第349回 小池光『サーベルと燕』

車窓よりつかのま見えてさむざむと乗馬クラブの砂にふるあめ

小池光『サーベルと燕』

 短歌や俳句などの短詩型文学を読むことは日々の暮らしに大きな喜びを与えてくれる。もちろん短歌には楽しいこと嬉しいことばかりが詠まれているわけではない。むしろ逆で、暮らしの苦労、恋の破局、肉親との別れや災害など、悲しいことが詠まれていることのほうが多い。生老病死は近代短歌の重要なテーマである。しかしそれが短歌定型というフィルターを経ると、古代の錬金術の秘法によって卑金属が金へと錬成されるように、極めて個人的な体験が誰もが感じることのできる普遍的な類型へと昇華される。かくして姿を変えた悲しみに歌を通して触れることにより、私たちの生の理解は深みを増し、眼に映る世界の姿は陰影を深める。

 とはいうものの、短歌を読まなければ知らなかったであろう別な悲しみというものもある。歌人の訃報に接した時である。私は短歌結社や同人誌などとは無縁で、歌会に連なることもないので、個人的に面識のある歌人はごくわずかしかいない。しかし歌集を通して作者の個人生活の一面を知り、作者の思考や感情の機微に触れ、時には魂の質感までをも感じる瞬間がある。日頃ごく通り一遍の付き合いしかしていない親戚縁者などよりはるかに内面に踏み込んでいる。だからこそ幽明境を隔てることになった寂しさには他にはないものがある。

 送られて来た「短歌人」3月号の小池光の歌で、最近二人の歌人が鬼籍に入られたことを知った。

酒井佑子の原稿の文字みごとにてブルーブラックのインクひかりを放つ

酒井佑子去りて十日ののちにして有沢螢の訃報に接す

有沢螢われよりひとつ年下かとおもふまもなくゆきてしまへり

有沢螢いのちのかぎりを尽くしたり最後の最後まで歌をはなさず

 同号のあとがきによれば、酒井さんは昨年の12月24日に、有沢さんは年が明けて今年の1月9日に亡くなったという。お二人とも拙ブログにて歌集を取り上げさせていただいた。酒井さんの『矩形の空』は2008年6月16日に、有沢さんの『朱を奪ふ』は橄欖追放の前身の「今週の短歌」で2007年4月9日に読後評を書いている。有沢さんは脊椎損傷で寝たきりの状態にもかかわらず、最近になって歌集『縦になる』を刊行されている。

 実は有沢さんはお会いしたことのある数少ない歌人の一人だ。私の歌集評をお読みになられたからだろうが、『朱を奪ふ』の批評会に声を掛けていただいた。日記によると、批評会は2007年8月18日に神保町の日本教育会館で開かれた。バネリストは佐伯裕子、川野里子、藤原龍一郎、魚村晋太郎の4氏。参加者には岡井隆、小池光、佐藤弓生、黒瀬珂瀾もいた。ひとしきり発表と討論が済んだ後、最後に出席者が一人ずつひと言述べることになり、私は有沢さんの短歌に見られる原罪の意識について話した。すると会が終わった後に、有沢さんは私の所にいらして「原罪に触れていただきありがとうございました」とお礼をおっしゃったのが記憶に残る。長い苦しみから解放された有沢さんの眠りの安からんことを祈るばかりである。

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 この短歌ブログではなるべく初めての歌集を出したばかりの若い歌人を取り上げることにしている。短歌や俳句などの短詩型文学は、「読み」の積み重ねによってその真価を発揮するという特性がある。原石を磨いて輝くダイヤモンドにするには「読み」の積み重ねが必要なのである。若い歌人にはまだ歌を押し上げる「読み」が不足している。若い歌人を取り上げるのは、その不足を少しでも補おうとの気持ちからである。

 しかし今回その方針から外れて超ベテラン小池光の『サーベルと燕』を俎上に乗せることにしたのは、本歌集が現代短歌大賞と詩歌文学館賞をダブル受賞したことに加えて、角川短歌年鑑令和5年版のアンケート特集「今年の秀歌集」で最も多く名前が挙がったのがこの歌集だったからである。大勢の歌人が昨年を代表する優れた歌集だとみなしたことになる。

 短歌を読み始めた頃から小池光の著書は歌集だけでなく、『街角の事物たち』、『現代歌まくら』。『うたの動物記』、『うたの人物記』なども愛読している。機知と諧謔に溢れる短歌や、ユニークな視点が光る散文には学ぶ所が多い。

 小池が作風を変えたのは第三歌集『日々の思い出』あたりからだろうか。それまでのトーンの高い抒情は影を潜め、日常の何気ないことを詠むようになったのは、これがもともと日付を添えて一日一首歌を作るという『現代短歌雁』の企画によるものだったせいかもしれない。

ゆふぐれの巷を来れば帽子屋に帽子をかむる人入りてゆく

蜂蜜の壺に立てたるスプーンの 次に見てなきは蜜に沈みけむ

 何気ないことを詠みながら面白みがあるというのはそうかんたんなことではない。一首目には、帽子屋に来る人は帽子を買い求めに来るはずなのに、すでに帽子を被っているとはいかなる仕儀かという軽い疑問があり、二首目には蜂蜜の壺にスプーンを立てておいたはずなのに、ちょっと目を離しているうちにスプーンの姿が消えているというささやかな発見がある。このような作風の変化を目にして、「小池光には翼があるのになぜ飛ばないのか」といぶかしんだのは穂村弘である。『日々の思い出』のあとがきには、「思い出に値するようなことは、なにもおこらなかった。なんの事件もなかった。というより、なにもおこらない、おこさないというところから作歌したともいえる」と書かれている。この言葉に小池の短歌に対する姿勢がよく現れている。

 さて第11歌集となる『サーベルと燕』はというと、短歌定型に対する自由度が一段と増しているという印象を受ける。角川短歌年鑑の「今年の秀歌集」の三行評には、「心を過ぎるあまたの感傷を、平明な用語によって表白している」(伊勢方信)とか、「機知に富んだウィットは影をひそめ、しみじみと詠んだものが多く心を打たれる」(嵯峨直樹)などというものがあり、「平明な表現」「深さ」を語った人が多い。

 

うつしみの手首にのこる春昼はるひるの輪ゴムのあとをふといとほしむ

亡き妻の老眼鏡を手にとればレンズはふかく曇りてゐたり

四個よんこの団子つらぬく竹の串さえざえとありいざ食はむとす

観客のゐない相撲であるときも塩は撒くなりましろき塩を

その足はいためるものかぽつりぽつりとホームのうへを鳩のあゆめば

 

 肩の力の抜け具合は相当なものだが、そこは短歌巧者の小池のこと、どんな素材でも短歌に収めてしまう。特に感心するのは語順である。一首目の手首にはめる輪ゴムは何かを忘れないための印だろう。「手首にのこる輪ゴムのあと」が順当な連接だが、「春昼の」が間に割って入っているのは音数調節のためだけではあるまい。この歌のポイントは結句の「ふといとほしむ」だ。二首目は「とれば〜ゐたり」という順接ながら、「ふかく」の語が一首の翳りを深めている。三首目の初句「四個の」は「四個ある」とすれば破調にならないのだが、なぜかわざと破調にしている。団子の竹串に「そえざえと」という大げさな修飾を用いているのが愉快だ。四首目はコロナ禍で無観客相撲となった様を詠んだ歌。五首目も語順が効いている。初句二句と読むと誰か知人のことを詠んでいるのかと思うが、結句まで読んで実は鳩のことだったと知れる。この頃小池は足の指を痛めて歩行に不自由していたようで、自身の不具合を鳩に投影したものと思われる。

 本歌集を通読すると、肉親や知己知人が詠まれているのは近景を詠むのが近代短歌の常なので当然として、過去の体験や読書の記憶に結びつくおびただしい人名や地名が登場することに驚く。そしてようよう次のことに思い到るのである。小池光という人間は「小池光」という名の生身の肉体に留まるものではない。その記憶の中に保存蓄積され体験の中に刻まれている無数の事物や人物との関係の総体を指すということに。

芥川龍之介生誕の地を過ぎて隅田川ちかし水のにほふ

昭和史のくらやみに咲く断腸花永田鉄山伝を読みつぐ

日露のえきたたかひたりし祖父おほちちが大正三年に死んでその墓

西城秀樹六十三歳の死をおもふ野口五郎はゆふべ聞きしに

谷川雁「毛沢東」の一行がおもひだされて冬の蜂あるく

「雨の降る品川駅」をそらんじて十九はたちのわれはありたり

四百日ぶりにプールに入りたる池江璃花子にこみあぐるもの

「山科は過ぎずや」ふともよみがへり口に出でたり夜汽車の旅の

 二首目の永田鉄山は1934年に斬殺された陸軍中将。六首目の「雨の降る品川駅」は「辛よ さようなら」で始まる中野重治の詩。八首目の「山科は過ぎずや」は萩原朔太郎の詩「夜汽車」の一節である。そういえば北村薫の『うた合わせ 北村薫の百人一首』(新潮社)にこの詩に触れた文章があったなあなどと思い出すと、人名から本へ、また本から人名へと連想は跳び、文学の森の深くに入ってゆく。そのようにして本歌集を繙くのもまた一興だろう。四首目の西城秀樹や野口五郎のように、本来は雅の世界のはずの短歌の中に俗の要素を平気で詠み込むのもまた小池の自在さである。七首目の「池江璃花子」を詠んだ歌を見て、確か小池に「シャラポワに跪拝す」という歌があったなと思い出す。

「昭和十四年直木賞」の懐中時計が仏壇のひきだしの奥にありたる

父の死後五十年となり小雨の日ふるさとの墓の墓じまひせり

父恋ちちこひをすることありて下駄の鼻緒切れたるたびに直しくれにき

 小池の父親は直木賞作家であった。小池の初期歌編の中で父は大きな存在である。第一歌集『バルサの翼』には次のような歌がある。

父の死後十年 夜のわが卓を歩みてよぎる黄金蟲あり

亡父ちちの首此処に立つべしまさかりの鉄のそこひにひかり在りたり

倒れ咲く向日葵をわれは跨ぎ越ゆとことはに父、敗れゐたれ

 北村薫は『うた合わせ 北村薫の百人一首』の中の「父」をテーマとする章で、小池には父を詠んだ歌が多いと書いている。そして小池が『歌の動物記』の中で内田百閒の『冥土』という短編の一節を引き、あえて引用しなかった一行から物語を紡いでいる。しかしながら本歌集を読むと、父親の死から五十年を経てその物語は終焉したようにも見える。

 集中から愉快な歌を引いてみよう。小池にとってユーモアは短歌の重要な要素である。

 

鼻毛出てる鼻毛を切れとむすめ言ふ会ふたびごとにつよく言ふなり

泥棒にはいられたることいちどもなく七十年過ぐ 泥棒よ来よ

まな板はかならず洗つておけと説教するわが子をにくむことあり

賞味期限きれて五年のつはものが冷蔵庫の奥の奥に潜める

十二時間飛行機に乗つてフィレンツェへ行つたところでなにがどうなる

 

 二首目は「われの一生ひとよせつなくとうなくありしこと憤怒のごとしこの悔恨は」という坪野哲久の歌を思わせる。もちろん小池もこの歌を意識しているだろう。年齢を重ねてますます自在になるということがあると知る一巻である。


 

035:2004年1月 第3週 小池 光
または、ほの暗い人の世を照らす白桃の灯り

サフランのむらさきちかく蜜蜂の
   典雅なる死ありき朝のひかりに

            小池光『廃駅』
 気に入って愛唱する短歌はいろいろあり、好きな歌人もたくさんいるのだが、なかでもいちばん好きな歌人は誰かと問われたら、たぶん小池光だと答えるかもしれない。というわけで、いよいよ真打ち登場である。

 小池は昭和22年(1947年)生まれだから、私の兄や姉の世代に当たる。いわゆる団塊の世代である。この世代に属する多くの人と同じように、小池もまた東北大学理学部在学中に全共闘による学生運動を経験している。処女歌集『バルサの翼』で現代歌人協会賞を受賞したのが昭和54年(1979年)、小池が34歳のときだから、歌人としての出発は比較的遅いほうだろう。私はごく最近短歌を読み始めたので、私が出会った小池はすでに50歳を越えた現代短歌界を代表する論客だった。あとになって処女歌集『バルサの翼』を読んで驚いた。次のような歌が並んでいるのである。

 あかつきの罌粟ふるはせて地震(なゐ)行けりわれにはげしき夏到るべし

 青春のをはりを告ぐる鳥の屍の掌にかくばかり鮮しきかな

 ああ雪呼びて鳴る電線の空の下われに優しきたたかひあらず

 鳥よ ひとみをあけて死ぬるものよわれ一息におまへを裂きぬ

 いちまいのガーゼのごとき風たちてつつまれやすし傷待つ胸は

 ここに並んでいるのは傷つきやすい心を持つ青年の鮮やかな抒情である。昭和40年代後半に登場した歌人たちの内向的傾向を、篠弘は「微視的観念の小世界」と呼び批判した。1941年生まれの高野公彦、42年生まれの成瀬有、40年生まれの玉井清弘たちのことをさすとされている。この世代の人たちが短歌を作るとき、外的な社会状況に向かう視線よりも、個人の内面へと沈潜する眼差しが色濃く反映される。小池は世代的にはこの歌人たちより少し年下なのだが、『バルサの翼』はまぎれもなくこの時代的な刻印を受けた歌集なのである。

 歌集を貫く基調となる旋律は、〈生の偶有性にたいする畏れ〉である。私たちは故なくこの生に投げ出されているという実存的不条理の感覚は、代表歌とされる次の歌によく現われている。

 バルサの木ゆふべに抱きて帰らむに見知らぬ色の空におびゆる

 バルサは模型飛行機の材料として使われる軽い木材である。少年は模型飛行機を作ろうとして、バルサ材を買って家に帰るところなのだ。出来上がった飛行機は、青空高く飛ぶはずで、このとき飛行機は少年の夢と未来への希望の象徴である。ところが少年の上に拡がる空は、不安な見知らぬ色に染められている。少年の作る飛行機は、きっと空高く飛ぶことはないことを予感させる。

 小池は喜ばしいはずの子供の誕生も次のように詠っている。

 さくらばな空に極まる一瞬を児に羊水の海くらかりき

 溶血の空隈なくてさくら降る日やむざむざと子は生まれむとす

 子供はきっと四月に生まれたのだろう。桜の季節である。しかし、子供が浮かんでいた母親の胎内の羊水は暗く、桜を映す空も血が滲んだような不吉な色に染まり、子供は「むざむざと」この世に生まれて来るのである。「私はなぜこの世に生まれて来たのか」という疑問は、多感な青春に特有のものである。

 だからといって小池のまなざしが生の暗い側面だけに向けられているというわけではない。小池の短歌では桃に特別の記号的役割が割り振られているようで、次のような歌では生を肯定する姿勢が感じられる。

 稚(わか)き桃ほのかに揺れゐる瞑れば時のはざまに泉のごとしも 『バルサの翼』

 暑のひきしあかつき闇に浮かびつつ白桃ひとつ脈打つらしき

 したたれる桃のおもみを掌に継げり空翔ぶこゑはいましがた消ゆ

 宙に置く桃ひとつ夜をささふべし帰るべしわが微熱のあはひ

 灯の下に真泉となる白き桃うつしよに在る悲哀をこめて  『廃駅』

 白桃は時間のはざまに泉のように清新なものをわき出させる何物かである。また中空に置かれた白桃は、それだけで夜の圧倒的な重みを支える力のある何かである。夜の底の食卓にひっそりと置かれた桃は、自らの力で発光するかのごとくであり、小池が短歌に込めた抒情を汲み上げる生の根源である。

 思うに小池における桃は、不遇の詩人・大木惇夫における朱欒(ざぼん)に相当するのだろう。大木にとって朱欒は、ついに到達することのない憧れの象徴であり、自らの薄明の生を照らす洋燈である。

 冬、ほのぐらい雨の日は
 朱欒が輝く、
 朱欒が
 これは、眼をひらいて見る夢なのか。
  (中略)
 わたしの身体は凍えている
 わたしは祈りをわすれている、
 そうして、わたしはただ見る、
 ほのぐらい雨の影のなかに
 ぽっかり朱欒の浮かぶのを 輝くのを。
          大木惇夫「雨の日に見る」 

 小池の処女歌集『バルサの翼』は、このように生の不条理に対する実存的不安と若々しい抒情を湛えたみずみずしい歌集なのである。

 小池のもうひとつの顔は、『街角の事物たち』(五柳書院)、『短歌 物体のある風景』(本阿弥書店)、『現代歌まくら』(五柳書院)などで、歌論やエッセーに健筆を揮う文章家としての顔である。山田富士郎は小池の散文を評して、「思い屈した時に読むと大変よろしい、というか、よく効く」とし、これを「メランコリーの妙薬」と呼んだ(『短歌と自由』邑書林)。まさに同感である。私は小池の散文が怜悧なのは、小池が理学部を出て高校で理数系の教員をしているということと関係があるのではないかと思っている。私も核物理学を志望して大学に入り、その後仏文科に転じた経歴があるのだが、小池の散文には短歌を論じていても、どこか理科系的な分析的思考が行き届いていて、心情に流れるということがない。これが心地よく感じられるのである。余談だが、私にとって最近の「メランコリーの妙薬」は、小池の散文以外では、佐藤雅彦『毎月新聞』(毎日新聞社)と、内田樹『「おじさん」的思考』『期間限定の思想』(晶文社)である。いずれも「思い屈した」時に読むとたいへんよく効く。

 小池は第二歌集『廃駅』を経て、第三歌集『日々の思い出』で一転してそれまでの抒情を捨てて、作歌態度を変えた。そこに並んでいるのは、どうでもよいような日常の些事を取り上げた歌である。

 遮断機のあがりて犬も歩きだすなにごともなし春のゆふぐれ

 アパートの隣は越して漬物石ひとつ残しぬたたみの上に

 家ひとつ取り毀された夕べにはちひさき土地に春雨くだる

 しまったと思ひし時に扉閉まりわが忘れたる傘、網棚に見ゆ

 このような作歌態度を、「ただごと」歌に堕したと批判する意見と、小池の方法論的深化として評価する意見と、相半ばするようだ。

 ここからは私のまったくの私見なのだが、『バルサの翼』のようなハイトーンの青春の抒情は、長く続けられるものではない。人は歳を取り、日々の塵埃にまみれる。そのとき取りうる態度としては、20歳で詩を捨ててアフリカで武器商人になったランボーのように「歌のわかれ」をするという道がある。村木道彦、(かつての)春日井建、平井弘、寺山修司、中山明らがこの道をたどった。小池はどうやらこれとは違う道を選択したようだ。それは団地に住む小市民としての日常のなかに、歌を詠む根拠を見いだすという道である。これはなかなかに困難な道だと思われる。しかし、第四歌集『草の庭』に次のような歌を見つけるとき、小池は今までとはちがう抒情の根拠を見いだしつつあるのかとも思えるのである。

 みみかきの端なるしろき毛のたまよ触るるせつなにさいはひのあれ