第239回 九螺ささら『ゆめのほとり鳥』

失った時間をチャージするためにサービスエリアがあるたび止まる

九螺ささら『ゆめのほとり鳥』

 

 不思議な歌である。場面は高速道路。下句の「サービスエリアがあるたび止まる」はわかる。不思議なのは上句である。高速道路は早く目的地に着くために走るものだ。普通の道路を走ったら6時間かかるところを2時間で目的地に着いたら、4時間得をしたと考えるのがふつうだ。しかし作者は高速道路を走ると時間を失うと感じているのだ。

 こういう風に考えてみるとわかるかもしれない。私たちの寿命が70年に決まっていると仮定してみよう。これは目的地までの距離に当たる。生き方に2コースあるとする。ふつうの時間で生きて課長まで昇進する生き方と、3倍のスピードで生きて取締役まで出世する生き方だ。後者は確かに到達する職階は上だが、速度を上げて生きたため実際には70年の3分の1、つまり23.33年しか生きていない。46.67年の時間を失っているのである。だから掲出歌ではサービスエリアがあるために止まって、そこで高速で移動したために失った時間を取り戻すと言っているのだ。逆転の発想でとてもおもしろい。

 九螺ささらの名前は新聞の短歌投稿欄や穂村弘『短歌ください』などでたびたび目にしていた。ペンネームの名字を何と読むのか長い間謎だったが、このたび「くら」と読むことがわかり、積年のつかえが解消した感がある。プロフィールによれば、九螺は2009年頃から独学で短歌を作り始めたという。それからいくらも経たないうちに2010年に短歌研究新人賞の次席となっている。その年の新人賞受賞は「ロックン・エンド・ロール」の吉田竜宇と「死と放埒な君の目と」の山崎聡子。『ゆめのほとり鳥』は書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズから刊行された第一歌集である。編集と表紙絵と解説は東直子。九螺は直前に『神様の住所』(朝日出版社)という歌文集も出版している。朝日新聞の書評欄で元東大教授の哲学者野矢茂樹がこの本を取り上げて書評していたので驚いた。ちなみに「神様の住所」は九螺が短歌研究新人賞次席を取った時に投稿した連作の題名である。

 一読してすぐわかることだが九螺の短歌は誰の歌にも似ていない。きわめて独自な歌である。いくつか目についたものを引いてみよう。

(なんだろう、これは…)と呟きながら1号は自身の涙で錆びついていった

離陸したとたんはらぺこになったから空中にて鳥の肉を頼む

いまなにか消えた気がしたシューマイのグリーンピースのようななにかが

テロメアの長さがすなわち寿命らしお好み焼きにかつおぶし踊る

不要だと集められたる六千のピアノが奏でる〈乙女の祈り〉

 一首目は「ロボット」の題詠に応募した作だという。その背景を知らなくても「1号」でロボットかサイボーグだとわかる。ロボットが流すはずのない涙で錆びてゆくという歌だ、涙には塩分が含まれているので確かに錆びやすいだろう。このロボットの躯体は鉄でできているようだから、ずいぶん旧式のロボットにちがいない。そんなレトロ感も漂う。

 二首目、機内食の「Beef or chicken?」である。この歌のミソは「鶏肉」とせずに「鳥の肉」と書いた点。空を飛行中に同じく空を飛んでいる鳥の肉を食するところに、自身か猛禽類にでも化身したかのような不穏な感じがただよう。もっとも飛行機の巡航高度の1万メートル付近を実際に飛ぶ鳥はいないのだが。

 三首目はとりわけおもしろい。「今何かが消えた気がする」ことは日常ままある。その些細な感覚をシューマイのグリーンピースに喩えたところが愉快だ。シューマイは好きだが上に乗っかっているグリーンピースが嫌いだという人は少なくない。そもそもなぜシューマイにグリーンピースが乗る必要があるのか理由がわからない。つまりこれは『ハムレット』におけるローゼンクランツとギルデンスターンのような存在の不条理を詠んだ歌なのだ。

 四首目、現代生物学の教えるところによると、我々の寿命は細胞内の染色体の末端にあるテロメアによって決まるという。細胞分裂を繰り返すたびに、テロメアはバスの回数券のように1枚ずつ減ってゆくらしい。これが上句だが、下句は一転してお好み焼きにジャンプする。熱いお好み焼きに薄く削った鰹節をふると、鰹節は熱に煽られて踊り出す。それが生命の乱舞のようでもあり、またMemento Moriを忘れて踊る私たちのようでもある。

 五首目、子供が幼い時にピアノを習わせようとピアノを買う親は多い。しかしたいていの子供は単調な練習を嫌って途中でやめてしまう。こめために大量の不要ピアノが生まれる。六千台ものピアノが一斉に「乙女の祈り」を奏でる光景は壮観だが、それは無理矢理好きでもないピアノを習わせられた少女の怨嗟の声のようにも、また不要品として回収されたピアノの嘆きのようにも聞こえる。

 このように九螺の短歌は、時にSF的であり時にファンタジー/メルヘン的でもある。短歌というよりショート・ショートを読んでいる気分になる。その特徴は「奇想」と徹底した〈私〉の不在であると言ってよい。上に引いたシューマイのグリーンピースの歌に見られるように、九螺の短歌は哲学的で、なかんずく存在論的である。九螺自身も短歌は哲学や理性と相性が良いといい、また『神様の住所』のあとがきでは自身に形而上的世界を愛する「宇宙酔い」の持病があったと述べている。

大江戸線のエスカレーター上がってくこの世の時間を巻き戻しなかがら

右手用ミトンだけが三つもありこの部屋はバランスがいびつ

けのCD揺れる銀河色 四億年前の記憶のごとく

時空からしたたった泡我というかりんとう好きの有機体である

 一首目、一番最近に作られた大江戸線は他の路線を避けるために東京の最深部を通っている。このためホームまで行くエスカレーターがとても長い。この歌にも掲出歌と同じく空間的移動から時間への経過の転写がある。地下深いホームから地上に上がるのはまるで時間を巻き戻しているかのようだというのである。

 二首目、ミトンは鍋つかみのこと。確かにミトンはどこかに行きやすい。片方失くして新しいのを買ううちに、右手用が3つもある。この事態を「世界の歪み」と捉えているのだ。

 三首目、民家の軒先や畑に鳥よけのCDが吊られている光景はよく目にする。キラキラと光るのが鳥よけに効果があると考えられているのだろう。ふつうそのきらめきは「虹色」と表現するが、ここでは「銀河色」と表現されることで、一気に宇宙的スケールへと広がる。

 四首目は自分を「時空からしたたった泡」と観じる存在論的な歌である。動的平衡を提唱する青山学院大学教授の生物学者福岡伸一は、私たち有機生命体はつまるところ「タンパク質の一時的な淀み」でしかないと喝破した。それを思わせる歌だ。

 誰でも子供の頃に、「地球は46億年前に生まれた」とか、「宇宙は無限で果てがない」とか、「ビッグバンで宇宙が誕生する前は無であった」などという途方もない話を聞かされると、一瞬頭がぼうっとなって思考が中止する体験があるにちがいない。太陽系は銀河系という島宇宙の片隅にあり、銀河系と同じような島宇宙が無数にあって、さらに…と考えるだけで子供心に恐怖を覚えた人もいるだろう。しかし人は大人になるにつれて感性を日常的スケールに刈り込んで行き、宇宙のことは頭から閉め出してしまう。九螺はおそらく誰もが子供時代に経験したことのある存在論的懐疑を失わずに持ち続けている人なのだろう。

 あえて短歌の世界に先蹤を求めるとすれば、香川ヒサの名が頭に浮かぶ。香川の短歌もしばしば哲学的でまたときに宇宙論的である。

角砂糖ガラスの壜に詰めゆくにいかに詰めても隙間が残る

もう一人そこにはをりき永遠に記念写真に見えぬ写真屋

棒切れをくはへて戻り尾を振りて犬として犬を在る犬がある

ビッグバンの残光およぶ地上にて小麦畑に播かれゐる種

 しかし香川の歌がどちらかと言えば知性と機知による世界の再構成という趣きがあるのに対して、九螺の短歌は存在論的懐疑が体質として体の奥にまで染み込んでいる感じがある。

「世界観が世界を造っているのです、世界が世界観を、ではなくて」

神経の集合が脳であるように存在は時空間の貯水池

「この現実」は実験室の水槽の一つの脳が見つづけている夢

 上に引いた歌ようなは短歌的昇華が不十分で、あまりに生な表現になっているように思う。「世界が世界観を作っているのではなく、世界観が世界を作っている」というのは実にその通りなのだが、そのまんまを歌にするとストレートすぎる。また中国にもこの世界は「クワン」という巨大な魚が見ている夢だという伝承があったり、有名な荘子の胡蝶の夢の逸話もあるので、私たちが現実だと信じているものは実は誰かの夢だというのはそう目新しいものではない。照屋真理子の短歌や俳句でも現実と夢の位相の逆転はずっと大きなテーマとなっている。

公園は散歩のためにある幻公園を出ると散歩が消える

横書きの樅の木を縦書きにすると樅の木はやがて縦の木になる

 どれもおもしろい歌で、特に二首目のように漢字を部首に分解する歌は九螺の好みのようだ。『神様の住所』にも「目と耳と口失ひし王様が『聖』といふ字になった物語」という歌がある。しかし惜しむらくは九螺の歌のように奇想を中心に据えると、どうしても意味中心の歌になり、短歌に必要な調べが犠牲になる。そこにいささかの不満が残る。

 しかし奇想と調べがバランスよく配合されると、次のような美しい歌となる。結句をもう少し工夫すれば定型に収まるだろう。

ひとすじに飛び込み台から落ちてゆく人の形をした午後の時間

 『神様の住所』を読むとこのような発想がどういう経路で出て来るのかがよくわかる。まだまだ暑さの去らない短夜の読書としてお奨めしておこう。

 

第238回 野口あや子『眠れる海』

押し黙ればひとはしずかだ洗面器ふるき卵の色で乾けり

野口あや子『眠れる海』

 

 第一歌集『くびすじの欠片』(2009年)、第二歌集『夏にふれる』(2012年)、第三歌集『かなしき玩具譚』(2015年)に続く、著者第四歌集である。書肆侃侃房の現代歌人シリーズの一巻として刊行された。短歌だけでなく、写真家三品鐘によるモノクロ写真が収録されている。野口は朗読会を開いたり、他のジャンルとの交流を積極的に進めているようで、そのような姿勢の一環だろう。

 本ブログではすでに『くびすじの欠片』と『夏にふれる』を取り上げているので、今回で3度目になる。野口はどのように変化した、あるいは変化しなかったのだろうか。

愛しては子供をつくることに触れボトルシップのようなくびすじ

秋すなわちかげろうでありきみの姓を聞いてふりむくまでの眩しさ

父の骨母の血絶つごと婚なして窓辺にかおる吸いさしたばこ

茶葉ふわり浮いてかさなるはかなさで夫と呼んで妻と呼ばれる

子はまだかとかくもしらしらたずね来る男ともだちの目に迷いなく

 これらの歌を読むと、野口は伴侶を得て結婚したようだ。しかし結婚して幸福に包まれているかといえば、どうやらそうでもないようで、互いを夫と妻と呼ぶことにも茶葉が浮く程度の現実感しか感じていない。また子をなすことにためらいがあるようで、三首目の「父の骨母の血絶つごと」は子を残さない決意のようにも感じられる。一首目の「ボトルシップのようなくびすじ」、三首目の「窓辺にかおる吸いさしたばこ」の下句のさばき方はいかにも野口流である。

 上に引いたような歌では、意味はほぼ定型の中に収まっているのだが、読んでいるとそのような歌ばかりではなく、どこか過剰で定型に収まりきらない何かがはみ出しているような印象を受けることがある。

あしのつけねのねじをまわしてくろきくろきポールハンガーたたむひととき

大きなアルミラックの上に小さなアルミラック乗せて人生、なんてわたしたち

飛ぶことと壊れることは近しくてノブを五つあけて出ていく

あ・ま・だ・れとくちびるあければごぼれゆく 赤い、こまかい、ビーズ、らんちゅう

 一首目、部屋におかれているポールハンガーを畳むというごくふつうの動作だが、「くろきくろき」と反復されることで何か過剰なものが感じられる。二首目のアルミラックも若い人たちの部屋によく見られる家具だが、大きなアルミラックの上に小さなアルミラック乗せるという前半と、「なんてわたしたち」という結句の詠嘆がうまく結びつかない。三首目、「ノブを五つあけて」というのは語法的にいささか妙で、ノブをつかんで開けるのはドアである。仮にそう解釈したとして、ドアを5つ開けて出てゆくというのもどこか過剰だ。四首目は意味がよく取れないが、唇から零れるにしても、ビーズはよいとしてらんちゅうは不思議だ。

 いろいろな歌人の歌を読んでいると、言葉と自分(作者)を隔てる距離が人によってずいぶん異なることに気づくことがある。自分と言葉の距離が大きな人にとって、言葉はいわば自分の外にあるもので、画家が絵の具を配合して絵を描くように、石工がレンガを積み上げて家を建てるように、言葉を操作し組み合わせて何かを作り出す。こうして作り出したものは自分の外部に存在する。例えば塚本邦雄はそのような歌人の代表格だろう。一方、言葉と自分の距離が小さな人にとっては、言葉は自分の外にあるものではなく、ましてや操作するものではなく、自分の内側から滲み出て来るものであり、たやすく外在化することができない。自分から言葉を無理に剥ぎ取ろうとすると、皮膚が破れて血が滲んでしまう。野口の歌を読んでいるとそのように感じることがある。

さげすみて煮透かしている内臓の愛と呼びやすき部分に触れよ

夜の底、撹拌されてあわあわと垂らすしずくのオパールいろよ

ゆきふるかふらぬか われはくずおれたむすめを内腿に垂らしておりぬ

真葛這うくきのしなりのるいるいと母から母を剥ぐ恍惚は

ひらかれてくだもののからだ味わえばおなじくいたむ嵐の中で

 このような歌を読むと、野口は言葉を道具として用いて、自分の中にある意味なり感情なりを表現しようとしているのではなく、言葉を皮膚に絡ませ、皮膚を裏返して言葉に被せ、自分と言葉の間をたゆたう関係性を、絞りだすように歌にしているようにも感じられる。

 このことはよく短歌で論じられる「私性」とはちがうことである。「私性」とは、現実を生きる作者としての私と歌の中に詠まれた〈私〉の異同の問題である。「生活即短歌」のような立場では、歌の中の〈私〉はほぼそのまま実人生の作者と取ってかまわない。しかし反写実、芸術至上主義の立場に立つと、その等式は成り立たない。「私性」は現実の私と歌の中の〈私〉の関係を言うものだが、上に野口について述べたのはそうではなく、作者としての現実の私と言葉、あるいは声との距離の問題である。これ以上うまく言えないのだが、短歌の実作者ならば感じ取ってくれるかもしれない。

 このことは野口の身体と関係しているかもしれないとふと思う。

とかげ吐くように吐く歯磨き粉の泡の木曜日がみるまに繰り上がる

芹吐けり冬瓜吐けりわたくしのむすめになりたきものみな白し

 集中にはこのように何かを吐くという歌があるのだが、野口は青春期に長く摂食障害に苦しんでいたらしい。摂食障害は自分の身体との違和である。また『気管支たちとはじめての手紙』という共著の著書もあるので、喘息の持病もあったのかもしれない。身体との違和があったり持病を抱えている人にとって、身体は透明な存在ではなく、時に自己の内部に蠢く他者ともなる。野口の歌に感じられる言葉や声との距離の近さはそのような事情と関係しているのかもしれない。

 最後に印象に残った歌を挙げておこう。

うしなったのも得たものもなく午前十時の地下鉄にいる

感情を恥ずかしむため眉引けばあらき部分に墨はのりたり

ひややかに刃にひらかれて梨の実は梨の皮へとそらされていく

ずがいこつおもたいひるに内耳うちみみに窓にゆきふるさらさらと鳴る

つよく抱けば兵士のような顔をするあなたのシャツのうすいグリーン

さみどりののどあめがのどにすきとおりつつこときれるよるの冷たさ

血脈をせき止めるごとくちづけてただよう薄荷煙草の味は

名残 いえ、じょうずに解けなかっただけ 牡丹のように手から離れる

第237回 穂村弘『水中翼船炎上中』

天使断頭台の如しも夜に浮かぶひとコマだけのガードレールは

穂村弘『水中翼船炎上中』

 

 ガードレールはふつう道路の脇に長く続くものである。車が車道を逸れるのを防止するためにあるのだから当然と言えば当然だ。しかしどういうわけがポツンとひとコマだけのガードレールが残されている。ひと「コマ」というのが正しい数え方かどうかは知らないが、要するに支柱2本分しかない短いものである。これではガードレールの用をなさない。路上観察学会にならって言えば「トマソン」である。「夜に浮かぶ」とあるので、暗い夜道を車で走っていたら、曲がり角でヘッドライトに白く浮かび上がったのだろう。それを「天使断頭台の如しも」という喩を用いて表現するところは近代短歌のコードを遵守している。天使も断頭台で死刑に処せられることがあるのだろうかなどと真面目に考え込んではいけない。これは「詩的比喩」である。詩的比喩はあるが、あまり「圧縮」はかけておらず、修辞は倒置法だけに留めているのでわかりやすい歌になっている。

 天使というと思い出すのは、塚本邦雄が最も美しい町名と評価した「天使突抜」である。京都市下京区に実在する。マリンバ奏者の通崎睦美がこの地名に引かれて住み着いている。穂村は塚本の短歌に衝撃を受けて短歌を作り始めたので、この歌の背後には密やかな塚本へのオマージュが隠されているのかもしれない。

 今年(2018年)の5月に講談社から上梓された『水中翼船炎上中』は、『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』以来、実に17年ぶりの穂村の歌集だという。とても信じられない気持ちになるのは、その間も穂村の名を頻繁に目にしているからだろう。穂村は定評のあるエッセーの名手で、爆笑エッセー集をたくさん出しており、また『短歌ください』のような投稿短歌のアンソロジーや、『ぼくの短歌ノート』のような歌論も書いているので、とても17年ぶりだとは思えないのである。『水中翼船炎上中』の装幀はあの名久井直子。挟まれたメモによると表表紙と裏表紙の組み合わせで9パターンあるそうだ。装画のテーマは旅である。昔の大西洋横断豪華客船の写真や旅行用大型トランクのイラストや古い絵葉書などが配されている。この「旅」は本歌集を読み解くキーワードと言ってよい。穂村はどこへ旅をするのだろうか。

 メモによれば、冒頭の連作「出発」は現在、「楽しい一日」「にっぽんのクリスマス」「水道水」は子供時代、その後は「思春期へのカウントダウン」「昭和の終焉から二十一世紀へ」、やがて「母の死」を経て、最後は「再び現在」となっている。つまり穂村は過去の世界へ旅をしているのである。このうち「楽しい一日」は2008年の短歌研究賞受賞作である。

食堂車の窓いっぱいの富士山に驚くお父さん、お母さん、僕

スパゲティとパンとミルクとマーガリンがプラスチックのひとつの皿に

水筒の蓋の磁石がくるくると回ってみんな菜の花になる

ゆらゆらと畳に影を落としつつ丹前姿になってゆく父

雪のような微笑み充ちるちちははと炬燵の上でケーキを切れば

元旦に明るい色の胴体を揉めばぷよぷよするヤマト糊

 最初の三首は「楽しい一日」から、残りの三首は「にっぽんのクリスマス」から引いた。一首目は新幹線の食堂車の光景である。今はもうないが昔の新幹線には食堂車があつた。子供にとっては憧れの的である。二首目は小学校の給食の風景だろう。私の子供の頃は脱脂粉乳だったが、穂村の時代には牛乳になっていたと思われる。三首目は遠足の光景。そういえば昔の水筒の蓋には方位磁石が付いているものがあった。四首目も明らかに昭和の風景だ。お父さんは会社から戻ると、スーツを脱いで丹前に着替えた。みんなで囲むのはちゃぶ台である。五首目はクリスマス。「食堂車」「マーガリン」「丹前」「炬燵」「ヤマト糊」といったノスタルジーを感じさせるアイテムが散りばめられている。穂村は単なるノスタルジーから過去に旅をしているのだろうか。

 穂村は『短歌研究』2018年9月号に掲載された短歌研究賞受賞のことばで次のようなことを書いている。当時の子供にとって新幹線やビュッフェは憧れだった。しかし新幹線はその後速度が上がったため食堂車は無用となり廃止された。新たな時代状況に見合った大人の憧れを探せばいいのだが、どこにそれを求めればよいのかわからない。「楽しい一日」にはすべてが幻だったような感覚と、それに抗う気持ちがまざっている、と。

 短歌は「今」を切り取り「今」を輝かせる詩型だ言われることがある。穂村自身、近代短歌の重要なモチーフは「生のかけがえのなさ」だと論じ、次のように書いている。

 「かけがえのない〈われ〉が、言葉によってどんなに折り畳まれ、引き延ばされ、切断され、乱反射され、ときには消去されているように見えても、それが定型の内部の出来事である限り、この根源的なモチーフとの接触は最終的には失われない。一人称としての〈われ〉が作中から完全に消え去っているようにみえても、生の一回性と交換不可能性のモチーフは必ず『かたちを変えて』定型内部に存在する。」(『短歌の友人』p.185)

 もしそうだとすると、上に要約した穂村の受賞の言葉は、今の世界に憧憬の対象を見いだせず、輝かせようにも「今」に手が触れないという気持ちを言い表していると取ることができる。

 穂村はたびたび「酸欠世界」について語っている。穂村が今の世界に欠けていると感じている「酸素」とは、「愛や優しさや思いやりといった人間の心を伝播循環させるための何か」であり、それが欠けた世界では「愛や優しさや思いやりの心が、迷子になったり、変形したりして、そこここに虚しく溢れかえっている」(『短歌の友人』p.106)のである。そして「蜆蝶草の流れに消えしのち眠る子どもを家まで運ぶ」と詠む吉川宏志や、「花しろく膨るる夜のさくらありこの角に昼もさくらありしか」と詠む小島ゆかりは酸欠とは無縁で、それは彼らが一人用の高性能酸素ボンベを背負って詠っているからだとする。「一人用の高性能酸素ボンベ」とはいかにも穂村らしい言い回しで笑ってしまうが、言いたいことはわかる。今の自分の暮らし、住んでいる町、つきあいのある友人、働いている会社、所属しているサークル、通っている教会などの近景や中景世界で、どんなに些細でも「愛や優しさや思いやり」を感じることのある人は酸欠にはならない。

 穂村が『水中翼船炎上中』で過去に旅をするのは、現在に「生のかけがえのなさ」「生の一回性」を実感できる「今」が感じられないからではないだろうか。だからこそ毎日が「わくわく感」に充ちていた子供時代がモチーフとなるのである。

灼けているプールサイドにぴゅるるるるあれは目玉を洗う噴水

東京タワーの展望台で履き替えるためのスリッパをもって出発

カルピスと牛乳まぜる実験のおごそかにして巨いなる雲

ザリガニが一匹半になっちゃった バケツは匂う夏の陽の下

魚肉ソーセージを包むビニールの端の金具を吐き捨てる夏

 このような歌に穂村が求めているのは過去を懐かしむノスタルジーではない。毎日が「わくわく感」に溢れていた「今」を再び現前させたいと願っているのである。正月とクリスマスを除けば、描かれているのが夏であることもこれと無縁ではない。長い夏休みは子供時代のハイライトである。穂村はそれを詠むことによって、「ワンダー」をもう一度感じたいと希求しているのではないだろうか。

 このように本歌集は「過去への旅」をテーマとしているので、そちらに注意を引かれがちだが、穂村の短歌の作り方の巧さにも注意しておきたい。

あのバスに乗ったらどこへ着いたのと訊かれて駅と答える冬の

埋立地で拾った猫がレフ板の上でねむれば墜ちてくる雪

金色の水泳帽がこの水のどこかにあると指さした夏

 穂村は口語が基本だが、定型は驚くほどきちんと守っている。おそらく穂村が腐心しているのは歌を「どこに着地させるか」である。一首目は「あのバスに乗ったらどこへ着いたの」という仮定法過去完了の会話に始まり、「駅」と答えた後で「冬の」と付け加えている。結句は「冬の駅と答える」でも音数は同じだが、「あのバスに乗ったらどこへ着いたのと訊かれて冬の駅と答える」とすると、用言の終止形で終わる凡庸な歌になってしまう。口語的な後置法を用いることで統辞法に詩的な捻れを生み出している。二首目では「埋立地で拾った猫」まではありそうなことだが、「レフ板」で読者は「?」となる。レフ板はプロの写真家が撮影に用いるものだ。すると埋立地で写真の撮影をしているという情景が浮かび上がる。冬で雪が降ってくるのだが、それに「墜ちてくる」と漢字を使うことでうっすら天使失墜のイメージが被さり歌が重層化する。三首目は「この水」の解釈が鍵だ。学校のプールなら探せばすぐに見つかるだろう。だから「この水」は海でなくてはならない。しかしもし「この海のどこか」としたら詩的水位はぐんと下がってしまう。そのような点に工夫があるのだ。

 しかし考えてもわからないのは、なぜ穂村はすぐに酸欠になってしまうのかだ。穂村は1962年(昭和37年)生まれである。キューバ危機の起きた年だ。吉川宏志は1969年(昭和44年)生まれ。東大の安田講堂占拠事件のあった年だ。穂村の方が年長だから、もし酸素が徐々に消失しているのなら、吉川の方が酸欠になっているはずだ。確かに吉川は18歳で京都大学に入学するまで、自然豊かな宮崎で少年時代を過ごしているので、酸素の備蓄がたくさんあるのかもしれない。私が唯一考えついたのは「穂村=カナリア説」である。

 1995年に地下鉄サリン事件が起き、しばらくして警察は山梨県の上九一色村にあったオウム真理教教団本部の強制捜査に入った。ものものしい装備を付けてサティアンに突入する機動隊の先頭の隊員は、鳥籠に入ったカナリアを持っていた。昔、カナリアは炭鉱で使われていたという。坑道で有毒ガスが発生したとき、ガスに弱いカナリアがまっさきに苦しみ出す。それを見て鉱夫は逃げ出したという。もし穂村が何らかの理由でカナリア体質だったとしたら、酸素の欠乏に敏感に反応してしまうのではないか。もしそれが正しければ穂村は未来の予言者である。そんな想像をしてしまうのだ。

 特に心に残った歌を挙げておく。

何もせずに過ぎてしまったいちにちのおわりににぎっている膝の皿

冷蔵庫のドアというドアばらばらに開かれている聖なる夜に

ひまわりの顔からアリがあふれてる漏斗のようなあおぞらの底

下駄箱の靴を掴めば陽炎のなかに燃えたつ審判台は

金魚鉢の金魚横から斜めから上からぐわんとゆがんでる冬

母の顔を囲んだアイスクリームが天使に変わる炎のなかで

今日からは上げっばなしでかまわない便座が降りている夜のなか

生まれたての僕に会うため水溜まりを跳んだ丸善マナスルシューズ

カーテンもゴミ箱もない引っ越しの夜に輝くミルクの膜は

 一首だけちがう色の付箋を付けた歌がある。本歌集の空気を象徴する歌だと思う。

胡桃割り人形同士すれちがう胡桃割りつくされたる世界

 

第236回 歌壇賞受賞川野芽生

思惟をことばにするかなしみの水草をみづよりひとつかみ引きいだす
川野芽生


 川野芽生かわのめぐみが今年度の歌壇賞を受賞した。発表は『歌壇』2月号で行われたのですでに旧聞に属する話題をなぜ今頃取り上げるかというと、恥ずかしながら今まで知らなかったのである。私が定期購読しているのは『短歌研究』だけで、他の短歌総合誌は書店で見かけると買ったりしている程度なのだ。『短歌研究』7月号の作品季評で川野芽生の「ラビスラズリ」が取り上げられていて、荻原裕幸が「川野さんは歌壇賞の受賞者で」と講評を始めているのを読んで知ったというお粗末である。新聞の受賞短報記事は注意して見ているのだが見落としたようだ。
 川野芽生は1991年神奈川県生まれで、東京大学の駒場教養学部にある超域文化科学専攻比較文学比較文化コースという長い名前の学科で学んでいる現役の大学院生である。長い名前だが伝統的な言い方をすれば文学部の比較文学科に当たる。プロフィールから計算してたぶん博士課程の1年生だろう。本郷短歌会と同人誌「穀物」に所属している。私は「本郷短歌」は創刊号から愛読していて、川野芽生は安田百合絵や小原奈実と並んで注目していた歌人なので、川野の受賞はまことに喜ばしい。『歌壇』2月号を取り寄せてさっそく受賞作品と選考座談会を読んだ。受賞作は「Lilith」30首。選者は伊藤一彦、三枝昂之、東直子、水原紫苑、吉川宏志の5名で、水原と吉川が二重丸を付して一位に推し、三枝が一重丸を付けている。選者も川野作品の読みに苦吟したようで、なかでは吉川がいちばん的確な読みを披露している。短歌賞の選考では選者も力量を試されるのだ。
 川野作品の読みが難しいのは、川野が比較文学の研究者であり、その知識を駆使して作品を作っているからである。題名の「Lilith」からして曲者で、リリスとはユダヤ教の伝承で男の子に害をなすとされる妖怪もしくは悪霊の名である。この世に最初に登場した女性とされることもあり、アダムの最初の妻であったという異説もある。イブがアダムの肋骨から作られたのにたいして、リリスはアダムと同様に土から作られたとされることから、男女の対等を求めるフェミニズムのシンボルとなっているという。題名にこれだけの歴史的背景とコノテーションが隠されているのだ。あとは推して知るべしである。

馬手と云へり いかなる馬も御さずしてさきの世もをみななりしわが馬手
harassとは猟犬をけしかける声 その鹿がつかれはてて死ぬまで
晴らすharass この世のあをぞらは汝が領にてわたしは払ひのけらるる雲
摘まるるものと花はもとよりあきらめて中空にたましひを置きしか
おのこみなかつて狩人〉その嘘に駆り立てらるる猟犬たちよ
汝が命名なづけなべて過誤あやまりにてアダム われらはいまも喩もて語らふ
白木蓮はくれんよ夜ごとに布をほどきつつあなたはオデュッセウスをこばむ

  「Lilith」から引いた。一首目、馬手めては馬の手綱を取る右手のことで、左手は弓を持つので弓手ゆんでという。初句の「馬手と云へり」は「誰かが馬手と言った」ということではなく、右手を馬手と呼んだ命名そのものを呪っているのである。「自分は女に生まれ武者や騎士のように馬に乗ることはないのに、自分の右手も馬手と呼ばれるのはなんでやねん(関西風に言えば)」と憤り、「おまけに私は前世も女だったので、馬に乗ることなど金輪際ない」とまで言いつのっているのである。巻頭歌が高らかにフェミニズムを宣言してこの連作の基調を規定している。
 二首目、harassとは「困らせる、うるさがらせる」の意で「ハラスメント」という言い方に用いられている。「セクハラ」の「ハラ」である。辞書によると古仏語harerに由来し、その意味は「刺激する、かき立てる、犬をけしかける」で、古高地ドイツ語のharenに遡るのではないかと考えられている。ガリアを占領したフランク族の言葉から仏語に入り英語となった単語である。現代仏語のharasserが有音のhなのはこの歴史的理由による。この歌で詠われている鹿とは男性からのハラスメントに悩まされる女性の喩に他ならない。一首目の馬手から馬による狩猟のイメージが準備され、それが二首目の猟犬へと繋がっていることにも注意しよう。
 三首目ではharassが音から「晴らす」へとずらされており、この世の青空を占拠する男性の前では女性の私は払いのけられる雲にすぎないと詠っている。初句の「晴らす」を見たとき、一瞬「恨みを晴らす」方向に行くのかとどきどきした。
 四首目、美しい女性はしばしば花に喩えられるが、男性に摘まれることを待つだけの花は受動的存在で、いわば純粋な対他存在である。自分の人生をいかに生きるかという自己決定権を放棄して(放棄させられて)魂を失った人形になっていると詠んでいる。ちなみに「中空」は「なかぞら」と読む。古語で「なかぞら」は形容動詞であり、「どっちつかずで中途半端な」「精神の不安定な」を意味する。
 五首目は、馬、猟犬、狩人のイメージで一首目と二首目に縁語的につながっている。「太古の昔から男は狩人なんだ」と男は言いたがる。だから外に狩りに出かけて獲物を捕り、洞窟で子育てをしながら待っている女に獲物を分け与える。性による分業という神話であり、川野ははっきりと「嘘」と断定し、その嘘に駆り立てられる男たちに憐れみの眼差しを向けている。
 六首目を読み解くには旧訳聖書の知識が要る。神は最初の人間アダムを作った後に、あらゆる家畜、あらゆる野の獣、あらゆる空の鳥をアダムの前に連れて来てアダムがどう呼ぶかを見た。アダムが呼んだ名が獣や鳥の名となったと創世記にある。物の名の起源神話である。ちなみにこのくだりに魚が出てこない。ヨーロッパで長く「魚の名は真の名であるか」という哲学論争が続いたのはそのためである。またアダムは何語で事物に名を付けたのかも論争となった。旧訳聖書はユダヤ民族の聖典だからヘブライ語だろうと考えるのが自然だが、そうかんたんには運ばず「真の名」論争は実に17世紀まで続いたのである。川野は男性であるアダムの名付けはすべて誤りだと断言する。この世のさまざまな名称は男性の視点から男性に都合よく作られているということだろう。だから女性である自分はアダムが付けた名ではなく喩を使って語らざるを得ない。ここには川野の言語についての根源的関心が看て取れる。
 七首目はホメロスの『オデュッセイア』を下敷きにしている。トロイア戦争のために出陣したオデュッセウスの妻ペネロペアには求婚者が108人押し寄せたが、求婚を退けるためにペネロペアは「今織っている織物が完成したら結婚相手を決める」と言って、昼に織った織物を夜に解いて時間かせぎをしたという逸話である。このためペネロペアはしばしば貞女の鑑とされる。しかし川野はこの逸話に独自の変奏を加え、ペネロペアは求婚者を拒むだけでなく、夫のオデュッセウスをも拒んでいるのだという。

たれも追はずたれも衛らず生きたまへ青年よここが対岸
わがウェルギリウスわれなり薔薇そうびとふ九重の地獄infernoひらけば
魔女を焼く火のくれなゐに樹々は立ちそのただなかにわれは往かなむ

 私は男性に従わず生きるのだから、男性も誰も守らず生きよと呼びかけ、『神曲』では地獄めぐりをするダンテをウェルギリウスが導いたが、私を導くウェルギリウスは私自身だと宣言する。そしてたとえ魔女狩りに遭って火刑に処されようとも、火のただ中に屹立するというのだから威勢がよい。
 選考座談会で吉川は、「男性社会に対する呪詛に近い批判」があり、「新しい形のフェミニズム的な表現が生まれている」と高く評価した。水原は最初はフェミニズム的視点に気づかず耽美的文体に引かれて推したが、男性社会に対する呪詛に近い批判をここまで繊細で端麗な文体で歌いあげたのはすごいと述べた。伊藤は吉川が指摘したようなテーマでリアルに歌うのは難しいが、様式美でしか表現できないことを作者は歌っていると評価し、すごく才能のある作者だと述べている。三枝は、このところずっと平たい歌の方へ行っていたのが、かっこいい表現をしていて大きな問い掛けにはなるが、このかっこよさは引いてしまうという人もいるかもしれないと述べている。
 ほぼ全会一致で一位に決定した選考委員の評言に付け加えるとしたら、文体の面では文語定型を基本としつつも、前衛短歌の技法に多くを学び、イメージの重視と破調を恐れない大胆さを有し、また塚本邦雄にも通じる言葉フェチでありながら言語への根源的懐疑を内包しているところが川野の個性だろう。
 歌壇賞受賞後の第一作となる「ラピスラズリ」(『歌壇』2018年3月号)から引く。

くがといふくらき瘡蓋のを渡り傷を見に来ぬ海とふ傷を
薔薇園をとざすゆふやみ花の色なべて人には禁色にして
Lapis-lazuliみがけりからだ削ぎゆけばたましひ見ゆ、と信じたき夜半
ねむる――とはねむりに随きてゆく水尾みをとなること 今し水門越ゆ
殺められて水底にある永遠を胡蝶菫パンジイめきて海馬うみうまよぎる

 ちなみにラピスラズリは旧約聖書の創世記にも登場する貴石で、青色の原料として高値で取引された。フェルメールの絵によく使われている。胡蝶菫と書いてパンジイと読ませるところなど言葉フェチの本領発揮である。海馬はタツノオトシゴの異名だが、大きなウミガメをも意味するらしい。歌壇賞受賞作のフェミニズムは影も形もなく、むしろ『本郷短歌』に発表された旧作を見ると、こちらが川野のベースラインのようだ。

身じろがば囚はれなむをこゑのごと曼珠沙華あふれかへる白昼  『本郷短歌』第5号
夕かげは紅茶を注ぐやうに来て角砂糖なるわれのくづるる

 『本郷短歌』創刊号の座談会で川野は、「小さいころからずっと小説や詩を書いていた」と述べ、「自分の中に表現したいものがあるんじゃなくて、言葉との出会い」が大事で、「自分に理解できない言葉がやってきて、その言葉と自分がぶつかって何かの化学反応が起きる」と述べている。文学少女であったことはまちがいなく、また「人生派」ではなく「コトバ派」の歌人であることを裏付けていよう。そのことは『歌壇』2月号に掲載された歌壇賞の受賞の言葉にも表れている。
 今回このコラムを書くために関連情報をネットで調べていたら、衝撃的な事実が判明した。本郷短歌会は運営が困難になったため2017年12月末をもって解散したというのである。本郷短歌会は2006年に発足しているので、11年で活動に終止符を打ったことになる。最近『本郷短歌』が送られてこないなと思っていたら、解散していたのだ。小原奈実は6年間の医学部の課程を終えて退会したし、安田百合絵や川野芽生は博士課程に進学して忙しいだろうし、その他のメンバーも卒業して大学を離れたのでやむを得ないのかもしれない。私は2012年5月7日のコラムに、「発表の場を得て漕ぎだした『本郷短歌』である。雑誌を創刊するのにはたいへんなエネルギーが必要だが、続けるのにはさらにエネルギーがいる。エールを送りたい」と書いた。解散という事態を迎えたことはとても残念だ。しかしまた何年か時が過ぎたら新しい種が地に蒔かれることを期待したい。


 

第235回 大森静佳『カミーユ』

天涯花ひとつ胸へと流れ来るあなたが言葉につまる真昼を

大森静佳『カミーユ』

 辞書によれば天涯花てんがいばなとは曼珠沙華または向日葵の異称だそうだ。だからどちらの可能性もあるのだが、一首の中に放ったときの美しさを較べれば曼珠沙華に軍配が上がる。曼珠沙華は彼岸花の別称で秋の季語であり、その名から「彼岸」という宗教的感情を喚起する。曼珠沙華は仏教で言う「四華」の一つで、法華経が説かれる時に天から降る花だという。四華とは白蓮花、大白蓮花、紅蓮花、大紅蓮花で、曼珠沙華は紅蓮花に当たる。だから赤い彼岸花である。

 その曼珠沙華が〈私〉の胸に流れて来るという。花を放ったのは天だろう。つまりそれは天啓ということだ。「あなた」が言葉に詰まるとある。なぜ言葉に詰まったのかは明かされていない。そこにあるのは緊張を孕んだ〈私〉と「あなた」の関係性と、ふいに訪れる天啓の瞬間だけである。大きな謎を残す歌だがとても美しく、読者の想像力を刺激する。結句の助詞「を」も効果的だ。初句六音、四句八音の増音をほとんど感じさせない。

 大森静佳は京大短歌会のOGで「塔」所属。2010年に角川短歌賞を受賞。第一歌集『てのひらを燃やす』(2013年)がある。『カミーユ』は書肆侃侃房から現代歌人シリーズの一巻として今年(2018年)の5月に刊行されたばかりの第二歌集である。

 『てのひらを燃やす』を論じたときに私が指摘したのは、収録歌のほとんどが相聞であること、全体を通底するテーマが「流れ去る時間に触れる悲しみ」であること、および作者の資質が「感性に基づく世界の把握」だということだった。第一歌集から5年の歳月が流れたが、相聞の割合が減ったことを除けば私が指摘したことはそう変化してはいない。しかし歌境の深化は確実に見られる。そのひとつは自らの孕む〈闇〉に眼を向けるようになったことだろう。

わたくしが切り落としたいのは心 葡萄ひと粒ずつの闇嚥む

〈在る〉ものは何かを裂いてきたはずだつるつると肉色の地下鉄

夕暮れは穴だからわたし落ちてゆく壜の砕ける音がきれいだ

春の日に手を見ておればとっぷりと毛深しわが手夕闇のせて

風を押して風は吹き来る牛たちのどの顔も暗き舌をしまえり

 後でも触れるが、一首目は「宦官」と題された連作中の一首なので、読解にいささか注意が必要だが、口にするブドウのひと粒ひと粒が〈闇〉と観じられていることが目を引く。二首目は「五月」という自身の誕生に思いを馳せる連作の一首で、存在の傷と呼ぶべき原罪意識を詠んだものである。三首目も同じ連作から。「夕暮れは穴」というのは、朝に誕生した新しい時間が終息してゆく頃とも、早朝に昂揚した気分が夕暮れとともに落ち込んでゆくとも取れる。〈私〉はそこに壜が砕ける音を聞いているのである。四首目の「夕闇」、五首目の「暗き舌」も同様の〈闇〉の変奏だと言えるだろう。

 本歌集のもうひとつの特色は、何かに想いを寄せて想像力で作った連作が多いという点である。たとえばある日、どこかで開催されている展覧会に行く。例えば有元利夫展だとしよう。展示されている絵画や、画家の送った短い人生に着想を得て歌を作る。すると日常生活に題材を得る日々の歌とは次元を異にする、想像力による歌ができる。

 集中の「瞳」はナチスに抵抗して21歳で処刑されたゾフィー・ショルを描いた映画「白バラの祈り ゾフィー・ショル最後の日々」を題材とした連作である。事象の奥へと向かおうとする眼差しが印象的だ。

枝から枝へおのれを裂いてゆくちから樹につくづくと見て帰りたり

殺されてうすいまぶたの裡側をみひらいていた 時間とは瞳

そのひとは怒りをうつくしく見せる〈蜂起〉の奥の蜂の毛羽立ち

 「異形の秋」は中国の宦官に想を得た連作である。なぜそのように思ったのかは不明ながら、宦官の運命を自らに引き寄せて感じようとしているようだ。

暮れ残る浴室に来て膝つけばわが裡の宦官も昏くしゃがみぬ

蝿払う彼らの無数のてのひらがぼとぼととわが胸に墜ちくる

亡骸にふたたびそれを縫いつけよ もう声が軋むことはないから

 「サルヒ」はモンゴル帝国を築いたチンギス・ハンを詠んだ連作。チンギス・ハンには夭折した妹がいたようで、二人の関係が主題となっている。

兄というもっとも遠い血の幹を軋ませてわれは風でありたし

骨を煮る臭気のなかにまどろめばきみの子を産むぎんいろのゆめ

どんぶりで飲む馬乳酒のこくこくと今を誰かが黒き紫陽花

 これ以外にも近松門左衛門の「曾根崎心中」や、安珍と清姫に想を得た連作もある。このように文学作品や歴史的事件などを題材とする歌は、日々の生活に限定されがちな短歌の素材を広げてくれる一方で、想像のみで歌を作る危うさも孕んでいる。しかし大森の場合、「感性に基づく世界の把握」が現実世界を超えて、文学作品や映画や絵画にまで拡張したと考えれば、それほど不思議なことでもないのかもしれない。

いっしんに背骨は蒼く燃えながら何から逃れようとする線

肉体の曇りに深く触れながらカミーユ・クローデル火のなかの虹

〈死の床のカミーユ・モネ〉のカミーユもおそらくは寒い光のなかを

 「ダイナード」と題された連作から引いた。「ダイナード」とはロダンの代表作の一つであるうずくまる裸婦の大理石像である。ここには二人のカミーユがいる。一人はロダンの助手にして愛人でもあったカミーユ・クローデルである。ちなみにカミーユ・クローデルは、駐日フランス大使を務めた外交官・詩人のポール・クローデルの姉に当たる。もう一人はモネの異色作〈死の床のカミーユ・モネ〉に描かれたモネの最初の妻のカミーユである。「でもたぶん七月の雲のようなだイザベル・アジャーニの顔に嵌まって」という歌からわかるように、大森は1988年公開の「カミーユ・クローデル」という映画を観ている。ロダンとカミーユをジェラール・デパルデューとイザベル・アジャーニといういずれも重量級の名優が演じた濃い映画である。私はフランスで暮らしていたときに観たのだが、ものすごく長い映画だったと記憶する。あとがきで大森は、歌集題名の「カミーユ」は音の響きの美しさに惹かれて決めたと書いているが、それだけではあるまい。カミーユ・クローデルもカミーユ・モネも、幸か不幸か強い個性を持つ芸術家のパートナーだったという共通点がある。大森はこの点に引かれたにちがいない。

老けてゆくわたしの頬を見てほしい夏の鳥影揺らぐさなかに

時間っていつも燃えてる だとしても火をねじ伏せてきみの裸身は

揚げ餃子ホーショール手づかみで食む指の間を油が〈今〉が滴り落ちる

痛いほどそこに世界があることをうべなうごとし蝿の翅音も

 集中のいろいろな所から引いた。これらの歌の背後に感じられるのは、せつないほどに流れる〈今〉である。鳥は死者の魂を運ぶとされており、窓を一瞬よぎる鳥の影に時間の経過を思い出させられる。時間が燃えているのは、触れることができず、消すこともできない火だからである。耳に響くかすかな蝿の羽音すらも〈今〉を生きる豊穣な世界を感じさせてくれる。

 読み応えのある第二歌集である。

 

第234回 小佐野彈『メタリック』

弓張のひかりのなかを黒髪はたゆたひながら結はれゆきたり

小佐野彈『メタリック』
 

 昨年度(2017年)、「無垢な日本で」により第60回短歌研究新人賞を受賞し話題になった小佐野の第一歌集が出た。5月21日付けで版元は短歌研究社。カバーはアクションペインティング風に油絵の具を垂らしたようなピンク、赤、青、黄色などが配されていてかなり毒々しい。私は歌集のカバーを剥がして見る習慣があるのだが、カバーを剥がすと一転して光沢のある白一色である。外側と内側の対比が印象的だ。水原紫苑と野口あや子が解説を書いている。栞文は複数の人が書くのが一般的だが、解説を複数の歌人が書くのは珍しい。

 解説では水原も野口も申し合わせたように春日井建の名を引いている。それはある意味で必然だろう。「無垢な日本で」で新人賞を受賞した時、最も話題になったのは作者がゲイであり、そのことを公言しているという点だった。私も家に届いた昨年の『短歌研究』誌9月号を開いて見たとき、「ついにその時が!」と思わず叫んだものだ。春日井と比較されるのはそのような事情があるからである。

 本歌集は4章に分かれている。作者のあとがきによれば、過去4年間に作った歌を収録し、改作や改編を加えたとある。あえて編年体を採らないところに作者の意識の在り処が窺える。編年体を採る歌人にとって、短歌は日々の歌であり記録性を持っていて、言葉に過度の負荷をかけない作風の人が多い。歌の〈私〉と実作者との距離はそれほど離れていない。一方、編年体を採らず後から編集の手を加える歌人は、芸術至上主義的で美意識が強く、言葉に負荷をかける傾向が強い。また歌の〈私〉と実作者を隔てる距離は大きいことがある。おおまかにそのようなことが言える。この分類に従うならば、小佐野は後者であるということになる。口語を取り入れながらも旧仮名遣を用い、自分の名前にも旧漢字を使っているところにもそれは窺える。

 しかしながら以上述べたことは経験則による理屈であり、本歌集を一読するとそのような単純な分類は意味を失う。収録された歌の中には血が流れており、身を捩る煩悶が厚く塗り込められているからである。

ぬばたまのソファに触れ合ふお互ひの決して細くはない骨と骨

なんとまあやさしき社名きらきらと死にゆく友のむアステラス

獣肉を男同士で喰ふことの罪╱そののちのあひみての罪

耳朶ふかく鴉が鳴くよ 危険物同士夜更けにまぐはひをれば

感染者の平均余命淡々と告げられながら飲むスムージー

からだから痛みあふれて寝室は桃の匂ひで充たされてゆく

 性愛を詠んだ歌を引いた。一首目、触れ合う骨の太さでお互い男だと確認するという歌だが、このような歌が詠まれる動機を考えてみよう。同性の恋愛に何の疑いも持たず没入していたらこんな歌は作らない。恋の素晴らしさを歌い上げるだろう。あとがきで小佐野は子供の頃から、「自分を認めてあげたい自分」と「自分を認めたくない自分」が心の中で喧嘩していたと述懐している。どうしようもなく男性に引かれながら、心に一抹の罪悪感を拭い切れない。そこに二律背反の激しい葛藤がある。小佐野の歌の底流に流れているのはこの葛藤であり、それが歌にリアリティーと人を惹き付ける強さを与えている。

 二首目、ゲイの友人はHIVかも知れないが、あるいは睡眠薬による自殺かも知れない。実在のアステラス製薬の名が詠み込まれているが、アステラスという名は何となくアマテラスと似ているような気もして連想を誘う。三首目、焼き肉を食べているシーンだが、それを「獣肉を男同士で喰ふ」と表現するとまるでちがった情景になる。ここにも強い罪悪意識が見られる。四首目、鴉は何の形象化かは不明ながら、ポーの詩を待つまでもなくそのしわがれた鳴き声は不吉な予兆に満ちている。五首目ははっきりとHIVの危険を詠んだ歌。四首目で危険物と表現されているものそのためである。

 同性愛者は葛藤を抱え危険に晒されるだけでなく、社会から偏見に満ちたまなざしを向けられる。

ほんたうの差別について語らへば徐々に湿つてゆく白いシャツ

赤鬼になりたい それもこの国の硝子を全部壊せるやうな

うしろゆび指されることの不合理を語る瞳に宿る狐火

病みたるは君ではなくて街なのだ 山手線はまはり続ける

さみどりのむなしく濁るおそろひの湯呑みの底の八女星野村

 一首目、本当の差別について語るとき体は徐々に熱を帯びる。二首目、小佐野の歌にはよく鬼が登場する。鬼は豆を投げつけられて村から追われる対象としてだけではなく、怪力を用いて既存の秩序を破壊する主体としても捉えられていて、ここにも二律背反が認められる。この歌では眼には見えないガラスの壁を破壊するものとして描かれている。同性愛を認めない社会は不当だと感じながら、五首目にあるように、お揃いの湯呑みを使っていても、どこにも行き着けない虚しさを拭うことができない。

 故郷や家族を詠んだ歌にも愛憎の二律背反がある。

金色の信玄公は踏みつける私を棄てた故郷の駅を

なにもかも打ち明けられてしんしんと母の瞳は雨を数える

受け容れることと理解のそのあはひ青く烈しく川は流れる

最後まで父と息子になれざりしふたりを穿つ一本の棘

 小佐野の故郷は山梨だが、自分は故郷に棄てられた者だという思いがある。自分の性的傾向を母親に打ち明けたとき、母は表面上は受け入れはするものの理解はしてくれない。父親との間にはもっと深い溝がある。

 フランスの文芸批評家にして小説家のモーリス・ブランショはかつて「文学は欠如 (manque)から生まれる」と喝破した。何の不自由もなく幸せに暮らしている人に文学はいらない。自分の中の欠如を鋭く意識し剔抉したときに文学は生まれる。その意味において小佐野は文学に呼ばれた人と言えるかもしれない。

 作者は起業して台湾で暮らす実業家でもある。息苦しい日本を離れて外国に赴くとき、小佐野の歌には他にはない自由さと風通しの良さが感じられすがすがしい。

熟れてなほ青々として芒果マンゴーはレインボーフラッグとならんでゆれる

ゆるしにも似たる湿りを従へて夏は来たれり榕樹の島に

美麗島フォルモサに出会ひしわれらはにたづみいづれは海へ流れてゆかむ

熱帯の黒きいのちは片隅で亜麻色のに仕留められたり

ソドミーの罪の残れる街をゆく鞭打つごとき陽に灼かれつつ

 一首目から三首目までは台湾詠で、残りはベトナムを訪れた折に詠まれた歌である。いずれも南国の色彩に溢れていて、海外詠としても優れた歌だ。

 色彩と言えば小佐野の歌には色を詠み込んだものが多くある。一読して注意を引かれたのはその点である。

〈自由が丘心療内科〉そのやはき百合根のいろの大理石床

つややかな赤いスマホを手繰りつつどこで会はうか考へてゐる

桃色のねむりぐすりは半減期過ぎていまなほ胸に巣喰へり

永住者カード涼しき水色の存在感で財布に眠る

体温が色を帯びゆく丑三つのあひみてなればわれらむらさき

 一首目の「百合根のいろ」は出色と言ってよい。あまり見ない表現で少なくとも私は短歌で出会ったことがない。百合根の色はかすかに黄色がかったオフホワイトである。二首目、野口の解説で知ったが、小佐野は本当に赤いスマートフォンを使っているらしい。この他にも色が詠まれた歌を探すとあちこちに見つかる。

 これはおそらく意識的である。そのヒントは上に引いた五首目にあるかもしれない。パーブルはもともと欧米ではゲイのシンボルカラーであったと聞いたことがある。またLGBTなど性的少数者 (セクシャル・マイノリティー)の人権擁護のシンボルはレインボーカラーである。色の多様性は性的傾向の多様性に通じるからだ。その意味でこの歌集は「色の溢れる歌集」と呼んでもいいかもしれない。

性愛が淡雪のごと舞ひ降れば真つ赤に染まりゆく通学路

軋むほど強く抱かれてなほ恋ふる熱こそ君の熱なれ ダリア

漆黒の翼はひしとたたまれて酸ゆき深夜の雨に光るよ

あくまでも青、と言ひ張る君のためわづかに青く腐りゆく桃

 付箋のついた歌を引いた。驚いたのは二首目である。恋の情熱のシンボルとしてダリアは実にふさわしい。しかし小佐野は実際にダリアを見たことがあるのだろうか。昔の日本のどこにでもあって今はとんと見かけない花の代表格はダリアとカンナと鶏頭だろう。ダリアは近代短歌によく詠まれた。『岩波現代短歌辞典』にも立項されているほどである。

君と見て一期いちごの別れする時もダリヤは紅しダリヤは紅し 北原白秋

 他にも次のような歌もある。その燃え上がるような赤い花ゆえに、激しい感情の象徴とされることが多い。

わがこゝろ恋に変れといふごとく紅きダリアの灯の前に咲く 原阿佐緒

黒きだりやの日光をふくみ咲くなやましさ我が憂鬱の烟る六月  前田夕暮

ダリア畑でダリア焼き来し弟とすれちがうとき火の匂うなり  佐藤通雅

 小佐野は近現代短歌をよく勉強しているのだと思う。ダリアは自分で目にしたものではなく、近代短歌に詠まれたものを見たのではないか。上に引いた四首目の桃の歌も加藤治郎を思わせる。小佐野は「かばん」所属の歌人だが、「かばん」の中では作風が古典的で、修辞的技法を多く使っている。そういう側面からもっと論じられてもよいように思う。

 最後に出色の一首を挙げておこう。新人賞受賞後の第一作「ページェント」所収の歌で、「彼女は乳粥で供養した」という詞書がある。舞台は新宿二丁目である。

スジャータのミルクしたたるひるを生き僕らはやがて樹下のねむりへ

 

第233回 『短歌と俳句の五十番勝負』

百葉箱の闇に張られし一筋の金なる髪を思うたまゆら
                      穂村弘

 おもしろい本が出た。穂村弘と堀本裕樹の共著『短歌と俳句の五十番勝負』(新潮社 2018年4月)である。堀本裕樹ゆうきは角川春樹に師事したのち、独立して現在蒼海俳句会主宰の俳人。この本は穂村と堀本が与えられたお題で短歌と俳句を作るという題詠競作で、新潮社のPR雑誌『波』に連載されたものを単行本にまとめたものである。帯に斬り合う二人の忍者の写真があるが、別に優劣を競っているわけではない。短歌と俳句だけでなく、お題にまつわる短いエッセーが添えられていて、韻文と散文を交互に味わう形式になっている。一般の読者にとって韻文は敷居が高いので、散文を交えて近づきやすくしてあるのだろう。
 おもしろいのはお題の出し方で、最初は穂村が「椅子」、堀本が「動く」を出しているが、それ以後はいろいろな人が題を出している。中には又𠮷直樹や荒木経惟やビートたけしのような有名人もいるが、大学生や小学生や牧師という人までいる。又𠮷に有季定型俳句の手ほどきをしたのは堀本だそうだから、堀本が「ちょっと出してよ」と頼んだ可能性はあるが、牧師とか書店員や整体師はどこから見つけて来たのだろう。担当編集者の個人的な知り合いだろうか。
 出されたお題もおもしろい。荒木経惟の「挿入」はいかにもで、牧師の北村篤生の「罪」は少しストレートすぎるか。朝井リョウの「ゆとり」にはくすっと笑ってしまうし、壇蜜の「安普請」には感心する。その他、北村薫の「謀反」、モデルのリヒトの「逃げる」、西崎憲の「適正」など、作りやすそうなお題もあれば、苦労しそうなものもあり、歌人と俳人がどう頭をひねって句歌を絞り出したかを見るのが、この本のおもしろさである。題詠をするときは、出されたお題につきすぎると広がりがなくおもしろくない。特に俳人は「つきすぎる」のを嫌う。かといってあまりに発想を飛ばし過ぎるとお題から離れすぎてしまう。その加減が難しい。
 いくつか拾って見てみよう。まず「まぶた」である。

左目に震える蝶を飼っている飛び立ちそうな夜のまぶたよ  穂村
料峭りょうしょうやかもめと瞼閉づるとき  堀本

 身体部位のお題では、「眼」とか「髪」とか「手」などはよく詠まれるため、意味が付着していて類想に陥りやすい。「眉」や「ぼんのくぼ」などはあまり詠まれていないが、そのため発想が難しくなる。「まぶた」はどうだろう。試しに千勝三喜男編『現代短歌分類集成』の「まぶた」の項を見てみると、三首収録されている。二首だけ引く。

撫でおろしやさしくなだめわが強ひて眠らむとするがらすの瞼  斎藤史
睡りつつまぶたのうごくさびしさを君のかたえに寝ながら知りぬ  吉川宏志

 これを見ると「まぶた」は睡りと関連して捉えられることが多いようだ。穂村の歌では夜に突然まぶたがピクピク痙攣して止まらないという体験が詠まれている。それを「震える蝶」と詩的に表現したところがこの歌のポイントだ。堀本の句の「料峭」は春の季語で、風がまだ寒く感じられることをいう。堀本は「かもめ」といえば、寺山の「人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ」を思い出すとエッセーで語っている。この歌を遠くに感じて作った句だろう。かもめが瞼を閉じる時に、〈私〉も瞼を閉じているのである。かもめが瞼を閉じるのは単なる生理的反応だが、〈私〉が瞼を閉じるのは何かを想っているからである。その「何か」が明かされていないために、句に奥行きと広がりが生まれている。ちなみに私はこの句を見たとき、「サタン生る汗の片目をつむるとき」という加藤楸邨の句を思い浮かべた。

 次は高橋久美子の「カルピス」である。

虫籠にみっしりセミを詰めこんでカルピス凍らせた夏休み  穂村
カルピスの氷ぴしぴし鳴り夕立ゆだち 堀本

 エッセーでは二人とも子供時代の思い出を語っている。昭和の人間にとってカルピスは郷愁アイテムである。お中元に瓶2本入りのカルピスをもらうと子供は狂喜乱舞したものだ。ちなみに堀本の句では季語は「カルピス」ではなく「夕立」。期せずして二人とも氷を詠んでいるが、少しちがうのは堀本の句では水で薄めたカルピスに入れた氷だが、穂村の歌ではカルピス自体を凍らせてカルピスに入れるという点。子供の時遊びに行った友達の家でそうしていて驚いたそうだ。こうすると氷が溶けてもカルピスが薄まらない。読んでいて少し驚いたのは、穂村は意外に実体験に基づいて歌を作っているということてある。
 西崎憲(フラワーしげる)が出したお題は「適正」。いやがらせとしか思えない難しい題である。「さあ、詠めるものなら詠んでみろ」という声が聞こえてきそうだ。二人はどう詠んだか。

火星移民選抜適正検査プログラム「杜子春」及び「犍陀多」  穂村
瓜番として適正を見るといふ  堀本

 穂村の工夫は「適正」を「適正検査」というより大きな語句の一部として組み込んだところにある。しかしそのために大幅な字余りになっている。火星移民選抜に「杜子春」と「犍陀多」という誰もが学校で読んだ記憶のある小説を取り合わせているのがミソだ。やはり穂村の作歌にはノスタルジーがかなり原動力となっている。一方、堀本の句で「瓜番」は夏の季語だそうだ。畑に出没する瓜盗人を見張る役目である。「瓜番としての」適正ではない。何か別の仕事の適性を見るために、瓜番をさせるのである。そのややとぼけた所に俳味があるのだろう。
 穂村が詠んだ歌では冒頭に挙げた「百葉箱の闇に張られし一筋の金なる髪を思うたまゆら」がよいと思った。しかし解説が必要である。昔の小学校にあった百葉箱の中には、毛髪乾湿度計なるものが入っていた。人の毛髪の伸び縮みの度合いで空気の湿度を測定していたのである。穂村によれば、その昔、毛髪乾湿度計には西洋人の女性、とりわけフランス人の金髪の毛が最適だとされていて、わざわざ輸入していたそうである。これには驚いた。私が通っていた小学校にあった百葉箱の中にも、フランス女性の金髪が一本張られていたのだろうか。穂村はこういう意外な事実を拾ってくるのが巧みである。「放射能を表す単位ベクレルの和名すなわち『壊変毎秒』」でも、ベクレルの古い和名が「壊変毎秒」であることを調べ出している。
 堀本の句では次のようなものがおもしろいと思った。

秋扇のゆとりや時に海指して (題 ゆとり)
湯ざめして背骨の芯のありどころ (題 背骨)
濡れ衣を着せられしまま秋の蜘蛛 (題 着る)

 巻末の二人の対談では、季語や切れなどをめぐって、短歌と俳句の生理のちがいも論じられていて興味深い。穂村が短歌を作るとき、対象をつい異化してしまい、「こうなったらどうなるだろう」と想像するので、じっくり写生をするのが苦手だと語っているのがおもしろかった。

 

第232回 なみの亜子『「ロフ」と言うとき』

二分咲きの梅に降りくるにわか雪梅花は真白でなきを知りたり
なみの亜子『「ロフ」と言うとき』
 梅が二分咲きだから季節は2月である。梅は一番に春を告げる花だが、早く咲くために雪が降ることもある。都会でもままあることだが、作者が住む山中ではふつうのことなのだろう。白梅の花に雪が降る。真っ白な雪と比較すると、白梅の花にもうっすらと色が着いていることに初めて気づくという歌である。「発見の歌」に分類される歌であるが、結句の「真白でなきを知りたり」に一抹の寂しさが感じられるところが歌の味わいだろう。

 なみの亜子は「塔」所属の歌人で編集委員。数々の受賞歴があり、本歌集は『めい』(2006年)、『ばんどり』(2009年)、『バード・バード』(2013年)に続く第4歌集である。2017年に上梓された。歌集題名は最初は何のことかよくわからないが、読み進むにうちにやがてその意味が明かされる。
 作者は10数年前に都会生活を捨てて西吉野の山中に移り住んでいる。作者の歌の最大の魅力は山深い自然の息吹が肌に感じられる点だろう。

朝靄を手にわけてゆく山みちにししの掻き跡ぬれぬれとして
朽ちすすむ小屋にも秋の陽のあたる山のほぐれていたるひととき
背のたかき檜の縦に裂くるがはながくながくわが耳にさけぶ
電源の遮断されたる集落は降り積もりゆく雪にともさる
生きながら死んでゆく樹よ山がわの樹皮より獣の唾液に病みて

 一首目、山の朝は靄が深い。山道に残るイノシシの掻き跡がまだ乾いておらず生々しく濡れている。イノシシは泥に体を擦りつけて体表に付く寄生虫を取るという。そんな風景だろうか。二首目、山村は過疎化と高齢化が進んでいる。無人のまま朽ちる家屋も多くある。そんな小屋に穏やかな陽が射す時間は、厳しい顔を見せる山の自然がゆったりとくつろいでいる時間なのだ。三首目、枝に積もった雪の重みに耐えかねて樹木が裂ける。雪の多い冬は倒木被害が甚大である。下句の「ながくながくわが耳にさけぶ」の14音の破調は、木の叫びが耳から離れない様を表すものだろう。四首目、倒木によって電線が破断して村は停電になる。一帯は闇に包まれるが、灯りがなくなると、積もった雪が白く見える、いわゆる雪明かりによって村がぼうっと明るく見える。五首目、鹿は樹皮を剥がして食べるので、木が枯れてしまう食害が大きい。鹿除けにネットを張っても器用に飛び越してしまうので、手の打ちようがないのだそうだ。鹿は斜面に生えた木の山側から樹皮を囓るというのは、実際に見た人でないとできない表現だろう。
 都会生活をしている人間には想像もできない山深い自然の厳しさと豊かさである。その自然は聴覚、触覚、味覚、嗅覚などすべての感官を打つのだが、なかでも音についての歌が印象に残る。

このごろは近くまで来る夜の鹿の小枝折るおと目つむりて聞く
ひとつぶひとつぶ水死なせゆく音として聴けるつめたきわが夜の耳
軍団となりて烏はとりかこむとんび一羽の羽ひらくおと

 一首目、夜更けか明け方に鹿が小枝を踏む音が寝室の間近に聞こえる。二首目の前には「垂直に夜をしたたり落ちながら水はまもれり管の凍るを」という歌があるので、冬の夜に水道管が凍結するのを防ぐために、蛇口を少し緩めて水を出している様子だと知れる。ぼたりぼたりと水が滴る音を「水死なせゆく音」と聴いているのである。初句の「ひとつぶひとつぶ」という字余りのリフレインが水の滴りを表現している。美しい歌である。三首目、都会でも見かける光景だが、烏と鳶は生活圏が重なっているため、よく喧嘩する。一羽の鳶を烏の群れが取り囲み、鳶はさて逃げるかと羽を開くのだ。
 そんな山暮らしの作者に事件が起きる。いっしょに暮らしているパートナーがあろうことか脊椎を損傷して障碍者となるのである。

尿袋ぶらさげにつつ窓際のベッド電動にひとを起こしぬ
車椅子で自宅でできる仕事ですか、と尋ねられしをひとには言わず
座位とれるまでの五十日水っ気のおおき流木たりしあなたは
車椅子でどこにも行きたくないひとの車椅子押す自販機までを
五足目の靴買いゆけど気にいらぬまず靴を履くというができぬも

 脊椎を損傷して下半身麻痺の状態が続く。ようやく座位がとれるようになり、車椅子に乗るようになっても、障碍者になったショックの大きさは想像に難くない。やがてパートナーはリハビリに励んでようやく杖で歩行できるようになる。

障害に等級ありぬわが夫は二番目の重さと申請さるる
杖の名はロフストランドクラッチという「ロフ」と言うとき息多く出る
両杖のグリップ以外のもの持てず座ればものを取りには行けず
あたらしき歩行にひとの動くとき犬の二頭は杖にきゆく
何もかもどいつもこいつも腹立って腹立って投げくるたとえば尿瓶

 二首目で歌集題名の謎が明らかになる。「ロフストランドクラッチ」とは、脇で体重を支える通常の松葉杖とは異なり、手首から肘までをカバーする支えが付いている金属製の杖のことである。その名を略して「ロフ」と呼んでいるのだ。しかし歩行のために両手を使うので、三首目にあるように物を持つことができない。「なんでこんなことになったのか」というやり場のない怒りが高じて、五首目のように物を投げたくなるのも当然である。

スティール社のわが草刈り機十年を越えてまだ刈る刈れるが嬉し
現実として貧困をきわめつつもらった胡瓜日に三度食う
道造り今年はかあちゃんわれが出る座って草でも引けよと言わる
伐りたての生木のごとき重たさに横たわりいて起きがたき身は

 山では体を使わないと暮らして行けない。放置しておくと庭は草で覆われてしまう。雨で流された道の修復は集落の共同作業である。以前はパートナーがしていた仕事も作者がするしかない。歌集後半は生活のための苦闘の連続であり、読んでいて心が苦しくなる。
 そんな暮らしのなかでも作者は微細な自然の息吹に目を注いでいる。

 

かすか水仙の香りのしたり雪のしむ浸潤ふかき土踏みゆけば
誰かひとつ置き忘れたる手袋のごとき朴の葉秋の深みに
陽のあたる川面にひかり立つ朝をひかり分けゆく犬をしたがえ
高き陽の下ゆく人の誰も誰もまるくさびしい影をはなさず
盛りたつ草のふかみにつゆくさの花のひかりて青を放ちぬ

 

 パートナーが脊椎損傷によって障碍を負うという大きな事件が本歌集の山場なので、どうしてもその顛末に目が行くが、作者の資質は上に引いたような身の回りの自然に細やかな目を注ぐ歌によく表れているように感じられる。
 あとがきによれば作者とパートナーは山を降りて都会に引っ越したようだ。もう山の自然を詠んだ歌を読むことができないのかと思うと残念な気持ちにもなるが、日々の暮らしが安らかになることを願うばかりである。

 

第231回 鶴田伊津『夜のボート』

もう戻りこぬ時惜しむこともなく子は水色のランドセル選ぶ
鶴田伊津『夜のボート』
 小学校へ上がる年齢の子供が、期待に胸を膨らませて売り場でランドセルを選んでいる。子の選ぶランドセルの水色は希望の色である。この年齢の子供には過去がない。より正確に言うと、過ごしてきた時間はあるのだが、それを振り返ろうとする意識がない。子供は前しか見ていない。しかし、かたわらで子を見守る母親はちがう。子が懸命に生きるこの「今」は、二度と再び戻ることがないということを知っている。同じランドセル売り場にいる母と子は、異なる時間を生きているのだ。

 鶴田伊津は短歌人会所属で、2007年に第一歌集『百年の眠り』を上梓している。『夜のボート』は2017年に刊行された第二歌集だから、10年振りに歌集をまとめたことになる。前回に続いて第一歌集と第二歌集との間が長く空いた人を取り上げることになったが、これは単なる偶然にすぎない。ちなみに本歌集は六花書林から刊行されているが、鶴田は六花書林社主宇田川寛之の令夫人である。『夜のボート』という題名にちなんでか、ごく薄く斑点を散りばめた漆黒の装幀が印象的だ。
 本歌集には2007年から2017年までの10年間にわたる歌が収められている。歌集の最初では2歳だった娘さんが、巻末では12歳になっている。10年の間歌集を出すことがなかったのは、子育てに専念していたためだろう。一読して巻を措いた印象は、この歌集を通奏低音のように流れるテーマは「時間」だというものである。
 短歌が「時間の文芸」であるということはあまり論じられることがない。絵画や彫刻は「空間芸術」である。空間をいかに分節し彫琢するかがその核心をなす。空間の中で展開されているので、私たちは心ゆくまで時間をかけて鑑賞することができる。絵画や彫刻は時間に束縛されることがない。これにたいして「時間芸術」の代表格は音楽である。リズムやテンポやメロディーは、すべて時間を分節し時間の中で展開する。このため鑑賞する私たちは時間の流れに沿ってしか音楽を味わうことができない。
 現代では活字となって眼で受容することが多くなったとはいえ、短歌は「歌」である以上、音楽と同様に時間の芸術である。しかし音楽とは異なり意味を持つ言語を用いているため、短歌における「時間」はいささか複雑な様相を呈する。
 「歌」としての時間の第一は、披講(朗唱)と読字にかかる時間である。歌人は音の組み合わせや漢字と仮名の比率を変化させることで、披講と読字の時間をコントロールすることができる。本歌集から引いてみよう。

ぽんかんはぽんかんの香を放ちつつまはだかとなり人の掌のなか
帰宅せし子の長靴の靴底の欅の葉まだかたち保ちて

 漢字の多い二首目より平仮名の多い一首目のほうが読字時間は長い。「ながぐつ」は4つの音として認識されるが、「長靴」は音を介することなくひとつの単語として認識されるからである。
 もうひとつの時間は、物語論では「物語の中を流れる時間」と呼ばれるもので、この歌集で言えば子が2歳から12歳にまで成長する時間である。

来年は今年と違う夏なのだ浮き輪小さくたたみて仕舞う
制服の中の体が泳がなくなりし四歳泣くこと減りぬ

 一首目、子の成長は早い。夏の海水浴の季節が終わり、浮き輪を仕舞っている。来年の夏もこの浮き輪を出して使うだろうが、来年の夏は今年と同じではないという時間の流れを感じている。二首目、幼稚園の制服は子の成長を見越して大きめに仕立てる。始めはぶかぶかで体が服の中で泳ぐが、やがては成長とともに服が体に合うようになる。それと並行して泣くことも少なくなる。子の成長を喜ぶと同時に、過ぎゆく時を惜しむ気持ちが強く感じられる。
 最後の時間は、俳句や短歌のような短詩型文学に限らず、着物・料理・お菓子・家のしつらえなど、日本文化のあらゆる場面に浸透している季節という時間である。

子はふたつわたしはよっつ右脛に蚊の残したる晩夏おそなつの地図
ていねいにはなびらいちまい持ち帰る子のゆびさきの白を包めり

 一首目は今年蚊に食われた跡をあらためて見る晩夏の光景で、二首目は何の花でもよいのだが、やはり桜の花びらと取りたい。幼い子の指先の白と桜の淡いピンクの取り合わせが好ましいからである。
 このように本歌集では、主に作者が子と過ごした時間がていねいに掬い取られ、それが重層的な時間となっているところにいちばんの読みどころがあるように思う。

ゆうぐれに開くというを教えたりオシロイパナに指を染めつつ
傷口のふさがりてゆく時の間に子はかなしみを言うようになる
三年を子は成長の日々となしわれはひたすら雑草を抜く

 巻頭近くの子がまだ幼い頃の歌である。一首目、オシロイバナが夕暮れに開くというのは花に固有の時間である。英語ではfour o’clockと呼ぶらしい。それを子供に教えているのは歌の中に流れる時間であり、ここにも時間の重層性がある。二首目、子供が怪我した傷口がふさがるのは比較的短く数日の時間で、一方、悲しみを言うようになるのは子の成長過程というより長い時間あり、そのふたつの時間を重ねているのがこの歌の眼目である。三首目は子供が生きる時間と作者が生きる時間の差を見詰めた歌。3年もあれば子供はぐんぐんと成長する。しかしその間自分は雑草を抜くことに象徴される日々の雑事に忙殺されている。
 このように子供の成長を見詰める歌ばかりではなく、子育てに悩む作者の歌もまた本歌集にはある。

きみと子は枷だと責めているうちに泣く子以上に泣いてしまえり
「みおちゃんママ」などと呼ばれて手を振りしわれはどんどん腑抜けとなりぬ
今日われの海は凪ぎおり眠る子の額の汗をぬぐってやれば
我が知らぬ時間をまとう肉体を子とわれの入りし湯に沈めいる
足裏の火照りを床に当てながらわたしのためのビールを空ける

 夫と子供を自由を束縛する枷だと感じることもあり、また固有名でなく「みおちゃんママ」と呼ばれることに違和感を覚えることもある。心の中に怒濤が荒れる時もあれば、夫が身にまとう自分の知らない時間を冷たく見詰めることもある。さりながら本歌集がよくある子育て短歌、子供可愛い短歌にならずにすんでいるのは、我が子を他者として眺めて、子供に流れる時間と自分に流れる時間の差を冷静に捉え、それを掬い取って重層的な時間が畳み込まれた歌を作ることに成功しているからだろう。それは作者がふたつの時間を俯瞰的に見る視点を持っていることに由来すると思われる。
 最後に印象に残った歌を挙げておく。

垂直の雨を切りとり走り去る子をくわえたる黒猫の車
放埒のこころほのかにきざしたる夕、手放しで自転車に乗る
肉体の厚みを持たず揺れているパジャマの裾に蝉はすがれり
4Bを使えば4Bめくことば生まれ常より筆圧強し
ものの名を教えるたびにでたらめの楽しさを奪うような気がする
自らの骨を見しことなきままに骨のかたちを指に確かむ
逃げ水のなかに棲みいるうおの目に映れよわれのサンダルの白
線香の香の立つなかをすすみゆく水のおもてにうつるてのひら

 

第230回 岡崎裕美子『わたくしが樹木であれば』

春泥を飛び越えるときのスカートの軽さであなたを飛び越える朝
岡崎裕美子『わたくしが樹木であれば』

 岡崎裕美子の第二歌集『わたくしが樹木であれば』(青磁社 2017)は、第一歌集『発芽』(ながらみ書房 2005)から実に12年ぶりの刊行である。小池光がどこかで発言していたが、歌人にとっては第二歌集が重要であるという。第一歌集は作歌の記念として出してそれきりというケースも多いが、第二歌集には歌人として立つ決意が込められているということだろう。第一歌集『発芽』には岡井隆の解説と著者のあとがきがあるが、『わたくしが樹木であれば』には跋文はおろかあとがきすらない。小説家の小池昌代が帯文を寄せている。曰く、「人と獣のあいだをさまよいながよ歩くうたびと」、「所々には刃物のような覚悟も垣間見えて」、「いよいよ岡崎さんは歩み始めたのだ。沼ならば一層、深い沼のほうへ」などと、何やら剣呑な雰囲気なのである。
 掲出歌にはそのような剣呑な様子はない。どちらかといえば明るい陽性の歌である。春先の泥濘を軽々と飛び越える、そんな軽さであなたを飛び越えてしまおうというのは、男性との別れの歌とも読めるが、自立的で決然としている。しかしどうやらこれは岡崎のほんとうの顔ではないようだ。
 本歌集は三章から成る。各章には連作が収録されていて、題名が付けられている。ふつう題名は連作中の歌の一節を切り出して使うことが多い。しかし岡崎の場合、その題名がなかなかユニークなのである。試しに拾ってみると、「降ってきたよ」「春、東京タワーのそばで」「菜の花は食べられます」「落ちるならふたりで落ちる」「鯨とはこのようなもの」「どこからが獣」というような具合である。歌の並べ方の基準は説明がないのでわからないが、読者は巻末に近づくにしたがって歌の凄味が増すことに驚くだろう。
 最初ははこのように始まっている。

飴玉のようなボタンと言いながら外してくれた夜 雑司ヶ谷
濃密な肉だと思う母からのぶどうの皮をそっと剥がせば
捨ててもいい鍵二、三本ポケットの深いところへ 歯を抜きに行く
使われぬ(だろう)臓器の桃色を思うときふいに眠りたくなりぬ
ユニットバスに混ぜてはいけない塩素系洗剤を撒き眠りつつ待つ

 読んで最初に気づくのは歌の中の欠落である。言葉が情景を十分に描いていない。例えば一首目、「飴玉のようなボタンだね」と言ったのはおそらく恋人で、ボタンを外す行為は性愛を思わせる。しかし何のボタンだろう。コートかカーディガンかブラウスか。それは語られないのである。歌には〈私〉の想いが過剰にあり、それに反比例して情景(すなわち写実の「実」の部分)が少ない。
 二首目は「母からのぶどう」がわかりにくい。おそらくは「母から渡されたぶどう」だろうが、作者にはこのように略された措辞がよく見られる。三首目はなかなかおもしろい歌で、「捨ててもいい鍵」とはもう使わない用済みの鍵だから、真っ先に頭に浮かぶのは別れた恋人のアパートの合い鍵だ。それが二、三本あるというから、奔放な恋を連想させる。ところが結句は一転してまったく関係のないことが述べられていて、その意味的連関のなさにどこか投げ遣りな感じがある。四首目もよく似ていて、脳死して臓器提供をする場合、よく使われるのは心臓・腎臓・肝臓・角膜・肺などだが、たぶん脾臓とか直腸などはあまり使われないだろう。そういう臓器の色を思い浮かべているのだが、結句の眠りたいという衝動とは結びつかない。五首目はいささか剣呑な歌。塩素系洗剤は有毒な塩素ガスを発生させることがあるので、「混ぜるな危険」と言われるように他の洗剤などと混ぜてはいけない。その塩素系洗剤をわざと撒いて待つというのだが、何を待つというのか。同居人が混ぜてはいけない洗剤を撒くこと以外考えられない。ここには説明されない殺意がある。
 どうやら肝心なことは言わずに、わざと中心を外して歌を作っている、そのような印象を受けるのである。岡井は『発芽』の解説で、「一首一首が、その場面ごとの感情に対応してゐる」と述べ、「ひらりひらりの瞬間の感情が、一首一首にはりつけられて、歌集の中に漂ってゐる」と続けているが、おそらくはそういうことなのだろう。〈歌一首〉と〈ある感情〉とが対になって結びつけられている。それが歌集を通読したときに感じるある種の浮遊感や輪郭の曖昧さとなっているように思える。
 その〈ある感情〉の多くは不意に湧き上がる衝動であることが多い。

係員呼び出しボタンを思い切り悲しいときに押してもよいか
ライフルを誰かに向けて撃つように傘を広げる真夏の空に
やれという声がするそれをするなという声がする昼間なのに暗い
好きな人の名を大声で呼ぶことの恍惚を思う焼香の列で

 銀行のATMの横にある係員の呼び出しボタンは、ATMの操作がわからない時や間違った時に押すものだが、溢れる悲しさがそのような常識を上回るのだろう。ライフルを誰かに向けて撃つという激しい攻撃性や、しめやかな葬儀の焼香の列で突然好きな人の名を大声でおらぶという衝動に、作者の抱える内面の激しさが窺えるのである。
 帯文で小池が「いよいよ岡崎さんは歩み始めたのだ。沼ならば一層、深い沼のほうへ」と書いたのは、「沼に入る」と題された連作を踏まえてのことである。

深いから入ってはだめと人のいう沼に向かいて歩きいだしぬ
まだ浅い、まだ浅いからと唱えつつ沼に入りぬ濡れていく皮膚
つま先に触るる何かを確かむることをせぬまま深く入りぬ
暁に沼から帰るタクシーは沼の匂いのわたしを運ぶ

 なかなかに恐ろしい歌だが、危険だと知りつつも危険な場所に惹かれてしまう心の動きが押さえがたくあることが感じられる。それは他の連作に収録された「その先に滝あると人の言うを聞き立ち入り禁止の札を無視する」という歌に明らかである。
 『発芽』では大胆な性愛の表現が話題になったが、本歌集にも同じ趣向の歌は多くあり、特に巻末に向かって感情が高まっていくようだ。

年上のほうがたやすくて あなたのことを思い抱かれる
満ちてきたことを言い合う部屋のなかボディソープの百合は香りぬ
立たせれば青き匂いのして君は私のものになりゆく今夜
何度でもしたくなる 朝の光からあなたの白い腕が伸びくる
花のごと赤く染まりし痕に触れパティオをよぎる 妻に戻るため

 岡井が指摘するように、「一首一首が、その場面ごとの感情に対応してゐる」というのが本当ならば、一首はその瞬間を照らし出すが、次の瞬間には再び暗転して闇に戻る。瞬間と瞬間をいくら並べても連続した時間軸は形成されない。暗闇で明滅するストロボが明確な像を映し出さないように、岡崎の歌集を通読してもその背後に統一的な〈私〉の像が浮かび上がることはない。その有様はいかにも現代的と感じられるのである。