「フランス語100講」第3講 人称 (3)

〈1人称複数 nous

 1人称複数というのは問題の多い人称です。まずnousが複数の話し手をさすということはふつうありません。60年代の学園紛争が盛んな時代に、ヘルメット学生が声をそろえて「われわれは勝利するぞ!」と叫ぶ場合とか、小学校の卒業式で行われているシュプレヒコールで、先導者が「私たち卒業します」と言うと、卒業生全員が「私たち卒業します」と唱和するような場合にしか複数の話し手というものはありません。

 1人称複数にはふたつのケースがあります。〈私+あなた(方)〉つまり1人称+2人称の「私たち」か、〈私+彼(ら)/彼女(ら)〉つまり1人称+3人称の「私たち」のどちらかです。(1)が一つ目の場合で、(2)が二つ目の場合に当たります。

 

 (1) Toi et moi, nous serons toujours ensemble.

   君と僕はずっといっしょにいようね。

 (2) Ta mère et moi, nous pensons à ton avenir.

   お母さんも私もおまえの将来を考えているんだよ。

 

 言語学では聞き手を含む一つ目を「包括的 nous」 (nous inclusif)、聞き手を含まない二つ目を「排除的 nous」(nous exclusif) と呼ぶことがあります。言語によっては異なる語形を使うものがあるからです。(注1)日本語でも、「私ども」とか「手前ども」と言うときは、「ども」が謙譲を表すので、聞き手を含まない排除的な人称詞になります。

 実はフランス語にも同じような現象があるのです。nous や vous に autres を付けた次のような表現です。

 

 (3) Nous autres Allemands, nous avons l’habitude de juger les hommes

        d’après leurs œuvres. Nous possédons le goût du travail pour lui-même.

                                    (Ernst-Robert Curtius, Essai sur la civilization en France)

  私たちドイツ人は、人を評価するときに、その人がなし遂げた業績を重んじ

  るきらいがある。私たちドイツ人は仕事自体を好むのだ。

 

 著者のクルチウスはドイツ人で、この文章は「私たちドイツ人」nous autres Allemandsと「あなた方フランス人」vous autres Françaisとの国民性のちがいを論じています。この nous autres は聞き手を含まない排除的な1人称複数です。これを知らないと「私たち他のドイツ人」などと訳しかねませんね。

 1人称複数が孕むもうひとつの問題は、nous のさす範囲が大きくなったり小さくなったりして、変幻自在だという点にあります。次の例のような哲学の文脈では、nous は人間一般を広く指します。これが nous の取り得る最大値でしょう。

 

(4) Nous ne voyons pas les choses mêmes ; nous nous bornons, le plus souvent,

     à lire des étiquettes collées sur elles. Cette tendance, issue du besoin, s’est

    encore  accentuée sous l’influence du langage.           (Henri Bergson, Le rire)

 私たちは物自体を見ていない。たいていは物に貼られたラベルを見ているのだ。必要

 から生まれたこの傾向は、言語の影響を受けてさらに強まった。

 

 では次の文章ではどうでしょうか。

 

 (5) Notre civilisation est une somme de connaissances et de souvenirs accumulés

        par les générations qui nous ont précédés. Nous ne pouvons y participer qu’en

       prenant contact avec la pensée de ces générations. Le seul moyen de le faire et

      de devenir ainsi un homme cultivé, est la lecture.       (André Maurois, Les livres)

 われわれの文明は先人たちが積み重ねた知識と記憶の集合体である。先人たちの思想に

 触れることなくしては、文明に参画することはできない。先人たちの思想に触れて教養

 ある人士となる唯一の方法は読書である。

 

 この例の nous を広く取れば「人類全体」になります。しかし文字を持たず、本というものがない民族もあるので、人類全体と取るのは多少抵抗を感じます。著者はフランスを含むヨーロッパを中心に考えているようにも思えますね。もしそうだとすると nousは 西欧文明に属する人たちということになります。 

 このように nous は民族や地理といった要因によって伸び縮みするので、単に「私たち」と訳すのは危険です。それだけではありません。時間の影響も受けるのです。次の例の所有形容詞 notre の背後にいる nous は現代に生きる私たちです。ですから過去の人は含みません。

 

 (6) Paul Morand, qui est sans doute l’un des observateurs les plus pénétrants de

       notre époque, a fait remarqué que le XXe siècle n’avait inventé qu’un seul vice

       nouveau, la vitesse.                                (André Siegfried, Aspects du XXe siècle)

 おそらく現代で最も洞察力のある批評家であるポール・モランは、20世紀が生み出し

 た悪習はひとつしかないと指摘した。それはスピードである。

 

 たぶん nous の取る最小値は次のような表現でしょう。

 

 (7) Entre nous, je vais quitter la boîte le mois prochain.

   ここだけの話だが、私は来月会社を辞めるんだ。

 

nous は本や論文の著者をさすときにも使います。「著者の nous」 (nous d’auteur) とか「謙遜の nous」(nous de modestie)といいます。この場合は「私たち」と訳してはいけません。君主や枢機卿など高位の人が自分をさすときにも使い。これを「威厳を表す nous」(nous de majesté)といいます。

 

 (8) Hormis de légères retouches intégratives et une réunion des références mises

        à jour dans une bibliographie générale, nous ne leur (=les sept travaux qui

        constituent ce recueil) avons volontairement pas apporté de remaniements.

                                               (Georges Kleiber, Anaphores et pronoms, Duculot, 1994)

 用語の統一などの軽微な修正と、参考文献を最新のものにしてひとつにまとめた以外

 は、私は本論文集に収録した7つの論文にわざと手を加えずそのまま掲載した。

 

 ただし、最近は著者のnousに代わってjeと書く人も増えてきました。この用法で属詞が形容詞や過去分詞のときは単数形にします。さしているのは一人の人だからです。さしている人が女性のときは女性形になります。

 話し言葉では nous は親愛の情をこめて tu の代わりに使われることもあります。

 

 (9) Avons-nous été sage ? お利口にしてたかな。

 

〈2人称複数 vous

 ていねいに一人の聞き手をさす用法以外に、vousには主に文章で読者一般をさす用法があります。英語のyouと同じですね。

 

 (10) Damandez à plusieurs personnes de vous expliquer ce qu’est le temps. Vous obtientrez probablement autant de réponses différentes.

何人かの人に「時間とは何ですか」とたずねてごらんなさい。たぶんたずねた人の数だけ異なる答が返って来ることでしょう。

 

〈3人称複数 ils / elles

 さしているのがすべて男性の場合は男性複数の ils、すべて女性のときは女性複数の elles になるのは当然です。しかし男性と女性が混じっているときは ils を使うことに違和感を感じる人もいることでしょう。言語学では男性と女性の対立が中和されると考え、この ils を男性ではなく「通性」と呼ぶことがあります。とはいうものの、99人の女性と1人の男性の集まりでも ils になるのですから、ジェンダー的には問題と言えるかもしれません。

 男性複数形の ils にはちょっと特殊な使い方があります。先行詞なしで使う次のような例です。

 

 (11) Ils ont encore augmenté les impôts.

   あいつらまた税金を上げやがった。

 

 この用法では話し手も聞き手も含まずに不特定の人をさし、「当局、その筋」などのお偉方を意味することが多いようです。同じく不特定の人をさす代名詞に on がありますが、on は話し手や聞き手を含むこともあるので、この点で ils と使い分けされています。

 

〈人称の転用〉

 人称代名詞はそれがさしている本来の人称以外の人称に転用されることがあります。上の (9) で挙げた tu の代わりに使われる nous もそのひとつです。

 近年のフランス語学の研究で注目されているのは1人称の je の次のような使い方です。(注2)次の例の動詞validerはもともとは「有効なものにする」という意味です。

 

 (12)[路線バスの表示]

         Je monte (直訳)私は(バスに)乗車する

         Je valide (直訳)私は(切符に)打刻する

 

 パリの街を走る路線バスは、1時間半以内ならば同じ切符で乗り換えができます。このため乗車したら切符を機械に差し込んで、乗車時刻を印字しなくてはなりません。これを怠ると高額の罰金を取られることがあります。(12)を日本語風の言い方にすると、「バスに乗車したら切符に時刻を印字しましょう」とでもなるでしょうか。

 (12)の je は誰をさしているのでしょうか。主語 をon に変えて On monte, on valide.とすることもできます。on は漠然と人一般をさす代名詞ですから、こう書き変えると、切符に印字するのは誰にでも求められていることだということになります。ところが je は人一般をさす代名詞ではありません。ではどうして (12)が乗客一般に当てはまる標語になるのでしょうか。それは今まさにバスに乗車しようとしている人が、この標語を読むことによって自分を je の立場に置くからだと考えられます。つまり乗車という状況が持つ場面の特定化によって、パスに乗る人がjeの立場に立つのです。je が人一般を表す代名詞ではないのに、乗る人すべてをさすように見えるのはこのようなメカニズムによると考えられます。次の例も同様です。(注3)

 

 (13) J’AIME MON QUARTIER (直訳)私はこの町が好きです。

          JE RAMASSE        (直訳)私は(犬の糞を)拾います。

 

 パリの公園などにある注意書きです。この標語は犬を散歩させている人に、糞を拾って持ち帰るように呼びかけています。この場合にも犬を散歩させているという場面の力によって、散歩させている人がこの標語の je に当てはまる立場であると理解するのです。

 しかしjeは話し手をさす代名詞ですが、公園でこの注意書きを読む人は発話していません。発話行為によって定義づけられているはずの1人称代名詞なのにどういうことなのでしょう。

 上の注意書きは2人称を用いて、Si vous aimez votre quartier, vous ramassez.「あなたがこの町が好きなのならば、糞を拾いましょう」とすることもできます。こうすると、標語を書いた当局の人から、犬を散歩させている「あなた」への呼びかけとなり、ふつうの依頼の表現です。しかし je を用いた標語を読む人は、「読む」という行為を通して自分を潜在的な話し手の立場に置くのではないかと考えられます。文章を読むときは、実際には声を出していなくても、心の中で音読していますよね。こうして潜在的な話し手の立場に置かれた人は、vousを使った標語よりもずっと強い強制力を感じるのではないかと思います。標語に je を使う のはこのような理由によるのではないでしょうか。

 

(注1) インド亞大陸の南部で話されているドラヴィダ諸語やオーストラロネシア諸語では包括的nousと排除的nousを区別している。

(注2)フランス・ドルヌ「偽装された命令 Je monte, je valide」、川口順二編『フランス語学の最前線』第3巻特集「モダリティ」、ひつじ書房、2015.

(注3)泉邦寿「一人称のレトリック的用法について」『川口順二教授退任記念論文集』2012. https://shs.hal.science/halshs-01511628

 この用法は牧彩花「一人称詞を用いた引用表現に潜む『声』」、阿部宏編『物語における話法と構造を考える』ひつじ書房、2022でも詳しく論じられている。

「フランス語100講」第2講 人称 (2)

〈1人称単数 je

 1人称は話し手をさし、話し手が男性でも女性でも、子供でも老人でも使うのはjeです。これは考えてみると驚くべきことではないでしょうか。

 日本語ではニュートラルな「私」の他に、男性は「僕」「俺」「わし」、女性は「あたし」「うち」などと自分を呼び、性別によって異なる語を使うことがあります。多少文語的ですが、その他にも「吾輩」「小生」などもあります。警察官は自分のことを「本官」、役人は「小職」などと言いますし、天皇や国王専用の「朕」という代名詞まであります。なぜ日本語にはこんなにたくさん1人称代名詞があるのでしょうか。

 日本語でさらに驚くべきなのは、相手が誰かによってちがう代名詞を使うことです。同じ人が会社で上司に話すときは「私」と言い、同僚と話すときには「僕」と言い、家で家族と話すときには「俺」と言ったりします。相手によって自分をさす人称代名詞を使い分ける言語はとても珍しいのです。

 さらにおもしろいのは、本来は代名詞ではない役割名詞を用いて自分をさすことです。学校で生徒に話すときには「先生はこう思うよ」と言い、家で子供に話すときには「お父さんはうれしいな」と言います。靴紐が結べないよその子供に「おばさんが手伝ってあげる」と言うこともあります。こういうものまで人称代名詞と呼ぶことはできないでしょう。「人称詞」や「自称詞」あたりが適切ではないでしょうか。

 フランス語ではいついかなる場合でも話し手は je なのに、日本語では場面や話し相手によって人称詞がころころ変わるのはなぜでしょうか。それはフランス語の人称代名詞と日本語の人称詞では担っている機能がちがうからです。

 フランス語の人称代名詞 je には、大きく分けて二つの機能があります。意味的機能は「話し手をさす」ことで、文法的機能は「動詞の活用を支配する」ことです。je にそれ以外の機能はありません。一方、日本語の1人称詞「僕」「私」には、「話し手をさす」という意味的機能はありますが、「動詞の活用を支配する」という文法的機能はありません。主語が「僕」でも「君」でも動詞の形は変わらないからです。

 そのかわり日本語の人称詞にはフランス語の人称代名詞にはない働きがあります。それは語用論的機能、とりわけ対人的機能です。語用論的機能(fonction pragmatique)というのは、言葉が使われる「場面」を言語に反映することをいいます。改まった場面なのか、くだけた場面なのかというちがいが人称詞の選び方を決めます。対人的機能とは、話し手と聞き手の人間関係にかかわるものです。相手に対する敬意やていねいさや親愛の情や侮蔑を表す働きで、これも人称詞の選び方に影響します。親しくない人には「私」と言う人が、家に帰れば家族に「俺」と言うのがそれです。教室では教師という社会的役割が前面に出て自分を「先生」と呼び、家庭では親子関係に基づいて自分のことを「お父さん」と言ったりします。日本語ではこのように「場面」が大きな語用論的機能を担っています。日本語は文法がすべてを決める言語ではなく、文法の外にある場面や対人関係が言葉の選び方に強く働く言語なのです。

 

〈2人称単数 tu と複数 vous

 フランス語では珍しく2人称には日本語とよく似た語用論的機能があります。親疎の区別です。家族や友人などの親しい間柄では tu を、初対面の人や目上の人にはたとえ相手が一人でも複数形の vous を用います。

 なぜ1人称にはなかった語用論的機能が2人称にはあるのでしょうか。それは2人称が聞き手をさす代名詞だからです。自分をどう呼ぶか以上に、相手をどう呼ぶかは対人関係において重要です。ヨーロッパの言語には2人称で親疎の区別のあるものが多く、英語にも昔は thou〜youの区別がありましたが、消えてしまいました。

 では tu の複数形の vous を使うとどうしてていねいになるのでしょうか。ていねいさを表す鍵は「相手を直接さすことを避ける」ことです。では相手を直接ささないためにはどうすればよいでしょうか。やり方は二つあります。「ぼかす」か「ずらす」かです。相手が一人でも複数形を用いるのはぼかすためです。イタリア語では「ずらす」ことを選び、2人称の代わりに3人称代名詞を使います。フランス語でも特殊な場合には3人称を使って敬意を表すことがあります。国王に話しかけるとき Votre Majesté partira quand elle voudra.「陛下におかれましてはいつでもご出発くださいますように」(注1)のように3人称を使って国王を直接さすのを避けます。また昔は召使いが雇い主に話すとき Madame est servie.「奥様、お食事の支度が調いました」と言って、主人に3人称を使っていました。

 教室ではよく tu は日本語の「君」や「お前」に当たると教えます。これはまずまず正しいでしょう。しかし神様に呼びかけるときには tu を使うので、少し感覚がずれるところもあるようです。困るのは vous ですね。便宜上、教室では vous には3つの意味があって、tu の複数の「君たち」「お前たち」、ていねいな単数の「あなた」、ていねいな複数の「あなた方」であると教えます。しかしほんとうはこれはとてもまずいのです。というのは日本語ではていねいに目上の人を呼ぶときに、決して「あなた」とは言わないからです。会社で社長に向かって「あなた」と言ったらクビになりかねません。日本語ではていねいな vous に相当する人称詞はないのです。それに代わって「部長はどうお考えですか」とか、「先生は明日大学にいらっしゃいますか」のように、「部長」や「先生」などの役職名を使います。日本語は相手を直接さすことをとても嫌うのです。これもまた日本語が文法のみによって駆動される言語ではなく、場面や人間関係などの語用論的配慮が強く働くことを表していると言えるでしょう。

 留学中にパリ第8大学(Université de Paris VIII–Vincennes、現在はUniversité Paris VIII-Vincennnes-Saint-Denis)の授業に出たときは驚きました。学生が先生に話しかけるときに tu を使っていたのです。第8大学は5月革命の後に実験校として設立された大学で、とても自由な校風だったのですね。

 

〈3人称単数 il / elle

 3人称代名詞がさす対象は人と物と非人称に分かれます。フランス語には英語の it のような物専用の代名詞がないので、非人称には男性単数形の il  を使うのは周知のとおりです。非人称についてはまた別の所でお話します。

 il / elle が物をさすときは特に問題ないのですが、問題は人をさすときです。次の例を見てみましょう。

 

     (1) En ouvrant la porte, elle crut que ce vendredi serait semblable aux autres, ni plus gai, ni plus triste ; pourtant, elle ne devait jamais, par la suite, oublier ce jour où se déclencha la machination. Elle se pencha pour ramasser l’hebdomadaire posé en équilibre sur la bouteille de lait, referma la porte et se dirigea vers la cuisine en traînant ses savates.

                          (Catherine Arley, La Femme de paille)

ドアをあけながら、その日が金曜であったことに気づいた。彼女はすべての策謀が始められたこの日を、あとになると決して忘れることができなくなる。しかし、今はそれを知る由もなかった。その日も、ただ、一週間のうちの単なる一日であり、ほかの日よりも悲しくも嬉しくもなかった。彼女は、身をこごめて、牛乳瓶の上に、落ちないようにうまく置いてあった週間新聞をとりあげると、ドアをしめ、スリッパをひっかけ、台所へ入った。           

       (カトリーヌ・アルレー『わらの女』安藤信也訳、創元推理文庫)

 

 最初の elle は訳されていませんが、2つ目以降の elle は全部「彼女」と訳されています。このような翻訳も多いのですが、少し年配のベテラン翻訳家だと次のようになっています。(注2)英語の例ですが事情は同じです。

 

     (2) ‘Unsolved mysteries.’

     Raymond West blew out a cloud of smoke and repeated the words with a kind of deliberate self-conscious pleasure.

   ‘Unsolved mysteries.’

   He looked round him with satisfaction. The room was an old one with broad black beams across the ceiling and it was furnished with good old furniture that belonged to it. Hence Raymond West’s approving glance. By profession he was a writer and he liked the atmosphere to be flawless.

    (Agatha Christie, The Thirteen Problems, “The Tuesday Night Club”)

「迷宮入り事件」  

 レイモンド・ウェストは、タバコの煙をパッと吐きだしてくりかえした。ゆっくり味わいかえしているようなうれしそうな口調だった。 

 「迷宮入り事件」

 レイモンド・ウェストは満足そうに一座を見まわした。古風な部屋だった。天井には太い黒っぽい梁がわたされ、部屋相応にどっしりした古めかしい家具が置かれている。レイモンド・ウェストが好ましげに眺めたのもむりはなかった。レイモンド・ウェストは作家だった。

      (アガサ・クリスティー『火曜クラブ』中村妙子訳、ハヤカワ文庫)

 

 この訳では原文で he となっているところを全部「レイモンド・ウェスト」としています。私もそうなのですが、人によっては人称代名詞の il / elle や  he / she を「彼」「彼女」と訳すことに抵抗を感じます。それはなぜでしょうか。それは日本語の「彼」「彼女」の歴史に由来します。

 古語で「彼」は遠い所にあるものをさす遠称の指示詞でした。「たそがれ」という表現は、元は「誰そ彼」で、「あの人は誰だろう」を意味し、人の顔の見分けがつかない夕暮れをさします。この意味は現代語でも「山の彼方」という言い方に残っています。「彼方」というのは遠い場所という意味ですね。また多くの言語で遠称の指示詞は、話し手も聞き手も知っているものをさします。現代日本語の遠称の指示詞は「あの〜」や「あれ」ですが、部長が部下に「山田君、あの件はどうなった?」と言うときは、「あの件」がさすものは部長さんにも山田君にもわかっているのです。同じように古語の「彼」は共有知識に属するものを指していました。この意味は現代日本語にもかすかに残っていて、次のような場合には「彼」は使えません。(注3)例文の (*)記号は非文法的な文であることを表しています。

 

     (4) Aさん : イタリア語の翻訳ができる人を探しているんだけど、誰か知らない?

           Bさん : 僕の知り合いに澤口さんという人がいて、イタリア語が得意ですよ。

     Aさん : じゃあ、{その人 / *彼}に頼もうかな。

 

 Aさんは澤口さんを知らないので「その人」と言わなくてはならず、「彼」を使うことはできません。このような感覚を今でも持っている人は、小説の翻訳で il / elle を「彼」「彼女」と訳すのに抵抗を覚えるのです。日本語ではフランス語のように同じ単語の繰り返しを嫌わないので、Paulを受ける代名詞 il を「彼」と訳さずに、「ポール」と繰り返すか、もっとよいのは省略することです。

 

     (5) Paul avait sommeil ; il n’avait pas bien dormi la veille.

    ポールは眠かった。昨夜はよく眠れなかったのだ。

 

 そもそも il を「彼」と訳すことができないケースも少なくありません。たとえば先行詞が「神」のときがそうです。

 

     (6) Dieu sait tout. Il connaît non seulement les moindres détails de nos

             vies, mais aussi de celles de tout notre entourage.

   神はすべてをご存知である。神は私たちの暮らしの細かいことのみならず、

   私たちのまわりの人たちの生活の細部までもご存知である。

 

 もし教室で学生が「彼」と訳したら、「君は神様とそんなに親しいのですか」とからかいたくなるところです。「彼」は本来よく知っている人をさすからです。

 次のように先行詞が総称の場合も問題になります。

 

     (7) Tandis que le Français, lui, trouve indigne de porter atteinte à un certain

          équilibre entre le travail et l’oisiveté. Il veut jouir de la vie, fût-ce de la

         façon la plus modeste.

                     (Ernst-Robert Curtius, Essai sur la civilisation en France)

  一方、フランス人は仕事と余暇のあいだのほどよいバランスを壊すのは適切で

  はないと思っている。フランス人はたとえささやかであっても人生を楽しみた

  いのだ。

 

 「彼」は特定の人しかさすことができないので、「フランス人一般」をさす総称の il を「彼」と訳すことはできません。

 次のように先行詞が不定代名詞のときも同様です。もしこの例で il を「彼」と訳したら、それは特定の人をさすことになってしまいます。

 

     (8) Personne ne croit qu’il est malade.

         自分が病気だと思う人は誰もいない。

 

 この例で従属節の il は特定の人をさすのではなく、主語のpersonneのとる値に連動してさすものが変化します。このような代名詞を統語的代名詞 (英 syntactic pronoun)と呼び、先行詞がPaulのように特定の人のとき、それを受ける代名詞 il を語用論的代名詞 (英 pragmatic pronoun) と呼ぶことがあります。(注4)日本語の「彼」は特定の人をさす語用論的代名詞で、統語的代名詞に当たるものはありません。(注5)このようにフランス語の il / elleと日本語の「彼」「彼女」は異なる点が多いのです。                                                                     (この稿次回につづく)

 

(注1)『小学館ロベール仏和大辞典』

(注2)中村妙子さんはC.S.ルイスやアガサ・クリスティーの翻訳で知られる翻訳家である。私はパリで一度お会いしたことがある。

(注3)田窪行則「名詞句のモダリティ」、仁田義雄、益岡隆志編『日本語のモダリティ』(くろしお出版、1989)などに詳しい。

(注4)Bosch, Peter, Agreement and Anaphora. A Study of the Role of Pronouns in Syntax and Discourse, Academic Press, 1983に詳しく論じられている。

(注5)例(8)の訳の「自分」を統語的代名詞とする見方もある。           

「フランス語100講」第1講 人称 (1)

 フランス語を学び始めると、すぐに動詞の活用が出てきます。動詞の活用語尾は人称と数によってちがうと習います。次は最初に習う第1群規則動詞aimerの直説法現在形の活用です。

                      単数             複数

       1人称    j’aime              nous aimons

       2人称   tu aimes          vous aimez

       3人称   il / elle aime   ils / elles aiment

 でもどうしてフランス語の動詞の語尾は人称と数によって形がちがうのでしょうか。日本語では次のように主語の人称や数によって動詞の形が変わることはありません。

       1人称 私は歩く。

       2人称 君は歩く。

       3人称 田中さんは歩く。

 疑問を抱くのは当然ですが、教室で先生に質問するときっと煙たがられるでしょう。この疑問に答えるのはなかなか難しいからです。

 英語やフランス語やドイツ語などのヨーロッパの言語(まとめてインド・ヨーロッパ語、または印欧語と呼びます)は文法を作る過程で人称という概念を深く組み込みました。それは「誰がするのか」、つまり行為の主体を重んじる考え方があったからだと考えられます。フランスでは、サン・テグジュペリ空港(Aéroport Saint-Exupéry リヨンの旧サトラス空港)とかヴィクトル・ユゴー広場(Place Victor Hugo 全国にあります)のように、公共施設や通りに個人の名前を付けることが多いのですが、これも業績を個人に帰する考え方が根付いているからです。一方、日本ではオリンピックで金メダルを獲ったとき、「支えてくれたスタッフや応援してくれたみなさんのおかげです」などと言って、栄誉を分散し個人が突出することを嫌います。ですから日本では佐藤栄作空港とか、志賀直哉通りのような命名はなじみません。日本語はこのような日本人の心性を反映して、「誰がするのか」をあまり表に出さない文法を作り上げました。日本語に見られるこの「行為主体の背景化」は、これからも「フランス語100講」のあちこちで話題になることと思います。

 人称が1人称・2人称・3人称の3つしかないのはなぜかというのも疑問と言えば疑問です。(注1)この問題を考えると、「人称とは何か」という奥深い問題に突き当たります。ちょっと考えてみましょう。

 まず1人称とは何でしょうか。それは「話している人」です。もしPaul君が « Je mange au resto-U. »「僕は学食で食べるよ」と言ったとしたら、jeはPaul君をさします。2人称は「話しかけられた人」です。Paul君がJeanneさんに « Je t’aime à la folie. » 「僕は君のことが死ぬほど好きなんだ」と言ったとしたら、t’ (te)はJeanneさんをさします。つまりjeとtuが誰をさすかを決めているのは「話す」という行為です。話す行為を言語学では「発話」(énonciation) と呼びます。1人称と2人称はこの発話の場に参加している人をさすのです。

 これにたいして3人称は発話の場の外にいる人・物をさします。

 

       (1) Tu sais que Paul va au Japon ?

   ポールが日本に行くって知ってる?

       — Ah, oui. Il est amoureux d’une Japonaise.

   ああ、あいつ日本女性にお熱なんだよ。

 

 上の会話ではIl (=Paul) はその場にいない人です。その場にいる人をさして il / elleを使うと失礼だとされるのはこのためです。その場にいる人をあたかもいないかのように扱うことになるからです。

 ここから重要な事実を導くことができます。私たちは1人称・2人称・3人称と並べて考えがちですが、{1・2 人称}と{3人称}のあいだには大きな断絶があるのです。両者はまったく異なる原理によって定義されているからです。{1・2 人称}は「発話行為」によって定義されますが、{3人称}はそうではありません。

 このことに改めて私たちに注意を促したのは、フランスの言語学者エミール・バンヴェニスト (Émile Benveniste 1902〜1976) でした。バンヴェニストは次のように書いています。(注2)

「われわれの用語法から人が考えがちなこととは反対に、これらの人称[=1人称、2人称、3人称]は均一なものではない。これがまず初めに明らかにされねばならない点である。(…)人称は《わたし》と《あなた》の立場にのみ本来的なものであるということが結論される。三人称とは、その構造自体によって、動詞屈折の非=人称形なのである」  (「動詞における人称関係の構造」)

「それでは、わたしまたはあなたが指向する《現実》とは何か? それはもっぱら《の現実》なのであるが、これはきわめて特異なものである。わたしは、名詞的記号の場合のように対象の用語ではなく、《話し方 locution》の用語によってしか定義することができない。(…)こうして、代名詞という形の上の類のなかで、《三人称》といわれるものは、その機能と性質から、わたしあなたとは完全に異なったものなのである。」  (「代名詞の性質」)

 上の引用の《の現実》の「話」とは paroleのことですが、発話 (énonciation) と置き換えてもかまいません。locutionも同じものを指しています。要するに、「jeとtuは発話行為によって定義されるが、il / elleはそうではなく、人称と呼ぶのは適切ではない。非=人称 (non- personne)と呼ぶべきだ」ということです。

 ここでひとつの疑問が頭に浮かびます。1・2人称を定義しているのは「発話行為」ですが、もし3人称が発話行為に基づかないならば、3人称を定義しているのは何でしょうか。

 ここでまた新しい用語を導入しましょう。「直示」(deixis)と「照応」(anaphore) です。直示とは、何かを指差して Donnez-moi ça.「これ下さい」と言うときの指示代名詞çaのように、外界にある物を直接にさすことをいいます。これにたいして、Il y a une pomme dans le frigo. Tu peux la manger.「冷蔵庫にリンゴがあるよ。それを食べてもいいよ」と言うとき、人称代名詞の la は前に出てきた une pommeをさしています。これが照応です。直示は目の前にあるものを直接にさし、照応は先行文脈にあるものをさします。イギリスの言語学者ハリディとハサンの書いた本(注3)では、直示は「外界指示」(exophore)、照応は「内部指示」(endophore) とも呼ばれています。直示がさすものは外の世界にあり、照応がさすものは言葉の中にあるからです。

 1・2人称の代名詞は、指差しこそしませんが、発話行為を媒介として話し手・聞き手を直接にさすので直示的です。jeとtuには直示的用法しかありません。ですから「代名詞」(pronom)という呼び方は、ほんとうはふさわしくないのです。「名詞の代わり」に使われるのではないからです。

 一方、3人称は前に一度話題になった単語を受ける照応用法が基本です。これがほんとうの「代名詞」です。

 

       (2) Ce matin, j’ai vu Paul. Il était avec une étudiante italienne.

        今朝、僕はポールに会った。彼はイタリア人の女子学生といっしょだった。

 

 上の例文の Ilは前の文のPaulをさしています。このときPaulを人称代名詞ilの先行詞 (antécédent) といい、Paul → il の指示のバトンタッチを照応過程と呼びます。ここからわかるように、3人称の代名詞 il / elleの指示を定義しているのは、1・2人称のように発話行為ではなく、先行詞を含む先行文脈という言葉の世界なのです。

 これでなぜ3人称の代名詞だけが物もさすことができるのかがわかります。

 

       (3) Voici mon sac ; il est noir. — Voilà ta serviette ; elle est grise.

   ここに私のかばんがあります。それは黒いです。あそこに君の書類

   かばんがあります。それは灰色です。

 

 この例文は、3人称代名詞は物もさすことがあり、先行詞の名詞の性と一致することを示すためのものです。(注4)3人称の代名詞は照応により、先行文脈の名詞を受けるので、もし先行詞が物を表す名詞なら、il / elleも物をさすことができるわけです。

 残る問題は、はたして3人称代名詞は直示的に用いることができるかという疑問です。3人称の il / elleに外界指示用法はあるのでしょうか。この点については文法書にはあまりはっきりと書かれていません。ただし目黒士門『現代フランス語広文典』(白水社)には、3人称代名詞は照応が基本であり先行詞を持つとしたあとで、「ある場面ですでに了解されている人やものを指す」として指呼的用法があると書かれています。次がその例文ですが、どういう場面なのか書かれていないのでよくわかりません。

 

       (4) Elle est très fatiguée.  彼女はたいへん疲れている。

       (5) Il n’a pas tort de se plaindre.  彼が文句を言うのはもっともだ。

 

 留学中にソルボンヌ大学 (Université Paris-Sorbonne)の図書館でコピー機に並んでいた時、私の前でコピーをしていた学生が振り向いて次のように言ったことがあります。

 

       (6) Elle ne marche plus. こいつ故障しちゃったよ。

 

 代名詞のElleが la photocopieuse「コピー機」をさしているのは明らかです。これが目黒先生のご本に書かれていた「ある場面ですでに了解されている人やものを指す」用法ですね。

 しかしここで考えてみましょう。3人称代名詞のelleはその場にあるコピー機を直接さしているのでしょうか。それはありえません。なぜならコピー機に性別はないからです。性別があるのはコピー機ではなく、photocopieuseというフランス語の単語です。ですからelleは口には出されなかったla photocopieuseという先行詞を受けていると考えざるをえません。それらならばこれは直示の用法ではなく、照応の用法ということになるでしょう。

 「真の代名詞には必ず先行詞がある」と強く主張するのはベルギーのアントワープ大学のタスモフスキー教授です。(注5)私はこの考え方に賛成なのですが、ひとつ問題があります。コピー機の話のときに、物には性別はないと書きました。しかしさしているのが人ならどうでしょう。人には性別があります。次のような例がすぐ思いつきます。

 

       (7)[高校の校長室のドアをノックしようとしている人に]

          Vous ne pouvez pas le voir. Il est en vacances.

      彼には会えませんよ。休暇中です。

 

 この場合、隠れた先行詞 le proviseur「校長」があるのだとすることも可能でしょう。しかしタスモフスキーはよく似た例で、もし校長が女性だったら Vous ne pouvez pas la voir. Elle est en vacances.のように、女性形の代名詞 laelleの方が好まれるとしています。この性の一致は先行詞との一致ではなく、代名詞がさしている人の性別との一致です。困ったタスモフスキーは、代名詞がさしているのが人の場合、 [homme] / [femme]という隠れた先行詞があるのだと主張していますが、いかにも苦しい説明ですね。3人称代名詞に直示用法があると認めているのとほとんど同じです。

 「代名詞が先行詞なしで使われたときは必ず人をさす」というのは、これからも何度かお話することになる話題です。目黒先生の文法書の例 (4) (5) がどちらも人をさす例なのは偶然ではないのです。             (この稿次回に続く)

 

(注1)言語学では第4人称という用語が使われることがある。しかしこれは1・2・3人称以外に人称があるということではなく、間接話法の主語の指示にかかわる問題である。次の文で従属節の主語elleは主節の主語のClaireを指す。

   i) Claire a dit qu’elle avait fait ses devoirs. クレールは宿題を済ませたと言った。

 もしクレールがマリーを指して「彼女は宿題を済ませた」と言ったとしても、それを間接話法にしてi)のように言うことはできない。言語によってはクレールとは別の人を指す代名詞があり、それを第4人称ということがある。これは間接話法における話者指示 (logophore) の問題であり、もうひとつ人称があるということではない。

(注2)Problèmes de linguistique générale , Gallimard, 1966、岸本通夫監訳『一般言語学の諸問題』みすず書房、1983.

(注3)M.A.K.Halliday & R. Hasan, Cohesion in English, Longman, 1976, 安藤貞雄訳『テクストはどのように構成されるか – 英語の結束性』ひつじ書房、1997.

(注4)京都大学フランス語教室編『新初等フランス語教本 文法編』白水社.

(注5)Tasmowski-De-Ryck, Liliane et S. Paul Verluyten, “Linguistic control of pronouns”, Journal of Pragmatics 1 (4), 1982 ; Tasmowski, Liliane et S. Paul Verluyten “Control machanisms of anaphora”, Journal of Semantics 4, 1985.

『フランス語100講』開講のお知らせ

 2025年4月から「橄欖追放」で『フランス語100講』を開講することにしました。

 『フランス文法総まとめ』(白水社、2019年)を書くときに、どのような構成の文法書にするか大いに迷いました。しかし最終的には、読者の使いやすさを考えて、伝統的な品詞別の文法書になりました。第1章「名詞」、第2章「冠詞」、第3章「形容詞」のように、品詞ごとに章を分けて書いてあります。

 しかしこのような品詞別の文法にすると、こぼれ落ちてしまうものがあります。それは品詞が文の中で担う文法機能 (fonction grammaticale) です。文法機能とは、「主語」「直接目的補語」「属詞」「状況補語」など、単語が文の中て担う文法的な役割のことです。一つの文法機能を担うのは一つの品詞とは限りません。ふつうはいくつもの品詞が同じ文法機能を担当しています。たとえば属詞を例に取ると、(1)では名詞が属詞ですが、(2) では形容詞が属詞で、(3)では属詞は前置詞句です。

 (1) Mon oncle est le vice-consul de France à Bagdad.

  私の叔父はバグダッド駐在のフランス副領事だ。

 (2) Cette pièce de théâtre est magnifique.

  この戯曲はすばらしい。 

 (3) Juliette est en colère.

  ジュリエットは怒っている。

 このように「属詞」という文法機能は、いくつもの品詞にまたがっています。このため品詞別の文法書だと、あちこちにばらばらに出て来ることになり、「属詞」というまとまりで書くことができません。

 また名詞や形容詞といった品詞は単語ですから目に見えます。maisonは名詞で、beauは形容詞です。ところが「主語」や「属詞」といった文法機能は、単語が文の中で担う役割なので、目に見えない抽象的な概念です。目に見えないものを基準にして文法を書くのはとても難しいのです。フランス語の世界では、川本茂雄編著『フランス語統辞法』(白水社、1982年)がおそらく唯一の先例ではないでしょうか。

 また『フランス語100講』では、今までのフランス語文法ではあまり重視されなかった観点からフランス語のしくみを考えたいと思います。

 その一つは話し手と聞き手が作る「発話の場」(situation d’énonciation) です。言葉というものは本来、誰かが誰かに向けていつかどこかで話すというものです。ところが今までの文法は、誰が誰に向けて話しても、いつどこで話しても、変わらないような共通部分を抽出しようとしてきました。難しく言うと「指標性」(英 indexicality)の排除です。この結果、文法は無味乾燥な規則の集まりのような観を呈することになります。しかし話し手と聞き手はことばのはたらきに欠かせないものです。話し手と聞き手は、文法のしくみに大きな影響を及ぼしています。

 今まで文法でおろそかになっていたもう一つの観点は談話 (discours) です。談話とは、まとまりのある文の集まりのことです。テクスト (texte)という呼び方もあります。今での文法は、文を中心に据える文・文法(英 sentence grammar / 仏 grammaire de phrase)で、文より大きな談話は原則として扱えません。このため (4) の文でNapoléonを受ける代名詞はilceは使えないことや、(5) のarrivaitという半過去形がなぜここで使われているのかといったことを説明するのがとても苦手でした。

 (4) Napoléon entrait dans la ville. {Il était / *C’était} un vainqueur impitoyable et il voulait que tout le monde le sache. (Coppierters 1975)

 ナポレオンは市内に入城した。{彼は / *それは}情容赦のない勝者であり、みんながそのことを知ることを望んでいた。

 (5) Le train siffla longuement : on arrivait à la gare.

   列車は長々と警笛を鳴らした。駅に到着したのだ。

 このように文と文とにまたがる現象を扱うためには、文より大きな単位を対象とする談話文法(英 discourse grammar / 仏 grammaire de discours)の観点を取り入れることが必要になります。『フランス語100講』ではこの点を重視して、フランス語のしくみをもう一度考えてみたいと思います。

 また国語学・日本語学の成果も取り入れたいと思っています。ふつうフランス語文法を教えるときは、日本語との比較をしません。しかし日本語を話す私たちがフランス語を学ぶと、そのちがいに気づくことがあり、またちがいが学習の障壁となることもあります。『フランス語100講』では積極的に日本語との比較をしたいと思います。

 最後になりますが、私は生成文法や形式意味論のような計算主義的で決定論的な言語観にどうも馴染めないものがあります。それは言語というものは、本来的にひずみや揺らぎや未決定な部分を内包しているもので、確率論的に捉えるほうが適していると思うからです。私たちが発話を解釈するときも、「たぶんこうだろう」と思って相手の言葉を受け取りますが、間違っていることもあり、その修復過程まで含めての言語のしくみだと思います。国立国語研究所の所長をしていた田窪行則さんと、「言語研究には神の視点が必要か」という論争をしたことがあります。私は神の視点ではなく、限られた情報しかもたず、特定の視点からしか出来事を見ることができない人間という立場から言語を眺めてみたいと考えています。そういう考え方もどこかに滲み出るかもしれません。

 ちなみに「100講」の100は厳密な数字ではなく、『豆腐百珍』とか「白髪三千丈」などの数字と同じで、「たくさん」という意味です。本当に連載が100回続くかはわかりません。それより少ないかも知れませんが、それより多くなるかも知れません。また堅苦しい文法の話ばかりでは肩が凝るので、「こぼれ話」も織り交ぜるつもりです。こちらもご期待ください。