第134回 大和志保『アンスクリプシオン』

驟雨ななめにまちを疾りて匂ひたつ魂ぞしとど〈歓喜ジョイ〉てふ
               大和志保『アンスクリプシオン』
 自宅に届いた歌誌『月光』No. 32を開いたら、月光の会に黒田和美賞が創設され、その第一回受賞者に富尾捷二『満州残影』と大和志保『アンスクリプシオン』が選ばれ選評が掲載されていた。『満州残影』は未読だが、『アンスクリプシオン』は手許にあり、今回改めて通読してみた。
 大和志保は1964年生まれ。『アンスクリプシオン』は2012年刊行の著者第一歌集で、月光文庫の第1巻として刊行されている。歌集題名の「アンスクリプシオン」はフランス語のinscriptionで、記銘、碑銘、登記、登録などの意味がある。石などに刻みつけるというイメージがあり、著者の強い意志を感じさせる題名である。歌の配列は逆編年体で、造本は簡便な紙装になっている。解説は福島泰樹。
 さて作者の歌風であるが、それは収録された歌を少し眺めれば感じられよう。
被傷性ヴァルネラブルとたわやすく置換せるかな 揺れながら歩む孔雀と皇女と
魔術師の掌に花湧きいだし地を指すヨハネ口角をあぐ
氷上に錐揉みする青年のたましいよ垂直に錘せよ
灰色の緞帳払われて朝 新河岸大橋の塗りたてのさみどり
たましいを曳く羊飼い在らざる迷宮に飼い殺したし ミノ わたしの男
 敢えて系譜を求めるならば、イメージの鮮烈な語句の選択と硬質の思想性において前衛短歌の水脈に連なると言えるが、ヒリヒリするような皮膚感覚とエロスがそこに加わっている。しかしその歌の造りにおいて難解の誹りを免れることはできず、しばしば読者を置き去りにする。上に引いた三首目はおそらくフィギアスケートの演技で、四首目の新河岸大橋は東京と埼玉の境を流れる川にかかる橋だがらわかりやすいが、一首目の皇女、二首目の魔術師、五首目のミノタウロスは純粋に作者の想像力が紡ぎ出したものである。
 ではそれはゼロからの想像力かというと、どうやらそうではなく、元になるものがあり、それを端緒として想像力によってどんどんずらしていったもののようだ。その手法を象徴するような歌がある。
われ・なれ・ずれと視界翳みて窃視するヴィとぞ言葉すでにえゆく
われ (我)、なれ(汝)という一人称・二人称に続くのが「ずれ」なのである。実際、本歌集には文学や音楽や他の芸術作品に対する言及がたくさんある。
蛇腹のあたしが巻きとられる頃ブエノスアイレスは午前零時をまわる
酔いどれの朝の祈り 忘却の船底に燃えあがるランボオ詩集
百日紅剥落しつつ湧きいだしおり大野一雄の口腔の闇
愛と汚辱の境朧の月光に鏡文字なる「重力と恩寵」
水面の油膜虹いろにさざめきアダージォ聴こゆ 遠きヴェニスの朝に死すとき
 一首目の蛇腹はアルゼンチン・タンゴのバンドネオンだろう。背景にアストル・ピアソラの音楽が流れる。『ブエノスアイレス午前零時』は藤沢周の小説の題名である。二首目は明らかにランボーの「酔いどれ船」を分解したもの。三首目の大野一雄は現代舞踏家。私はこの歌を読んで前衛華道家の中川幸夫を連想したが、確か大野と中川かコラボした作品があったはずだ。この歌はそれから生まれたものかもしれない。四首目はもちろんシモーヌ・ヴェイユ。五首目はトーマス・マンの名作『ヴェニスに死す』で、名匠ルキノ・ヴィスコンティの手で華麗に映画化された。大和はことのほかポピュラー音楽が好きらしく、ロックやポップスの言葉もまたずらされて歌に紛れ込んでいると思われるが、ポップスには疎い私にはそれはわからない。
 このように大和は文学・芸術・音楽などを資源とし、そこに想像力によるずらしを施して短歌を発想していると思われる。ということは、大和にとって「世界は言葉でできている」のである。
 では言葉を介さない身体と世界との接触は不在なのかというと、そうでもないところが不思議と言えば不思議である。本歌集で何度も反復される特徴的な単語は「皮膚」と「剥落」だろう。
空より剥落しくねもの白く被衣かつぎして帝都はあわれ眠り給えり
百日紅剥落しつつ湧きいだしおり大野一雄の口腔の闇
地の上を爆ぜて転がる鼠花火よ さみしき皮膚の受けし愛撫は
皮膚の下のことなど知らざる蒙昧の肉の裡なる二十一グラム
ゆらり揺れほろり剥がれ落ちるものわれとわが身の軟弱な恋など
皮膚いちまゐに自我は籠れり昏睡のこよひひらかれて鮮し
 一首目の剥落は雪の喩だが、二首目ではサルスベリの樹皮が剥げ落ちているし、五首目は自分の身体から何かが剥落する感覚を描いている。シオランの『崩壊概論』ではないが、「毎日毎日が私たちに消滅すべき理由を新しく提供してくれるとは素敵なことではないか」というシオランの言葉を大和に贈りたい気がする。
 身体を皮膚において感得するとは、皮膚を自分と外界との境界と認識することに他ならない。また「隙間だらけのはらわた縫い閉じてひとの象(かたち)に成りたるが歩けり」という歌があるように、人体を皮膚という袋に内臓と血を詰め込んだものというように見ているようだ。かのボオドレエルにも似たような感覚があり、腐肉のようなおぞましいものを彼は好んで詩の題材としたが、それは新しい美を創造するという目的があったためである。この点において大和はいささか異なるようで、そのことは巻末近くに配された初期歌篇にすでに次のような歌があることから知れる。
エロス・タナトスあやめわかたぬわが夜々にあやしくOのくちひらく刻
きみとわれのさかひにくらき淵あるとうめゐの糸曳き剰れる舌
   一首目は祖母の死に際しての歌で「Oのくち」とは嵌められていた呼吸器のことである。肉親の死に際しての歌としては異色である。「暗き淵」というと聖書の詩編とバッハのコラールを思い出すが、ここでも我と君の境は皮膚として感じられている。そこに何かヒヤリとするような即物的認識がある。
 私が注目したのは東日本大震災の後に作られた次の歌である。
行き交うものみな柔らかきものに見ゆ 地の揺れしのちひとと逢うとき
 こう歌うとき大和にとって世界は言葉でできているものではあるまい。実感として感じたことを比較的素直な言葉で詠んでいる。このような歌がもっとあれば、言葉でできた歌もさらに生きるのではないかなどと感じてしまうのである。