誰も彼もだれかの死後を揺れながらこの世の庭に実る野葡萄
村上きわみ『とてもしずかな心臓ふたつ』
本書は村上の第一歌集『fish』、第二歌集『キマイラ』に加えて、それ以後に発表された1,600首ほどから405首を選び、歌友の錦見映理子の編集によって上梓された遺歌集である。版元は左右社で、穂村弘、岡野大嗣、平岡直子、枡野浩一、田中槐が栞文に代えて一首評を寄せている。
村上が2023年にこの世を去ったことを私は不覚にも知らなかった。入手が困難になっている第一歌集と第二歌集に加えて、結社誌「未来」や題詠マラソンに投稿されて未刊行だった歌群が一冊に纏められたことは実に喜ばしい。錦見映理子の尽力の賜物である。錦見自身が使っている「歌友」という言葉がとてもよい。しかし村上と錦見は、短歌によって繋がっているだけの友人というだけではなかったようだ。あとがきによると、二人は2000年代の頃にネット掲示板で知り合ったという。その後、実際に顔を合わせるようになり、同じ「未来」に所属して、錦見は村上をたった一人の友人と思うようになったとある。
私は2003年の4月から短歌評をネットで書き始めた。当時は「今週の短歌」という味も素っ気もないタイトルである。その年の12月に村上の評を書いているので、最初期に書いたものの一つということになる。きっかけはその年の5月に創刊された『短歌ヴァーサス』に掲載された村上の「かみさまのかぞえ方」という連作を読んだことである。興味を引かれた私は『fish』を取り寄せた。ただし、私が入手したのはヒヨコ舎から刊行されたもので、今回の遺歌集では緑鯨社から出たオリジナル版を底本としているので、内容が一部異なる。短歌評をアップしてまもなく、村上から第二歌集『キマイラ』が郵便で送られてきた。同封されていたマン・レイのモンタージュ作品の絵葉書に、癖のある文字で短歌評へのお礼が綴られていた。また川柳作家のなかはられいこと共作の『まめきりん』という手作りの豆本も同封されていて楽しい驚きだった。この豆本は今でも愛蔵している。
今回『とてもしずかな心臓ふたつ』を通読して、改めて村上きわみは繊細な感性と鋭い言語感覚に恵まれた優れた歌人だとの思いを深くした。その言葉が創り上げる作品世界は静かで親密な手触りに満ちていて、個人的に私の好む世界でもある。今回村上の作品世界を旅して私の耳に届いたのは「押し殺した無音の叫び」だった。それは次のような歌に見え隠れするものだ。
それからは悲鳴のような沈黙のつづく静かなれんあいでした
(にくたいはいつなくなるの)樹木から今こんなにもしたたるしずく
街路樹を順に見送る どの木にもよく似た傷がつけられている
いま口をひらけばぬるい夕闇がどっとこぼれてしまうのだろう
ある朝はちぎれるように立ち上がり誰の名前を呼んでいるのか
親しさにも骨格はあり或る夜にふっと語られる希死のこと
その胸はしずかな沃野 傷口に赤ダリア白ダリア咲かせて
一首目の「悲鳴のような沈黙」は撞着語法(オクシモロン)だが、沈黙の中に押し殺した悲鳴が感じられると解する。二首目の(にくたいはいつなくなるの)は無音の叫びを括弧に括ることで言語化したものと思われる。その疑問文は作者村上のものでもあり、またその歌を読む人のものでもあろう。新緑の樹木からは生命のしずくが滴り落ちているのに、私たちの肉体はやがて滅びる定めにある。三首目の「見送る」は不思議な語法で、まるで街路樹が列をなして移動しているかのようだ。どの街路樹も傷を負っているのはこの世にあるからに他ならない。四首目にあるように、村上には「内部が開かれる」ことへの畏れがあったように思われる。口から夕闇がこぼれ出すというイメージは禍々しい。五首目では「ちぎれるように」が激しさと切迫感を感じさせる。誰かの名前を大声で呼んでいるのだが、おそらく答える声はないのだ。六首目、「親しさにも骨格はあり」とは、親しい間柄でも守るべき距離はあるということか。にもかかわらずふと口を突いて出るのは希死念慮の思いである。七首目、胸は沃野と言いつつ、ダリアを咲かせているのは血の滴る傷口である。このような歌を読んでいると、詩的空間の中に声のない叫びが満ちている思いがする。叫びたくなる理由は、私たちがこの世にあり、私たちの存在には終わりがあるからだ。
ここで村上が短歌の中で用いる言語の特徴について考えてみたい。村上が歌を綴る言語は見事なまでに詩的言語になりおおせている。日常言語と詩的言語の根本的差異は、言語学者ヤーコブソン (Roman Jakobson 1896-1982) の提唱する言語の6つの機能のうちの関説機能 (referential function) のちがいにある。平たく言えばそれは何かを指す (refer) はたらきである。日常言語は現実の出来事を指す。「私は昨日散歩中に犬に吠えられた」と言えば、それは私が体験した現実の出来事である。日常言語は現実ではないことも語ることがある。「いつかアマルフィに行きたい」は私の願望で、「昨夜の夢で私は空を飛んでいた」は夢の中の出来事で現実ではない。しかし私がそのような願望を抱いていることや、夢を見たことは現実であり、これらも広い意味で現実を指す言葉と言える。一方、詩的言語はこのような関説機能から解き放たれている。
堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。
金魚の影もそこに閃きつ。
伊東静雄がこのように詠っても、誰も〈私〉がほんとうに水中花を空に向かって投げたとも、そこに金魚の影が閃いたとも思わない。詩的言語は現実の位相から浮上して、意味を伝達するという有用性から自由になる。日常言語は意味を伝達すれば役目を終えて消滅するが、詩的言語は意味と引き替えに物質性を獲得するために消えることがない。詩や短歌はいつまでもそこに留まり、何度もの鑑賞に耐えるのだ。村上の短歌の言語はこのような意味で詩的言語たりえており、このため私たちは村上の短歌を読むとき、現実とは異なる「村上ワールド」にさまよいこむのである。
きざみのりふりかけるとき息を止めおかあさんおそろしいおかあさん
祖父の胡座であそぶ真冬日の煙管の羅宇がまだあたたかい
そしてすべてが父につながる悔しさを補遺とさだめて飲むふゆの水
死に近き時間をねむるはげしさも豊かさも母そのものなれば
ゆっくりと世界に別れを告げていた とても静かな絶唱でした
集中でわずかに親族を詠んだ歌があり、他の歌との位相のちがいが注目される。一首目は、袋から刻み海苔を振りかけるとき、飛ばさないように息を止める母が恐ろしいという歌だが、妙にリアリティがある。二首目の羅宇は、キセルの火口と吸い口をつなぐ竹の管のこと。祖父の膝で遊んだ記憶を詠んでいる。村上の父親の村上白郎は『新墾』『潮音』『樹氷』などに所属した歌人で歌集が二冊あるという。村上が短歌に手を染めたのは父親の影響からなのだ。しかし三首目では自分のすることのすべてが父親に繋がることを悔しく感じている。四首目は母親が亡くなったときの歌で、「父に」という詞書きを持つ五首目は村上白郎氏がこの世に別れを告げた折の歌である。
第二歌集『キマイラ』から引く。
名を告げあい名を呼びあって河口までひかがみに水匂わせてゆく
宇宙論冷えゆく真昼 すさまじき色に煮崩れゆくヘビイチゴ
花ミモザ咲きあふれ咲きこぼれして天金本の天汚すまで
パパに踏まれたプリンみたいにぼくたちは世界をにくむよりほかなくて
ニッポニアニッポンほろびさわさわと階に咲く少女らの臍
一首目の「ひかがみ」は膝の裏の窪みのこと。五首目のニッポニアニッポンは絶滅した日本固有種のトキ。村上から送ってもらい、今から22年前に読んだ『キマイラ』を書庫の奥から引っ張り出して、今回付箋の付いた歌と昔付けた付箋の歌とを較べてみた。するとすでに四半世紀近くの時を隔てているにもかかわらず、付箋を付けた歌のちがいは数首しかなかった。私の昔と今とを結ぶ世界線にブレがないことに安堵した。
『キマイラ』以後の歌から引く。
ひかりなす螺旋の溝につかのまの青をこらえて硝子のペンは
ただならぬことの次第を告げにゆく痩せた冬田に鳥を招いて
少しずつ遅れて響く真冬日の肉体というさびしい音叉
どの性もすこしふるえて立っているあおいうつしみ芯までひやし
戦から次のいくさへ春服の少女がこぼす焼き菓子の粉
こうして書き写して改めて気づいたことがある。村上の作歌の基本は口語(現代文章語)の定型なのだが、口語短歌につきまとう文型の単調さからうまく逃れている。特に結句の処理が単調になりがちだが、村上の歌の場合、上に引いた歌だけでも、「ペンは」の倒置法、「招いて」のテ形終止、「音叉」の体言止め、「ひやし」の連用止めなどの技法を駆使している。一方で前衛短歌によく見られる句割れ・句跨がりは少なく、定型をほぼ遵守している。口語(現代文章語)定型でこれだけの短歌が作れるというよいお手本である。また問と答の合わせ鏡(by永田和宏)のように上句と下句とが対比をなすような歌はあまり見られず、俳句によく見られる二物衝撃も少ない。一首全体で読み下す造りになっていて、一首全部で何事かを語っているのも特徴と言えるだろう。ルビが少ないのも言葉に余計な負荷をかけていない証拠だ。
やはり私にとって村上と言えば『fish』所収の次の歌だ。
出刃たてて鰍ひらけば混沌はいまだ両手にあふれるばかり
歌友錦見の尽力によって刊行された本書を手に取って、村上の短歌ワールドを訪れる人が門前市をなすことを願う。ちなみに神さまの数え方は「一柱」「二柱」である。