「フランス語100講」こぼれ話(4)─ onとl’on

 不定代名詞の onは et, ou, où que, siなどの単語に続くときは、l’onと綴ることがある。

 

 (1) si l’on considère l’état actuel de notre pays…

   わが国の現状に鑑みるならば

 (2) Il faut que l’on se mette d’accord sur ce point.

        その点についてみんなが同意する必要がある。

 

 そうする理由は、もし si onや où onとすると、フランス語が嫌う母音衝突 (hiatus) を起こしてしまうからだと説明される。queは qu’onとエリジヨンして母音衝突を避けることができるが、他の単語ではそうはいかない。

 しかしもし母音衝突を避けるのが目的ならば、他の子音字でもかまわないはずだ。事実、疑問倒置では A-t-elle été en Espagne ?「彼女はスペインに行ったことがありますか」のように –t- が使われている。l’onl’はエリジヨンしない形は leで、これは定冠詞の男性単数形である。なぜonに定冠詞が付くかを知るには、フランス語の歴史をさかのぼらなくてはならない。

 onの語源はラテン語の homo「人」である。現在でも生物学の学名ではラテン語が使われているので、 現世人類はHomo sapiensホモサピエンス」と呼ばれている。「言語を使う」というヒトの特徴を捉えて Home loquens「話すヒト」などと言うこともある。onはもともとは「人」を表す名詞のhomoだったために、定冠詞を付けてl’onのように用いるのは、その昔は珍しいことではなかった。ところが現代フランス語では si l’onのように母音衝突を避ける場合にしか使われなくなったのである。

 さて、ラテン語の homoからはhomme「人、男性」という単語も生まれた。こちらはれっきとした男性名詞である。なぜラテン語の一つの単語からフランス語の二つの単語が生まれたのだろうか。その理由もフランス語の歴史の中にある。

 フランス語の親のラテン語には名詞の格変化 (déclinaison) があった。格とは、日本語ならば「花が」「花を」「花に」のように、格助詞のガ・ヲ・ニなどを使って表す文法関係を、名詞の語尾変化で表すことをいう。ラテン語には全部で6つの格があった。やがてラテン語は俗ラテン語の時代を経て、だいたい9世紀くらいに古フランス語になったと考えられている。名詞の格体系は大幅に簡略化されて、主格と斜格の2格体系になった。主格 (cas sujet) は名詞を主語や呼びかけに用いる場合で、斜格 (cas oblique) は直接目的語などそれ以外の場合に用いる。次はmur「壁」という単語の格変化である。添えられた定冠詞も格変化している。

 

 

 ざっくり言うと、主格単数形と斜格複数形に –sの語尾が付いた。(注1)見てわかるように、斜格の単数形 le murと複数形 les mursが後に現代フランス語の単語となった。なぜ主格ではなく斜格の語形が生き残ったのだろうか。それは統計的な頻度の問題である。次の物語の冒頭部分を見てみよう。

 

 (3) Delphine et Marinette revenaient de faire des commissions pour leurs parents, et il leur restait un kilomètre de chemin. Il y avait dans leur cabas trois morceaux de savon, un pain de sucre, une fraise de veau, et pour quinze sous de clous de girofle. Elles le portaient chacune par une oreille et le balançaient en chantant une jolie chanson. À un tournant de la route, et comme elles en étaient à « Miroton, miroton, mirotaine », elles virent un gros chien ébouriffé, et qui marchait la tête basse.             (Marcel Aymé, Les contes du chat perché)

デルフィーヌとマリネットは両親に頼まれた買い物を終えて家に戻るところでした。家まではもう1kmしかありません。買い物籠のなかにはせっけんが3つ、砂糖の固まりが1つ、仔牛の腸間膜と15スー分の丁字が入っています。二人は買い物籠の取っ手をひとつずつ持って、すてきな歌を歌いながら籠を揺らしていました。曲がり角にさしかかり、ちょうど歌が「ミロトン、ミロトン、ミロテーヌ」まで来たとき、毛を逆立てて頭を下げて歩く大きな犬が見えました。

 

 主語はボールド・イタリック体にして、直接目的補語には下線を引いた。主語は Delphine et Marinetteだけが名詞で、あとは il / il / elles / elles / elles とすべて代名詞である。これは第11講で触れた主題の一貫性(英 topic continuity)の原則による。談話やテクストでは、一つの主題について連続して語ることが多い。このため同じものをさす代名詞が多くなるのである。一方、直接目的補語を見ると、un kilomètre de chemin / trois morceaux de savon / un pain de sucre / une fraise de veau / pour quinze sous de clous de girofle / le / le / un gros chien ébouriffé, et qui marchait la tête basseとなっていて、代名詞leが二つあるが、残りは全部名詞である。(注2)しかも長い名詞が多い。一般に新しい名詞が登場するのは直接目的補語の位置であることが知られている。

 これは物語という書き言葉の話だが、話し言葉ではこの傾向はもっと強くなる。Colette Jeanjeanは話し言葉のコーパス調査から、すべての文のうち名詞の主語を持つ文の割合は2%〜2.8%にすぎないと報告している。(注3)私自身の調査でも、名詞主語の出現率は 2.4%〜5.7%であった。これにたいして直接目的補語は名詞であることが多く、フランス語で最もよく見られる文型は、〈代名詞主語+動詞+名詞の直接目的補語〉という組み合わせなのだ。(注4)このように主語は代名詞が多く、直接目的補語は名詞が多いために、よく目にする斜格形が名詞の形として残ったのである。

 しかしながらon / hommeは例外的に主格形と斜格形の両方が残った。その理由は、onが「人一般」を指したりnousの代用形として用いられたりして、主語人称代名詞と同じような使われ方をするために、使われる頻度が高かったためと考えられる。 on / homme以外にも主格形と斜格形の両方が残った単語がいくつかある。

 

         主格形          斜格形

  copain          compagnon 「仲間」

       gars(俗語で)若者     garçon「少年、男の子」

  sire (呼びかけて)陛下    seigneur「領主」

 

 これらの単語はすべて人をさす単語で、呼びかけで使うことが多い。呼びかけには主格形が使われる。このために主格形と斜格形の両方が残ったのだと考えられる。

 以上のことから何を導くことができるだろうか。それは「言語使用が文法を作る」(英 Usage makes grammar.)ということではないだろうか。フランス語でも日本語でも文法は誰か特定の人が設計図を描いて作ったものではない。(注5)言葉の使用が集積して、やがて慣習として固まったものである。野原を横切るときに、たくさんの人が同じルートを歩くと、やがて草が踏み固められて道ができる。文法とはそのようにしてできたものではないだろうか。

 

(注1)主格単数形の語尾の –sは、Georges、Jacquesなどの人名にその名残を留めている。

(注2)非人称構文の il leur restait、il y avaitに続く名詞は、文法的には直接目的補語である。

(注3)Jeanjean, Colette, “L’organisation des formes sujets en français de conversation. Etude quantitative et grammaticale de deux corpus”, Recherches sur la français parlé 3, 1981.

(注4)東郷雄二「話し言葉のフランス語に見る文法の形成過程の研究」、文部科学省科学研究費補助金基盤研究(C)研究成果報告書、1998.

(注5)ポーランドの眼科医であったザメンホフが作ったエスペラントのような人工言語は例外で、一人の人が考案した言語である。

「フランス語100講」第12講 主語 (3) – 主語と主題のちがい

 フランス語では主語は無標の主題としてはたらくこと、そして主語は主題が文法化されて生まれたものと考えられることを見てきました。では主語と主題はどこがどうちがうのでしょうか。いくつかポイントを見てみましょう。

 

(A) 主語は必須だが主題はなくてもよい

 フランス語では主語は動詞の活用を支配し、文にとってなくてはならないものです。このため天候表現のように主語を考えにくい自然現象にも非人称主語のilが必要なのです。このように何もささないilを虚辞 (explétif) と呼ぶこともあります

 

 (1) Il pleut à torrents.

  どしゃ降りだ。

 

このように主語は文法によって規定され要請される要素です。これにたいして主題は、相手に何を伝えるかという談話レベルの概念で、しばりも緩やかなものです。文によっては主題がないものもあります。

 

 (2) Une vieille dame entra dans la salle d’attente de l’hôpital Cochin.

   コシャン病院の待合室に一人の老婦人が入って来た。

 

 この文には主題がありません。このようなタイプの文は、出来事文とか現象文と呼ばれています。これについてはまた別の所でお話しします。

 

(B) 主語は文に一つだが、主題は複数あることもある

 主語は動詞の活用を支配するものですから、文に一つしかありません。Paul et Jean「ポールとジャン」のように複数の名詞が等位接続されているものは、全体がひとつの主語になります。

 

 (3) Paul et Jean sont partis en voyage.

  ポールとジャンは旅行に出かけた。

 

 主題は文がそれについて語るものですから、文あたり一つなのがふつうです。しかしそうではない場合もあります。私の指導教授の一人だったキュリオリ先生 (Antoine Culioli) が好んで講義で挙げたのは次のような文でした。こういうものは何十年経っても覚えているものです。

 

 (4) Moi, mon frère, son vélo, la peinture, elle est partie.

    僕、お兄ちゃんね、自転車ね、塗装がね、剥げちゃったんだ。

 

 この例では最初に並んでいる moi, mon frère, son vélo, la peintureは、「僕」→「僕の兄」→「兄の自転車」→「その塗装」とまるでリレーのようにつながっています。一つ一つを主題と考えれば、この文には複数の主題があることになります。ただし、文の主語のelleがさしているのは最後の la peintureですから、これがほんとうの主題で、残りはそれを導くための呼び水のようなものと考えることもできます。

 

 (5) Les élections législatives, je m’en fous, moi.

       国会議員選挙なんて、どうでもいいさ、俺。

 

 この例では文頭の les élections législatives 「国会議員選挙」が主題ですが、文末にもmoiが付いています。この人称代名詞自立形のmoiは、Moi, les élections législatives, je m’en fous.「俺、国会議員選挙なんて、どうでもいいよ」のように文頭に置くこともできます。ですからmoiは文の主題としてはたらくこともあるのですが、例 (5) のように文末に置かれることも多いのです。このmoiは「私について言うと」くらいの意味なので、文末のmoiも主題と見なすならば、(5) にも二つの主題があることになります。ただし、文頭のles élections législativesは明らかに主題ですが、文末のmoiは主題というよりは、文の内容が誰に関わるものかという「関与」を表すというはたらきのちがいを認めることができます。

 

(C) 主語は動詞の前に置くが、主題はそうでないこともある

 平叙文では主語は動詞の前に置かれるのがふつうです。

 

 (6) Les vins français sont appréciés dans le monde entier.

   フランス産のワインは世界中で高く評価されている。

 

平叙文でも次の例のように主語が倒置 (inversion) されて動詞の後に来ることがありますが、これについてはまた別の場所でお話しします。

 

 (7) Sur le boulevard défilèrent les soldats américains.

   大通りではアメリカ兵が行進した。

 

 一方、主題は文頭に置かれることが多いのですが、文末に置かれることもあります。

 

 (8) Il est à qui, ce briquet ?

   誰の、このライター?

 

 この場合は、「誰の?」という言いたいことを先に言ってから、後から思いついたように「このライター」と付け加えています。Ce briquet, il est à qui ?「このライター、誰の?」のように主題を文頭に置く構文を左方転位 (dislocation à gauche) 、(8)のように主題を文末に置く構文を右方転位 (dislocation à droite) と呼びます。(注1)TVドラマ「太陽に吠えろ!」で松田優作が演じたジーパン刑事が腹を撃たれた傷に触れて、「何じゃ、こりゃ!」と叫ぶシーンはよく知られています。ここでも「何じゃ」と言いたいことを先に言ってから「こりゃ」と主題を後から出しています。日常会話ではよくあることですね。

 

(D) 主題は定だが主語はそうでなくてもよい

 主題とはその文で話題の中心になっているものですから、話し手も聞き手も知っているものでなくてはなりません。このために主題は定 (défini) である必要があります。定なのは、固有名詞と定冠詞・所有形容詞・指示形容詞が付いている普通名詞です。これらの名詞は次のように有標の主題にすることができます。

 

 (9) La Joconde, tu l’as vue ?

   モナリザって見たことある?

 (10) Le nouveau prof de math, il est génial.

   新任の数学の先生やばいよ

 (11) Mon vélo, il est parti je ne sais où.

   僕の自転車どこかに行っちゃった。

 (12) Ces pommes, elles sont bonnes.

   このリンゴ、おいしいよ。

 

 不定冠詞と部分冠詞が付いている名詞は不定 (indéfini) で、聞き手が知らないものをさすので主題にできません。(注2)次の文はだめです。

 

 (13) *Une chaise, elle est cassée.

   椅子が一脚壊れている。

 (14) *Du café, je l’ai bu réchauffé.

   コーヒーは温め直して飲んだ。

 

 ただし不定冠詞が付いていても総称を表すときは主題にできます。総称 (générique) というのは、たとえばこの世にいる「犬というもの」全体をさす場合を言います。(注3)

 

 (15) Un enfant, ça salit tout.

   子供って何でも汚してしまう。

 

 このように主題を表す名詞句は定か総称でなくてはならないのですが、主語にはそのような制約はありません。主語は不定でもかまいません。

 

 (16) Un chasseur errait dans la fôret.

   一人の猟師が森をさまよっていた。

 (17) Des enfants jouaient dans le squarre.

   公園で子供たちが遊んでいた。

 

 ただし、すでに見たように主語は無標の主題ですから、無標とはいえ主題の性質も持っています。このため、実際に用いられる文では、主語は圧倒的に定が多数を占めています。エクス・マルセイユ大学のジャンジャン (Colette Jeanjean) の調査によれば、話し言葉では主語が不定の割合は2%〜2.8%にすぎないとされています。(注4)

 文頭を占める主語には定の名詞句や代名詞を置く傾向が強いため、たとえば (17)は次のように il y a構文を用いて表されることが多いのです。

 

 (18) Il y avait des enfants qui jouaient dans le squarre.

    公園には遊んでいる子供たちがいた。

 

 不定の主語として特に避ける傾向が強いのは、次の例のように部分冠詞の付いた名詞句です。このような文は容認度が特に低いようです。ですから定でも不定でもどんな名詞句も主語に使えるというわけではありません。次のような文は容認されません。

 

 (19) *De l’eau coulait sur le plancher.

   床に水が流れていた。

 

(E) 動詞は主語を選ぶが主題は選ばない。

 主語は動詞が表す意味に合ったものでなくてはなりません。たとえばmanger「食べる」という動詞の主語には、食べるという行為を行う人間か動物が選ばれるのがふつうです。(注5)これを動詞による主語の選択制限 (restriction sélectionnelle) といいます。(22)では石はふつうものを食べないのでおかしな文になってしまいます。このように動詞と主語のあいだには、意味の面でも緊密な関係が見られます。

 

 (20) Pierre a mangé une pomme.

   ピエールはリンゴを食べた。

 (21) Le chat a mangé du fromage.

   ネズミはチーズを食べた。

 (22) *La pierre a mangé du blé.

   石が麦を食べた。

 

 ところが主題はそうではありません。たとえば次の文では les huîtres「カキ」が主題ですが、それと呼応するような意味の動詞は文の中にはありません。主題はこのように文との文法的・意味的な関係が主語よりも緩いものになっています。

 

 (23) Ah, oui. Les huîtres, je crois que le restaurant de Paul est le meilleur.

       ああ、カキなら、ポールのレストランがいちばんだと思うよ。

                            (この稿次回に続く)

 

(注1)左方転位と右方転位のあいだには談話的なはたらきのちがいが少しあるが、ここでは触れない。また右方転位は後から思い出して取って付けたように置かれるので、英語ではafter thought「後からの思いつき」と呼ぶことがある。

(注2)ただし Des tiques, il y en a partout. 「ダニはどこにでもいる」のように、不定冠詞複数形のdesが付いた名詞は、中性代名詞のenで受け直すとき主題になれるが、この問題についてはあまりよくわかっていない。

(注3)(15)のように転位されている総称名詞句に不定冠詞 unが使われているときは、それを受ける代名詞はçaを用いる。これについてはまた別の所で論じる。

(注4)Jeanjean, Colette, “L’organisation des formes sujets en français de conversation. Etude quantitative et grammaticale de deux corpus”, Recherches sur la français parlé 3, 1981.

(注5)ただしmangerが比喩的に使われた場合は、Le soleil a mangé les couleurs du rideaux.「日光でカーテンの色があせてしまった」のように、主語が人間・動物以外のこともある。これは一種の擬人化である。

「フランス語100講」第11講 主語 (2) – 主語と主題

【無標の主題としての主語】

 前回の終わりに書いたように、フランス語で主語は無標の主題 (thème non marqué)としてはたらきます。その意味するところを少し見てみましょう。

 

 (1) Nicolas a oublié son parapluie dans le bus.

   ニコラはバスに傘を忘れた。

 

 (1)をふつうのイントネーションで発話したとき、この文は主語のNicolasについて何かを述べる文と解釈されます。(1) は次のような文に続けて使うことができます。実際の対話ではNicolasはilと代名詞化されますが、それはここでは考えません。

 

 (2) Quoi de neuf avec Nicolas ?

   ニコラについて何かニュースはあるかい。

    ─ Nicolas a oublié son parapluie dans le bus.

     ニコラはバスに傘を忘れたよ。

(3) Qu’est-ce qu’il a, Nicolas ? Il a l’air triste.

   ニコラに何があったんだい。しょげているよ。

     ─Nicolas a oublié son parapluie dans le bus.

    ニコラはバスに傘を忘れたんだよ。

 

 (2) (3) の文においてニコラは話題の中心になっています。このように「それについて語るもの」(ce dont on parle) を「主題」(thème) といいます。(1)の文は、「ニコラについて何か語るなら、彼はパスに傘を忘れたのだ」と言い換えができます。

 (1)では主語が主題を兼ねているので、主語を無標の主題と呼びます。無標というのは、特別な理由がない限り選ばれるものという意味で、デフォルトということです。

 

【主題の連続性の原則】

 ここまで述べたことを踏まえて、次の例文を見てみましょう。

 

 (4) Jean a frappé Paul au ventre. Il s’est mis à pleurer.

  ジャンはポールのお腹を殴った。彼は泣き出した。

 

 さて、泣き出したのはJeanでしょうか。それともPaulでしょうか。殴られた方が泣き出したと考えたくなりますが、正解は殴った方のJeanです。そう解釈できるのは、フランス語には次のような原則があるからです。(注1)

 

 (5) 3人称の人称代名詞の主語は原則として前の文の主語をさす。

 

 例文 (4) では前の文の主語はJeanですから、IlはJeanを指すと解釈されるのです。なぜこのような原則があるのでしょうか。それは「主題の連続性」(英 topic continuity / 仏 continuité thématique)のはたらきによります。主題とは話題となっているものですね。私たちが何かを話すとき、ある話題についてしばらく続けて話すことが多いでしょう。たとえば新しいカフェが駅前にオープンしたら、あの店のコーヒーはおいしいとか、あの店ではWifiが無料だとか、「新しいカフェ」がしばらくのあいだ話題の中心になるでしょう。これが主題の連続性です。もし「駅前に新しいカフェができた」に続けて、「今日のフランス語の授業は休講だ」、「私は昨日寝坊した」などと続けたら、話題がころころと変わってしまい、一貫した会話になりません。ですから主題の連続性はフランス語に限ったものではなく、どの言語でもある程度成り立つ普遍的な原則だと考えられます。

 ただし、(5) は談話の進め方についてできるだけ守るべきとされるゆるやかな原則で、文法の規則のように破ってはだめというものではありません。主語が人称代名詞ではなく名詞のときは、次の例のように新しい主語に変えても差し支えありません。

 

 (6) Claire est entrée dans le salon. Georges lisait le journal.

   クレールは居間に入った。ジョルジュが新聞を読んでいた。

 

 また (5) の原則が成り立つのは3人称の人称代名詞 il(s) / elle(s)に限られます。同じ代名詞で主語として使われる指示代名詞の ce には当てはまりません。

 

 (7) Hélène a vu bouger quelque chose au coin de la cuisine. C’était une souris.

   エレーヌは台所の隅で何かが動くのを見た。それはネズミだった。

 

(7)ではふたつ目の文の主語になっているC’ (=Ce) は、ひとつ目の文の直接目的補語 quelque choseをさしていて、主語の Hélèneをさしているのではありません。

 

【主題をスイッチする手段】

 それでは (4) の文に続けて、主語のJeanではなく直接目的補語のPaulを次の文の主語にしたいときにはどうすればよいのでしょうか。そのときは指示代名詞 celui / celle–ciという接辞を付けたものを使います。次の例を見てみましょう。女性名詞のla radioではなく、男性名詞のle radioとなっているのは男性の無線技師を指しているからです。(注2)

 

 (8) Le radio toucha l’épaule de Fabien, mais celui-ci ne bougea pas.

   無線技師はファビアンの肩に手を触れたが、ファビアンは身じろぎもしなかった。

                          (Saint-Exupéry, Vol de nuit

 

 mais以下の文でもし il ne bougea pasのように人称代名詞のilを使うと、前の文の主語のle radio「無線技師」をさすことになってしまいます。このように celui-ci は主語を別のものに切り替える手段となっています。

 このはたらきは指示代名詞 celui / celleの次のような用法に由来するものです。

 

 (9) La Seine et le Rhône sont deux grands fleuves français ; celui-ci coule vers le sud et celle-là vers le nord.

セーヌ川とローヌ川はフランスの二大河川です。後者(ローヌ川)は南に流れ、前者(セーヌ川)は北に流れています。(注3)

 

 もともとの直示的用法では接辞の –ciは話し手から近い場所を、-làは話し手から遠い場所をさします。名詞の後に付けて次のように使います。

 

 (10) Lequel préfères-tu, ce vélo-ci ou ce vélo-là ?

   こっちの自転車とそっちの自転車のどちらがいい?

 

 指示代名詞のcelui-ciは、〈指示形容詞 ce+人称代名詞の自立形 lui+接辞 –ci〉が組み合わさってできたものです。日本語で言うと「こっちのほう」くらいになるでしょうか。このように celui-ciは話し手に近いものを、celui-làは話し手から遠いものをさす直示的用法が基本だと考えられます。

 

【物理的空間からテクスト空間への拡張】

 ところが例文 (9) ではcelui-ci / celui-làは発話の場にあるものをさすのではなく、celui-ciは前の文にある le Rhôneを、celui-là はla Seineをさしています。これはどういうことでしょうか。フランス語には次のような原則があるのです。

 

 (11) 発話の場にあるものを直示的にさす言語記号は、テクスト内にある

   ものを照応的にさす記号として用法が拡張される。このときテクス

   トは擬似的な発話の場としてはたらく。

 

 このような用法の拡張によって、celui-ciはそれが用いられたテクスト上の場所から前にさかのぼって近い所にあるものをさします。(9)で近い所にあるのは le Rhôneですから、celui-ciはle Rhôneをさします。一方、eelle-làは遠い所にあるものをさすのでla Seineが先行詞となります。ですからcelui-ciは「後者」、celle-làは「前者」と訳すこともできるのです。

 このような発話の場という物理的空間からテクストという言語空間への拡張は、次のような例にも見られます。

 

 (12) Voici ce que tu dois faire. Finis tes devoirs et va au lit.

   今からお前がしなくてはならないことを言うよ。宿題を済ませて寝なさい。

 (13) On n’y pouvait rien faire. Voilà tout ce qu’il m’a dit.

   どうしようもなかったんだ。これが彼が私に言ったことのすべてです。

 

 voici / voilàは提示詞 (présentatif) と呼ばれていて、voiciは話し手から近いもの、voilàは話し手から遠いものを提示します。

 

 (14) Voici mon lit et voilà le vôtre .

     こっちが私のベッドで、そっちがあなたのです。

 

 この用法から拡張されて、(12)ではテクスト上でこれから述べることを、(13)ではそれまでに述べたことをさします。この用法ではこれから述べることが話し手から近いもの、今まで述べたことが遠いことと見なされています。

 

【有標の主題】

 主語は無標の主題ということはお話ししました。それでは主語以外のものを主題にしたいときはどうするのでしょうか。それには特別な統語的手段を使って、主題であることをはっきりさせます。特別な手段を使って主題としたものは、有標の主題 (thème marqué) といいます。フランス語では主に次のような手段が用いられます。

 

 (15) a. 転位構文 (dislocation) / 遊離構文 (détachement)

   主題となる語句を文頭に置き、それを文中で代名詞で受けます。i)では主語が、

   ii) では直接目的補語が転位されています。主題化 (thématisation) と呼ぶこと

   もあります。

   i) Mon père, il est terrible. うちのお父さんときたら、ひどいんだよ。

   ii) Cette poupée, je l’ai trouvée au marché aux puces.

    この人形はノミの市で見つけました。

   b. 主題標識

  Quant à 〜「〜については」、Pour ce qui est de 〜「〜に関しては」、Concernant〜「〜については」、A propos de〜「〜については」のような表現は、文頭に置いてそれが主題であることを示します。

   i) Quant à la rémunération, on en parlera plus tard.

       報酬についてはまた後で相談しましょう。

   ii) Pour ce qui est du tennis, Claude est le meilleur.

    テニスに関してはクロードが一番だ。

 

 有標の主題は談話の途中で主題を変更する場合などに使われます。

 

 (16) Ton père est gentil. Tu as de la chance. Mon père, il est terrible.

   君のお父さんは優しいね。君はついてるよ。僕の父ときたら、そりゃひどいんだよ。

 

 この例では最初は ton père「君のお父さん」が主題ですが、途中から mon père「僕の父」に主題が切りかわっています。         (この稿次回に続く)

 

(注1)フランスの学校でよく使われている E. Legrand, Stylistique française, J. de Gigordにも次のように書かれている。

Pierre a volé Paul ; il a porté plainte.

   On veut dire que Paul a porté plainte ; on dit en réalité que Pierre est à la fois le voleur et le plaignant. (…)En effet, quand deux propositions se suivent, il / elle , en tête de la seconde, représente toujours le sujet de la première. (Livre du maître, p. 68)

ピエールはポールから盗んだ。彼は訴えた。

 ポールが訴えたと言いたいのだろうが、実際にはピエールが泥棒であると同時に訴えた人であるという意味になる。(…)二つの文が続くとき、二つ目の文頭のil / elleは常に一つ目の文の主語をさす。        

(注2)朝倉季雄『新フランス文法事典』(白水社)の文例。 

(注3)京都大学フランス語教室編『新初等フランス語教本〈文法篇〉』白水社         

「フランス語100講」第10講 主語 (1) – 主語とは何か

 第8講の文(1)に書いたことですが、フランス語や英語のような欧米の言語では、文の基本構造は〈主語+述語〉(sujet+prédicat)だとされています。「主語」という用語は、中学校の英語の授業で初めて耳にする人が多いでしょう。しかし文の組み立ての基本だとされているにもかかわらず、主語とは何かをきちんと定義しようとするとなかなか面倒なのです。代表的な定義をいくつか見てみましょう。

 (1) La grammaire traditionnelle définit le sujet comme celui qui fait ou subit l’action exprimée par le verbe. C’est ainsi un terme important de la phrase puisqu’il est le point de départ de l’énoncé et qu’il désigne l’être ou l’objet dont on dit quelque chose en utilisant un prédicat.          

  (Jean Dubois et als. Dictionnaire de linguistique, Larousse, 1973)

伝統文法では、主語を、動詞によって表現される行為をするもの、または受けとるものと定義する。それゆえ、主語は発話の出発点でもあり、また人物や事物を指し、それについて述語を用いることにより、何かを語るものであるので、文の重要な辞項である。

   (伊藤晃他訳『ラルース言語学用語辞典』大修館書店、1980)

 まず伝統文法の定義が挙げられています。動詞が表す行為をするもの、または受けとるものというのは次のようなことを想定しています。

 

 (2) Le directeur a grondé Julia.

   部長はジュリアを叱った。

 (3) Julia a été grondée par le directeur.

   ジュリアは部長に叱られた。

 

 (2) の能動文では部長が「叱る」という行為をする人で、(3) の受動文ではジュリアが「叱る」という行為を受ける人です。つまり主語とは、能動文では動作主 (agent) で、受動文では被動作主 (patient) であるという意味論的な概念によって定義されています。しかしよく考えてみてください。(2)の能動文ではジュリアが動作を受ける人ですが、主語ではなく直接目的補語です。また(3)では部長が動作をする人なのですが、これも主語ではなく動作主補語 (complément d’agent) です。これはちょっとまずいですね。どれが主語かを判定することが、能動文・受動文という態 (voix) に依存しているからです。

 上の定義の後半では、「それについて何かが語られるもの」(ce dont on dit quelque chose) と述べられています。しかし、現代の言語学では「それについて何かが語られるもの」は「主題」(thème / topique) と呼ぶのがふつうです。主題というのは談話文法でよく使われる概念です。実はアリストテレスのいう主語 subjectumは、sub-「下に」+ jectum「投げ出された」で、「これからこれについて話しますよ」と相手に提示するもののことで、今で言う主題に近い概念です。こうして見ると、上に挙げられている伝統文法による主語の定義は、意味論の概念と談話文法の概念をミックスしたものになっていて、ほんとうの意味で文法的な定義とは言いにくいものです。

 次の定義はこれとはちょっとちがっています。

 (4) SUJET. Ce mot dénote la fonction assumée par le terme ou le membre qui confère à un verbe ses catégories de personne, de nombre et éventuellement de genre. Il a donc une valeur strictement grammaticale et n’est pas à confondre avec les termes qui évoquent l’agent, le siège ou le patient du procès.

(Wagner, R. L. et J. Pinchon, Grammaire du français classique et moderne, Hachette Université, 1962)

主語。この語は、動詞に人称・数そして場合によっては文法的性のカテゴリーを付与する語句または文要素が担う機能を指す。したがって主語は完全に文法的な価値を持つものであり、動作主や行為の座や被動作主といった概念を表す用語と混同してはならない。 

 おやおや、ヴァグネールとパンションは、「動作主や被動作主と混同してはならない」とわざわざ伝統文法の定義に陥らないよう釘を刺していますね。彼らによれば、主語とは、文の中核的要素である動詞の人称・数を支配するという文法的機能のみによって定義されるものです。

 もうひとつ見てみましょう。代表的な文法書である Le Bon usageのものです。ここではJean rougit.「ジャンは顔を赤らめる」という2語からなる文を例に挙げて、どのような基準によって主語と判定するかが論じられています。それによると主語は次の4つの基準によって特徴づけられるとされています。

 

 (5) a. 語順:平叙文では先に来るのが主語

   b. 品詞:主語は名詞で、述語は動詞

   c. 活用の支配:主語は動詞の人称・数を決める

   d. 主題:主語はそれについて何かを述べるもの (ce dont on dit quelque chose)

 

 ところが同書ではこれに続けてこのような基準を満たさない例を挙げて、Par conséquent, il est impossible de donner du sujet et du prédicat des définitions qui satisfassent entièrement. 「したがって、主語と述語に完全に満足のいく定義を与えることは不可能である」と匙を投げる始末です。

 

【主語とは相対的概念である】

 現代の言語学で主語をめぐる議論は1970年代から80年代にアメリカで盛んに行われました。その代表的なものはキーナン (Edward Keenan) の研究です(注1)。その研究のなかでキーナンは主語が持つ計30ほどの特徴をリストにしています。それらはおおまかに4つのグループに分かれます。代表的な特徴だけ挙げてみましょう。

 

 (6) 主語の特徴

 (A) 指示の自立性 (autonomy principles)

  i) 主語は文に不可欠の要素である、ii) 主語名詞句は自立した指示を持つ

 (B) 格表示 (case marking properties)

  主語名詞句はしばしば格の表示を持たない

 (C) 意味役割 (semantic role)

  主語名詞句は能動文では動作主、受動文では被動作主の役割を持つことが多い

 (D) 直接支配 (immediate dominance)

  Sノードに直接支配され、動詞の人称・数を決める

 

 キーナンは、このように主語を定義する特徴を列挙した上で、ある言語Lでこれらの特徴をいちばん多く持つ要素を主語と認定することを提案しています。つまりある要素が主語であるかどうかは程度問題ということです。(注2)世界中の言語を考慮に入れて主語を定義しようとすると、どうしてもこうなってしまうのですね。

 しかし心配することはありません。フランス語では主語はとてもはっきりと定義することができます。それは上に挙げたヴァグネールとパンションの主語の定義に近いものです。次のように考えればよいでしょう。

 主語は、i) 文に不可欠の名詞句・代名詞である

     ii) 動詞の人称・数を支配する 

この定義によれば、次の例文のボールド・イタリック体の語句が主語となります。

 

 (7) Paul adore les macarons.

  ポールはマカロンが大好きだ。

 (8) Il me serait agrébale de vous rencontrer.

  あなたにお会いできればうれしいのですが。

 (9) Il lui est arrivé un grand malheur.

  彼(女)の身に不幸な出来事が起きた。

 (10) Ça, c’est une autre histoire.

  それはまた別の話だ。

 

 (8) と (9) は非人称構文ですが、非人称主語のilは文に不可欠であり、動詞の人称・数を決めているので上の条件を満たしています。(de) vous rencontrerや un grand malheurを実主語とか真主語と呼ぶかどうかはまた別の問題です。どうしてフランス語ではこのようなシンプルな定義で済むのでしょうか。

 

【主語優位言語と主題優位言語】

 注(1)に挙げた Subject and Topicという論文集に収められているリーとトンプソンの論文(注3)は新しい類型論を提案してその後の研究に大きな影響を与えました。その類型論によると、世界中の言語は主語 (subject) が優位な言語と、主題 (topic) が優位な言語に分けられるとされています。(注4)

 フランス語や英語は典型的な主語優位言語 (subject prominent language) です。主語優位言語では、主語は文に欠かせない要素で、また文中の名詞句のどれが主語かを比較的はっきり判定できるとされています。このような言語では〈主語+述語〉が文の基本的な構造となります。(英)It rains. / (仏)Il pleut.「雨が降る」のような非人称構文を持つのもこのタイプの言語の特徴です。どうしても主語が必要なので、何も指さない it / ilのような意味的に空の要素を主語に置くのですね。

 一方、中国語や日本語は主題優位言語 (topic prominent language) です。このような言語では〈主題+解説〉(topic+comment) という構造が文の基本となり、主題は明らかならば省略できるので、「車の運転できますか?」という質問に「できます」と解説だけで答えられます。主題卓越言語では、主語がはっきり定義できなかったり、「象は鼻が長い」のようないわゆる二重主語構文があるのが特徴です。

 日本語とフランス語がこのように異なる類型に属していることを知るのも、フランス語を学ぶ上で大事なことです。

 

【主語は文法化された主題】

 川本茂雄編著『フランス語統辞法』(白水社、1982)は、主語についてユニークな解説をしています。まず文とは何かを考えるにあたって、Fermé「閉め切り」、Horrible !「おそろしい!」のように、単語ひとつからなるものを挙げて、これを一肢文と呼んでいます。ひとつの要素からできているという意味です。たとえばドアにFermé「閉め切り」という貼り紙があるとしましょう。閉め切りなのは貼り紙が貼られたドアですから、これはCette porte est fermée.「このドアは閉めきりです」という意味です。この「〜は」の部分を主題 (thème) と呼びます。この場合のように、使われている状況から主題が明らかならば主題は省略されます。Ferméは説述 (propos) (注5)といい、一肢文は主題を省略して説述のみからなる文です。

 次に二肢文が挙げられています。Moi, mentir !「僕、嘘付くって!」、Cela, impossible !「そりゃあ、出来ないことだ!」のように、ふたつの単語からできている文です。二肢文では、Moiが主題で mentir ! が説述になります。これに続けて同書では次のように述べられています。

 (11) 上掲の例において、 « Maman, partie. »は « Maman est partie. », « Cela, impossible ! »は « Cela est impossible ! »とほぼ同じ意味をもつものである。このことから、主題は文法において〈主語〉と一般に称されるものに近いということがわかるであろう。(…)多くの文が主語を備えているという事実は、何らかの説述が行われるためには主題が与えられることが必要であり、主題はしばしば文法上の主語として表されるものであことを、ここにすでに予見することができる。(同書、p. 15)

 ここには〈主題+説述〉という関係が〈主語+述語〉の関係へと発展していったというニュアンスが読み取れます。現代の言語学ならば、「主語は文法化された主題である」と言うところです。このため現代フランス語においても、主語は無標の主題 (thème non marqué) として働きます。「無標」というのは構造主義言語学の用語で、特に理由がないときに選ばれる要素、つまりデフォルト要素ということです。

                      (この稿次回に続く)

 

(注1)Keenan, Edward L., “Toward a universal definition of ‘subject’”, Charles N. Li (ed.) Subject and Topic, Academic Press, 1975.

(注2)”Thus the subjecthood of an NP (in a sentence) is a matter of degree.” (Keenan, op. cit. p. 307)「このように(ひとつの文で)どの名詞句が主語であるかは程度問題ということになる」

(注3)Li, Charles, N. & Sandra A. Thompson, “Subject and topic: A new typology of language”, Charles N. Li (ed.) Subject and Topic, Academic Press, 1975.

(注4)正確には提案されているのは4つのタイプである。i) 主語が優位な言語 ii) 主題が優位な言語 iii) 主語も主題も優位な原語 iv) 主語も主題も優位ではない言語。日本語は iii) に分類されているのだが、フランス語と対比させるために、ここでは日本語は主題が優位な言語として話を進める。

(注5)『フランス語統辞法』の用語をそのまま用いている。本稿では説述とは言わず、解説 (commentaire) と呼んでいる。thèmeと proposは、Charles Bally, Linguistique générale et linguistique française, Editions Francke, 1932が使っている用語。

 

「フランス語100講」こぼれ話(3)─ duとdesをめぐる話

 フランス語の初級文法の最初の方に冠詞が出て来る。フランス語では原則として名詞には何かの冠詞が付いているので、早くから学ばなくてはならないのだ。不定冠詞 は単数形がun / une 、複数形がdesで、定冠詞は単数形が le / la 、複数形がlesであり、部分冠詞は du / de laと学ぶ。

 同じ頃に前置詞の deと定冠詞の縮約も登場する。deleduになり、delesdesとなる。ここでおかしなことに気づかないだろうか。deleが縮約したduは部分冠詞の男性形と形が同じで、delesが縮約したdesは不定冠詞の複数形と同じではないか。実にまぎらわしい。jouer du piano「ピアノを弾く」のduがどちらなのかはまちがう人が多い。これはdeleの縮約形である。一方、jouer du Mozart「モーツアルトを弾く」のduは部分冠詞だ。これはどういうことだろうか。

 もうひとつおかしなことがある。不定冠詞の単数形のun / uneと複数形のdesは形がちがいすぎる。おまけに複数形のdesは前置詞のdeと定冠詞のlesが縮約したものと形が同じだ。これも不思議なことである。

 このことを理解するには、フランス語がたどってきた歴史を振り返る必要がある。フランス語の親であるラテン語には冠詞がなかった。冠詞はラテン語からフランス語に変化する間に作り出されたものである。英語でもそうだが、不定冠詞の単数形は数詞の1の un / uneから作られた。古フランス語の時代には冠詞の体系は次のようになっていた。

 

       男性    女性

     単数  複数  単数  複数

 主格  uns         un

                                                  une        unes                   

 斜格  un           uns

 

 

 主格単数のunsの語尾の-sは、複数の印ではなく主格の印である。この表のうち斜格の形が残って、現代語の不定冠詞となった。unの複数形はもともとはunsなのだ。スペイン語は今でもそうで、不定冠詞の男性単数形はunoで複数形はunosである。このほうがずっとすっきりしている。ではどうしてdesunsにとって代わったのだろうか。それには部分冠詞の形成が関係している。

 部分冠詞は不定冠詞からずいぶん遅れて現れた。その形成過程は次のようである。まず前置詞のdeにはもともと何かの部分を表す意味があった。今でもその意味は残っていてIl a mangé de ces fruits.「彼はその果物を少し食べた」ように使う。定冠詞はラテン語の指示詞から発達したもので、le painには今のように「パンというもの」を表す総称の意味はなく、「目の前にあるパン」(現場指示用法)「(話題に出た)そのパン」(前方照応用法)を意味した。deleが縮約したものは当時はdelと綴ったので、mangier del painは「(特定の)そのパンの一部を食べる」を意味した。何かの一部なので部分冠詞 (article partitif)と呼ばれたのである。やがて定冠詞は総称の意味を持つようになり、それにともなって manger du painは今のように「(不特定の)パンを(少し)食べる」を意味するようになった。複数形のdesは使われることが少なかったが、類推によって同じように変化したと考えられる。manger des cerisesが「そのサクランボの一部を食べる」という部分の意味から、「サクランボを(少し)食べる」という不定の意味へと変わり、やがてunsを駆逐して不定冠詞複数形の場所に収まったのである。こうして不定冠詞は単数形が un / uneで複数形がdesという不ぞろいな形になってしまった。

 このように部分冠詞の男性形のduが前置詞deと定冠詞leの縮約形と同じ形をしており、また不定冠詞複数形のdesが前置詞deと定冠詞lesの縮約形と同じ形なのは決して偶然の一致ではなく、もともとは同じものだったから当然のことなのだ。

 少し古い時代の文法書では、desは不定冠詞ではなく部分冠詞の複数形としているものがある。たとえば次がそうだ。(注1)

Les formes de l’article partitif sont : du (anciennement de le, del, deu), de l’, de la, des (anciennement de les, dels).         

部分冠詞の形態は、du(古くは de le, del, deu)、de l’、de laとdes(古くはde les, dels)である。

 フランス語の歴史を考えれば、確かにこうまとめた方がすっきりしている。

 部分冠詞が前置詞deと定冠詞の縮約形に由来することを知っていると、次の文法規則がよく理解できる。前置詞deの次に不定冠詞複数形のdesや部分冠詞の du / de laが続くと、冠詞は削除されて名詞が無冠詞になる。

 

 (1) le toit couvert {de+des} ardoises → le toit couvert d’ardoises

   スレートで覆われた屋根

 (2) la table pleine {de+de la} poussière → la table pleine de poussière

   ほこりだらけのテーブル

 

ところが不定冠詞の単数形だけは削除されずそのまま残る。

 

 (3) Nous avons besoin {de+un} bon dictionnaire.

  → Nous avons besoin d’un bon dictionnaire.

     私たちにはよい辞書が必要だ。

 

 (1)をもし de des ardoisesとすると、元を正せば {dedeles} となり、前置詞のdeが二度重複して現れる。これはまずい。だから前置詞dedesが続くとdesは省略されるのだ。{dedele}も同じである。一方、不定冠詞の単数形の {deun / une}という連続には何の問題もない。だから不定冠詞の単数形は省略されないのである。

 最後に部分冠詞 (article partitif)という呼び名に異議を申し立てたい。何かの部分を表しているのは昔の用法で、今のフランス語では boire du vin「ワインを飲む」は、そこにある特定のワインの一部を飲むことではなく、不特定のワインを少し飲むという意味だ。何かの部分ではないので部分冠詞という呼び名はふさわしくない。今のフランス語では「非可算名詞用の不定冠詞」と呼ぶほうが実態に即している。(注2)

 

(注1)Anglade, Joseph, Notes sur l’emploi de l’article en français, Didier, 1930.

(注2)森本英夫『フランス語の社会学』(駿河台出版社、1988)で森本氏も、「部分冠詞」という呼び方は混乱のもとなので、いっそ不定冠詞は「数冠詞」、部分冠詞は「量冠詞」と呼び替えてはどうかと提案している。

「フランス語100講」第9講 フランス語の基本文型

 フランス語の文法書で基本文型についてきちんと説明しているものは意外に少ないものです。基本文型とは、疑問文・命令文・感嘆文などを除く平叙文の主節において、どのような要素がどんな順序で並ぶかをタイプ分けしたものをいいます。英語ではふつうSV、SVC、SVO、SVOO、SVOCの5文型を習うことが多いでしょう。不思議なことにフランス語ではこのように教えることはあまり一般的ではありません。

 文を形作る構成要素は、名詞・動詞・形容詞などのいろいろな品詞 (partie du discours) です。しかし、これらの品詞は文の中で文法機能 (fonction grammaticale) を持ちます。ですから基本文型は品詞ではなく、文法機能によって記述しなくてはなりません。フランス語の文の中で品詞が持つ文法機能には次のようなものがあります。(注1)

 

 (1) a. 主語 (sujet)

   b. 直接目的補語 (complément d’objet direct)

        c. 間接目的補語 (complément d’objet indirect)

        d, 状況補語 (complément circonstanciel)

   e. 属詞 (attribut)

 

 英文法の用語とのちがいに注意しましょう。英文法で補語 (complement)というと、次の例の斜体太字の部分をさします。

 

 (2) John is a teacher.

   ジョンは先生だ。[主格補語]

 (3) I found the book interesting.

   私はその本をおもしろいと思った。[目的格補語]

 

 しかしフランス語では英語の「補語」を「属詞」(attribut) と呼びます。フランス語で補語 (complément) というのは、主語と属詞以外のすべての句をさします。たとえば次の文では、主語のCélineと動詞の a rencontréを除いて、後は全部補語と呼ばれます。英文法では à la Gare de Lyon「リヨン駅で」のように場所を表したり、la semaine dernière「先週」のように時間を表す語句は「付加詞」(adjunct) と呼びますが、フランス語では補語になります。(注2)

 

 (4) Céline / a rencontré / une vieille amie / à la Gare de Lyon

         主語      動詞             直接目的補語           状況補語 

        / la semaine dernière.

                状況補語

        セリーヌは先週リヨン駅で旧友にばったり出会った。

 

 主語をS、動詞をV、直接目的補語をCOD、間接目的補語をCOI、属詞をAと略称すると、フランス語の基本文型は次のようになります。(注3)

 

 i) S-V  

       Jean travaille.

       ジャンは働いている(働く)。

  動詞は目的補語を取らない自動詞 (verbe intransitif) です。

 ii) S-V-A

        Annie est pianise.

  アニーはピアニストだ。

  Pierre restera célibataire.

  ピエールは独身のままだろう。

 動詞はコピュラのêtreの他に、rester「〜のままでいる」、devenir「〜になる」、paraîrre「〜のように見える」などの準コピュラ動詞 (verbe copulatif) です。属詞は主語にかかる主語の属詞 (attribut du sujet) です。

 iii) S-V-COD

        Luc regarde la télé.

  リュックはテレビを見ている(見る)。

  動詞は直接目的補語を取る他動詞 (verbe transitif) です。

 iv) S-V-COI

         Nicole ressemble à sa tante.

    ニコルは叔母さんに似ている。

         Lucie s’occupe de ses enfants.

   リュシーは子供たちの世話をする。

  動詞は間接目的補語が必要な間接他動詞 (verbe transitif indirect) です。(注4)

 v) S-V-COD-COI

          Karine a offert un stylo à son père.

    カリーヌはお父さんに万年筆をあげた。

  動詞は直接目的補語と間接目的補語の両方を取る動詞です。

 vi) S-V-COD-A

          Je trouve ce flim intéressant.

           私はこの映画はおもしろいと思う。

  属詞は直接目的補語の属詞 (attribut de l’objet direct) です。

 

 ここでひとつ注意しておきたいのは直接目的補語と間接目的補語の見分け方です。英語には次のような二重目的語構文があります。

 

 (5) I gave Peter a book.

  私はピーターに本をあげた。

 

 Peterは間接目的語、a bookは直接目的語なのですが、どちらも裸の名詞で形だけでは見分けがつきません。しかしフランス語にはこのような二重目的語構文はありません。フランス語では動詞に続く裸の名詞が直接目的補語で、間接目的補語には必ず前置詞のàdeが付きます。次の例では前置詞のない un livreが直接目的補語で、前置詞のあるà Pierreが間接目的補語です。

 

 (6) J’ai donné un livre à Pierre.

  私はピエールに本をあげた。

 

 さて、上に示した i)〜vi)の基本文型は構文として必ず必要な要素だけをあげているので、状況補語や副詞などのその他の要素は入っていません。場所や時を表す状況補語は文の中のあちこちに置くことができますが、基本は次の三箇所です。

 

 (7) 文頭

   En France, on roule à droite.

   フランスでは車は右側通行だ。

 (8) 動詞の直後

   Le café occupe dans la vie des Français une place importante.

   カフェはフランス人の生活で重要な位置を占めている。

 (9) 文末

   Mon grand-père avait l’habitude de promener son chien dans le jardin public.

   祖父は公園に犬を散歩に連れていくのを日課にしていた。

 

 これ以外の場所に状況補語を置くときは、前後にヴィルギュール ( , )を置きます。ヴィルギュールに挟まれた語句は挿入句 (incise) となります。

 

 (10) Il est courant, dans beaucoup de pays, d’attendre que celui qui parle ait terminé pour prendre la parole.

   多くの国では話している人が話し終えるのを待って発言するのがふつうだ。

 

 では上にあげたフランス語の基本文型は、実際にはどのくらいの頻度で使われているのでしょうか。少し古い文献ですが、次のような調査結果があります。(注5)数字は見つかった用例の数です。順位が飛び飛びになっているのは、C’est構文やIl y a構文などの非人称構文を別に数えているからです。

 

 1位 S-V-COD     [415]

 2位 S-V-A         [244]

 3位 S-V           [234]

 4位 S-V-COI       [115]

 9位 S-V-COD-COI [16]

 13位 S-V-COI-COD [10]

 16位 S-V-A-COD   [6]

 

 数から見ると、上位の4位までが圧倒的に多いですね。9位や13位の目的補語を二つ持つ文は実際には少ないことがわかります。

 さて、基本文型を構成する主語や直接目的補語や間接目的補語は、それがなくては文が成り立たない必須要素です。これにたいして状況補語は場所や時間の情報を付け加えて文の意味をより豊かにするものとされています。

 しかしこう考えると都合の悪いこともあります。次の例文を見てみましょう。

 

 (11) Ma grand-mère habite à Nice.

   私の祖母はニースに住んでいる。

 (12) Je vais à Londres demain.

   私は明日ロンドンに行く。

 (13) Elle pèse quarante-huit kilos.

   彼女の体重は48kgだ。

 (14) Ce livre coûte vingt euros.

   この本の値段は20ユーロだ。

 (15) Je me souviens de cet événement. 

   その出来事は覚えている。

 

 (11)でもし à Niceを取ってしまうと、*Ma grand-mère habite.「私の祖母は住んでいます」となり、意味をなしません。他の例も同様です。同じ à Niceという前置詞句でも、次の例文では必須ではない状況補語です。à Niceを取り去っても文として成立します。

 

 (15) Claire a trouvé un bon appartement à Nice.

   クレールはニースでよいアパルトマンを見つけた。

 

 このため最近では (11)〜(14)の斜体太字の補語を complément essentiel 「必須補語」と呼ぶようです。この場合、補語はもう単なる「補い」ではなく、文とって必要な要素になります。

 ということは à Niceという前置詞句は、それ自体では省略可能な補語かそれとも必須補語かが決まっているわけではなく、(11) の動詞 habiterが必須補語を必要とするために、à Niceは必須補語という役割を果たしているということになるでしょう。この意味でも文を作る主役は動詞だと言えます。

 

(注1)(1)に挙げたもの以外に「同格」(apposition) を文法的役割に含めることがあるが、それがはたして適切かどうかは議論の余地がある。

(注2)「補語」(complément) という用語はフランス語の世界では古くから使われていて、人によって意味するものが少しちがうことがある。たとえば la montre de mon père「父の腕時計」のように名詞の意味を限定したり、Elle est allergique à la farine.「彼女は小麦アレルギーだ」のように形容詞の意味を限定する語句も補語と呼ぶことがある。

(注3)主語 (S) や直接目的補語 (COD) や属詞 (A) は文法機能 (fonction grammaticale)だが、動詞 (V)はそうではなく品詞である。したがってS-V-CODなどの基本文型は、文法機能と品詞が混在した不ぞろいなものである。このことは言語学では古くから認識されていた。ここでは伝統に従うものとする。

(注4)間接他動詞という分類を認めず、ressembler à 〜、obéir à 〜などを自動詞に含める立場もある。

(注5)Corbeil, Jean-Claude, Les structures syntaxiques du français moderne, Klincksieck, 1968.

「フランス語100講」第8講 文 (2)

 国語学・日本語学を学んだ目で欧米の言語学を眺めると、「文」は〈主語+述語〉からなるという一本槍で、とても硬直した印象を受けます。一方、国語学・日本語学では昔から文タイプの研究が盛んに行われてきました。その理由のひとつは、日本語には次の例のように助詞の「ハ」と「ガ」の区別があることです。

 

 (1) a. 空青い。

         b. あっ、空まっ赤だ!

 (2) a. Le ciel est bleu.

         b. Tiens ! Le ciel est tout rouge !

 

 フランス語では (2 a) (2 b) のように〈主語+être+形容詞〉という文型にちがいが現れません。日本語の文タイプについては今までにさまざまな提案が行われてきました。ここでは仁田義雄氏(注1)と三尾いさご氏(注2)の文タイプを見てみましょう。(注3)

 仁田氏はモダリティのちがいに基づいて次のような文タイプを提案しています

 

 (3) 働きかけ         命令「こっちに来い」

                                   依頼「いっしょに食べましょう」

 (4) 表出           意志・希望「今年こそがんばろう」

                                   願望「明日天気になあれ」

 (5) 述べ立て      現象描写文「子供が運動場で遊んでいる」

                                   判定文「彼は評議員に選ばれた」

 (6) 問いかけ         判断の問いかけ「彼は大学生ですか」

                                   情意・意向の問いかけ「水が飲みたいの」

 

 このうちでここでの話に関係があるのは「述べ立て」です。「働きかけ」や「問いかけ」とはちがって、「述べ立て」は何らかの事実や判断を述べるときに用いる文です。「述べ立て」には「現象描写文」と「判定文」の2種類があるとされています。現象描写文と判定文にはいろいろなちがいがありますが、ここで重要なのは次の特徴です。

 

 (7) a. 現象描写文は助詞「ハ」でマークされた主題を持たない(無題)。

    i) 子供が遊んでいる。

   b. 判定文は「ハ」でマークされた主題を持つ(有題)。

    ii)私はこのチームのキャプテンです。

 (8) a. 現象描写文は疑問や否定の対象にならない。(注4)

         i)?あっ、荷物が落ちるか?

           ii) ?あっ、荷物が落ちない。

                (文頭の疑問符は容認度が低いことを表す)

   b. 判定文は疑問や否定の対象になる。

    i) あなたはこのチームのキャプテンですか?

    ii) 私はこのチームのキャプテンではありません。 

 

 (7 a) (7 b)が示しているように、現象描写文と判定文のちがいは、助詞の「ハ」と「ガ」のちがいと強く結びついています。さきほどフランス語では文型のちがいは現れないと書きましたが、実はフランス語にも次のような現象描写文に特有の文型があります。しかしフランス語学ではこのような文タイプはあまり注目されていません。(注5)

 

 (9) Tiens ! Le facteur qui passe.

   ほら、郵便屋さんが通る。

 

 次に三尾氏の文の理論を見てみましょう。三尾氏の理論では「場」という概念が重要な役割を担っています。その定義はちょっとわかりにくいので、私の解釈を交えて説明してみましょう。

 日常、私たちは何のきっかけもなく「空は青い」などと言うことはありません。隣に座っている人が突然そう言ったら驚きますね。私たちが何かをのべるときには何らかのきっかけがあります。たとえば、「あっ、雨だ」と言うときには、雨が降り出したという外界の様子がきっかけです。また、「あなたはどちらのご出身ですか」とたずねられて、「京都です」と答えるときは、相手の質問がきっかけになります。このように、何かの発話をうながすきっかけとなるものが三尾氏の言う「場」なのです。

 「何だ、それは言語学で言う発話状況 (situation d’énonciation) と言語文脈 (contexte linguistique) を足し合わせた co-texteのことじゃないか」と思った人もいるでしょう。しかしふつう言語学では、発話状況や言語文脈は、文のあいまい性を除去し解釈を助けるものとされています。しかし三尾氏の文理論では、「場」はそのような補助的なものではなく、ときには文の一部となるものだというちがいがあります。

 「場」と文との関係に基づいて、三尾氏は次のような4つの文タイプを提案しています。

 

 (10) 場の文(現象文) 「雨が降っている」

 「場の文」は「現象文」とも呼ばれています。現象文は、現象に判断の加工をほどこさずありのままに述べたものとされています。形式的には、格助詞の「ガ」が使われ、述部は動詞で「〜ている」や「〜た」の形になります。「場の文」では、場と文とは一体化しているとされます。

 (11) 場を含む文(判断文)

 「場を含む文」は「判断文」とも呼ばれています。この文タイプの特徴は助詞の「ハ」でマークされた主題を持つことで、「AはBである」という話し手の判断を表します。

 (12) 場を指向する文(未展開文)「あ! 」「雨だ!」

 梅が咲いていることに気づいて「あ!」と言葉を漏らしたり、雨が降り出して「雨だ!」と言うとき、文の内容は十分に展開されておらず不十分ですが、「梅が咲いている」や「雨が降り出した」という「場」を指向して表現しようとしています。

 (13) 場と相補う文(分節文) (これは?)「梅だ」

 「場と相補う文」は、「これは?」とたずねられたときに、「梅だ」と答える場合です。「これは?」という問が場として働き、それを受けて「梅だ」と答えるので、「これは(場)+梅だ」のように、場と相補って文として成り立ちます。

 

 三尾氏の「現象文」はほぼ仁田氏の「現象描写文」、「判断文」は「判定文」と同じものとみなしてよいでしょう。三尾氏のユニークな点は、未展開文や分節文のように、ふつうは文の断片とされるものまで文タイプに含めたところにあります。

 このように日本語学で提案されている文タイプは、フランス語を考えるときにどのような手がかりになるのでしょうか。それは文というものをどう捉えるかという問題に深く関わります。文法書には次のような例文がよく見られます。(注6)

 

 (14) Ce qui entend le plus de bêtises dans le monde est peut-être un tableau de musée.   (Les Goncourt)

世の中でいちばんたわ言を聞かされているのは、おそらく美術館に展示されている絵だろう。(ゴンクール兄弟)

 この例文の特徴は、〈主語+述語〉の構造を取っているだけでなく、文の意味を解釈するために文脈も発話状況も必要としないという点にあります。教科書や辞書の例文は、それだけで十分に意味が取れるものでなくてはなりません。この例文の意味を理解するために、誰が、誰に向けて、いつ、どこで、何を受けて発話されたかという付随的な情報が必要ないのはそのためです。三尾氏の用語を使うと、「場」の拘束や規定が一切ないのです。「場」に影響されることなく、いわば無重力の真空中を漂っているような文です。

 しかし、実際に私たちはこのように場の影響を受けずに話すことはありません。実際のフランス語の会話例を見てみましょう。家の改装計画を工事業者と話しているところで、Aが業者で、Bが発注者です。(注7)

 

 (15) A : Voilà alors euh je vais vous expliquer ce que j’ai fait.

            B : Oui.

            A : Puis après vous regardez les prix.

            B : C’est le prix qui intéresse en plus en premier.

            A : Ah, non. C’est quand même le travail … c’est… voilà je vous ai fait un petit croquis là.

            A : じゃあ私が用意したものを説明しましょう。

            B : ええ。

            A : それから後で値段を見てください。

            B : いちばん大事なのは値段ですよね。

            A : いや、でも仕上がりの方が…、それは…、ここにかんたんな図面を用意しました。

 

 自宅の改装工事の話をしているという説明がなければ、何の話をしているのかさっぱりわからないでしょう。工事を発注するという話し手Bの意図や、業者Aが用意した図面、ひとつ前のターンで相手が言ったことなどが、この会話の「場」を形成しています。私たちが実際に言葉を使うときには、話し手と聞き手のキャッチボールのようなやり取りの中で、「場」に規定され、「場」と呼応するように会話が進むのです。

 フランス語で「場」を考慮に入れなければ意味が取れない文をひとつ紹介しましょう。(注8)

 

  (16)[夫にベッドで朝食をとらせようと運んで来たのに夫がもう起きているのを見て]

   Moi qui me réjouissais de te server ton petit-déjeuner au lit !

                                                                   (Simenon, Un Noël de Maigret)

   あなたにベッドで朝食を食べてもらうのを楽しみにしていたのに!

 

 この〈Moi+関係節〉構文は、期待・予期していたこととは逆のことが起きたときに使います。妻は夫のメグレ警視にベッドで朝食を食べてもらおうと、寝室まで朝食を運んで来たのですが、夫はもう起床して服を着替えていたのです。この文には次の① ② が発話を支える場として働いています。

 ①「夫にベッドで朝食を食べてもらおう」という話し手の意図

 ② 予想に反して「夫はもう起きていた」という出来事

 どちらが欠けてもこの文は成立しません。このような構文を理解するには「場」という概念はとても有効だと思います。

 

(注1)仁田義雄『日本語のモダリティと人称』ひつじ書房、1991.

(注2)三尾砂『国語法文章論』三省堂、1948.『三尾砂著作集 I』ひつじ書房、2003に再録。

(注3)国語学における文タイプの研究は、おそらく松下大三郎『標準日本文法』(1924)までさかのぼる。松下は「有題的思惟性断定」と「無題的思惟性断定」を区別した。また三上章『続・現代語法序説 — 主語廃止論』(1959)は、「有題文」と「無題文」の区別を提案している。これ以外にも、Kuroda, S.-Y.(黒田成幸)の categorical judgement(二重判断)/ thetic judgment(単一判断)、益岡隆志の「属性叙述文」と「事象叙述文」などがあり、文タイプの研究は日本語学では盛んに行われている。

(注4)ただし、「あっ、財布がない!」のような現象文では否定が可能である。

(注5)フランス語学ではDanon-Boileau, L. « La détermination du sujet », Langages 94, 1989が、現象文と判定文に相当する文タイプを提案している。Un étudiant a appelé ce matin pour toi.「今朝、学生が君に電話してきた」のような文は énoncé événement「出来事文」と呼ばれていて「現象文」に当たる。Ravaillac détestait la poule au pot.「ラヴァイヤックは鶏のポトフが嫌いだった」のような文はénoncé de type propriété「属性叙述文」と呼ばれていて、「判定文」に相当する。

(注6)京都大学フランス語教室編『新初等フランス語教本 文法篇』白水社

(注7)エクス・マルセイユ大学 (Université d’Aix-Marseille) 大学で採取されたフランス語会話コーバスより。

(注8)このタイプの文は、小川彩子「〈Moi+擬似関係節〉型構文と脱従属化」『フランス語学研究』54, 2020 でくわしく考察されている。

「フランス語100講」第7講 文 (1)

【文とは何か】

 フランス語統語論を論じようと思えば、「文とは何か」という問を避けることはできません。しかし、「言語学者の数だけ文の定義がある」と言われるほど、文を定義するのはむずかしいのです。

 佐藤房吉・大木健・佐藤正明『詳解フランス文典』(駿河台出版社1991)は、文を次のように定義しています。

 1個の単語、または文法に則して配列された1群の単語が、ある思想や感情や意志などを表明している時、これを文 (phrase) と言う。1個の文は、例えば Oh ! là ! là !(やれやれ、なんてこった)のように間投詞だけから、あるいは Oui(そうだ)のように副詞だけから成る場合もあるが、ふつうは1個または数個の動詞を含んでいる。〔間投詞や副詞だけの文を語句文(mot-phrase)と言う〕(p. 408)

 伝統的にはこのように、文とは「ひとつのまとまった思想や感情を表す」ものであり、いくつかの単語からできているが、Oui.のように1つの単語だけでも文となる場合がある、というように定義されることが多いようです。

 しかし次の引用はこのような定義のむずかしさを示しています。

   En grammaire traditionnelle, la phrase est un assemblage de mots formant un sens complet qui se distingue de la proposition en ce que la phrase peut contenir plusieurs propositions (phrase composée et complexe). Cette définition, qu’on rencontre encore dans certains manuels, s’est heurtée à de grandes difficultés. Pour définir la phrase, on ne peut avancer l’unité de sens, puisque le même contenu pourra s’exprimer en une phrase (Pendant que je lis, maman coud) ou en deux (Je lis. Maman coud.). Si on peut parler de « sens complet », c’est justement parce que la phrase est complète. En outre, on a posé à juste titre le problème de telle phrase poétique, par exemple, dont l’interprétation sera fondée uniquement sur notre culture et notre subjectivité, et de tel « tas de mots » ayant un sens clair et ne formant pas une « phrase » , comme dans Moi y en a pas d’argent.

 (Jean Dubois et als. Dictionnaire de linguistique, Larousse, 1973)

伝統文法では、〈文〉とは、全体で1つのまとまった意味をなす語の集まりで、複合的な文や複文ではいくつもの節を含むことがあるという点で、節とは区別される。この定義は、今なお一部の教科書に見られるものだが、大きな難点がある。文を定義するために、意味のまとまりをもちだすことはできないのである。Pendant que je lis, maman coud.「ぼくが本を読んでいる間、ママはお裁縫をしている」と Je lis. Maman coud.「ぼくは本を読んでいる。ママはお裁縫をしている」のように、同じ内容が2つの文でも1つの文でも表現できるからである。《まとまった意味》と言えるのも、文がまとまっているからにほかならない。さらに、例えば、もっぱら我々の教養及び主観に基づいて解釈されるような詩的な文とか、moi y en a pas d’argent「ぼく、お金、ないの」のように、意味ははっきりしているが、《文》を形成しない《語の集積》のごときものとかの問題も、当然のことながら起こってくる。(伊藤晃他訳『ラルース言語学用語辞典』大修館書店)

 上の引用で持ち出されている例「ぼくが本を読んでいる間に〜」は、1つの文からなる単文と、主節と従属節からなる複文のちがいを示すためのものです。終わりの方で引用されている Moi y en a pas d’argent.はくだけた話し言葉の言い方で、もう少し文法的に正しく書き直すと、Moi, il n’y en a pas, d’argent.となります。中性代名詞のenは最後のd’argentを受けているので、文法的には余剰で、話し言葉ではよくあることです。「僕、そんなものないよ、お金なんて」くらいの意味でしょうか。しかしだからといって「語の集積」と言うのは言いすぎのような気もします。

 これよりもっと過激なものもあります。ムーナン (Georges Mounin 1910-1993) が編集した『言語学事典』には、なんと定義が5つも並べられているのです。

   Il existe au moins cinq classes de définitions différentes de ce concept intuitif.

1/ Une phrase est un énoncé complet du point de vue du sens.

2 / C’est une unité mélodique entre deux pauses.

3/ C’est un segment de chaîne parlée indépendant syntaxiquement (… ) Autrement dit, la phrase (…) est la plus grande unité de description grammaticale. (…)

4/ Une phrase est une unité linguistique contenant un sujet et un prédicat.

5/ C’est un énoncé dont tous les éléments se rattachent à un prédicat unique ou à plusieurs coordonnés

                     (Georges Mounin (ed.) Dictionnaire de la linguistique, PUF, 1974)

 

「文」というのは直感的な概念であり、少なくとも5つの異なる定義群がある。

1/ 文とは意味の点においてまとまった1つの発話である。

2/ 文とは2つの休止に挟まれた音調単位である。

3/ 文とは統語的に独立した話線の切片である。(…)言い換えれば、文は文法が記述する最大の単位である。

4/ 文とは、主語と述語からなる言語の単位である。

5/ 文とはそれを構成するすべての要素が、1つまたは複数の述語の組み合わせと関係する発話である。

 

 1/は「まとまった意味を表す」という伝統的な定義ですね。2/は音調曲線に着目したものです。イントネーションは文の始まりから上昇し、文の終わりで下降します。3/は文が統語的に最大の単位であることを述べたもので、ここには構造主義や生成文法の考え方が見られます。4/は文が主語と述語からなるとしています。これは上に引用した佐藤他の文法書や、Duboisの辞典にはなかったものです。5/は4/をさらにくわしく述べたものです。定義を5つも並べているのは、どれも満足のいく定義ではないからでしょう。

 このようにすべてのケースに当てはまることをめざしたやり方とはちがって、たいへんユニークな考え方が橋本陽介氏の『「文」とは何か ─ 愉しい日本語文法のはなし』(光文社新書)に見られます。それは「文とは、必要なことが必要なことだけ表されたものである」という見方です。次の例を見てください。

(1) A : 今日、いつ大学に行くの?

     B : 3限目から。

 ふつうはBの答の「3限目から」は完全な文ではなく、「今日、僕は3限目から大学に行く」が省略されたものされるでしょう。しかし、「文とは、必要なことが必要なことだけ表されたものである」という見方に立てば、これも立派な文です。これだけで必要にして十分なことを述べているからです。橋本さんはこのような考え方を野間秀樹氏の『言語存在論』(東京大学出版会 2018)から学んだようです。『言語存在論』では、言葉の意味が最初からあるのではなく、意味になるのだとされています。解読者(聞き手、または読み手)が、その言葉を解読する具体的な場において、その都度意味を作り出すのであって、言語は話し手から聞き手への単純な意味の伝達ではないということでしょう。(注1)

 私はこのような考え方に賛成です。論理学と隣り合わせの西欧の言語学の伝統では、「完全な文」というものがあり、そこには現実を過不足なく表現するものだという思想が根強くあります。ですからこの基準にそぐわないものは、不完全なもの、省略されたもの、崩れたものと断じがちです。しかし、言葉の意味はあらかじめ文の中にあるものではなく、具体的な場において作り出されるものだと考えるならば、「完全な文」などなくなります。

 

【文は主語と述語からなる】

 ムーナンの『言語学辞典』の文の定義 4/ にあるように、文は主語(仏 sujet / 英 subject)と述語(仏 prédicat / 英 predicate)からなるというのも西欧の言語学の伝統的な考え方です。それはアリストテレスにさかのぼると言われています。主語にあたるsubjectumは、sub-「下へ」と-jectum「投げられた」からなりますが、それは「今からこれについて話しますよ」と相手の前に提示されたものという意味です。ですからそれは話題の中心で、今日の言語学でいう「主題」(仏 thème / 英 topic)に近いものです。〈文 = 主語+述語〉という考え方は、代表的な英文法にも当然見られます。

 文は、1語からなるものもあるが、通例は、「ある事柄について、何かを述べる」という形式をもっている。伝統的に、「ある事柄」の部分は主部 (subject)、「何かを述べる」部分は述部 (predicate) と呼ばれている。以下の例で、太字体の箇所が主部、斜字体の箇所が述部である。

 (1) Birds sing. (鳥は歌う)

 (2) The pupils went to a picnic.(生徒たちはピクニックに行った)

 (3) The doors of the bus open automatically.(このバスのドアは自動的に開く)

                (安藤貞雄『現代英文法講義』開拓社 2005

 上の引用に挙げられている例では、どれを主語と認定するかは特に問題がありません。しかし主語を「ある事柄について、何かを述べる」の「ある事柄」だとすると、次のような例では問題が生じます。

(2) Il est bien connu que Homo Sapiens est né en Afrique.

  ホモ・サピエンスがアフリカで生まれたことはよく知られている。

 この文で「ある事柄」は「ホモ・サピエンスがアフリカで生まれたこと」で、それについて「よく知られている」ことが述べられています。しかし (que) Homo Sapiens est né en Afriqueはこの文の主語ではなく、主語は非人称のilです。教室ではこのような場合、ふつうilは何も指さない「見かけ上の主語」(sujet apparent)であり、(que) Homo Sapiens est né en Afriqueが「実主語」または「真主語」(sujet réel) だと説明します。

 次のような例も問題となります。

(3) Des touristes américains, on en trouve partout.

    アメリカ人の観光客ならどこにでもいる。

 この文は「アメリカ人観光客」について何かを述べている文です。しかし、Des touristes américainsは文頭に遊離 (détachement)あるいは転位 (dislocation)されていて、代名詞enで受けられています。代名詞enは文中では直接目的補語になっています。すると「アメリカ人観光客」はこの文の主語とは認められなくなってしまいます。そうなることを避けるために、Des touristes américainsは文法的主語 (sujet grammatical)ではなく、「心理的主語」(sujet psychologique) だとする考え方が生まれました。

 主語には伝統的にもうひとつの考え方があります。それは他動的な動詞の動作の主体、つまり「何かをする人・物」を主語とする定義です。言語学では「動作主」(agent) といいます。

(4) Les députés socialistes ont critiqué vivement les politiques du gouvernement.

   社会党の議員たちは政府の政策をきびしく批判した。

(5) Les politiques du gouvernement ont été vivement critiquées par les députés socialistes.

   政府の政策は社会党の議員たちにきびしく批判された。

 能動文の (4)では批判しているのは les députés socialistesですから、それが動作の主体で主語になっています。ところが受動文の (5) ではそうではありません。動詞の活用を支配している文法的主語はLes politiques du gouvernementで、les députés socialistesは動作主補語 (comlément d’agent) になっています。このように動作主が典型的な主語であるという考え方を保持するために、(5)でles députés socialistesは「論理的主語」(sujet logique) であるとする向きもあります。動作主を主語とする考え方は、フランス語は「直接語順」(ordre direct) の言語であるという考え方に基づきます。

 しかし、「文法的主語」「見かけ上の主語」「心理的主語」「論理的主語」などのように、主語がまるでウォーリーのように増えるのは好ましいことではありません。現在では、「論理的主語」は意味論における「動作主」で、「心理的主語」は談話文法における「主題」であると整理されています。しかしこのようにいろいろな主語が提案されてきたことは、ヨーロッパの言語において〈文=主語+述語〉という思想の呪縛がいかに強いかを物語っています。

 『象は鼻が長い』を書いた日本語学者の三上章はかつて「主語廃止論」を唱え、日本語では「主語という概念は百害あって一利なし」と断じました。またモントリオール大学の金谷武洋氏は『日本語に主語はいらない』(講談社2002)という本を出しています。確かに日本語ではそうかもしれませんが、主語が大きな役割を担っているフランス語ではそういう訳にもいきません。この点に関して、日本語とフランス語は類型論的に別のグループに属しています。何だかんだ言ってもフランス語には主語が必要なのです。                                                      (この稿次回につづく)

 

(注1)橋本陽介『「文」とは何か ─ 愉しい日本語文法のはなし』には、文についてもうひとつの重要な指摘がある。それは、話し手の主観を表すモダリティこそが、文を成立させるものだという指摘である(p. 53)。モダリティというのは、「今日は暖かい」では「断定」、「洋子さんは元気?」では「疑問」、「柴漬け食べたい」では「願望」などの話し手の判断を指す。これは日本語学特有の「陳述論」に基づく考え方で、ヨーロッパの言語学には見られないものである。「陳述論」はフランス語学にも貢献できる重要な考え方なので、また別の場所で取り上げたい。

「フランス語100講」こぼれ話 (2) ─ フランス語の発音異聞

 先日、何気なくNHK・Eテレのフランス語講座を見ていたら、出演していた若いフランス人男性が、impressionismeを「アンプレショニム」、japonismeを「ジャポニム」と発音していたので仰天した。語尾の-ismeは「イスム」と濁らずに発音するのが決まりのはずだ。

 教室では綴り字の –s- は前後を母音字で挟まれたときだけ [z] と濁ると教わる。たとえば maisonは「メゾン」で、désertは「デゼール」だ。子音字と隣り合ったときは、veste 「ヴェスト」、dessert「デセール」のように濁らない。テレビの若いフランス人が –ismeを「イズム」と濁って発音したのはおそらく英語の影響だろう。

 最近、次のようなことも耳にした。来日したフランス人の言語学者が、linguistiqueを「ランギスティック」と発音したというのだ。フランス語の綴り字の –guiはふつう「ギ」と発音する。languir「ランギール」、guide「ギード」などがそうである。しかし、aiguille「エギュィーユ」、linguistique「ランギュィスティック」など少数の語では「ギュイ」[ɡɥi] と発音する。フランス人の言語学者が「ランギスティック」と発音したのが英語の影響によるものかどうかはわからない。英語でlinguisticsは「リングゥィスティックス」と発音し、「リンギスティックス」ではないからである。

 確かに発音は時代とともに変化する。たとえば綴り字の –oiは、もともとはローマ字どおりに「オイ」と発音していたのだが、時代とともに変化して、次は「ウェ」となった。絶対王政をよく示す有名な L’État, c’est moi.「朕は国家なり」という言葉を、ルイ14世は「レタ セ ムェ」と発音していたはずである。古い文章を見ていると、半過去形の avaisがavoisと綴られていることがあるが、これは当時の読み方の名残りである。その後、-oiは現在の「ウァ」[wa] へと変化した。

 だから –ismeも将来「イズム」と発音するのがふつうになるかもしれないが、未来のことは誰にも予言できない。国語学の泰斗金田一春彦先生が若い頃、「東京山手方言(標準語)のガ行鼻濁音はいずれ消滅するだろう」と書いたことがある。しかし、その後、何十年経っても鼻濁音はなくなることがなかった。金田一先生は、「言語の未来は予測できない」と反省したという。フジテレビの「めざましテレビ」の軽部真一アナウンサーが見事なガ行鼻濁音を出しているのを聞くにつけ、確かにそのとおりだと痛感するのである。

    *        *         *

 フランス語を学ぶ人を悩ませるもののひとつにリエゾン (liaison) がある。読まない子音字で終わる単語の次に母音で始まる単語が来ると、読まないはずの子音字を読むようになるという現象である。次の例ではlesの語尾の –sを「ズ」と読むようになる。

 

 les「レ」+enfants「アンファン」→ les enfants「レザンファン」

 

 なぜこのようなややこしい規則があるかというと、それはフランス語が母音連続 (hiatus)を嫌う言語だからである。(注1)フランス語では、[子音+母音+子音+母音]のように開音節(注2)が並ぶのを好む。もしリエゾンをしなければ「レアンファン」となり、「エア」と母音が続いてしまう。これを嫌うので語尾の-sを「ズ」と発音して母音連続になるのを避けるのだ。

 無音のhで始まる語はリエゾンするが、有音のhで始まる語はリエゾンしないとも習う。ややこしいのは無音・有音と言いながら、どちらのhも発音しないことである。無音のhと有音のhの区別はフランス語の歴史にさかのぼる。

 フランス語の親であるラテン語では、紀元ゼロ年頃にはすでにhを発音しなくなっていたと言われている。homo「人間」は「オモ」だったわけだ。このようにラテン語由来の語が無音のhで、その意味は「ラテン語ですでに無音となっていたh」ということである。しかし5世紀頃に始まるゲルマン民族の大移動で、フランク族がやって来た。ゲルマン語はhを強く発音する。ゲルマン語から流入したhache「斧」、haie「生垣」、hanche「腰」などの単語の頭の hはやがて黙字となったが、発音していた歴史のせいで、今でも子音字扱いされてリエゾンしないのである。

 母音・無音のhで始まる単語でも、数詞のhuit「8」やonze「11」はリエゾンしない。toutes les huit heures「8時間ごとに」は「トゥート レ ユイ トゥール」で、les onze garçons「その11人の少年」は「レ オンズ ギャルソン」と発音する。数は重要な情報なので、数詞であることをはっきりさせるためにリエゾンしないのである。un enfant de huit ans / de onze ans「8歳 / 11歳の子供」のようにエリジヨンもしない。

 有音のhについては謎がいくつかある。haut「高い」はラテン語のaltusから来ていてゲルマン語由来ではない。しかし形容詞では珍しく有音のhなのは、ゲルマン語の hohの影響とされている。もっと不思議なのは héros「英雄、主人公」だ。これもラテン語の herosから来ているのに有音のhとされている。Le Bon usageなどの文法書に書かれている説は、リエゾンして les héros「レゼロ」(英雄たち)と発音すると、les zéros「レゼロ」(役立たず、能なし)と混同されるからというものである。どうやらこの説の源はヴォージュラ(Claude Fabre de Vaugelas 1585-1650) らしい。(注3)17世紀に一人の文法家が唱えた説が今でも引き継がれているのは驚くべきことだ。この説が正しいかどうかは神のみぞ知るである。

 ヨーロッパ統合によってフランスの通貨のフランがユーロになったせいで、フランスで買い物をする日本語話者には新たな問題が生じた。deux euros「2ユーロ」とdouze euros「12ユーロ」の混同である。eurosが母音字始まりなので、deux eurosは「ドゥーズューロ」とリエゾンする。するとdouze eurosとの発音のちがいは –eu– [ø]-ou- [u]の差だけになり、発音し分けるのはとてもむずかしい。誤解を避けるには、deux euros, deux、douze euros, douzeと deux, douzeを繰り返すのがいいだろう。カフェで給仕が注文を厨房に伝えるときにも、deux cafés, deuxと数字を繰り返すことがあるが、それと同じやり方だ。

 リエゾンについてはおもしろい思い出がある。フランスにZ’amino「ザニモ」という動物の形をしたビスケットがある。この製品名はリエゾンに関する子供の誤分析に由来する。子供は類推により次のように誤って言葉を句切る。

 

 les crayons 「レ・クレヨン」(鉛筆)

 les animaux「レ・ザニモ」(動物)

 

 子音字始まりの単語で「レ」が定冠詞だと理解し、それを母音字始まりの単語にも当てはめて、「動物」の複数形は「ザニモ」だと考えるのである。

 フランスの幼稚園に通って半年ほどになる当時5歳の娘が、家族で南仏を旅行していたときに、「次はどこのノテルに泊まるの?」とたずねるのを耳にして驚いた。これも子供がよくやる誤分析である。

 

 un crayon「アン・クレヨン」(鉛筆)

 un hôtel「アン・ノテル」(ホテル)

 

 子音字で始まる単語に不定冠詞の単数形が付くと、「アン・クレヨン」となる。それを母音字で始まる単語にも当てはめると、-nのリエゾンがあるので「アン・ノテル」と聞こえる。そこから「ホテル」の単数形は「ノテル」だと考えるのである。フランスに滞在して半年にしかならない子供が、類推によって新しい言語を習得していく姿を目の当たりにするのはとても印象深い体験だった。

 

(注1)最近、ハイエイタスというロックバンドがいることを知った。ハイエイタスは hiatusの英語読みである。

(注2)開音節とは ma 「マ」のように母音で終わる音節のこと。but「ビュット」のように子音で終わる音節を閉音節という。

(注3)『フランス語覚え書き』Remarques sur la langue françoise, 1647.

「フランス語100講」第6講 人称代名詞 (3)

第6講 人称代名詞 pronom personnel (3)

─ 自立形人称代名詞は人も物もさすのか

 

 1・2人称は話し手と聞き手をさすので、moi, toi, nous, vousが人をさし、物をささないのは当然です。(注1)しかし3人称の代名詞は先行詞があれば、人だけでなく物もさすことができます。では自立形のlui / elle / eux / ellesが物をさすことはあるのでしょうか。ほとんどの文法書はこの点について沈黙しています。また文法書で挙げられている例文は人をさす例ばかりです。

 

 (1) Les plus heureux ne sont pas eux.

   最も幸せな人は彼らではない。

          (目黒士門『現代フランス広文典』白水社)

 (2) On parle de lui pour la présidence.

  大統領候補に彼の名があがっている。

        (Grevisse, M. , A. Goose, Le Bon usage, Editions Duculot)

 (3) Il ne pourrait pas vivre sans elle.

  彼は彼女なしでは生きていけないだろう。

        (六鹿豊『これならわかるフランス語文法』NHK出版)

 

 3人称の自立形が人ではないものをさす例が見つからないわけではありません。

 

 (4) Nous ne voyons pas les choses memes ; nous nous bornons, le plus souvent, à lire les étiquettes collées sur elles.   (Henri Bergson, Le rire)

私たちは物自体を見ているのではない。たいていは物の上に貼り付けられたラベルを読むことで済ませている。

 (5) … les nations se trouvent nécessairement des motifs de se préférer. Dans la partie perpétuelle qu’elles jouent, chacune d’elles tient ses cartes.

               (Paul Valéry, Grandeur et décadence de l’Europe)

どんな民族にも他の民族より自分たちのほうが優れていると考える根拠がある。民族どうしがお互いを較べあう際限のないゲームでは、どの民族も切り札を握っているのだ。

 (6) La liberté est une valeur primordiale. Nous combattons pour elle.

   自由はかけがえのない価値である。私たちは自由のために戦っている。

 

 しかしよく見ると、(4)でellesが指しているのは les choses「事物」という意味がぼんやりした単語ですし、(5)では les nations「民族」は抽象名詞である上に、擬人化されて人間のように扱われています。(6)は私が作った例ですが、これも擬人化の匂いがします。

 一方、次も作例ですが、自立形が具体物を指すのは難しいように見えます。(*印はその文が非文法的であることを表す)

 

 (7) Hélène trouva une souche dans la clairiaire. *Elle s’assit sur elle pour se reposer.

         エレーヌは森の中の空き地に切り株を見つけた。彼女は休むためにそれに腰掛けた。

 (8) *Il a sorti un couteau de sa poche et a épluché une pomme à l’aide de lui.

         彼はポケットからナイフを取り出すと、それを使ってリンゴを剥いた。

 

 朝倉季雄『新フランス文法事典』(白水社)のsoiの項目を見ると、自立形は物を指すのにふつうに用いられると書かれており、次のような例文が見つかります。

 

 (9) tous les maux que la guerre entraîne après elle

   戦争がその後に引き起こすあらゆる災害

 (10) Les fautes entraînent après elles les regrets.

      過ちは後で後悔を招く。

 

 しかしこの例文はどちらも ellesがさしているのは entraîner「引き起こす」という能動的動作の主体で、多分に擬人化されていますし、さしているものも la guerre「戦争」、les fautes「過ち」のような抽象名詞です。

 同書のluiの項目には、「àde以外の前置詞とともに用いられた自立形は原則として人を表すが、物について用いられる場合もまれでない」と書かれていて、その条件が次のように示されています。

① 前置詞の副詞的用法が不可能か、俗用となる場合

J’apercevais au sommet d’un monticule herbeux une haute tour, semblable au donjon de Gisors et je me diregeais vers elle.

草の茂った小さな丘の頂きにGの城の主塔に似た高い塔を見つけ、そのほうに向かっていった。

② 前置詞が sur, sous, dans, au-dessus de, auprès de, autour deなどならば、これに対応する副詞 dessus, dessous, dedans, au-dessus, auprès, autourを用いて、事物を表すlui, eux, elle(s)を避けるのが普通

Ce siège est solide, asseyez-vous dessus.

この腰掛けはしっかりしています。これにお掛けなさい。

 

 順番を逆にして②から見たほうがわかりやすいです。surは前置詞で、ふつう sur la chaise「椅子の上に」のように後に名詞を必要とします。一方、surと意味の上で対応する dessus「その上に」という副詞があり、これは後に名詞を必要としません。ですから次のようなペアを作ることができます。

 

 (11) Il s’est assis sur la chaise.

   彼は椅子の上に座った。

 (12) Il s’est assis dessus.

   彼はその上に座った。

 

 (12)のように副詞を使うことで、Il s’est assis sur elle.を避けるというのが②の趣旨です。やはりla chaise「椅子」のような具体物に自立形を使うのは避けるべきとされているのです。

 上の①が述べているのは、避けられないときに限って、しかたなく具体物に自立形を用いるということです。たとえば次の例のように前置詞avecを副詞のように使うのは俗用とされています。

 

 (13) Il a pris son manteau et il est parti avec.

         彼はマントを取り、それを着て出かけた。(『小学館ロベール仏和大辞典』)

 

 やはり自立形代名詞は人をさすのが原則で、物をさすのは他にやり方がない場合に限られるのです。

 アントワープ大学のタスモフスキー教授も同じ意見です。(14) のように動詞の支えがなく単独で用いられたとき、自立形は必ず人をさすと述べています。たとえば、自分の自動車 (ma voiture) が思いがけない場所にあるのを見つけたときでも、自動車に自立形elleを使うことはできません。(14 b) のように指示代名詞のçaを使うそうです。(14 a) のようにするとelleは人をさすことになります。

 

 (14) a. Elle, ici ! 彼女がここにいるなんて。

            b. Ça, ici ! これがこんな所にあるなんて。

 

【人称代名詞の指示傾斜】

 人称代名詞についてここまで見てきたことをまとめると、次のようになります。○はさすことができる、×はさすことができない、△は微妙を表しています。

 

 (15)  主格 ─ 直接目的格 ─ 間接目的格 ─ 自立形

  人   ○            ○                    ○        ○

  物   ○            ○                    △        ×

 

 ここから次のような一般化を導くことができるでしょう。

 

 (16) 動詞にとって中核的な文法役割では、代名詞は人・物の区別をしない。

   文法役割が周辺的になるにつれて、代名詞は人をさす傾向が強くなる。

 

 「動詞にとって中核的な文法役割」とは、主語と直接目的補語のことです。ちょっとカッコ良くこの一般化を「人称代名詞の指示傾斜」と呼んでおきましょう。

 人称代名詞がさすものについて、なぜこのような傾斜が見られるのでしょうか。前にも少し書きましたが、日本語とは異なり、フランス語は人と物をあまり区別しません。同じ動詞や形容詞を人にも物にも使うことができます。

 

 (17) Jacques a marché des kilomètres sous la pluie.[Jacquesは人]

   ジャックは雨の中を何キロも歩いた。

 (18) Cette machine à laver a dix ans, mais elle marche encore bien.[洗濯機は物]

   この洗濯機は買って10年になるが、今でもよく動く。

 (19) Sa mère est morte il y a cinq ans.[お母さんは人]

   彼女のお母さんは5年前に亡くなった。

 (20) Cette ampoule est morte.[電球は物]

   この電球は切れている。

 

 人と物を区別しないという特徴は、(17)〜(20)に挙げた主語の場合と、次に挙げる直接目的補語に強く表れます。

 

 (21) La chaleur a abattu Jean.[Jeanは人]

   暑さでジャンは参ってしまった。

 (22) Ils ont abattu le mur de leur maison.[壁は物]

   彼らは家の壁を取り壊した。

 

 これはなぜかというと、フランス語の構文の基本は動詞の持つ他動性(仏 transitivité, 英 transitivity)を軸として組み立てられていて、他動性で中核的な役割を果たすのが主語と直接目的補語だからです。

 もう少しわかりやすく説明してみましょう。フランス語の構文の基本は、主語Aが動詞の表す動作・行為を通じて、直接目的補語Bに何らかの変化を引き起こすという図式です。フランス語では多くの出来事をこの他動性の図式で捉えて表現します。

 

 (23) Cécile a mangé une pomme.

   セシルはリンゴを食べた。

 (24) La rouille a mangé la grille.

   錆で鉄柵が腐食している。

 (25) Cette voiture mange trop d’essence.

   この車はガソリンを食いすぎる。

 

(23)ではセシルがA、リンゴがBで、「食べる」という行為がAからBへと及んでいます。(24)では錆がAで鉄柵がBで、ほんとうに食べるわけではありませんが、まるで食べるかにように腐食させると表現しています。(25)では自動車がA、ガソリンがBで、自動車はまるで大食いの人みたいにガソリンを消費すると言っています。このような他動性の図式では、AがBを変化させるということだけが大事で、AやBが人か物かは問題にされません。

 一方、間接目的補語ではちょっと事情が違います。〈A─動詞─à B〉という図式を当てはめると、(26)では le directeur「部長」がA、sa secrétaire「秘書」がBですが、tenir à〜「〜に執着する」という行為は間接目的補語である秘書さんに何か影響を及ぼすわけではありません。(27)でもAのPierreはBの「計画」にたいして「あきらめる」という行為をするのですが、それによってBの「計画」が変化することはありません。

 

 (26) Le directeur tient à sa secrétaire. Ça se voit.

   部長は秘書の女性にご執心だ。見え見えだよ。

 (27) Pierre a renoncé à ce projet.

   ピエールはこの計画をあきらめた。

 

 つまり間接目的補語では直接目的補語ほど動詞の表す行為が対象に及ばないので、「AがBに何かをする」という他動性の図式からすると、間接目的補語はこの図式から少し外れたものになるのです。

 状況補語になるとそれはいっそうはっきりします。

 

 (28) Les enfants jouent dans le jardin.

   子供たちは庭で遊んでいる。

 

 子供たちが遊ぶことで庭が何か変化することはありません。多少花壇が踏み荒らされるかもしれませんが、それは語用論的推論でjouerという動詞の意味には含まれていません。

 このように他動性の図式でどれだけ中核的な役割を果たすかを図式化すると、次のような階層が得られます。

 

 (29) [主語・直接目的補語]>[間接目的補語]>[状況補語などその他]

 

 このような他動性の階層が (15) で示した人称代名詞の指示傾斜の原因だと考えられます。

 しかし、教室での授業でここまで説明するのは難しいでしょう。フランス人の友人にたずねてみると、*Elle a trouvé une chaise et s’est assise sur elle. [elle=la chaise]はだめで、〜s’est assise dessus とするのがよいという答がすぐに返って来ました。〈前置詞+具体物を指す自立形〉が使えない場合もあることには授業で触れてもよいかもしれません。

 

(注1)野菜のなぞなぞで、Je pousse dans la terre. Je sers à faire des frites. On peut me faire en purée.「僕は土の中で育つよ。僕はフライにするけど、ピュレにしてもいいよ」のように、ジャガイモが擬人化されている場合はもちろん別である。

(注2)Tasmowski-De-Ryck, Liliane et S. Paul Verluyten, “Linguistic control of pronouns”, Journal of Pragmatics 1 (4), 1982