夜明けに喉が渇いて目覚め、台所に行きコップに水を汲んで飲むという日常よくある光景である。一読して「カッコいい歌だなあ」と思ったが、よく考えると意味が取りにくい。上句と下句の間に詩的跳躍があるからだ。「地図に散る島のかたちのそれぞれに」までは、瀬戸内海のような多島海を思い浮かべる。地図上でここに小豆島、ここに直島、あそこに手島と島が点在している。ところが下句では一転して台所のステンレスシンクの前で水を飲んでいる場面に切り替わる。このような場面転換を伴う詩的跳躍で最もよくあるのは、どちらかがどちらかの暗喩になっているというケースだろう。
私は次のように解釈した。ステンレスシンクに蛇口から水を流して止めると、流れきらずにシンクの底面に水が残る。残った水は表面張力のためにわずかに盛り上がり、まるで地図上の島のような体裁を見せる。それを多島海に喩えたのだろう。
では「水の直立」とは何か。ふたつの解釈がある。ひとつはコップに汲んだ水のことで、コップは縦長だから中の水は直立していると言える。もうひとつは蛇口から垂直に流れ落ちる水である。しかし「水の直立」には「夜明け飲み干す」という連体修飾句がかかっているので、結果的にコップの水に軍配が上がる。溜まり水の水平とコップの水の垂直とが幾何学的に対比され、定型に落とし込まれた技巧的な歌である。
歌集巻末のプロフィールによると、著者の大室は1961年生まれで、短歌人会の会員。結社内で数々の賞を受賞しており、2017年には本歌集のタイトルともなった「夏野」30首で短歌人賞の栄誉に輝いている。短歌人会入会前に『海南別墅』という第一歌集があるので、『夏野』は第二歌集ということになる。まったく知らない歌人であるが、手に取り表紙を開くよう私を誘ったのは造本の美しさである。永田淳さんの青磁社の刊行になる本書は上製本で、水色の花布と同色の栞紐が付けられている。近頃栞紐は珍しい。カバーは半透明で、少し緑がかった水色で大きく「夏野」と印刷されており、爽やかな風が吹き抜けるような美しい造本である。
収録されている歌は旧仮名による文語定型で、編年体で編まれている。いくつか引いてみよう。
蓮の骨浅く沈めて澄みわたる冬しづかなる水生植物園
消えやらぬ昨夜の声々沼水にいよよ吸わるるみぞれ雪の影
草の刺触れて鋭しつぶらなる子牛のまなこにまつはる狭蝿
川の辺のおほきあふちの木の花の濃き香至りて宵を苦しむ
午後二時われに眠りの差すときにうつつにひらく睡蓮のはな
一首目の上句「蓮の骨浅く沈めて澄みわたる」を見ただけで、著者は古典和歌に親炙していることがわかる。文語の手練であることは、詩語の選択だけでなく、その連接、斡旋においていっそう明らかだ。一首目、「蓮の骨」は枯蓮の残った茎で、人気のない冬の水生植物園の清明な空気感がよく感じられる。二首目、「消えやらぬ昨夜の声々」は前夜の何かの議論の声だろうか。沼の水に吸われてゆくのが雪ではなく雪の影だとしたところに工夫があり詩が感じられる。三首目は「触れて鋭し」に目が行く。草の刺が鋭いのは触れる前からそうなのだが、触れて初めて鋭いことが感じられるという表現である。狭蝿は陰暦の五月頃に群れなす蝿のことで、夏の季語。四首目に詠まれている「おうち」は栴檀のことで、五月頃に花をつける。「栴檀は双葉より芳し」と言われた木である。五首目は初句「午後二時」が珍しく四音で軽い切れがある。眠りの夢と現実の睡蓮が対比されているのだが、逆にまるで夢の中で睡蓮の花が開いているようにも感じられるところがおもしろい。
本歌集に帯文を書いた小池光は、大室の短歌は韻律がさわやかでイメージが美しく、確立された様式美があるとして、「これはまぎれもなく『新古典主義』の一巻である」と断じた。つまり古典和歌の世界を現代に現出させたものということで、確かに小池の言うとおりだろう。
ではその新古典主義により描き出されている短歌世界はどのようなものかというと、「身体を通じた世界との交感」と言えるだろう。そこから大室の歌に刻印されている季節の移ろい、動植物など小さきものへの愛情、枯れたものや骨への偏愛、そして人間界と自然界の境界のゆらぎなどが生まれる。
木のうろに入りしばかりにおもむろにあはれあはれわれは蔓草になるぞ
片靡く枯れ葦原に立ち交じりかくも吹かれて人外にをり
峡覆ふ青葉の界に参入す いささかわれを失はむとして
薄暮光けふは世界に触れ過ぎた指が減るまで石鹸で洗ふ
沼に湧く菱を覗いてゐるときもわれを出で入る呼気と吸気は
一首目にあるように、作者は木の虚や藪の中などを好み、しばしば足を踏み入れる。そうすると人間界と自然界の境界はゆらぎ始め、人と草木が一体化する。そのときは「いささかわれを失う」のだが、それは不快なことではなく逆に作者の望むことなのである。しかし世界との交感が限度を超えると、たましいのメーターがレッドゾーンに入ってしまうこともある。この世界との交感が決して観念的なものではなく、五首目からわかるように身体を通して触れあうことによってなされていることにも注目しよう。勅撰和歌集の部立てが示しているように、季節の移ろいと自然との交感は古典和歌の根幹をなすテーマである。この意味においても大室の短歌は新古典主義と呼ぶにふさわしい。
しかし読んでいて気づくのは、集中に桜の花を詠んだ歌が一首もなく、月もわずかしか登場しないということだ。登場するのは枯れ蓮や荒草や野茨や反魂草のように、ふだんはうち捨てられているような目立たない草木ばかりである。このあたりに作者の好みがよく現れている。
身は朽ちて流れ着きたり砂の上に清く連なる頸の骨かも
けだものの骨かと見えて川砂のうへに砕けている蛍光灯
さらされて小さきけものの頸の骨三つばかりのしろき歯残る
狸の骨があると分かつてゐる道をけふも通れば目はそれを見る
欄干が低過ぎる橋きのふから砂にまみれて死んでゐる蛇
作者は動植物や自然物のなかでも、小さきもの、毀れたもの、死んで骨となったものへの愛着が深い。このような歌がよく表しているように、いくら新古典主義といっても、雪月花と花鳥風月ばかりではなく、もう少し剥き出しの自然を詠んだ歌も多くあるのである。
叢にむくろさらしてゐるわれを荒くついばむ鳥にあてがふ
蔓草に口のうつろを探らせて喉の奥まで藪を引き込む
延びてゆく髪と蔓草しろき根に吸はれてわれは蔓草になる
自分の遺体を鳥葬に付しているところを想像した一連である。日本の文化・文芸の特徴のひとつが自然との一体化であることに異論はあるまい。日本の伝統的家屋の室内と庭の連続性を見てもそれはわかる。しかしそれはあくまで風雅の世界での観念的一体化である。ところが上に引いた歌が示しているのは、もう少し荒々しいレベルでの一体化で、自我と自然の境界を強引に踏み越えようとしているように見える。この一連を読んで私は日本画家の松井雪子の絵を思い浮かべた。
たましひを揺らしに行かうむつちりと青き胡桃の生る下蔭に
作者の世界をよく表している歌だ。お好みの木の下蔭が登場する。そこに人に見られないよう潜り込むのは「たましいを揺らす」ためである。
すべてが自我の詩、〈私〉の表現となっている短歌はつまらない。私は見ず知らずのあなたの自我などには何の興味もないからである。歌が個から出発しながら個を超えて、普遍的レベルに昇華したとき、初めて歌は人の心に届くものになる。大室の歌で言うならば、身体を通した〈私〉と世界との往還、〈私〉と自然の「あいだ」のゆらぎ、人間界と自然界の境界の揺れに見るべきものがある。おっと、そう言えば作者の名前は「ゆらぎ」だった。これは果たして偶然の一致か。
最後にいつものように心に残った歌を引いておこう。
沈黙をわれと分かちて朝を歩む雉のかうべに降れる水雪
人ひとり失せしこの世の蒼穹を夏へとよぎる一羽のつばめ
おびただしき羽黒とんぼは立ち迷ふ林の果てにひらく水明かり
真葛這ふカーブミラーの辺縁に歪んで映るわれと犬たち
烏さへ黙つてゐるあさ北半球なかば熟れたる桃は落ちたり
川土手にジグソーパズルは燃やされてジグソーパズルのかたちの灰は残りぬ
野づかさの墓地のはづれに束のまま捨てられてをり枯れた仏花は
蚊柱に入りて出づれば以前とはいくらか違ふわれとはなりぬ