第119回 内山晶太『窓、その他』

よみがえるこころ、車窓を信号機のうつくしく過りゆく転瞬を
                 内山晶太『窓、その他』
 集中の最上の歌ではない。短歌として韻律のよい歌でもなく、結句の文法的な繋がり方も曖昧だ。しかし一読したときにまず惹かれた歌である。
 一日の仕事の果て、疲弊して夜の郊外電車に揺られている。空いている座席はなく、立ったまま吊革を握っている。仕事の澱と日々の塵埃に心は重く淀み、眼球は埃を被った玻璃のように鈍く曇っている。やがて電車は信号機のある踏切に差しかかる。赤く明滅する信号機を車窓から眺めたとき、作者の心にふいに転瞬が訪れる。闇に明滅する赤い光に、枯れかけた花が水を得たように心に生気が甦る。その一瞬を鮮やかに切り取った歌である。この歌には世界に対する作者のスタンスがよく顕れている。それをひと言で言おうとすると〈失墜と恩寵〉という言葉が頭に浮かぶ。失墜は私たちが生きる日々であり、恩寵はたまさか訪れる光である。掲出歌には微かな祈りすら込められているように感じる。
 内山晶太は1977年生まれ。「短歌人」「pool」所属。1998年に「風の余韻」で短歌現代新人賞を受賞している。『窓、その他』は2012年出版の第一歌集。タイトルは「まど、そのほか」と読む。タイトルに読点が含まれているのは珍しい。跋文はなく、プロフィールによれば作歌歴は20年になるという。満を持しての第一歌集と見た。それにふさわしい中身の濃い歌集である。
 内山の短歌世界はどのようなものか。まず次のような歌が並んでいる。
通過電車の窓のはやさに人格のながれ溶けあうながき窓見ゆ
「疲れた」で検索をするGoogleの画面がかえす白きひかりに
湯船ふかくに身をしずめおりこのからだハバロフスクにゆくこともなし
陸橋のうえ乾きたるいちまいの反吐ありしろき日々に添う白
口内炎は夜はなひらきはつあきの鏡のなかのくちびるめくる
自販機のひかりのなかにうつくしく煙草がならぶこのうえもなく
 この歌集に登場するのは都市・東京に労働する勤め人である。勤め人はいくばくかの対価のために労働を提供し、長い通勤時間を耐える。一首目はその通勤電車を詠ったものだが、電車の速度のため乗客の人格が溶けて見えるという。「ながき窓」の表現に、人間が溶けて固まったような不気味な印象がある。古典的な用語を使えば、これは「疎外」に他ならない。二首目、「疲れた」で検索する人は現実にはいないだろうが、思わずしてしまうほど疲れているのだ。集中全編にこの疲労感が漂っており、本歌集のライトモチーフのひとつとなっている。三首目、本当にハバロフスクに行きたいわけではなく、ハバロフスクは閉塞状況からの脱出の象徴に過ぎない。四首目、陸橋は鉄道を跨ぐ跨線橋だろう。酔漢が前の晩に吐いた反吐が乾いている。ありふれた都市風景だが、作者はその乾いた反吐の白に心を寄せている。「しろき日々」は平板な日常であり、自分をこの反吐と同じようなものと観じている。五首目は日常の細かなものに着目する作者の姿勢を表す歌。口内炎を「夜はなひらき」と表現したところがささやかに美しい。六首目は煙草の自動販売機を詠んだ歌で、都市生活者の乾いた抒情である。
 このように日々の労働と塵埃にまみれる都市生活者の日常と、そこに訪れる微かな希望と湧き上がる祈りとが、内山の短歌世界の中核を形成していると思われる。
 同じ短歌人会の生沼義朗とは2歳違いのほぼ同世代で、都市生活者の抒情を核にしている点は共通しているものの、生沼の神経症的傾向とサブカル好みは内山にはない。男歌の系譜を辿れば、先輩格の藤原龍一郎と小池光が控えているが、藤原のギミックと固有名の氾濫と慚愧、小池の韜晦と軽みともまた、内山は対照的である。内山には内省的という形容がふさわしい。
 本歌集のタイトルが示すように、内山には窓を詠んだ歌が多い。
四階の窓のむこうに老人の気配の綿毛ひかりつつ浮く
列車より見ゆる民家の窓、他者の食卓はいたく澄みとおりたり
閉ざしたる窓、閉ざしたるまぶたよりなみだ零れつ手品のごとく
夕闇の気配ひろがる午後五時の澄明、ひろき窓を隔てて
昼といえどうすぐらき部屋のひとところ泉に出遭うごとき窓あり
 なぜ窓なのだろうか。二首目を見てみよう。通勤列車から見た風景である。沿線の民家の窓の中にダイニングキッチンの食卓が見えている。食事時は過ぎており、テーブルに人はいない。特別な食卓ではないのに、「いたく澄みとおりたり」と作者には見える。なぜか。望遠鏡を逆さまに見た光景だからである。試してみたことはないだろうか。ふつう望遠鏡を覗くと遠くのものが近くに大きくみえる。望遠鏡を逆にして見ると、近くのものが遠くにあるように見える。それは身近にある親しいものが、妙に遠くに離れてしまい、私の属する世界の外にあるように見える奇妙な感覚である。
 二首目の作中の〈私〉と民家の食卓は別の世界に属しているのだ。移動する〈私〉と不動の民家はやがて離れてゆくという意味において別の世界に属している。それは内山が〈私の一過性〉を深く内面化していることに由来する。
 もっとも内山にとっての窓は決して一義的存在ではなく、多様な意味を与えられている。上に引いた一首目には別の世界という意味はなく、また三首目は窓と眼のアナロジーがあり、四首目や五首目では〈私〉を世界に開いたり、泉のような清新さを与えるものとして捉えられている。
 とはいえ逆さ望遠鏡の比喩が示すように、世界から一歩引いた立ち位置は内山の基本姿勢のように思える。
人界に人らそよげるやさしさをうすき泪の膜ごしに見き
夕闇のおさなき闇よ、かすみ草さわだつごとく人は群るるを
くびすじに触るる夜風を人としてすずしき肉をふかく憐れむ
いつか泣く日々ちらばりて見ゆるなり木の間隠れの街の明かりが
みずからを遠ざかりたし 夜のふちを常磐線の窓の清冽
 同じ連作から並んでいる五首を引いた。静かで内省的な抒情の漂う美しい歌群である。目の前の風景を「人界」と呼び、木の間隠れに遠くから街を眺めるのは、〈私〉がこの世界に含まれていないと感じているからである。それは単純な現代社会の疎外感とか離人感から来るものではなく、内山がキリスト者だからではないだろうか。
濁ることのふかさといえど雑居ビル四階のミサにこころ涵すも
にんげんの顔のゆがみを忠実にヨセフ描かるヨセフ物語に
コラールを聴く夜おのずとひらきゆく指よりコラールはあふれたり
福音のひびき及ばぬわが部屋を光にしみて朝のパンあり
 内山の聴くコラールはマリー=クレール・アランの演奏するバッハの「我深き淵より」だろう。部屋にころがるパンがキリストの肉の象徴であることは言うまでもない。宗教者とは、自分をこの世のみに属するものではなく、いつか行くあの世にも属する者と捉える人であり、ひいてはこの世よりもあの世に属していると捉える人である。こうしてあの世からこの世を眺める眼差しを内在化してゆく。内山の歌に見られる世界への距離感はここに起因するように感じられる。次の歌などはこのことをよく表している。
晩年のまなざしをもて風うすきプラットホームに鳩ながめおり
 内山の歌全体に漂う寂寥感と静かな内省、そして深い場所から湧き上がる祈りのような言葉は、内山が若くして「末期の眼」を持ったことによると思われる。私を「いつか死ぬ存在」と捉え、終点からこの生を逆向きに眺める。これが内山の逆さ望遠鏡の秘密である。
 しかし考えてみれば、私を過ぎゆくはかない存在と見る態度は、古典和歌の「あはれ」の基盤をなす世界観である。この意味で内山の歌は現代短歌でありながら、遠く古典和歌の精神に連なるものと見ることもできよう。
 次のような歌に特に心を惹かれた。
ドーナツの穴の向こうに見えているモルタルの壁はなみだあふれつ
帰宅とは昏き背中を晒すこと群なしてゆく他者の背中は
オランダにかなしみのある不可思議を雨の彼方の観覧車まわる
彼岸花あかく此岸に咲きゆくを風とは日々のほそき橋梁
ただよえる花ひとつずつ享け止めつしめやかにして水を病む河
人生はひとつらの虚辞ふる雪の降り沈みゆくまでを見守れば
高みへと吹き上げらるるはなびらへ手を振りながらなお生は冷ゆ
薄紙がみずに吸いつくときのまを何処の死者か肉を離るる
 いずれも内山の美質がよく現れた歌である。『窓、その他』は2012年度の収穫として記憶されるだろう。