070:2004年9月 第4週 中澤 系
または、システムという鉄条網のなかで拡散してゆく〈私〉

天使(エンジェル)の羽ならざれば
    温み持つ金具を外したる夕つ方

        中澤系『uta 0001.txt』(雁書館)
 特異な歌集であることは、その表題からもわかる。「ウタ ゼロゼロゼロイチ ティーエックスティー」と読むのだが書名としては異例だろう。末尾のtxtはパソコンで文書を作製するときの「テキスト形式」を意味する拡張子である。装丁もまた異例といえる。メタリック・シルバーの金属的な表紙がかかっていて、机に置いたとき、スタンドの照明が表紙に反射してまぶしく輝き、表紙に印刷された文字が見えなかった。私はそれを見て「これだ!」と感じた。その視覚的印象と同じように、この歌集では言葉がハレーションを起こしているのである。それは中澤が言葉に過剰なまでの意味を担わせようとしたからなのである。

 作者の中澤系は1970年生まれ。早稲田大学では哲学を専攻している。それ以前の作歌歴は不明だが、1997年から「未来」に参加している。1998年の「未来賞」受賞作を中心に、1997年から2001年までの短歌を歌友のさいかち真が編集出版したのが本書である。年号にこだわるのは、後述するが時間が中澤にとって大きな意味を持つからだ。

 中澤系という名前はペンネームである。最初は中澤圭佐という本名で歌を発表していたが、途中からこの名前に変えたという。「系」という名前は、「渋谷系」「電波系」「癒し系」のように、ある傾向や集団をさす接尾辞として使われている。中澤系という名前を選んだということは、作歌主体としての〈私〉は中澤圭佐という個人なのではなく、ある傾向の束としてしか捉えることのできない「拡がり」だということを意図している。この「どうしようもなく拡散した自己意識」が、中澤の作歌の核である。周到なペンネームの選択からも伺い知れるように、中澤の短歌に対するアプローチは方法論的であり、そのことが中澤の短歌の性格を大きく規定している。

 では中澤の描く世界はどのようなものだろうか。

 手のなかにリアルが? 缶を開けるまで想像していた姿と同じ

 明日また空豆の殻を剥くだろう同じ力をかけた右手で

 意図なんかしたくはないさひるひなかフレンチフライのMくらいしか

 模倣だよ 一定の間隔を保ち自動改札機を出る人々

 駅前でティッシュを配る人にまた御辞儀をしたよそのシステムに

 終らない日常という先端を丸めた鉄条網の真中で

 類的存在としてわたくしはパスケースから定期を出した

 中澤の短歌の描く世界は、キーワードを抽出することでかんたんに理解できる (かんたんに理解できのは短歌にとってよいことだろうか)。一首目、どうしてもリアルさを感じられない日常のなかで、缶のなかにはリアルなものがあるかと期待するのだが、その期待は裏切られる。リアルなものはどこにもないのだ。二首目、私たちが生きている世界は、引き延ばされた日常であり、同じ空豆を同じ力で剥くのである。三首目、私たちがこの世界で選ぶことができるのは、マクドナルドでフレンチフライをSにするかMにするかくらいのものだ。私たちは世界のシステムに囲い込まれている。この認識は四首目へと続く。キーワードはもちろん「模倣」と「自動」と「一定」である。五首目は「システム」である。六首目の「終らない日常」は、現代社会について活発な発言を続ける社会学者宮台真司からの引用だろう。私たちは世界システムという鉄条網に囲われているのだが、トゲの先端は丸めて肌触りを良くしてあるので、私たちはなかなかそのことに気づかない。このような状況は当然、「個の喪失」を招く。七首目の「類的存在」とは、私が私ではなく類の一員としてしか把握されないという状況を表わしている。

 世界をこのように見れば、当然感じるのは無力感・不全感である。

 謂すでに細き骸となり果てたバッティングセンターにて空振りする

 ついに不発の炸薬なるか甘受する生活それも楽しきなどと

 開演の前に代役(アンダスタデイ)一人下手にて捕らえられたと言うが

 始発電車の入線を待つ朝霧に問ういつまでの執行猶予

 私たちはバッティングセンターで空振りするしかなく、世界を変革しようと仕掛けた炸薬も不発に終る。この世界という劇場で私たちは決して主役になることはできず、せいぜい代役が振られるにすぎない。まるで私たちは執行猶予の身の上なのである。

 いつの時代も青年は、既存の社会システムに疑いを持ったり反発を感じるものだ。また若者の矜持と無力感は表裏一体のものでもある。このような歌に表現された感覚は、例えば過去に石川啄木が感じた時代の閉塞感とどこがどうちがうのだろうか。確かに高度に複雑化した現代においては、過去に較べて撃つべき敵が見えにくくなっているということはあるかもしれない。同じ「未来」で机を並べていた高島裕と同じく、中澤には思想歌人という性格が濃厚なのだが、高島が連作「首都赤変」などで攻撃と破壊を幻視したのに較べると、中澤は「終りなき日常に囲い込まれた〈私〉」を自虐的に詠うことを、みずからの短歌の根拠としたように思える。だからこれは痛ましい歌集なのである。

 中澤の作る歌を読んでいると、短歌における言語の問題を考えさせる。基本的には口語短歌なのだが、なかに文語で作られた一連の歌が混じっていて、口語短歌の海のなかで孤立した島のように見える。掲載歌もこの一連から採ったものである。もう少しあげてみよう。

 双球にかひなは伸びて重力を支へる術もなき脂肪塊

 天球を突かぬ雨傘それぞれに起立させつつ急坂を征く

 舗装路(マカダム)のうへなるイコン踏みならす歌声とほく耳にしてをり

 掻き上げし黒髪刹那生るものは幻視宇田川町の路地裏 

 近代短歌の語法にのっとった作歌である。歌の元になった体験や出来事が仮にあったとしても、いったん短歌のなかに詠われると、それは事実という地平を離陸して喩という橋を渡り、言語の虚空間へと放り出される。歌の言葉はこうして虚空間にシリウスのように輝くのである。

 しかし中澤の口語短歌はまったく別のベクトルを志向していることに注意しよう。 

 靴底がわずかに滑るたぶんこのままの世界にしかいられない

 ハンカチを落とされたあとふりかえるまでどれだけを耐えられたかだ

 出口なし それに気づける才能と気づかずにいる才能をくれ

 小さめにきざんでおいてくれないか口を大きく開ける気はない

 ここには世界と直接触れようとする志向が濃厚である。おそらく中澤は、歌の言葉が喩を梃子として言語の虚空間へと送り込まれる回路では、自分と世界を救うことができないと考えたのだろう。中澤の口語短歌の言語には、世界への指向が過剰に担わされている。しかしこうして投げ出された言葉は、対象のつるつるの表面に乱反射してしまい、向こう側へと届くことがない。これが意味の過剰による言葉のハレーションとなっているのである

 しかしなかにはぎりぎりのところでその手前で止まっている歌もある。次の歌を含む風船の連作は、集中では珍しく焦燥感が希薄で、その分言葉が酷使されていない。

 幼な子の手をすり抜けて風船はゆらりとゆれて、ゆらりと宙へ

 その黄色き風船を手にすべきかは大いなる今日の問いかけにして

 風船はやがて空へと昇りゆく 救いにも似た黄の色を持ち

 また次のような歌では方法意識と言葉が均衡を保ち、美しい結実となっている。

 水風呂に沈む少年やわらかく四肢を胎児のごとくに曲げて

 ミートパイ 切り分けられたそれぞれに香る死したる者等の旨み

 このままの世界にぼくはひとりいてちいさなくぼみに卵を落とす

 吃水の深さを嘆くまはだかのノア思いつつ渋谷を行けば

 集中のこれらの歌よりも、ずっと上にあげた身を灼くような焦燥感と言葉のドライヴ感に満ちた歌の方が話題性があり、中澤の個性を代表する歌として長く伝えられるかもしれない。しかしそれらの歌は痛ましく読むのがつらい。私は集中にぽつぽつと点在する上にあげた四首のような歌を、中澤におけるひとつの達成と考えてあげたい。

 歌集末尾の歌は衝撃的であるが、それにはわけがある。

 ぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわれてしまったぼくたちはこわ

 さいかち真の編集後記によれば、中澤は副腎白質ジストロフィーを発病し、現在は自分の意志すら伝えることのままならない状態だという。副腎白質ジストロフィーとは神経の鞘が壊れる病気で、2万から3万人にひとり、男性にのみ発現する遺伝病である。有効な治療法の確立されていない難病だという。解説に岡井隆が書いているように、発病してからの中澤の歌は急速に崩れていく。これもまた痛ましい。歌集末尾の歌は、キュブリックの映画『2001年宇宙の旅』で、人間に反乱を起こして停止させられるコンピュータのHAL9000が、素子を抜かれて狂いながら最後に歌うデイジーの歌を連想させる。そして「ぼくたちはこわ」でプツリと切れる唐突な切断が、作者中澤を襲った運命と反射しあって、『uta 0001.txt』を印象深い話題の歌集以上のものにしている気がするのである。