『フランス語100講』開講のお知らせ

 2025年4月から「橄欖追放」で『フランス語100講』を開講することにしました。

 『フランス文法総まとめ』(白水社、2019年)を書くときに、どのような構成の文法書にするか大いに迷いました。しかし最終的には、読者の使いやすさを考えて、伝統的な品詞別の文法書になりました。第1章「名詞」、第2章「冠詞」、第3章「形容詞」のように、品詞ごとに章を分けて書いてあります。

 しかしこのような品詞別の文法にすると、こぼれ落ちてしまうものがあります。それは品詞が文の中で担う文法機能 (fonction grammaticale) です。文法機能とは、「主語」「直接目的補語」「属詞」「状況補語」など、単語が文の中て担う文法的な役割のことです。一つの文法機能を担うのは一つの品詞とは限りません。ふつうはいくつもの品詞が同じ文法機能を担当しています。たとえば属詞を例に取ると、(1)では名詞が属詞ですが、(2) では形容詞が属詞で、(3)では属詞は前置詞句です。

 (1) Mon oncle est le vice-consul de France à Bagdad.

  私の叔父はバグダッド駐在のフランス副領事だ。

 (2) Cette pièce de théâtre est magnifique.

  この戯曲はすばらしい。 

 (3) Juliette est en colère.

  ジュリエットは怒っている。

 このように「属詞」という文法機能は、いくつもの品詞にまたがっています。このため品詞別の文法書だと、あちこちにばらばらに出て来ることになり、「属詞」というまとまりで書くことができません。

 また名詞や形容詞といった品詞は単語ですから目に見えます。maisonは名詞で、beauは形容詞です。ところが「主語」や「属詞」といった文法機能は、単語が文の中で担う役割なので、目に見えない抽象的な概念です。目に見えないものを基準にして文法を書くのはとても難しいのです。フランス語の世界では、川本茂雄編著『フランス語統辞法』(白水社、1982年)がおそらく唯一の先例ではないでしょうか。

 また『フランス語100講』では、今までのフランス語文法ではあまり重視されなかった観点からフランス語のしくみを考えたいと思います。

 その一つは話し手と聞き手が作る「発話の場」(situation d’énonciation) です。言葉というものは本来、誰かが誰かに向けていつかどこかで話すというものです。ところが今までの文法は、誰が誰に向けて話しても、いつどこで話しても、変わらないような共通部分を抽出しようとしてきました。難しく言うと「指標性」(英 indexicality)の排除です。この結果、文法は無味乾燥な規則の集まりのような観を呈することになります。しかし話し手と聞き手はことばのはたらきに欠かせないものです。話し手と聞き手は、文法のしくみに大きな影響を及ぼしています。

 今まで文法でおろそかになっていたもう一つの観点は談話 (discours) です。談話とは、まとまりのある文の集まりのことです。テクスト (texte)という呼び方もあります。今での文法は、文を中心に据える文・文法(英 sentence grammar / 仏 grammaire de phrase)で、文より大きな談話は原則として扱えません。このため (4) の文でNapoléonを受ける代名詞はilceは使えないことや、(5) のarrivaitという半過去形がなぜここで使われているのかといったことを説明するのがとても苦手でした。

 (4) Napoléon entrait dans la ville. {Il était / *C’était} un vainqueur impitoyable et il voulait que tout le monde le sache. (Coppierters 1975)

 ナポレオンは市内に入城した。{彼は / *それは}情容赦のない勝者であり、みんながそのことを知ることを望んでいた。

 (5) Le train siffla longuement : on arrivait à la gare.

   列車は長々と警笛を鳴らした。駅に到着したのだ。

 このように文と文とにまたがる現象を扱うためには、文より大きな単位を対象とする談話文法(英 discourse grammar / 仏 grammaire de discours)の観点を取り入れることが必要になります。『フランス語100講』ではこの点を重視して、フランス語のしくみをもう一度考えてみたいと思います。

 また国語学・日本語学の成果も取り入れたいと思っています。ふつうフランス語文法を教えるときは、日本語との比較をしません。しかし日本語を話す私たちがフランス語を学ぶと、そのちがいに気づくことがあり、またちがいが学習の障壁となることもあります。『フランス語100講』では積極的に日本語との比較をしたいと思います。

 最後になりますが、私は生成文法や形式意味論のような計算主義的で決定論的な言語観にどうも馴染めないものがあります。それは言語というものは、本来的にひずみや揺らぎや未決定な部分を内包しているもので、確率論的に捉えるほうが適していると思うからです。私たちが発話を解釈するときも、「たぶんこうだろう」と思って相手の言葉を受け取りますが、間違っていることもあり、その修復過程まで含めての言語のしくみだと思います。現在国立国語研究所の所長さんをしている田窪行則さんと、「言語研究には神の視点が必要か」という論争をしたことがあります。私は神の視点ではなく、限られた情報しかもたず、特定の視点からしか出来事を見ることができない人間という立場から言語を眺めてみたいと考えています。そういう考え方もどこかに滲み出るかもしれません。

 ちなみに「100講」の100は厳密な数字ではなく、『豆腐百珍』とか「白髪三千丈」などの数字と同じで、「たくさん」という意味です。本当に連載が100回続くかはわかりません。それより少ないかも知れませんが、それより多くなるかも知れません。また堅苦しい文法の話ばかりでは肩が凝るので、「こぼれ話」も織り交ぜるつもりです。こちらもご期待ください。