しろたへの袖朝羽振り夕羽振りだれをさがしに来る鷺娘
詞書に板東玉三郎特別講演とある。舞踊の名作演目の鷺娘の舞台である。演劇や絵画などを題材として短歌を詠むのはなかなか難しい。芝居や絵の描き出す世界が大きすぎて呑まれてしまい、距離を取ることができなくなるからだ。しかし掲出歌はその弊から逃れている。初句の「しろたへの」は「衣、袖、帯」などの白い布製品にかかる枕言葉。「朝羽振り」と「夕羽振り」は万葉集でも使われた言葉で、朝夕に鳥が羽ばたいたり風が吹いたりする様を表す。対で使われることが多く、何かの様子を表しているとはいえ、その意味は空疎で枕言葉か序詞に近い。全体として玉三郎が鷺を表す白い袖を振りながら舞っている様を詠んでいるのだが、その描写は写実ではなく、古来より受け継がれてきた定型的な言葉によるものである。一首の中で意味を持つのは下句のみだが、これとて写実ではなく演目の内容の一部を書いたものに過ぎない。ところが全体を読むと舞台の上で美しく舞う玉三郎の姿が目に浮かぶ。これはひとえに言葉の力によるものである。
洞口千恵は1971年生まれで、「短歌人」会所属。『緑の記憶』(2015年)という第一歌集がある。『芭蕉の辻』は今年(2025年)刊行された著者第二歌集である。帯文は小池光。洞口は東北大学で小池の後輩にあたるという。歌集題名の「芭蕉の辻」とは、仙台市の中心部にある交差点の名で、城下町の町割りの起点となり、かつては商店が軒を連ね栄えていた場所だという。本歌集は仙台愛に溢れた歌集なのだ。
あとがきによれば、歌風を「人生派」と「表現派」(=コトバ派)に二分するならば、洞口は人生派だと自認している。しかしその割に作者は自分を詠むことが少なく、何をなりわいとしているのかまるでわからないという不思議な人生派である。帯文に小池も書いているように、本歌集の大きなテーマは東日本大震災と父親の死である。第I章は震災前、第II章は震災と父の死まで、第III章は父の死以後という分類がなされていることからも、このふたつのテーマが作者の人生においてひときわ重要であることが知れる。
第II章から引く。
空間の歪めるところ反るところをりをり見えつ激震のなか
瓦礫の浜、浸水の田にさす朝陽の余光がとどくわが窓の辺に
おほなゐに崩れゆきたるふるさとの団地をおもふ雪垂るとき
みづに降る雪もろともに汲みあげて運び来たりき震災四日目
風花がひかりのいろとなるときに還へらぬひとらまたたきにけり
まさに震災被害の当事者の歌である。東日本大震災をきっかけに多くの短歌が生まれたことは記憶すべきことだ。激しい体験は激しく詠むとよいかと言えばそんなことはない。激しい体験を静かに詠むことによって伝わることがある。例えば上に引いた一首目は大津波が押し寄せる瞬間を詠んだ歌だが、まるでストップモーションで時間が止まったかのようである。他の歌でも表現は押さえ気味に詠まれており、全体としてとても静謐な世界を描いているように見える。また「わたつみ」「おおなゐ」などの古語を用いることは、〈私〉と詠む対象のあいだに適度な距離感を生み出すようにも感じられる。五首目は平仮名を多用し、鎮魂の気持ちが溢れていて心を打たれる。
犠牲者の生を偸みて在るわれかおくずかけのなかとろける豆麩
をさなきころ塩豚浜とおぼえゐし菖蒲田浜がガレキの浜に
震災のときに着てゐしセーターを棄てむとすれどまた洗ひをり
見ゆる塵見えざる塵の降るなかを祈りのごとく来る散水車
餓死したる福島の牛の写真見つ骨よりも歯のあらはとなれる
震災が過ぎても以前の日常は戻らない。一首目に詠まれているように、震災死を逃れた人には自分だけが生き残ったという思いがあるからだ。作者が住む場所は原発事故が起きた福島県から距離はあるが、四首目の「見えざる塵」の中には空から降るセシウムが含まれているかもしれない。読んでいて感心するのは語の適切な選択である。一首目は「とろける」、二首目は「おぼえゐし」、三首目は「棄てむとすれど」、四首目は「祈りのごとく」、五首目は「あらはとなれる」が歌のポイントを作っている。
震災から数年後に作者の父親は病に斃れる。
青衣なる救急隊員に抱へられ父は出でゆく春のうつつを
仙台のさくらの季を病み籠りすこしく白みたる父のかほ
いつまでの父と娘か桜雨に冷えたる朝を車椅子押す
名月の出を待つ窓のカーテンがはげしくはためき 父逝きにけり
父はもう障害者ならずかるらかなる足に越ゆらむよもつひらさか
歌集のこのあたりはずっと病床に伏す父親を詠んだ歌で占められている。あとがきによると、作者は父親の死を契機として、自分のルーツに目を向けることになった。それによると作者の父方の祖父は戦前に小学校の訓導をしていたという。訓導とは旧制小学校の正規教員のこと。芦田恵之助の考案した国語教育法の信奉者で、国語学者の山田孝雄とも接点があったらしい。作者はこの祖父のことをたいそう誇らしく感じているようだ。
八十年まへ祖父が満州へと発ちし仙台駅に甘栗を買ふ
仙台駅の地霊はおぼえゐたるべし「洞口先生万歳」のこゑ
新聞のとりもつ縁や木町小に学びし晩翠と父
デブ先生と呼ばれし祖父をおもはしめ偉軀そびえ立つ瞑想の松
すめろぎに最敬礼する六年生男子のなかの丸刈りの父
作者の祖父は国語教育のために戦前に満州に赴いたようで、一首目と二首目はそのことを想った歌。五首目は昭和天皇が父親の通っていた小学校を視察に訪れたことを詠んだ歌である。このように作者の父親と父方の祖父への思いは、時を越えて歴史を繋ぐ意識となっている。
このように東日本大震災と父親の死を契機に遡ることになった自らのルーツが本歌集の大きなテーマなのだが、私が心惹かれたのはむしろ第I章に収められたそれ以前の歌である。
水張田をすべりゆく鷺のしろき影ひと畔ごとに小さくなりぬ
春の砂にあさりは深く眠りゐむ塩乾珠のひかりを帯びて
うすべにを聴しの色とおもふとき闇を脱ぎゆくしののめの空
てのひらより生るるさみしさ丸めつつしらたま作る春の逝く日を
行きあひの空の底ひの地上にてわれは馬俑のしづけさに立つ
一首目、時は五月、田植えに備えて水を張った水田の上を白い鷺が飛ぶ。水田に映る鷺の影は、ひと畔飛ぶごとに小さくなってゆくという動きのある歌である。二首目の塩乾珠は、海幸彦山幸彦の物語に登場する珠で、潮を引かせる霊力があるとされている。春ののどかな海辺の砂の中で浅蜊が眠っているだろうという歌。三首目は夜明けの曙光を詠んだ歌で、聴色とは禁色の逆で誰でも着用できる服の色のこと。四首目は厨歌で、立夏を控えた日に白玉団子をこしらえている。〈私〉は何に悲しみを感じているのか。五首目、「行き会ひの空」とは夏から秋に変わる季節の空のこと。馬俑は古代中国で墳墓に納められた馬を象った陶器である。空から地上へと移動する視線がダイナミックな歌だ。
言葉に無理をかけることなくすらすらと歌が生まれているような印象を受けるが、そのように見せるところが作者の技倆というものだろう。瞠目の歌集である。