第183回 天野慶『つぎの物語がはじまるまで』

いつかまた還す日が来るからだへと黒糖入りのソイ・ミルクティー
            天野慶『つぎの物語がはじまるまで』
 この歌の魅力は上句に集中している。自分の身体をどのように感じるかという身体感覚は、単なる感覚に留まらず、時に世界観へと通底する。天野あるいはこの歌の〈私〉は、自分の身体は借り物であって、お返しする時が来ると考えている。このような感じ方は日本には古くからあるもので、まさに「この世は仮の宿」なのである。いつか返すのだから粗末に扱ってはならない。だから健康に気を使って、豆乳と波照間産の黒糖を入れた紅茶を飲んでいるのである。こう考えると歌集題名も納得がいく。〈私〉は今の物語を生きているが、それは次の物語が始まるまでなのだ。輪廻転生とか無常観などという大げさな名で呼ぶほどのものではない、うっすらとしたある感覚が全体に満ちている歌集である。その感覚を手触りとして感じるとき、深いやさしさに包まれる。
 『つぎの物語がはじまるまで』(六花書林 2016年)は、『テノヒラタンカ』(共著)、『短歌のキブン』などの歌集がある天野の最新歌集である。一ヶ月ほど前に出たばかりなので、たぶんこのコラムが最初の書評だろう。
 天野慶の名前を最初に見たのは、枡野浩一の『かんたん短歌の作り方』(筑摩書房 2000年)だったか、それとも「短歌研究」誌の創刊800号記念臨時増刊号「うたう」(2000年)だったか。どちらも同じ年に出ているのでややこしい。何度も書いているが、「短歌研究」誌の「うたう」は現代短歌史においてひとつの時代を区切った企画で、雪舟えま、天道なお、佐藤真由美、赤本舞(今橋愛)、秋月祐一、岡崎裕美子、加藤千恵、柳澤美晴、玲はるななど、2000年代になって活躍するポスト・ニューウェーヴ世代の歌人がずらりと顔を揃えていて壮観だ。当時20歳ですでに短歌人会に所属していた天野も投稿している。『かんたん短歌の作り方』では特待生扱いで、巻末に作品集が掲載されている。枡野の解説によると、天野はマスノ教布教のために短歌人会に送り込まれたスパイということになっている。つまり天野は枡野流のニュータイプ短歌も作るが、その一方で短歌人会という伝統的短歌結社にも所属しているのである。天野に短歌人会への入会を勧めたのは高瀬一誌だという。
 穂村弘がどこかで発言していたが、現代の短歌シーンにおいては、「ワンダー系」と「共感系」の2系統の歌風がせめぎあっているが、若い人には圧倒的に「共感系」が支持されているということだ。「ワンダー系」とは、それまで見えていなかった世界を読者に見せる効果を持つ歌で、たとえば次のような歌を指す。新たな世界の見え方で読む人を戦慄させるのが「ワンダー系」の真骨頂である。
体育館まひる吊輪の二つの眼盲ひて絢爛たる不在あり  塚本邦雄
神も死たまふ夜あらむ夏が死ぬ夕暮れ吾れは鳩放ちやる  紀野恵
水浴ののちなる鳥がととのふる羽根のあはひにふと銀貨見ゆ  水原紫苑
 これにたいして「共感系」とは、見慣れた世界を提示して、読む人が「うん、そうそう、そういうことあるよね」と共感できる歌を指す。たとえば次のような歌である。
投げつけたペットボトルが足下に転がっていてとてもかなしい  加藤千恵
「窒息死だけはイヤよね」ささやきの社員食堂「だけは」が多い  谷口基
台風は私にここにいてもいいって言ってくれてるみたいでたすかる  脇川飛鳥
 文語と口語の差が目立つかもしれないが、歌としての本質的差異はそこではなく、それぞれの文体でどのような世界を押し上げるかのちがいである。もう一つの大きなちがいは、「ワンダー系」にとってブンガクは基本的に孤独な作業なのだが、「共感系」にとっては逆に他の人たち、とりわけ仲間たちとつながるための営為だという点だろう。天野も「共感系」の歌人に分類することができる。本歌集においても、友人の劇作家岩本憲嗣と短歌と戯曲のコラボを、漫画家スズキロクと短歌とマンガのコラボを試みている。「共感系」のキーワードの一つは「つながる」である。
 こういう視点で『つぎの物語がはじまるまで』を読むと、この歌集に収録された歌のスタンスがよくわかり、どのような態度で読むべきかもおのずから見える。
豆を煮る とおいむかしの生き物を甦らせる作業のように
細胞にいのちの満ちる味がした登ったままで食べる枇杷の実
今はもう消滅している星たちに照らされている / 守られている
アルコール・ランプに点火するときの緊張感で(わたしにふれて)
もう電気羊の夢も醒めるころ未来の消費期限も過ぎて
 一首目の厨歌のポイントの一つは調理する〈私〉と食材との対話で、もう一つは〈私〉と料理を作ってあげる家族との「つながり」だろう。二首目では、食べ物とそれを摂取する〈私〉の関係がポイントとなる。天野の歌が平板な日常の記述に終わらずボエジーになっているのは、いずれの歌にも「遠さ」「距離感」が持ち込まれていて、しかもそれがもう手の届かない所にあるという点が重要である。一首目では乾燥豆を戻して煮る過程を昔の生物を蘇生させる作業に喩えており、二首目では狩猟採集の暮らしをしていた人類の遠い過去、あるいは平気で木登りをしていた子供時代が、今より生命感に溢れていた過去として持ち込まれている。この「遠さ」が想像力に訴えかけ共感を刺激する。このことは三首目ではいっそう明らかで、何万光年のかなたから地球に届く光を浴びる〈私〉はまさに「遠さ」の結節点にいる。四首目は相聞でつながる相手はもちろん恋人であり、テーマは恋のとば口のドキドキである。五首目では対話の相手は自分が過去に読んだ「物語」である。フィリップ・K・ディックの名作『電気羊はアンドロイドの夢を見るか』へのオマージュだ。
 こうして天野の歌を改めて読んで気づくのは、歌の作り方が題詠的だということである。これは若い歌人に共通して見られる特徴かもしれない。ネット上では題詠マラソンのような企画が続いて行われていて、その影響も大きいのかと思う。
愛されるほど甘くなる桃の実にからだの糖度を思いはじめる
薬草のたくさんはいったお茶を飲む まだ透きとおるからだへ入れる
手のひらがまず母になる陽のあたる頬に触れたら朝になる
おはじきに触れた指先からめくれわたしはつるりと少女に戻る
蔦が伸び絡みつくよう目覚めると巻きついている子どもの手あし
 男は観念的な歌を作りがちだが、女性は身体感覚が敏感でそれが歌にも現れる。一首目は自分の身体を桃に喩えたもので、「からだの糖度」という発想がおもしろい。二首目は出産後の歌で、「まだ透きとおるからだ」に出産の喜びが滲み出ている。四首目は特におもしろく、指先からめくれて少女に戻るというのは、いささかホラー的ではあるがユニークな視点だ。
 最後に好きな歌を三首挙げておく。
この夏にしおりを挟む半世紀経った後にも開けるように
少年を強制終了するようにある日空き地にフェンスが立った
はじまりとおわりを告げる声がして振り向けばもう一面の凪