし今回は建築ではなく地形の話をしたい。

 地形にもいろいろあるが、私が特に好きなのは坂と路地と階段である。NHKのテレビ番組「ブラタモリ」や、『タモリのTOKYO坂道美学入門』(講談社、二〇〇四年)でよく知られているように、タレントのタモリは日本坂道学会副会長を僭称するほどの坂道愛好者である。また最近は、皆川典久『東京スリバチ地形散歩』(洋泉社、二〇一二年)、『東京23区凸凹地図』(昭文社、二〇二〇年)といった本も次々に刊行されて、ちょっとした地形ブームの観もある。

 ただ私が住んでいる京都は地形愛好家には不向きな土地である。なだらかな京都盆地には、市内に吉田山、船岡山、双ヶ丘という平安京造営時にランドマークとなった低い岡はあるものの、それを除けば平らな土地で起伏に乏しい。東山には清水寺に続く清水坂や産寧坂があるが、いつも観光客で一杯で散策には向かない。

 これにたいして横浜や神戸や長崎のような港町は坂が多く、それが独特の町の風情を醸し出している。港町に坂が多いのは、大型船が接岸するためには水深が深くなくてはならず、海岸近くまで山が迫っている地形が適しているからである。平地が狭いために、山が造成されて宅地になり、住宅がどんどん山を上っていくので坂が多くなる道理だ。中には長崎のオランダ坂のように観光名所になって歌謡曲に歌われる坂もある。神戸のハンター坂なども名高い。坂には名前が付いているものが多いが、それは正式な名称ではなく地元の人が付けた俗称である。京都の東山七条に「女坂」という坂があるが、それは坂を上った所に京都女子中学・高校・大学があって、毎朝大勢の女子生徒・女子学生がこの坂を上ることに由来する。

 海外の港町では特にポルトガルのリスボンが記憶に残る。大航海時代の出発点となったこの町は、七つの丘の上に築かれたと言われているほど坂が多い。市内には黄色いレトロな路面電車が走っていて、まるでケーブルカーのように坂を上る様子に驚かされる。また旧市街のアルファマ地区はうねうねと狭い道が続いておりまるで迷宮のようだ。アルファマの「アル」はアルコール、アルハンブラの「アル」と同じくアラビア語の定冠詞で、その昔、この土地を支配していたムーア人が築いた市街ということだ。庶民が暮らす地区なので、道端で七輪でイワシを焼いていたりする。

 都市の景観を形作る上で、公園などの緑地や河川沼沢は大きな役割を果たす。緑地は日陰を作り市民の憩いの場になるし、町を流れる川の河川敷や土手は散歩やジョギングに好適な場所である。しかし町の表情を作る上で坂が担っている役割も大きい。

 東京はそのことがよく感じられる町である。東京は北西から拡がる武蔵野台地が浸食されてできた土地であり、北西から南東に向かって五本の指を拡げた手のひらのような形をしている。指の部分が尾根筋で、指と指の間が谷筋である。そこに高低差が生じ、尾根筋と谷筋をつなぐ坂が生まれる。

 東京の高低差は驚くばかりで、それを実感するのは地下鉄に乗っている時だ。丸ノ内線で淡路町から御茶ノ水に差し掛かると、神田川を越える時に地上に出る。御茶ノ水から本郷三丁目を通って後楽園の駅に着くときにも地下から地上に出る。いずれも谷筋に差し掛かって土地が低くなったからである。極めつきは銀座線に乗って渋谷に到着する時だろう。ひと駅手前の表参道までは地下なのに、渋谷に着く直前に地上に出て、ホームは駅ビルの三階にある。渋谷駅は渋谷川が浸食した深い谷底に位置しているのである。

 私の東京の定宿は本郷の東大正門に近い所にある。東大が建てられたのは本郷台地の上、本郷通りは尾根筋のいちばん高い所を通っている。だから右へ曲がっても左に曲がっても下り坂になる。この辺りには、菊坂、鐙坂、本妙寺坂、無縁坂など風情のある名を持つ坂が多く、独特な町の景観を形成している。

 江戸の昔から高低差は身分の差であり貧富の差であった。幕府は武士が住む武家地と町人が暮らす町人地を区別していた。開けていて日当たりの良い尾根筋は武家地で大名屋敷が建てられた。現在の東京大学の敷地の赤門のあるあたりは加賀百万石の前田家の屋敷跡である。一方、町人地は日当たりと水はけの悪い谷筋に多く、小商いで暮らす町人や職人が住んでいた。時代劇で描かれる長屋の道がよくぬかるんでいるのはこのためである。菊坂を下った所にある樋口一葉の旧宅跡を見れば当時の様子を忍ぶことができる。坂を上ることは社会階級を上昇することであり、富と権力を手にすることである。一方、坂を下ることは階級を滑り落ちることであり、貧窮と同義である。坂の上を見つめる眼差しには憧れと同時に諦めもあっただろう。

 

坂の象徴的意味

 坂は文学作品や映画などにもよく登場する。石坂洋次郎の『陽のあたる坂道』、江戸川乱歩の『Ⅾ坂の殺人事件』、スタジオジブリの『コクリコ坂から』、コミックの『坂道のアポロン』、さだまさしの『無縁坂』などではタイトルになっているし、ゆずのヒット曲『夏色』で主人公は長い長い下り坂を自転車で走る。坂には何か人を引きつけるものがあるようだ。

 私は三省堂の『現代短歌大事典』も『岩波現代短歌辞典』も日頃からよく使っているが、編集方針がちがっていておもしろい。『現代短歌大事典』は歌人をよく拾っているが、『岩波現代短歌辞典』では事物が多く立項されている。例えば「橋」は大項目で見開き二頁を占めていて、執筆は高橋睦郎である。その中で高橋は、橋は具体的には川や谷のあちら側とこちら側を結ぶもので、抽象的にはこの世界と異界とを結ぶものであると論じている。事物は詩歌においてしばしば象徴的意味を帯びる。俳句や短歌は、背後に象徴的意味を引き連れた語彙を好んで用いることで、言葉の経済効率を高め、含意や暗喩や行間の意味を作り出す。これが制度化されたものが俳句の季語だろう。和歌では歌枕がそれに当たる。

 『岩波現代短歌辞典』には「坂」も立項されていて、坂を上ることに理想実現の過程やあるべき現実への希望というプラスのイメージが、坂を下ることには理想からの後退、失意と挫折というマイナスのイメージが付着しているとある。例歌として引かれているのは次の佐佐木幸綱の歌である。

山王坂を共に上りし日を語る梨の木坂を下りたる日も  佐佐木幸綱

 この歌では、山王坂は大志を抱いた青年時に上り、梨の木坂は老境を迎えて下る坂として描かれている。梨の木坂は国会図書館の横に、山王坂は衆議院第一議員会館と第二議員会館の間にあり、山王日枝神社に続く道である。地図で見ると、ごく近くにある二本の坂であることに改めて気づく。若い頃と老年に差し掛かった現在とで、心のあり処は変化してはいないことを示しているのかもしれない。

 上り坂が青春と上昇のイメージを持つことを示すのならば、国語の教科書にも載っている次の歌の方がふさわしかろう。

のぼり坂のペダル踏みつつ子は叫ぶ「まっすぐ?」、そうだ、どんどんのぼれ  

                            佐佐木幸綱

 次に挙げる歌では坂の上に童謡教室がある。坂の上は山の手で、裕福な人たちが暮らす場所である。自宅で童謡教室を開いているのはそんな未亡人だろうか。立ち漕ぎで坂を上る〈私〉の心の中にはそんな暮らしへの憧れがあるにちがいない。

坂の上の童遙教室ジクザグに自転車漕ぎゆく腰を浮かせて  石井絹枝

 その一方、次の桑原の歌では坂の上は理想や憧れのある場所ではない。しかし病む老妻を車椅子に乗せて押す作中の〈私〉にとっては、ただひとつ希望の残された場所である。

坂の上に湧く白き雲 いまはただその雲めざし車椅子押す  桑原正紀

 上り坂とは反対に、歌に描かれた下り坂には失意と敗北のイメージが色濃く漂う。

昭和四十年以来わが身は長き坂まろび来し如くまろびゆく如し     佐藤佐太郎

昭和二十三年十八歳じゅうはち心朽ちき神田駿河台一口いもあらい坂     石田比呂志

 佐藤の歌の坂は特定の坂ではなく喩として置かれている。まさに「坂を転がり落ちるごとく」である。石田の歌に登場する一口坂は靖国神社の近くにある。そう詠まれてはいないが、作中の〈私〉はこの時坂を下っていただろう。

 坂が帯びる象徴的意味はこれに留まるものではない。梅内美華子の『現代歌枕』(NHK出版、二〇一三年)には、坂が境界でもあることが書かれており、その例として『古事記』の黄泉比良坂が挙げられている。黄泉比良坂は生者の暮らすこの世と死者のいる黄泉とをつなぐ坂である。梅内は次の歌を引いている。

陽が落つる奈良油坂不可思議な楽をまとひて迦楼羅は来たる   永井陽子

うらぶれて九段の坂をくだりゆく亡者の群れか聲なくすぎむ   一ノ関忠人

 永井の歌の迦楼羅かるらは鳥の姿で描かれることもある仏教の守護神で、当然ながらこの世のものではない。油坂(油阪)は近鉄奈良駅から東に続く坂で、交通量の多い道である。こんな場所に異形のものが出現するのかと少し驚く。一ノ関の歌に登場する九段坂は靖国神社に続く道である。したがって坂を下る人たちは参拝を終えた戦没者の遺族と考えるのが妥当だが、それはいまだに大陸の草原や南洋の海底に屍を残す死者の姿と重なる。いずれの歌でも坂は現世と異界を接続する通路として描かれている。言うまでもなく、そのような通路に近づくのは危険なことであり、戦慄を覚える経験なのである。

 このような坂の持つシンボリスムは、そもそも坂が上にある高い場所と下にある低い場所を結ぶ機能を持つところから来るのだろう。「結ぶ」ということは、本来は異なるもの、左右に分かれているものを接続することをいう。このために坂は、橋や鳥居など結界を表すものと同じように、私たちが暮らしているこの世界と、それとは異なる世界、つまり死後の世界や現世を超えた神秘的世界の境界と見なされるのだろう。

 

短歌に詠まれた坂

 今回は『岩波現代短歌辞典』の初句索引と、『角川現代短歌集成』の語句索引を活用して、「坂」が詠み込まれた短歌を探してみた。坂の歌は『角川現代短歌集成』第一巻「生活詠」の中の「都市・街・町」の一角に集められているが、それ以外の場所にも散在していて、存外数が多い。

 先に述べた異界との境界というシンボリズムの作用で、坂は幻想的・神秘的な出来事が起きる場として描かれることがよくあるようだ。

坂くだる少女の爪のはらはらと散るくれなゐを聴きつつゆくも   水原紫苑

坂道をゆつくりゆらゆら下りてゆく紋白蝶を二つ引き連れて    小寺三喜子

漂ふはしんのみならずひらひらとまひるましろき坂くだりたり    高嶋健一

春かぜに乗って無人の乳母車嘘つき坂を登りて消えつ       石田比呂志

乳母車突き放す手は見えねども坂の真上に夕陽のありつ      宮原望子

 水原はもともと幻想的な歌風の歌人だが、この歌でも坂を下る少女の爪が剥がれ落ちるというあり得ない光景が美しく詠まれている。小寺の歌では作中の〈私〉が紋白蝶を連れていて、高嶋の歌では名指されてはいないものの坂道をひらひらと下っているのは紛れもなく蝶である。前者では蝶を引き連れた〈私〉に超常的なオーラがあり、後者では蝶そのものが異界からの使者のようだ。また石田の歌では無人の乳母車が坂を上るというあり得ない光景が詠まれている。「嘘つき坂」は創作で、この歌も実は嘘なんだよという仕掛けだろうか。作者の「アカンベー」が見えるようだ。宮原の歌は、乳母車が姿の見えない人物によって押し出され、今にも坂を転がり落ちる瞬間のようで、これも恐ろしい。この歌に描かれているのは純粋な悪意である。

 次に挙げる歌で坂は歌人の人生の機微や境遇を映してさまざまな陰翳を帯びて描かれている。

夜の坂を電車くだりぬいきの哀しみながく揺るる思ひぞ    筑波杏明

目白坂地獄胸坂さび朱なすきみの子守りてのぼりくだりき    山田あき

犬はここに今死にゆかん遠き坂の傾斜がふしぎに美しくして   真鍋美恵子

忽然としてひぐらしの絶えしかば少年の日の坂のくらやみ    佐藤通雅

 一首目の作者の筑波杏明は、「まひる野」所属の歌人で、警視庁機動隊の隊長であった。歌集『海と手錠』には、「われは一人の死の意味にながく苦しまむ六月十五日の警官として」という樺美智子の死を悼む歌が収録されている。筑波は貧しい農村に生まれ、民衆の側に所属する自分と警察官という職務の矛盾に苦しんでいた。電車がゆっくり下る夜の坂はそのような筑波の生の哀しみを象徴しているかのようだ。

 二首目の山田あきの夫は坪野哲久で、二人はプロレタリア短歌と左翼運動に打ち込んだことで知られる。検挙もされていて、当然ながら生活は苦しかった。この歌で坂は生活の困難の象徴として描かれている。目白坂は文京区関口にあり、目白台を上る坂で突き当たりには明治の元勲山縣有朋旧宅の椿山荘がある。一方、地獄胸坂は実在しない。しかし椿山荘と東側にある新江戸川公園(肥後細川庭園)の間に胸突坂という急坂がある。すぐ近くに関口芭蕉庵があり、松尾芭蕉が神田上水の改修工事に携わっていた頃住んだ場所と言われている。

 三首目の真鍋の歌は愛犬が死を迎えた時の歌だろう。遠い坂は実在の坂ではなく、これからあの世へと旅立つ愛犬が辿る坂かもしれない。

 四首目の佐藤の歌に描かれるヒグラシは、朝と夕方に鳴く蟬である。ヒグラシが忽然と鳴き止んだのだからおそらく夕方だろう。外で遊んでいたらおもいのほか早く日が暮れてしまった。夕闇に襲われた佐藤少年は心細くなった。その目に坂は恐ろしいものが隠れている場所と映ったのかもしれない。

友待つと思ひてくだり妻待つと思ひてのぼるわが柿生坂    岩田 正

その後の道玄坂をくだりゆく左の路次は罪のごとくにて    二宮冬鳥

吾とともに移ろふごとき星屑を仰ぎ登りぬ往診の坂      林 宏匡

 柿生坂は岩田の歌集の題名にもなっているが、妻との静かな暮らしを象徴するかのようだ。一方、二宮の歌には何やらほの暗いムードが漂う。渋谷の道玄坂を上ったところにある円山町にはその昔花街があり、今はその名残としてラブホテルが建ち並ぶ。道玄坂を下る男には心にやましいことがあるのだろう。三首目の林は北海道の根室で暮らした医師である。冬空に輝く星辰は、病者のもとへ往診に向かう自分を励ますために付き従うかのごとくである。医師はそれに力を得て凍てついた北国の坂を上る。

 坂は街に起伏と陰影と独特の風情を生み出すが、短歌に詠まれた坂もまた、作者の人生と境涯を暗示するアイテムとしてさまざまに詠まれている。それを巡るのは短歌の中の町歩きと言えるかもしれない。

 

「横浜歌人会会報」123号 (2022年12月)に掲載

横浜歌人会のホームページ

 

東京の坂

坂歩き事始め

 もうずいぶん前になるが、東京大学文学部に集中講義に招かれ、一週間滞在した。本郷の東大構内の三四郎池のほとりに山上さんじょう会館というゲストハウスがある。ここに宿泊した。講義が4時半くらいに終わると、あとは暇である。そんなわけで、本郷界隈を歩き回るようになった。散歩を始めて、すぐに本郷界隈には坂が多く、坂にはだいたい名前が付けられていることに気づいた。それ以来、東京の坂を歩くのがおもしろくなり、ここ数年暇を見つけては歩き続けている。

新坂
菊坂下の交差点

 地下鉄丸の内線を本郷三丁目で降りて、三丁目交差点を渡ったところに、文泉堂という書店がある(注 : しばらく前に閉店して現在はもうない)。この書店が発行主体である「四季 本郷」という地域誌をここで見つけた。地域誌だけあって、本郷管内の歴史や地名の由来など異常に詳しい。この地域誌は町歩きの恰好のガイドブックとなった。この本によると、文京区には106の坂があるという。もう一冊私のガイドブックとなった本がある。地域誌『谷根千』発行主幹森まゆみの『鴎外の坂』(新潮文庫)である。鴎外の生涯とその周辺の女性を、転居を繰り返した鴎外の住居近くにある坂をキーワードに描いた本である。地元出身の著者が、現場をたんねんに歩いて書いているので、散歩の手引きとしても利用できる。

 本郷のある文京区は、武蔵野台地の南東の端にあたる。武蔵野台地は北西方向から、指を広げた手のようなかたちをしている。指にあたるのが尾根筋、指と指のあいだが谷筋である。尾根筋にあたる部分には「~台地」という名前がつけられている。西から、関口台地、小日向台地、白山台地、本郷台地の順に並んでいる。本郷台地の上に現在の東大があるが、この場所はもともと加賀百万石の前田家の江戸上屋敷である。やはり殿様は台地の坂の上に屋敷を構えるのだ。

 

本郷の昔ながらの宿 鳳明館
下宿屋の風情を残す本郷館

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

菊坂の怪

東大前の見送り坂

 本郷三丁目交差点から北の本郷通は、見送り坂と呼ばれていて、ゆるやかな登りになっている。名前の由来は、江戸を出る人を見送ったからとされている。このあたりが昔の江戸の町の北限ということか。交差点から本郷通を少し北に行ったところから、左手に下る坂が菊坂である。本郷界隈で最も有名な坂だろう。

何の変哲もない菊坂入り口

 私は最初にこの坂を下ったとき、アスファルト舗装された道の両側に飲食店や酒屋などが並んでいる、そのあまりに何の変哲もない坂の様子にがっかりした。坂の途中にある、樋口一葉が通った質屋伊勢屋の建物がかすかに明治の風情を今に伝えているが、それを除けば何の風情もない。ところが、坂を下まで下りて、もう一度逆方向に登ろうとしたとき、あることに気が付いた。坂の途中から狭い横道に右に折れると、たった今降りてきた坂道と平行して、も

う一本の坂道があったのである。なんと菊坂は、二本あっ

菊坂下道 もとは川だったらしい

たのだ !  こちらの坂道は、ずっと狭く両側には東京の下町という感じの、いかにも古そうな民家が建ち並び、共同井戸があって、野良猫が闊歩している。これこそ東京の坂である。私はすっかりうれしくなってしまった。

 業務用自転車の荷台に、木でできた魚のトロ箱をのせた、いかにも下町の住人という風情の男の人をつかまえて、事の次第をたずねてみて、次のような事がわかった。確かに菊坂は二本あるのである。住人は「上の道」「下の道」と呼んでいるらしい。下の道の方は、もとは水の流れ

菊坂の上道と下道を結ぶ階段

る小川だったそうで、いつの時代かに埋め立てたものと思われる。そういえば、いかにも低地で日当たりが悪そうだ。この下の道の一画に、樋口一葉の旧居跡と、一葉の井戸が残っている。長屋風の路地を入った奥にあり、一葉の旧居は路地から階段を少し上ったあたりにあった。この風景は、関川夏央原作、谷口ジロー画のマンガ『明治流星雨』にもそっくりそのまま描かれている。

 

 

 

樋口一葉旧宅(階段を上がって左)
一葉の井戸

 この道には、宮沢賢治旧居跡の表示もあった。本郷界隈には、この他にも石川啄木、金田一京助、坪内逍遙など、多くの文人が住んでいる。菊坂そのものが、本郷台地にできた谷筋で、一段低くなっているので、菊坂を出発点とする坂がたくさんある。菊坂下から上って行くと、すぐ左手の胸突き坂をはじめとして、鐙坂、梨の木坂、炭

胸突き坂

団坂、本妙寺坂と続いている。この日は雨だったので、写真の写りは悪いが、しっとりと濡れた下町の風情はなかなかよい。なぜか下町には雨が似合うようだ。

鐙 坂

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東大裏の暗闇坂

 東大の正門を入って、まっすぐ進むと安田講堂がある。講堂の左をそのまま進むと、裏門の弥生門に至る。弥生式土器が最初に発掘された所である。門を出たすぐの所に、立原道造記念館がある。角川書店版の立原道造全集全五巻を高校時代に読破した私としては、通り過ぎるわけにはいかない。展示を見ていると、なつかしいような甘酸っぱい気持ちになった。今の人はもう立原道造のような甘い詩は読まないだろう。いや、そもそも詩など読まないのかもしれない。

今ではからっと明るい暗闇坂

 記念館のある道は言問通から南東方向に伸びて、東大の裏側をぐるっと回り、本郷台地を下って不忍池西岸の池之端に至る。この道は暗闇坂と呼ばれている。実はすぐ近所に同じ名前の坂がある。不忍池の東岸、上野公園下から鴎外ゆかりの水月ホテルを左に見て、東京芸大方向に上野の山を上って行く坂も、暗闇坂と呼ばれている。坂の名前は、近所の人がいつとは知れずそう呼び始めたものであり、正式に地名ではないので、同じ名前の坂が複数あってもおかしくない。

 立原道造記念館から言問通に出て、北東方向に下る坂が弥生坂である。下った先は、根津の谷筋である。その途中の小道を左に折れて、すぐもう一度左に折れると、異人坂に行き当たる。この坂の上に、明治時代の東京帝国大学時代、お雇い外人として東大に招聘された外国人のための官舎があったところから、異人坂の名がついたそうだ。坂の上には、向が岡寮という東大の学生寮があるが、そのあたりに官舎があったのだろうか。現在の向が岡寮は、昼なお暗いほどに木々がうっそうと茂り、朽ちかけた木造の寮の建物が木に隠れている。すれちがった二人連れの女性が、「ここ人が住んでいるの」と言いながら通り過ぎていった。寮を過ぎて北に行くと、通称お化け階段に行き当たる。降り口に、誰が掲げたのか段ボールにマジックで書いた札が下がっていた。こう書かれていた。

お化け階段を上から見る
お化け階段を下から見る

「弥生町名所 お化け階段下から40段 上からn段 諸説あり 山の手の終点地」

 上って数えた段数と下ったときのがちがうということだろう。これがお化け階段の名前の由来か。「山の手の終点地」という文句が、坂や階段の「境界」としての性格をよく示している。わくわくしながら、狭い急な階段を下まで下りる(注 : いつのことか、階段周辺は整備拡張されてしまい、わくわく感はなくなってしまった)。すると建物の造りが、一転して下町という風情になるから不思議である。さらにしばらく行くと、根津神社に至る。水の豊富なツツジの庭園があり、ここで一服する。根津神社の正門から西に続くのが新

根津神社横の新坂

坂である。地図では権現坂と表記されている。この坂は、森鴎外の小説『青年』で、「Sの字をぞんざいに書いたように屈曲している」と書かれたことから、S坂ともよばれている。坂の名前は通称なので、ひとつの坂にいくつもの名前がついているのだろう。

 

三崎坂から谷中へ

 根津神社を通り抜けて、裏手に出るとそこは根津裏門坂である。左に上ると、本郷通りに出る。夏目漱石旧宅跡があるらしいが、ここは右手に折れて、坂を下る。下りきった所は、千駄木二丁目交差点である。ここから不忍通を北に向かう。しばらく歩いて、団子坂下から左に上ると、そこは傾斜の強い団子坂で、上り切ったところに、森鴎外の旧宅観潮楼が記念図書館になっている。ここは前に見たのでパスして、団子坂下から逆方向の三崎坂さんさきざかを上る。このあたりはもう谷中で、付近には寺がたくさんあり、道の両側も煎餅屋、千代紙屋など、江戸情緒を感じさせる店が多い。坂を上り切って、谷中墓地に出る。このあたり、古い民家を改装したギャラリーとか、廃業した銭湯を使ったギャラリーなどがあり、ちょっとしたアート地区である。いかにも古そうな小さな中華料理店の店先で、愛玉子という看板を見た。オーギョーチーと読むらしい。ものの本によると、台湾に自生する桑科の植物で、その木の実から作った寒天のような食べ物のこともいうとある。あとで人に聞くと、年輩の人にはなつかしい食べ物のようだ。

 

無縁坂

 不忍池の西側、池之端には三菱財閥当主岩崎弥太郎のの広壮な邸宅があった。現在は、敷地の一画が池之端文化センターに、他の一画は最高裁司法研修所のコンクリートの建物に挟まれていて、往事の面影はない。こんな歴史的建築が残っている場所のすぐ隣に、無粋なコンクリートの建物を建てる神経は理解できない。

 岩崎家邸宅のうち現存しているのは、洋館の本館、和風の離れ、ビリヤード室の三つにすぎない。本館とビリヤード室が、コンドルの設計である。本館は現在、内部を修復中で見学はできない(現在は整備が終了して内部を見学できる)。岩崎家跡を出て、北に向かう。岩崎邸の立派な石垣が左手にずっと続いている。ひとつめの角を左に曲がると、無縁坂である。坂

無縁坂

の名前には、独特の風情を持つものが多いが、なかでも無縁坂は印象に残る名前である。男女の関係を思わせるが、仏教の臭いもする。坂の上にかつて無縁山法界寺というお寺があったのが、名前の由来らしい。そういえば、さだまさしの唄に「無縁坂」というのがあった。「忍ぶ不忍無縁坂 かみしめるような ささやかな僕の母の人生」という薄幸の母を唄った唄だった。

 無縁坂は「日本国語大辞典」にも載っている有名な坂である。それはひとえに、森鴎外の『雁』の重要な舞台として描かれたからである。この坂の上から三軒目の格子戸の家に、高利貸の末造の妾であるお玉という女性が住んでいる。お玉はこの坂を散歩する東大の医学生岡田に惹かれるが、岡田は洋行し、お玉の願いは実らずに終わるという小説である。舞台の無縁坂という名前が、悲恋に終わる結末を予告している。このあたりは戦災を受けなかったので、戦後も格子窓の古い造りの住宅が残っていたようだが、現在では岩崎邸の側には赤レンガ色のマンションが建っていて、小説に描かれたような昔の面影はない。その昔は、坂を上りきったところに、『雁』の主人公岡田がいつも通る東大の「鉄門」があったらしい。今では坂を上った道は何度か折れて、東大の龍岡門に続いている。坂の左手は延々と岩崎邸の石垣が続いていて、人通りも少なく、自分がほんとうに東京のど真ん中にいるのか疑わしくなってくるほど、寂しい坂道である。無縁坂という名が実にふさわしい。

 

岩崎邸とコンドル

 三菱財閥三代目当主の岩崎久彌が、現存する岩崎邸を建設したのは、明治29年である。久彌はこの屋敷で第二次大戦の終戦を迎えた。屋敷はアメリカ軍に接収され、キャノン機関の本拠地になったという説もあるらしい。戦後の財閥解体を機に、屋敷は岩崎家の手を離れた。現存する洋館の本館を設計したのは、ジョサイア・コンドルである。

旧岩崎邸本館
山小屋風の撞球室

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コンドルは明治政府の招聘を受けて明治10年に来日し、工部大学校造家学科(現在の東京大学工学部建築学科)初代教授を明治17年まで勤め、日本の建築学の母と呼ばれた人である。今回ちょっと調べてみて、来日したときコンドルが弱冠24歳だったことを知って驚いた。自分が教授として教えた学生と、それほど歳がちがわなかったことになる。ちなみにコンドルのあとを襲って造家学科教授となったのは、コンドルの一番弟子でのちの東京駅の設計者辰野金吾である。その辰野金吾の子息は、東大仏文科初代教授を勤め、多くの仏文学者を育てた辰野ゆたかその人である。

 コンドルが明治政府と契約していた間に建てた最も有名な建築は、外務卿井上馨の依頼による鹿鳴館であろう。コンドルは鹿鳴館の建築家なのである。しかし、彼は政府との契約が切れたあとも日本に留まって、建築事務所を開き、多くの建築を日本に残した。そのなかには神田のニコライ堂もあるが、建築事務所時代の最大の注文主が、三菱財閥の岩崎久彌なのである。コンドルは三菱家の建築家でもあったのだ。さて、岩崎邸の本館であるが、木造ジャコビアン様式と解説されている。ジャコビアン様式とは何か。ものの本によれぱ、イギリスの17世紀初頭、ジェームズ一世の治世(1603-1625)に流行したイタリア起源のルネッサンス様式だとある。19世紀イギリスのヴィクトリア朝に、このジャコビアン様式が、貴族のカントリーハウスのスタイルとしてもてはやされた時期があったらしい。ルネッサンス様式は、水平線を強調し左右に伸びる低層の翼と、等間隔に並ぶ窓のリズムが特徴である。コンドルはこの建物が岩崎久彌の私邸であることを考慮して、イギリスの郷士のカントリーハウスのような雰囲気にしたかったのだろう。現在内部は修復中で見学できないが(注 : 現在は内部を見学できる)、雑誌『東京人』19947月号に、建築史家藤森照信の探訪記が豊富な写真とともに掲載されている。写真を見たところ、内部は痛みが激しく、置いてある家具類も当時のものではないという。残念なことである。現在修復中というが、できるだけ往時の姿を忍ばせるような修復をしてもらいたいものだ(注 : 修復は完了して往時の姿に戻っている)。

 建物正面から東に回ると、ガラス張りのサンルームがある。竣工時にはなくあとで増築したらしい。南に回ると、本来ジャコビアン様式にはないテラスが一階にある。一見するとコロニアル様式のようにすら見える。コンドルは西洋様式建築の建築家だが、なぜか日本に建てる建物には、テラス・ベランダが不可欠だと考えていたふしがある。それはひとつには、日本の高温多湿の風土を考慮してのことだろう。もうひとつの可能性は、コンドルの日本・東洋びいきである。若きコンドルは建築修行をしたロンドンで、師のバージェスから日本趣味の洗礼を受けていた。来日して日本人を妻とし、河鍋暁斎に日本画を学んで、イギリスの土を踏むことなく日本で没して護国寺に墓のあるコンドルである。日本建築の縁側を見て、これをぜひ取り入れたいと考えたのかも知れない。

 実はコンドルの東洋趣味は、彼の明治政府の建築家としての失敗の原因となったようだ。現存しない鹿鳴館は、残された写真を見ると、二階のベランダに東洋風の柱があり、ヤシの葉模様のあるインド・イスラム様式を一部取り入れたものになっている。建築史ではその折衷性がすこぶる評判の悪い建物なのである。当時不平等条約改正を国是とし、西欧列強の仲間入りをしようと涙ぐましい舞踏会外交を続けていた明治政府が望んでいたのは、こんな東洋趣味の建物ではなく、バリバリの西洋風の建物だったはずだ。このあたりの事情を知りたい人は、畠山けんじ『鹿鳴館を創った男 お雇い建築家ジョサイア・コンドルの生涯』(河出書房新社)をお読みになるとよい。帯に「世界初のコンドル伝」とあり、読むとなぜ日本の建築学会の母のはずのコンドルが、日本で知名度が低いのかよくわかる。

 

東京大学と京都大学

 東京大学文学部に集中講義に招かれたとき、初めて本郷キャンパスのなかを歩きまわった。自分が働いている京都大学とのちがいにすぐ気がついた。建物の印象がちがうのである。

 東大の法文の古い建物はゴシック様式である。ゴシック様式は中世の教会建築に端を発し、天へ向かう強い精神性を感じさせるが、その反面、人の上にのしかかるようで威圧的でもある。本郷キャンパスの中核をなしているゴシック様式の建物群は、そのルーツをたどるとコンドルに行き着くのである。

東大の法文の建物
堂々たる図書館

 コンドルはさまざまな建築様式を使い分けたが、彼が修行した時代のイギリスは、ヴィクトリア朝でのゴシック・リバイバルのさなかであった。当然ながらコンドルもヴィクトリアン・ゴシック様式を得意としていた。明治政府は工部大学校造家学科教授であったコンドルに、東京大学建物再配置計画を依頼している。現在の東大のゴシック様式の建物群のルーツは、さかのぼればここにあるのである。

 一方、東大に遅れて明治30年(1897)に開学した京都大学の建物が徐々に建設されていった時代は、コンドルなどのお雇い外人の活躍はすでに終わり、その弟子たち日本人が建築家として活動していた時代である。現在記念館として改装中の京大のシンボル的存在である時計台の建物を始めとして(注 : 現在では改装は終了し、記念館として使われている)、京大の建物の多くを設計したのは、大正9年(1920)に創設された京都大学建築学科(現在の工学部建築学科)の初代教授の武田五一(1872-1938)である。武田はこの他にも京都市内に、府立図書館旧館(新館建設のためファサード保存という憂き目に会ってしまった)、京都市役所、旧毎日新聞社京都支局(現在、建築家若林幸広が所有し、アートコンプレックス1928として新しい文化の発信地になっている)、京都大学人文科学研究所旧館、同志社女子大学栄光館などを残している。

 武田五一は明治33年に欧州留学に出発し、かの地でアール・ヌーボーに出会って心酔し、マッキントッシュのいたグラスゴーにまで足を運んでいる。画家の浅井忠と1900年のパリ万国博というアール・ヌーボー運動の頂点をその目で見て帰国。日本で初めてアール・ヌーボーの建築を建てた人である。その後、京都大学教授に招かれ、同じく京都工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)のデザイン教授になっていた旧知の浅井忠とタッグを組んで活躍した。武田五一は大正時代に入ると、アール・ヌーボー熱がさめて歴史主義に回帰するのだが、一度アール・ヌーボーの洗礼を受けているので、作る建物にはどこか優しい感じが残る。アール・ヌーボーは草花のモチーフや植物的曲線を多様した、女性的で装飾的な様式である。男性的で直線的なゴシック建築とは対極にある。現在改装中の京大の時計台も、外壁にヤシの木のような装飾があったり、内装の細部に強いデザイン性が感じられ、どこにも威圧的なところがない。それは権威を嫌い自由を尊ぶ京都大学の学風とよくマッチしていると思う。