第156回 三島麻亜子『水庭』

目覚むればこの世の果てより曳ききたる光はよわく落花にのこる
                     三島麻亜子『水庭』
 これは何度も書いたことだが、短歌との理想的な出会いは、ある日ふらっと立ち寄った書店で偶然手に取った歌集、あるいは、一面識もない著者からある日届いた献本の歌集、それをぱらぱらとめくって歌に出会う、そういうことだと思う。三島麻亜子の『水庭』は後者で、一読して深く印象に残った。
 短いあとがきによると、三島は「短歌人」会に所属して11年になるという。『水庭』は第一歌集である。「みづには」と読み、著者の造語らしい。佐藤弓生、奥田亡羊、斎藤典子が栞文を寄せているが、いずれもどこか書きあぐねているような風情が漂う。三島の歌の資質が奈辺にあるのかを見極めるのに難渋しているようにも見える。
 その鍵はあとがきに見える著者の次の言葉にあると思う。「創作においては、つねに認識の範囲の外に対する沈黙と、形而上の世界を言葉に表現するという相反する作業のあいだで、(中略)多くの壁に突き当たってきたような気がします」。「認識の範囲の外に対する沈黙」とはまるで、「語ることができぬものについては沈黙しなくてはならない」というウィットゲンシュタインの言葉を彷彿とさせる。私たちは語ることができるものについてしか語ることができないのである。しかし三島はそれを超えて「形而上の世界」、すなわち通常の言葉が届かない世界を表現しようとする。こういうことではなかろうか。
 ここで改めて掲出歌を見てみよう。朝の目覚めの光景である。覚醒の直後だから庭の風景ではなく、室内に活けてあった花が床に散っているのだろう。そこに窓から差し込む朝日が当たっている。「この世の果てより曳ききたる光」とはただの太陽光ではあるまい。太陽は地球から約1億5千万キロメートル離れているが、天文学の世界ではこの世の果てではなくすぐそこである。落花に実際に当たっているのは太陽光という形而下の光なのだが、それを見た作者にはまるでこの世の果ての形而上の世界から差し込む光のように感じられたということだろう。
 栞文でこのあたりを捉えているのが奥田で、奥田は本歌集を一読して陶然とした気分になり、「批評文めいた感じで客観的に論じたり」したら、「何か大切なものを置き忘れて行ってしまいそうな気がする」と述べ、三島の歌を読むと、「詩が完結して」「しずかな余韻だけを手渡されるような思いがする」と続けている。確かに、語ることができぬものについては沈黙しなくてはならないのだが、語ることができぬものを指し示すことはできる。三島の歌の指し示す指先が一首の余韻として残るのだろう。
腐葉土のうへに今年の葉の落ちてかぐろきものとなるを待ちをり
蘭展より帰りこしひと夕映えのしづけきもだをわれに向けたり
ひと房の巨峰は卓に残されて近景だけがはや暮れかかる
鳥影はわが右頬をかすめつつ山のなだりにまぎれゆきたり
春の雨、音なく降ればわが傘の青褐あおかちのいろ深みゆくなり
   一首目、庭の腐葉土の上に落葉が堆積している。それが目に映じた光景、すなわち形而下の世界である。しかし作者の指先が指すのは、やがてそれが「かぐろきもの」と変じる時間である。二首目、蘭の展示会から帰って来た人が、夕映えの静けさのような沈黙を私に向けるという歌であるが、「蘭展」から連想される豪奢さや華やぎと夕映えの静けさとの対比から起ち上がる何かが一首の眼目である。この「何か」を名指すことはできない。名指すとそれは形而下のものとなるからである。三首目、夕暮れのテーブルに巨峰が置かれている。家の外はまだ残照が残るが、テーブルの付近はすでに夕闇に包まれるという光景が描かれている。描かれているのはそこまでだが、それだけで語り尽くすことができないものが歌に含まれている。四首目、頬をかすめる鳥影が現実の鳥のものなのかそれとも幻想の鳥なのかも定かではない。鳥影が後に残す何かの予感のようなものが後に残る。五首目、春の柔らかい雨で傘の青褐あをかちがいっそう深みを増したという歌である。手許にある『色の手帖』によれば、青褐は正倉院文書や延喜式にもある色の古名で、青みの強い藍色だという。傘の色としてはずいぶん粋な色である。
 引用歌を見てわかるように、三島の歌は「叙景を述べて叙情に到る」という古典和歌の作法ではなく、「〈問〉と〈答〉の合わせ鏡」(永田和宏)という近代短歌の骨法とも異なる造りによる。心情を述べるのが眼目の歌ではないので、歌のどこを味わえばよいのか迷う人もいるだろう。味わうべきは奥田の言う「余韻」、つまり一読の後に残る名付けることのできないものであり、表現しようとしてされずに残った形而上の世界である。
 歌のなかに恋を思わせるものもある。
茄子紺をほこる古布展まだなにか始められるとしたら方恋
晩秋の雨は寂しと君に打つメールはわづか相聞めきて
ひとおもふゆゑの憎しみ緩やかに糸はボビンに巻かれはじめる
引き寄せてしまひし人を放つときこの冬の雪はつか狂ひぬ
 しかしこれも現実の恋というよりは、三島の目指す形而上の詩の世界へと辿り着くための方略のようにも見え、そこに新古今和歌集との親近性を感じる。そういえば本歌集の構成は、秋の歌に始まり四季を経て秋の歌で終わるという、季節の移ろいに基づく循環的世界観で統一されている。
 歌人の中には上句が上手な人と下句が上手な人がいるようで、たとえば大塚寅彦の歌を読んで舌を巻くのは下句の巧さである。その伝で言えば三島は圧倒的に上句が上手い。
薔薇園は濃き体臭を吐きやまずこれまでのことこれからのこと
夜の気に冷やされてゆく香壺あり何に引き替へたる残年
 下句はなくてもよいようなもので、ここから三島の歌には俳句的な骨格が潜んでいると奥田は述べている。そうかもしれない。ついでながら私が感じるのは、おそらく三島は源氏物語に深く傾倒している人だろうということで、読んでいて随所にそれを感じた。
ゆずの花、咲いてゐるよと君呼べばそのたまゆらをにほふ柚の花
ブラウスは弱き日差しを集めゐてダム湖官舎の早陰る庭
ファックスのインクをやうやく補へば未完の過去をふるへつつ吐く
 一首目は本歌集屈指の美しい歌である。漂う柚子の花の香りはもちろん現実のものではなく、「咲いているよ」という言葉によって現出したものである。二首目、庭が早く陰るのは、山に囲まれたダムのほとりに家があるからで、おそらく官舎には若い妻が夫と暮らしているのだろう。三首目は「未完の過去」という捉え方がおもしろい。ファックスはすでに届いているのだから過去に属するが、いまだ全貌を表していないという意味で未完である。そこに一瞬頭がくらっとするような時間のずれがあり、それが作者の指し示したいものなのだろう。
 沈黙に耳を傾ける人に捧げられた歌集である。