第357回 安田茜『結晶質』

かなしいね人体模型とおそろいの場所に臓器をかかえて秋は

安田茜『結晶質』

 人体模型は小学校の理科室に置かれていることが多い。理科室にはたいてい分厚いカーテンがあり、戸棚の中にはホルマリン漬の動物があったりして、ちょっと恐い雰囲気が漂っている。私の世代では人体模型と聞くとどうしても中島らもの『人体模型の夜』を想起してしまう。

 初句「かなしいね」は口語の会話体なので、誰かに話しかけているか、さもなくば独り言である。誰かがいきなり「悲しいね」と言ったら、そばにいる人は「どうして悲しいの?」と訊ねるだろう。悲しみの契機が述べられていないからである。俳句や短歌は詩の一種なので、「○○が××して△△になった」と順序立てて説明してはいけない。それでは散文になってしまう。飛躍は散文ではタブーだが、詩では金貨である。「かなしいね」と初句を読んだ読み手の頭の中には大きな「?」が灯るはずだ。ここでは倒置法が使われていて、二句以下がその疑問に答えてゆくのだが、その答もストレートではない。人間が人体模型と同じ場所に臓器を抱えているというのは逆で、人間と同じ場所に臓器があるように人体模型を作っているのである。だからここには発想の転倒があり、これもまた詩の大事な材料だ。結句を「秋は」と言いさしで終えているのも巧みである。余韻が残るからで、余韻もまた詩の素材だ。散文では言い残してはだめで、主題についてすべて言い切ることが求められるが、詩ではすべてを語ってはいけない。残余を読者にゆだね、読者の心の中でさらに膨らんでゆくのが良い詩である。

 しかし一首を読み了えても読み手の心には疑問が残る。なぜ人体模型と同じ場所に臓器があることが悲しいのだろう。同じ場所に臓器があるのは当然ではないか、と。このように世の常識を揺さぶるのもまた詩の役割である。人体模型と同じ場所に臓器があることがなぜ悲しいのか。読者はあれこれ想像を巡らせるだろう。体内の臓器の位置に至るまで自分の謎は明らかにされているのが悲しいのか、それとも模型と同じ場所に臓器を持つ凡庸さが悲しいのか、いやむしろ逆に人体の臓器の位置を示すために晒されている模型が悲しいのか、答はいくつも考えられる。その想像のひろがりが詩のもたらす効果だとも言えるかもしれない。

 安田茜は1994年生まれの若い歌人である。京都の立命館大学に入学し、何のクラブに入ろうかと考えていた時、キャンパスに置かれていた看板の短歌に衝撃を受け立命短歌会に入会したという。大学短歌会は4月の新入生入学の時期によく短歌を書いたビラなどを配って入部勧誘するが、けっこう効果はあると見える。本歌集には収録されていないが、『立命短歌』第2号 (2014年) に安田の「海と食卓」が掲載されている。

静けさにしまう写真や紙切れの本当に燃やすことなどなくて

ひかりとは手に取れぬものと言いながらあなたの部屋の本をかさねる

 安田はその後、京大短歌会に入会している。『京大短歌』22号(2015年)に初めて安田の名が見え、「twig」と題された連作を寄せている。この連作はいくつかの歌を削除して本歌集にも収録されている。

ひるのゆめ 林檎がむかれてゆくときのらせんは逆光にのびてゆく

地続きで季節はすぎる各々の木に伸びてゆくいちまいの影

 安田は塔短歌会にも所属し、2016年に塔新人賞を受賞。2022年には第4回笹井宏之賞の神野紗希賞を受賞している。現在は同人誌『西瓜』を拠点としているようだ。『結晶質』は今年(2023年)に上梓された第一歌集。白を基調とした装幀が瀟洒だ。神野紗希と江戸雪と堂園昌彦が栞文を寄せている。将来を嘱望される若手歌人という布陣である。

 若い歌人の第一歌集を取り上げて論じることには特有の難しさがある。若年故に自分の作風と文体がまだ固まっておらず、発展途上にあることが多いからである。第二歌集で化けることだってある。そのため小池光のように「第二歌集がいちばん大事」と主張する人もいるくらいだ。確かにそれは一理ある。

 本歌集を一読して私がいちばん感じたのは、作者は「言葉」と「感情」という短歌を構成する二つの極の間を揺らいでおり、「言葉」に寄せるかそれとも「感情」に寄せるか、様々な配合を試行しているのではないかということである。その「揺らぎ」がこの歌集に清新な魅力を与えているようにも感じられる。

 本歌集第II部には学生時代に作った歌が収録されている。

冬らしい冬の真昼に泣くときのなみだがぬくい とてもうれしい

感情はきづかず襞になってゆく空を切り込みとんでゆく鳶

かなしみにきっかけあれどわけはない サドルの凍る自転車を押す

 一首目にはあまり短歌的修辞は施されておらず、感情の直接的表現が未だ幼さを感じさせる。この歌は「感情」寄りで「言葉」に体重がかかっていない。二首目、「感情はきづかず襞になってゆく」に小さな発見がある。感情は時間とともに折り畳まれるのだ。下句は一転して空を飛ぶ鳶の叙景になっていて、取り合わせという修辞が用いられている。このため一首目と較べるとやや「言葉」寄りになっている。三首目も同様で、「兆す悲しみにきっかけはあっても理由はない」という思いを述べる上句と、一字空けした下句の叙景が取り合わせとなっている。しかし景は感情の映像的代替物と見なすこともまだ可能だ。

 一方、次のような歌では直接的な「感情」の表現は抑制されて、「言葉」を組み合わせてひとつの世界を描こうとする姿勢が鮮明である。

サッカーの少年たちは円になるスポンジケーキ色のゆうぐれ

ことばまでまだまだ遠いゆうぐれの小庭に忘れられたなわとび

ひとつの冬や夏をすごしたリビングに水のかたちはグラスのかたち

 一首目、市民グラウンドでサッカークラブの少年たちがその日の練習を終えて円陣を組んでいる。傾く夕日はスポンジケーキ色というから、やや黄味を帯びた色だろう。ここには特に〈私〉の「感情」は表現されておらず、「言葉」の作り出す詩情が溢れている。二首目は短歌を素材としたメタ短歌の観を呈しており、上句で「感情」が、下句で「言葉」による叙景が置かれている。「忘れられたなわとび」が喩かどうかは微妙なところだ。三首目、下句の「水のかたちはグラスのかたち」に小さな発見がある。「水は方円の器に従う」のだから、そのときに入れられた器の形が水の形である。この歌も「言葉」の持つ力によってひとつの世界を現出させようとするタイプの歌である。なお一首目には「スポンジケーキ╱色のゆうぐれ」という句跨がりがあり、三首目は初句七音で、どちらにも短歌的修辞が施されていることにも留意しよう。

 安田はこのように、歌一首の中での「感情」(想い)と「言葉」のいろいろな含有割合の間で揺らぎながら歌を作っているように感じられる。だとするとこの方法論はとても古典的な近現代短歌の手法だということがわかる。安田の作風は、現在の若手歌人の中でひとつの流れとなりつつある「口語によるリアリズムの更新」(by 山田航)とはかなり異なる場所にあるのである。

今日は寒かったまったく秋でした メールしようとおもってやめる する

                              永井祐

 永井の歌では短歌の中の〈私〉の「今」がだらだらと続いているようだ。このような時間把握に基づくと、短詩型文学に求められる結像力、つまりある情景を鮮明に描くことはほぼ不可能になってしまう。結像力は視点の固定と、それを可能にする時間の固定を前提としているからである。永井らはもちろんそれは承知の上だろうが。

たましひの夏いくたびか影れてプールの底までの鐡梯子 

                  塚本邦雄『緑色研究』

 最後に特に心に残った歌を挙げておこう。

どうしようもないことだらけ硝子壜煮沸消毒する夜もすがら

蒼穹のこころすべてを否定するちからで逃げる葦毛の馬は

きずついたゆめの墓場へゆくために銀紙で折るぎんのひこうき

橋をゆくときには橋を意識せずあとからそれをおもいだすのみ

祈りとはおおげさだけどはなびらをにぎる右手をひらいてみせて

濡れたってなんにも困らない日々にあえて差す傘 紺色の傘

象の絵がうすいグレーで描いてある灰皿 ここにもいない神様

完璧のかたちさびしく照り映えてアル=ケ=スナンの製塩工場

もう二度と閉じられない瞼のように降ってつもってゆくぼたん雪

 八首目のアル=ケ=スナン (Arc-et-Senans) の製塩工場は、フランスのブザンソン郊外に現存する18世紀の製塩工場で、世界遺産に指定されている。王室建築家のニコラ・ルドゥーの設計による美しい建物である。ルドゥーは円形の理想都市をめざしたが、主に資金不足から半円形に留まったという。完璧な形に淋しさを感じるのもまた詩心というものだろう。