第5講 人称代名詞 (pronom personnel) (2)
前回は接辞代名詞である主格 (je, tu, etc.)、目的格 (me, te, etc.)についてお話しました。今回取り上げる話題は残る強勢形人称代名詞です。
【強勢形という呼び名は適切か】
前回「強勢形」という呼び名は音声の特徴に着目した名称で、統語的振舞いを反映していないので、あまりよい呼び名ではないと書きました。ではどういう呼び名がいいのでしょうか。「自立形」と呼ぶ人もいます。接辞とはちがって、動詞から離れて自立的に使うことができるからです。「離接形」(forme disjointe)と呼ぶ人もいます。Moi, je suis d’accord.「私はOKですよ」のように文から離れた位置で使うこともあるからです。同じ理由から「遊離形」(forme détachée) と呼ぶ人もいて、呼び方はまちまちです。
言語学では他の語にくっついて使われる形態素を「拘束形態素」(英 bound morpheme)、他の語にくっつかず単独で使えるものを「自由形態素」(英 free morpheme)といいます。それにならえば強勢形人称代名詞は「自由形」とでも呼ぶのがよいのでしょうが、これだと水泳の泳ぎ方の一種とまちがわれかねないので、ここでは「自立形」としておきましょう。
【自立形人称代名詞はどんなときに使うのか】
接辞代名詞と自立形の代名詞の用法はほぼ相補分布(distribution complémentaire)の関係にあります。つまり、接辞形が使える場所では自立形が使えず、接辞形が使えない場所で自立形を使う補完関係にあるということです。接辞形を使う主語・直接目的補語・間接目的補語の位置では自立形は使えません。これらは言語学では「項」(英 argument)と呼ばれていて、動詞が完全な意味を持つために必須の要素とされています。意味的・統語的に動詞と密接な関係のある項の位置には接辞代名詞が用意されているのです。次の各ペアのb.が示すように、この位置では自立形は使えません。
(1) a. Je vais bien. 私は元気です。(主語)
b. *Moi vais bien.
(2) a. Claire n’est pas là ? Je la cherche depuis une heure.(直接目的補語)
クレールはここにいませんか。1時間前から探しているんですけど。
b. *Je elle cherche depuis une heure.
(3) a. Jeanne ne vient pas. Je lui ai dit de venir ici à dix heures.(間接目的補語)
ジャンヌは来ないな。10時にここに来るように言ったのに
b. *Je elle ai dit de venir ici à dix heures.
ただし、いつくか例外があります。自立形の3人称のlui, elle, eux, ellesは、接辞形に代わって主語になることができます。この場合、主語に多少の強調が置かれます。
(4) Lui au moins soutient notre proposition.
少なくとも彼は私たちの提案を支持してくれている。
またなんらかの文法的理由によって接辞形が使えないときには、他にしようがないので自立形を使います。次の例 (5) は ni… ni…によって等位接続しているケースです。否定される項目を並べた ni… ni…は動詞の後に置かなくてはならず、接辞形のme, teは使えないので自立形を使います。
(5) Carine n’aime ni toi ni moi.
キャリーヌは私も君も好きじゃないんだよ。
またne…queによる制限では「Aだけ」のAは必ずqueの後に置かなくてはならないので、この場合も接辞形は使うことができず自立形を使います。
(6) Carine n’aime que toi.
キャリーヌが好きなのは君だけだ。
以上のことは間接目的格でも同じです。
(7) Sandrine ne parle ni à toi ni à moi.
サンドリーヌは君にも私にも話さない。
(8) Eléonore n’a parlé qu’à toi.
エレオノールは君にしか話さなかった。
今まで見てきたのとは逆に、接辞形の代名詞が使えないところでは自立形を使います。それは主に次のような場合です。
(9)[属詞]Qui est là ? — C’est moi.
「そこにいるのは誰ですか」「私です」
(10)[前置詞の目的語]Venez avec moi.
私といっしょに来てください。
(11)[形容詞・副詞の比較級のqueの後]
Pierre est plus fort que moi au tennis.
ピエールはテニスで私より強い。
(12)[同格]Xavier, lui, m’approuvera.
グザヴィエなら私の意見に賛成してくれるだろう。
(13)[aussi, non plus, autres, seulなどとともに]
Je suis fatigué. — Moi aussi.
「私は疲れました」「私もです」
Lui seul est venu.
彼だけが来た。
(14)[動詞を省略した文で]
Qui m’aidera ? — Moi.
「誰が手伝ってくれる?」「私」
(15)[関係節が付くとき](注1)
Il est déjà huit heures. Et moi qui n’ai pas fini de me maquiller !
もう8時だわ。なのにまだお化粧も終わっていないなんて。
上の例の自立形代名詞を名詞に置き換えると、(9) C’est Paul.「ポールです」、(10) Venez avec Hélène.「エレーヌといっしょに来てください」、(11) Pierre est plus fort que Nicolas au tennis.「ピエールはニコラよりテニスが強い」などとなり、自立形代名詞はふつうの名詞と同じ場所で使えることがわかります。
また (9) から (15) で自立形が使われているのは動詞と密接な関係を持たない場所です。たとえば (10) はavec moiを取り去って Venez.「いらっしゃい」だけでも十分使えます。接辞形が動詞と結びつきが強い「項」の位置で用いられ、動詞と融合してしまうのにたいして、自立形が用いられるのは「項」ではない周辺的な場所なのです。(注2)
【luiとyのどちらを使うか問題】
英語と比較したときに、フランス語の人称代名詞の大きな特徴は、3人称で人と物を区別しないという点にあります。英語では人を指す he / sheと物を指す itを区別しますが、フランス語ではil / elle は人に物にも使われます。目的格のle / laも同じです。
(16) Jacques ? Il s’occupe de ses enfants. [人]
ジャックですか。子供たちの世話をしています。
(17) Ma voiture ? Elle est garée dans la cour.[物]
私の車ですか。中庭に駐めてあります。
(18) Sandrine ? Je l’ai vue à la bibliothèque.[人]
サンドリーヌですか。図書館で見かけましたよ。
(19) Mon vélo ? Je l’ai vendu à un ami.[物]
私の自転車ですか。友達に売りました。
しかしこのことが言えるのは人称代名詞の主格と直接目的格までです。間接目的格になると、事情が少しちがいます。多くの文法書では人称代名詞 lui / leurは人を指し、物を指すときには中性代名詞のyを用いると書かれています。たとえば朝倉季雄『新フランス文法事典』(白水社)には、「à qn (=quelqu’un), à qch (=quelque chose)のどちらも伴い得る動詞では lui, yで人・物が区別される」(p. 293)と書かれていて、次のような例文が挙げられています。
(20) Il m’a écrit et je lui ai répondu.
彼は私に手紙をくれたので、私は彼に返事を書いた。
(21) Cette lettre était insolente, je n’y ai pas répondu.
その手紙は無礼だったからそれには返事を書かなかった。
répondre「返事をする(書く)」という動詞は、人に返答するときも、手紙に返事を書くときも使えて、間接目的補語は人・物の両方が可能なので、多くの文法書の例文として使われています。白状すると私も『フランス文法総まとめ』(白水社)では安易にこの動詞を使っていまいました。
ただし朝倉文法事典の記述には続きがあります。「多くは、〈à+人〉を補語とする次の動詞は、luiが人を表すと解される恐れのない場合には、物についても lui, leurを用い得る」とあり、物でも lui / leurを取ることができる動詞が並んでいます。次はその一部です。
comparer「比較する」、consacrer「捧げる」、donner「与える」、
ôter「奪う」、 rendre「返す」、nuire 「損なう」、demander「要求する」、
obéir「従う」、etc.
そして次のような例文が挙げられています。
(22) La lune baignait la salle et lui donnait une blancheur aveuglante.
月の光は一面に差しこみ、部屋はまばゆいばかりに白かった。
(23) De plus en plus, les machines nous commandent, et nous leur obéissons.
ますます機械は我々に命令し、我々はその言うままになる。
これとは逆に人なのに yを使う場合もあります。次の例ではyは後に置かれた à ton lieutenantを受けています。
(24) Tu y penses toujours, à ton lieutenant ?
相変わらず思いつめているの、例の中尉さんのことを。
これはどういうことなのでしょうか。実はこれは大変ややこしい問題なのです。多くの文法書に書かれている「3人称の間接目的補語では人には lui / leurを、物にはyを使う」というのは、教育的な配慮からうんと単純化したものなのです。
多くの研究者がこの問題に挑みました。元神戸大学教授の林博司さんは、「受影性」と「主題性」による説明をしています。(注3)「受影性」とは影響を受ける度合のことです。
(25) Laisse donc tes chaussettes. Tu va leur faire des trous.
靴下をいじくるのはやめなさい。穴をあけてしまいますよ。(注4)
(26) Il y tient toujours, à cette fille. (注5)
彼はこの娘にあいかわらずくびったけだ。
(25)は物なのにleurが、(26)は人なのにyが使われています。それは「穴をあける」が影響の大きなこと、つまり「受影性」が高く、一方「執着する」は相手にほとんど影響を与えません。つまり「受影性」が高いとlui / leurが使われる傾向にあり、「受影性」が低いとyが使われるというわけです。
これにたいして元西南学院大学教授の西村牧夫さんは、間接目的補語の「自立性」で説明しようとしています。(注6)
(27) Frapper la balle de biais de manière à lui imprimer un movement de rotation sur elle-même.
ボールが回転するように斜めから打つ。
(28) Votre description est trop sèche, ajoutez-y quelques détails.
あなたの描写は味も素っ気もない。少しディテールを加えなさい。
どちらも間接目的補語は物ですが、(27)では打ったボールはその後自立的に回転するのにたいして、(28)ではあなたの描写は何かを加えられるだけで、自立性がありません。同じ物でも自立性が高いときは lui / leurが、低いときはyを使うというのが西村さんの説明です。
以上の分析を総合すると、lui / leurは間接目的補語がさすものの個体性が高く、自立的に動くことができたり、動詞の表す行為によって影響を受けやすいものをさすときに使われると言えそうです。自立性が高く影響を受けやすいものの典型は人です。一方、yはもともとは J’habite à Paris. 「私はパリに住んでいます」→ J’y habite.「私はそこに住んでいます」のように、場所を表す副詞的代名詞ですので、場所のように状態性が強く自分では動かず、また動詞の表す行為によって影響を受けにくいものをさすと考えられます。その典型は場所や物です。しかしその境界線は微妙でグラデーションをなしていて、「ここまでは lui / leurでここからはy」のように、はっきり線引きできるものではないようです。
実は今回の講義は、lui / leurとyの使い分け問題に決着を付けるためのものではありません。目的は別のことなのですが、だいぶ長くなりましたので、次回にお話することにします。 (この稿次回につづく)
(注1)ただし次のような場合には接辞代名詞に関係節を付けることができる
i) Je l’ai vu qui pleurait. 私は彼が泣いているところを見た。
これは J’ai vu Paul qui pleurait.の直接目的補語 Paulを代名詞化したもので、関係節は擬似関係節である。これについては別のところで改めて扱う。
(注2)(9)の属詞(英文法では主格補語)は取り去ってしまうと *C’est.となり、非文法的になってしまうので、コピュラ動詞êtreに必須な項とする考え方もある。
(注3)林博司「『à+名詞句』を受けるy とluiについて — フランス語におけるdatifとlocatif」、大橋保夫他『フランス語とはどういう言語か』駿河台出版社、1993.
(注4)文意を考えて日本語訳は原文とは異なるものにした。
(注5)例にしやすいように例文を少し変えた。
(注6)西村牧夫「間接補語y vs à lui vs lui」、東京外国語大学グループ《セメイオン》『フランス語を考える ─ フランス語学の諸問題 II』三修社、1998.