第199回 今川美幸『雁渡りゆき』

紅鶴フラミンゴの桃色の脚 生くなればやすらはざれば地にそよぎたり
今川美幸『雁渡りゆき』
 「紅鶴」はフラミンゴの和名。その特徴は言うまでもなくピンク色の身体と、折れそうに細い脚、また一本脚で立つ独特の姿勢である。動物園でしか見られない鳥なので、短歌の素材としては比較的新しい。千勝三喜男編『現代短歌分類集成』のフラミンゴの項には六首挙がっているが、小池光の『うたの動物記』には項目がないので、それほど短歌に詠まれる鳥ではないようだ。
かなしみのときをはかりている如く佇つフラミンゴの一本足  
                         石田比呂志
フラミンゴ一本の脚でちてをり一本の脚は腹に埋めて  奥村晃作
はななしてフラミンゴねむる群生のなかうらうらと乱れ歩まな  大塚寅彦
 掲出歌もまたフラミンゴの脚に着目している。「生くなれば」は「生きているので」、「やすらはざれば」は「安らぐことはないので」の意。フラミンゴが生きているのは自明のこと。しかしフラミンゴが安らぐことがないというのは自明でなく、作者の心情の投影であり、安らぐことがないのは作者の心である。「地にそよぐ」とはまるで草が風に吹かれてなびくようにゆらゆらしている様。何百羽のフラミンゴが一本脚で立ってゆらゆらと揺れている光景は印象的である。
 今川美幸は北海道在住の歌人で、「潮音」「辛夷」所属。これまでに『チモシーの風』『基督の足』『エロスへの伝言』『君を孕みて』の四冊の歌集がある。『基督の足』で北海道新聞短歌賞を受賞している。歌集にはプロフィールが付されていないので、それ以上のことはわからない。
 一読した印象は、景より情、善より悪に傾く心根を持ち、性愛とエロスを大胆に詠う歌人だというものである。
どこからがわれどこまでがわれなるや身の閂はわれが外せし
アンソールの帽子かぶりて夏をゆく正しい悪女もいいではないか
聖と毒 知と無知 美と悪 つねに対局は負の部分がまぶし
魔の棲むはむしろ潔し まつすぐに汝れを肯定しわれを肯定す
たてがみをたたみて眠れ歓尽くし歓を頒ちて真澄めるかたへ
これの世に抱かるるための髪を梳くたちまち髪さへ咆哮すらむ
かぎりなく闇負ふる背な いとほしき背な われの爪くひこみし背な
 一首目、上句は自己と他者の境界はどこかという一般的な問ではなく、〈私〉と性愛の相手という具体的な他者を念頭に置いての問だろう。「閂は私が外した」とあるので、自ら境界線を踏み越えたのである。このあたりの思い切りのよさが歌に力を与えている。一首全体が想いからなる歌である。二首目、アンソールは仮面で名高いベルギーの画家。「夏帽子」は短歌や俳句で好まれる素材だが、ここでは「正しい悪女」の頭を被う。三首目ははっきりと毒と悪に心惹かれる心情を吐露している。これも景なしの情の歌である。四首目も同工異曲。五首目、たてがみを畳んでいるのは性愛の相手の男性。たてがみが男性の象徴だとすれば、六首目の髪は女性の象徴で、髪が咆哮するとはなかなか激しい。古来より感情の激しさを詠うのは女性歌人である。
 「叙景を通して抒情に至る」のが俳句や短歌などの短詩型文学の王道である。だからこそプレバトの毒舌先生もいつも「視覚化しましょう」と言って赤ペンで添削しているのだ。しかしこれらの歌を見てもわかるように、今川においては天秤の右に「景」左に「情」を置くと、大きく左に傾ぐのである。今川にとって短歌は自己の想いを盛る器であるようだ。
 本歌集を通読して感じるのは「死への想いの深さ」である。この場合の死とは、親しい人の死であると同時に、そう遠くない未来に待ち受けている自らの死でもある。
やがて死がふたりを訣つおもむろにわれのおよびはふふまれにけり
黙契のふかさにふたりあるさへも抗ひがたき死がくひこみぬ
フェルメールの女のやうに読む手紙死までの時間告げてしづけし
祐三の深緑の扉その奥にひつそりと死は整ふらむか
密使にて死ははこばれぬ 安穏は汝をねむごろにひたしゆくらむ
汝は死してうたとどまれりかなしみはゆきかひにつつうたとどまれり
 一首目はやがて訪れる死を想う歌で、「指が口に含まれた」とあるので相手は伴侶か。二首目も同じで「黙契」とは口にされない約束。「愛している」と口には出さずとも二人とも了解しあっているほど深い間柄なのだろう。三首目は友人から余命を告げる手紙を受け取った場面。フェルメールの「手紙を読む女」が効果的に使われている。四首目の祐三はパリに客死した画家の佐伯祐三のこと。鋭い線と色彩でパリの街角を描いた。扉の奥にあるように待ち構えている死を想う歌である。五首目、人の死の瞬間に立ち会うのは稀であり、死とは常に手遅れである。それを「死は密使に運ばれて来る」と詠むのは実感がこもっている。六首目は歌友の死を詠んだものだろう。友は死すとも歌は残るのがせめてもの慰めか。
 これ以外で印象に残った歌を挙げておこう。
乳房ちちふさは裏まで洗ふ このうつしみ匕首のごと緊りゆくべし
火宅とはわれ ゴーギャンは万緑に瞬きもせぬをみなをおきぬ
もしわれに死の刻えらべといふならば道行きにして雪のしののめ
惑溺のあまやかにして夕暮れの雨に出でゆく紫野まで
つひにして千尋の谷には落せざりきさあ食へ食へと言ひたるのみに
夏のいのちつなぐ真水をふふみたる汝れが咽喉のみどのはつか動きぬ
幽明の境に存るや銀漢はうつくしからむまなこの奥に
 一首目は「匕首のごと」という喩が鮮烈だ。二首目の「火宅かたく」とは煩悩に満ちた現世のこと。壇一雄の小説『火宅の人』が念頭にあるのだろう。妻子を捨ててタヒチに渡ったゴーギャンもまた火宅の人であった。三首目、西行は「花の下にてわれ死なん」と詠んでそのとおりになったが、作者は旅行中に雪の降る明け方に死にたいと望んでいる。四首目、惑溺したのはおそらく恋で、それは甘美な経験だったのだろう。「紫野」は京都市北区の地名であるが、それはまた万葉集の「紫野行き標野行き」の紫野でもある。五首目は子供を詠んだ歌で、虎は千尋の谷に子を突き落とすと伝えられているが、自分はついにできなかったという。
 本歌集の白眉は帯にも印刷されていて、歌集タイトルにもなった次の歌であろう。
火の酒を口移されぬ たましひの冥き韻きを雁渡りゆき
 「火の酒」つまり「火酒かしゅ」とは、ウォッカ・ジンなど火が付くほど酒精度数が高い酒のこと。「冥き韻き」はくらひびきと読む。性愛の相手に火酒を口移しに飲まされる。その瞬間、心に暗い戦慄が走り、その中を雁が渡る思いがするという。エロスの体験を魂の領域へと昇華した歌となっている。
 ちなみに雁は秋の季語であり、多くの歌に詠まれてきたが、一つの種を指す用語ではなく、コクガン、ヒシクイ、マガンなどカモ目の大型の鳥の総称だそうだ。越冬のため日本に飛来し、その8割は宮城県に来るという。私は京都に住んでいるが、雁が飛んでいるのを見たことがない。雁の越冬飛来は関東以北に限られているのだろう。京の都に暮らした古の平安人も、国司などに任じられて東下りしないかぎり、実際に雁を目にすることはなかったはずだ。
 しかしそれでよい。平安人の多くにとっては雁は季節の中に存在する幻の鳥である。同様に上に引いた今川の歌でも雁は実在の鳥ではなく、魂の中に幻視するものである。その意味においてこの歌は古歌の伝統に連なるものと言えるだろう。